●月×日
 今日は不思議な患者さんが来た。
 とても若いのに、重い呪いを受けた男の子。聞けばアリアハンの勇者様なのだとか。
 母さんも姉さんもとっても気の毒に思ってるみたい。だって私より三つ年下なのに故郷を発って、辿り着けるかどうか確かでもないネクロゴンドを目指して、たった二人の仲間と一緒に旅をしてるんだもの。しかも幼い頃から誰かに重い呪いをかけられたかもしれなくて、原因も分からないまま長年苦しんでるなんて……。
 父さんは「あの少年にもプライドがあるんだから、あまり気の毒がりすぎてはいけないよ」って言いながら、それでもできる限りのことはしたいって言ってた。私もそう思う。だってこういう時のために、私はルビス様からお力をいただいてるんだから。
 大神官様の仰せに従って、私たち一家はこれからこのアリアハンの勇者であるサタル様の介抱にあたる。正体のわからない呪いを相手にしなくちゃいけないのが怖いけど、でもルビス様の祈りが届くっていうことが分かってるだけでも幸いだったんじゃないかしら。祈りを捧げれば、サタル様の容態は大分安定する。継続的にルビス様にご加護をいただければ、サタル様の身体も体力を取り戻して回復できるようになるだろう。
 だけど、昼間見た発作の様子だとまだまだ油断はできない。発症してからまともに栄養が取れてない上に脱水も起きてるから、気を付けないと他の病気を併発するかもしれない。咳の音も変で、血が混じってるのも気になる。目が離せないから、しばらく交替で昼夜看病しないと。
 兄さんも姉さんも私も、神殿でのお仕事を減らしてもらえた。その分、責任を持ってお仕事にあたろう。
 
 
●月▼日
 サタル様の容態はどんどん良くなってきている。顔色が明るくなって、咳に血も混ざらなくなった。まだ重湯を食べているけど、普通の食事が摂れるようになるまでそう時間はかからないはず。
 回復してきて分かったのだけど、サタル様はよく喋る人なのらしい。ピオリムトークというわけではないけれど、神殿に来る旅芸人さんの鳩出し芸みたいに、次から次へとお話のタネが出てくる。しかもとってもお世辞上手で、よく私のことを褒めてくれる(もちろん、私だけじゃなくて兄さんや姉さん、ビクのことも褒めてるみたい)。でもたまに、ちょっとどう返事したらいいのか分からないようなことを仰るから困るのよね。だけど困ってると、大概その時付き添ってくれてるカノン様かフーガ様のどちらかが助け舟を出してくれるから、すごく助かる。
 カノン様とフーガ様は勇者様の旅のお仲間で、お三方はとても打ち解けた関係みたい。サタル様が冗談を言うと、お二人はすぐに鋭いツッコミを入れる。見聞きしていてとっても面白いの。
 ちなみにお二人とも傭兵稼業をなさってきていて、サタル様よりずっと旅慣れているのだそう。サタル様が療養なさってる間、お二人は神殿での警護や外に出るお仕事を手伝ってくださっているのだけど、僧兵さんたちの言うことによると相当な手練れなのらしい。
 言われてみれば確かに、お仕えしている時に偶然見かけたお二人の姿はとても凛々しくて、内仕えの僧兵さんたちや修行中の方々とは全然動きも気迫も違ったように思い返される。もっとも、そうは言っても私はお仕事以外で外に出たことがあまりないから、なんとなくの雰囲気でしか分からないのだけど。
 ……いいなあ。
 不謹慎なのは重々承知なのだけど、最近お三方を見ながら私はそう思うようになった。
 お三方は、すごく輝いている。
 ……うーん。輝いている、っていう言い方で合ってるのかな?
 私もこの「輝いてる」っていう表現が今のお三方への自分の気持ちと合っているかわからないから今日記を書きながら考えているんだけど、きっとこの思いは「憧れ」の一種なのだろう。
 輝いているというのは楽しそうだとか煌びやかだとか、そういうことではない。内面的な魅力がその言動の端々に溢れ出て、ハッとさせられる。
 たとえばサタル様の軽い語り口と、その間に時折挟まれる多分な気配りを含んだ言葉。カノン様の眼差しが、戦ごとを察した途端鋭くなるさま。フーガ様のいかなる時も縮こまることを知らない、大きな背中。
 私の知らない外を生きる人たち。私に足りないもの。
 羨ましいな。
 
 
 
