それはまさに、吸い込まれそうな青だった。剣の芯は悠久なる群青に染まり、刃は光の加減によって銀、または芯の彩りを吸い上げたような淡い白藍に輝いている。ゆるやかな波のごとき曲線からなる刃の、中心に穿たれるは紅の玉。直線的で細身な柄の、ややくすんだ黄金。それらを含めた鮮やかな色彩のバランスにしても、優雅なラインにしても、どこをとっても非の打ちどころがない。この剣は生まれたばかりであるというのに、既に全ての剣の王者たる資質と風格を兼ね備えていた。そしてその矜持と威厳をもって、見る者を圧倒した。

 無論サタルも例外ではなく、この剣には目を奪われた。彼はこの日、初めて武器というものの美しさを認めた。それまでは、ただの自己防衛と他者を害する手段としか見ていなかったのだ。

 カウンターに横たわる王者を、呼吸を忘れて見つめる勇者と賢者を横目に、戦士がカウンター内に佇む主人に尋ねる。

「いくらで譲ってくれる」

「三万ゴールドです」

 これには、武器に疎いサタルも思わず顔を上げた。フーガも驚いたようで、主人に再度問いかける。

「三万? たったの?」

「はい」

 主人は晴れやかな笑顔で首を縦に振った。頭部の左右に瓜を二つくくりつけたような、この辺りで見かけない風変わりな髪形をしている。それもそのはず、この主人はジパングの出身なのだ。

「私の仕事は造ること。造ることにこそ幸福を感じるのであって、所有することに執着はありません。私はここまで造らせて頂いて、もう満足いたしました」

 そう言いながら、主人は糸目を王者の剣へと滑らせる。

「欲を言うならば、これをどなたでもお使いいただけるようなモノに仕上げたかったのですが、私はまだまだ未熟なようです。この気高き貴金属は、私がどうあがいても俗人が持つことを許しませんでした」

 主人は、細い容姿に反して節くれだった逞しい手を差し伸べた。彼の眼差しが自分に注がれていることに気づいたサタルは、おずおずと剣の柄に右手を伸ばす。左手をそこへ添えようとして、サタルの眼が大きくなる。左手を添えるまでもなく、剣はふわりと持ち上がった。

「すごい。羽根みたいだ」

 軽く素振りをしてみたサタルが、感嘆の声を漏らす。主人は頭を下げた。

「使って頂いてこその剣です。どうぞお持ちください」

 剣の使い手であるサタルだけでなく、フーガもアリアも口々に礼を言いながら道具屋を後にした。サタルは、早速背負わせてもらった剣のベルトから手が離せなかった。そうしないと、剣がどこかへと飛んで行ってしまいそうな気がしたのだ。

「これで、大体のものがそろったな」

「あとは虹の雫だけですね」

 フーガとアリアが頷き合う。必要な道具だけでなく、彼ら二人もそれぞれ装備を調えていた。フーガは長く愛用しているバトルアックスに加え、ルビスの塔で拾った雷神の剣を使うようになった。アリアはこのマイラの村で購入した賢者の杖を、これから使っていくつもりのようだ。

 戦いが近づいている。和やかな雰囲気で話をしながらも、サタルは考える。ゾーマはこちらの存在に気づいているのだろうか。今のところ、あちらの目立った動きは見られない。こちらをまったく脅威と見なしていないのか、それとも自分の城までおびき寄せてから叩くつもりなのか、はたまた既に何か手を打っているのか。

 見当もつかないが、この地に早くも馴染んだテングは特に罠は感じ取れないと言っていた。地に許された彼の言うことならば、信頼できるだろう。

 あとは、備えなければ。幸い、この世界は魔物が強いせいか良い武器や防具がそろっている。リムルダールに行ってもっと良さそうなものがあれば、仲間達と相談して購入した方がいいだろう。懐は温かい方だが、資金はあるに越したことはない。貯めよう。

 装備面で一番心配なのは、カノンだ。彼女は盾を装備することを好まず、出会った頃からずっと纏っている武闘着だけで決戦に臨むつもりらしい。いくら彼女の身のこなしが軽く、戦闘における攻撃の回避率が高いからとは言え、万が一のこともある。もっと守備力が高く、軽くて身動きのとりやすい防具を探してやりたいところだ。

 サタルがそれを提案してみると、アリアが賛同の声を上げた。彼女は顎に指を当てて、首を繰り返し縦に振る。

「そうよね。私もそう思って、武闘着の下に魔法のビキニを着てみないか聞いたんだけど」

「ダメだって?」

「ええ、いらないって」

「それは残念だなあ」

 そうサタルが言うと、仲間たちは胡乱なものを見るような眼差しを向けてきた。勇者は満面の笑みを返す。

「やだなー、別に疚しい気持ちから言ったわけじゃねえって」

「悪いな。お前が言うと、どうしてもそう聞こえるんだよ」

 フーガの謝る気の全くない平淡な声色を聞いて、サタルは「ビキニ一枚だったら戦いに集中出来ない」と言わなくて良かったと、内心胸を撫で下ろした。

「だが、アイツの装備のメインは武闘着の方じゃないと思うぞ」

「え、他に何かあったっけ?」

「いつも羽織ってる黒いマントがあるだろう」

 フーガの言葉を受けて、サタルはカノンの服装を思い出す。彼女は平素、武闘着の上にやや青みを帯びた黒き衣を纏っている。

「あれは多分、ただのマントじゃない」

「そうなんですか?」

「アイツが攻撃を避ける時、あのマントがアイツの姿を覆い隠すみたいに広がるよう見えたことがないか?」

「ああ、言われてみれば」

 考え込むアリアの横で、サタルは首肯する。カノンがひらりと身を翻した拍子に、あの漆黒の衣がまるで黒い霧となって空に溶けるように見えたことが、しばしばあった。

「きっと、あれは偶然じゃない。あのマントの働きなんだ。装備主の姿をくらますことができるんだろうな」

「へー。てっきり、カノンが速すぎてマントが霞んで見えるんだと思ってたけど、違ったんだな。フーガ、よく見てるね」

「お前らより少しだけ、付き合いが長いからな。アイツから直接聞いたことはないが、大事に使っているみたいだし、特別な品なんだろう」

「なら、無理に他の装備を勧めることはしない方がいいですね。本人と相談しないと」

 アリアの台詞に男達は同意する。サタルは自分の左側を見た。やはりそこに、彼女はいない。ただ、鬱蒼と茂る森にひっそりと包み込まれた、マイラの静穏な闇があるだけである。アレフガルドの大地は、どこに行ったって空が暗い。だが、今日のこのマイラの闇は一段と濃く、沈み込むような静寂に包まれている気がした。

 一人欠けただけで、こんなに感覚が変わるのか。サタルは何となく物寂しい気持ちになって、溜め息を吐く。これは、欠けたのが彼女だからなのだろうか。

「あの。最近、カノンの元気がないと思いませんか?」

 ふと、村の重い沈黙に抗うようにアリアが声を上げた。それを聞いて、フーガが彼女を見下ろす。

「アリアもそう思うのか」

 はい、と白い少女は肯定する。常におっとりした彼女の顔つきが、珍しく厳しくなっていた。

「このところ、前よりベッドに入るのが早いんです。お風呂も、前は女性用の大浴場があれば一緒に行ってくれたのに、今は全然。さっさと部屋のお風呂に入って寝ちゃうんです。ここに着いてからも、せっかく温泉があるのに行かないの一点張りで。今朝なんて、布団から出て来なくて」

「今朝の体調は、本当に悪そうだったよな」

「はい。熱もちょっとあるみたいでした」

 今朝のカノンの様子は、サタルも少々窺った。熱は確かめていないが、顔色は悪かったように思う。室内灯に照らされ暗闇に浮き上がった彼女の顔は、その小さな頭を乗せた枕の白を通り越して、青かったようにさえ見えた。

「アイツが、体調を崩すなんてなあ」

 フーガが顎に手を当てて唸る。

「アイツは昔から丈夫で、風邪を引いたこともあまりないと言っていたように思うんだが」

「体調もですけど、気持ちの方も心配なんです。元気は、大分前からなかったですから」

 アリアは言いながら、真紅の瞳を隣の勇者に向けた。

「サタル、何かした?」

「やっぱりそこで、俺に聞くんだね」

 サタルは嘆息する。この「カノンの憂鬱=自分」という、仲間たちの間で成立しているらしい暗黙の方程式は何なのだろう。

「最近は何もしてないはずなんだ。なのに、避けられてる気がする」

「うーん、よく分からないわね」

 アリアもフーガも、一様に首を傾げる。つられて自分も首を傾げる。傾けた視界に、宿泊している宿が映った。周囲の森から切り出して造ったらしい、木造の家屋である。

「何が原因にしても、熱が下がるまでこの村に留まっていた方がいいよな。夕飯は消化のいいものを作ってもらえるよう、女将さんに頼んでこよう」

「私も行きます。サタル、悪いんだけどお留守番してるテングに、カノンの様子を聞いて来てくれる?」

「はーい」

 宿の戸を潜ってすぐ、三人は二手に分かれた。フーガとアリアはカウンターで帳簿をつけている女将のところへ赴き、サタルは一人、右手にある階段を登っていく。

 テングは、具合の悪いカノンのために自室に残っているはずだった。奥から順にカノンとアリア、フーガとサタルとテングという並びで、男女別に部屋を取っている。だからサタルは、まず男部屋の前へ行ってドアを叩いた。

「テンちゃん。帰って来たよ」

 声をかけてからドアノブを回す。だが、部屋の中は真っ暗だった。

「テンちゃん?」

 二、三歩踏み入ってみる。しかしサタルが呼んだらすぐ返事をするだろう兄弟子の気配は、微塵も感じられなかった。室内に争った形跡もなければ、テングの荷物が持ち出された様子もない。

 厠だろうか。それにしては、ランプまで消していくなんておかしい。隣の部屋にいるなら話し声が聞こえそうなものだが、辺りはしんと静まり返っている。サタルはひとまず部屋を出て、扉を閉めた。

 厠へ探しに行くべきだろうか。いやしかし、ここから厠までは少し距離がある。それならば、自分で確認してしまった方が早いだろう。

 サタルは隣の部屋の前に立つ。そして、先ほどよりやや丁寧にドアをノックした。

「はい」

 今度は返事があった。カノンの声だ。

「俺だけど。入ってもいい?」

「……うん」

 やや間を置いて、許可が出た。サタルはノブを回す。

 部屋はやはり暗かった。体調が悪い時というのは、光が目に辛いものである。だからサタルは、ランプを点けないまま窓を挟んで右側にある寝台へと近寄った。そちらが、カノンの寝床だった。

「調子はどう?」

 窓に背を向ける形で、枕元に立つ。カノンは横たわったまま、こちらを見上げる。小さな顔はやはり青白く、眼差しには常のような力がない。元気がないのだ。だがそれでも、弱った彼女もとても可愛らしかった。

 そう言えば近頃、彼女とはまともに会話ができていなかった。そのことを思い出すと、余計彼女と二人きりの空気が甘く、彼女が愛おしく感じられた。これで彼女が元気ならば、と今度は先程とは矛盾した感情が込み上げてくる。

「うん」

 しかし彼女の方はそっけないもので、それしか返答をしなかった。うん、ではいいのか悪いのか分からない。

「体調、少しは良くなった?」

「うん」

「そう。なら、俺たちと似たようなものが食べられそうかな?」

「うん」

 サタルはカノンの瞳を凝視する。こちらを見てはいる。話も聞こえているらしい。だが、どこか心ここにあらずといった印象を受ける。

 眠いのだろうか。ならば、寝かせてあげた方がいいだろう。

「じゃあ、夕飯のこと宿の人に伝えてくるよ。ご飯ができたら起こすから」

 サタルは後ろ髪を引かれる思いで踵を返した。できることならば、彼女の傍にいて様子を見ていたい。しかしそれは病人で、しかも女性であるカノンには悪いだろう。だから早く立ち去ろうとした。

「待って」

 ところが、三歩いかないうちに袖が何かに引っかかった。サタルは驚いて振り返る。いつの間にか上体を起こしたカノンが、右手でサタルの袖を引いていた。

 潤んだ黒目がちの瞳が、切なげに狭められてこちらを見つめている。きっと、身体の調子が悪くて苦しいのだろう。分かっていても、そのひたむきな眼差しを意識した途端、少年の心臓は早鐘を打ち始める。

「どうかした?」

「話したいことがあって」

 平静を保ち問えば、カノンは目を伏せた。艶やかに生えそろった睫毛、小さな鼻、そして、小さいながらもぽってりとした唇。解かれた長い髪が首筋に絡むのも、まっすぐ鎖骨の上を流れているのも煽情的だ。

 いやいや、それは駄目だろ。心の中に住むもう一人のサタルがツッコミを入れる。もちろん、分かっている。病人に手出しするほど、自分は人でなしではないはずだ。

「あの、あたし」

 声が小さい。サタルは身をかがめて、ベッドの端に膝を落とした。スプリングが軋んだ悲鳴を上げる。カノンが弾かれたように顔を上げた。サタルは片手を伸ばし、指先を彼女の頬の輪郭に添わせる。微かに触れる肌は柔らかく温かい。碧空と夜空の眼差しが、間近で交錯する。

 その時、突如腹に衝撃が走り、急激な熱が迸った。

 サタルは暫時、何が起こったのか分からなかった。いやいやいや、それはいくらなんでも嘘でしょ。早すぎるでしょ。もしかして夢かな? サタルは半ば笑い出したいような気持ちを堪えて、下へ眼差しを落とした。しかしその目に映ったのは、無残に汚れた半身でもなければ、朝の滑稽な夢の飛沫でもなかった。

 カノンの腕が、腹部に刺さっていた。

「……あ」

 先に声を発したのは、カノンの方だった。彼女は眦が裂けるほどに目を見開いて、自分の左腕を、少年の腹部に差し込まれたその手を凝視した。しかもその手は、腹部の中、肉の壁へとダイレクトに差し込まれているのである。即ち彼女の手は、彼の腹部を覆う筋肉を破り、臓物を抉り血管を断ち、背骨の脇をすり抜けて背中へと貫通しているのだ。

「え。あれ、え? あ、ア、やだ、え」

 カノンは調子の狂った弦楽器のような音を、口から漏らしている。大きな瞳が、サタルの顔とその腹部に刺さった己の手とを行ったり来たりする。サタルは彼女の黒目がせわしなく上下する様を見つめ、どうやら彼女は混乱しているらしいと推察した。混乱呪をかけられている類の混乱ではない。至って正気な人間が、不測の事態の起こった際に見せる反応である。

「カノン?」

 サタルは彼女に呼びかける。腹部の傷が致命傷になりかねないことは、承知している。だが、彼は死にかけることに慣れていた。だから、驚愕で思考が軽く停止しならも、比較的冷静に彼女に声をかけられた。

 しかしカノンは、飛び上がらんばかりに肩を跳ね上げた。彼女は顔を歪め、首を激しく横に振った。

「違う! 違うの、こんなことをしたかったんじゃない! やだ! やめてよ!」

 カノンは自らの右手でサタルの腹部に刺さった左手を押さえている。右手に時折、仄かな青い燐光が瞬いては消える。腕を抜きながら、傷口を閉じようとしているのだろうか。サタルは黒く濡れてきた自分の腹部を他人事のように眺めてから、カノンの顔に目を戻した。とにかく、彼女を落ち着かせなければならない。

「大丈夫、落ち着いて。抜いてくれればすぐ自分で止血するから――」

「カノンッ!」

 扉が開け放たれる激しい音と共に、第三者の声が響き渡った。そちらを向いたサタルの目を、ランプの光が焼く。一瞬眩んだその後に、ランプを掲げて立つ人影の正体が見えた。キラナだった。

 キラナは険しい顔をしてサタルの隣を見つめている。サタルは顔をカノンに戻して、はっと息を飲んだ。明かりに照らされた彼女の幼い顔立ちは、青かった。血の気が失せているなんて生易しいものではない。肌が、爬虫類めいて色褪せた青に染まっているのだ。

 カノンはキラナとサタルとを交互に窺う。橙の灯火に露わになったその表情を見て、サタルは言葉を失う。下がりがちに寄せられた眉、泣き出しそうな目もと、何かを言おうとしているが、中途な形に開いたままわななく唇。

 この表情は、焦りではない。怯えだ。カノンが、怯えている。

「カノン、あなた」

 キラナが何事か言いかけた。しかしそれが言い終わる前に、カノンは動いた。サタルの腹から腕を引き抜き、寝具を跳ね除けて飛び出す。サタルは突如支えを失った腹を抱えてうずくまる。それでも彼は目を上げて少女を仰いだ。

 長い黒髪をなびかせた武闘着は、ちょうど窓に駆け込もうとしていた。後ろに引いた左手に、サタルの目は釘付けになる。小さかったはずの彼女の手はその頭ほどの大きさになっており、鮮やかな紺鼠の肌と鋭い氷柱のような爪が、燈明を反射して鈍く輝いていた。

 窓に強烈な体当たりが炸裂する。武闘着は細かに砕け散る硝子と共に、漆黒の中へと消えていく。

「待って!」

 キラナが叫ぶ。サタルは立ち上がった。そして腹部の激痛も周囲の喧騒も現在の状況も何も考えず、少女の消えていった窓枠へ足をかけ、彼女同様暗闇に身を躍らせた。

「待って、ダメ!」

「キラナ?」

「どうしたッ」

 商人の後を追って来たスラン、騒ぎを聞きつけて飛び込んできたフーガが目を剥く。割られた窓から身を乗り出したキラナは、手にしたランプでも照らしきれない果てしなき闇を見つめている。勇者の姿はもうどこにもない。彼女の足下に散らばる硝子片が、明かりを反射して星屑のように瞬く。

「どうしよう、あの子まさか」

 キラナは唇を噛み締めた。走り寄る盗賊や戦士には目もくれず、拳を窓の桟に叩きつける。

「ああ、私がもっと早く来てれば!」

「落ちつけ。何があったか聞かせてくれ」

「落ち着いてなんかいられないよ! あの子をサタルが追ってるんだもの!」

 フーガは眉根を寄せた。戦士も、勇者が具合の悪い武闘家の様子を見るため、女部屋に行ったのだろうということは察している。だが、その勇者が武闘家を追うことの何がいけないのだろう。

「なら大丈夫だろ」

「大丈夫じゃないよ!」

 スランのなだめるような台詞を、キラナは一声で斬り捨てる。彼女は桟にかけた手を握りしめた。僅かに残っていた硝子の欠片がパリ、と軽い音と共に桟を離れ、彼女の手に食い込む。

「あの子は、勇者を殺すために育てられたんだから!」

 

 

 

 

 カノンは足が速いし、体力もある。それは知っていたつもりだった。だが、いくら彼女が優れた武闘家であるとは言え、こんなにも常人離れして走れるものだろうか。

 サタルは狭まろうとする歩幅を無理矢理広げて、暗き森を、道なき道をひた走る。前を行くはずの少女の姿は、既に見えない。しかし時折行く手から明らかに自然のものではない音がするので、それを標に突き進む。まだ茂みの不自然なざわつきや枝の折れる音が聞こえるあたり、どうにか彼女の後を追えているのだろう。そう信じる他なかった。

 追い分けても、追い分けても、黒い森。疾駆する足先さえ飲み込む果てしない暗闇に、サタルは眩暈がする。駆け出したばかりの頃のサタルは、彼女にはどうも目指すものがあって、それは南方にあるらしいなどと分析する余裕がまだあった。

 だが、今の彼は疲弊している。もともと体力はさしてない方である上に、回復魔法でいくらか塞いできたとはいえ、腹には穴が空いているのだ。もう、何かを考える余裕などなかった。

 息を吸う度、喉が壊れた鼓笛のように鳴る。口の端が、何かこびりついたかのように固まっている。急ごしらえの腹が、一歩踏み出す度にずくりと濡れた音を立てる。布がほつれるように、崩れていくのが分かる。

 それでも彼は、彼女に何が起こっているのか、どうして自分から逃げるのかを知りたかった。

「――くっ、」

 握り締めた拳で、目元を拭う。汗のせいか生理的に滲み出た涙のせいか、視界が白く歪む。月明りの導きもない闇に、額から散った水滴が霧散していく。瞬きをした瞳が、あるものを映し出して眇められた。

 彼の行く先に、視界の歪みとは異なる灰色の人影が浮かんでいる。

 何だろう、とサタルは走りながらそれを注視する。影が振り向いた。

「カ、ノン?」

 サタルの唇から零れた声に答えるように、カノンは小首を傾げて見せる。輪郭を靄に似た光に包まれてはいるが、その姿は間違いなくずっと共に旅をしてきた少女のものである。しかし、黒い外套も緑の武闘着も、そのふくよかな紅唇でさえ、色彩が抜け落ちてしまったかのようなモノトーンに統一されていた。

 カノンは、こちらに気づいているのかいないのかぼうっと立ち尽くしている。サタルは走り寄って彼女に手を伸ばす。指先がその肩に触れた。

 その刹那、彼の眼前に暗闇よりもなお無機質な漆黒の幕が落ちた。

 

 

 

 「自分」は、長椅子に腰かけ長机を前にしていた。ダークグレーの石壁で築かれた教会に、「自分」はいる。周囲を見回せば、「自分」が腰かけるものと似た長椅子と長机のセットが三列に整然と並べられている。しかしよく見ると、このセットは何かを半円で囲むようにして並んでいる。その囲むものがある方へ、「自分」は視線を転じた。

 壁だ。壁に、巨大な銀の十字架が据えられている。十字架は縦横の棒の長さが等しく、このデザインは「外」の世界では珍しいものなのだと聞いた。ただ、珍しいのはこの十字部分ではない。

 「自分」の目は、嫌々ながらもついその十字の根元を窺ってしまう。太い縦線の根は、床に横たわった女の腹部に生えていた。女は両腕を大地に広げ下半身をややこちら側に向けて捻り、虚ろな表情をこちらに向けている。その肢体が描く起伏のある曲線、愛らしい鼻と頬の輪郭、顔のパーツの位置から察するに、もとは美人なのだろう。しかし「自分」は、この女が美しいとは思えなかった。それは、彼女が死体だからだった。

 無論、女の体は温もりの感じられない石でできている。しかし彼女の体は、腐敗していた。こちらを向いた顔の、地に近い方の眼窩からは目玉が流れ出て、舌はだらしなく垂れている。長い乱れ髪は先に行くにつれ蚯蚓となり、大地へ潜るように同化していく。地に投げ出された手足はところどころ、肉が削げて白骨が覗いている。

 何故、こんなおどろおどろしい腐乱死体を十字架の下に据えてしまったのか。その理由は、幾度となく繰り返し聞かされ続けてきていた。

「いいですか」

 声がして、「自分」は視線を腐敗した石の死体の手前へ戻した。死体の下から、太い帯のような青の絨毯が真直ぐに敷かれ、教会を縦に二断している。「自分」は常々、この青い敷物が、あの石の女から流れ出た血のようだと思っていた。

 横たわる女の視線の先、青い血溜まりの中に黒衣のシスターが佇んでいる。彼女は堂を一度見渡して、低く滑らかな声で説く。

「あなた達はまだ知らないかもしれませんが、この世には辛いことが溢れかえっています。生き物は全て、人間も動物も魔物も、嘆きの女神の涙に濡れてこの世に生まれ落ちます。母の腹に満たされる水は、冥府におわす嘆きの女神が流す涙です。女神様は慈悲深い方。常世を離れ憂き世に落とされる魂を案じ、いつも泣いておられるのです」

 思い返して御覧なさい、とシスターは囁く。「自分」は目だけで左右を見る。周囲の長机につく黒衣の子供たちは、神妙な面持ちで俯いていた。

「転んだ時、あなたたちの肉体が傷つき痛むのは何故です。病にかかるのは何故です。あなたたち自身やあなたたちの両親が老いていくのは何故です。そしていつか、あなたたちの大切な人々の身体から霊魂が離れ、別れの時がやってくるのは何故です。すべて、この肉の器で溢れた世界のせいでしょう。この檻に囚われているせいでしょう」

 子供たちは頷いている。それにしても、と「自分」は思う。

 この教会は、なんと暗いのだろう。左右対称な壁に規則正しく並んだランプに点く灯火は、どれも燐の色。まるで幽鬼に囲まれているようだ。

「霊魂の住まいである冥府にいれば、こんな苦しみは知らずに済むのです。愛する者と離れることもない。憎む者に出会うこともなければ、嫌悪という情を知ることもない。求めるものが手をすり抜けていくこともない。肉体と精神の不一致に悩むこともない。霊魂の世界である冥界ならば、魂が肉体につられて腐敗することもないのです。全ての人々が永遠に、美しい健全な魂のまま、愛する人と別れることなく幸せに暮らすことができるのです」

「そのために、一つでも多くの生物を冥府へ還しましょう。思うがままにならない憂き世から解放してあげましょう。常闇には限りない慈愛があり、どんな者でも赦します。死は終わりではありません。新たな世界への旅立ちなのです。肉体から解き放たれた世界にあるのは心の静寂です。限りない平穏が、与えられるのです。私達の他の生物は、哀れなことに何も知りません。だから、新しい死生観を教えてあげましょう。冥府の常闇のいかに楽園であるかを、知らせましょう」

 黒のヴェールに浮き上がるシスターの顔は、石膏像に似ている。彼女は長い睫毛を伏せたまま、胸の前で十字を切った。「自分」も流されるままに十字を切る。つられるように、周囲の子ども達が十字を切る。

「皆さん、心に愛の刃を持ちなさい。その刃でもって、肉体の中心で脈打つ肉の核に祝福を与えなさい。そしてゆくゆくは」

 シスターの伏せられていた瞼が持ち上がる。薄い朽葉の眼差しが、「自分」を射すくめる。「自分」は動けなかった。

「このような明確な輪郭を作り、世界という檻を築いた光の神々を冥府へ誘いましょう。全ての生物が地に還る時、嘆きの女神は泣くことをやめ、冥府には色とりどりの花々が咲き乱れ、真の楽園としての役割を取り戻すでしょう」

 後方から、ゴーンと重い鐘の音が響いた。シスターは僅かに顎を持ち上げる。

「今日はこれで終わります。皆さんの心の刃に、女神の祝福と安らぎがありますように」

 シスターは衣擦れや足音さえ立てず、滑るように十字架の横にある扉へと消えていく。子供たちも立ち上がり、先ほどまでの神妙ぶりが嘘だったかのように和気藹々と会話しながら聖堂を後にする。

「ねえねえ」

 隣から、明らかにこちらに向けられたものらしい声が聞こえた。「自分」は首を回してそちらを見た。黒い髪を肩まで伸ばした、小柄な幼女が立っている。利発そうな目つきの彼女は、先ほどの子供たちとは違う漆黒の修道女の衣を纏っていた。

「今のどう思う? 私、そう思えないんだよね。だってあんたと一緒に遊ぶの楽しいし、あの堅っ苦しいお勉強もあんたと一緒なら辛くないもん。ムジュンしてるし、キョクタンだよ」

「キラナ、しっ」

 一桁の齢しか生きていない幼女とは思えない台詞だが、いかんせん声が大きい。「自分」は人差し指を己の唇に当てて見せる。

「誰かに聞こえちゃうよ」

 しかし、彼女の言うことは正しい。シスターや神父様は、この世界は思い通りにならない苦しみに満ちていると言うけれど、楽しいことだってたくさんある。それを無視して悲しみにばかり注目するのはおかしい。

 けれど、一方で「自分」は思う。シスターの言う通り、この世界にはどうしようもない苦しみがたくさん存在する。

 昨日だって、お隣のヤコブの父が棺で帰って来た。シスターは、ヤコブの父は幸せだと言っていた。彼は楽園の礎になったらしい。礎になると、人一倍の祝福を受けるのだとも言った。

 だが、自分は覚えている。ヤコブもその母も妹も、教会の皆が帰った後、家の中で泣いていた。そんなに大きくはなく、それほど離れていない隣家である。目を腕でしきりにこすりながら玄関へと向かうヤコブの頬には細く光る筋が見えたし、家の中から漏れる妹の甲高い泣き声と、それを震える喉で諌める母親の声はよく聞こえた。

 死者の死を嘆くことは、忌み嫌われる。教会に知られればただでは済まされない。だから「自分」はそれを聞いても、黙っていた。悲しむことがいけないとも思えなければ、楽園に行くことが絶対的な幸福だとも思えなかった。

 だけど同様に、キラナのように楽園なんて間違っているとも思えない。「自分」だって死が怖い。苦痛や別れが怖い。それがない世界があったなら、全ての魂が、生ける者死せる者が幸せになれる道があるならば。

 教会を出る。今日も空は冥府の黒で満たされている。「自分」はふと家の方へ向かいながら、教会のステンドグラスを見た。

 継ぎ接ぎの色ガラスには、隣を歩く利発な女の子にそっくりな、しかし顔つきの不満そうな黒髪の女の子が映っていた。

 

 

 

 サタルは瞼を上げた。いや、その前から開けてはいたのかもしれない。現に足だって動いている。だが彼が今走っているのは黒い森の中で、静謐ながらどこか不気味な雰囲気を持つ教会ではなかった。

 瞬刻見たあれは、幻だったのだろうか。最後に「自分」としてステンドグラスに映った姿は、七つにも満たないだろう子供だった。肩まで伸びた艶やかな黒髪の、人形のように大きな黒目がちの瞳と無表情が特徴的な、女の子。

 サタルは彼女によく似た人物を知っている。しかしその人物は彼女より十と少し齢が上だし、第一現在、自分よりずっと前を走っているはずだ。

 幻を見る前に手を伸ばした、その人物の幻影を思い出す。あれはすぐ消えてしまった。ただの幻ではない。何故なら幻を見ている間、サタルは「自分」の感情や思考を共有できたからだ。どんな高等な幻影魔法でも、あんな真似は不可能だ。

 ――さっきのあれは記憶? それが、残留思念として形になったのか?

