アレフガルドに光が差した。

 それが何を示すのか、アレフガルドの住人達は誰に教えられずともすぐ理解した。闇の大魔王、ゾーマはこの地を去ったのだ。そして太母神ルビスが、戻られたのだ。

 久方ぶりの暁を、人々は屋外に飛び出し拝むようにして仰いだ。太陽は闇に慣らされた目には眩しく、いささかの痛みももたらしはしたが、彼らはむしろそれを歓迎し涙を流した。彼らの長い夜は、ようやく終わりを告げた。

 歓喜に湧きたつアレフガルド全土に、やがてラダトーム王国現国王・ラルス一世の名で通達が届く。曰く、この地を永らく蝕んでいた諸悪の根源は遂に絶えた、と。よって魔物達もこれまでのような猛威を振るうことはない、安心して、しかし警戒を怠らず街を行き来するがよい、とのことだった。

 またその悪の根源を断ち切った冒険者たちがいる、とも伝えられた。その筆頭は光の加護を受け天より舞い降りし予言の勇者・ロトであり、彼は天神より与えられた光の宝珠をもってして、悪を葬り去った。彼らの勇気を讃え、ゆめゆめ彼らの志を忘れることなかれ。そう詔は締めくくっていた。

 思いがけないお伽草紙のような話に民は困惑したが、他ならぬ国王の言葉である。大半の者はそれを信じ、また信じない者も、そのような噂の出所がどこなのかをしきりに知りたがった。多くの者が、生ける伝説を求めてラダトーム城下を訪れた。しかし、誰ひとりとして彼を見つけることができた者はいなかった。

 それもそのはず。勇者ロトは魔王討伐を祝したパーティーの初日に、煙の如く姿を消してしまっていたのであった。

 

 

 

***

 

 

 

「はい。今日で二ヶ月と三日目、と」

 少女の白魚に似た指が暦の本日に印をつけ、その指を卵型をした顔の傍に添えて考え込むような仕草を取った。少女のやや薄い青を帯びた銀の髪が、さらりと揺れる。

「『じゃあ、ちょっと行ってくる』だったかしら? ちょっとって、どのくらいなのかしらね」

 ねえキラナ、と少女は桃色の唇を綻ばせた形のまま、背後の娘を振り返った。声をかけられた桃色ポニーの少女は、商人らしいベストから伸びた健康的な色の肩を竦める。

「まあ、二ヶ月ではないよね」

「そうよね。二ヶ月はちょっとじゃないわね」

 可憐ながら低い声で笑い合う少女たちを脇目に、フーガは荷物をそろえながら、このやりとりはあとどれくらい繰り返されるのだろうと考えた。

 ゾーマを討伐し、ラダトーム国王にそれを報告しに行った日から二ヶ月と三日が経っていた。報告した際、ラダトームの謁見の間は喜びより先に疑惑の方が行き交っていたが、調査隊を派遣し本当にゾーマの城が事実上壊滅しており、またルビスの城にルビスが復活していることを確認した彼らは、たちまち喜びを前面に押し出し、こちらの辞したいという声も聞かずに無礼講を言い渡してしまった。一行はあれよあれよと言う間に惨憺たる戦装束から窮屈な宮廷衣装に着替えさせられ、ラダトームの上から下まで引っ張りだこになった。

 特に光の玉を使いこなしゾーマを討ったサタルへの歓待は素晴らしいを通り越して凄まじいもので、ラダトーム王家の者から野心旺盛な貴族、純粋なるロマンティストな学者、そして何より年齢を問わず女性たちが絶えず押しかけるので、さしもの最強の愛想売りを豪語する勇者も、どうにか彼らを撒いて仲間達の所へ逃げ出してきた頃には、げっそりとしていた。

「俺もう当分、女性の化粧品売り場には近づきたくない……」

「良い薬だな」

「ひどいっ、俺は真剣なのに!」

 フーガがグラスワインを揺らしながら適当に言うと、サタルは憤慨したように宣言した。

「こうなったら俺は、このままズラかる!」

「は?」

 その場に集った七人の仲間、全員が彼を見た。ちょうどその頃会場ではラダトーム管弦楽団、および巷で人気の流浪の詩人・ガライのコラボレーションによる演奏が始まっており、周囲はそちらに釘付けになっていた。だから時折こちらを窺う者はあっても、小声でなされる会話を聞き取れる者はいなかった。