⚫︎月◆日
 私もサタルさんたちの旅についていくことになった。
  家族や故郷と離れる寂しさはもちろんある。だけど正直に言うならば、私は不謹慎ながら嬉しいと感じている。
 魔王討伐のため、というのは下手すると死出の旅路となるのだとは父さんから聞いた。でも私は、神殿を出て様々な地を巡ることが出来るということを、自分でも予想外なくらいに喜んでいる。
 神殿でのおつとめや修業の度に、私はずっと考えていた。賢者とは地に許される者。すべての地を歩くことなしに、どうして真に地に許される者と言えるだろうか?
 私はルビス教の賢者としてはもちろん、人としても未熟だ。ルビス様は「どこの地の者であろうと何をする者であろうと、すべての者を愛しなさい」と仰る。そんなことが、ダーマの地しか知らない私に出来るだろうか?
 私は一度、神殿を出るべきなのだと思う。たとえ死出の旅路となろうとも、この命惜しさに引きこもって、うわべだけでルビス様の教えを説く生半可な賢者になるよりはいい。
 兄さんはしっかりしてるから、自分で地歩きの修業を成し遂げた。頭のいい姉さんは神殿のおつとめで外の世界を飛び回って、悟りを得た。ビクも生意気だけど聡いから、きっと自力で悟りを開ける。
 私は昔からとろい。「アリアは優しくていい子だね」なんて言われるけど、そうじゃない。私は鈍い。鈍いから誰にでも寛容でいられるし、何にでも平気な顔でにこにこしていられる。
 私は幸せな人間だ。生まれも環境も恵まれている。だけどそれが、私のあだでもある。
 生半可な慈愛を説く賢者にはなりたくない。私は鈍いけど、神殿を訪れる患者さんたちの、自分に対する「こんな小娘が賢者か」っていう眼差しには気づいてる。
 「苦労もしたことがないだろうに」っていう侮りの気持ちを相手に抱かれ続けるような賢者では、嫌。
 私は自分の生きる世界を、自分の生きてこなかった世界を知りたい。
 そして私の力を世界を救うという勇者様方のために、さらに言うならば憧れるお三方のために使えるならば、賢者としてこれ以上ない喜びだ。
 日記はどうしよう。旅先でそんなものをつけている余裕なんてないのかもしれないけど、書くのをやめたくはない。
 日記帳も、一応持って行ってみようかな。ただこれまでのものは置いて行って、小さいノートに書こう。そうしよう。
 精一杯、足を引っ張らないようにしなくちゃ。



・ ー・ ー・ ー・ ー・ ー・ 


 
▲月×日
 随分日が空いちゃった。
 分かってはいたけど、旅を生業にしてる人たちはすごい。フーガさんもカノンさんも、病み上がりのはずのサタルさんでさえ、私よりずっと体力がある。私は体力も経験も何もなくて、船に乗っているだけなのに毎日へとへとになってしまう。
 三人とも、私に気を配ってくれる。情けない。
 こんな有様で、ちゃんとした賢者になれるんだろうか?



▲月○日
 少しだけど、船旅にも戦闘にも慣れてきた気がする。
 三人とも相変わらず、私に気を遣ってくれる。サタルさんは気楽に話しかけてくれて「呼び捨てでいいよ。俺の方が年下なんだし、あんまり硬く接されると困っちゃうなー」って笑いながら「もっと気安く話してよ。仲良くなりたいって言ってるでしょ? ね、取って食ったりしないからお喋りしよ?」とさりげなく私の様子を窺ってくれるし、色んなことを教えてくれる(その直後カノンさんに「取って食うフリにしか聞こえない」って言われて「どんだけ俺信用ないの!?」って言い合いしてたのが面白かった)。
 カノンさんは必要最低限のこと以外全然話さないけど、ちょこちょこ「大丈夫?」って声をかけてくれる。たまに夜眠れない私のために台所でホットミルクを作って持ってきてくれる。凄く強いし無口な人だけど、優しいのね。
 そしてフーガさんはとにかく頼りになる。こう、甘やかす感じではなくてあくまでもわたしが自力でやっていけるように補助をしてくれてるんだって感じの距離で、見守ってくれてる。私がそろそろ限界かもって時に「休め」って声をかけてくれるのは、いつもフーガさん。
 一度私も見栄を張って大丈夫だからって働き続けたことがあったんだけど、その後案の定戦闘中にふらっと眩暈がして、しかもそのタイミングで麻痺毒を喰らっちゃって。咄嗟に怖い、って思った時に助けてくれたのがまたフーガさんだった。
動けなくなった私を抱えて戦闘から下がらせてくれて、満月草を処方してくれた。さらにカノンさんやサタルさんが敵と戦う間、フーガさんは私について守っててくれた。そして戦闘後も、しばらく安静にしてた方がいいからって部屋のベッドまで抱えていってくれた。
 情けなくて謝ったら、謝るよりまず無茶をするなって窘められた。もっともでした。申し訳なくて涙が出そうだったけど、でもその後フーガさんは、
「俺だって、何十年って旅を続けてきてやっとこんな感じなんだ。まだ旅に出て一ヶ月程度なんだから、俺たちみたいにできなくて当たり前だろ」
 ってフォローしてくれた。それで私がまた謝ったら、苦笑して訊いてきた。
「俺たちは、君が無茶しなくちゃならないくらい頼りないか?」
 慌ててそんなことないと伝えたら、フーガさんは
「なら頼ってくれ。君は真面目すぎて遠慮しがちなところがあるから、もっと頼ってくれた方が俺たちも嬉しい」
 そう言って微笑んでくれたの。
 すごく、大人だなあって思った。
 この件が起こる前から、フーガさんの円熟した人柄を知ってはいた。サタルさんとカノンさんが言い合いしながらも仲違いはしない絶妙な関係を保ててるのはフーガさんのとりなしのおかげで、フーガさんがいなかったらどうにもならないことがたくさんあるのも、パーティーに加わって一ヶ月以上経った今だから分かってきた。
 フーガさんは凄い。人との接し方も上手だし人のことよく見てるし、そして何より強い。
 倒れそうになった私を片腕だけで支えて、軽々と横抱きできる逞しさにはびっくりしてしまった。
 ……逞しいのよね。すごいなあ。