 この手のことに詳しいサタルは、すぐに見当をつける。しかしそんなものは、死ぬ間際でもなければ残せないはずなのに。

 ざわりと胸が騒いだ。

「う……っ」

 サタルの足が、ついにもつれた。低木にしたたかに身体を打ちつけ、雑草の上に転がる。しかし彼には、その痛みを認知している思考の余地がなかった。全身の血流が溶岩のように煮えたち、心臓が激しく波打っている。何度も味わって来た、何もかもを灼き尽くす力が内側から込み上げてきていた。

 よりによって、こんな時に! サタルは歯噛みした。強く噛み締めた唇がブツンと切れ、鮮血が溢れ出る。口内にさらに濃い鉄の香りが広がる。しかし今は、それさえ気にならない。

 喩えて言うならば少年の身体は蛹、昂る力はそこへ産み付けられた寄生蜂の卵だった。サタルは蝶となり蛹を出て、少女を追いたい。この力の支配から逃れたい。けれど彼は幼虫のように身を縮こませたまま、蛹を破ることができない。痙攣する身体を制御しようともがくも、なりを潜めていた荒々しい力は卵から孵り残虐な蜂へと変貌し、サタルごと殻を破ろうと彼の意識を蝕む。

 ――破裂する。

 幼い頃から体に刻み付けられてきた絶望が、じっくりと急激に彼を追い詰める。膨大な熱量がもう、すぐそこまで来ている。頭が割れる。また、自我を失ってしまう。

 力を抑えつけようと足掻いていた理性の綱が、ぶちぶちと切れていく。思考が灼けていく。融解していく思考回路の末端で、しかし、彼は思う。

 ――カノンが離れていってしまう。

 誰か、自分の代わりに彼女を止めてくれ。または自分を、彼女を追える状態に戻してくれ。彼女を追いたい。あんなに取り乱した彼女を、放ってなんておけない。話をしたい。まだ、自分の気持ちだって十分に伝えられてないのに。彼女のことだって、まだ全然知ることができていないのに。

「死に……たく、ない」

 少年は知らず、譫言のように口走る。

「死にたくない、死にたくない死にたくないッ」

 真紅に灼ける瞼の裏に、彼を常に支えてきた男の姿が浮かぶ。彼は、力を暴走させそうになるサタルをいつも助けに来てくれた。君が呼べばいつだって駆けつけると言ってくれた。幼年の己を、あの滑稽な道化師風の出で立ちで慰めてくれた。

「テン、ちゃ」

 最後の音が零れ落ちる前に、少年の体躯に輝く精霊言語がびっしりと浮き上がる。独りでに紡がれた光の術式が、帯状となって幾重にも迸った。

 

 

 

***

 

 

 

 サタルは丸い空を、眺めるともなく眺めている。視野一面に広がる世界は青一色で、端に行くにつれ白を帯びて淡くなっていく。雲だって一つもない。まさに晴れ晴れしい青。何もない、がらんどうの空。

 そして、周囲にも何もない。剥き出しの荒れた砂場が、見渡す限り広がっている。こちらも、がらんどうだ。

 サタルは身体を大地に委ねきっている。開いている双眸も、碧空が映るのに任せている。頭は非常にクリアだが、身体が重い。全身の血管に血液ではなく鉛が巡っているのではないかと疑うほどに、怠い。身体を起こすのは勿論、己の身体の状態を確認する気にすらなれない。けれどいつものことだから、見ずとも大体の状態は分かっている。

 乾いた風が頬を撫でる。風に乗ってこの大地や大空に、この身体や魂が溶けていってしまえばいいのに。彼は薄く笑みを浮かべ、咳き込んだ。喉の奥に濃厚な鉄の味が、じんわりと広がった。

「嫌になっちゃうよ」

 やがて、彼はぽつりと呟いた。広すぎる空に、小さな呟きはすぐ霧散する。

「こうやってよく分からないうちに暴走してさ、よく分からないうちに色んなものをハチャメチャにしてさ、それでよく分からないうちに身体はボロボロでさ。思い通りにならないことばっかりだ」

 きっとたくさん叫んだのだろう。喉が潰れてしまって、声が嗄れている。全身が火傷したかのようにひりひりと痛む。中でも左脇腹の感覚がないから、自分で焼いてしまったのだろうか。とんだ自傷癖だ。声を上げて笑おうとしたら、やはり咳が出た。喉がイカれてしまっているらしい。

 しかしこれも、回復呪文を唱えれば治癒してしまうのだ。阿呆らしくて嫌になる。身体の傷は全てなくなるのに、この痛みの記憶は消えないというこれを繰り返していると、まるで自分がタチの悪い夢幻を延々と見続けている狂人なのではないかという気になってくる。

「俺って、ちゃんと『俺』なのかな」

 サタルは、漠然とした問いを投げかけた。

「こうも自分が思い通りにならないと、分からなくなってくるよ。俺は誰なんだろう。こうやってずっとこの場所で、思い通りにならない力に振り回されて、何のために生きてるんだろう」 

 すると、彼の視界に新しい色彩が加わった。丸い視野の端からひょっこり現れたのは、赤紫の縞模様をした道化師である。

「サタルはサタルだよ」

 彼は男のわりに不思議と高い声で答えた。

「アリアハンで生まれた男の子。オルテガとミシェルの息子。可愛く優しく賢い、小さな男の子。僕たちの小さな勇者ちゃん」

「俺、勇者って何だか分からないよ」 

 サタルは問う。これもまた、繰り返し考えてきたことである。

「勇者って、すごいコトをした人のことを言うんだろ? 性格も良くて、みんなに好かれててて。俺、まだ何もしてないし好かれてないよ。生まれた時から勇者だって言われるけど、俺まだ何もしてない」

 いや、とサタルは言葉を区切る。唇の端が、意図せずとも皮肉に吊り上がっていく。

「いや、したね。たくさん色んなものを壊した。この場所にあったはずの森もそう。岩もそう。川も、泉も、そこに住む魚も、魚を食べに来ていた鳥だって、森に住んでた動物も魔物も、ああそうさ人間だって! 大好きな人まで殺した!」

 喉元に圧倒的な質量が込み上げてきて、サタルは己の胸ぐらを掴む。服が地肌に擦れ、焼けつくような鈍い痛みを覚える。

「これのどこが勇者なんだ。俺のどこが勇者なんだ。魔王と変わらねえだろ!」

 声を振り絞った刹那、喉の奥で血の塊が弾けた。激しい咳に身を震わせる。喉からせり上がってきた鉄臭さが口内に充満し、堪えようとする唇をこじ開けて溢れだした。粘着質な液体が両頬を伝っていく。耳の下を伝ってまとわりつくその感覚の気持ち悪さに、サタルはいっそう惨めな気分になった。

「俺は違うよ、テンちゃん」

 弱々しい声が零れる。声を発すると、鉄臭さが鼻にツンと染みた。その拍子に、視界に広がる青が滲んだ。

「無理だよ。俺は勇者にはなれない。こんなあべこべな身体と心じゃあ、勇者にはなれない。俺じゃない。勇者は俺じゃない、父さんだ」

 今度は生暖かいものが、目尻をするすると落ちていく。風が吹けば、目から流れ出た温かい筋は途端に温もりを失い、逆に体温を奪う。

「テンちゃん、父さんを呼び戻してくれよ。みんなに必要なのは父さんみたいな人なんだ。俺じゃない。俺さえいなければ、母さんも爺ちゃんも悲しまないで済む。父さんだって」

 サタルは小さくしゃくりあげた。胸ぐらを掴んでいた腕を目の上に置く。冴え渡る碧空が失せて、闇が視界を覆う。それまで張り詰めていたものが、ふと弛むのを感じた。

「殺して。俺を殺してよ」

 サタルはテングの顔を見ないままに、懇願した。泣き言はこれまで散々言ってきたが、こんなことを言ったのは初めてだった。

 何度も何度も地に倒れ伏す、意のままにならない自分が憎い。何度も何度も苦しみに泣きわめき自分の力に震えることしかできない、臆病な己が疎ましい。積年の惨めの極地に、彼はいた。

「サタルは、エライね」

 ややあって、テングの声が聞こえた。口元を柔らかい布が拭う。サタルは腕を退けて道化師を仰いだ。

「テンちゃん、そうじゃない。俺は」

「君はちゃんとした理想を持っていて、それに向かって進もうとしてるんだ。エライよ」

「はぐらかすなよ。お願いだから」

「さっきから君はみんなにみんなにって言うけど、みんなって誰だい?」

 サタルはきょとんとした。

「みんなって、世界に住んでる生物たち」

「その世界中に住んでる全てのモノの考えていることが、君は分かるのかい?」

「分からない」

 サタルは低く答えた。

「分からないから怖いんだ。俺は勇者として必要としてもらえるどころか、諸刃の剣扱いされるのがいいとこなんじゃないか」

 テングはこちらを見下ろしている。ピエロの糸のような瞳、逆アーチを描く分厚い唇には、限りない慈しみがこもっている。

「君は、これだけ僕たちが愛情を示していても、それが分からないんだね」 

「今はそういうことを話してるわけじゃ」

「君は愛が分からない。何故なら、自分を愛せないからだ。自分を愛することができないから、誰かを愛することもできない。他の誰かからの愛も、受け取ることができない」

 生まれた時からずっと一緒にいる僕じゃあ、君にそれを認めさせられないんだね。テングは微笑んだまま言う。だが、その穏やかな声色の底に微かに漂う悲哀を、サタルは敏感に嗅ぎ取った。

「違う。俺はテンちゃんが大好きだよ、本当だよ」

「大丈夫」

 己の口許の血を拭うぬいぐるみの手をすがるように取り、サタルは訴える。テングは変わらぬ笑顔で答えた。

「サタルの気持ちを信じてないわけじゃないよ。ありがとう」

 もう道化師の声に悲哀はない。けれどサタルは眉根を寄せて、彼を注視した。

 兄弟子は弟分を見つめ、静かに語りかけた。

「忘れないで、サタル。勇者はヒトの期待を背負う者じゃない。人に期待される者なんだ」

「期待される……」

「そう。君が勇者と呼ばれる理由である雷の力は、君の魂に宿っている。それは言うならば、性質だ。君の生まれ持つ体質なんだよ」

「それは知ってるよ」

 サタルは自虐的な笑みを浮かべる。

「だから俺は、闇を討つ運命を背負った勇者なんだろう?」

「運命? いや、定理でしょ」

 しかしテングは、あっけらかんとして言った。

「光と闇は天敵同士。これは基本中の基本じゃないか」

 あ。サタルの口が、ぽっかりと開いた。閃光が脳内を走っている。

「そうか。俺が勇者だからこの力が宿っているのかと思ったけど、そうじゃない。俺がこの力を持ってるから、勇者なのか」 

「そう」

 テングは肯定して、さらに続ける。

「そしてその力は、他ならぬ君自身のものだよ。主神は確かに、君に輝かしくも強力すぎる光の力を与えたかもしれない。でも君には、その前からそれを受け入れられる土壌が、資質があった。そしてそれは、主神が造ったものではない。君に自覚はないかもしれないけど、この力は完全に君の魂に馴染んでいる。主神が、あの天から魔力の糸で君を操っているわけじゃない。加えて君は呪文、想像、祈りの魔法発動の三要素のうち、神霊への祈りなしに奇跡を起こすことができる」

 サタルはテングの手を握ったまま、固まっていた。しかし思考は、これまで凝り固まっていた壁から解き放たれて、羽を伸ばそうとしていた。

 それを知ってか知らずか、テングは説く。

「サタル、君は至って自由だ。全ての生物が、それぞれ神霊の見えざる糸で繋がれた世界の中で、君だけは誰にも繋がれていない。これはすごいことだ。君の魂はあまりにも強く、美しい。だからきっと人々は、君の強さに知らず惹かれて、いつか君を真の勇者と仰ぐだろう」

「そんな」

 サタルは苦笑した。この兄弟子は自分達に見えるモノが見えず自分達には見えないものが見えるせいか、妙なことを口走る癖があった。

「それは大袈裟だよ。そんなわけない」

「けれど君は、まだ愛を認めていない。サタル、いつか君が悟ってくれると信じて、言っておこう。愛は君の意志に関わらず与えられるし、与えられないこともある。愛は求めるものじゃない。他人の心は、どう足掻いたって自分には向けてもらえない。求めるなら身体だけにしておくんだ」

 テングはふくよかな掌を、サタルの額の上に置いた。ひんやりして気持ちがいい。サタルは目を閉じた。

「そうすれば、今は魂に耐え切れない自分の器を認められない君も、やがて他人の器を通じて自分の器も認められるようになるだろう。愛することができるだろう」

「愛を求めないで。自然に任せて。君は既に、自分以外の人間に心を配ることができる。あとは自分自身に心を開くのを待つだけ」

「だけど、忘れないで。たとえ君が世界中から憎まれるようなことになっても、僕だけは君を愛している。君が僕を求めて呼ぶならば、僕は絶対君のところへ行くよ。たとえ君が神に背くために僕を呼ぶのだとしても、僕は――」

 テングの言葉が遠くなっていく。サタルの意識は、宙へとふわりと浮かんだ。薄れていく景色の中で、サタルは地べたに座り込むテングと、その傍に倒れている己の姿を俯瞰した。その容姿は、今の彼よりずっと幼かった。

 

 

 

「気が付いた?」

 その台詞が耳に届いた時、サタルはやっと自分が瞼を開けていたことに気づいた。視野の左側から、白塗りのピエロメイクがこちらを見つめている。しかし先程まで自分が見ていた光景とは違い、その背景は黒ずんだ板目の天井だった。ここはどこかの屋内らしい、とサタルは察する。そして今は、夜のようだ。

「今度は、ちゃんと呼んでくれたね。ダーマの時のこと、繰り返さなかったね」

 テングの台詞が何のことであるか、サタルは一瞬分からなかった。だが、すぐに彼は自分がついさっきまで見ていた光景が夢のものであること、今の自分はその夢の中の己よりずっと年を取っていて、しかも旅に出ていることを思い出して頷いた。

「懐かしい夢を見たよ」

 テングは大きな首を傾けて、サタルを覗き込んだ。

「俺がまだ、旅に出てなかった頃の夢」

「そっか」

 サタルは茫洋と、道化師越しに天井の木目を見つめる。それにしたって暗い。まるで、月すらないかのような――サタルは上体を跳ね起こした。腹筋が軋んだ。

「カノンは?」

 サタルは突如双眸を鋭くして尋ねる。テングは肩を竦めた。

「ここにはいない。行ってしまった」

「どこにいるか、知ってるんだね?」

「待ちなよ。キラナが何か知ってるみたいだから、それを聞いてから行った方がいい」

 寝台から立ち上がろうとした少年の両肩を、道化師の両手が押さえる。しかしサタルは、眼差しの鋭いままに両手の主を見上げる。

「あれから何時間経ったんだ」

「そう時間は経ってない。彼女の話を聞いて行かないと、どうにも手は打てないよ」

 サタルは兄弟子を睨み付ける。テングは気圧されることなく、沈着な口調で言い聞かせた。

「物事には順序がある。分かってるよね?」

「……分かった」

 少年は溜め息を吐き、丸い腕をやんわりと外して立ち上がった。

「みんなを呼んで来よう。みんな、何が起きたか知りたがってるんだ」

「いいよ、もう動ける。俺が行く」

 仲間達は、女性陣の部屋に集まっているらしい。サタルは外套は羽織らないまま、短衣とズボンだけを纏った格好で部屋を出た。後からついてくるテングの軽い足音を聞きながら、一つ隣の扉をノックする。

「誰だ」

 ――はい。

 聞こえたのは太い男の声だけなのに、サタルの耳には落ち着いた少女の声が重なった。首をゆるやかに振って、彼はその声の余韻を振り払う。今は、回想に耽っている場合ではない。

「フーガ、僕だよ。サタルが起きたんだ」

「入れ」

 テングが答えると、扉が開いた。扉の向こうから、厳しい顔つきのフーガがこちらを見下ろす。彼の細い瞳はサタルを見るとやや和らいだが、しかし部屋の張りつめた空気は、戦士の大きな身体越しにもよく伝わって来た。

 サタルは意識を失う前にもそうしたように、部屋に足を一歩踏み入れた。吊るされた照明器具に、橙の灯りが灯っている。

 その下に、仲間達が円になって座っていた。文机に据えられた椅子には、白髪の盗賊が腰かけている。彼は足を組んで、落ち着かなそうに膝の上で右手を弄びながら、己の右手側をちらちらと窺っている。彼の目線の先にはベッドがあり、その上にはそれを用いているアリアとキラナが座る。アリアは気づかわしげに隣の少女を見やる。キラナは細い眉根をきつく寄せ、深く刻まれた眉間の皺が、幼い顔立ちに濃い影を落としている。いつも勝気なこの少女がこんな顔つきをすることを、サタルはこの時初めて知った。

 そして、反対側にある武闘家が使っていたベッドには。

「え?」

 サタルは寸時、この緊迫した空気を忘れた。そこには、黒い三角帽を脇に放った赤毛の魔女が座っていた。

「何で生きてるのかって?」

 その濃いルージュが開き、覚えのあるハスキーな女の声がサタルの台詞を先取りする。彼女は吊り上がりがちな金の眼を眇める。

「私は悲しいことに、炎では死ねないのよ。あなたのお父さんのように、あの後この世界に落ちて来たの」

「俺たちは、ギアガの大穴から来たんだ」

 スランが訊ねられる前に答える。

「お前らと別れた後にスーの村にツボを返して、それからサマンオサの復興と遺跡調査を手伝ってたんだけど、コイツが急に『下の世界に行かなくちゃ』って言い出して」

 緑眼がまた右手側を窺うが、視線の先にいる少女はそちらを見ず俯いたままである。仕方なく、スランは言葉を続けた。

「それで大穴に落っこちて、気付いたらアレフガルドにいたんだ。コイツはずっと何も言わないで何か探してあちこちうろうろするし、かと思ったらそこのルネ姐さんが『あなたの探し物はあっちよ』とか話しかけてきて、ラダトームからここまで強行軍だ」

「まあ、途中で見失っちゃったから迷っちゃったけど」

 ルネはそう言いながら、その細い顎でテングの方をしゃくって見せる。

「そのピエロのお兄さんのおかげで助かったわ」

「助けを求める声が聞こえたからね。それでゆーちゃんがカノンの様子を見に来た時、一緒にいられなかったんだ」

 カノンの名前が出た途端、やや緩みかけていた部屋の空気が再び強張ったのが分かった。

「さあ、人間も状況も揃ったよ」

 緊迫した部屋の中央を、テングが前に進み出て縦断する。彼はスランとルネの間、ちょうど二台の寝台の間にある窓を前に立ち止まり、身体を反転させる。

「サタル、さっき起こったことを話して。どうしてカノンが逃げ出して、君が追っていくことになったのかを」

 サタルは遊び人を、その背後の窓を凝視する。窓ガラスが割れている。サタルは先ほどの出来事が夢でなかったことを確信して、数歩仲間達に向けて歩み寄った。部屋にいる人間の円が完成する。サタルは先ほどの自分の体験を、語り始めた。

 仲間達は、半ば息を殺して彼の話に聞き入っていた。フーガの顔つきは一層険しくなり、アリアはやや混乱しながらも、サタルが見た幻の話を聞くと大きく息を飲んだ。スランは事態が飲み込めていないようだが、彼なりに思うところがあるらしく優美な顔立ちを硬くさせている。テングとルネは無表情である。そして最も顔つきを変えたのは、キラナだった。

「そんな」

 彼女は力の抜けた声を漏らす。まるでそうしないと上体を支えていられないとでも言うかのように、呆けたような顔を両手で支えていた。

「器が。あの子は、器を完成させてしまったの……?」

「なあ、いい加減話してくれよ」

 スランが痺れを切らして問いかける。アリアが彼に嗜めるような視線を送るが、スランは珍しく譲らなかった。

「アイツがどうなってるのか正確に分かってるのはアンタだけなんだ。なんで隠してるんだか知らねえけど、サタルの話とアンタがこれまでに発してきた言葉、照らし合わせてみれば俺だって分かるよ」

 一対の翠玉が、己を虚ろに眺める一対の黒曜石を見据える。

「カノンは、相当ヤバいものを寄生させてるんだな? しかもそれは、闇の領域に生きるモノだ――違うか」

 部屋中の視線が、キラナに集まる。桃色の少女は、双眸に虚ろな色を残したままうっすらと笑った。

「アンタに気づかれるなんて、私もまだまだだね」

「舐めんな。俺だって伊達に遺跡研究やってねえんだ。古い呪術なら、駆け出しの賢者より詳しいわ」

 しかし、スランは掌で己の額を覆った。その顔つきは悔しそうに大きく歪んでいる。

「にしてもクソッ……合ってたのかよ」

「アンタの言葉は大体合ってるわ」

 ぱぁん、と渇いた音が部屋に響いた。キラナが自分の両頬を、己の両手で叩いたのだった。

「分かってる」

 目を丸くする盗賊を横目に、赤く腫れた頬で彼女は呟く。

「私だって、いい加減覚悟決めたんだから。カノンのためにも、話さなくちゃ」

 キラナは息を深く吸い、背筋を伸ばした。サタルの知る、しかしそれよりもずっと勇ましさを増した女商人が戻って来ていた。

「私とカノンは、このアレフガルドに生まれた人間なの」

 そして彼女は、語り出した。

 キラナとカノンは、アレフガルド制圧のために暗躍した人間の一族に生まれ落ちた。この裏切り者の一族は、古くからこの大陸で広く信仰されている女神ルビスではなく、それよりさらに古い邪教の信徒の血を引いていたらしい。そして現在の彼らも、皆その邪教の信者であった。

 この教派は、自らを『冥府の使者団』と称している。彼らの信仰は、簡潔に言うならば暗黒に向いていた。彼らは闇の神々と、特に冥界を崇拝していた。魂の世界である冥府を楽園と仰ぎ、この世界を冥界の一部とすることによって、生に苦しむ人々を救済しようというのが、この教団の宗旨だという。

「だから、うちの一族では魔物は敵じゃなかった。彼らは魔の世界の同胞だから、殺すようなことはしなかった。魔物の方も、私達に手出しをするようなことは滅多になかったと思う」

 冥府の使者団のもっぱらの救済の対象は、人であった。彼らは地上に生きる者の中で、闇の属性も持っておきながら、光の神々にも通じていたからだ。使者団にとって光の神々は、人々が冥府に行こうとするのを遮り、闇の神々や生物をないがしろにする、限られた偽りの楽園を作った憎き敵だった。

 彼らは太古の昔から、人々を冥府に誘うこと、この世界に冥府を広げることに躍起になっていた。その努力は、つい先日目に見える結果を奏した。闇の神々のうちでも特に彼らに快く応じてくれた魔族上がりの神ゾーマの召喚に成功し、アレフガルドの大地はついに暗黒に包まれたのだ。太陽は失せ時の概念は薄れ、精霊ルビスは石像として永遠に封じられた。それは彼女達が生まれるより二十年前のことで、当時の使者団は大いに歓喜したという。

「もちろん、使者団はそれだけじゃ満足しなかったわ。ゾーマの指示のもと、計画の第二段階に移った」

 ゾーマは使者団に、こう告げた。

 この世界を冥府の一部とするには、長い時が要る。だからまずは、この世界の軸をルビスから我、ゾーマに変えなければならぬ。しかしこのアレフガルドは、まだ我のような闇の精には馴染み難い。だからこの世界にある肉体の器を、我に捧げよ。汝ら人間の中から、闇の寵愛一際深い者を、我が闇の祭壇に供えるがよい。その者を依代として、我がこの新しい冥界の主となろうぞ。

「人間はさっきも言った通り、闇にも光にも通じる珍しい器なの。だから人間を、特に長い信仰の歴史から闇に通じている使者団の中から、ゾーマは求めた。けれど、うまくいかなかった」

 ゾーマのために肉体を捧げようという信者は多かった。しかし、多くがその濃密な闇に耐え切れず、自らが神と崇め奉る者に取り殺される恍惚のうちに死んでいった。

 彼らの無残な骸を前にしても、ゾーマは悲しみもしなかった。彼はむしろ一層歓喜して、彼らの儚き忠誠を讃えた。そして、のたまった。

 お前達の一族に、一際闇の濃い者を授けよう。その者は果報者となるだろう。何せ、これから我がアレフガルドを制圧しようとやってくる光の使者を討ち取る役目も与えられるのだ。その者は、我が託宣の日に必ず生まれよう。そして見事、光の使者に絶望を与えよう。

「それからしばらくして、ゾーマの言った通りの日に、ゾーマの言った通り子供が生まれた。けれど、一族は戸惑ったみたい。だって、その子供は双子だったんだもの」

 キラナはそこまで言って、一同を見渡した。

「そう、それが私とカノンだった」

 一族はゾーマに伺いを立てた。果たしてゾーマは、残った方が依代となればいいとだけ答えた。そのためキラナとカノンは、一族の他の子供達同様冥府信仰を教え込まれた。宗旨は勿論、生物を速やかに冥府へ送るための戦闘術や呪法を学んだ。同時に彼女達は、彼ら以上の英才教育を受けた。彼女達は闇の修道女として、禁じられた体術や呪法をはじめとして、人間を落とすための知識を多く仕込まれたのである。

「私は早い段階で、使者団が嫌いになった。だってそんなに冥府に行きたいなら、さっさと自分達だけで死ねばいいじゃん。余計なお節介にもほどがあるでしょ。使者団の人たちは良い人たちが多かったけど、この世のことに執着がなさ過ぎて怖かったし、そのせいで死んだたくさんの人たちは可哀想だって思ってた。だけどカノンは、私ほど割り切れなかったみたい」

 不幸にも、カノンは体術の才が際立っていた。闇の修道女は闇の加護を受けるため、死に行く者の血を多く浴びることを求められた。嫌々繰り返されるその儀式の中で、カノンは獲物を苦しませないために、刹那に敵の急所を見抜く術を、生命の気脈を見抜く目を開いてしまった。彼女は努力家で魔法の覚えも良く、学門はあまり得意ではなかったが口答えすることがなかったために、次第にゾーマの依代となるべき存在として、周囲からも期待の眼差しを向けられるようになった。

 一方キラナにはカノンほどの戦闘の才がなく、逆に政治学や商学などの学問にはかなり通じていた。しかし、彼女は信仰に反するようなことを多く口にする傾向があったために、成長して口が達者になるにつれ、疎まれていった。

「ゾーマの宿る器は、絶望と血に濡れていなければならない。そのためには回りくどいことは抜きにして、敵の血をより多く浴びることができそうな、殺傷能力の高い人間が好まれた。その結果、修道女過程を終えた時、カノンはゾーマの依代として正式に選ばれ、私はあの子の器をさらに強めるための、生贄になるよう命じられた」

 アリアがぎょっとして、隣の少女をまじまじと見つめた。キラナは安心させるように微笑みを浮かべて見せ、首を横に振った。

「もちろんこうして生きていられてるんだから、生贄にはならずには済んだんだ。それも、カノンのおかげだったの」

 儀式の前日、カノンはこっそり一人囚われたキラナのもとへ出向いて来て、彼女を逃がそうとしたのだ。妹はこれまでにあからさまに使者団に逆らうような真似をしたことがなかったために、キラナは驚いた。キラナ一人を逃がそうとする彼女に、キラナは言った。やがてはゾーマに憑き殺されるだろうあなたを置いて行くことなどできない、一緒に逃げよう。そう訴えた。しかしカノンは、笑って首を縦には振らなかったと言う。

「二人で逃げたら、ゾーマと使者団はどんな手でもあたし達を見つけ出して、やっぱりキラナを殺すだろう。あたしはキラナみたいに頭が回らないから、たとえ逃げ出してもすぐ捕まっちゃうと思う。だから、キラナだけ逃げて。あたしは殺されることは、少なくとも当分ないから」

 そう言ってしきりに逃げるよう促す妹に、キラナは必ずゾーマの器とならずに済む方法を見つけて帰って来ると約束し、郷里を後にした。彼女は行商人の一団に転がり込みそこを足掛かりとして、これまでに学んできた商売の知識を生かし、金を集めた。アレフガルド中を回り、ゾーマの手から逃れられそうな術を探した。だがアレフガルドのどこにも、ゾーマから逃れるための手段はなかった。

「だから、上の世界にも足を持っている冒険者を見つけて、上の世界に飛んだのよ。それで商人としてまた生計を立てながら、ゾーマから逃れる手段を探した。そうしているうちに四年が過ぎて、ロマリアに出向いた時に、あなた達と一緒にいるカノンを見つけた」

 サタルは頷いた。あの時のことは、今でもよく覚えている。

「私、正直言うとあの時すっごく驚いたんだよ。だって、カノンに上の世界で会えるとは思ってなかったから。ゾーマの依代が主神の世界で生きていられるなんておかしい、って。カノンにまた会えた喜びは強かったけど、それ以上に不安でいっぱいだった」

 キラナはカノンと二人きりになった途端、すぐさま問い詰めた。すると妹は躊躇いながらも、キラナがいなくなった後のことを交えながら、この世界に来た理由を答えた。

 ゾーマはルビスの世界に留まらず、ルビスと繋がりのある主神の世界も闇の支配下に置きたいと考えていた。そのため依代となるカノンにまだ敢えて自らの肉体となる器を完成させず、自分が移りきる前に主神の世界の偵察をさせつつ、あることをさせようとしていた。

「それが、やがてアレフガルドに降り立つだろうと言われる光の使者――ううん、勇者の暗殺だった。今はまだ、ゾーマはこの世界にすら完全には溶け込めていない。でも、ルビスの血脈を引く神の加護を強く受けた者の魂を取り込むことができれば、光に耐性がつく。アレフガルドは勿論、上の世界にもこれまで以上に干渉しやすくなる」

「だからゾーマは、カノンを貴方に接触するよう仕向けた。あの子が成人した後上の世界に行ったのは、そういう理由からだったってわけ」

「まったく、いい趣味だ」

 サタルは独りごちた。口の端が勝手に、皮肉な形に上がっていってしまう。しかしまったくもって、心の底から笑える気分ではなかった。

「君はそれを知っていて、どうしてカノンを俺に託したんだ」

「言ったでしょ? あの子を幸せにできるとしたら、それは貴方しかいないから」

 キラナは真っ直ぐにサタルへ目を注いだ。それは、ある種の決意を宿した眼差しだった。

「カノンが言ってたの。あの子にとっての幸せは、もう誰も殺さなくてよくなること。つまり、あの子が完全にゾーマに取り込まれてしまう時か、そうじゃなければ」

 桃色の唇が、わなないた。

「勇者に殺される時」

「それでいいのかよ!」

 スランが席を立ち、問い詰める。キラナも勢いよく立ち上がり、激昂した。

「嫌に決まってるじゃない!」

 叫んだ声の、身を切り裂くような悲憤、大ぶりな目に浮き上がる透明な雫に気づき、スランは言葉を失った。キラナは瞳の縁から透明な真珠を零し、大股に歩み寄って背の高い盗賊の胸ぐらを掴んで揺さぶった。

「私だって探したよ! あの子の闇の支配を取り除く方法を! カノンを置いて逃げ出した日からずっと世界中を、地位も伝手も知識も全部駆使して探してきた! だけど――」

 そこから先は言語にならなかった。涙で崩れる言の葉を払うように商人は大きくかぶりを振り、祈るようでありながら乱雑に、手で掴んだシャツに額を押し付けた。

「教えてよ……何で、なん、で……っ」

 嗚咽を上げる少女の桃色の髪を、スランは引き寄せられた姿勢のまま見下ろしている。彼は何も言わず、小刻みに震える華奢な肩に腕を回した。

「アリア、テング。どうなんだ」

 キラナの独白が始まってから一言も発さなかったフーガが、賢者と野良賢者とを見やる。アリアは難しい顔つきで顎に手を当て俯いていたが、ややあって優しげな面差しを上げた。

「ただの依代ではないのね」

 キラナがスランのシャツから顔を離し、赤くなった瞳で友人を見て頷く。

「話を聞く限り、人身御供の手法だ。呼び出したい神霊を受け入れるための器――この場合人間だけど――を、呼び出したい精霊の守護するもの、好むもので染め上げる。違うかい?」

 テングの問いかけに、キラナがまた首を縦に振る。

「そう……闇の加護が強い人間に……闇の刻印を施して……よ、四百四十四の人間の生血と、五百五十五の魔物の生血を、かける……」

「それで、カノンにはもう闇の刻印があるの?」

 キラナは恐れるように、テングを窺う。ピエロの出で立ちをした魔術師はそれを見て、肩を落とした。

「呪、器が既に完成してしまったなら、儀式はもう取り消せない。あとは、精霊が憑くのを待つしかない」

 精霊が憑く時を待つ。それが表すところは、一つしかない。キラナが盗賊のシャツに顔を押し付け、何かを堪えるように身を大きく震わせる。スランは彼女の肩を抱いてやりながら、顔を伏せて歯を食いしばっていた。アリアは泣き出しそうに歪んだ顔の下半分を、両手で覆っている。ルネは黙って床を見つめ、フーガは頭を抱える。

 そして、サタルは。

「――ルネ、テング」

 少年はやや躊躇って、口を開いた。呼ばれた二人が、反射的に彼の方を向く。

「カノンの正確な居場所を突き止めて、できる限りゾーマの城の情報を集めてくれ。彼女がゾーマの依代でいよいよそれが降りてくるというなら、その居城に向かうとしか考えられない。これは精霊の声が聞こえる君たちにしかできないんだ。お願いできる?」

「分かった」

「いいわ」

 遊び人が大きく頷き、魔法使いが了承の意を示す。次いでサタルは、商人ギルドの二人に目を移した。

「スラン、キラナ。資金を貸してくれないか。強い武器や防具、強力な道具が要る。俺の分は良いから、ここにいる全員の一番いい、強力で最適な装備を整えてほしい」

「お、おう」

「いいけど」

 戸惑いながらも盗賊は引き受ける。商人は何か言いよどんだが、その前にサタルは残る二人を交互に見やった。

「アリア、フーガ」

 長い旅路を共にしてきた賢者と戦士は、待ち構えていたように彼に視線を返した。その眼差しの強さに、サタルは頷く。

「すぐ、リムルダールに行こう。虹の雫を完成させるんだ。ゾーマの島に渡るには、あれが要る」

「カノンを、殺す気なの」

 キラナがその少女とそっくりな顔立ちに、恐れと諦念と絶望とを滲ませて尋ねる。勇者は彼女から目を逸らさないまま、ゆるやかに首を横に振った。

「分からない」

「そう、甘い情が通じる相手ではないわよ」

 ルネが、足を組み替えながら言う。

「この世界の空気は、冷たく淀んでいる。精霊でさえ石に変えるような闇の精霊を相手に惚れた腫れたなんて言ってたら、串刺しにされるでしょうね」

「分かってるよ」

 勇者は苦笑した。それから笑みを消して、キラナに真摯な表情を向ける。

「ゾーマに憑き殺されそうなカノンを前に、何をしたらいいのか。分からないけれど、ゾーマに飲み込まれるのを見殺しにしたくない。彼女がゾーマに飲まれる前に、カノンと、もう一度話がしたい」

 自分の心は、もう決まっている。サタルは自分を見つめる六対の瞳に、頭を下げた。

「頼む、みんな。俺と一緒に、ゾーマの城へ――カノンの所へ行ってくれ」

 

 

 

 

***

 

 

 

 ゾーマの居城がある島は、人々に魔の島と呼ばれていた。周囲は切り立った崖となっており、その黒々として目の粗い壁面は、人どころか生命力の強い植物でさえ根付かない不毛の様相を成している。その岩肌には絶えず荒波が打ち寄せては砕け、細かな飛沫を上げる。島の浮かぶ内海は、いついかなる時も泣き叫ぶバンシーの黒髪のごとくうねっているのだ。またこの気難しい海は、あの島以外の浮かぶものを一切許さないらしい。船など出そうものなら、たとえそれに人が乗っていなくとも、たちまちのうちに嘆きの潮騒の狭間に消えるという。

 この荒海に、あの断崖の島である。父と想い人は、どうやって眼前の光景を乗り越えようとしたのだろう。サタルは内海にせり出した岬から、目を眇め島を観察する。島は紫の濃霧をまとい、サタルの無遠慮な視線に、口の重い重装騎兵のように黙している。あんなところ、常人にはとてもではないが近寄る気にすらならない。

 どうやって? サタルは先ほどの問いを、脳内で反芻する。二人が用いた手段については、サタルはもう知っている。彼が現在思いを馳せているのは、そういった具体的な方法についてではない。この光景を前にして、そこへ単身挑むことを決意した、彼らの心情を思っているのである。

 父はこの海を、たった一人で泳いで渡ろうとした。己の力のみで世界を救ったと言い切るため、彼は仲間を作ることはおろか、精霊の助力を得るという選択肢すら蹴ったのだ。全ては己の犯した罪を償うため、その罪の結果生まれた子供の、その身を蝕む力が不要な世界を作るために。その結果、「あわれ海の藻屑とならんや」というわけらしい。旅の芸人が謳っていたことである。信憑性は定かではない。だが、テングやルネの耳をもってしても、オルテガの行方は未だ掴めなかった。

 一方想い人の用いた手段については、正確な把握はできていない。だが魔術師たちに聞いた話だと、彼女は既にあの島にいるのだというから、何らかの手段で渡ったのだろう。彼女は今、人を脱しつつあるのである。常人ではないならば、手段はいくらだってあったに違いない。あの島には、彼女が宿すモノを神と崇める魔物達が、たくさんいるのだ。

 サタルはたとえば今自分が立つこの場所に彼女が立っていて、そこへ翼やヒレを持つ魔物の大群が迎えに押し寄せてくる場面を想像してみた。だが、押し寄せる魔物の姿やその前に佇む彼女の小さな背中は思い浮かべられるものの、どうしても彼女の顔だけはぼやけたようになってしまい、なかなか像を結ばなかった。

「みんな、いい?」

 サタルは空想を振り払い、背後へ向き直った。六人の仲間達が、それぞれこちらへ眼差しを返してきた。

 テングはやはり身体によく馴染んだ、手製の道化師着ぐるみで挑むことにしたようだ。主だった武器はスティックキャンディーに似た杖一本。こちらも、彼が遊び人として活動し始めた時から愛用しているものである。作り物の面が、サタルと目が合うとにっこりと笑った。

 ルネは好んで着るイブニングドレス型の、ドラゴンローブを仕立ててもらっていた。それに橙のマントと黒の三角帽、そして初心の魔法使いも用いる、魔導士の杖を合わせている。彼女は薄い笑みを保ったまま、こちらへ眼差しを注いでいるようだ。いや。サタルは思い直した。こちらを見ているようだが、その後ろの魔城を見ているのかもしれない。まあ、彼女なら大丈夫だろう。

 スランは盗賊向きの、動きやすく収納スペースの多いいつもの衣装である。その機能性を存分に生かし、彼は複数の武器を持参していた。ベストの内側には吊るされた短剣が覗き、背には炎のブーメランが負われている。だがそれより驚かされたのは、腰に吊るしている代物である。彼のベルトには、三叉に分かれた太い編目の鞭がとぐろを巻いていた。伝説のグリンガムの鞭である。聞くところによれば、キラナがどこからともなく入手してきたのだという。彼は平素の頼りない言動など微塵も感じさせない凛々しさで、臆することなくサタルを見つめ返した。