「いなくなるんだよ。勇者ロトは今から蒸発するんだ」

 サタルはごく真面目に告げた。仲間たちが何を言ったものかと考えているうちに、一人が先に賛同する。

「悪くない判断なんじゃない?」

 キラナだった。

「どうせこのままここにいたら、二度と今までみたいな自由な暮らしはできないと思うよ。ぜひ我が国にお力添えをって持ち上げられる形で、議会の派閥争いに巻き込まれるだろうね。下手したら王位継承争いにも引っ張り出されるかも」

 サタルは顰め面のまま頷いた。

「俺はこの隙に、こっそり荷物を取ってルビスの塔に行こうと思う」

「ルビス様の? 何でまた」

「みんな、もう一度上の世界に帰りたくない?」

 彼らは顔を見合わせた。それぞれの表情を眺め、サタルは言う。

「ゾーマを倒したことで、ギアガの大穴は閉じた。だけど、帰る手段は他にあるはずだ。特にあの世界と繋がりがあるルビス様なら、何か知ってるんじゃないかと思う」

「なら、誰かついていった方がいいんじゃないかしら」

 アリアが提案しながら、ちらりと青年の隣に佇む小柄な少女を窺う。カノンは言葉を発さないまま、俯いていた。

「魔物は随分大人しくなったけど、一人旅はまだ危険よ」

「いや、全員残るべきだね」

 意外なことに、そう発言したのはテングだった。

「僕たちは全員、サタルとの繋がりが認められてるだろう? おまけに顔も覚えられてる。そうなると、一緒に彼と逃げたりしたら即座に指名手配だ。勇者ロトを捕まえるための手掛かりとして、一生追いかけられることになるかもしれないよ」

 アリアが口を噤む。ルネが呑気ながら、確固とした口ぶりで言う。

「それは勘弁してほしいわね」

「でも俺たちがここに残ったところで、本当に逃げ切れるのか?」

 スランが問う。それには、隣に立つキラナが応じた。

「大丈夫、任せて。手は考えてあるから」

 商人のその若さを感じさせない不敵な笑みに、相棒とは言えスランはたじろぐ。そう言えばこの少女はこの国の出身で、しかもこういった駆け引きには滅法強いのだった。

「ねえ」

 ずっと黙していたカノンが口を開いた。彼女は黒目がちの瞳で、サタルを見上げる。

「本当に、一人で行くの?」

「ごめん」

 彼は眉根を下げ、懇願した。

「これだけは一人で行かせてくれ。必ず帰って来るから」

 カノンは黙って、ただ一度頷いた。サタルは苦しそうに微笑んで彼女の肩を抱き寄せ、その額に口づけを一つ落とすと、そっとその肩を離して全員を見回した。

「じゃあ、ちょっと行ってくる」

 破顔しながら会場を背にしたのが、最後に見た勇者の姿だった。それ以来、彼の行方は知れない。ラダトームには知らぬ存ぜぬを通すようキラナには言われたが、そう強いられなくとも心の底から知らなかった。

 戦士たちは予想通り、ラダトームに拘束された。散々様々な人間からサタルの行方を尋ねられたが、一向に何も手掛かりになることを話さなかったため、彼らは一週間を軟禁状態で過ごした後、解放された。そしてそれ以降、ラダトームの使者が訊ねてきたことは一度もない。

 後日知ったことだが、サタルは光の鎧を置いていったらしい。そこでキラナはこの鎧を王家に預け、これがあればいつか勇者は帰って来るだろうとでたらめを言ったのだと言う。しかしフーガは、きっとそのせいだけじゃないだろうと考えている。何故なら今でもキラナだけはラダトームに拠点を構え、王家に己が勇者一行の仲間であることを黙秘させたまま、商売に精を出しているからだ。彼女が勇者を呼び戻すための人質として扱われているわけではないことは、ラダトームにある彼女の拠点でたまに見かける王家の使者と彼女のやりとりを見れば明らかである。しかしフーガは、そこには深入りしないことにした。

「おい、キラナ。いい加減行くぞ」

 部屋の戸を開け放ち入って来たのは、スランだった。彼は依然として、商人とコンビを組んで生計を立てている。その傍ら、この新しい世界について上にいた頃と同様に調査を続けているようだった。

「はいはーい。じゃあ、行ってくるね」

「気をつけて」

 キラナはアリアに見送られ、スランと共に部屋を出て行った。お前の家じゃないんだけどな、とフーガは思いつつ、肩から荷を下げ腰に剣を帯びる。アリアが彼の支度が整った気配を察して、こちらを振り返った。