 
 
▲月×日
 もうすぐ目的地の一つへたどり着く。私としてはとても長い道のりだったように思うのだけど、フーガさんは「やっぱりポルトガ産の魔法の船は速いな」と感心しきりだった。フーガさんは船に乗り慣れてるみたい。
 明日には着くという目的地の名前は、ムオル村。最果ての村と呼ばれている、ツンドラ地域に程近い亜寒帯の村だ。私も名前だけは知っている。
 この村に立ち寄る理由は二つ。一つは、オーブの手がかりを探すため。もう一つはオーブを集めるのに役立つという、山彦の笛の情報を求めるため。
 ダーマにいた頃、オーブについていくつかの書物で読んだことがあった。それによると、オーブというものは人智の及ばない太古から存在する魔法の品で、もともとは精霊が世をよく治めるために作ったのだとか、または神に仕える古代生物の命だったのだとか、由来にも諸説あるらしい。
 だがその複数ある由来を伝える伝承に共通して登場しているのが、山彦の笛だった。山彦の笛は精霊の持ち物で、オーブのあるところで吹くと、オーブはそれに共鳴して同じ音色を返す。それが木霊のようだったから、山彦の笛と呼ばれたという。
 この笛が何故オーブの共鳴を誘うのか、そもそもオーブとはどんなはたらきをするものなのか。そういったことについてはそれこそ由来以上の謂れが残っていて真偽のほどが分からないのだけど、この笛の行方についてはだいたい一致している。山彦の笛は精霊たちが地上を去った際にこの地に置き去りにされ、山奥深き何処かで眠っているというのだ。
 私はそれが本当に存在するものか確かではないと思っていたけれど、大神官様はその存在を確信していらっしゃったみたい。神殿の禁書架から、北の果てにて発見したという古い文字の書かれた銅板を持ってらして、「山彦の笛は北方洋周辺にあるに違いない」と仰った。そしてその手がかりを知るのはツンドラ近くに住む北の民だと教えて下さったので、私達はムオルの地を目指すことになった。
 たまに港町を見つけたら寄ってはいたけど、一日程度で発ってしまっていたから、今度のムオルの村で何泊かできるのは嬉しい。船旅は決して嫌いではない。でも、そろそろ陸が恋しくなってきた。あまり贅沢はできないと思うけど、船の上では全然新鮮な野菜が食べられなかったから、ムオルでは野菜が食べられるといいな。
 これは私だけじゃなくてみんな思ってるみたいだから、多分叶えられると思う。今日サタルさんが夕飯のチーズベーコンバケットを食べながら、「ねー、ムオルって今野菜取れるかな? 取れるなら何があるかなー」とフーガさんに話しかけて、遠回しに野菜が食べたいと訴えかけていた。そしてそれにフーガさんもちゃんと気付いたみたいで、「ちゃんと食える宿を選ぶから安心しろ」って答えてた。
 サタルさんって結構カッコつけたがりだと思うけど、同時に甘えたがりなのかもしれない。フーガさんもカノンさんも素直な言葉を返すタイプだから、愛想より気持ちのストレートに現れた言葉をもらえると、サタルさんはとても嬉しそうにする。しかもサタルさんはスキンシップがそれなりに好きみたいで、二人に接触することが多い。特にカノンさんに対してはめちゃくちゃ抱きつきにいこうとしたりして、殴られている(それでもいつも回復呪文がいらないギリギリのところを狙ってあげてるから、カノンさんは優しい)。フーガさんには肩をたたくことが多くて、フーガさんもそれに対して仕方ないなって言いたそうな顔ながら、サタルさんに甘えさせてあげている。今日も頭ポンポンしてあげていた。
 いいなー、って思っちゃう。フーガさんの手は大きくて優しいということを、私は戦闘で助けてもらう度に痛感している。動けない私を運んでくれた手、傷の具合を診てくれる手、私たちを守るために大きな斧や剣を握る手。我ながらよく見てると思う。
 フーガさん、大きいからかな。サタルさんの看病してた頃からなんとなく目で追っちゃって、意識してた。サタルさんは誰でも見たらイケメンだと思えるような整った外見の人だけど、不思議と私はフーガさんを見てた。サタルさんより、フーガさんに傍に寄られたり話しかけられたりした方がどきどきした。夕飯ができたことを知らせに行って偶然サタルさんとフーガさんが着替えてるところを見ちゃった時も、あの後フーガさんに出くわすたびに気まずいような気持ちがしたし…。
 あーもう。私ったら、あさましい。
 甲板に出て、頭冷やしてから寝ようかな。