 そのキラナは伝統的な冒険商人の白衣装に、魔法の前掛けを着け、魔法のそろばんを手にしている。彼女の定番の装いだ。やややつれて憔悴したような様ながら、その大ぶりの瞳には黒真珠よりなお強い光が宿っている。

 アリアは青鈍色のマントを羽織った、楚々とした純白のワンピース姿である。優しい面立ちに、もう恐れの色はない。知性を湛えた真紅の瞳は彼を映すと一つ瞬きをし、促すように頷いた。

 サタルは最後に、フーガを見た。厳つく鋭利な刃の鎧を纏うその体躯があまりに大きくて、少年は少し顎を上げる。

「いつでも行けるぞ」

 戦士が落ち着いた、低い声音で言う。サタルは首を縦に振り、身体の向きを魔の島へと返した。島は依然として、紫のマントに身を隠し沈黙を保っている。そのマント越しに影のごとく高くそびえ立つ尖塔も城郭も、消える気配はない。

 サタルは手にした守りを掲げる。雫の形をした精霊女神の加護は、勇者が掲げた途端に七色に輝き始める。輝きは次第に色を強め、遂に雫から虹が溢れ出た。虹は岬に落ちたかと思うと、瞬く間もなく島へ向けて一直線に伸びながら暗闇を切り裂いていく。ゆるやかなアーチを描いた虹が向こう岸に届くのを見届けて、サタルは足下に生えたそれに足を下ろした。虹はサタルの足を七色の淡い輝きと共に柔らかく包み込んだが、不思議と踏みしめた感触は、岩盤でも踏んでいるかのように硬かった。

「すごいな」

 サタルの後に続いて恐る恐る足を踏み出してみたスランが、感嘆の声を漏らす。七人が乗っても虹はびくともせず、大地を離れ内海の中央を渡る頃になっても、足場が揺らぐ様子はまったくなかった。

 一行が島に辿り着くと、虹の橋は独りでに消えた。彼は闇に溶けていく七色の残滓を眺めてから、改めて眼前にそびえ立つ巨大な影を仰視した。暗闇の中に紫の靄と共に忽然と浮かび上がったゾーマの城は、足下に立つ七つの豆粒を睥睨しているようだった。

「静かだわ」

 ルネが顔を城へ向けたまま、金の眼で辺りをくまなく探りつつ囁く。

「声がしない。精霊たちの囁き声も、魔物の息遣いも聞こえない。おかしいわね。精霊はまだ分かるけど、魔物の気配もないなんて」

「少なくとも、この辺りはね」

 テングが同意した。彼もどこを見ているか分かりづらいその糸目をおどろおどろしい尖塔へ向けながら、口調だけは呑気に言う。

「入ってみたらまた違うかもしれないけど」

「きっと、雑魚は来ないと思うよ」

 キラナの言葉に、全員が彼女の方を向いた。闇の一族で生きて来た少女は、彼らにかぶりを振って見せる。

「ゾーマは、バラモスなんかとは格が違うのよ。勝ち負けより何より、絶望ある死を望む。敵であろうと味方であろうと、強い絶望を得るためならどんな手間のかかることだってするんだから」

 そう言って、商人は勇者を見つめる。

「あなたには特に、手間かけてるから。きっとただの雑魚なんて仕向けないし、強力な手下にも譲らないと思う」

「ってことは」

 勇者はひゅうっと口笛を吹いた。

「御自ら、このサタルめを屠って下さるというわけだね? おっそれ多いなあ。ありがたいね」

「サタル、ふざけてる場合じゃあ」

「ふざけてねえよ」

 たしなめようとしたスランが、口を噤んだ。サタルの整った顔立ちには、薄く笑みが浮かんでいる。依然として秀麗で、女心に甘い倒錯を起こさせかねない微笑である。しかし盗賊が口を噤んだのは、この場違いな表情のためではない。彼は少年勇者の顔を覗いて、少年勇者の青い虹彩が仄かな輝きを帯びていることに気付いたのだ。それは呪文詠唱時、宙に呼び起こされる精霊文字と同じ煌めきだった。

「この勇者サマ相手に自分から出向いてこねえなんて、いい度胸だ。まあ絶望なんてし慣れ過ぎてるから、いまさら出向いて来られたって良いリアクションしてあげられる自信ねえんだけどさあ」

 サタルはツカツカと歩み出る。その行く手には、ゾーマ城の固く閉ざされ錆びついた門扉がある。トロルキングも身をかがめず通れようというその巨大な門に、彼は片手を翳した。

 瞬間、扉が砕け散った。スラン、アリア、キラナにフーガ、それだけでなくルネでさえ目をやや瞠る。扉は見事瓦礫となって吹き飛び、門のあった場所は、初めから門などなかったかのような、美しい釣鐘型にくり抜かれていた。

「俺が上客なんだったら、それ相応のもてなししろっての」

 ドアマンくらい立たせとけよな、と軽い口調でぼやきながら、サタルは中に踏み入っていく。その足元で、明らかに砂利を踏みつけたのとは違う濡れた音が響く。一応「ドアマン」はいたらしい。サタルは葡萄酒より黒の濃い紅に滲む瓦礫を見下ろして失笑し、振り向いた。仲間達が呆気に取られたように、こちらを眺めていた。

「行こうか」

 そう呼びかけたサタルの瞳孔は、もう輝いていない。一行は周囲への警戒を怠らないままに、闇の城へと入り込んだ。

 「こっちだよ」

 キラナが前に進み出て、パーティーを導く。城内は彼女の言った通り、スライムの一匹さえいなかった。青灰石の床に響く足音は七人の人間のものだけで、それさえも古びて蔦が這い苔むした壁に飲まれてしまう。辺りには外同様霧が漂っており、その靄の薄い天井の高い位置からは、時折柱に掘られた悪魔の顔が覗く。こちらを見下ろし、嘲笑うかのように口を大きく開けている醜悪な面立ちが、何とも不気味である。

「ずっと気になってることがあるんだ」

 先を行くキラナの隣にサタルは並ぶ。キラナがこちらを向くのを確認し、問いかける。

「俺がゾーマを倒しに行く勇者だってことが分かってたなら、どうしてカノンはもっと早く俺を始末しなかったんだろう」

 キラナの顔が、僅かに歪んだ。答えづらいことなのは百も承知だ。だが、聞かないわけにはいかない。サタルの逸らされることがない視線から逃れるように、キラナは眼差しを正面へ戻す。

「カノンは武術が好きで腕のいい暗殺者だったけど、殺しが好きなわけじゃなかったから。魔物も人間も他の生物も、どうしてもそうしなくちゃいけない時以外は、絶対に殺さなかった」

「そうだよね」

 サタルもよく覚えている。カノンは旅の最中、魔物が襲いかかって来る素振りを見せるまで、決して手を出そうとしなかった。人間だって一度も命を奪わなかったし、他の生物も食事の都合以外で殺めることはなかったように思う。

 苦しそうに双眸を眇め、キラナは俯いた。

「私が前にサマンオサに行く途中で聞いた時は、確証がないって言ってた。勇者ともしれない人間を、むやみに殺すわけにはいかない。でも、他に思い当たる人間も見つからないから、しばらく様子を見るって言って」

 ならば、どうして自分が勇者だと分かってからも、殺そうとしなかったんだろう。サタルはそれを尋ねようか迷い、やめた。キラナが言わないと言うことは、知らないのだ。やはり本人に聞くしかない。

「カノンは、このアレフガルドの世界を冥界に変えたいとは思ってなかったんだよな?」

「そのはずだよ。少なくとも、私が最後にあの子に会った時――サマンオサにいた頃には」

 サタルとキラナのやりとりを聞いていたフーガが、背後で溜め息を吐いた。

「やっぱり信じられないな」

 桃色のポニーテールが跳ねられたように後ろを向く。彼女の顔を見て、フーガは太い首を横に振った。

「いや、お前が言っていることを信じられないわけじゃない。あのカノンが、ゾーマの依代としてこれまでに九百九十九もの生贄を殺したとは、とてもじゃないが思えなくてな」

 戦士の台詞を聞いて、アリアが頷く。

「私もです。カノンはとっても優しいもの。ゾーマの依代になろうとしたなんて、とても……」

「いや。優しいからこそ、だと思うよ」

 かぶりを振るアリアに、テングが異を唱える。

「闇に染まる人間は何も、クズや野心家やサイコな気違いばかりじゃない。むしろそういうのは少なくて、大抵は僕たちが『仕方ない』と割り切れるものをそう割り切れなかった人たちが、闇雲に現状を打開するための策を求めた結果、そうなるんだ」

 サタルは目を閉じる。

 思い返してみれば、遊び人のふりをしていた自分を見抜いたのは、彼女だった。

 髪に口づけを落としたら、可愛らしい赤面に似合わない強烈な飛び蹴りを喰らった。

 それでもシャンパーニの塔へ向かった自分達を案じて、急いで追って来てくれた。

 実姉の頼みに、怪現象にも臆さず、ノアニールに踏み込んでいった彼女。心中した恋人たちに思いを馳せ、いたわしげに俯いていた。

 アッサラームでは入浴中にも関わらず、町の異変を察知してバスタオル一枚で飛び出そうとしたのを、今でもよく覚えている。

 イシスのピラミッド探索では、自分が過ぎた悪戯をしても鉄拳制裁と罵倒だけで許してくれた。

 ポルトガで無理矢理連れ出した時、仏頂面からたまに見せる笑顔が可愛いと思った。

 バハラタでは、怯える女たちを逃がして一人盗賊団の首領に立ち向かった。

 サタルが体質から来る不調を誤魔化しても、特別優しい態度を見せることもなかったが、文句も言わず看病してくれた。

 テドンでは故人への思いに揺れるフーガと彼と別れたくない自分たちを気遣って、率先して戦士を説得しようとした。

 ランシールの神官長とのやりとりで傷ついた自分が乞うままに、傍にいてくれた。

 贄になりそうな少女の身代わりになろうとしたり、牢に囚われた自分達を逃がそうと、策を練って単身牢番を蹴散らしたこともあった。

 エジンベアでは、容姿を褒めたら恥ずかしそうにしていた。

 サマンオサの夜、一人墓地へ花を手向ける彼女の細いうなじ、憎しみに駆られるレオの代わりに手を下した、あの時の彼女の姿は忘れられない。

 もう一度彼女の夜露に濡れたような美しい双眸を思い出して、サタルは瞼を上げた。回想はたった一度の瞬きにも満たないうちに終わった。だが彼女と過ごしてきた時間は、瞬きなどにたとえれば数えきれないほどである。その時間をもって、自分はカノンを知っている。無愛想で口数が少なくて、そのくせ言葉はいつでも鋭くて、よく言葉より先に手足が出ることもあったけれど、勇敢で自分よりある意味男らしい、優しい少女だ。彼女の甘すぎない優しさに、何度救われたことか。

 その彼女の優しさがこの事態に繋がるなんて、誰が思っただろう。サタルはそう考えて、内心頭を横に振った。いや、まだそれがどう繋がったのか、そもそも繋がっているのかどうかすら分からないのだ。

 どうして気付かなかったのだろう。もっと早く彼女の体の変化に気づいていれば、その心を語ってくれたかもしれないのに。

「そもそも、アイツを勇者探しの仕事に誘ったのは俺なんだ」

 フーガが言う。彼の表情の分かりづらい一重の瞳に浮かんでいるのは、間違いなく悔恨である。それが滲み出た声で、彼は回顧する。

「それまでアイツは、サタルがアリアハンを発ったことすら知らなかった。積極的に追って行こうとする素振りだって見せなかったんだ。きっと、サタルを殺す気だって依代になる気だってなかったんだ。なのに、俺は――」

「カノンがどう考えてたかなんてまだ分からないよ、フーガ」

 戦士の後悔の言葉を、サタルは遮った。

「旅立ちの頃、カノンが依代についてどう思ってたか、俺をどう思っていたかなんて知りようがない。でも少なくともカノンは、マイラの宿で俺の腹を刺してしまった時に狼狽えていた。こんなことをしたかったんじゃない、嫌だって言ってた」

 あの時の動揺した彼女が、どうしても世界の破滅を願っているようには思えない。それまでの彼女の言動を考えても、彼女が心の底から冥府を信仰しているとは、サタルには考えられなかった。

「フーガがカノンを誘わなくたって、カノンがこの世に実体のないゾーマの依代となる唯一の器なんだから、俺が彼女と出会うのは時間の問題だった。変わらないんだよ。俺が鮮烈な光で世に蔓延る魔を焼き尽くす勇者で、彼女が世界を闇に染めるための器を持った暗殺者である限り、俺たちは出会うさだめだった」

 サタルはここで、おもむろに振り返った。視界に映る仲間たちは、そろって悲痛な顔つきをしている。彼は笑ってみせた。

「だけどフーガがカノンを連れて俺を追って来て、旅に加わってくれなかったら、きっと俺が彼女に恋をして、カノンと一緒に生きたいと思うことはなかっただろうな」

「あっつーい告白してるところ悪いんだけど」

 視界の外から声がかかった。進行方向に目を戻すと、いつの間にか先頭に進み出たルネが両腕を広げた。

「急がなくちゃいけないんだから、これくらいさっさと燃やしていいわよね?」

 サタル達は周囲を見回した。彼らは大広間の入り口と出口を繋ぐカーペットの上にいた。絨毯の両脇に、王の間を守る兵士のように巨人の像が左右対称に三体ずつ並んでいる。

 背後で入って来た扉が閉まった。それが合図だったかのように、石像六体の双眸が怪しく輝いた。

 部屋のどこからともなく、重々しい声が響く。

 ――我らは魔王の部屋を守る者。我らを倒さぬ限り先には……

 最後の方は、轟音に掻き消されてよく聞こえなかった。部屋中に眩い閃光が満ち、大爆発がサタルたちの鼓膜どころか部屋全体を蹂躙する。

 サタルが次に目を開けた時には、部屋の中がすっかり殺風景になっていた。ただ出口の細工だけは無事で、迸った魔力の名残がルネの身体から立ちのぼらなくなった頃、ゴゥンという先程に比べると大分小さな音を立てて扉が開いた。

「まあ、開いたわ。よくできてること」

 ルネは間の抜けた感想を漏らし、一人先へ進む。悪魔の顔がてっぺんに飾られた扉の下に立った彼女が、バリア床だわという一言の後にトラマナの呪を唱える。それが自分達にも及んだことを確認してから、爆音の残響で放心状態だったパーティーは彼女の後に続いた。

  その一室はルネの言う通り、床一面を波打つ電流に覆われていた。ただ中央に位置する二つの玉座の周囲だけはそのような仕組みになっておらず、褪せた光沢を放つ赤絨毯が敷かれている。

「行き止まり?」

さして広くない一室を一周してみて、アリアが首を傾げる。キラナが唸って腕を組んだ。

「おかしいなあ。ここのどこかに階段があったと思ったんだけど」

 ひとまず、玉座の前で立ち止まる。仲間達が首を捻る横で、サタルは並んだ豪勢なソファを見つめる。重厚な金装飾が椅子の縁や手すりに施されているが、今はすっかり埃で白茶けてしまっている。そのせいで、返って贅沢な威厳を醸し出していた頃が偲ばれた。

 ふと玉座の向こうを人影がよぎって、サタルは視線を上げた。スランが玉座の裏側に回り、しゃがみ込んで顔を床に近づけていた。

「スラン、顔がえぐれるよ?」

「この程度じゃえぐれねーし、トラマナあるから」

 サタルの忠告など構わず、スランは頭を床と平行にして耳を寄せ、手にした短剣の柄で床を叩いた。手を前後左右に動かし、その動作をやや場所を変えて繰り返す。それを何回か繰り返すと、やがて上半身を起こして短剣を掌中で回転させ、その切っ先を床の一点に突き刺した。

「やっぱりあった」

 刃の先端が床に埋まるのを見て、スランが呟く。彼がその細腕で短剣を硬い石に捻じ込むように動かすと、その切っ先の食い込んだ床が正方形にえぐれて持ち上がった。

「隠し階段か!」

 正方形に抉れた床の下から暗がりへ沈むかのような未知の階段が現れ、フーガが目を剥く。スランが短剣の刃こぼれを確認し、頷く。

「まさかこんな床に、隠し階段なんて作れるとは思わないですからね。でもここだけ、踏んだ時響く靴音が違ったんスよ」

 盗賊は床下を覗き込み、よし大丈夫そうだ、と独り言ちる。そして振り返り、仲間達が己をじいと見つめていることに気づいてひるんだ。

「なっ、何スか」

「いや、ちょっと感動してな」

 フーガが年若い盗賊に向かって、感じ入ったように二度頷いて見せる。その後からサタルは率直な感想を述べた。

「なんかスラン、ここ最近逞しすぎて別人みたい」

「お前な。俺だって、お前らに会ってない間、盗賊として色々と経験積んでるんだぞ」

 スランはムッとしたような顔こそしたが、別段怒った様子も見せず先に階段を下っていく。その次にサタルが、後から五人の戦士たちが下りて行く。

 うねうねと、蛇が身を捩っているような螺旋階段が続く。先程までの空間は不思議に明るい霧のせいで仄かに明るかったが、ここには光源が一切ない。一階が遠のくにつれ、暗がりが重みを増して肩や視界にのしかかってくる。それに抗うように、スランが探索用の呪文を応用して指先に明かりを灯す。一行はその小さな灯火に導かれ、するすると暗がりの中を下っていく。

 ぐるぐる。ぐるぐる。左手に細く道が続くのが見えるが、スランはそちらを一瞥するのみで曲がろうとはしない。ゆるやかに渦巻く階段を下っていこうとする。

 ぐるぐる。ぐるぐる。

「ストップ!」

 細道がちょうど左手にきた時、最後尾から甲高い声が聞こえた。続けて、一行と壁を縫うように奇抜な赤紫の縞模様が先頭へ躍り出る。

「スラン、それ以上はダメだよ」

「何でだよ」

「そこから先は、無限ダンジョンだ」

 はあ!? と盗賊は素っ頓狂な声を上げた。心なしか、明かりに照らされた顔が青ざめて見える。

「マジかよ。ここそんな場所あるのか」

「スラン、もしかして」

 サタルが訊ねると、盗賊らしからぬ優美な面立ちが露骨に歪んだ。

「無限ダンジョンめっちゃ苦手」

 弾けるような明るい笑い声が響いた。キラナだった。

「やっぱアンタはそうじゃないとね!」

「何だよ。馬鹿にしやがって」

 スランが眉根を寄せ、拗ねたように吐き捨てる。キラナは彼に両手を合わせて頭を下げる。

「ごめん、怒らないでよ。アンタのそういう虚勢張らないところ見てると、落ち着くの」

 そう言って顔を上げた彼女の表情を見て、サタルは僅かに眉を持ち上げた。このところ眉間に寄っていた皺が、なくなっていた。さらに過剰に張りつめていた気配が、和らいだように感じられる。

 スランもそれに気づいたらしい。目を丸くしていたが、ややあって「いっ」と短い悲鳴を上げた。キラナがその細い背を、威勢よく叩いたのだった。

「頼りにしてるから」

 少女は真摯な面差しで、隣に立つ男を見上げる。その眼差しを受けて、スランは喉元までせり上がっていた文句を引っ込めたようだった。代わりに、いつにない真面目な仏頂面で答える。

「……おう」

  パーティーの先頭に、また一つ別の灯火が宿った。

「ここからは僕が案内するよ」

 紫蘭の如き輝きを両手に宿したテングが、陽気に告げる。彼はくるりと身体を反転させ、小さな球状に丸めた輝きをお手玉しながらぴょこぴょこと脇道へ逸れて行く。スランが灯を消す。闇がまた深まった。一行は新たな導き手のもと、暗闇を手探りに進み始めた。

 細い道を辿った先は奇妙な広い空間に続いていた。まず、周囲を巡っているはずの壁が見えない。奥行きも窺えなければ、天井も確認できない。明かりが部屋の隅まで届かないのである。

 更に、その炭を掃いたような視界の底に白く浮き上がる床には、何やら模様が彫ってある。どうやら矢印のようだ。床のここそこに、てんでんばらばらな方向を指す矢印のパネルが、所狭しと埋め込まれていた。

 サタルは試しに、一つのパネルに起点を定めて矢印を追ってみた。どうやら矢印は、進行方向を指しているらしい。一見するとバラバラな方向を指しているようだが、よく目で辿ってみれば矢印の指す方向にあるパネルと矢印がぶつかることがない。道順を指しているようだった。

「このパネルには特別な細工がしてあるんだ。乗ると、指されてる方向に進めるんだよ」

 テングの語る声が聞こえた。サタルは矢印を次々に目で辿ってみる。矢印は一貫した法則性をもって連なっていたが、全てが繋がっているというわけではなさそうだった。起点とするものによって、まったく違った方向に連れて行かれることもあるようである。

「逆に言うと指されていない方向には行かせてもらえないから、慎重に行かないと取り返しのつかないことになるわけだね」

 どの矢印から踏み始めればいいのだろう。しばらく観察してみたが、やがてサタルは溜め息を吐いた。無駄だった。矢印が多すぎる。しかもうまく目で追えていったとしても、矢印は灯明の届かない闇に飲まれてしまい、終点まで追うことが不可能だった。

「どこに向かうのか、さっぱり分からないぞ」

 サタルと似たようなことをしていたのだろうか。フーガが双眸を眇めて暗闇を見つめたまま唸る。

「これじゃあ進みようがない」

「キラナ、分かりそうか?」

「ダメ」

 スランの問いかけに、キラナは首を横に振る。

「私も幼い頃に一度来たきりだから、ここはさっぱり」

「目で追おうとするから駄目なんだよ」

 テングが言う。それを聞いて、戦士たちは不思議そうに彼を見下ろした。サタルもそちらに視線を移す。兄弟子の目は床ではなく、暗闇へ向かっていた。

いや、見ているのではない。暗闇の先を感じ取っているのか。

「僕の進んだ通りに、ちゃんとついて来てね」

 遊び人はそう告げると、矢印の彫られたパネルの一つに足を乗せた。すると、足を動かしているわけでもないのにその身体が勢いよく滑っていく。サタルは慌てて彼が踏んだパネルに乗った。途端、バナナの皮でも踏んだかのように足が勝手に滑りだした。彼の身体は矢印の指す通りに進んでいく。

 後ろで、わあとかきゃあなどと言う声が聞こえた。だがサタルには振り返っている余裕がない。テングがどんどん先へ行ってしまうのだ。彼はこの奇妙な滑走感が気にならないらしく、パネルに乗っては滑り、着いた先でまた新しい別のパネルに乗っては滑りを繰り返してすいすいと軽快に進んでいる。サタルはその道筋を追うのに精一杯だった。

「着いたよー」

 だから最後に先を行くテングが振り返ってそう告げた時には、滑り終えて思わず矢印のなくなった床に膝をつくほどに安堵した。

「テンちゃん、速い」

「ごめんごめん」

 悪びれた風もなく謝るピエロである。サタルが苦笑すると、彼は大きな頭を振り子のように傾けた。

「てっきり、サタルはこういうの好きだと思ってたんだけどなあ」

「そりゃまあね。時が時なら楽しんだだろうけど」

「それは悪いことをしたね」

 二人が会話しているうちに、後から仲間たちが到着する。彼らもサタル同様、着いた傍から憔悴した様子で皆座り込んだ。

「私、あの滑り方無理。心臓に悪い」

「私も」

「俺も」

 キラナがこぼすと、アリアとスランも同意した。その後からフーガが着き、座り込みこそしなかったものの少年少女に同情したような表情を見せた。

 ただ最後尾についてきたルネだけは別で、彼女は通常通り優雅にマントを翻して到着すると、着いた小部屋の隅にある階段を確認し部屋を見渡してから、やっと床にへたり込む一同に視線を向けた。

「随分くたびれてるわね」

「当たり前ッスよ」

 床に四肢をついたスランが反論した。まだ顔の青さが治っていない。

「だってここ、魔王の城ですよ? 行き先だって分からないってのにどんどん進まされて、怖くなかったんスか?」

「別に」

 魔女に一言で返されて、スランはがっくりとこうべを垂れた。

「じゃあ、先に進もう」

 テングがまた飄々とした足取りで歩き出したのを合図に、座っていた面々が立ち上がった。

 階段を下ると、今度は一階の様子とよく似た城内の風景に繋がっていた。テングは今度は速すぎないペースで歩を進め、二叉路に行き当たると左に曲がった。その迷いのない様子に、フーガは背後を振り返りつつ尋ねる。

「ここまで来ちまったが、本当にこっちで合ってるのか?」

「合ってるよ」

 それに答えたのはキラナだった。彼女は辺りを見回して頷く。

「私もここは覚えてる。このまま大方道なりに進んでいって階段を二回下りれば、ゾーマの現れる闇の祭壇に着くはず」

「その闇の祭壇ってヤツも、いかにもおどろおどろしくて気になるんだが」

 言いながらフーガは、大分先を行くテングの背中を凝視した。

「それにしたって、アイツは何者なんだ。どうして来たこともないゾーマの城の進み方が、ああも正確に分かっているんだ?」

「あら、まだ気づいてなかったの?」

 サタルが口を開くより先に、ルネが言った。

「あの人、私と同類よ。しかも私より、ずっといい耳を持ってるわ」

 フーガやキラナ、スランは一瞬ルネの言う意味を図りかねたらしかった。だがアリアはそれを聞いて、すぐ顔色を変えた。

「彼も、神霊の声が聞こえてるっていうの?」

「それも先天のよ」

 ルネは間接的に肯定し、その金色の眼をサタルへと据えた。

「だから私と彼に、この城周辺の詮索をお願いしたんでしょう?」

「うん」

 首を縦に振って見せる。フーガたちはテングの情報収集能力が、豊富な知識とフットワークの良さとコミュニケーション能力の高さからくるものだと思っていたようだが、実際にはそれがメインではない。

「テンちゃんはすごいからね。現地に行かなくても、風の囁く噂だけで大体のことは分かるし、感覚が鋭いから道順だって滅多に間違えない」

「まーそういうわけだから、安心してよ」

 戦士たちがぎょっとした。前方でテングが振り返り、にっこりして呼びかけてきていた。

驚くのも無理はない。彼と自分たちの間は、抑えた声なんて到底届きそうにないほどに離れているのだから。

「僕はちゃんとした修業なんてしてないし大した苦労と思える苦労もしてないけど、昔から良い勘だけは持ってるから」

 師匠のお墨付きだよぉと間延びした声を残して、道化師の姿が階段に吸い込まれていく。サタル達も、置いて行かれまいと足を速めた。

 急ぎながらも下る一段目に足裏をつけた途端、サタルは気付いた。足の裏に、これまでになかった振動が伝わってきている。

「水の音?」

 アリアもそれに気づいたようだ。下っていきながら、赤い双眸で左右の壁を窺う。先を見据えたまま、キラナが返事をした。

「地下湖だよ。この城、湖に建ってるの」

「何だよそれ。どんな設計だよ」

「私も知らない。だって、うちの一族よりずっと古いから」

 階段を下りきっても、風景は上とさして変わらなかった。しかし湖の囁きは、雨音のように微かながら、今や明確に鼓膜を揺らしていた。

「何だろう。どこかで嗅いだことがある匂いがする」

 階段下で佇んでいたテングが呟く。スランが鼻をすんすんと利かせてみて、首を傾げた。

「匂いなんて何もしないぞ」

「そうじゃないよ。君たちの感覚で言うなら、これはきっと気配だ」

 再びテングが歩き出す。サタルも続きながら、今鼓膜を揺さぶっている細波のように、胸の底が不自然にざわめくのを感じていた。

 これは何だろう。カノンを前にした時の感覚とは違う。胸騒ぎと言うには実感を伴いすぎている。

 道は分かれることがなく、彼らは速やかに進んでいく。誰もがそれとなく足早だった。何があるわけでもないのに、足が勝手に歩を速めた。

 その原因はやがて分かった。剣戟だ。波が寄せる音にまぎれて、何者かの身を削るような熾烈な戦いの音色が聞こえてきていたのである。

 いきなり左手側の視界が開けた。湖だ。地下洞の底に青く輝く湖が広がっている。漆の如き鍾乳洞の天井に、その静謐な煌めきが複雑で朧げな光の波紋を投げかける。その光景は、まるで天と地が逆さまになったようだった。

 湖は当然、挑戦者たちの眼前に架けられた橋も照らす。そしてその先にそびえ立つ、巨大な八手の影も。

「キングヒドラ!」

 目にしたことがあるのだろう。キラナが算盤を構えると全員が得物を構えた。

「待て」

 しかし、フーガが制止をかけた。皆が動きを止める。戦士は対岸にそびえる影を睨んでいる。

「誰かいる」

 橋を渡り切ったそこに、目を凝らすと小さな影が動き回っているのが見えた。輪郭から察するに一人、しかも男である。怪物に比べれば小さいが、その筋骨隆々としたシルエットは間違いなく鍛え抜かれた戦士のものだった。

 サタルは、橋を渡り始めた。仲間達は無言で歩み始めた彼を訝しく思ったようだったが、続いて静かに橋を渡っていく。男とキングヒドラの関係性はまだ分からない。だが両者は戦っているらしい。先程から聞こえていたのは間違いなく男が剣を硬い鱗に叩きつけるものであり、地響きに似た竜の咆哮でもあった。

 彼は音を立てないよう、しかし確実に歩を進めながら、自分の心音を聴いていた。心臓が、やけにうるさいのだ。鍾乳洞が体外で立つ音を吸収しているからだろうか。細波より剣戟より足音より、体内の己の心音が耳についた。それを聴きながら、彼は眼前の影から目が離せなかった。あの影になった男の輪郭に、見覚えがあった。

 影の男は、喰らいつこうと突進してきたキングヒドラの首を避けた。舞うような身のこなしである。その周囲に、精霊文字が二つの円からなる陣を展開する。その閃きを受けて、大ぶりな白刃が瞬いた。

 常人が片手持ちするには難しい、厳つい剣。己が得物に似て、冴えた青を放つ業物。

 サタルはあの剣を見たことがある。家にその絵が掛けてあったのだ。

「僧侶? 見た目はかなり戦士に近いのに」

 アリアが囁く。男の魔法で発動したのは、最上級の真空呪だった。竜巻が八手の竜を襲う。

 ――バギクロスはね、母さんが教えたのよ。あの人ったら、ベホマだけ使えれば十分だって言ったんだけど。一人旅じゃ心配じゃない?

 くすぐったそうな母の声が鼓膜に蘇る。心臓が一つ、大きく脈打った。

 ヒドラの三つの頭が裂け、そこから燃え盛る火炎が迸り出た。獄炎を彷彿とさせるのたうつような炎が、男の身体を舐める。彼の周囲にまた光の円が広がり、その患部を癒した。

 そこへ再び、炎を吐かなかった二つの頭が突き込んでくる。男は避けようとしなかった。代わりに彼は、手にした剣を掲げる。放たれた精霊言語が先程とは異なる紋様を織りなしたのを認めて、サタルは呟いた。

「違う」

 男の召喚に応えたのは、雷だった。火炎より激しい光の奔流が、天から流れ落ち迫って来た頭ごと竜を焼く。

 この闇の大地アレフガルドに生まれついて、雷を操ることができる者はいない。上の世界でも、今では二人を除いていなくなってしまった。

 一人は言うまでもない、自分だ。もう一人は。

 八手を形どった影の中に、五芒星の頂点の如く火焔が宿る。地獄の業火が、再び襲い掛かろうとしていた。そして炎はそこから身を逸らそうとした男の顔を、輪郭を露わにした。

 黒々とした髪と短い顎ひげを蓄えた、壮年を越しているだろう偉丈夫である。煌々と盛る火焔が頑健な体躯、精悍な横顔を照らす。そしてこの闇の大地に不釣合いな、南国の天海を宿した瞳が燃え上がった。

「オルテガさん」

 誰かがその名を口にした。それはテングだったかもしれない。またはフーガではないかという気もする。だがサタルはその時、その声を聞き取れる状況になかった。地獄の五芒星が業火を呼ぶのと同時に、彼は走り出していた。

 燃え盛る火炎が男の全身を覆う。炎渦の中、彼が枯れた喉を絞って回復呪を口にする。しかし輝くかに見えた精霊言語は突如光を失い、男の姿は火炎のうちに掻き消された。

 サタルは走った。彼にはもう、魔力がない。枯渇したのだ。いくら人間離れした英雄でも所詮は人間。火山から落ち芯から傷ついた身体には、もうかつてほどの生命力がないのだ。

 男を飲んだ炎が、轟々と燃える。サタルは走る。この距離では剣はおろか、術さえ届かない。だがそれでも、少年には分かった。

 サタルはあの背中を知っている。否、覚えている。ずっと記憶の片隅に留めてきた、英雄の姿。小さな寝台に横たわる自分を振り返りながら、母に分かってくれと請うた背中。夢ともうつつとも知れないものだったが、それが動く英雄の姿を留めた唯一の記憶だった。

 修業の場にして生活の地から生家に帰る度、二階の廊下に飾られた肖像画を眺めては夢想した。夢に登場する明確に誰とも知れない人物の大きな背中が、その肖像画の人物の表側と縫い合わせになって、いつか我が家に帰って来る時を。それを母や祖父が、嬉し涙で迎える瞬間を。

 幼いと笑われたくないから誰にも言わなかったし、誰かにその場を見られるのは嫌だった。だがサタルは二階に誰もいない時を見計らって、それを何度も繰り返した。まるで幼子が誰にも見つからないようしまいこんだ宝箱を開けて、こっそり覗き込むように。

 橋は、永遠に続くように感じられた。サタルが走っても走っても、対岸の光景に近づけない。

 しかし刹那、火勢が衰えた。男が力を振り絞り、火炎を振り払ったようだった。炯々とした輝きを放つ業物を水平に構えたまま、男は衣服が焼け落ち、おびただしい火傷と傷跡の刻まれた隆々とした体躯を大きく波打たせた。咳き込んだその上体が傾ぐ。

 どう、と英雄は倒れ込んだ。喘ぎながら痙攣するその人間を、五頭の竜は冷酷な眼で見下ろす。

 逃げられるだろうか。サタルは祈るように男を見つめる。せめて少しでも後退してくれれば、自分との距離が縮まる。縮まれば、どうにかできるかもしれない。

 下がってくれ。逃げてくれ。サタルは叫びたかったが、喉が潰れたように声が出なかった。それでも男が震える身体をどうにか起こし立ち上がったのを見て、一瞬光明を垣間見た気がした。

 しかし男は、こちらを向こうとはしなかった。それどころか、そびえ立つ巨大な敵に向かい、よろよろと剣をついて進もうとした。

「オルテガさんッ!」

 誰かの悲鳴が聞こえた。けれどサタルはそれでも、声が出せなかった。だから再びその背中が火焔に飲まれるのを見ても、何も言えなかった。

 彼はただ、見ていた。

 炎に巻き上げられ、ボロ布のように地に叩きつけられる背中を。

 受身も取れず、打ち上げられた魚のように無力に跳ねる背中を。

 最小位の回復呪すら使えず、繰り返し火炎に蹂躙される背中を。

 それでもなお起き上がろうと、歩を進めようと痙攣する背中を。

「……どうして」

 やっと絞り出せた言葉は、声にならなかった。

 どうしてこちらを向いてくれないのか。

 どうして逃げようとしてくれないのか。

 どうして未だなお、進もうとするのか。

 ――父がそもそも魔王討伐の使命を受けたのは、世界に平和を取り戻したいからだった。

 かつて己が発した台詞が、不意に蘇る。

 ――でも、父がどうしてそんなに世界平和に焦がれたか知ってる?