「もう、行きますか?」

「ああ。悪いが、行きだけまた頼む」

 アリアは分かりましたと微笑んで、先に部屋を出た。フーガは火の元を注意深く確認して、家を出る。

 サタルが失踪し、ラダトームに軟禁されること一週間。その後フーガ達は、ルビスの塔へ彼を探しに行った。しかしマイラの村に十日間滞在し、毎日訪ねても精霊女神に会うことは叶わず、更に大陸中を探し回っても勇者の消息はつかめなかった。テングやルネの耳をもってしても影はおろか噂さえも聞かない。まるでロトは名声だけを残して、世界から忽然と消えてしまったようだった。

 やがてあてをなくし路銀も尽きかけてきたので、彼らは各自生計を立てるべく別れた。

 フーガとアリア、カノンは、リムルダールに家を借りてそこをひとまずの住処とすることに決めた。フーガとカノンは傭兵として、アリアは街の教会にてシスターとして働いている。フーガもカノンも向かうところ敵なしの腕なのでたちまち評判になり、今では仕事の方から彼らを呼ぶようにまでなった。またアリアも教会僧侶に必須な呪文だけでなく魔法全般に長け、更に気立てもよければ笑顔も可愛い美人ときているため、教会からもそこへ通う住民からも大いに喜ばれている。

 キラナとスランはラダトームに店を構え、武器や防具に始まり装飾具や美術品、さらには骨董まで取り扱う流通業を専門に営みながら、アレフガルド中を商売に冒険に駆けまわっている。テングは曲芸師として各地を放浪しているようだ。ルネは何をしているのかまったくわからないが、数日前に一度ぶらりとやって来てタダ飯を喰らうだけ喰らい去っていったので、元気に生きてはいるらしい。

 彼らは皆、それぞれの生きる道を確立していた。しかし、商人と盗賊は先程のようにしょっちゅうここへ足を運んでおり、遊び人もたまにフーガのもとへ顔を覗かせる。もう二度と顔を見られないかと思った魔女でさえ、戦士たちの家を訪れその家の中を見回したのである。

 一行は別の道を歩み始めている。それでもまだ、欠けたあと一人の面影を探し続けていた。

「今日はメルキドでしたよね?」

「ああ。ガライの奴が火急の用とやらで、直々に俺一人をご指名らしい」

 突然街中で転移呪文を使い人々を驚かせるといけないので、二人で街はずれに移動しながら今日の仕事を思い出す。ガライはまだ魔王を倒す前、精霊ルビスと伝説の装備を求めて旅をしていた頃に出会った人間の一人だった。ゾーマ討伐の宴の際にも呼ばれていたほどに呼び声高い吟遊詩人で、銀の竪琴という魔物を喜ばせる効果のある不思議な楽器を所有している。

「アイツは荒事なら竪琴一つで乗り切れるだろう。なのにわざわざ、何の用があるんだか」

「竪琴が壊れたから護衛をしてくれ、なんて言ったりして」

「それはそれで勘弁してほしいな」

 フーガはいまいち、この仕事に乗り気でなかった。その理由は仕事内容を正確に伝えないにも関わらず絶対来るようにと言われたせいでもあったが、それ以上にあの男を前にすると、同じように掴みどころがなく調子のいいまた別の青年を思い出すからでもあった。

 思い返せば、彼はガライとも意気投合していた。

 アリアの呪文で、一息にメルキドまで飛ぶ。無事町についたことを確認し、フーガは彼女に頭を下げた。

「ありがとうな。帰りはまた、キメラの翼を使うから」

「カノンも、今日中に帰って来られるんですよね?」

 賢者の言葉に、戦士は頷く。武闘家は夜が明ける前に、別の仕事で出かけていた。その分、今回は早く帰れると言っていたように記憶している。

「なら、お夕飯は三人分用意しておきます。お仕事、頑張ってくださいね」

「いつも悪いな。お前も無理するなよ」

 アリアはにこりと笑って答えると、また転移呪文で去っていった。フーガはそれを見送り、ガライの宿泊する宿屋へと向かう。

 この城砦都市も、以前来た時よりずっと活気を増してきていた。旅人が増えたせいもあるだろうが、それ以上に往路を行き交う住人たちの声の華やかさが要因だろう。宿を目指す戦士の脇を、賑やかしい若い女達が通り過ぎる。彼女達を横目に捉え、彼は同居する二人の少女たちのことを思った。