▲月◎日
 カノンがサタルくんを苦手だっていうのも、ちょっと分かった気がする。
 ムオル村で六日目の午後。フーガさんとカノン、サタルくんと私という風に、二手に分かれて買い出しをした。それぞれ店を回ろうって話になって割り振りをして、宿の前でフーガさんとカノンと分かれる。二人の背中を見送ってたら、急にサタルくんが言った。
「そんなにフーガはカッコいい?」
 正直、そう聞かれてすごく焦った。
 ちょうどその時本当にフーガさんのことを見てたから、ついでに言うとその前からずっとフーガさんを盗み見しすぎてる自覚はあったから、それを見抜かれてた気がして動揺した。
 後から考えれば、この時正直に「うん、カッコいいよね」って認めればいいだけだったんだ。なのに、何故かその「カッコいい」っていう言葉を口にするのがすごく恥ずかしくて。しかもここでずっと見てたことを認めたら、用もないのに男の人をじっと見つめてるなんて変だなって自分でも思っちゃって。だからまともに返事ができなかった。
 そしたらサタルくんは苦笑した。
「ごめん。ちょっとからかいたかっただけだったんだけど」
 そんなに慌てるなんて本当にフーガのことが好きなんだね、ってサタルくんは言った。
 待って、って思うくらい私は混乱した。
「違うの? よくフーガのこと見てるし、フーガと距離が近くなったり指が触っちゃったりするとうろたえたりしてるよね?」
 うわあ、気付かれてた。穴があったら入りたい。
 違うの、私はただ単純に憧れてるだけ。だってフーガさんってすごいなって思うところばかりで、ほんとうに尊敬してるから、接する時に緊張しちゃうっていうか。
 私は一生懸命説明した。私はまだフーガさんのことを全然知らないし、フーガさんは世間知らずの私なんかとは全然違う世界観を生きてる。でもフーガさんを見てると勉強になること、気付かせてもらえることがたくさんあって、だからただ見てたいだけ、見てるだけなの。
 冷静になった今、あの時自分が言ってたことを思い出してみても、言いたいことは言えていたと思う。ただものすごくしどろもどろで噛みまくってたから、はたから見るととてもみっともなくて、見られたものじゃなかったはず。
「うん。そうだろうなって思ってた」
 だけど必死に話した甲斐あって、サタルくんはすんなり納得してくれた。私はちょっと拍子抜けする。
「フーガは格好いいよね。俺も憧れる」
「サタルくんも?」
「うん。ただ見た目を気にしないのに格好いいところが格好いい」
 サタルくんはそう言った。見る目がある。
 私たちはそれから、たくさん話をした。旅に出てから、あんなに喋ったのは久しぶりだったと思う。カノンとは最近力を抜いて話せるようになってきたけど、カノンはあんまり口数が多くないから、はしゃいで話したのはこれが初めてだったかもしれない。
 随分と打ち解けた。フーガさんの格好いいところに始まって、サタルくんは私の知らないダーマ以前の旅路におけるエピソードを、面白おかしく話してくれた。特におかしかったのは、アッサラームで魔物が来襲した時の話だった。
「カノンもカノンだけど、フーガさんは冷静すぎ! 『服を着ろ』って!」
「本当フーガは紳士だよ。でもそれに対してカノンは『このままでもいける』って言ってさ! まったく、だからカノンって余計幼く見られるんだよね」
「あら、それってカノンに言ってもいいのかしら?」
「あ、言わない方針でお願いします」
 サタルくんは両手を合わせて拝む。私も同じように拝む形をとって、サタルくんの顔を覗き込んだ。
「じゃあさっきの私がした反応のことも、内緒にしてくれる?」
「さっきのって、フーガのこと見すぎっていう?」
「そう。その時のこと」
「いいよ。じゃあ俺たち二人の内緒だね」
 サタルくんは悪戯っぽく約束してくれた。
 私がホッと一息つくと、サタルくんは何を思ったのか唐突に尋ねてきた。
「アリアは、フーガのどんなところに憧れてるの?」
 そんなの、急に聞かれても困る。フーガさんの憧れるところなんてーー一生懸命これまでのフーガさんの姿を思い返しているうちに、勝手に耳が熱くなってくる。
 戦闘時の沈着ながら勇敢な戦いぶり。困ってる人に迷わず手を差し伸べて、助けてくれるところ。よく周りを見てくれるところ。それから、細かいことに執着しないおおらかな態度も。上げればキリがないくらいだ。
 私がそう伝えると、サタルくんは神妙に頷く。
「確かにフーガは腕っ節が確かで、いつだって落ち着いていて、器が大きくて、細かいことに執着しない。俺もそういうところが格好いいと思うけど、それだけじゃないと思う」
「どういうこと?」
「人って、分からないものに惹かれるだろ?」
 サタルくんは例を示した。関心とか、好奇心とか、恐怖心とか。どれも分からないものに対する気持ちだ。
「別に、フーガの見せない部分を無理やり暴こうなんて思ってるわけじゃないけど。何となく気になるというか、気がかりというか」
 少しの間、サタルくんは考えているようだった。私もサタルくんの横顔を見ながら考えた。今も思い返してみてるけど、やっぱりサタルくんの言葉に当てはまるようなフーガさんの様子は、思い当たらない。
「フーガには、俺たちを寄せつけようとしない影があると思うんだよな」
 そうなのかな。
 サタルくんについては、前から気さくでいい人だなって思ってた。カノンはいつも、サタルくんのことを「何考えてるか分からなくて得体が知れない」って言うけど、サタルくんはいつもニコニコして私を気遣ってくれるし、楽しい話をしてくれる。
 今日フーガさんをきっかけにして、初めて心から打ち解けて話してみたけど、私が最初に思ってた気さくで良い人であることに変わりはないと思う。
 でも、カノンの言ってたこともなんとなく分かった。サタルくんは、色んなことを考えすぎる人なのかもしれない。