 知っているつもりだった。

 ――だから俺は、確信しちゃうんだよ。

 確信なんてしたくなかった。

 ――父が記憶をなくしてもまだ世界平和を望んでいるのは、

「やめてくれぇッ!」

 悲痛な絶叫が、己のものだとは思えなかった。しかし声は、確かな呪となって現実に働きかけた。

 キングヒドラの五つの首が仰け反った。その暗い鱗が内側から透けるように輝きはじめ、次の瞬間、竜の身体は内側から弾け飛んだ。鱗がバラバラと散り、肉片が重い音を立てて地に落ちた。紅く生臭い霧が噴きだし、細雪に似た粉が降りそそぐ。

「何が起こったの?」

「デインとイオの原理を応用したんだ。爆発を発生させる要領で、身体の中に直接雷を発生させた」

 仲間達が遠くで話しているのが聞こえる。竜の残骸が雨のように降りしきる中、サタルは倒れ伏す男のもとへと駆け寄る。身体を仰向けて呼びかけようとし、ひっ、と短い悲鳴を漏らした。

  男の顔は焼け爛れ皮膚が蝋のように溶け、原型を失っていた。瞼は流れ落ち頬骨に張り付き、目があったはずの場所が落ちくぼんでしまっている。耳も鼻も唇もどこかへ流れてしまった。出来損なったばかりに燃やされてしまった木偶人形のような――しかしむせ返るほどの血と蒸発しつつある油の匂いを、赤銅に爛れた肌から発している――その正視しがたい肉体を、サタルは見つめずにはいられなかった。

 遅れてきた仲間達が彼らを取り囲む。男の惨状を見て戦士は呻き、盗賊は俯き、商人は絶句した。

「サタル、回復を!」

 言葉を失った少年に、女賢者が呼びかける。しかし彼が父の肩を抱えたまま動こうとしないので、業を煮やしてしゃがみ込み手ずから回復呪を詠唱した。けれども男の身体は、癒しの輝きをもってしても癒える兆しを見せなかった。

「どうして、何で効かないの!?」

「無理よ」

 顔を歪める少女の肩を魔女が抱き、首を横に振った。その金の双眸に、これまで見たことのない畏敬と哀悼の意を見て取った少女は、縋るようにもう一人の賢者を仰いだ。道化師の体をした男賢者は、嘆息した。

「もう、蘇生や回復ができるほどの生命力が残っていないんだ」

 彼女の顔に、絶望が影を落とした。

 サタルは無言で、抱えた男を見下ろしている。その白皙の美貌からは、何の表情も窺えない。青く澄んだ瞳に、醜く爛れた男を映しているだけである。

 男は、まだ右手に剣を握っていた。だからサタルは彼の空いている左手を握る。すると何か感じ取ったのか、男はただの穴のようになってしまった口を開けた。

「だ、誰かそこにいるのか……?」

 しゃがれた低い声が漏れた。それはあまりに弱々しい声だったが、場の空気を確かに打った。生きている全員が、息を殺して彼の言葉に聞き入っていた。

「私にはもう何も見えぬ……何も聞こえぬ……」

 フーガは黙ったままの少年を窺う。男の手を握り締める手が、震えている。

「も、もし誰かいるのならどうか伝えてほしい。私はアリアハンのオルテガ。今全てを思い出した」

 彼はその故郷の空と海に似た双眸を瞠った。だが声を発することをせず、男の震える口唇を凝視している。

「も、もしそなたがアリアハンへ行くことがあったなら……。その国に住むサタルを訪ね、オルテガがこう言っていたと伝えてくれ」

 人形のようだった少年の唇は、今や明らかにわなないていた。しかし見上げる男がそれに気付くことはなく、絶え入りそうな声を振り絞った。

「平和な世にできなかったこの父を許してくれ……と、な」

「もう、いい」

 サタルはやっと、震える声で囁いた。父の手を己が胸に当て、微かに、けれど幾度も首を横に振る。

「もういいんだ。いいんだよ。いいんだ。俺はもう、大丈夫だから」

 父さん、と。サタルは初めて男をそう呼んだ。

 その声は、決して届かなかっただろう。しかしいまわの際に何を感じ取ったか、男は口元を綻ばせた。そしてその微笑みは、彼の唇から漏れた最期の吐息とともに、儚く霧散していった。

 しばらくその場に、動く者はなかった。何処からか、ささやかに流れ込むせせらぎの音が響く。雫が湖に落ち小さく波紋が広がると、空気が僅かに動く。だがそれさえ、今の彼らには音として認識されていなかった。彼らは眼前に訪れた永遠の沈黙に、飲み込まれてしまっていた。

 ややあって、最初に動いたのはサタルだった。彼は父の亡骸を抱え、壁に向かっていく。壁際に膝をつき一度父を下ろし、袋から携帯式の棺桶を取り出す。それを組み立てて床に置くと、その中に父を横たえた。

 無残な装備しか身につけられていない彼の装束を整え、両手を組ませて剣を握らせる。そして旅人の葬儀の伝統にならってキメラの翼を供え、亡骸に聖水を振りかけ、棺桶の蓋を閉じた。その上からさらにもう一度、聖水をふりかける。

「本当ならばすぐにでもアリアハンに連れて行きたいんだけど、今はこれで勘弁してもらうしかないな」

 サタルは父を納めた棺桶を一瞥し、背を向けた。自分を見つめる仲間達へ視線を返し、微笑みを浮かべる。秀麗な顔立ちに似合う、常より控えめな笑みである。

「行こう。大丈夫かな?」

「サタル」

 先へ進もうとする少年の背に、フーガが声をかける。何、と平生と変わらぬ声が返って来た。

「戻らなくていいのか」

 サタルは短く笑い声を上げた。

「失った人は、どんなに時間が経っても帰って来ないから」

 それよりこれ以上、もう遅かったなんて言いたくない。

 静かに告げて、勇者は再び歩き始めた。戦士達はもう何も言わず、その背に従った。

 

 

 

 

 

 階段を一つ降りると、空気が変わるのが分かった。

 正面に真直ぐ伸びた道が、暗闇に呑まれていた。左右は電流の床で囲われており、他に進む道はない。

 

 おおぉん……

 おおぉん……

 

 耳鳴りがする。胃の腑に響くこの音は、大地の鳴動だろうか。しかし、揺れは感じない。サタルは耳を済ませる。獣の唸り声のような、恨めし気なこの音は。

「風の音かしら」

「でも、どこから?」

 アリアとスランが辺りを見回している。

 違う。これは、闇の鳴動だ。サタルには、今なら分かる。闇が泣いている。誰からも忌み嫌われ正視されないもの達が、その姿形すら暗黒に葬られて認めてもらえないまま、いずれ忘れ去られてしまうだろうと泣いている。

「あれが、闇の祭壇よ」

 キラナが指さした。皆の視線が正面一点へ向かう。即ちこの道の終着点、闇へと上っていく階段へと。

「カノンはどこに? それにゾーマは」

「きっとこの先に」

「いや」

 キラナの言葉を遮り、サタルは祭壇へと歩み寄る。己の背丈よりずっと高い祭壇、その壁面の装飾に、背後で賢者が小さな悲鳴を上げた。凝灰の壁は、死体で埋め尽くされていた。人間、エルフ、ホビット、伝説上の生物たち、そして魔物。様々な種族の、様々な齢の者達が、壁面に埋め込まれて死んでいた。その身体からは蛆が湧き苔が生し、草や木が生え、その土塊と化しつつある身体を蛇のごとく蔦が這っている。

「死を……」

 スランがどこか茫洋として呟く。サタルは頷き、思う。分かっている。自分はいつだって、忘れたことはなかった。そうしてきたつもりだ。

 階段に足をかける。死者の山をのぼっていく。泣き声が一段と高くなる。

 その頂に着き、サタルは正面を見据える。揃えたブーツの音が木霊した。

 祭壇の向こうは、見渡す限りの闇だった。目を凝らしても凝らしても、何の輪郭も見て取れない漆黒である。

「ゾーマはここにいる」

 サタルがそう告げるのを、待っていたかのようだった。

 暗闇に六つ、祭壇を囲うように火が灯る。暗がりが薄れ、祭壇の下十二字に続く一本道と、周囲を満たす水の境界が明らかになる。左右対称に位置した巨像がこちらを見つめている。

 薄れかけていた暗がりが、するすると祭壇の前に密集した。漆黒にぎょろりと三つ目が浮かぶ。次いでそれを結び付けるように、魔族が姿を現した。紺鼠の肌、大きな襟、橙のたっぷりしたローブ。

「サタルよ、我が生贄の祭壇によくぞ来た」

 漆黒の主、ゾーマが口を開いた。声は四方から響いてくる。さして声を張っている風でもないのに、心臓を打ち破られるような威圧を感じた。

 サタルは己が胸の辺りを掴む。ゾーマの出現した時から、心臓がまるでサタルとは別の意思を持つもののごとく、独りでに熱く脈打ち始めていた。灼熱の血潮が全身を巡る。目の裏を激しい稲妻が駆け、まるでそうするのが当然とばかりに叫ぶ。

 ――殺せ! 殺せ! 殺せ!

「お初にお目にかかりますね、ゾーマさん? わざわざお出迎えどうも」

 しかしサタルはそれを顔にはおくびも出さず、慇懃な礼をした。

「俺がサタル・ジャスティヌスです。ご存じかな?」

「無論だ。貴様のことは、我が花嫁の中から見ていたからな」

 勇者が眉を跳ね上げる。ゾーマは満足そうに頷いた。

「我が花嫁は、なかなかいい闇の衣でな。おかげであの太陽神の光も痛くならなんだ」

「カノンはどこだ」

「奥で、着々とわしを受け入れる支度を整えている。もう間もなく、きっと」

 だがそんなことは、貴様にはどうでもよかろう。ゾーマは三つ目を眇め、サタルを見下ろした。

「我こそは全てを滅ぼす者。全ての生命を我が生贄とし、絶望で世界を覆い尽くしてやろう」

 闇の化身は、その両腕を広げた。

「サタルよ、我が生贄となれい!」

 朗々たる声が、闇の祭壇を震撼させた。あたりに湛えられた水に波紋が広がり、部屋の隅に残る暗黒にさえ伝わる。

 空間が身を震わせている。怯えではなく、久々に祭壇に捧げられる生血に歓ぶかのように。

「出でよ我が下僕たち! こやつらを滅ぼし、その苦しみをわしに捧げよ!」

 ゾーマの姿を形どっていた闇が渦巻き収縮し、中心から一つの影が踊り出た。ゾーマのものにも似たローブを纏う魔族のようだ。面を上げたそれを見て、フーガとアリアが身構えた。

「バラモス!?」

「ですが、何か様子が」

 トカゲ頭の魔人は、金属じみた眼を生贄たちへ向ける。

「我が名はバラモスブロス。誇り高きバラモスの弟」

 かつて対峙した魔王によく似た魔族は、そう名乗った。

「主は汝らの苦しみをお望みだ。速やかに捧げよ」

「苦しいのはやだなあ」

 サタルは口元を笑み崩しながら、祭壇からその先へ伸びる道までの経路を目視する。両サイドの階段を下りて、祭壇を回り込む形で進めばいいらしい。

 ただ眼前には、この怪人がいる。祭壇に降り立ちしこの邪魔者は、そう易々と行かせてくれるだろうか。

 カノンのもとへ一刻も早く向かうには、急がなければ。 サタルの双眸が不思議な輝きを帯び始める。

 が、その瞳孔で一筆に五芒星が完成しようというところで、眼前に氷山が聳え立った。

「よしなよ、ゆーちゃん。下手に張り切ると大事な時に戦えなくなっちゃうよ?」

 テングだった。彼はサタルの肩にふくよかな手をポンと置くと、その前に立った。

「ここは僕に任せて。ゆーちゃんは先に行って」

「でも、一人じゃあ」

「さっきの雑魚とは違って、そう簡単には燃えそうにないわね」

 サタルは驚いて反対側を向いた。後ろから進み出てきたルネが、ヒールを鳴らせてテングの隣に立った。

「薪を作るのは大好きよ。私が良い薪にしてあげましょう」

 まさか真っ先に受けて立つとは思わなかった異色の魔術師コンビに、一同は唖然とする。テングがこちらを振り返って急かした。

「早く。バラモスブロスが出てきちゃう」

 氷山に、ぴしりとヒビが走った。サタルは意を決して走り出した。後にキラナが続き、スラン、アリア、殿にフーガがつく。

「行かさんぞッ」

 フーガが祭壇から降り切ったところで、氷山が砕け散りバラモスブロスがサタル達に向けて飛びかかる。その尖った口、長い舌先から激しい火炎が巻き起こった。ルネが最上級火炎呪で相殺する。テングが最上級火球呪を詠唱し、寸分たがわず魔族に的中させる。

 しかし、ブロスはとどまらなかった。魔人の強靭な爪が、最後尾につく戦士の広い背中を狙う。

「フーガっ」

 テングが叫ぶ。アリアが悲鳴のような声で早詠みの陣を展開する。振り返りながら雷神の剣を抜こうとしたフーガが、その予想外に目前へと迫っていたトカゲ頭に瞠目する。

 ――速い。

 間に合わない。誰もがそう思った。

「伏せてッ!」

 鋭い一声が、硬直した空気を砕いた。咄嗟に賢者が戦士に体当たりする。戦士の兜の残像を閃光が突き抜け、ブロスの眉間に刺さった。

 怪人が仰け反り、額に突き立ったものが燈明に煌めいた。剃刀に似た投げナイフだ。

 事態を把握しようと上体を起こしかけたアリアを、今度はフーガが片手で地に伏せさせる。刹那、その頭上を白い旋風が吹き抜けた。

「せいっ!」

 スランの飛び蹴りがブロスの顎に命中した。祭壇に叩きつけられる魔人の身体。そこへテングとルネが、容赦なく集中砲火を浴びせる。

「行って下さい。あのくらいじゃまだまだ死なねえ」

 身体を起こした戦士と賢者をちらりと見遣り、スランは背を向けて告げた。

「俺も残ります」

「スラン」

「あの二人は魔法なら人間離れしてるけど、肉弾戦は得意じゃないだろ」

 前方にて沸く戦火で朱と影を帯びた白髪は、振り返ろうとしない。細身な背中は、はっきり言って戦場に似合わない。

 それは先に出会ったサタルよりも、彼を雇ってから日夜行動を共にしている商人の方が承知していた。キラナはスランの背中に詰め寄る。

「でも、アンタだって」

「得意じゃねえよ」

「ならやっぱり、私の方が」

 けど、とスランは腰の業物を解いた。するりと三又の鞭が地に放たれる。

「けど、スピードならアイツに負けねえ」

 スランは振り返らない。その口調は自信満々と言うより、強く自身に言い聞かせているようだ。

 サタルは彼の右手に握られた得物を見つめる。と、その反対の手に握り締められたアサシンダガーが、小刻みに震えていることに気づいた。

「フーガさんはこの先、絶対必要だ。お前は」

 白髪が振り向く。左手が死角に隠れた。やっとこちらを向いた優美な顔立ちは、少々強張ってはいるものの、れっきとした笑顔だった。

「行けよ。たった一人の妹なんだろ?」

 とん、と。

 長く細い指先が、キラナの肩を押した。

「スランッ」

 相棒の声に、スランはもう応えなかった。風に煽られそうな背中が、揺らぐことなく爆発相次ぐ戦場に向けて突き進んでいく。

 フーガがキラナの肩に手を置いた。

「アイツに任せよう。テングもルネもついてるんだから、大丈夫だ」

 キラナの目はそれでも躊躇いがちに戦士と盗賊の方とを行き来したが、すぐに戦士の方を見上げて頷いた。サタル達はまた、先の見えぬ長い一本道を走り出す。

 しかし、ややあって殿から二番目を走っている商人が身体を捩じり叫んだ。

「発掘!」

 サタルも背後を見る。魔女の炎からいつ敵が出てくるかと身構えるスランが、ふとこちらへ丸くした緑眼を向けている。

「放り出したら、アンタの宝物全部売っ払ってやるから!」

 その台詞が届いたのだろうか。盗賊は、はたして首を激しく横に振った。冗談じゃないと言いたげだ。

 キラナは声を上げて笑った。そして再び前を向く。その双眸に、もう迷いの色はなかった。

 

 

 

 もう長いこと、この道を走っている。単純な一本道だ。階段もなければ曲がることもない。罠だって、皆無だった。

 だから、無意識のうちに油断していたのかもしれない。

 どこからか、それまでに聞こえなかったかしゃりという音が聞こえた。その出所を認めようとして上を向いたサタルは、ぎょっとした。視野に収まりきらないほどの鳥類のごとき骸骨が、頭上から降って来ていた。

「散れッ」

 戦士の指示が聞こえた。サタルは前方へ飛び込んだ。直後、一本道が大きくたわんだ。敷き詰められた煉瓦が四散し、水飛沫が天を刺す。

 サタルは頭部を庇っていた両腕を退け今来た道を窺い、息を飲んだ。

 崩れた瓦礫が壁となって、来た道を塞いでしまっていた。

「久しいな」

 その壁の向こうから、ゆらりと巨大な骸骨が覗く。野太くのっぺりとして地の底から響くようではあるが、聞き覚えのある声だ。サタルはしばし逡巡して、思い当たった。

「お前は、バラモス?」

「いかにも」

 奈落に似た眼窩にぽうと仄かな灯火が宿り、バラモスゾンビは乾いた口蓋を揺らしてかしゃかしゃと嗤った。

「我が名はバラモス。貴様らに仇なすため、黄泉の国から舞い戻った」

 サタルは右手に魔力を込めた。しかし、バラモスゾンビはサタルから視線を逸らした。

「おっと、貴様には用はない」

 竜に似た頭蓋が、完全に反対側を向く。サタルは手に込めた力を持て余したまま、その後姿を仰視する。

「貴様を血祭りにあげてそのはらわたを食いちぎってやりたいところだが、貴様にはゾーマ様から格別の賜り物がある。先に行くことを許そう」

「サタル!」

 壁の向こうから、キラナの高い声が響いた。

「行っちゃダメ。ゾーマはサタル一人を殺そうとしてるんだよ!」

「行かないで!」

「待ってろ」

 必死なアリア、フーガの声も聞こえる。

「どうにかこの瓦礫を崩して――」

「分かっているだろうが」

 バラモスの頭蓋に空く窪んだ右の穴が、こちらを窺う。

「貴様の得意な魔法でこれを崩そうとしたら、貴様の同胞も粉微塵になるぞ」

 ああ、分かっている。サタルは内心歯噛みした。下手に魔法を使えば、フーガ達が巻き添えを喰らってしまう。かと言って精緻なコントロールのもとこの壁を崩そうとすれば、膨大な魔力を消費してこの先進めなくなるかもしれない。

「サタル、行くなッ」

「お願いサタル、返事をして!」

「頼むッ!」

 サタルは腹の底から声を張った。仲間達は沈黙した。バラモスは、ゾーマの言いつけなのかこちらを嘲り侮っているのか、まだ襲い掛かろうとしない。

「行かせてくれ」

 サタルは懇願する。

「カノンにはもう、時間がないんだ」

 壁の向こうは、まだ黙している。やがて、キラナの震える吐息が聞こえた。

「ごめんサタル。やっぱり、行って」

 キラナ、とアリアが非難するような声を上げる。しかしそれを掻き消そうとするかのように、お転婆な少女の大声が木霊する。

「でも! あの子を幸せにしてって言ったけど! 代わりにアンタが不幸せになるような真似したら許さないからね!」

「ダメよ! そんな、ダメよッ」

「アリア」

 サタルは次に、賢者を呼んだ。彼女の叫び声がぴたりと止んだ。けれど、少女のものらしき荒い息遣いが聞こえる。

「約束させてくれたよね? みんなで一緒に帰ろうって。一緒に帰って、みんなで楽しく暮らせる場所を探そうって。あれ、俺すごく嬉しかった」

 声を張りながらも、精一杯優しく語り掛ける。

「それをできる限り叶えたいんだ。カノンを、迎えに行かせてくれないか?」

「で、でも……」

「信じてくれ」

 今度こそ、アリアは黙った。その代わりしゃくり上げる音が耳に届き、サタルは嘆息する。やはり泣かせてしまった。

 それでも最後に残った一人の名を呼ぼうとした。

「信じるっていうのは裏切られてもいいことだとは言ったが」

 しかしその前にその声が聞こえて、サタルは雷に打たれたように立ち尽くした。戦士の声は平生通りだったが、どこか抑え込んだような響きがあった。

「これは、裏切ったらただじゃおかねえからな」

 ただじゃおかないとしか言わないところが、彼の優しいところだ。サタルは微笑んだ。

「分かってる」

「後から必ず、追っていく」

「うん」

 サタルは今度こそ、踵を返した。そして行く手に伸びる果ての見えない一本道を、疾走った。

 

 

 

 

 

 

 景色は依然として変わらない。一面に張られた水鏡は、等間隔に列を組むよう並べられた燈明も、その朧げな灯を絶え入らせんばかりに重くのしかかる闇も、すべて等しく映し出す。しかしその中央に走っている真直ぐな道の行先だけは、行く手に暗澹と横たわる冥闇に阻まれて知ることができないようだった。

 しかしその道をひた走るサタルは、そんなことなど気にもかけなかった。寧ろこの自分の通る足下に敷かれた青い煉瓦造りの真直ぐさ、その脇を祭典の参加者のように囲う二列の燈明の配置から、まるで結婚式におけるヴァージンロードを走っているようだなどと考えていた。

 だとしたら、随分と辛気臭い式である。まるで晴れの場の主役である花嫁自身が悲しみに沈んでいるようだ。そんな式ならば、ヴァージンロードを第三者が走るような不作法だって許されてもいいだろう。神の祝福は幸せな笑顔を浮かべた二人にこそ授けられるべきだ。それは通る絨毯の色が赤でも青でも、纏うタキシードやドレスの色が何であっても変わりない。

 サタルは、先見えぬ闇を見つめ続ける。ふと行く手に白い影が浮き上がった。

 走りながら目を凝らす。白い影はカノンの形をしていた。あの、最後に彼女を目にした日、追いながら見かけたものと同じである。モノクロのカノンは色褪せた写真の中の人物がそうするように、行き場のない眼差しをぼんやりと彼方に投げかけている。

 思い出の残滓だ。サタルは再び、その影に手を伸ばした。

 

 

 

 「私」が生まれて初めて認識した色は、きっと黒だったのだろうと思っている。

 何故なら「私」たちが取り上げられた教会の天井は黒だったし、壁だって黒かったからだ。さらに「私」たちの死んだ母の髪も黒かったのだと言うし、この集落の人々が着る服もそろって黒ければ集落を囲む森の木々も黒く、その頭上にある色――頭上に広がるこの空間を大人たちは「空」だと言ったが、「私」には天井の高い建物の暗がりと同じようにしか思えず、分けて呼ぶ必要を感じられなかった――も黒だ。

 そして「私」自身、髪も目も真っ黒だ。だからきっと、生まれて初めて認識した色も黒だったのだろう。

「空はね、青いらしいよ」

 「私」の片割れはそう言った。

 「私」たちは集落を見下ろせる小高い丘の上で、横に並んで座り込み話をするのが習慣だった。本当は大人に黙ってあまり遠くへ行ってはいけないのだが、「私」たちは集落内でも特別な存在で、嘆きの女神の寵児やら生まれ変わりなどと呼ばれていたので、どこに行っても人の目にさらされ息苦しかった。それで、こうしてよく抜け出していた。

 「私」は片割れの顔を見る。彼女は「私」と瓜二つらしいのだが、そう思えたことはない。同じ黒い瞳でも彼女には「私」にない利発な輝きがあり、口元だって常に勝気ながら愛らしい笑みを浮かべているような形をしている。愚鈍で表情さえまともに作れない「私」とは大違いだ。

「空って黒なんじゃないの?」

「違うよ、本当は青いんだって」

 片割れは手にした本を私に見せた。顔すら見たこともなければ実在さえあやしい父の持ち物だったというその本には、絵が載っていた。今「私」たちがいるような丘の上に人が立っていて、その背景は教会の絨毯に似ているけどどこか違う、奇妙な色で塗り潰されている。

「時計の針が進むと、赤くなったりピンクになったりするんだって」

「え、本当は青なんじゃないの?」

「変わるんだよ。青から白っぽくなって黄色になって、オレンジ、ピンク、赤、紫、紺って風に変わって、しばらくするとまた白っぽくなって青くなるらしいよ」

「へえ」

 すごいね、と「私」は言った。何だかよく分からないが、天井の色が勝手に変わるというのは生半可なことではないと思った。

「じゃあ、この空もそのうち青くなるの?」

「ならないよ。ゾーマさまが真っ黒くしたから」

 「私」たちはそろって空を見上げる。頭上の黒い吹き溜まりは無表情で、こちらを見ているのかどうかも分からなかった。

「何で真っ黒くしちゃったの?」

「空は色が変わらなくてもいいからだって」

 もったいないよね、と片割れは呟いた。けれど、私はそれに相槌を打てなかった。どんな形であれ、その闇の精霊の行動を批判することは禁じられていたのである。

「でも、生き物がみんな死んだら色が変わるようになるんだって」

 「私」は首を傾げる。死については何度も耳にしたことがあったが、未だにどういうことは分からなかった。

「しぬってどういうこと?」

「動かなくなることだよ。身体が動かなくなるの」

「動かないって、目も?」

「うん」

「口も?」

「うん」

「じゃあ、お話しできないの?」

「お話しできないし、歩いたり食べたりもできない。身体から魂が離れて、神様のお膝元に行くんだって」

「それは、みんな一緒に?」

「ううん。バラバラ。神様のお声がかかった順番に」

 片割れはこちらを見ず、集落を見下ろしたまま淡々と語る。その答えが一つ返ってくる度に、「私」の目の前が黒い布で次々と覆われていくような気がした。

「私もカノンも生き物だから、きっとそうなるんだよ。生きてるものはね、木も花も鳥も魚も動物も人間も、みんなみんないつか」

 と、そこで片割れはこちらを見て目を開いたらしい。「私」の視界では彼女がぼやけてしまっていて、はっきりした輪郭が分からなくなっていた。

「いやだよぅ。あたし、キラナと離れたくないよぅ……」

「バカ、何泣きそうになってるのっ。ちゃんと最後まで話聞いてよ」

 「私」の頬をこぼれていくぽろぽろとしたものを、キラナは慌てて出したハンカチでぬぐう。

 キラナは普段「私」をとろくさいと言うけれど、こういう時は姉らしく優しくしてくれる。

「でも、『楽園』を完成させればみんな一緒にいられるんだって」

「らくえん?」

「神さまをこの世界に呼ぶの。そうしたら死んでも神さまがこの世界にいるんだから、ずっと一緒にいられるでしょ?」

 楽園、ともう一度「私」は唱えた。

 大好きな人と離れなくていい場所。ずっと一緒にいられる場所。

 それは、素敵な場所だろうと思った。

「いいね。きっと、楽しいね」

「うん。だから私たちも早く大きくなって、お務めを頑張らなくちゃなのよ」

 「私」は何度も大きく首を縦に振る。シスターは常々、「私」たちは特に女神の愛し子だからお務めを頑張らなくてはいけないと言っていた。それは、好きな人と離れないでいられるようにするためだったのだ。

 キラナは「私」が泣き止んだのを見ると、ほっとしたようだった。それからおもむろに立ち上がり、こちらに手を差し伸べた。

「じゃ、もうシスターのところに行こう?」

「あ、待って」

 「私」は姉の手を取らずに立ち上がり、背後の森に目を凝らす。森が風とは違った音でざわめいている気がしたのだ。

 ややあって、木々の隙間から一対の赤が現れた。ずしん、ずしん、と重く足音を響かせてやって来たのは、ドラゴンである。黒い木々から抜け出てきた彼女を見て、「私」はバスケットを担ぎ上げて駆け寄った。

「やっぱり来たんだね! 赤ちゃんが生まれたから、柔らかいお肉が欲しいんでしょ?」

 ドラゴンは瞬きをして目を細め、猫がするように喉を鳴らした。「私」はバスケットをその口に渡してやる。中には、柔らかな鹿肉がたっぷり詰まっている。

「アンタ、本当に魔物に好かれるよね。怖くないの?」

「うん」

 キラナの声に、「私」は頷く。母ドラゴンが首を低くして「私」の頭を小突く。くすぐったくて、「私」はくすくす笑った。

「だって、みんな優しいもの」

 

 

 

 サタルは我に返った。風景は小高い丘ではなく、ゾーマ城の地下に変わっている。

 やはり自分は、カノンと呼ばれる少女として記憶を見ていた。そしてあの丘で隣に座って会話していた賢しげな少女はキラナだ。髪の色こそ漆黒だが、間違いない。

 今見た記憶の中の彼女は、以前見た時より幼かった。使者団のやり方にまだ反発している様子も見られなかったように思う。

 しかし、何故残留思念がまた残っていたのだろう。

 思案するサタルの前方に、また白い影が立ちふさがる。先程とまったく同じ姿のカノンである。彼はもう一度、その記憶に触れた。

 

 

 

 「私」は愕然と立ち尽くしていた。ドラゴンは火焔を彷彿とさせる口を開き、歯茎を剥き出して威嚇する。しかしその真紅の台座に収められ、かつて気高く白い輝きを放っていた牙は、最奥の数本を残して無くなっていた。牙があったはずの箇所から点々と血が湧き、顎から滴り落ちている。それだけではない。「私」がかつて柘榴石のようで綺麗だと思っていた目玉の一つが、ない。黒い眼窩が空いているだけだ。黄金虫の羽根のごとき鱗はごっそり剥かれ、朱の滲んで棘だった肌が痛々しい。

 骨も見えている。ボロ布のようになった翼が退いて、隠れていた背中が露わになった。あったはずの肉がない。背骨が丸ごと露わになっていた。

「ルビスの子らが巣を襲ったそうな」

「ドラゴン狩りの連中だ」

「むごいことを。これじゃあもう召されるより他はあるまい」

 一族の皆が遠巻きに「私」を、「私」の前に倒れ伏すものを囲んで、ひそひそと囁き合っている。

「なんでカノンにやらせるの! あの子と一番仲が良かったのよ! 何で!」

 キラナが喚いている。彼女を抑えつける大人たちが、口々に叱りつける。けれど「私」の耳には、それは明確な意味となって届かなかった。

「カノン」

 シスターが進み出た。彼女の血の通っていないような美貌は、仮面のように動かない。

「そのドラゴンを殺しなさい。その怪我ではあと三日も保たぬ命です」

 本当に治らないの? 「私」は尋ねた。

「治りません」

 死んだら、みんな楽園に行けるんですよね? 「私」はまた尋ねる。

「ええ。先に楽園に行った方が、彼女のためです」

 シスターは頷いた。

 「私」はドラゴンに向き直った。変わり果てた彼女が無くした牙を剥く。血生臭く熱い風が、「私」の全身に吹き付ける。

 「私」が分からないのではない。離された子供たちを求めているのだ。竜の矜持だる鱗を奪われ牙を抜かれ尾も落とされ肉を削ぎ取られても、なおこの雌ドラゴンは、腹の下に隠した子供たちを庇うことをやめなかったのだ。そして、己の心臓に狩人の剣が届きそうになった時、初めて子供たちを抱え飛び立った――

 きゃう、きゃう。

 母を求める仔竜たちの声が、鼓膜に刺さった。子供たちは今、一族の者が保護している。身の危険はない。だが幼い子供たちとしては一瞬でも母から離れたくなく、その存在を求め呼ぶのは当然であり、それがより一層、母ドラゴンの闘争本能を駆り立てることになる。子は我こそが守るという矜持が、彼女の生命力を限界まで引き出しているのだ。

 しかしそれでも、日夜治癒の術を学んで長くなってきたから分かる。そうではない素人目にだって明らかだろう。シスターの言う通り、この傷はもう治らない。生きているのが不思議なくらいだ。

 けど。だけど。

 「私」は右手に括り付けた鉤爪を握りしめた。皆が、「私」を見ている。

「あなたの子供たちは」

 口を開く。思いの外、平静な声が出た。

「あたしたちがちゃんと世話するから」

 すると、竜は威嚇をやめた。残った左目で「私」をじいと見つめ、首を伏せて翼の付け根を曝け出す。「私」は息が止まった。

 翼の付け根はドラゴンにとって一番の弱所、心臓に直通する箇所だった。

 膝を何かが叩いている。見下ろすと勝手に震え出した私の拳が、その先に付けた爪がカタカタと膝を打っているのだった。

 ――カノン。

 誰かが呼んだ。キラナだったのかシスターだったのか、あるいは他の誰かだったのかもしれない。しかし「私」はただその音に固まっていた身体が跳ねあがり、その勢いで我を忘れ竜に向けて突進した。

 気付いた時には、「私」は竜の背に伏していた。

 「私」の身体を、湧き出した竜の真紅の血がしとどに濡らしている。

 ねえ。

 眼下の身体を揺さぶる。「私」が語りかけると、必ず長い首を伸ばして答えてくれたドラゴン。竜の名前は発音が難しく、そう気軽に口にしていいものではないからそんな風にしか呼べなかった。仮の名前を付けたって良かったのだが、何故か「私」はつけなかった。

それは、暗にこの時が来るのを知っていたからかもしれない。ドラゴンは、呼びかけてももう首を伸ばしてはくれなかった。

 風が吹きぬける。生臭い匂いはしなかった。代わりに、胸がひどく冷えていた。洞が空いたようだ。仔竜たちの慟哭が、胸の洞に木霊する。

 「私」は己の乗るドラゴンの姿を眺め、目を瞠った。傷ついた竜の全身から白く煌めく靄が漂い出でて、風に吹かれ失せようとしていた。

「あ――」

 靄に手を伸ばし、凍りついた。視界に大きく映り込んだ鉤爪の刃と掌。そのどちらも、さらには腕さえ真紅に染まっている。

 「私」はこの時、唐突に悟った。今漂っていったアレは、この世を去りゆく母ドラゴンの生命だったのではないか。

「ごめんね。ごめんね、ごめんね」

 「私」は未だ血の止まらない傷に突っ伏して、泣きじゃくった。

「あたしがすぐに、また子供たちと過ごせるようにしてあげるから」

 切れ切れにそう誓って、また泣いた。頬を濡らすのが血なのか己の涙なのかすら、分からなくなるほどに。 

 

 

 

 ちょっと指に力を込めてやれば、ごきゅりという軽い振動だけを残して首が曲がった。

 どこの誰とも知れぬ男は、そうして寝息を止めた。身なりから察するに、ラダトームの上流階級だろう。こうして息を止められるその瞬間まで、己の生を過信して眠ったまま逝けるなんて羨ましい。

 「私」は男の四十五度ほど曲がった首を元通りに直してやり、掛け布団を肩までかけてやる。そうすると、まるで本当に眠っているように見えた。

 ドラゴンを殺してから、務めに本格的に励むようになった。最初は難病や飢えに侵され、もう生きる見込みのない人間や魔物を手にかけた。次第に健常体を標的にするようになり、近頃では忍び込むのが難しい場所に入り込むよう、教会から命じられることが多くなってきていた。

 その理由も、もう幼くないから分かっている。使者団は昔、長い時をかけてゾーマを味方につけ、ルビスと戦い勝利を収めた。しかしその代償は大きく、かつて十万を超すほどいたと言われる彼らの同胞は、現在既に五十人を切っていた。

 一族は急ぐ必要があった。だから敵勢の力ある者を削っていくよう、まだゾーマの器に必要な刻印も施されていない「私」に命じているのだ。本来ならば刻印を施してから九百九十九の血を浴びるのだが、「私」には不必要な手順なのらしい。それは闇の神々の格別な加護があるからだと言う。

 もちろん、「私」に自身が特別だと言う感覚はない。命を奪う行為に恐怖しなくなるのも、回数を重ねれば誰だってそうなるものである。夕飯のために鶏を縊り殺すのに似て呆気なく、そして後味の悪いものに変わりはないが、慣れと言うのはこういうことにも生じるのだ。

 そんなことは、どうでもいい。

「本当に、死んだら楽園に行けるのかな」

 「私」は独りごちた。

 分からない。本当に死は、楽園への入り口なのだろうか?