 カノンもアリアも、最近は楽しそうに会話をしている様子をよく見かけるようになった。仕事も頑張ってくれている。しかしどちらも和やかな談笑の合間、ちらりと目が窓の外に逸れた時、暦を見てしまった時、ふと隙間風に吹かれたような寂しい表情を見せる瞬間がまだあることに、フーガは気付いていた。彼女達をそうさせたのが何であるのかも、察していた。

 加えてアリアは以前自分でも言っていたが、やはり上で別れてきた家族のことが気がかりなのだ。その気持ちはフーガにもよく分かる。彼とて、まだ昇天させてあげられていない故郷のことがどうしても頭から離れない。その気持ちと討伐の宴にて勇者が発した問いかけ、そして何より彼自身の消息が知れないことが合わさって、自分たちの胸は不安とたちの悪い希望に苛まれている。

 しかし、もっと苦しめられているのはカノンだろう。何せあの男は彼女の一生を中途半端に縛ったまま、姿を消してしまったのだから。

 あまり表には出さないものの、彼の消息と安否を一番に気にかけているのが彼女であることを、フーガはどことなく覇気のない少女の様子から確信していた。

 ――まったく、お前はどこまで俺たちを振りまわせば気が済むんだろうな。

 フーガの友人たちを慮る心が、溜め息となって零れ出る。しかし彼は視界の端に目的の宿を認め、頭を切り替えた。

 メルキド一の宿と称されるその三階立てを、最上まで登っていく。その奥が詩人ガライの宿泊する部屋だった。

「ガライ、いるか?」

 戦士がノックと共に声をかけると、はーいと気楽な声が応じた。ドアノブを捻った向こうに、白藤色の長い髪を緩く一つに括った美男子が座っていた。

「こんにちは、フーガさん。久しぶりですね」

「おう。用件は何だ?」

「まあまあ、まずそちらにお掛けになって」

 ガライはテーブルに据えられた椅子の一つを手で指す。この宿の一等にあたるのだろう部屋は広々として、大きなガラス窓が目立つ斬新なデザインに設計されていた。その窓ガラスから差し込んだ陽だまりが、ちょうどよい具合に彼が差した椅子にも当たっている。

 フーガは促されるまま椅子に腰かける。向かい合ったガライは若い娘に人気の涼やかな笑みを浮かべ、膝にもたせかけた竪琴をポロンと爪弾いた。

「ちょっと待っててくださいね。その間に、ボクの新しい曲でも如何です?」

「おい、仕事は」

「あなたにぜひ確認してもらいたかったんですよ。勇者ロトの偉業を讃える、この歌を」

 フーガの抗議しようとした口が、開いたまま止まった。その隙に、ガライは竪琴でメロディを辿り、うららかな春の木漏れ日のようと称えられる朗々として優美な歌声を奏で始めた。

 戦士は流されるままにその旋律に耳を傾けていたが、ある個所を耳にした途端、仕方なさげだった表情が信じられないといった面持ちに変化した。

「おいおいおいちょっと待て」

 演奏の途中であるにも関わらず、フーガはつい声を上げた。しかしガライはまるでそれを予期していたかのように、竪琴を爪弾く手を止めた。

「はい、何でしょう」

「ロトの人物像が、全然違うぞ。お前だって会っただろ」

「そうですね、全然違いますね」

 ガライはしれっと認める。フーガには彼の意図が読めなかった。

「じゃあ、何で」

「それは、演出上の都合というヤツですよ」

 吟遊詩人は飄々と言ってのける。

「ボクもたまには美しく儚い紳士淑女の色恋だけでなく、剛毅な英雄譚を歌ってみたいと思っていたんです。そこにこの話が舞い込みまして、しかもできればロトはこのような人物にしてほしいと言われたのです」

 熊のように大柄で逞しい身体を持ち、龍のような厳つい気迫で戦う者を怯ませ、しかしその心はルビスよりも優しく、大きな掌は強靭な武器を扱うのに適していながら、太陽のように温かい――指を折って見せながら、ガライはその切れ長の瞳で戦士を窺った。

「そう。ちょうどあなたのような」

 フーガは一重瞼を瞬かせた。詩人は竪琴を支えていない方の手をひらひらと振った。

「この依頼は、つい昨日来たばかりなのです。だからメロディや歌詞に粗末なところが多々感じられましたでしょうけれども、まだ推敲途中ですから。続き、歌っていいですか?」