・ ー・ ー・ ー・ ー・ ー・ 


 
■月▽日
 フーガさんの故郷に行った。そこで、フーガさんのことを知った。
 知ったとは言っても、ほんの少しだけなんだと思う。だけど私には衝撃が大きくて、フーガさんが帰って来てくれた今でも、その影響なのかよく寝付けない。
 影があるというサタルの言葉は、正しかった。あれは、私たちに知られたくないことがあるって意味だったのね。
 気付いてみれば、フーガさんの穏やかな表情には、いつもどこか沈んでいるような雰囲気があった。テドンに来て、本当に沈みきった様子を見て、やっとそれに気付くなんて。何も知らずに格好いいとはしゃいでいた自分が腹立たしい。
 フーガさんは故郷をなくしていた。しかももう、御身内の方も、親しい方も、恋人すら亡くしている。
 それでもフーガさんは、以前と変わらぬ様子で私たちのところへ戻ってきた。何も悪くないのに、私たちに謝ってから、「テドンの村人たちを、みんな昇天させてやらないとな」と微笑んで言った。
 カノンはそんなフーガさんの様子を見て、「少し憑き物が落ちた」と言う。確かにそうかもしれない。フーガさんの胸中を推し量ることなんてできるわけがないけど、沈んだ雰囲気はまだ残っているものの、どこか安らいだ顔つきになった気がする。晴れやかな、とまではいかないけれど、何か気持ちの整理をつけたんだろうなって顔。
 なのに私は、まだ落ち着かない。
 フーガさんは戻ってきてくれた。気掛かりだったのだろう故郷への思いを、故郷の姿と向き合うことで昇華して、今後私たちに同行しながらどうしていきたいかを告げてくれた。また四人で旅ができる。
 でも私の胸中は、まだ判然としない。
 私は……自分のことのはずなのに、自分の気持ちがどうなっているのか、分からない。


 
■月◇日
 何度も何度も、考えている。
 テドンに行ってフーガさんのことを知って、私は何を思ったのだろう。もちろん、船の上からこちらに向かって歩いてくるフーガさんの姿が見えた時にはとても嬉しくて、陽の光と涙とで視界が霞んだ。それは本当だ。
 でも、あの村に行って私が感じたのはそれだけじゃなかった。もっともやもや、ぐるぐるした気持ち。
 初めて見る、うろたえたあの人に驚いた。その昔を知ってもっと驚いた。テドンの地を思って悲しんだ。同情した。助けたい、何かしたいと思った。
 そして、何もできなかった。
 私がフーガさんにできたことは何もなかった。声をかけても、明らかに私を気遣ってのものだろうぎこちない笑顔を作らせただけ。
 あの状況で故郷に止まりたいと言ったフーガさんが、死に向かっていくのは明らかだった。それを止めようとしたけど、私じゃ駄目で。
 一生懸命伝えようとしたのに、私の言葉はフーガさんには届かなかった。サタルが説得してくれなかったら、今頃きっと。
 ……。
 …………。
 分かってたはずだったのに。
 フーガさんは私にとって憧れの人だけど、フーガさんにとっての私はただの同行人でしかないんだから。
 私は。
 ……何を書いているんだろう。
 何を、考えているんだろう。