 まずそんな良い場所が死後にあるのならば、何故魂は肉の身体を持って生まれてくるのだろう。どうしてわざわざ苦しみを味わうのだ? そうしなければ、常世の楽園にはいけないものなのか?

 否。どんな生物であれ生まれ出づる前に、神の手によって生み出されるのだから、そもそもは楽園にいたはずだ。

 何故「私」たちは、この世に生まれ落ちた?

 どうして、この全き世界から移ろう世界に落とされた?

 修業? 欠けるということを知るため? 

 そもそも死の先には楽園があると言うのに、何故生物は死を厭うのか。

「私」は立ち上がった。答えは出ないが、別室で眠っている今殺した男の家族も、速やかに屠ってやった方がいいだろう。

 遺された者の苦痛ほど、手の施しようのないものはない。

 

 

 

 

「カノン、最近大丈夫?」

 任務先が遠かったから、任務地の近くにある宿場に泊まった。今回の任務に同行するキラナが、「私」の顔を覗き込んでは何度も心配そうに尋ねる。

 彼女と会うのは数カ月ぶりだった。互いに務めで忙しくて、顔を見る事すら叶わなかったのだ。

 しかし噂で、彼女は相も変わらずの勝気さを発揮していると聞いていた。使者団の思想に反発が目立つようになり、理不尽な殺しが絡む任務は全て蹴るようになった。さらにそういった任務ならば他人のものでも、妨害するようになったという。

 そしてそのあまりの反発ぶりに、教会が彼女の処遇について考え始めていることも、「私」は知っていた。

 キラナ曰く、「私」の顔色は優れないらしい。だからなのか、劇場に連れて来られた。評判の高いと言う劇場は王都のような賑わいで、ちょうどやって来たばかりだという旅芸人の一座が、曲芸を披露している。仄かな橙色の炎で包まれた会場は、集う人々の顔も明るくさせていた。

 キラナは芸を眺め笑いながら、「私」に柑橘のジュースを勧めパンを勧め、面白いね、美味しいねとしきりに話しかけてきた。「私」はただ目を丸くすることしかできなかった。曲芸師などというものを見るのが初めてならば、このような場所に来たのも初めてだった。

 やがて芸の披露が終わる。キラナは満足そうに拍手をしている。その横顔に、「私」は最近見聞きした彼女についての噂を打ち明けた。

「ほっとけばいいよ、そんなの」

 けれど、彼女はそう言って小蠅を払うように手を振った。

「処罰したいならすればいいじゃない。できれば追放してくれるならありがたいけど、私も残念ながら結構深入りしちゃってるから、そうはいかないよね」

「ねえ、キラナ」

 なに、と姉は周囲に目を配りながら答えた。使者団は女神の寵児である「私」たちを見張ることはしない。しかし、警戒するに越したことはない。

「楽園って本当にあるのかな。楽園って、この世界に本当に創れるものなの?」

「あのね。生まれて死んで生まれて死んで、っていうのを繰り返してる惨めな私達を見て、『ああ、自分たちみたいに完璧で恵まれてるって素敵』なんて憐れんでるだけ、『高水準こそ最高』って快楽に浸ってるだけの世界があるのだとしたら、そんなのクソよ。貧しい農民を搾取してる地主みたいなもんだわ。楽園なんかじゃ、全然ないって」

「良いところなんじゃないの?」

「考えてみなよ」

 キラナは手にしたナイフで、宙にくるくると円を描く。

「いくら大事な人でも、ずっとずっと一緒にいて離れることが永久にないモノを、あなたは永遠に大切にできる? 粗末にしない自信ある?」

 それって相当難しいよ、とキラナは言い放った。

「じゃあ何であたし、こんなに殺してるんだろう」

 「私」の顔を見て、キラナはしまったと言いたげな表情をした。それから、どうにかこうにかといった風に付け足した。

「……別に、良いものを目指すことが悪いわけじゃないって」

 だが、これで「私」は確信してしまった。やはり「私」のやってきたことは、もう取り返しのつかないところにまで来ているのだ。

 カノン。キラナは「私」の名を呼び、手を取った。

「一緒に逃げよう? やっぱり、使者団はおかしいよ。上の世界に行こう」

「うえ?」

「このアレフガルドは、別の世界に繋がってるらしいよ。アレフガルドの人たちも、もともとはこの世界から落ちてきたんだって」

 その世界は、昔のアレフガルドよりなお色彩鮮やかなのだと言う。空は、幼い頃本で読んだ通り七色に色を変え、太陽というものが全てを照らし、海は終わりを知らず、大地は緑豊かで、動物たちも生き生きとしている。

「そんな場所があるなんて、知らなかった」

「使者団は上の世界のことをとことん隠していたから、知らなくても無理ないよ」

「綺麗なんだろうね」

「でしょ? だからさ、逃げようよ」

「でも、ダメ」

 「私」は呟いた。

「あたし、この世界から出られない」

「どうして」

「だって、たくさん殺しちゃったから」

「バカ、だからあんな集団から抜け出すのよ」

 キラナは怒ったように言う。

 彼女はあまり殺さずにきたから、そう言えるのだ。

「ねえ、キラナ」

 「私」にはきっともう、楽園に行く資格はない。それでも、考えてしまう。

「あたしたちはどうやったら、みんながみんな幸せなまま、暮らすことができるんだろう」

 

 

 

 彼女はやはり、人を殺していた。

 四人目のカノンが見せる記憶から返って、サタルは浅い呼吸とは別のところからくる深い吐息を漏らした。

 不思議と、恐怖はない。あまりに切羽詰まった現状だからだろうか、それとも己の手も決して綺麗なものではないからだろうか。いやそうではないな、とサタルはすぐに思い直す。カノンがおぞましい闇の精霊の器であると知っても、彼女自身が邪教の教えに――心の底からかどうかは置いておいて――染まっていたと知っても、彼の恋慕の情は未だ胸中に灯っている。

 カノンの残像は、必ず暗闇に一人ぽつねんと佇んでいた。サタルが触れると影は彼の瞼の奥に記憶の映像を結び、追憶から覚めると消えている。その代わり、やや離れた位置にまた別のカノンが現れる。

 次々と消えては現れる彼女は、表情や佇まいも変わらぬものの、一律してサタルの進行方向にいた。脇に逸れず、まるで、彼を何処かへ誘おうとしているかのようである。

 いいだろう、君の導いてくれる方へ行ってみよう。サタルは再び、次の影を見つめた。

 

 

 

「明日、お前の刻別の儀を行います」

 刻別の儀とは、ゾーマの入れ物たるに必要な闇の刻印を施す儀式である。

 「私」はゾーマの入れ物に選ばれたと聞いても、驚きも喜びも悲しみも感じなかった。ただ、やっぱりとだけ思った。

「刻印が彫り終わったら、これまでお前が獲って来た血をまとめて与えます。それから、初めて花嫁として、人間を狩ってもらいます」

 シスターが淡々と告げる。「私」は自室の寝台に腰掛け、そこまではぼんやりと聞いていた。だが次の台詞を聞いて、模糊とした意識は冷や水を浴びせられたように覚醒した。

「初めての血は、お前の姉です。しばしの別れになる上にアレもそれなりの腕だから、心してかかりなさい」

 シスターが去る。

 キラナを殺す? 「私」は今告げられた内容を、胸中で反芻する。まったく頭にしみこんでいかない。いや、理解なんてしたくない。

 ――良かったね。

 脳裏で冷静な己の声が告げる。大事な人をいち早く楽園に送れるんだよ? 幸せなことじゃないか。

 全く良くない。頭の片隅から、別の金切り声が答える。だって、死んじゃうんだよ? もう会えなくなるんだよ?

 一度肉の器を切り離して、永遠に滅びることのない魂だけになるためには必要なことだろう。

 でも、本当にそんなことできるの? 「私」だってもうさすがに、使者団の主張の矛盾には気付いている。

 使者団やゾーマは、光の神々こそこの世界の嘆きの元凶だという。闇の恩恵を無視し、闇を徹底的に排除する設計でこの世界を創造したから、人々は儚くなったのだと。だからその倨傲をへし折り、肉の檻から魂を解き放ち永遠なる楽園を現世に造り直すことが、使者団の目的だ。

 しかしこの世界の根源である精霊女神ルビスを石像にして久しいというのに、世界の移ろいはまったく変わらない。毎日誰かが息を引き取り、また殺される。その一方で助かる命もあれば、新たな生命も誕生する。

 ゾーマが現世に君臨すれば変わるのだと教会は言う。けれど、本当に? 好きなモノも嫌いなモノも全て殺し、世界が生まれ変わったとして、その新世界で「今までのことは水に流そう」と全てのモノが言えるだろうか。

 第一そうなった時、「私」たちはどんな存在になるのだろう。「私」たちは今世において、生きるために生態系や社会を構築して守っている。しかし生きるという概念自体がなくなってしまったら、そうした他者との繋がりははたして意味を持つのだろうか。その時「私」たちは人間で、生者でいられるのか。人間ではない何かになってしまうのではないか。

 仮にそのような世界になったとして、「私」の唯一の大切な存在である姉は、「私」の傍で幸せそうにしていてくれるだろうか。

「やっぱり、違う」

 「私」は誰もいない部屋で一人、呟いた。

 アレフガルドのルビスの子たちは、女神の温もりを感じられぬ漆黒の空に絶望している。使者団も、ゾーマの現世降誕までに一族が保つ可能性が低いために焦燥している。

 誰一人として、幸せそうじゃない。これが本当に楽園に生まれ変われるのか、怪しいところである。

 そしてその楽園だって、無償にして永遠の命を得て一人満ち足りる世界ならば、そんなものは楽園ではない。

 「私」が思う楽園は、他者に害されることなく、大切な人と互いに満ち足りるまで幸せに暮らすことができる場所だったはずなのだ。

 ――なら、お前は全ての生物の苦しみを救うわけではなく、姉と離れたくないというそれだけの理由で、これまで何百という命を屠ってきたのか?

 煮え立つ思考の端から、冷えた己の声が響く。そんな幻想が仮に楽園というものがあったとして叶うとは思えない、と嘲る。

 それに対して、非常事態に晒され昂揚した自分が答える。そうだ。「私」の唯一の親しい人と離れたくないという気持ちから、他の生きとし生ける者全てもそうなのだろうと思い込んで、そうしてきた。

 だが今なら分かる。自分がしてきた行為こそ、自分が恐れてきたものだった。「私」はきっと多くの人々から、「私」にとってのキラナを奪ってきてしまった。ならばそれは、たとえ奪った先に使者団の言う楽園が待っているとしても、許される行為ではない。

 ならばお前のそれは信仰でも信念でもなかったわけだ。ただの「逃げ」だ。

 そうだ。「私」は逃げていただけだった。「私」は都合のいい夢を見ていた。

 しかし、夢を見るのは今日で終わりにしよう。

 「私」は部屋を出て闇色の外套を羽織り、いくつか必要なものを道着の懐に捻じ込んで家を出た。闇色の外套はアレフガルドの景色によく溶ける。ちょうど時刻も集落の皆が寝入る頃であったこともあり、「私」は難なく教会地下のキラナが監禁されている牢に辿り着けた。

「キラナ?」

 石造りの狭い廊下、ぼうとランプに灯された鬼火の列に浮かび上がる人影がないことを確認してから、息を殺し呼びかける。格子戸の向こうから姉の顔が覗くのを見て、「私」は安堵した。

「カノン? どうしたの」

 姉は何事もないかのように、声を潜めて聞き返してきた。自分の明日の処遇については聞いていないのだろうか。特に憔悴した風もなく、単純に予期せぬ妹の来訪を驚いている。

 「私」はくすねてきた鍵――「私」は牢の鍵が教会の女神像のある個所に隠してあることをこっそり知っていた――を使い、彼女を閉じ込めていた戸を開く。出てきたキラナにお揃いの外套を被せ、事情も何も話さないまま教会を出、集落を抜け、いつもの小高い丘に彼女を連れだした。

「キラナ、逃げて」

 そこで初めて「私」は、ことの顛末を彼女に聞かせた。キラナはみるみるうちに険しい形相になる。そして最後まで聞かぬうちに、「私」の手を取って首を横に振った。

「カノン、一緒に行こう! ゾーマの依代になんて、なっちゃダメだよ」

「ううん。あたしは残る」

「何で!?」

「二人で逃げたら、ゾーマと使者団はどんな手を使ってでももあたしたちを見つけ出して、やっぱりキラナを先に殺すだろうから。あたしはキラナみたいに頭が回らないから、逃げ出せたとしてもすぐ捕まっちゃうと思う。だから、キラナだけ逃げて。あたしは殺されることは、少なくとも当分ないから」

「でも闇の刻印を彫られて器が満ちちゃったら、あなたゾーマに憑き殺されるんだよ!?」

「刻印を打ち消す方法だって、あるかもしれないよ」

 何の確証もなく言った言葉だった。とにかくキラナを逃がしたい。その一心で、「私」の手を硬く握り締める彼女の手を優しく包み、言い聞かせた。

「キラナなら、見つけられるかもだよね。そしたら、あたしに教えに来て。強いボディーガードも雇って、村の皆に負けないように。ね?」

「そんなこと、できるわけが」

「お願い」

 「私」が掌を強く握りしめると、キラナははっとして口を噤んだ。

「あたし、刻印を彫られちゃったら殺されてあげられる自信がない。キラナも知ってるよね? あたし、殺すのすごく上手くなっちゃった。慣れちゃった。最近じゃ、慣れ過ぎてるから任務でも危機感がなくて、むしろ逆に緊張しようとしなくちゃいけないくらいで、あたし、あたし」

 目が熱く濡れそぼり、視野が白く煙る。「私」は姉の手を両手で握り締め、己が額に押し当てて懇願した。

「お願いだからもう、あたしに大事な人を殺させないで……!」

 

 

 

 

 刻別の儀の内容は知らされておらず、ただ刺青を彫られるのだと聞かされていた。

 刺青は相当痛いらしい。何せ麻酔薬もなしに、生肌に刃を滑らせ焼きごてを押し付けるのである。だからゾーマの降りる城、その地下へと下っていきながら、「私」は闇の刻印を彫るというのはそれ以上の苦痛を強いられるものなのだろうと、それなりの心積りをしていたはずだった。

 しかし、実際は「それ以上」どころではなかった。

 闇の祭壇に辿りつくなり、「私」は祭壇にうつ伏せになる形で寝転ばせられた。両手足をバツ印のように伸ばし、両手足を鎖でそれぞれ四本のミスリル柱に括り付けられる。さらに猿轡を噛ませられた時には、これから始まることへの恐れで頭がどうにかなりそうだった。

 既に肩を過ぎるほど伸びている髪は、頭頂で一つに束ねてある。身に纏うのはこの日のための祈祷衣で、薄い漆黒の生地の背中は肩から腰まで、背中一面がざっくりと開かれている。

 「私」を守ってくれるものは何もない。心許ない装備への不安と使者団の中心である教会、闇の精霊への不信が噴出し、俄かに暴れ逃げ出したくなる。

 逃げてしまえば――「私」は無意識に周囲へ目を配っていた。ミスリル柱を押さえる男が四人と、シスターの補助をする司祭が二人、そして教会の主軸たるシスターこと修道女が一人。計七人。「私」の腕ならば、得体の知れないシスターはまだしも、他の連中はのせる。

 しかし、ここで逃げたら姉はどうなるのだろうという一抹の懸念が、「私」を脱走寸前のところで踏みとどまらせた。幸い、まだ彼女の脱走は気付かれていないらしい。ここで「私」が逃げて、万が一脱走に成功してしまうようなことがあれば。

 やはり、逃げてはならない。「私」は拳を握りしめた。

 頭上で低い唸り声が聞こえる。祝詞だ。耳を澄まそうとした「私」は、突如凄まじい激痛に襲われて仰け反った。剃刀の如き鋭利な鉈が、薄氷の刃が、薪を割るが如くつぷりとその身を背中に埋め込んでくる。痛みが肉どころか骨まで抉り、魂さえ削り取っていく。

 意味のない金切声を上げ、のたうち回る。現実にはミスリル柱に繋がれていたために、鎖がひっきりなしにやかましい音を奏でるだけに終わったのだが、この拘束さえなければ「私」は前後不覚に脱走していただろう。

 後に知ったことには、この時己の背中一面に、魔力の煌々たる輝きと共に精霊文字が彫り込まれていたらしい。精霊文字の刻印は、刻まれた相手に多大な力を授けることになるものの、想像を絶する痛みをもたらす。五大元素のうち一つを表す文字を刻むだけでも、大の大人が失神し発狂するほどの激痛が走るのだ。だから術者で精霊文字の刻印をしている者は、滅多にいない。

 だが激痛に灼けつく意識に、その原因など考える余地があるわけがない。「私」はただ一心に、この苦痛から解放される手段を求めた。逃亡のためならばはおろか、あれほど恐れた死にまで焦がれた。

 助けて!

 誰かの名を呼ぼうとして、誰も呼べる者がいないことに気づいた。

 一番に頼って来た姉は呼べない。母は冥府の狂信者だった。父は顔どころか、名すら知らない。更には己が生まれ落ちてからずっと生活してきた使者団の中で、親しく会話をする者の一人も思い浮かべられなかった。

 「私」は叫んだ。声は誰の名前にもならず、くぐもった悲鳴と変わる。それでも「私」は、言葉を紡げない口の代わりに思念で叫んだ。

 誰か! 誰か! 誰か!

 砂漠で干からびる旅人が水を求めるより真摯に、切実にもがき狂いながら、「私」は意識の手を伸ばした。

 誰か、「私」の手を取って!

 ここから、連れ出して!

 冷たい何かがするりと絡みついて来たのは、その時だった。

 ――哀れなるかな、哀れなるかな。自ら意を決して疎んだばかりの我に、助けよと申すか。

 誰でもいいから助けて! 苦しいのはいや!

 ――よかろう、助けて進ぜよう。

 重々しい壮年の男に似た声は、微かな笑いを含んで答える。

 ――儀式は成功した。

 そのような声という音を意識の端で聞きとめながら、「私」は沼底に沈むように安らかな暗闇に沈んだ。

 

 

 

 

 寝台に横たわり、「私」は勝手に上下する自身の胸の動きを目で追っていた。

 「私」は死んだはずだった。しかし告別の儀から三日、姉と別れてから四日が経っていた。儀式は滞りなく行われ、「私」の背には刻印が施されたらしい。つまり、「私」はゾーマの入れ物になったのだ。

 だから、「私」はやはり死んだのである。己の信条と幸福しか眼中になかったために数え切れぬ人々の幸福を奪い、だが親しい人の命を奪うにあたって尻込みし、己の信条の虚偽であったことを悟った。けれど、このザマだ。一時の痛みに負け、「私」は自らゾーマを求めた。これまで散々他者に理不尽な痛みと死をもたらしておきながら、自分ではその痛みを忌み、死を求めた。

 「私」はまだ生きている。だが、「私」の精神は死んだも同然である。ならば、早く死ぬべきだ。この地に死を、絶望をもたらすゾーマを宿すことになるのだから、なおさらだ。

 ――そう思うなら、何故今すぐ死なない?

 鼓膜に直接、儀式の後から聞こえ続けている低い声が囁きかけてくる。闇の帝王、ゾーマその者に間違いなかった。

 ――もうわしが憑いて三日が経ったぞ。

「うるさい」

 「私」は一蹴した。

「アンタからしたら、あたしが死んだら困るんじゃないの? 一応入れ物でしょ?」

 ――わしはまだ、お前に仮縫いしている身。お前が死んだら繋がりがほどけるだけ。また別の個体に憑けばいいだけよ。

「ふうん」

 「私」は鼻を鳴らした。

「なら、まだ死なずにおこう。で、勇者っていうのが見つかるまで、アンタをあたしの身体に留めておこうか」

 ――ほう。わしと共に滅びると言うか。

「アンタはこれまで実体がなかったから、捕まえようも滅ぼしようもなかった。だけど、あたしの身体に憑いて実体を持てば事情が変わってくる。この世界がアンタの手で完全な冥府に変えられてしまう前、アンタがあたしに完全に憑依する、その時がアンタを殺すチャンス。違うかい?」

 ――然り。

 ゾーマは鷹揚に肯定する。

 ――しかしいかなる勇者であろうとも、闇を完全に払うことはできぬぞ。光が差すところに影が生じるように、二者は……。

「黙れ」

 ゾーマは口を噤んだ。「私」の怒りを感じ取ったからでは、決してないだろう。しかし大魔王の不気味な沈黙にも、今の「私」は怯まなかった。

「御託はいいんだよ。あたしは償いようのない罪を犯した極悪人だ。おまけに痛みに負けてアンタを受け入れたどうしようもないヤツだ。けど、アンタの思い通りに動いてやる気はさらさらない」

 「私」は寝転がったまま、まるでそこにゾーマがいるかのように床を睨み付けた。

「あたしはもう、使者団にもアンタにも従わない。冥府がどんなにいいところだか知らないけど、もうこれ以上今いるこの世界を蔑ろにすることはしない」

 ――頭の悪い、粋を知らぬ娘だ。

 地底から響く声が、「私」を嘲る。

 ――しかし、非常に活きが良くてよろしい。あまりの恐怖を前にして淑やかに身を震わせることしかできない女も良いものだが、お前のようなじゃじゃ馬が絶望のどん底に突き落とされ、希望を失った虚ろな瞳から静かに涙を一筋流すだけの蝋人形になるのも愛いものだろうよ。

「死ね変態」

 ――お喋りはこのくらいにしておこうか。あまり長く干渉すると、せっかくの活きの良さが失われてしまいかねん。

 「私」は歯噛みした。悔しいが、奴の言う通りだった。ゾーマの干渉は、「私」の身体には大きな負担だった。今だって既に、呼吸が上がりそうになるのをどうにか堪えている状況である。

 ――わしはいつでも傍におるぞ。これからたっぷり、じっくりわしに慣らして、馴らして愛でていってやろう。

 濃い闇の気配が、声の残響が遠のくにつれ薄れていく。「私」はその気配が完全に失せたことを察してから、仰向けに身体を転がして荒く息を吐いた。

 長いこと呼吸ができなかったかのごとく、ひどく息苦しい。けれどそれより、あの気味の悪い猫撫で声が耳にこびりついているような気がして、気分が悪かった。

 姉は無事逃げられただろうか。

 ふと、これまで何度も思い浮かべてきた問いを思い出した。桃色の染料は使ってくれただろうか。ピンクパールをすりつぶしたあれを髪染めに使えば、当分の間一族を退ける魔除けにもなってくれるだろう。逃げ切れるはずだ。現に、まだ彼女は見つかっていない。うまくやってくれているのだ。

 もし。もしも彼女がゾーマを祓う方法を見つけてきてくれれば。

 「私」は無意識のうちに考えていることに気づいて、苦笑した。

 長いこと「私」は心の拠り所が見つからず、流されるままに罪を重ねてきた。その結果、闇の帝王を身に宿すまでになった。

 しかし、不思議と恐怖はない。それどころか、この身に宿したゾーマを打ち滅ぼすという方針ができたためか、心が次第に毅然とした軸をもち、前向きに定まってきていた。

「大丈夫」

 「私」は一人、誰にともなく言い聞かせた。

 

 

 

「アンタさ、何で最近出て来ねえんだ?」

 「私」とさほど年の変わらないという少年は、無邪気にそう問うた。修練の時でもないのに己の部屋を訪ねてきた無礼を咎めようとした「私」は、予想外の問いかけに一瞬押し黙った。

「私はもう、むやみやたら働かせられる人間ではなくなってしまったから、らしい」

 やや間を置いて、シスターが「私」に言ったことを舌に乗せた。

 「私」の殺した生贄の数は、まだゾーマの器を満たすためには足りていない。特に魔物は人間よりずっと不足しているはずだ。けれど、「私」は儀式以降全く任務に出ていない。何故かは知らされていないが、これはゾーマの考えによるものらしかった。

 そのゾーマ自身も、いくら尋ねても理由を教えてくれない。「私」は誰も殺さなくていいことに安堵しつつ、一向にゾーマを殺す手掛かりである勇者を探しに行けない日々に苛立ちを覚えていた。それでも、一年経ったにも関わらず未だ捜索され続けているキラナのことを思うと、集落から出ることができなかった。

 唯一の慰めは、一族の若者相手に武術を教えていることだった。「私」は殺しを好むことはできなかったが、武術は好きだった。己と他者に身体に集中し拳を交えている時、「私」の心は自由だった。なさねばならぬことからも生まれてこのかた縛られているしがらみからも解き放たれ、ただただ四肢の先まで熱く巡りゆく血流、それに似て滑らかに全身に行き渡りながら、しかし時に魂さえ駆り立てるほどに激しく湧きたつ生気に心酔した。「私」は皆に、暗殺術よりも己の身体を操り、守る術を、武術の喜びを教えた。

 その教え子の中で、もっとも筋が良かったのがこの少年だった。丸刈りの頭に鋭く切れ長な双眸と鷲鼻を持ち、歯を剥き出して笑う癖のある、いかにも生意気な腕白坊主といった風情の子供である。

 「私」の答えに、彼はふーんと納得していなそうな声を返した。

「まあ、別にいいんだけどよ。アンタが出てきたところで、この状況は変わらねえ。あのクソアマどもも分かってんだろうさ」

 クソアマとはシスターのことである。少年は肩を竦めて、首を横に振った。

「アンタと一度、シャバで仕事をしてみたかったんだが仕方ねえな。この一族も、本当にもう終わりなんだ。だろ?」

 「私」は返事をしなかったが、内心彼の言うことに頷いていた。いにしえより続いて来たこの悪しき一族も、積年の悲願が達成されようという段階にやっとたどり着いたにも関わらず滅びようとしていた。

 ゾーマが「私」についてから、一族内で死者が相次いでいる。ある者は自ら命を絶ち、ある者はまだ天寿を全うする年でもないはずなのに眠りながら逝ってしまう。その様子はまるで、楽園が近づいたために役割と意義を失った人々が、進んで我先にと旅立っているかのようだった。

「アンタはどうするの」

「俺は、独りになっても生き続ける。俺は俺の生き抜いた先にこそ、楽園が必ず開けるって信じてるからよ」

 そう言う少年は、至って真摯な表情をしていた。

「俺は絶対、てめえが殺そうとしている野郎から完全に最後の息が抜けきる時まで、目を逸らさねえんだ。コイツを殺したのが俺だってことを、魂に刻み付ける。俺は同族を、五体を持った人間を殺した。俺は人殺しだ。その事実から絶対目を逸らさねえし、忘れねえ」

 「私」は知らず、息を飲んでいた。彼は己よりずっと実戦経験が少ないはずである。しかしその言葉は、これまで己と共に任務をこなした大人たちが、戦場で自ら他者の命を奪っておきながら、眼前の惨状から視線を逸らしつつ譫言のように繰り返し唱えていた祝詞より、ずっと重みがあった。

「一族の他の連中には生きるのが苦しくて死んだヤツもいるが、そんなのとんだバカ野郎だな。生きるってのは苦しいだけじゃねえよ。俺たちの苦しみは、絶対極楽に変わる。俺はこの世を、楽しみきってやる」

 そう告げて、何かを硬く決意した面持ちで少年は踵を返した。その背を見つめながら、「私」は知らず姉を思い出していた。

 

 

 

 行く手に立っていた八人目のカノンが消える。するとすぐさま九人目のカノンが現れた。その姿を一目見て、サタルは息を飲む。

 これまでのカノンは、全てモノクロだった。ところが九人目の彼女には、色がついている。

 その立ち姿は、目線がこれまで同様定まらないことを除けば、彼女そのものだった。まるで、現実の彼女そのものが置いて行かれたような。

 サタルは首を振って、不吉な連想を払った。

 

 

 

「お前が殺すべき者に会った時、その紋様が教えてくれるだろう」

 「私」の旅立ちの日、シスターはそう告げて死んだ。それは「私」がいざ郷里を立とうと背を向けた直後のことであり、布の崩れ落ちる音に気づき振り向いた時には、彼女はもう地に倒れ伏し息絶えていた。

 己にそう告げるためだけに生き永らえていたようだ――そう思ってしまった時から、「私」に呪いがかかった。この時、一族は彼女と自分で最後だった。

 ついに使者団は、「私」一人になった。しかし「私」はまったく自由になれた気がしなかった。

 ――上の世界へ行け。

 ゾーマは「私」に囁いた。

 ――上にはお前の見たことがない色がある。光がある。お前も、ずっと見たがっていただろう?