「誰が、そんなことを」

 やっとのことで戦士が呟く。ガライが首を傾け、白藤の髪が衣擦れの如き音を立てて揺れた。

「あれ、言ってませんでしたっけ? 今日ボクにあなたを呼ぶように言ったのは――」

「ごめん、お待たせ!」

 朗らかな声が、彼の言葉を呑んだ。フーガはドアを開け室内に入り込んできた声の主を一目見て、今度こそ言葉を失う。

「メルキドも随分お店が増えたね! 前は休業だったからってせ、いも」

 侵入者の方も戦士を見るなり、びたりと静止した。その腕に抱えた買い物袋から、菓子の袋が落ちる。

 入ってきたのは、青年だった。軽快にもてあそばした黒い短髪。ミルクのような滑らかな肌に甘く整った顔立ち。溌剌と輝く青い瞳、きりりとした眉、細身ながら筋肉のついた身体つき、それを覆う青空の短衣、山吹のアンダー、ボロボロになった紫のマント。

「そう、彼なんですよ」

 遅いですよサタル、と吟遊詩人は長閑にたしなめた。

 

 



 

「いや、あのですね。すごく大変だったんですよこの二ヶ月」

 それからきっかり二時間後、サタルはリムルダールにあるフーガの家のリビングで、床に正座していた。彼を半円で取り囲む形で、かつての仲間たち――戦士、賢者、商人、盗賊、魔法使い、遊び人――が仁王立ちしている。

 仲間たちの無表情な沈黙を前に、勇者ロトは己の背中を滝の如き冷たい汗が伝っていくのを感じた。

「元の世界に帰るにはどうしたらいいのか、あの後すぐルビス様に聞きに行ったんだよ。そしたら、残念だけど自分は直接的な行動であなたを助けてあげることはできない、でもラーミアを呼ぶことができたら、どうにかなるかもしれないって言われたんだよね。ラーミアって、時空を超えられるんだよ。でもそんなの、一凡人だけじゃ呼べるわけないじゃん」

 それでルビス様に協力してもらったんだ、とサタルは仲間達を見上げないまま言った。

「ラーミアが降り立つ場所には条件があるんだ。一つは世界樹が育つくらいの確立した世界であること、もう一つは聖なる石を切り出した止まり木があること。世界樹はまた良かったんだ。リムルダールの北に世界樹の若木があったから。だけど聖なる石なんて、そうすぐに用意できないでしょ。太陽に気が遠くなるほどの年月晒して面倒くさい手順を踏まなくちゃいけないんだから」

「だけどここで、ルビス様がちょいちょいっといいことを教えてくれまして。何でもグランドラゴーンとかいう奴が持ってるアイテムに、ルビスの剣っていうのがあって、これに要は聖なる石の効能があるらしいって話だったんですよ。それで、ルビス様に人目につかない場所に世界樹を移してもらう――世界樹は基本的に人里離れたところじゃないと育たないんだ――ことをお願いして、俺は魔王の爪痕を利用してそのグランドラゴーンとかいうヤツのところに行ってルビスの剣を勝ち取ってきたわけなんです」

「なんですけど、どうもグランドラゴーンがいる所はアレフガルドに繋がってはいるけど異次元だったらしくてですね。あちらの世界で四苦八苦してどうにかこうにか帰ってきたら――二ヶ月、経ってたんです」