◆月○日
 今日もいつも通り、無事四人揃って夕飯を食べることができました。ルビス様、ありがとうございます。
 私の心も、少しずつ落ち着いてきたんだと思う。フーガさんとも普通に接していられるし、サタルやカノンに心配されることも少なくなった。
 そう、二人には随分心配をかけてしまった。サタルとカノンそれぞれに話を聞いてもらったこともあれば、二人同時に聞き役をしてもらったこともあった。そういう時の二人は全く喧嘩をしなかったので、もしかして本当は二人とも仲良しなんじゃないかなって、後になってみると考えてしまうのだけど、二人別々に聞いてみたら「違う」と言われたので、人の関係って分かりづらいのね。
 話を聞いてもらえて良かった。自分一人だとぐるぐると考えてしまうことも、他人に聞いてもらって自分にない視点から意見をもらえると、ハッとさせられた。
 サタルもカノンもよく話を聞いてくれた。初めて見る廃墟、生々しい惨劇の痕跡、夜の幻想に包まれた仮初の世界。そしてこの十六年間、惨劇の夜に負った傷を癒さないままに生きてきた憧れの人の真実。彼の傷に、何もしてあげられなかったこと。
 少しずつ、少しずつ話した。考えてみればサタルもカノンも年下で、その二人にそうやって話を聞いてもらうなんて、己の未熟さを晒すようで恥ずかしいことなのかもしれないけど、たとえ話さなかったとしても私の未熟さなんてすぐにバレるだろうから、後悔はしていない。二人は私より成熟していて年下らしく思えたことなんてあまりなかったし、なにより相談したおかげで私の気持ちには一つ、大きな変化が起こった。
 あれはカノンに話を聞いてもらった六度目の夜だったと思う。カノンは私がフーガさんに何もしてあげられなかった、それがショックだったのだと話すのを、黙って聞いていた。そして私が思っていたことを全て話し終わり、でもまだ気持ちが整理できないとこぼすと、ようやく口を開いた。
「フーガが恋人を選んで、がっかりしなかったの?」
 頭を殴られたのより、強い衝撃だった。
 もちろん、フーガが選んだのは恋人だけではなくて故郷全体だけどとカノンは付け足した。彼女からそんな台詞が出るとは意外だったけど、だからこそ率直な彼女の言葉は、私が目をそらし続けていた事実を見つめさせた。
 そうだ。
 私は教会前でセシリアさんの自己紹介を聞いた時、落胆した。
 婚約者の存在を知って、彼女の聡明そうな笑顔に、何より彼女とフーガさんの寄り添い通じ合い、求め合う姿の睦まじさ、美しさに絶望した。
 並ぶ二人の姿が視界に映ると息苦しかったのは、敵うわけがないと無意識のうちに思っていたからなのかもしれない。
 いつからこんな気持ちが芽生えたのだろう。私はこの時にはもう、フーガさんのことが好きだったらしい。でも私はまだフーガさんほど人生を知らなくて、だからフーガさんのことも理解できない上に、支えてあげられない。そんな私がきっと思いを伝えたところで、フーガさんにとって私の思いは「恋」とも「好意」とも受け取ってもらえない。かつてサタルが言ったように、「憧れ」として見られるのだろう。遠い世界を生きる人になんとなく惹かれた、その程度の思いとして。
 それをあの時、無意識に悟ったのだと思う。
 この晩、私は泣いた。呆然としていたのだろう私の目に涙が浮かぶのを見たカノンは焦って謝ってきたけど、すぐに私は謝らないでと伝えて訂正した。
 カノンは何も悪くない。ただ、私は気付いてしまった。
 私の思いは、風船みたいなものだった。私がフーガさんに抱いていた気持ちは憧れと呼ぶには図々しくて、恋と呼ぶには軽々しい。憧れは私のフーガさんに対する思い込みを糧にひとりでに膨らんで、実際のフーガさんに対するところからふわふわと飛んでかけ離れてしまっていた。
 こんなの、恋じゃない。
 なのに私はフーガさんに婚約者がいたと知って落胆して、フーガさんを知る彼女の言動に嫉妬して、そのくせフーガさんの彼女を見つめる眼差しにときめいて、内緒話をする二人の姿に胸が痛んだのにどきどきして。
 何が、助けたい、何がしてあげたい、だろう。
 そう思ったら無性に悲しくなって、さらに腹立たしくもなって涙が止まらなくなった。
 フーガさんは辛いのに、私の想像できないくらいに辛いのに、私は何を考えていたのだろう。今だって、何をぐずぐずしていたのだろう。
 あの後、みっともなく泣きじゃくる私についていてくれたカノンには、本当に感謝してる。お陰で少しふっきれた。
 失恋どころの話じゃなかった。私は片思いのスタート地点にすら立てていない。
 やっぱり私は、フーガさんに憧れてるだけなんだ。そう考えられるようになったら、随分楽になった。
 今日もフーガさんを見つめていられて、ちょっとだけどお手伝いができた。
 それだけで、幸せだ。


 
◆月△日
 婚約者さんに嫉妬しなかったかと聞かれて「はい」と答えたら、嘘になってしまう。でも同時に、フーガさんに微笑むセシリアさんを見て、彼女を食い入るように見つめるフーガさんの眼差しを見て、「幸せになってほしかった」と思ったのも事実。
 あの時のフーガさんの様子は辛そうで痛々しくて、でもこちらがどきりとするくらいの情熱を醸し出していた。セシリアさんと寄り添う姿は、見たくないけど目を反らせないような不思議な気持ちを、私の中に残した。
 私のフーガさんに抱く気持ちは恋ではない。でも彼を見つめていたい、その辛い過去も癒えない傷も知りたい、そっと見守っていたいと思ってしまうのはいけないことだろうか。
 もう少し。もう少しだけ、彼を見つめていたい。