「親切ぶるな」

 囁く声に、剣呑な気色を剥き出して答える。

「お前はあたしに、勇者を殺させたいんだろう? いつかアレフガルドに降り立ってアンタを殺すという、そいつを」

 ――ほう、お前はそう考えていたのか。

 わざとらしい感心した声色が、気に食わない。この闇の化身はいつでもそうだ。

「残念だけど、あたしはそうはしないよ」

 ――構わん。好きなようにするがよい。お前はどちらにしても、上の世界に行って勇者に会わなければ気が済まないだろう。

 「私」は舌打ちした。憑依されている時、忌々しいことに「私」の思考は奴に筒抜けになる。そのくせ奴の思考はまったく読めない。この身体の本来の持ち主は「私」のはずなのに、ゾーマの方が上位なようで腹立たしい。

 ――奴はお前の対極にある存在。光を背負い生を謳歌する者。既に実質死しているお前にとって、会っておいて損はないだろう。そして殺してくれてくれるならば、わしはなお嬉しいがな。

 できることならば、ゾーマの意には従いたくない。しかし、上の世界へひとかたならぬ関心を抱き、強く惹かれているのも事実だった。姉が語っていた色彩豊かな世界。幼い頃に絵で見た青空というものを見てみたい。碧空に燦然と輝くという太陽、紺碧の夜空に浮かぶ銀の月、真珠を散りばめたごとく瞬く星々を眺めてみたい。

 勇者が降りて来るまで、このアレフガルドでひっそりと待っていればいいのではなかろうかと考えた時期もあった。しかし、このゾーマに染められた黒い空を眺めていると、はたして勇者が来るまで保つものか怪しい、その前にゾーマに乗っ取られてしまうのではないかと思われてくる。だから上の世界に上ることにした。

 上の世界とアレフガルドを繋げたのは、ゾーマだったらしい。だから「私」は、ゾーマの力により転移呪文なしで世界を跨いだ。身体が得体の知れぬ浮遊感に襲われ、足の着き場がない、身体の軸が定まらない、腕が腿に生えて腿が肩に生えたのではないか、混乱する感覚の末に、やはりゾーマは上に行くなどと言っていたけれどそう言いながら「私」を騙しているのではないか、「私」は今死にゆくところなのでは、などととりとめない思念が走馬灯のように溢れ出し巡った――だから急に足が何かしっかりしたものを頼りにすっくと立てた時、「私」はついに黄泉に来たかと勘違いして何度も瞬きをした。

 まず感じたのは、目が痛いということだった。松明の炎を間近で凝視することの比ではない。目が熱い。視界が白く霞んでいる。しかし「私」の目から涙は流れておらず、視界の霞む原因は「私」ではなく外にあるようだった。

 次第に時が経過すると、「私」の目は色を認識できるようになった。足下一面に、ふかふかした緑色のものが生えている。その形状は草のようだ。周囲は色こそ深緑に萌黄、常磐に若葉と色の違う糸を編みわせたようだったが、どうも景色は森に似ている。しかし、「私」の知る森はもっと黒く、炭のようだったはずである。輝いているところなど、見たことがない。それに比べこの世界のものは、地に生えた雑草や木々の葉の一枚一枚でさえ、爆発呪の炎にでも照らされているようにつやつやと照り映えていた。

 「私」は眩暈を覚え、目を瞑り頭を上向けた。頭が痛い。思えばあまりの色彩に目が眩んだのはこの時が初めてだったが、当時の「私」は己の目が眩んでいるということすら分からなかったのだ。

 目の疼痛が収まってきた頃、「私」は恐る恐る瞼を押し上げた。そしてまた驚いた。

   頭上が、青かった。それもただの青ではない。天井の中心が一番濃く、それがすそに向かうにつれ薄く水色がかって、白くなっていく。それはどんな染料よりも透明で、どんな織模様より飾り気がなく、そのくせどんな織物よりもずっとずっと美しかった。

 その中心に、白熱するものがある。円のようだが、眩すぎて輪郭がよく捉えきれない。目玉が焼き潰されそうだ。きっとあれが、太陽に違いない。ゾーマや使者団が憎んできた光の神々の、主神と呼ばれる存在が司るもの。魔を、闇を憎み焼き尽くす、激しき神。

 なんて眩しいんだろう。しかも、温かい。「私」は武闘着で覆われていない剥き出した肌そのもので、彼の恩恵を感じ理解した。これが太陽。これが光。これほど熱く、それでいてじんわりと肌に、身体の内へと心地よく染み込んでいく温もりは、アレフガルドにはなかった。

 これが、空。闇の衣に覆われていない、正真正銘の、光の神々が創りだした空。

 「私」は確証もないくせに、この輝かしい景色を見てここが上の世界であることを確信した。ゾーマの目論見に対する警戒や未知の世界、己の行く先への不安などどこかへ吹き飛んでいた。

 「私」は呆然と、初めて目にする碧空に見惚れた。どれほどそうしていたのかは分からない。やがて我に返ったのは、肌に日の光とは異なる、闇の世界でよく馴染んだ刹那の灼熱を感じたからだった。

「助けてくれぇ!」

 悲鳴が聞こえる前に、反射的に身体が動いていた。敵意の感じられない方を無視し、殺気を纏って襲い掛かってきたものの頭上へ飛び上がる。赤茶の毛並みに覆われた巨大な脳天へ踵を落とす。獲物は呆気なく崩れ落ちた。

 「私」は着地し、今更ながら獲物の正体を確かめる。暴れ猿のようだ。地上の魔物は、随分脆いらしい。

 何気なくその顔を覗き込んで、「私」は言葉を失った。

 ――やあおじょうちゃんたすかったよあたしゃしょうにんでねおとくいさんにむかうところだったんだけどあんなんにめぇつけられちゃってもうたいへんおじょうちゃんがいてくれなかったらせっかくのしょうひんがぱあになっちまうところだったありがとうそれにしてもじょうちゃんつよいねえよしおれいにあたしがなにかおごってやろうなにえんりょすることはないおいでおいで――

 殺意なしと判断したものこと年配の商人が、「私」の手を引いて何やらしきりに話しかけている。明るい声色が耳から耳へとすり抜けて行く。

 ――生物というのは、死ぬ時あんな顔をするものなのか。

 「私」はこれまで、自分が殺したものの姿をよく見たことがなかった。なぜならば「私」が何かを殺す時、そこは大抵暗闇であったからだ。獲物に気づかれてはならない。だから灯りは決して点けず、ターゲットを確認したらそれが闇の漆黒の中に消えるのを待って、気脈を探り微かな物音と温もりを頼りに事を成した。

 だからこの日、「私」は生まれて初めて死相というものを見たのだ。

 あの猿の顔に現れた死は、苦痛と諦観の形をしていた。ひん剥かれた目玉には血管がミミズのごとく浮き出ていて、いずこかを懸命に凝視しようとしているにも関わらずどこも見つめられていない。めくれた唇から、歯に噛み切られた歯茎から血がどくどくと溢れている。だらしなく伸びきった舌から、血液と唾液が混ざった雫が垂れていた。頭は平たくひしゃげていて、それを防ごうとしたのだろうか、顎に添えようとしたらしい手が、途中であきらめたのか地に投げ出されていた。鼻の穴からも、細く赤い筋が伝っている。

「ほい、お嬢ちゃん」

 威勢のいい声に、「私」の意識は現実に呼び戻された。「私」はいつの間にやら室内にいて、食卓の前に腰掛けて皿の上を眺めていた。

「ここのオススメ! 地場産牛のタルタルステーキだよ」

 「私」が襲わなかった方の人間が言う。皿の上には、細かく刻まれた牛肉が載っている。赤く濡れた、新鮮な肉だ。

 ――そう言えば、何であの猿の鼻から血が出ていたんだろう。

 ――何を今更。急所への一撃は、あたしの十八番じゃないか。骨の中でも頭蓋は特に堅牢だ。だから衝撃をうまく米神の方へ流してやる。そうすれば頭蓋が砕け切って脳の破壊もたやすい。まあ、そんなことをしなくてもあの猿は脆かったから、頭蓋が踝を打ち込んだ形のまま陥没してしまったけど。

 「私」は咄嗟に口を覆った。

「おい!?」

 気付いてしまったら、もうダメだった。

 椅子から転がり落ち嘔吐する「私」を、商人は慌てて支えようとした。

「どうしたんだいお嬢ちゃん、調子が悪いのかい!? おーい誰か!」

 商人が誰かを呼ぼうと目を逸らした隙に、「私」は己の吐瀉物で濡れた床を強く蹴った。

   建物を飛び出せば、太陽がこの身を焼く。どこかこの光の届かない、人の声や温もりがない場所をはないか。「私」は暗い場所を求めて走った。走れば走るほど、周囲の喧騒が、人間の気配が遠のいていく。それでも、町を抜けて森の中へ飛び込んでも、あの太陽の光が届かない場所はなかった。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 「私」は喚き、吐きながら逃げた。吐瀉物が服を汚したが気にならない。「私」は今、殺したばかりの猿に追われていた。否、これまでに殺してきた全ての人々、魔物たちが、あの猿と同じ顔をして「私」を追って来ていた。

 やがて足がもつれ転がる。転がって転がって、転がる「私」の視界で、森の深緑と空の青がぐるぐると回り混ざり合う。

 美しい緑だ。そして青だ。この身をその前に晒すのが、罰当たりに感じるほどに。

 遂に「私」の身体が、斜面を転がり落ちきる。しばし「私」は呆けきって空を見つめていた。しかしまた吐き気が込み上げてきて、上体をひねり起こし嗚咽をあげた。出るものが出尽くしたのか、もう黄色い胃液が汚らしく垂れただけだった。

 「私」は荒い息を吐きながら、顔を上げた。転がってきた先にあったのは、小さな泉だった。その水面に真っ青な空と、「私」の顔が映っている。ざんばらにほどけたおどろおどろしい黒髪、何の色も映さない漆黒の双眸、涙と汗と吐瀉物でぐちゃぐちゃになった酷い顔。

「駄目だ」

 泉に映った「私」の顔が、いびつに歪んだ。謝ったって駄目だ。許されようとしたって無駄だ。逃げようとするなんてもってのほかだ。

 だって「私」は、この美しい青空のもとにいたって、こんなにも生まれ育った闇に染まっている。

 ――なんだ、今頃気付いたのか?

 耳元で奴が嘲笑った。

 

 

 

 自分の罪深さに気づき、最初にしたことは使者団の正当性について今一度考え直すことだった。自身のやって来たことは、もしかしたら正しかったのではないか。今感じている罪悪は、本来不必要なものなのではないか。その可能性を模索した。

 しかし何度思い返しても、「私」は自分が殺した者たちのことを何も知らなかったことに気づいただけだった。「私」は彼らについて、ルビスの民であり、アレフガルドの楽園化を妨げる敵であるという、任務を与える教会から伝え聞いた情報しか持ち合わせていなかったのだ。それならば改めて彼らのことを知ればいいと、殺害対象が多く住んでいたラダトーム城のことについて情報を集めようとした。しかし今いる世界には、ラダトームという国名はおろか、アレフガルドという世界の概念すらなかった。

 己が殺した人間や魔物たちが、果たして本当に殺していいものだったのかは分からない。しかし刻別の儀の際に自分を襲った猛烈な苦痛、そしてこの光に満ちた世界に来て初めて認識した、死というものの姿を考えると、それは愚問のように思われた。

 あれは、同じ生きとし生ける者に対して無分別に与えていいものではない。誰彼構わず与えてしまったら、世界は崩壊してしまう――それに気づいてしまえば、自分がしてきたことがどういうものだったのかを悟るのは早かった。今更なので、遅くはあるけれども。

 ――死なぬのか。

 ポルトガで出港のための手筈を整えて宿に帰って来ると、ゾーマが語りかけてきた。

 ――あれから二日間、食事も水も摂らずで放心して寝転がっているだけだったから、あのまま死ぬのかと思ったが。

「今のあたしが死んでも、世界は変わらない」

 「私」は声に出して答えた。

 確かに己の罪に改めて気づかされ、もはや光の恩恵を望むこともできぬ身であることに絶望した。再びこの世を去ろうかとも考えた。

 しかし、どちらにしろ己はそう遠くないうちに死ぬのである。そして死後にどこへ行くのだとしても、ロクな目に遭わないだろう。

 ならばせめて、己のしでかしたことをしっかり見据えて死にたい。

「あたしはアンタの棺桶になってやる。その考えは変わってないよ」

 ――徒労に終わるぞ。わしが実体を持った時、倒せる人間がいるという確証はあるのか? たとえ人間どもが力を合わせわしの実体を滅することができようと、人間の剣や魔法風情では、わしの魂までうち滅ぼすことはできぬ。

「だから、勇者を警戒したんだろ? 天に許されたヤツらは、光に強く干渉できる。時として霊界に影響を及ぼし、魂さえ滅するほどに」

 ――わしのいぬ間に、ずいぶんと余計な知恵をつけたな。

 ゾーマはこの世界に来て、「私」に憑くことが少なくなった。「私」という仮初の殻を持つ彼も、この眩い世界に来るのはさすがに辛いようだ。

 だからこそ、「私」に勇者を殺すことをそそのかしてくるのである。光の資質を持つ彼の血を得れば、この世界に来て征服することもたやすくなるだろうから。

 ――しかし、お前もこの世界に来て聞いただろう? かつて掃いて捨てるほどいた勇者どもは、既に。

「二人しかいない。しかも片方は死に、もう片方も行方不明だって言うんだろ? 騙されないよ」

 「私」は、ここ数日己の脳内を占めてきた噂話を語る。

「先日、アリアハンで何十年ぶりの新しい勇者が認められたらしい。お前の配下を倒すため火山に落ちて死んだ勇者オルテガの息子で、まだ十五歳だけど生まれながらに父をしのぐ光の資質を持っているって」

 光の存在。恩恵を与える者。光の神々に愛される者。その姿を見て、生について、この世界について今一度知りたい。

「あたしは、アリアハンに行く」

 

 

 

 勇者を追う話が来た時、運命の悪戯に驚いた。

 アリアハンに渡って来た「私」は、これまでにそうしてきたように傭兵家業で稼ぎながら、勇者が仲間を選ぶと言うルイーダの酒場に登録して、彼の旅立ちの時を待っていた。

 しかしどういうわけか、勇者は皆が知らぬうちにアリアハンを発っていた。追おうにも行く先が知れず、手の打ちようがない。

 そこへ、以前共に仕事をしたことがある戦士が話を持ち込んできたのである。

 「私」は本来の目的も勇者を強く意識していることもまったく話さず、彼の誘いを受けた。

 

 

 

 アレフガルドにいた頃から興味を持ち、次第に強く惹かれるようになり、どうにかして会いたいと思っていた勇者にようやく会えた「私」の、最初に勇者について思ったことは「なんだこの貧弱そうな男は」だった。

 まともに生きる気がないような、軟弱な笑み。へらへらした態度。自身の外見が優れていることを鼻にかけ、女を引っかけ回している様子。すべてが気に障る。

 「私」はかねてより、予言の人物は恐らくオルテガの子だろうと考えていた。何故なら行方知れずの勇者サイモンの息子は天雷の呪を使えないというので、そうなるとアリアハンの新勇者しかあてがなかったからだ。加えて彼は不自然に家を空けており、旅立つ時まで帰って来ないという話だったので余計怪しいと考えていた。

 しかし、コレである。筋肉は「私」よりついていない。剣の腕だって極めて優れているわけではない。おまけに魔法は使えないときている。

 それでも、他にあてがないのだ。とにかく事実の確認のためにも、誰かに彼が害されるようなことがあってはならない。

 ロマリアで姉に再会した。元気そうで、しかも「私」を見るなり飛びついて涙を流すものだから驚いた。宿で二人きりになってから聞いたことだが、姉は「私」のことを案じてくれていたらしく、さらにあれから「私」の呪縛を解く方法を探し続けていてくれたようだった。姉はまだ解決策が見つからないことをひっきりなしに謝った。「私」は姉が生き延びて、「私」のことを案じてくれていることを知っただけで嬉しかった。

「これから、どうするの?」

 キラナが訊ねる。「私」はゾーマを滅するため死ぬつもりであることを伏せて、それ以外のことを語った。ゾーマは「私」に勇者を殺させようとしていること。「私」に今現在、勇者を殺すつもりはないこと。第一肝心の勇者が、本当に勇者なのか怪しいこと。どちらにしても、しばらく様子を見てみるつもりであること。

「最近ゾーマはまったく干渉してこないから、大丈夫」

 「私」はそう、キラナに告げた。やはりこの世界が眩しすぎるのか、闇の帝王は「私」に降りてこなくなっていた。

 

 

 

 ピラミッドでの一件は、「私」に大きな衝撃をもたらした。

 以前から髪に口づけを落とされたり散々口説きの真似事をされたりしてきたが、肌に触れられたのはあの時が初めてだった。

「私」は勿論抵抗した。だがそれは、己の貞操の危機を感じたからでも彼に触れられるのが嫌だったからでもなかった。むしろ、逆である。

 彼に覆い被さられた時、「私」が感じたのはえも言えぬ心地よさだった。

 アリアハンの午後の陽射しを彷彿とさせる温かさ。肌を強く焼くようではなく、芯まで温まるようなそのぬくもりに身も心も委ねてしまいそうで、首筋や耳を辿る舌の感触にさえ歓喜したことに、「私」は恐怖した。

 男に組み敷かれるのは初めてではない。暗殺を生業とする者にとって、ベッドほど仕事をやりやすいところはない。だからこれまで男に己を捧げるふりをして、何人も縊り殺してきた。

 相手が己の胸に顔を埋めようとする瞬間、接吻を促す時などは、絶好の機会である。妙な薬を使おうとしたがったり拘束したがったりするスキ者もうまく翻弄して、闇の器であり続けるため処女だけは守りながら、相手が己に夢中になっている隙に殺していく。その際に快楽を感じたことはこれまで一度もなく、不快にしか思えなかった。

 それなのに、彼に限ってどうして。

 疑問と動揺が胸の内に渦巻いている。ゾーマの目がある時でなくて良かった。「私」はこの頃ほど、その不在に安堵したことはなかった。

 

 

 

「私」にかつて苦難に耐える心得を教えてくれたはずの男は、とんだ下衆だった。

 昔馴染みだろうと関係ない。この男は無事に返したらまた悪事を働き、そして勇者を狙いに来る。

 サタルが勇者であるという確証は、まだ持てない。だがそうであってもなくても、殺させるわけにはいかない。

「帰れ!」

 成長してカンダタと名乗るようになっていたそいつを、「私」は文字通り足腰立たぬほどに痛めつけた。先程までの威勢の良さを失い、怯えて惨めたらしい眼差しで「私」を見上げるそいつに、「私」は告げる。

「次来たら、その時は――」

 

 

 

 サタルは確かにただ者ではない。だが、勇者かどうかは更に怪しくなった。

 「私」はおぞましい修業の成果なのか、生物の気脈を感じ取ることができる。おかげで幻惑呪文や変化の呪を用いられても、惑わされることなく戦うことができた。

 その腕をもってしても、出会った時からずっとサタルの正体を掴めない。彼は確かに、常人ではないようである。彼の気配は、とことん感じ取りづらいのだ。まるで死にかけた人間のように、気が薄い。それでもダーマの神官曰く、彼にはとんでもない呪いがかけられているのだという。

 わけが分からない。しかしそれが嘘であるにしても真であるにしても、「私」は彼についていくことをやめようとは思えなかった。

「また、前みたいに約束してくれないか――」

 サタルは余裕ある笑みを保って見せつつ、「私」たちに問う。しかし、「私」はその声に微かな、本当に微かな恐れを感じ取った。

 それはかつて「私」が故郷からキラナを逃がす時に張った虚勢と、同じ匂いがした。

 大切な人を引きとめたいのに止めてはいけないというジレンマと、堪えようのない寂しさを、完璧に繕われた秀麗な笑みから見出した気がした。

「アンタよりは長生きしてやるから安心しな」

 「私」は生まれて初めて、言葉で明確な嘘を吐いた。

 

 

 

 

 死後の世界の片鱗を、垣間見たのだと思う。

 きっと父というものはこういうものなのだろうと思い尊敬していた戦士のあんな顔を、初めて見た。いつも穏やかで思慮深く、時に厳しい彼が、あの村にいる間は己とさして年の変わらぬ少年のような表情をしていた。

 死は、人の時を止めるのだ。

 戦士とその故郷を眺めながら、「私」は考えた。死は死した人間だけでなく、その周囲にいた人間の時さえ止める。川のごとく流れる時が静止すると、そこには僅かな泡でさえ生じなくなる。

 そうなった時、人は永遠の過去と化す。

「ねえ、サタル」

 船に戻って来て、アリアが問う。「私」たちは船内に落ち着いていることができず、甲板に出て三人で横に並んで座っていた。

「フーガさんは、その」

 「私」の右隣にいるアリアの向こうに、サタルの横顔が見えた。サタルは彼女の、頑なな眼差しを甲板の板目から逸らさない顔を覗きながら、柔らかな口調で言う。

「今は気休めなんて何の役にも立たないだろうから、正直に言うよ。今の所、フーガがまたついて来てくれる可能性はとても低いと思う」

 アリアは唇を噛み締める。俯くと、垂れがちな赤い瞳の底に白く月光が溜まった。

「あとは、フーガ次第だ。待つしかないよ」

「フーガさんは何も悪くないのに、どうして」

「それは」

 彼自身が自分を許せないからだよ、とサタルは語った。

「本当はこういうことって本人が満足いくようにしないと、何も解決しないんだよね。口出しなんてすべきじゃない」

「でも、あなたが言ったことは正しかったわ」

 アリアが慰めるように言う。しかしサタルはそれを聞くと、唇を歪ませた。

「正しかった、か」

 それから彼は、アリアと「私」と両方に向けて問いかけた。

「ねえ。正しいって、何をもって正しいとするんだろうね。倫理? 道理? じゃあそれを成すものは何だろう。個人の気持ち? 集団を形成するための規則?」

 「私」は返事をできなかった。そんなの、一概に言い切れない。

 アリアもそう思ったのだろう。愛らしい唇を尖らせて抗議する。

「意地悪な返ししないでよ。私だって、正しさの法則なんてすぐには答えられないわ」

「ごめんね」

 サタルは仄かに笑みを浮かべたまま、謝った。

「そうだよね、きっと正しさに絶対的な唯一はないんだ。複合的で、流動的で、そしていつも正しさを気にするのは俺たちヒトだ。結局のところ、本人の判断が肝になる」

 アリアが頷いた。

「フーガは一度、テドンで村の守り手になることが正しい道だという結論を出した。だけど俺は知らない方がよかったことを教えて、敢えてそれを揺るがした。あれじゃあフーガは永遠に満足できない。ただ死者と共に過ごし続けるだけなんて、彼の言う償いには決してならない。ただ後を追ったようなものじゃないか。俺はそう考えて、ああ言った」

 でも、と。サタルはそこまで一息に言って、自らを嘲笑うような表情を浮かべた。

「俺が言ったことはフーガがせっかく見出した幸せに、少なからずヒビを入れただろうね。そしてそのヒビが大きくなり、フーガが自分の選択に幸せを見いだせなくなった時――」

 その台詞の末尾は、潮騒に呑まれて「私」の耳には届かなかった。それはアリアも同じだったらしく、見れば彼女もサタルの方を凝視している。しかし彼はもう言い直すことはせず、乾いた笑い声をあげて首を横に振った。

「馬鹿みたいだよな。これまで散々、ついて来なくていい、一緒に行かなくていいって言って来たのに、いざ離れようとした途端、あんなこと言って」

 サタルが天を仰ぐ。「私」はその横顔を見つめる。

 麗しい微笑を湛えているのに、彼の仰ぐ満天の星空は、妙に寒々しく感じられた。

「馬鹿みたいだよ。フーガにとっては、たとえ何度忘れられたってあの人たちと暮らした方が、ずっと幸せだろうにさ」

 本当に、馬鹿だ。

 サタルは消え入るような声で、繰り返した。

 アリアの膝の上に置かれた手が震えている。「私」は幼い頃、眠れない夜に姉がしてくれたように、彼女の手に己の手を重ねた。アリアはしばしされるがままになっていたが、やがて隣のサタルの手を引き寄せ、「私」の手に乗せる。

 「私」たちはそうして三人で手を重ねたまま、一晩を明かした。冷たい潮風にさらされ、渦巻く波間に己の胸中を重ねながら、「私」はただ二人の掌のぬくもりを感じていた。

 

 

 

 軟弱なこの男にも、色々思うところはあるらしいということが分かってきた。

 ランシールの老神官と何を話したのか、「私」に手当てされる彼は珍しく目に見えて憔悴していた。そのらしからぬ姿に、思わず「私」は彼の求めるまま膝を貸した。

 それ以来、彼の明るい軽やかな言動の影にちらつくものに目が行くようになった。へらりとした笑みが、ふと消える瞬間。時折吐き出される小難しい理屈話。そこから窺える、この輝かしい世界と勇者である己に対する、穿った視点。

 勇者というのは己の宿命に確固とした矜持を抱く、篤実な人物であると思い込んでいた。己の光輝く道を阻む者を天罰の名目のもと一刀に斬り捨てるような豪傑か、そうでなければ味方にも敵にも、それどころか道端の石ころにも愛を見出すようなお人好しの慈愛の塊だろうと考えていた。

 だがサタルは、そのどちらでもなかった。己が勇者であることを豪語こそするが、勇者であることを理由に己の言動を正当化することはない。激情から剣を振るうことがない。仲間であれ赤の他人であれ、光を見失った者を怒りや失望から突き放すこともしなければ、過ぎた憐憫や同情を寄せることもしない。

 彼は勇者としての己のあり方など、ほとんど意識していないようだった。ただ周囲から勇者を求められた時だけ、その役割をこなす。それ以外はへらへらとして、何事にも一線を引いているように見えた。

 その一線が、「私」は気になった。彼はその一線引いた場所から、何を見つめているのだろう。何を考えているのだろう。

 彼は何故勇者を名乗る? 快楽主義の彼が、どうしてわざわざ重い呪いを抱えて旅に出た? それほどに魔王を倒したいのか?

 しかし彼はそういったことより、もっと違う何かを見据えているようだった。その何かのために、彼は勇者であると豪語したり、魔王討伐の任を受けたりしているように思えてならない。

 そしてその何かのために彼が苦しんでいるのだろうことも、そのにこやかで頑丈な虚勢から稀に覗く表情に窺えた。

 死にたがりのエセ勇者。虚勢を張るお調子者。

 お前はどうして生きている?

 「私」は日々、彼を見つめ続ける。するとしばしば、鼓膜に「殺して」という囁きが蘇ることがあった。あの時の彼の言葉には、寝言にしては生々しい哀切な響きがあった。

 この男が本当に、生きることが苦しくて仕方ないのだとしたら。かつて夢うつつに求められた通り、息の根を止めてやった方がいいのだろうか?

 その考えは時折「私」の脳裏に浮かんでは、日々の戯れの度にかの白い喉元へ手を伸ばそうとした。

 しかし「私」は殺さなかった。否、殺せなかった。

 

 

 

「俺、君のことが好きだ」

 突然の告白は一瞬のことであったくせに、その何倍もの時間「私」を苦しめた。どうして己が苦しいのか分からないことも、それを助長した。

「あたしは嫌い」

 「私」は告白された夜、自室で鏡を前に一人言い聞かせた。

「だって軽いし、そのわりにひねくれてるし、うるさいし、分かりづらいし、生きていたいくせに死にたがるし、欲望に正直すぎるし、性欲の塊だし、女誑しだし、スケベだし、あたしのことよくおちょくるし」

 惑わされてはいけない、「私」は彼が勇者かどうか冷静に見極めなくてはいけないのだ。勇者でなかったならば、早急に離れなくてはいけない。本当に勇者だとしても、「私」は彼に殺してもらえるようにしなければなのだから、余計に心を動かすようなことがあってはならない。

 そう分かってはいても。

「わけわかんないこと言ってあたしの頭をいつも掻きまわして、ぐちゃぐちゃにして、そのせいであたしばっかりアンタのこと考えさせられて」

 「私」を知りたいと、「私」に死んで欲しくないと言ったことも、闇を救いであると言った意図も。

 初めは立腹することも多かった戯れのやりとりが、次第に不快でなくなっていったことも。楽しそうな笑顔で柔らかく己の名を呼ばれる度、こちらの口元まで思わず柔らかくほどけそうになることも。時折「私」に注がれる碧落の双眸を意識するだけで、真夏の日差しに焦がれたごとく、この身の内にくるおしいほどの熱が込み上げてくる理由も。

 分からない。考えても考えても、どうしてなのか理解できない。

 ――彼が勇者でなくて、しかも「私」からゾーマが落ちていたなら。

 結論も出ず堂々巡りもできない雑駁な思考が、勝手に夢想し始める。「私」は冷笑して、その妄想を頭の隅に追いやった。確かに闇の帝王はもう一年以上現れていないが、楽観にもほどがある。

 「私」は武闘着を脱ぎ捨て、下着一枚になった後姿を鏡に晒す。ランプの光を浴びた無防備な背中が、部屋の暗がりに白く浮き上がる。まだ、闇の刻印は現れていない。サタルは殺すべき相手じゃない。

 背中から肩に指を滑らせ、鏡から視線を逸らす。肩から下りるはずの指先は、無意識に首筋を伝い、耳殻を辿る。唇から、呼吸にしては大きい吐息が漏れる。

 鏡を振り返る勇気は、「私」にはなかった。

 

 

 

 サタルが、自ら一線を破った。

 彼が額からサークレットを取り去った途端、「私」は一瞬呼吸を殺された。少年の細身な背から溢れ出た気脈が洪水のごとく押し寄せ、「私」を飲み込んだのだ。

 かと思うと、「私」は次の刹那にはまた呼吸を思い出していた。もう、気脈に飲み込まれてはいない。

いや。「私」は肌に気が閃くのを感じて、すぐに思い直した。まだ、続いている。

 バラモスの前に立つ少年を仰ぐ。ただ佇んでいるだけなのにそびえ立つようだった。擦り切れた外套をまとう背に、青い魔力の衣がまとわりついている。魔法暴走時でもないのに現れたそれも十分異常だが、「私」は異なる理由から言葉を失っていた。

 ――気配が、違う。

 これまで彼は気が薄く、死に際の病人のようで掴みづらいと思っていた。だが、違う。気が薄いのではない。

 むしろ、強すぎるのだ。人間たちが神の掌に乗せられている己という存在を認識できないように、「私」は彼の巨大な気脈に飲み込まれていることを把握できていなかった。彼の気脈はある意味、神にも等しい。

 しかしまた「私」の頬の傍で気が爆ぜて、気付く。

 気脈というものは肉体と魂の調和から生じ、この世の万物に流れている。多くの生物にとって気脈のエネルギーが流れているのはごく自然なことである。だから、普通は皆己にそのようなものがあることすら認識しない。

 ところが、彼の気は時たまこうして爆ぜている。気脈が不安定なせいだ。気脈が通常通り流れているならば、このようなことは滅多に起こらない。

 即ち、彼の肉体と魂は調和していないのだ。

「俺は、ゾーマを倒すことで勇者をやめたいんだ」

 バラモスを蹂躙しながら殺すほどの力があるにも関わらず、サタルはどことなく憂いている様子だった。グリンラッドの長閑な窓辺で寝台に腰掛け、俯いた睫毛の影を落とす顔に、魔王戦時の不敵さなど微塵も感じられない。

 しかしもう、カノンには分かっている。彼は天災だ。

 人間の形をした、天災。

「俺は、ゾーマが滅ぼすべき恐ろしい存在だなんて思えない。魔物が憎いとも思えない。闇が滅び去るべきものだとも、思えない」

「アイツらは実際、その辺にいる個体を見れば分かるけど、大したことはしていない。だけど、自分の身近な人を奴らに害された人を除いて、人間はただ魔族という概念に、曖昧な恐れや怒り、憎しみを抱いている。それが魔族の力になることも、知らないで。人は知らずそれを肥大させ、自ら魔族の糧を撒く……」

「勿論、魔族は人間がそう思うよう仕向けてるんだ。そう生まれついてるから。でも人間も、そう思うようできてるんだ。お互い、そう生まれついてしまった」

「俺も似たようなものさ。魔族に対峙するほど、自分の昂る魔力を感じる。その強さに、こんなものが存在していていいのかって怖くなる。俺は、自分のこの……魔を滅ぼすために与えられた力が、怖くてしょうがないんだ」

 サタルは、ぽつりぽつりと独白する。

 「私」は彼の話を聞きながら、考える。彼をこの世にあらしめたのがどの神だか知らないが、そいつはきっと残酷な性格をしているのだろう。何せ天災に人間の殻と人並みの理性を与えるだけ与えて、この世に放り出してしまったのだから。

「でもそこから逆に、俺は一つの夢を持った。大魔王が滅びれば、俺の力もなくなるんじゃないかって。そしたら俺も、ただの人になれるんじゃないかってな」

 ひどいだろう、だから己と別れろとサタルは一方的に告げる。

 しかし、これくらいで「私」が離れるわけがない。

 ――アンタは自分を災いの元凶のように思ってるだろうけど、あたしにとってアンタは天の恵みだ。

 彼は己の力を恐れるあまり、その力が存在する原因を除こうとしている。利己的だと言うが、十分に他者のためになる。ゾーマのために、アレフガルドは死の世界に変わろうとしている。そうなったらもう、世界は機能しない。

 本当に全ての生物が幸せに暮らすことのできる楽園のような世界があるのだとしたら、少なくともそれはゾーマによっては成し遂げられない。彼の闇は、全ての生の輪郭を覆い隠し潰してしまう。光の神の導きが少なからず必要なのだ。

 だから光の強すぎるという彼がかの世界に舞い降り、ゾーマを倒してこそ、世界は均衡を取り戻す。

 仲間の信頼を覚えた少年の目尻から、一筋の涙が零れ落ちる。その偽りのない無垢な輝きを、「私」は認める。

 彼こそが勇者だ。この輝きこそ、自分が求めて来たものだ。

 彼が、「私」を殺してくれる。

 「私」の暗闇に、一条の光が差した。けれどずっと求めて来たそれは、「私」の根本に穴を開けるものだった。

 

 

 

 アリアハンの王座に、ゾーマの声の余韻が消える。「私」は膝から崩れ落ちた。

「カノン! どうしたの!?」

 アリアが隣にしゃがみ込み、「私」の肩を揺さぶる。しかし「私」はそれを聞いていなかった。己の鼓膜に、久しく訪れなかった闇の振動が伝わって来ていた。

 ――ここまでご苦労。お陰で、あのにっくき男の世界にも触手を伸ばすことができたわ。

「お前……」

 ――忘れたか? わしは既にお前に繋がっている。呪さえ完成すれば、お前の身体はわしのものだ。

 先程まで勝利の喜びに満ちていたはずの玉座の間は、まだ雑然として混乱しているようだが、今自分に聞こえているこれは誰にも届いていないらしい。「私」が広間に気を逸らしたことを知ってか知らずか、ゾーマは笑いを含みながら告げた。

 ――ちなみにいいことを教えてやろう。お前の器は、既に満ちた。

 うそだ。

 そのたった三音も発せなかった。

 ――何もその数通り殺さなければならないのではない。知らなかったか? 精霊さえ満足すれば、いつだって憑依できるのだよ。

 特にわしはモノに憑く魔族で、お前は格別の闇の加護を受けているからな。

 ゾーマのひときわ優しい声が、頬を撫でる。

 ――お前は良い子だ。わしの期待以上の働きをしてくれた。だからわしは、まだお前の身体を奪わないでおこう。お前の姿が次第に醜く変わりゆくその時までも、慕う男の傍にいさせてやろう。

 何も言わない「私」の周囲で、空気が小刻みに揺れる。ゾーマが嗤っている。

 ――嗚呼。やはりお前の絶望は蜜より甘い。

 

 

 

 しばらくぶりのアレフガルドの真っ暗な朝。姿見に己の背を映したその時に、「私」の世界は凍り付いた。

 背に薄く、本当に薄く浅黒い文様が浮かび上がっている。世界を表す十字架を蝕む竜と、それを囲むようにおびただしく連なる精霊文字からなるそれは、間違いなく闇の刻印だった。

 これが意味することは二つ。一つは殺すべき対象が近いこと。もう一つは、「私」がこの肉体を闇の帝王に明け渡す時が近づいてきたこと。

 「私」は、サタルにこのことを告げなくてはと思った。そもそも、本当ならもっと早くサタルにこのことを打ち明けるべきだったのだ。しかし彼が勇者であるという確証を持てなかったために、今の今まで引き延ばしてきてしまった。

 いや、それだけではないか。

「それでもこの世界をまるごと包み込み蝕む闇の力と、何でも切り裂き焼き尽くしてしまう光の力と。危険性で言うならどっちだって同じなんだ」

「そうか?」

「仮に俺が力づくで世界中に言うことを聞かせてやる! って言いだしたら、それは魔王と変わりない。そうだろ?」

 刻印があらわれ始めてから二日後。サタルとの手合せを制して、「私」は彼と仲間たちの会話に耳を傾けていた。

 また彼は、まどろっこしいことを話している。出会ったばかりの頃は彼のそんな語りを聞いていると苛立ちしか覚えなかったが、最近はそうでもなくなってきた。

「まあ、そうだな」

「でも、サタルはそんなこと言わないと思うわ」

「俺も今はそう思うよ」

 戦士が肯定し、アリアが考えを述べ、サタルは他人事のように返す。それから勇者は、おもむろに上体を起こした。

「よく見極めなくちゃ。そのために、俺みたいなこの世界のモノじゃない人間が降りて来たんだ」

 遥か彼方、故郷の水平線を眺めているような色をした彼の眼差しと、その彼が大地に刻んだ大きな傷痕を「私」は眺める。

 「私」はもうじき、彼に殺される。

 先程の彼の剣で瞬きすらできないほどの間に殺されていたなら、どんなに楽だっただろう。今死ねなかったせいで、「私」はつい、あとどれだけの時間が自分に残されているだろうなどと考えてしまう。「私」はその利己的で贅沢な思考に、自虐的な笑みを浮かべる。