 サタルはようやくここで、仲間たちを見上げた。

「そんなわけで、やっと上の世界に帰れるようになりました。お待たせしてすいませんでしたッ」

 青年は、勢いよく頭を下げた。仲間たちはお互いに顔を見合わせて、最終的に視線は自然とフーガへと集まる。一同の無言の訴えを受け、戦士は苦笑しつつ勇者を見下ろした。

「サタル、とりあえず顔を上げろ」

 勇者は恐る恐る頭を持ち上げて、彼を仰ぐ。ゾーマを一人で討ったはずの男なのに、何とも情けない顔をしている。フーガは噴きだしたいのを堪えた。

「俺たちは別に、お前が帰るのが遅かったことを怒ってるわけじゃないんだ。分かるだろう?」

 サタルは、幼子のようにこくりと頷いた。戦士は目を細める。

「やつれたよな、お前」

「え、そうかな」

 サタルは己の頬に手を当てる。彼の秀麗さは依然として健在だったが、頬が少々こけたようだった。フーガは溜め息を吐く。

「そんなになる前に、一言くらい連絡入れてくれ。死んだかと思ったぞ」

「ごめん」

 ルビス様と別れた後すぐ魔王の爪痕に飛び込んじゃったから、とか、まさかこんなに時間かかるとは思わなくて、などとサタルは呟き、もう一度謝った。

「すいませんでした」

「俺たちにはともかく、カノンにはせめて何か言うべきだったな」

 フーガが恋人の名前を出した途端、サタルは肩を震わせた。

「あの、カノンは」

「今は仕事よ」

 傭兵として働いてるの、と説明したのはアリアである。

「かわいそうに、あなたのせいでずっと元気がなかったんだから」

「俺のせいで?」

「当たり前よ。あなたは無事なのか、無事だとしてもどうしたんだろうか、自分のことは忘れてしまったんだろうかって、ずっと考えてたんだから」

「そんな、カノンが俺のことでそんなに悩むわけが」

「ただいま」

 突然響いた第三者の声に、一同は驚愕して声のした方を向いた。ちょうど同じタイミングで玄関に繋がる扉が開き、黒いツインテールの少女が入って来る。彼女は硬化した仲間たちとその中央の青年を見て、立ち尽くした。

「お、おかえり」

 サタルが、己を見つめたまま動かないカノンにぎこちない笑みを浮かべつつ応じる。それでも彼女は、漆黒の双眸に彼を映したまま微動だにしない。

 その様子にサタルとフーガは懐かしい既視感と不吉な予感を覚え、何かに急かされるようにかわるがわるこれまでの次第を語った。

「というわけでして」

「連絡くらいちゃんとしろは俺の方で言っといたぞ」

 戦士がそう締めくくる。するとカノンがここでやっと彼の方へ眼差しを移し、ゆっくりと頷いた。そして走るより速く大股にサタルへと歩み寄ったかと思うと、その腕を掴んだ。

 サタルには声を上げる暇もなかった。カノンは捻った彼の腕を背負い、暖炉前のソファーへと投げ飛ばした。

「ああっ懐かしい!」

「スッキリしたわ」

 見事に決まった一本背負いにテングが思わず声を上げ、ルネが絶賛した。

 一方受身を取ったサタルはがばりとソファーから上体を起こし、顔を青くしたまま必死に弁明している。

「ごめんカノン! でもルビス様に誓って何も疚しいことはしてないから! 本当にこれはご本人に確認してくれていいから! 来る日も来る日もモンスターメダっ」

 青年の台詞が中途に切れた。しかし今度は、投げ飛ばされたからではない。

 サタルの胸に、カノンが飛びついて来たのだった。

「もう、帰って来ないかと思った」

 少女は彼の胸に顔を埋めたまま、くぐもった声で呟く。サタルはおっかなびっくりカノンの顔を上から横から覗き込む。彼女が泣いていないことを確認した瞬間、天井を仰いで片手で目を覆った。

 手から漏れている口の形を認めたスランが、半眼になって言う。

「おい」

「ハイ」

「ニヤけんな」

「やばい。幸せで死にそう」

「よし、じゃあそのまま待ってて」

「いやそっちが待ってくださいお義姉さん」

 サタルが忍び寄るキラナの手にある冒険商人用の算盤を見て、焦った声を出す。

「それ、まさかとは思うけどまさか」

「妹を散々待たせた上に幸せにしないで先に死ぬ義弟なんて、いた覚えないなー」

「やめてッ、俺まだ全然死にそうにないです精霊より長生きできそうです任せてください! お願いだからッ!」

 振り下ろされた算盤を、サタルは片手で必死に受け止める。それを見て、キラナは思わず噴きだした。笑いは次第に連鎖して、終いには部屋中に笑い声が満ちる。最後にサタルの胸に顔を押し付けていたカノンが振り向いて微笑むのを見て、フーガは胸を撫で下ろした。

 

 

 

***

 

 

 

 翌日のことである。新しく拓かれた世界の広い広い海、その端に浮かぶ真新しい孤島に、八つの人影とまだ小さな木影、そして巨大な鳥の影があった。人影たちは何やらわいわいとしばらく騒いでいる。彼らは自分たちの声がいくら騒いでも騒いでも広大な海にうら寂しく消えていくというのに、どことなく楽しげな風であった。

 やがて人影たちは、一人、また一人と鳥の影に己を重ねる。八人全員が鳥の影に沈んだ時、その背から腕の影が一本だけ突き出して、虚空を指す。

 手の持ち主らしい明るい男の声が、広大な世界に木霊した。

「さあ、帰ろう!」

        

 




 

 

 

 

20160125  完


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