・ ー・ ー・ ー・ ー・ ー・ 



★月○日
 最近、サタルの様子がおかしい。
 どうおかしいかって聞かれると答えづらいのだけど、カノンを見る目付きが変わったというか。態度が微妙に、本当に微妙になんだけど、柔らかくなったというか。
「あれは、自覚したわね」
 キラナが言うには、そうなのらしい。
 サマンオサの偽王様を倒して、本物の王様を見つけて、その件に関わった私たちはその後始末でてんやわんやしている。
 何かあるといけないからって王宮に泊めてもらってるけど、いいのかしら。隣部屋になったキラナは嬉しそうに遊びに来る。私も、キラナと話すのは楽しいから嬉しい。
「本当に自覚してなかったのね……」
「ああいう節操のないタイプって、『好き』の概念とかどうでも良いと思ってることが多いんだよ。だから今困ってるんだろうね」
 キラナはそう言うけど、分かったようなそうでないような。
 私には、「好き」って思えない人と身体を繋げるような深い関係になるっていう状況が想像し難い。
「でもサタルの場合、根は遊び人ってわけではないから」
「そうね。意外と真面目よね」
 華やかで人当たりも良いけど、ふとした時に剣みたいな鋭さを見せる。
「私だったら絶対付き合えないけど、でもカノンなら……」
 キラナは途中まで言って、ハッと目を瞠った。まるで頭の中で話してたことをついぼうっとしてて話してしまったかのような、そんな感じだったから、心配になった私はキラナにどうしたのか聞いてみた。でもキラナは何でもない、って。
 気になったけど、私はそれ以上詳しく聞けなかった。その前に、キラナがすごい質問をしてきたから。
「ねえ、アリアだったらこの旅の仲間の誰と付き合いたい?」
「ええっ?」
 私はすごく困った。
 だって……ねえ?
 私がすぐ答えなかったせいか、キラナはパーティーの男性陣を評し始める。サタルは顔はいいけどクセがあるから眺めてるだけがちょうどいいだとか、スランはいい人だけどヘタレっぽいしドジだからなんだか弟みたいだとか、レオンさんはああ見えて頑固だから亭主関白になりそうだとか。
「フーガは」
 どきりとする。キラナは至って楽しそうに言う。
「身なりはあんまり構わないけど不潔なわけじゃないし、腕はいいし、細かくなくて程よく大雑把な性格で、頼りになっていいよね。私、結婚するならフーガが一番良物件だと思う」
 やっぱり、そう思うんだ。
「フーガさん……と、結婚したい?」
「まさか!」
 キラナはカラカラと笑った。
「良い条件揃ってるなとは思うけど、私とフーガじゃ年が離れすぎてるもの! それに何より、フーガのこと、異性として見るって気にならないのよねー」
「どうして?」
「うーん、どうしてかな。お父さんみたいな感じだからかな?」
 色気とか全然醸し出すタイプでもないじゃない? ってキラナは言った。
 そうかな。確かにフーガさんは飾り気なんて全くないけど、格好良いしセクシーだなって思うこと、私は結構ある。鎧から覗く筋とか、インナーだけでいる時とか。
 これって、変なのかな。
「アリア、フーガのことが好きなの?」
「ううん」
 好きなわけじゃない、って答えた。
 


◉月◯日
 最後の戦いが近づいてきたせいなのかな。
 今日、フーガさんの代わりに舵を取っていたサタルのところへお昼ご飯を持って行ったら、こう尋ねられた。
「ねえ、アリア。恋って何だと思う?」
 切り出し方も何もない、直球。しかもあの女たらしのサタルなのに、あんまりにも真剣な顔で言うから、私はつい笑ってしまいそうになった。
 でも、あの何事にもへらへらして取り組むサタルが、愛想も忘れて聞いてきたことだもの。きっとそれだけ必死で悩んでるんだと思って、堪えることにした。
「そうね。ありきたりな答えだけど、相手に何か求めるところがあるのが恋じゃないかしら?」
「そうか。じゃあ愛は?」
「ただひたむきに相手を包んで尽くしたい気持ち、かな?」
 サタルはそっか、と返事をしたきり黙り込んだ。私は持ってきたサンドイッチを差し出す。サタルは受け取って、無言で食べた。
「俺、カノンのことが好きなんだ」
 一切れ食べ終わった頃、サタルは言った。
 そうよね。
 あなたはもともと、自分の気持ちを正直に認められる人だもの。
「愛だ恋だなんて、二の次だ。カノンが欲しい」
 羨ましい。
 そんな強引さが、私にもあれば良かったのに。