   今更真実を告げたところで、何になるだろう。  このまま何も知らせず、己の戦う相手が何であったかも知らない状態で殺してもらった方が良い。

    まだ時間は、僅かながらある。その間に、せめてできることをしたい。

 彼を、今後戦う「私」に絶対負けることがないよう鍛えられるのは、「私」だけだ。

 背中の皮膚が、己の意思に関わりなくぴくりと跳ねた。

 

 

 

 どうにかマイラまで来ることができた。だが、もうこれまでらしい。身体が時折、まるで言うことを聞かなくなる。別の生き物になってしまったようだ。

 だが、まだ魂までは呑まれていない。「私」として機能している。まだ、自力でここから去ることはできる。それを認識しながら、「私」は最後の夢を見る。

 できるだけ長く、これまで旅をしてきた皆の役に立ちたかった。

 キラナにはもう会えないだろう。スランと商売の方に精を出して、逞しく生きていくはずだ。それでいい。

 テングは帰って来るのだろうか。アレフガルドに降りてくるなり別行動に出たけれど、きっとこれからも愉快に過ごしていくのだろう。

 アリアと少しでも多く、取るに足らない話をしたかった。

 フーガが斧を振るうところを、もう一度見ておきたかった。

 サタルと――サタルとは、どう接したらいいか分からない。

 とにかく「私」が「私」でいられるうちに、こっそり彼らと別れて、ゾーマの城で一人、この世界に別れを告げよう。多くの命を本人の許可なしに終わらせてきた「私」にそれができれば、上出来すぎるくらいだ。

 十分だ。

 もう十分、生き延びた。

 「私」は己の人生を振り返って、正直にそう思う。極悪人の自分には過ぎる幸福を味わえた。幸せだ。もう満足していいだろう。

 満足していい、はずなのに。

 誰かに呼ばれた気がして、「私」はうっすら瞼を押し開けた。今まさに思い浮かべていた人物が、枕元から「私」の顔を覗いていた。

 ちょうしはどう、とその唇が動く。「私」は首を縦に振った。

 形の良い唇。今まで、散々これに惑わされてきた。散々腹を立てさせられ気も動転させられて、それを表に出さないようにするだけで精いっぱいで、何度も何度もいい加減黙ってくれないかと思ったけれど。

 彼が立ち上がった。その天と海の鮮やかな瞳が、「私」から逸れる。

 行ってしまう。踵を返す背中。その袖を、「私」は引いた。彼が驚いたようにこちらを振り返る。

「どうかした?」

 彼が訊ねる。その声色は、ゾーマと異なる温かさに満ちている。「私」の胸で消えようとしていた灯火が、それにつられて再び燃え上がった。

 話したいことがあってと「私」は言い、それからはたと気付く。

 「私」は、何を話したらいいんだろう。

 生き延びて欲しい。でもそう言ったら、「私」の秘密がバレる。彼に聞きたいことがたくさんある。もう一度笑わせて欲しい。くだらないことで言い合いをしたい。話すべきことだって、もっと。

 横たわる寝台が軋み、「私」は伏せていた目を上げる。彼が拳一つも挟めない距離から、「私」を見つめている。あの憧れて止まなかった碧空の双眸が、「私」を凝視している。それを意識するだけで、己の心臓は今にも壊れそうなほどに激しく速く、最期の時を刻む。

 彼の指が、「私」の頬をなぞる。ゆっくりと伝わってくる心地よい温度に、「私」の胸の底に封じようとしていた記憶が溢れ出す。アッサラーム内海の穏やかな風が、彼の指先と共に蘇る。

 もう、「私」の言葉なんて要らない。そんな時間はもったいない。憎まれ口も叩かないし、ちゃんと言葉を最後まで聞くし受け止めるから。

 だからどうか今一度、たったの一回だけでいいから。

 あなたの綺麗な瞳に、汚れた「私」を映したまま微笑んで。

 あなたのその唇で、言葉で、「私」を惑わして。

 胸がどうしようもなく締め付けられるのに甘く痺れるような、あの苦しみをもう一度。

 「私」に。

 

 

 

 

 

 瞼を上げる。あれほど先が見えないと思っていた長い道に、終わりが訪れた。

 終点は、青紫の十字型をした絨毯に繋がっていた。十字の奥には玉座が据えられており、その背を守るように壁が聳え立つ。

 玉座の前に、影が佇んでいる。背はサタルの身の丈よりよほど高く、褪めた色の肌やそのぬめり気を帯びた光沢、長く伸びた手足に、生えそろった恐ろしい鉤爪は明らかに魔族のものである。しかしその胸から上には、不釣合いに小さな人間の少女のトルソーが生えていた。

 サタルが近づくと、魔物の身体が脈打つようにビクビクと痙攣する。少女の黒目がちな瞳は、身体の動きとは対照的に滑らかに眼下の少年を見下ろした。

「サタル」

 やっぱり来たんだね、とカノンの顔が言った。サタルは彼女を仰いで、相好を崩す。

「君にまともに名前を呼んでもらえたの、久しぶりだなあ」

「そうかい?」

「うん。だっていつも、アンタとか馬鹿とかって呼んでるだろ?」

「そうだったかもしれないね」

「君とまた話せて、嬉しいよ」

「嘘つき」

「本当さ。君は?」

「あたしは、話したくなかった」

「つれないなあ。俺はずっとずっと、君のことばっかり思ってたのに」

 カノンは鼻を鳴らした。

 二人はいたって平素通りの様子で会話をした。ここが闇の懐深い所でなく、またカノンの身体がグロテスクな魔族のものでなければ、まるでしばらく別行動をしていた二人が宿屋や町ででも再会したかのような、打ち解けた雰囲気であったことだろう。

 しかし、カノンの胸の辺りからじゅくりと湿った音がする。歪でまだらな魔族の肌が蠢き、その下の滑らかな彼女の肌の上を這って覆い、吸い付いていた。すると、吸われた皮膚がたちまち萎れ、不毛の大地のような魔物の肌に変わっていく。

 カノンのもう胸より上しかない身体は、今もなお蝕まれ続けているのだ。それを理解したサタルは、再びカノンの頭を見上げて口を開いた。

「君の記憶を見た」

「記憶?」

 彼女は何のことか図りかねているようである。サタルは言い換えた。

「君の残留思念。人は、死ぬ間際に自分の存在を少しでもこの世に残しておこうとするかのように、無意識のうちに記憶を幽霊の形で残していくことがあるんだよ。君もノアニールの洞窟で見ただろう? あれと同じように、これまでに君が隠してきた、君自身のことを見てきた。アレフガルド出身だったこと、ゾーマを宿していること、また闇を信仰する一族の出だったこと。そして、たくさん人間や魔物を殺していて、俺のことも殺すはずだったこと」

 サタルが言葉を紡ぐにつれて、カノンの真っ青な顔が硬くなっていった。

「疑わないの?」

 カノンは、それまでとは別人のような小さな声で呟いた。

「本当はこのアレフガルドを完全な闇の世界にしようとしているあたしが、ゾーマの力を借りてアンタにわざと同情を引くような記憶を捏造して見せて、騙そうとしてるんじゃないかって、思わないの?」

「そんなことはできないよ。いくら強い魔族でも、他人に本人とも術者とも違う別人格の思考を強いることはできない。それにそうやって同情を引く気なら、これまで一緒に旅をしてきた中でいくらだってできたはずだ」

 サタルの言葉に、カノンが目を眇める。彼はさらに、追い打ちをかけるように言う。

「そして何より、君なら知っていたよね。俺は確かに美しいモノが好きだけど、醜いモノを美しい型に当てはめて誤魔化すのが大嫌いだって。たとえば」

「天性の勇者に対する、同情とか」

 カノンが英雄の足跡を残した村を思い出したのか、答えた。サタルは笑みを深くする。

「そう。父の遺志を継がされてかわいそうだ、他にやりたいこと、生き方があるだろうに、勇者をやらなくちゃいけないなんて気の毒だ、魔王に殺されるかもしれないことを思うと今から怖いだろう、なんて哀れな――」

 サタルは大きく両手を広げ、身振り手振りを交えて過去に己が言われてきたことを再現する。最後に胸に手を当て祈るようなポーズを取った後に、おどけた仕草で肩を竦めた。

「耳障りなんだよ。どれもこれも。何も知らないくせに。俺は自分の意思で魔王討伐の任についた。自分から父の遺志を継ぐって、アリアハン王に宣言した。俺は恐怖も危険も全部ひっかぶる覚悟で、そうした。もちろん想定外のことだってあったさ。でもそれだって、今更とやかく言うつもりはない。だって、自分でそうするって決めたんだから」

 そして勇者は、魔にその身を捧げつつある少女を真っ向から見据える。

「カノンもそうじゃない? いくら洗脳同然に育てられ命を奪ってきたにしても、それは君自身の意思でやったことだ。背負っていくつもりでいるんじゃないの?」

 少女は答えない。しかしその漆黒の双眸が逸らされないことが、何よりの答えだった。

「君と俺は、よく似ているよ。君が見つめたのが死で俺が追い求めたのが生だとしても、とてもよく似ている。それは、俺たちが見つめていたものは表裏一体だからだろうね」

「生だけを、または死だけを除き、残った方を享受することはできないよ。だから君には、これから俺がそれを教えてあげよう」

「はっきり言いなよ」

 カノンが口を開く。

「アンタは、あたしを殺すんだね?」

 彼女の眼差しは、一瞬たりともサタルから逸れなかった。彼は死を前にしても一点の曇りのない対の黒瑪瑙に、魅入る。

「遠慮しないで。願ったりなんだから。アンタももう知ってるでしょ? あたしは、アンタに殺されるためについて来てたんだから、これで満足なんだ」

 カノンはゆるゆると、溜め息を吐いた。その色褪せても官能的な口元が弧を描く。

「長かった。ずっと、アンタがゾーマを殺せるか考えて悩んできたけど、やっとアンタなら大丈夫だって思えるようになったんだ。これで、安心して――」

「君は本当のことを隠し通すのが恐ろしく上手いけど」

 サタルが言葉を被せると、彼女は目を見開いた。その表情を見つめ、彼は首を横に振る。

「やっぱり、嘘を吐くのは下手だね。満足なら、どうしてそんな泣きそうな顔をするの?」

 彼女は、涙を堪えるように笑っていた。頭を横に振って顔を見られそうなものを探すが何も見つからず、カノンは首をできるだけ逸らし俯く。

「適当なこと、言わないで」

「悪いけど、これはそういうことにはしてあげないよ」

 サタルは彼女の願いをやんわりと退けた。

 じゅぶ、じゅぶり。カノンの肌を、また新たに魔王の皮膚が侵していく。サタルは改めて確認する。

「本当に呪は、完成したの?」

「うん」

 カノンは頭をこちらに戻し、今度は明らかに唇を歪めて笑った。

「アンタに散々厳しいこと言っといて、笑えるよね。こんな情けない姿晒しちゃってさ」

 これが頭まで達した時、あたしはあたしじゃなくなる。

 少女は独り言のように呟いて、サタルへ眼差しを移して首を傾ける。

「ねえ、サタル。あたしはこれまでずっとゾーマの依代として生きてきた。だから他人よりずっと死に寄り添ってきたはずなのに、どうしても分からないことがあるの」

 教えてくれる? そう問うて、カノンは囁く。

「どうしてあなたは、もがき生きるの?」

 宵闇の双眸と碧落の双眸が、交錯する。

「死を意識しながら、自分が生きている必然性も分からないまま、どうして闇雲に生きようとするの?」

 重ねられる問いに、サタルは微笑み返す。

「それは、カノンも薄々分かってるんじゃない? どうして自分に、その答えが分からないのか」

 カノンの瞬いた漆黒に、己の姿が映っている。この忌まわしいものも美しいものも等しく映し出す強気な瞳が、サタルには何より愛おしかった。

「俺はただ単純に、まだやりたいことがいっぱいあるから自分の心の赴くままに生きているよ。そんな俺に生きる必然性なんてあると思う?」

 サタルは聞いておいて、カノンが答える前に自分で答えた。

「はっきり言って、ないよね。母乳が欲しいから泣く、入浴が気持ちいいから笑う、そういう赤ん坊と、俺も根本のところは変わらないよ。俺だけじゃなくて生き物はみんなそうさ。獣が獣を殺して喰らうのも、母親が子供に美味しいご馳走を食べさせてやりたいと思うのも一緒。どんな慎ましやかな願いだって欲望さ。欲に貴い賤しいはない」

 少女は眉根を寄せている。それでも彼女は、サタルを注視するのをやめない。

「みんなみんな、個々で見れば全て生きている必然性なんてない。もっともらしい理屈を言ったって、結局のところみーんな自分勝手さ。けれど、これを全体で見ると話は変わる」

「どういうこと?」

「欲がなければ、俺たちは生きられないってこと」

 サタルは淡白かつ簡潔に告げた。

「生きることに理由があるかと聞かれれば、そんなのヒトによるとしか言えないよ。やりたいことがあるから生きるんだろ。そのやりたいことの水準を高めすぎて逆に死にたくなることだって、あるんだろうさ。欲望は卑しくて醜くて、そして強い」

「カノンだって、何かやりたいことがあるだろ? 散々死に損なってきた俺にだって、今すごくやりたいことがあるんだからさ」

 サタルはそう言って口を噤み、じっとカノンを見つめる。その言わんとすることを推察して、彼女は自虐的な笑みを浮かべる。

「さすがのアンタも、こんな姿の女なら簡単に殺す気になるよね」

 浅黒い怪物の容姿は、彼女の鎖骨の辺りにまで及ぼうとしている。サタルは少女が次第に魔物に侵食されていく様を凝視し、それからその顔に視線を戻して告げた。

「確かに君は今、とても醜いよ」

 それを聞くと、カノンは明らかに傷ついた顔をした。その表情の変化を認めて、サタルはうっすらと微笑む。

「残念ながら俺には魔物性愛の趣味はないからね。けど、何も醜いものが嫌いなわけじゃない」

 彼は魔族へと変わりゆく少女へ向けて、両腕を広げた。

「カノン」

 青い双眸を眇め、こっちにおいでと呼びかけながら手を伸ばす。その意を図りかねながらも、カノンはおずおずと身をかがめる。その太く蒼褪めた腕が、少年の傍につく。サタルはそれを勢いよく引いた。

 意表を突かれたカノンの上半身が、がくりと折れる。サタルは己の頭上に落ちてきた頭を腕で抱え込む。丸くなった黒い瞳を覗き込むと、その驚愕に揺れる黒瑪瑙に己の蒼玉が寸分違わず重なった。眼差しと眼差しが絡み合う。それを確認した唇が、勝手に弧を描く。サタルはそのまま腕で彼女のうなじを締め付け、弧を描いたままのそれでふくよかな唇を塞いだ。

 初めて触れるカノンの唇は、死人のように冷たかった。色だって人間ならあり得ない青さである。しかしその柔らかさはずっと彼が思い描いてきた通りで、繰り返し啄みながら生温い舌を己のものでなぞれば、その枯れゆく生命を感じさせない熱い吐息を、濡れた唇からとめどなく漏らした。

「ね、ダメ、やめて、サ、っ」

 息を上げながら制止をかけようとする声、上擦ったその声は間違いなくカノンのものである。その声がやがて己の名と制止の言葉と形にしようとしても崩れ、ただ呼吸をしようとして意味のない音を発し続けるだけになるのを、サタルは口付けながら恍惚として聴いていた。

 少女の頭から力が抜け、唇が熱く濡れそぼったことを認めた時、少年はやっと捕らえていた花唇を解放した。カノンは、くったりと脱力した瞳で彼を睨み付ける。サタルは己の背筋をこの上ない歓びが駆け抜けるのを感じた。

「好きだ。愛してる」

 サタルは左手をカノンの首の後ろに添えたまま、右手で彼女の青い頬をさすりつつ囁く。指が頬から耳を掠めて、そこでやっとこれまで少年の両脇に垂れただけで機能していなかった彼女の腕の片方が動き、小さな手を退けた。

「命乞いしたって、無駄だよ」

 カノンは乱された呼気を整えながら、勇者を詰る。

「あたし、もう死ぬんだから。アンタと戦うのは、ゾーマなんだから」

「それ、これだけキス受けといて言うことじゃないでしょ」

 サタルは嬉しそうに言って、まだ薄く開いて荒い吐息を漏らしたままの彼女の唇に右手の人差し指を添えた。

「今の君の力なら、俺の拘束を解くのくらい簡単だったはずだよね? 普段だって散々俺のこと殴れてるんだから、できたはずだよね?」

「アンタのそういうところ、ホンットうざい。嫌い」

「君のそういうところ、俺はすっごく好き。嫌い嫌いって言いながら、俺のこと、勇者であることも含めてまっすぐ見てくれようとしてただろ?」

 だから好き、とサタルはもう一度繰り返す。

「理屈じゃないけど、簡単で当たり前なことなんだよ、カノン。考えても考えても筋が通らないのに、通っている。君が死ななければ死ななければと思いながら生き続けているのと同じように」

 勇者の清らかな煌めきを放つ鎧を纏った腕は、魔に憑かれた少女の頭が己以外へ逸れないよう固定する。サタルは青い双眸いっぱいに彼女の顔を映して、満面の笑みを浮かべた。

「俺、カノンのことが大好きだよ。今の見た目になっちゃって、嫌いなはずの俺の目を気にしちゃうようなところも大好き。普段の、見た目なんて全く気にしてなくて武術ばっかり重視してるところも好き。愛想がないところも、そのくせ嫌いなはずの俺を気にかけてくれる優しいところも大好き」

「やめろ」

 カノンはキツく目を瞑って、吐き捨てる。

「同情なんて、何にもなりゃしない」

「違うよ。何度も言ってきただろ?」

 サタルは彼女の小さな耳に唇を寄せる。

「君が可愛くてしょうがないんだ。大好きだよ」

「やめて」

 瞼の横に、ぽたりと何かが落ちた。サタルがそれを目視しようとするより先に、また仰いだ少女の眦からそれが溢れてくる。熱い雫がサタルの瞼の傍に再び落ち、米神を伝った。

 カノンが、泣いている。

「せっかく諦めようとしてたのに。生きたくなるようなこと、言わないでよ……ッ」

 彼女は、ぱたぱたとサタルの頬に温かく優しい雨を降らした。それはしゃくりあげることもできない、絶望の涙だった。

 サタルは衝動的に、彼女を胸に掻き抱きたくなった。しかし己が今硬い鎧を纏っていることを思い出し、そっとその身体を引き寄せるだけに止める。潤んだ大ぶりな瞳の縁に舌を這わせ、零れる涙を拭う。

 カノンの首の皮膚が、じわりじわりと硬くなっていく。彼女が魔族になる時が近づいている。サタルはそれを察して、彼女の頬を両手で挟んだ。薄く水のヴェールを纏った瞳が、こちらを見つめ返す。

「カノン、頼みがあるんだけど」

「あれのこと?」

 彼女は眉を下げて笑った。その拍子に、また涙が一粒零れる。

「それなら守れないよ。アリアとフーガには、アンタから」

「そうじゃない」

 サタルは言葉を遮り、首を横に振って告げる。

「今から君を、ゾーマを、この世界から放つ」

「殺すって言って大丈夫だよ」

「いいから聞いてくれ」

 彼の強い口調に気圧され、カノンは口を噤む。

「ゾーマを倒した後、君ともう一度話がしたい。それまで耐えてくれないか」

「耐える? どういうこと? だってゾーマを殺す前に、あたしは」

「身体を乗っ取られたって、心がすぐ死ぬわけじゃない」

 カノンは双眸を瞬かせた。

「これは俺の予想だけど、多分ゾーマの魂に取り込まれてもすぐに自我を失うわけじゃないと思うんだ。ゾーマの精神世界を彷徨う形になるはずなんだ」

「精神、世界?」

「霊界だよ。全ての生物の魂は小さな世界みたいなものなんだ。テドンでのことを思い出してみて。あれが、寝てる時に見る夢に近くなるような感じ」

 少女は眉を顰めて考え込んでいる。その表情に、サタルはかぶりを振ってみせる。

「理屈を完璧に理解しなくてもいい。ただ、君はすぐに死ぬわけじゃない。それを頭に入れといてくれ」

「つまり、それは」

「君の魂は、まだ生き延びられる」

 カノンの瞳が、つと大きくなる。黒目がちなそこに小さな灯火が宿ったのを認め、もう少しだと肩を掴む手に力が入った。

「ゾーマの精神世界は、きっと気持ちいいものじゃないと思う。絶望と怨念と悲憤の吹き荒れる負の嵐みたいな、そんな世界だ。そこでゾーマに完全に飲まれて自我を失ってしまったら、君はその一部になりきって消滅してしまう。だけど、どうにか自分を保ってくれないか。そうしてくれれば、カノンの魂は消えずに済む。俺がゾーマを倒して、もう一度君に身体を返してあげられる」

「そんなことできるの?」

「分からないけど、俺は勇者だから」

 できるとしたら、俺しかいない。

 サタルがそう断言するのを、カノンは瞠目したまま凝視している。

「でも自我を保つって言ったって、どうすれば」

 そう言いかけたカノンの唇が、ふと止まる。サタルが再び、人差し指をカノンの唇に添えていた。彼はいたって真摯な面持ちで尋ねる。

「ねえ、俺のキス気持ち良かった?」

「はあ!?」

 カノンの大きな黒目が、大仰なほどに泳いだ。肌が青いため表情が読みづらいはずだが、それでもひどく動揺しているのがよく分かる。

「ば、バカっ何聞いて」

「ねえ」

 しかし、サタルは真剣な顔つきを崩さない。カノンは目を逸らし、渋々答える。

「分からないけど……悪くない、気がする」

「じゃあ、それを覚えといてよ」

 少年はにこりとして頷いた。

「少なくとも俺のこと考えててくれれば、俺が後で呼んだ時に身体に帰りやすくなるから。まあ、そのことじゃなくてもいいから何か楽しいコト考えてて。たまに俺のこと思い出してくれればそれで――」

「分かった」

 だがカノンは、予想に反してはっきりと了承した。

「アンタのこと考えてるよ」

 こちらを見上げる幼い顔立ちは、己より勇ましい。サタルはそうこなくっちゃと笑った。

 ぱちん、と髪留めが弾けた。カノンは自らの髪を括っていた青玉が地面を転がっていくのを視界の端に捉え、太くなった指でそっと少年の胸を押す。

「もう、ゾーマが出てくる」

「ならもう一回」

「ダメ」

 もう一度顎を捉え引き寄せようとした腕から逃れ、カノンは上体を起こす。

「さすがに近くで見られてるの嫌だから、離れて」

「そっか」

「後で」

 眼差しを床に落としていたサタルは、その呟きを聞いて頭を上げる。遥か上方にいるカノンが、明後日を眺めながら独り言のごとく漏らす。

「後でなら……また、してくれてもいいから」

 サタルの口が、あんぐりと開いた。顔を余所に向けていたカノンが、時折遠慮がちな、それでいてどこか期待しているような目つきでこちらの様子を窺っている。

 状況が状況なら、幸福のあまり意識が昇天していたかもしれない。

「誠心誠意、頑張らせて頂きます」

 サタルの妙にしゃちほこばった返答に、カノンは呆れたように笑った。しかしその顔がすぐに歪んで、鉤爪の生えた片手が顔を隠す。

「じゃ、また」

 指の隙間から、かろうじて残った目が覗いて苦しげに微笑む。サタルは同じ笑みを返した。

「愛してるよカノン。また後でね」

 少女の頭が仰け反った。魔族の裸体から、顔だけが消え失せる。魔が生気を啄む湿った音が次第に大きく、せわしなくなっていく。音と比例して場の緊張が爆発的に高まる。

 ピシィ、と。卵の殻が割れるのに似た音が、空気を凍らせた。

 サタルは王者の剣を鞘走らせる。青い裸体が背後の玉座に倒れ込んだ。その周囲をどこからともなく忍び寄った闇が覆う。密集する暗黒。渦巻く漆黒の濃度が増し、やがてぴたりと動きを止めた。

 沈黙が場を包む。一息の後に、暗闇から白い目が三つ忽然と現れた。

「貴様はいい働きをしてくれた」

 三つ目の持ち主――魔王ゾーマは自らの肌より褪めた王者の衣を悠々とはためかせ、遂にその玉座より立ち上がった。

 「貴様があの娘を見つめれば見つめるほど、あの娘の中の闇は濃く深くなっていった。実に、居心地のいい住処になった」

 サタルは無表情に魔王を見上げる。カノンの肌を覆っていった不毛の青い大地は、そのまま彼のものだった。髑髏にその皮をはりつけたような顔、赤く瞳孔の小さな目玉が三つ、三つ葉型に並んでぎょろりとこちらをねめつける。

 立派な二本の角を生やした黒兜を伏せ、ゾーマは高みより彼に尋ねた。

「わしの用意した舞台はどうかね?」

「いやあ、いまいましいほどに素晴らしいよ」

 一転、少年は目を細めにこやかな笑みを浮かべる。

「他人の想い人を刺客に仕立てるなんて、いい趣味だ。並の人間なら泣きながら『戦いたくない!』って喚いただろうな。きっとあなたの好みだっただろうね」

「お前は喚かないのか?」

「こう見えて負けん気が強くてね」

 双眸がすうと開かれる。整った口元で弧を描いたまま、勇者は言い放った。

「それに俺は、並の人間じゃない」

 それを聞いた途端、ゾーマは大笑した。地下に魔王の哄笑が木霊する。

「随分と勝気だな。よほど腕に自信があると見える」

「やだなー、そんなのあるわけないじゃん。けど、信じなくちゃならない時ってあるだろ」

「途中に残してきた同胞をか」

「違う、俺のこと」

 サタルは手にした剣を、いい加減な手つきで持ち上げ左右に振る。

「俺ははっきり言って、フーガほどの力も度量の広さもない。カノンほどの技術も胆力もない。アリアほど魔力も安定しないし、博愛精神もない。キラナほど頭が切れるわけでもないし、スランみたいな一途さもなければ、ルネほどの情熱、テンちゃんほどの知識もないよ。それでもみんな、俺のこと認めて『帰って来い』って言ってくれたから」

 この場を任せろという台詞は、共同体を分かち合うものとしての信頼の証だった。

「それなら俺も、帰りたい」

 薄青の刀身が前へと水平に倒れ、ゾーマを差す。差された魔王は、同様に眼差しを剣呑にぎらつかせた。

「あなたがこの世界から手を引いて、カノンも五体満足で返してくれるなら考えるんだけど」

「抜かせ」

「だよなあ」

 サタルは溜め息を吐いた。最初から、戦いが避けられないのは分かっていたことだ。

「確かにあなたみたいなやり方もあるとは思うんだよ。あなたはヒトの一人ぼっちの感情に寄り添って認めてやるからね。俺の胸で存分に泣けって言われてるみたいで、みんな安心するんだろうな」

「ほう。ならば」

「ただ、あなたは制限を知らない。秩序を破壊しすぎる。秩序を破壊する者は、他者を壊し傷つける」

「ふふん。一丁前に断罪者気取りか?」

 ゾーマはせせら笑う。

「お前のやっていることも破壊だろう。お前は今、闇の秩序を破壊しようとしているのだぞ?」

「この世界のモノじゃないくせにこの世界の秩序を壊しておいて、何言ってるのさ」

 勇者は肩を竦める。

「因果応報だよ。あなたがこんなことをするから、俺が出張る羽目になったんだ」

「光の神の手先、その復讐に縛り付けられた人間風情が」

 魔王は腕を広げ、つまらなそうに黒兜を横に振る。

「未練がましい者は美しくないぞ」

「いいんだよ。俺は何しても美しいから」

 ゾーマが歯茎を剥き出した。

「滅びこそ我が喜び。死にゆく者こそ美しい」

 咄嗟にサタルは身構える。広げたゾーマの両腕から、凍てつかんばかりの波動が伝わってきた。

「これ以上の問答は無意味。さあ、我が腕の中で息絶えるがいい!」

 

 

 

 

 闇の帝王ゾーマは、確かに帝王と呼ばれるだけのことはあった。彼が殺意を剥き出した途端、建物の隅で沈黙していた暗闇が蠢きだし、この地下世界が現世から離れつつあるのをサタルは感じ取った。壁も床も黒い氷でできているのではないかと紛うほどの冷気が、彼の骨の髄を蝕もうとする。父と師が作ってくれたサークレットと、ルビスの塔で見つけた光の鎧がなければ、普段通りに動くことはまず不可能だったろう。

 ゾーマが手足を振るう度に、冥府の凍てつく旋風がサタルを襲う。彼は初めそれを盾で防いでいなし、隙を狙って剣や魔法で攻めていたが、やがて面倒くさくなって盾を投げ捨てた。

「守りを捨てるのか」

 ガランと音を立てて転がる盾を、ゾーマは面白そうに見遣る。サタルは彼の攻撃が届かない十分な位置で、軽くなった左腕をほぐすように回しながら軽口をたたいた。

「攻撃は最大の防御っていうだろ?」

 正直言うと、サタルは盾を使った戦いをあまり好まない。しかしフーガが盾を使った戦い方も覚えておいた方がいいと主張したため、日頃から使うようにしていた。

 戦士がそう言った意味が、今なら身をもって感じられる。盾で守りを重視しながら戦ったことはサタルに思考の余地を与え、敵の戦力を見極めることを可能にさせた。

 ゾーマは見事に、闇の住人にふさわしいステータスだった。身のこなしは疾風のごとく、操る術は水属性、特に死に近しい氷に特化している。最上位冷気呪文と身を凍てつかせ魂さえ削り取らんばかりの吹雪を自在に操る。おまけに、その拳や足からなされる物理攻撃も桁外れに強烈だ。

 さらに厄介なのは、あのゾーマの頭身を包むように漂う衣の如き闇である。あの闇は魔法をゾーマに届かせない。天雷の呪はまず通らない。比較的よく効くのは火炎系、真空系。しかしサークレットを着用している上に一騎打ちでの長期戦が見込まれる今、攻撃のために多く魔力を割くべきではない。

 剣を両手で握り直し、目の横で水平に構える。その手にした穹天の剣に似て双眸が鋭さを増し、ゾーマも灼眼を眇めた。

 勇者は地を蹴り、一息に間合いを詰める。来るのが分かっていて迎え撃たないわけがない。ゾーマは正面から迫りくる彼へ、容赦なく地獄の氷礫を浴びせた。はたして碧空の鎧姿は、その中に飲み込まれた。

 白嵐に視界が曇る。身の守りも疎かにした割に、粗末な――ゾーマが冷笑しようとした時、眉間がピシリと疼いた。反射的に身を引く。蒼き炎が縦一文字に冷気を斬った。その超高温の刃がゾーマの顔に、衣装に縦一文字の亀裂を刻む。

「うん、こっちの方がいいな」

 地獄の吹雪く風をぶったぎって現れた勇者は、ゾーマの顔に薄く黒い鮮血が引かれたのを見てその秀麗なかんばせに薄い笑みを乗せた。そのままついでと言わんばかりの軽さで、下段から十字、袈裟懸け、横一字と続け様に斬りつける。急に精度と速度、更には重さまで増した剣に対応が遅れ、ゾーマの身体にその軌跡通りの黒が刻まれ、同時に派手な飛沫となって飛び散る。

 大魔王は両腕を広げた。

「我が恐怖に、世界よ凍てつけ――」

 その前詠唱だけで、頬周りの空気が音を立てて凍りゆく。サタルは後方及び上方四十五度に、大きく跳躍する。

「マヒャド」

 頭上から、足下から、己の身の丈よりある氷柱が数多突き出でる。氷柱の群はゾーマを中心として波紋よろしく広がり、既に凍っていた地もなお凍らせサタルを追う。

 宙を舞っていたサタルの高度が次第に下がる。そこへ氷の銛が天地両面から襲い来る。蒼炎が砂時計を描いた。その蒼い輪郭そのままに、襲い掛かろうとした氷柱が分断される。サタルはその床側の方を足掛かりに跳ね、既に氷柱が形成されて動きを止めた領域へ降り立つ。

「うっわー、すごいな。最上級でこの威力か」

 彼は己の周囲に出来上がった氷柱の森に感嘆の声を上げる。

「反則だね! さっすが大魔王様」

「そう言うお前も」

 ゾーマの赤い瞳がサタルの頭からつま先、そして手にした得物まで映す。

「得意の魔術を使ってこないと思った矢先に、妙な小細工を仕込んできおったな」

 少年勇者の双眸も剣も、同じ蒼炎に煌めいていた。彼は燐と輝く瞳で三日月を形取り、剣を軽く掲げて見せる。

「これ、効率いいんだよね。素敵な一撃だっただろ?」

 通常通り大気中に魔法を発生させず敢えて媒体とするものにそれを宿すことで、打撃と魔法双方の威力を高めたのである。何気なくこなしてはいるが、剣技と体術と魔法のどれにも万遍なく集中することが必要とされるので、サタルがこれを扱えるようになったのはアレフガルドに降りてきてからのことだった。

 魔力のコントロールに秀でたアリア、剣技に長けたフーガ、身のこなしに優れた技量を持つカノン。三人の指導を受け、やっと使いこなしたのである。

 サタルの燃え立つ瞳がゾーマを収め、挑発するように揺らめく。

「これなら、ちょうどお前一人を殺るのにお手頃なサイズでいいよな」

「お前の魂胆は分かっている」

 しかしゾーマは乗らない。右手でその胸を差す。

「この身体を、なるべく傷つけたくないのだろう。だから、我が配下をかつて屠った時のように魔法を乱れ打ちしないのだ。違うか?」

 サタルは落胆したように溜め息を吐いた。

「やだなあ、冷静な相手って」

「お互い様だ。わしも、わし相手にここまでいきり立ちも怯えもしない人間は初めて見た」

 ゾーマは珍しい動植物でも観察するような目つきで、勇者を凝視した。

「恐ろしくはないのか?」

「いや、怖いよ」

 少年はあっけらかんと認めた。

 それでも彼は、この種の恐怖との付き合いが長かった。何せ己自身がいつ爆発するとも何度爆発するとも知れない、永遠に蘇る爆弾岩のようなものなのである。

 襲い来る死も圧倒的な力も、どちらだって恐ろしい。しかし、慣れさえすれば付き合い方もいい加減分かる。

「怖くても、自分でやりたいからここに来たんだ」

 サタルは呟いて、再び駆け出した。ゾーマは氷柱の影をちらちらと走るその影に、口元を歪める。

「目論見さえ分かれば、たやすいこと」

 紺鼠の両手が大きく地と水平に円を描き、前へ力を集約する。突風が吹きその周囲の氷が砕け、投槍よろしく勇者へ向けて飛ぶ。鋭利な氷刃が鎧にぶつかり弾け、また少年の頬を、二の腕を、腿を切り裂く。勇者はその剣を乱舞する刃の群れへ向ける。すると刀身から太い竜巻が三本迸り、氷を導く風を吸収しその進行を正反対へと変える。

 しかし、そう易々と流れに呑まれる相手ではない。ゾーマが翳した手に力を込めると、氷群は宙で砕け散った。純白に透き通る破片が舞う。その散りゆく花弁の如き優雅な渦は、ゾーマを取り巻き瞬く。端から見ればまるで花の盛り、春の宴である。しかし魔王は手を休め薄片に魅入ることなく、その彼方へと目を凝らす。

 敵が、見えない。

 頭上で空を斬る音がした。ゾーマは瞬時に手を掲げ、迫りくる灼熱の刃を受ける。勇者と魔王が肉薄する。闇の衣を纏う掌と光の炎を宿す剣が激突し、睨む灼眼と笑う碧眼が火花を散らす。

 先に呻き声を上げたのは闇の方だった。剣を受けたゾーマの浅黒い掌が、次第に炭化し二つに裂けていく。彼は無事な方の拳を宙に浮く忌々しい光へと飛ばす。サタルは掌に当たった剣を軸に身体を倒立させ、空振りする拳を見送りゾーマの頭上を越えて跳ねようとする。しかし、ゾーマの頭を足蹴に抜け出そうとしたところで止まった。振り向けば、炭化しつつあるゾーマの掌が、剣を握りしめているではないか。

 瞠目した彼を、再び訪れた拳が横殴りにする。少年の手が柄から離れ、小さな身体が殴られた勢いで凍結した森を砕き割りながら床に叩きつけられる。

「いってー、くそ」

 舌を噛み切らぬよう歯を食いしばっていたサタルは、呼吸機能が衝撃から回復した頃に毒づいて口内に溜まったものを吐き出した。血糊が透明な床に鮮やかな花を咲かすも、彼は確認せずに立ち上がり敵を凝視する。

 魔王は握りしめた拳を乱雑に振っている。黒い拳は石にでもなったかのように固まって、剣を離そうとしない。

「うーむ、使い物にならんな」

 ゾーマは独り言ちて、左の手刀で右の黒ずんだ肘より下を切り落とした。鈍い音を立てて、かつてのゾーマの一部が床に落ちる。

「これですっきりしたわい」

 ゾーマは満足そうに頷くと、己の腕を台無しにした者へと眼差しを転じた。

「お前は化け物か。闇の衣をこのように貫通されたのは、云千年以来だぞ」

「化け物に化け物認定して頂けるとは、至極光栄なことで」

 サタルは冗談めかして答えながらも、ゾーマの足下に転がったままの剣をそれとなく窺う。あれでは、近づけたところですぐに抜けるものか怪しい。

「大した火力だ。ルビスでさえ、ここまでの一撃はそうすぐには加えられなかったというに」

 素直に感心した口調でそう賞賛し、しかしすぐに嘲るような風に言う。

「まあ、所詮あやつはあちら側の地母神。主神に所縁ある者とは言え、あの激しさはあやつには皆無。司りしモノからして、この苛烈な光と闇のせめぎ合いにおいては流されるだけの運命」

 ゾーマは勇者を見下ろす。サタルは黙って佇んでいる。それを認めると、魔王は何を思ったかおもむろに微笑んだ。

「しかしお前の立ち姿。ルビスの加護を受けているというのに、あの忌まわしい男に似ている」

「主神に会ったことがあるのか」

「はて、な」

 魔王は笑い顔のまま首を傾げ、残った左手の関節を鳴らした。

「それはお前の世界が我が支配下に落ちた時、自ら尋ねてみるがよかろう!」

 ゾーマが滑るように、こちらへと迫って来る。サタルは己の身体を見下ろした。

 胸部と右足の骨が折れている。右脇はゾーマの拳と鋭利な氷へ突っ込んだせいで鎧が僅かながら凹み、外見はどうだか知らないが確実に軽い傷では済んでいないだろう。盾を今更拾いに行くつもりはない。剣はもう使えない。普通に攻撃魔法を使うにも、破壊力が足りない。袋の中の剣を取り出して使ったっていいだろう。取り出す頃には、あの凶器的な手刀で串刺しだろうが。

 つまるところ、武器となるのは己の身体のみ。

「上等だ」

 その双眸に手刀が映る瞬間、彼は独り言と共に笑みを零した。

 ゾーマの身体が、ふわりと浮いた。魔王は刹那、何が起こったか判断できなかった。しかし反転する視界、そこに逆さまに立つ男の構えを見て理解する。

 突き込んできた流れそのまま、一本に背負い投げられたゾーマは己の凍らせた床の上へ強かに打ち付けられながらも、上半身を起こす。その顎を、ブーツの爪先が蹴り飛ばした。

「懐かしいなあ。昔こうやって投げられたのが、そもそもの始まりだったっけ」

 サタルは和やかな口調で言いながら、もと来た玉座の方向へ蹴り飛ばされたゾーマを追って疾駆する。麗しい顔立ちは美しい思い出を回顧し浸るようなうっとりとした気色に染まっており、ゾーマは目を見開く。

 殺意と浪漫、二つの相反したものを醸し出しながら接近してくる勇者は、人間の規格で判断するならば気が触れているようにしか見えなかった。

「あなたはその時、見てたのかな? 俺とカノンが出会ったのはカザーブ南のすごろく場でね。うっかり人生初めてのすごろくにハマっちゃって、もう他ではできないものだと思ってやり込んでたんだ。そしたらカノンにばれちゃって」

 サタルはおかしそうに短く笑う。ゾーマが凍てつく烈風を浴びせるが、彼はむしろ自らその中へ突進した。

 死の吐息が彼の身体を撫でその鮮血を帯びた途端、紅蓮に閃き彼の両腕へと集っていく。

「投げられた時はびっくりしたなあ。ちょっときつそうな顔だけど小さくて可愛い子だなって思ってただけだったから。勿論だんだん、顔だけじゃなく全体的に可愛い子だって分かったんだけど」

 サタルはゾーマから奪った魔力を閃光へ変え、両腕に夕日に染まる渡り鳥の翼を宿す。彼が二本の腕を広げると、不思議と周囲の暗黒は黄昏の訪れを受け入れた。

「カノンには色んなことを教わったんだ。そりゃあもう、言い切れないほどに。だってカノンは俺なんかより、よっぽどまっとうな倫理観を持ってるから」

 渡り鳥が滑空する。ゾーマは己へ向けて執拗に戯れかけるように、舞うような淀みなさで繰り出されてくる翼を避けながら、少年の台詞の意図とその姿の既視感について思いを巡らせる。

「何が言いたい」

「いや、ただの思い出語り」

 彼は無邪気に答える。その翼がゾーマのローブの裾を引っかける。衣装だけでなく、闇の衣が翼の触れた形にほつれた。それを見て、ゾーマは悟る。

 これは、単純に炎の鳥を形どったわけではない。ただの閃光呪や火球呪の応用なら、触れただけで闇の衣が綻ぶはずがないのだ。

 こんなことができるのは己と配下バラモスが警戒してきた、あの二つの種族しかいない。一つは竜神族。そしてもう一種が。

「不死鳥の炎か」

「うわっ、気付くの早すぎだろ」

 サタルはげんなりしたように言い、ゾーマを追い払うように腕を振った。その翼の届く範囲から、ゾーマはひとまず退く。

「奴らは世界を跨ぐとは言え、このアレフガルドまで力を及ばせることはいくら精霊ルビスがいようとも不可能。だとしたらその力、自前か」

 勇者はさてね、と不敵に返しながら内心舌打ちしていた。ゾーマの推察通りだった。アリアハン王に魔王討伐を申し出、ゾーマの存在を知った時から、彼は長いことその攻略法を考えてきた。

 それがオリハルコン製の剣であり、不死鳥の炎であり、光の玉だった。

「光の玉は使わないのか?」

 ゾーマが彼の胸の内を見透かしたように問う。

「光の玉の輝きは、生命の輝き。不老にして不死であるわしの、唯一脅威となるもの。生物の循環するエネルギーは、永遠に岩の如き我が身には不要なもの。触れるだけで我が力を封じ、散滅させる。それを知っていたから、己の魂を不死鳥の炎代わりに用いる術も、不滅の金属たるオリハルコンの剣も手に入れたのだろう」

「だとしたら?」

 サタルは口の端を強いて吊りあげ、尋ねる。ゾーマは歯茎を曝け出して笑った。

「だとしたら、大層面白い! お前が降りてきてから未だ数カ月、その間にそれだけの術と情報を手に入れたのだとは考えづらい。よほどの苦労を重ねてきたに違いない」

 ならば、とゾーマが言葉を区切る。魔王が大地を踏みしめると、骨の髄まで貪りしゃぶり尽くすような冷気が吹き荒れ、夥しい鬼火が地の底より浮き上がった。

「その努力の結晶が砕け散った暁には、さぞかし甘美な調べを奏でるのだろうな!」

 亡者の悲憤を纏った魔族が、少年へと肉薄する。彼も負けじと紅蓮の翼を白く燃え盛らせ、鬼火を薙ぎ払った。

 剣を失ったとしても、闇の衣を引き裂いてできた隙間に直接炎や雷を注ぎ込んでやればいい。攻撃のコツは、剣を無くしても同じだ。

 あとは、己を見失わず前を見るだけ。

 勇者と魔王は、打ち合い続けた。どれだけの時間そうしていたのかは分からない。その間は、刹那にも永遠にも感じられた。彼らは今己が踏みしめているのが天井なのか宙なのか地上なのかさえ不覚になりながら、互いだけを見つめた。この時世界には、彼ら二人しか存在しなかった。

「光の玉は使わないのか?」

 魔王が再び、問う。勇者は時が遡ったような錯覚を覚えながら破顔した。

「なに、そんなに殺してほしいの? この俺が正々堂々命を削り取るなんていう、今までの人生の中で一番勇者っぽいことしてあげてるのに?」

「このままだと、お前の人生が尽きかねんぞ」

 ゾーマの言う通りだった。サタルは今や満身創痍である。片翼が折れたまま回復しない。体力、魔力、精神力も限界に近いのだ。

 サークレットを取れば――サタルは頭の片隅に浮かんだ考えを振り払う。それをやったら余計制御ができなくなる。己は魔術こそ得手とするが、魔力の制御は相変わらず不得手なのだ。

 彼は魔王を観察する。片腕は依然として失われている。足にも腹にも深い刺し傷が刻まれていて、サタルより幾分か余裕があるようにも窺えるが、ここまで持ち込めれば似たようなものだ。

 もう、決着をつけないと。

 宙で切り結びながらサタルがそう考えていることを察したのか否か、ゾーマは語る。

「何故そこまでしてあの娘に固執する? 女が欲しいなら砂粒ほどいよう。あの女以上の器量よしとて、スライムよりおるわ。おまけに奴はこちら側の者ぞ? なにゆえ、ここまであの娘に心を割く?」

「分かってねえな」

 今度はサタルがゾーマをせせら笑った。

「カノンを探すために、俺は今まで世界中の砂粒を掻き分けて来たんだよ。て言うか、女の子を砂粒に喩えるな」

「お前は勇者。天に選ばれし、光輝く者。何故それがあの娘を愛するなどとのたまう?」

「何で何でって、井戸端会議のマダムかお前は!」

 サタルは掴みかかろうとするゾーマの腕を折れた方の腕で阻み、純白の片翼でその頭を強かに殴る。

「そんなに知りたきゃ教えてやる!」

 勇者は折れた腕で闇を掻き抱くようにして首を締めながら、ほとんど喚き声同然に叫ぶ。

「惹かれるんだよ焦がれるんだよ一緒になりたいんだよ! 光が照らしたものに影ができるみてぇな! 夜ベッドで目を閉じた時に感じる安心感みてぇな! そんなものをずっと探してきたんだ!」

「そんなにあの娘が愛しいなら」

 ゾーマの手が、サタルの胴をとんと押す。ふと彼は、己の身体が仰向けに、腕の中の存在ごとゆっくりと落ちて行くのを感じた。

「わしの一部となって、あの娘と共に永遠に我が糧となるがよい」

 冷え冷えとした声音と、身体に捻じ込まれる異物感。

 己の身体を覗き込む。腹部と肋骨の間に、見覚えのある刃が刺さっていた。

「己が得物がとどめとなるとは、愚かな」

 ゾーマは封じられた王者の剣に貫かれ吐血する勇者を睥睨し、その上から退こうとする。

 しかしその手が少年から離れる寸前、蒼穹の籠手が伸びしかと掴んだ。

「まあ待てよ。もうちょっとくらい、最後のお喋りに付き合ってくれって」

 ゾーマは驚愕した。今確実に致命傷を負ったはずの男が、唇の端から血の泡を噴きながらも、貪欲にぎらついた眼で笑いながら語り掛けていた。

「知ってたと思うけど、俺の血は世界樹の雫かよってくらいに異様なほど生命力が強いらしくてね。おかげで今まで、何度死にかけてもなかなか死なない」

 喋りながら、サタルはゾーマの腕を握る手の力を強めた。

「そんな俺の血がお前に入り込んだら、どうなるんだろうな?」

 ゾーマが離れようとするが、既に遅い。サタルは無事な両足に生命の炎を乗せ、ゾーマの腿を蹴って捥ぎ取った。支えを失った巨体が、剣へと沈み込む。魔王の血と勇者の血が混ざり合い、魔族が世にもおぞましい絶叫を上げた。

「さーて!」

 サタルは苦痛に顔を歪めながら、しかし口の端だけは意図的に吊り上げ、無事な方の手を掲げる。掌中では、太陽の如き宝玉が燦然と輝いていた。

「お望みのものをあげよう!」

 光の玉が、世界を灼き尽くす。万物が色を失い無垢なる白に照らされ、影が細く細く伸びてやがて霧散した。全てのものが輪郭を溶かされる光の中、勇者は眼前で溶けゆく魔王を凝視していた。

「サタルよ……よくぞ、わしを倒した」

 ほとんど意味を無くしつつある線と点でかろうじて輪郭をとどめている魔王が、切れ切れに囁く。しかし、その声には嘲けりが混じっている。

「だが光ある限り、闇もまたある。わしには見えるのだ。再び何者かが闇から現れよう。だがその時は、お前は年老いて生きてはいまい」

「いいから、早く逝けよ」

 サタルがすげなく言う。哄笑が響く。ゾーマの輪郭が縦へ縦へ細く伸び、やがて最後の一点の染みさえ蒸発した。サタルは眩い光に目を細めることもせず、ゾーマが消えた箇所を見つめ呟く。

「それでいいんだ」

 光の世界が遠ざかり、ゆっくりと周囲が色を取り戻していく。サタルは目を瞬かせ、やがて己の胸の上に横たわる少女の姿に気づき、溜め息を吐いた。傷だらけではあるが、彼女はどうやら完全にはゾーマに呑まれない状態を保ってくれたらしく、四肢のどこも損なっていない。散っている黒髪を整えながら頭を撫でる。まだ、温かかった。

「カノン」

 彼は愛しい人の名を呼ぶ。地鳴りが穿たれた傷に響く。天井から闇が失せ、そこに歪んで刻まれたヒビ、粉をまき散らしながら崩れる大理石が露わになる。

 それでも彼は、彼女がこの世に再び形を取り戻してくれたことを噛み締めるだけで、ついぞないほどの幸福を覚えていた。

「サタル……?」

 呼び声が聞こえたのか、揺れに起こされたのか。胸の上に乗っていた頭が、こちらを向いた。小さな丸い顔、黒目がちな瞳が戸惑った様子で辺りを見回し、それから眉を顰めて己の腹部を窺う。そして一本の剣が己と眼下の男とを貫いているのを認め、はっと顔をまたこちらへ向けた。

「ダメ! 抜いて、アンタはっ」

「大丈夫」

 サタルは動く方の手を彼女の後頭部に回し、己の胸に付けさせた。カノンは暴れようとしたが、砕け散った鎧の中央、血みどろになったサタルの胸部に気づき息を飲む。耳を当てて、彼女は顔をくしゃりと歪めた。

 きっと、緩やかになっていく鼓動が聞こえたに違いない。

「大丈夫だから」

 言い聞かせて、彼女の首筋を探る。指を押し返す血管の張りが、弱くなっていた。

「頑張ってくれたんだね、ありがとう」

「あたし」

 カノンは言葉を詰まらせる。

「アンタには生きていて欲しかったのに。死なないと、思ったのに」

「俺もそう思ってた」

 頭上の玉座に、太い円柱が落下した。大地の震動が激しくなっていく。

 視界がぼやけ始めた。サタルは首を振る。まだだ、もう少し。

 彼はカノンを見下ろす。彼女も意識が遠のきつつあるようだった。

「ねえ、カノン」

「ん?」

 思いの外明瞭な返事が来た。サタルは彼女の背中をさすってやりながら、優しく語り掛ける。

「君を愛してる」

「うん」

「一緒に死んでくれる?」

「今更、でしょ」

「もしまた会うことができるとしたら、俺と一生を共にするって約束してくれるかな」

「……うん」

 最後に彼女は緩慢に頭を起こし、サタルを見て微笑むとまどろむように瞼を閉じた。

 闇の砦が崩れてくる。しかしサタルは冴え冴えとした青い瞳で、崩落する天井を見つめていた。

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 夢なのか現なのか、分からなくなっていった。

 様々な人間に魔物が、入れ替わり立ち代わり現れた。郷里にいた頃親しかった魔物達、姉、友人たち、そして一番意識している人間。彼らは皆、己の非を責めた。何故もっと早くに打ち明けてくれなかったのか。どうしてあんなにも殺戮を繰り返したのか。何故その過ちに気づかなかったのか。

 そして己が何と言おうと、彼らは最終的に彼女の死を求めた。または自分達を殺させようと、仕向けてきた。

 彼女は地獄にいた。あらゆる死を迎え、何度も蘇った。それでもまた刃を向けられた。物理的な刃より、親しい人々の冷酷で軽蔑を露わにした眼差しと言葉の方が、遥かに堪え難かった。それでも彼女は、死にながら生き続けた。彼らの呪詛は、彼女自身が繰り返し己に聞かせてきたそのままだった。だから、彼女はもう罪悪感に囚われ死に惹かれることはなかった。やるべきことは分かっていたのだ。

 彼女は誰も殺さなかった。ひたすらに堪えて堪えて、待っていた。

 最後にこの己を必要だと言ってくれた人物の呼び声と、温かな掌を――

「カノン」

 彼女は目を開いた。その声に軽蔑した響きはなく、魂に染み渡るような温もりを感じた。だから瞼を上げたのに、直後彼女は面食らった。視界に入ったのは暗黒の居城の暗い天井ではなく、清潔に明るい漆喰の白だった。

 カノンは上体を跳ね起こした。白塗りの壁、木目の床、最低限の調度がそろうこじんまりとした部屋は、どうも宿屋らしかった。枕元の窓からは、爽やかな日差しと風が舞い込んでいる。

「カノン?」

 再度あの声が呼んで、彼女は反対側を向いた。自身の横たわる寝台の脇に、端麗な青年が腰かけていた。彼は彼女の瞳に己が映るのを認めると、嬉しそうに微笑んだ。

「良かった。やっと目が覚めたんだね」

「え、あの」

 サタル? とカノンは青年の名を呼んだ。そうだよ、と彼が穏やかに答える。

 その落ち着き払った笑みに、崩壊するゾーマの居城を思い出した彼女は尚更動揺した。

「何でいるの? あたしが天国に行けるわけないよね?」

 サタルは一瞬きょとんとする。しかしすぐに、大笑いしながら首を横に振った。

「違うよカノン。俺たちは死んでない。死ななかったんだ」

「え? でも、だってアンタ」

 現状が把握できないカノンに、勇者は語る。

 何でも彼は、キラナから彼女の真実を告げられた時から、カノンに自身の身体の主導権を取り戻させる方法、もしくはその身体からゾーマだけを完全に取り除く方法を考えていたこと。

 そのためにはゾーマと彼女を結び付ける闇の刻印をどうにかする必要があったこと。

 しかし精霊文字は、一度形になってしまったらそう短期間に容易には打ち消すことができないこと。

 そこでサタルは闇の刻印に光の封印を重ねることで中和させることを思いつき、そのためには魔を封じる働きをする光の玉を利用するのが、一番手っ取り早く確実だという結論に至ったこと。

 だが、ただ光の玉を使うだけでは世界の闇を払いゾーマを弱体化させることまではできても、彼がもたらしたいほどの効果は得られないことに気づいたこと。

 だから光の玉の効果を直接的かつより強力に発揮するために、光を伝えやすいサタルの身体と血を媒介として、ゾーマへと直に注ぎ込んだこと。

 これによってゾーマを祓いきり、カノンの魂をその身体に封じて定着させることに成功したこと。

「本当は、他のみんなにも協力してもらうはずだったんだよ。そしたらあんなに痛くて怖い思いをさせないで済んだんだけど、予想以上に手こずらされちゃって。お陰で俺一人でゾーマを滅多打ちにして自分で連結させて光の玉も使いながら君と俺の身体を回復して普通に生きられるようにして、ってしなくちゃいけなくて。まあ最後にはみんなが瓦礫を防ぎながら剣抜こうとしてる俺を手伝ってさらに脱出させてくれたから、本当に良かったよ」

 サタルはそこまで一気に説明し、カノンの表情を見やる。彼女の幼い顔立ちは、平素の大人びた雰囲気を感じさせないほどに唖然としていた。

「君にもちゃんと説明できればよかったんだけど、あんまり喋り過ぎるとゾーマにばれるだろ? だから、言えなかったんだ。ごめんね」

 彼は更に恐る恐る詫びるが、カノンは硬直状態から抜け出せなかった。

 話は耳に入ってくる。理解もできる。だが、胸中を様々な感情が渦巻いていて、何を口に出したらいいのか分からなかった。

「背中の刻印も……中和はできたけど、もう消えないんだ」

 ごめん、とサタルは消沈して頭を下げる。カノンはここで、やっと眼差しを動かした。 自身のシャツの下へ手を潜らせると、巻かれた包帯越しにも精霊文字の凹凸が消えていないのが分かった。

「それは、いい。忘れるわけにも消すわけにもいかない、あたしの一部だから」

 告げると、サタルは痛みを堪えるような考え込むような、難しい顔をした。

「ゾーマは多分、消え失せたと思う。だけど分からない。アイツは闇そのものだから、『よくぞ倒した』なんて言って安心させておきながら、また蘇るかもしれない」

 カノンも頷く。ありとあらゆるものを屈服させることより、その絶望をより堪能することを良しとしたあのゾーマのことだ。十分にありえる。

 サタルは包帯を巻かれた彼女の手を両手で握り、その双眸を見つめて言い聞かせた。

「その時は、ちゃんと俺に言ってね。その封印は、光の玉の力は借りたけど俺がやったものだから、他の誰にもいじれないと思う」

「何で」

 その台詞を受けて、カノンの口から思わずその一言が漏れた。

「何で、こんな危ない真似をしたの?」

 サタルは訝しげな表情である。己の手を握りしめた両手の向こうに、己同様白い包帯を衣服の端々から覗かせた、彼の身体がある。今はまっさらな短衣に覆われたその腹部も、きっと。

 カノンの脳裏に自身がゾーマ城で意識を取り戻した際に目にした光景が蘇り、無意識に唇を食いしばる。

「だってみんなが来るのを待って一緒に戦った方が、ずっと楽にゾーマを倒せたのに」

 サタルはそれを聞くなり、大きな溜め息を漏らした。澄んだ碧眼を半分に狭め、彼は呆れたように尋ねる。

「あのね、それ今更言う?」

「だって」

「だってもでももないよ。カノンらしくないな」

 青年は珍しく怒ったように言いながら、身を乗り出した。

「俺たちみんなが、カノンに生きてほしかったの! 頼むから、みんなの前でそんなこと言わないでくれよな。俺じゃないんだから、頭がおかしくなったんじゃないかって真面目に心配されるぞ」

 こういうこと言うのはいつもカノンの役目だろ、とサタルは唇を尖らせ、カノンの両頬を両手でつまんで引っ張る。両頬の感覚に、彼女は眉根を寄せた。痛いようなくすぐったいような、不思議な気持ちだ。

 そうカノンが感じていることを悟り配慮したのか否か、サタルは引っ張るのをやめた。代わりにじっとこちらを凝視している。カノンは落ち着かず、身じろぎをした。

「な、なに」

「あー、うん。えーと」

 サタルは珍しく語尾を濁し、視線を余所へとずらして咳払いした。カノンは余計、何を言うものかと警戒してしまう。

「あのですね。ゾーマを倒した後に俺が言ったこと、覚えてる?」

 カノンは回想する。そう言えば、視界が閉ざされていく中で何か会話していた気がする。

「約束してくれたよね。もしまた会うことができるなら、俺と一生を共にするって」

 サタルの台詞で、薄れかけていた記憶が蘇ったカノンは頷く。言われてみれば約束していた。また会えたら、彼と一生を共に――。

 カノンは固まった。今度こそ、思考動作双方が完全に硬直した。

「だからさ、こうしてまた無事にお互い顔を合わせられたわけだし」

 己の手を包んだサタルの両手に、再び強い力が籠った。こちらを見据える秀麗な顔立ちは凛として揺るがず、真摯そのものである。

 しかしカノンの固まった眼球は、その耳だけが異様に赤いのを目視した。

「俺と、結婚してくれませんか」

「あ」

 じわじわと熱が顔を伝っていく。カノンはその一音だけ発して、口をぱくぱくと動かした。しかし声は出て来ない。と言うより、自分は一体何を言おうとしていたのだろう?

 サタルは腹を括ったらしく、座していた椅子から立ち上がるとカノンの寝台の縁に足をかけ、身をかがめ彼女の双眸を覗き込んだ。

「君が好きだ。ずっと一緒にいたい」

「え、あの」

 一途に熱っぽく見つめられ、カノンは大いに混乱する。自分は夢を見ているのではないだろうか。だってサタルはこんなに真面目に口説いてなんてこない。へらへらしないサタルなんてサタルじゃない。現実には自分は、死しているのではないだろうか?

 カノンは反射的にサタルの頬に片手を伸ばし、思いっきり抓った。すると彼は即座に叫んだ。

「痛い痛い痛い! カノンちゃんめっちゃ痛い力入れ過ぎ!」

「え、嘘。幻覚じゃ、ない?」

「何でそこで疑うの? て言うか普通抓るなら自分の顔だよね? しかも俺さっき引っ張ってあげたよね?」

 俺の完璧な美貌がとサタルが頬を押さえるのを見て、やっとカノンは彼が実物であることを確信した。しかしそうなると先程の言葉も幻聴ではないということに気づいてしまい、カノンはまた狼狽する。

「いきなり、その、結婚とか言われても……」

「俺のこと好き?」

 彼女のうろたえっぷりに、サタルがこわごわ訊ねる。その眼差しが不安そうに揺れているのを認め、そのあまりのひたむきさにカノン自身の心も揺れる。

 命を賭してまで己を救ってくれた人に、この気持ちの状態で答えていいものだろうか?

「好き……だと、思う」

「えっ? カノンってば俺のこと好きかどうかも分からないのにあんな約束したの!? 嘘だろ冗談だろ!?」

「だって!」

 カノンはサタルの大声に被せて叫んだ。彼女が戦闘以外で声を張り上げるのは珍しく、サタルはつい口を噤んでしまう。彼女は異様な発熱状態に陥った頭部を自覚しながら、彼のまっすぐな視線から目を逸らす。

「好きって、どういうものか分からないから……でもアンタと一緒にいると、どきどきして……悪い感じじゃないし、気持ち悪くもないから。ずっと一緒でもいい、かなって」

 パァン!

 乾いた音が響いた。カノンはびくりと肩を跳ね上げ正面を向く。サタルが顔を両手で覆っていた。

「なに、その……君、本当は分かってて言ってるだろ」

「え、な、何が?」

「もういい、何でもない」

 サタルは顔から両手を外して、拗ねたように言う。顔が掌型に赤くなっている。よほど強く叩いたのだろうか。手形以外の皮膚も赤い。

 しかし彼はすぐに表情を変え、カノンに愛想よく笑いかけた。

「じゃあこうしよう。俺が好きってどういうことか一緒に考えてあげる。プロポーズの返事はそれからでいい」

「いつ考えるの?」

「これから、今すぐ」

 サタルは歌うように答え、それからすぐにやりと悪戯な笑みを浮かべた。

「手順は何だっていいよ。軽く試していこうよ。どうする? デートから? 手を繋ぐ? ハグする? そうだな、他に手軽にできるとしたら」

 彼はまた少し距離を詰め、彼女の顎に右手を添え引き寄せると指でその頬をなぞった。

「ねえ。後でもう一回してもいいって、言ってたよな?」

 低く囁きながら、サタルは親指でカノンの唇をたどる。緩慢で優しいようで、これからする行為を予告するようなその動きに、カノンは呼吸を忘れる。

 制止を促すこともできなかった。茹だった頭は、何だかすごくデジャヴを感じると間の抜けたコメントを漏らしている。詰まりに詰まった思考回路をどうにか繋げ、とりあえずコイツの顔を見ていると恥ずかしくて耐えられないから目を瞑ろうと思った。

「カノンッ!」

 その時、彼女の名を叫ぶ声と共に背後のドアが開け放たれた。その音が鼓膜に届いた途端、カノンの両腕は脊髄反射でサタルを突き飛ばしていた。

 サタルがいたはずの空間に桃色の疾風が飛び込み、カノンに抱き付いた。キラナは妹に縋りつきながら、良かったとごめんねを繰り返し言おうとして言葉にできず、わあわあと泣いている。カノンは姉をどうやって落ち着かせたものかとおどおどし、助けを求めてその後ろにぞろぞろとついてきた面々を窺った。

 まず目が合ったのは、アリアだった。彼女は莞爾と愛らしい笑顔を浮かべながら、いつもの長いグローブではなく包帯に包まれた細い指で目頭を拭った。スランはカノンの顔を見るなりほっと一息つき、キラナに少し落ち着けと声をかける。ルネとテングはにこにこしている。いや、にやにやと言った方が適しているかもしれない。とにかくカノンとサタルとを見比べて、楽しそうだ。そしてその床に倒れていた青年を引っ張り起こし、今の優先順位はあっちだろうと窘めているのはフーガだ。戦士はこちらを向くと、疲れたような面立ちを緩め、キラナに視線を送ってからカノンへと転じた。お前がどうにかするしかない、ということだろう。

「キラナ」

 カノンは姉の背を軽く叩いて、顔を上向かせた。自分と基本の部位は似ていると言うが、比較してみるとずっと愛嬌のあるはずの顔が、波だと鼻水と涎で酷いことになっている。

「お願いだから、そんなに謝らないで。本当は、あたしの方が謝らなくちゃいけないんだし」

 そう言うと、キラナはしゃくりあげながらぶんぶんと首を左右に振った。しかしカノンも、静かにかぶりを振る。

「ずっと重荷を背負わせて、ごめんなさい。本当のことを隠して、あたしずっと」

「いいの!」

 キラナは妹の言葉を遮り、涙交じりに叫んだ。

「謝らないでよ! 謝らないでよぅ! 私、ずっとずっとアンタに辛いこと押し付けて、なのに何も役に立たなくてっ」

「キラナは何も押し付けてないよ」

 カノンは一転、強い口調で否定した。

「だって、全部あたしが選んだことだもん。キラナに何かを押し付けられたことなんて、一回もない。むしろ、キラナがみんなにあたしのこと言ってくれたおかげで助かったんだから」

 妹の台詞に、姉は小さくしゃくりあげながらも驚いたように彼女を凝視する。自分そっくりの潤んだ瞳に、カノンは頷いて見せた。

「ありがとう。キラナがいてくれて、本当に良かった」

 キラナはまた、わっと泣き出した。今度こそどうしたらいいか分からなくなったカノンの代わりに、スランがその泣きじゃくる肩に手を乗せる。

「ほら、あんまり顔くっつけんじゃねえよ。鼻水でカノンの服が汚くなるだろ」

「そ、そうだけど」

 そんな言い方しなくたって、と顔を上げる彼女の眼前に、盗賊はタオルを差しだす。即座にそれをひったくり顔を埋めた彼女を眺め、スランはまだ泣くのかと苦笑した。

 カノンは改めて一同を見渡す。皆、サタルや自分と似たように怪我の処置をされている。その様子から、彼らの過酷な戦いを察したカノンは頭を下げた。

「みんなも、ありがとう」

「別に、お礼を言われるようなことないよ」

 テングが瞬時に返した。

「カノンのためだけに戦ったわけじゃないし。ねえ?」

「私は炎を見るためにしか戦わないもの」

 ルネが胸をそびやかして言い、カノンは微笑んだ。いつも危険な彼女だが、今はその自己中心的とも取れる台詞が好ましかった。

「俺たち、基本的に乗り合いの馬車みたいなもんだからな」

「旅は道連れ、世は情け、とも言いますしね」

 フーガの台詞に、アリアが楽しそうにかぶりを振って合わせる。そして戦士は、カノンを見据えて隣を親指で指して見せた。

「だからお前は何も気にせず、そこのお調子者に幸せにしてもらえ」

 つられて視線を移し、そのお調子者とばっちり目が合う。優男は軽く碧落の片目を瞑ってみせ、それに対しキラナが声を上げた。

「ちょっと、本当に大丈夫なの?」

「こればっかりは裏切ったら怒るどころじゃ済まないわよ、サタル?」

「やだな、二人してそんなに疑わないでよ」

 にこやかに微笑みながら脅しをかけてくる賢者にショックを受けつつも、サタルは大真面目な顔で全員に向き直った。

「いいよ、じゃあみんなにも証明してあげよう。いいか、俺はここしばらくずっと遊郭に行ってない! 何でかって言うと俺の心が精神物理共にカノンちゃん専用にカスタマイズされて今じゃよ――」

 耐え切れず拳を唸らせたのは、カノンだけではなかった。

 

 

 





 

 

 

 

20160124  執筆完了

20200208 加筆修正




終章

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