◉月+日
 サタルはカノンに告白したみたい。アッサラームの明るい翠の海を背に、甲板で語り合う二人を、私は離れた船室から見つめていた。
 らしくなく、穏やかなサタル。つっけんどんな物言いはいつも通りだけど、彼を睨むことはしないカノン。
 二人の空気が変わったのは、端から見て明らかだった。
「お疲れ様」
「なんだ、見てたのか」
 船室に戻ってきたサタルを捕まえた。私を見るなり、肩を竦める。
「無様だっただろ?」
「え、何で?」
「最後のカノンの返事、聞こえなかった? 『いつか俺のこと好きって言わせてやる』って言ったら、『勝手にしなよ』だよ? 脈なしにもほどがあるよ」
「え? そんなことないと思うけど」
 きょとんとするサタル。さすがの彼も、そこまで読み取る余裕はなかったのかしら。そう考えたら楽しくなってきて、勝手に笑みが漏れてしまう。
 カノンははっきりした話し方を好む。その彼女が、考えなしに曖昧な言葉を言うわけがないのに。
「『勝手にしろ』ってことは、『自分を思うな』ってことではないじゃない」
 言ってみたら、サタルは顔を押さえてうずくまった。まあ、珍しい反応。耳も赤い。
 顔が真っ赤よと指摘すると、君も案外意地が悪いよなあとサタルが呻いた。
 本当、二人して素直じゃないのよね。
 



・ ー・ ー・ ー・ ー・ ー・ 



×月◯日
 今日、家族にお別れをしてきた。
 三日だけ、ダーマに帰らせてもらった。兄さんと畑を耕したり、姉さんと他愛のない話をしたり、ビクに勉強を教えたり、母さんの料理を手伝ったり、父さんに広い世界の話を聞いたり。これから先いくらでもできるんだと思っていたことを一通りやったけど、もう二度とできなくなるんだという実感は湧かなかった。
 誰も止めなかったし、さよならとも言わなかった。お互いに元気でねって言って、それだけ。
 決めたことだから、後悔なんてない。大事な友達を、たった一人で地下世界に送り出すことなんて、私にはできない。
 ギアガの大穴の下は、寂しい場所。ルビス様しか手を差し伸べない、闇の世界。
 サタルは寂しがりで、でもそれ以上に強がりだもの。たとえまた私を必要ないと言ったとしても、ついていくつもり。
 いつか、この地下世界への旅立ちがどれほど重い選択だったかを知って、泣く時が来るのだろうか。だけどたとえ泣いたとしても、この胸に空いた穴はきっと塞がらない。
 それならば私は、同じ灯火を掲げて歩く仲間に、そして少しでも多くの方にあなたの愛を伝えます。ルビス様、どうぞ我らをお護りください。

 

・ ー・ ー・ ー・ ー・ ー・ 


 
▼月×日
 ギアガの大穴に飛び込むのは怖かったけど、落ちた先はもっと怖い。真っ暗で、星もない空。予想していたよりずっと不気味で、恐ろしい。でもラダトームの皆さんは、暗闇に灯る光の方が怖いという。魔物の目に見えるから、最低限の時以外、火を灯さないんだって。
 だけど、こんな中でもサタルは元気。毎日私たちと手合わせをして、おかしなことを言って笑わせてくれる。サタルは私より魔術や魔力に秀でてるけど、それより楽しむことに関しては人一倍の才があると思う。
 フーガさんが嬉しいことを言ってくれた。賢者としての私より、私個人が必要だって。
 嬉しい。純粋に仲間として求められるのは、とっても嬉しい。
 ちょっと照れ臭いけど、はっきり言葉にしてもらえるとこんなに力になるのね。明日もまた頑張ろう。



▼月△日
 灯りをあまり点けられないから、日記が書きづらい。
 最近カノンの体調も悪いし、書物を読む時以外は灯りをつけて遅くまで起きてるのはよそう。



・ ー・ ー・ ー・ ー・ ー・ 





⚫︎月□日
 旅が終わった。
 ゾーマを倒して、アレフガルドから帰れなくなった。
 それでもカノンが帰ってきてくれた。最悪の事態も覚悟してたから、これはとても嬉しいこと。
 だけど、サタルが帰って来ない。
 みんなでアレフガルド中を探し回ったけど、サタルはいなかった。ルビス様に居場所をお尋ねしようと思ったけれど、お会いすることは叶わなかった。さらに万物を巡る神霊の声に聡いルネとテングが探してみても、この世界のどこにも気配がないとのことで。
 サタルが見つからなくて動揺する私たちに、最初に捜索をやめようと言い出したのはテングだった。テングは、このサタルが影も形も見当たらないことこそ、サタルが元の世界へ帰る手掛かりを見つけた証拠だと言った。曰く、兄弟子である自分がサタルに異変が起きて分からないわけがなく、神霊の声を聞いても何もわからないのはおかしい、と。だからつまりサタルはこの世界の外にいて、今はきっと「神隠し」のような状態になっているんだ、いつか必ず戻ってきて、オルテガ様の遺体を安置しているゾーマの城か、ルビス様のいらっしゃる塔のどちらかに顔を出すはずだ、だから最悪の事態に陥っているわけがないと、そう断言した。
 今日でサタルを探す旅は打ち切りになる。明日からは別れて、それぞれ生計を立てる場所を見つけていく。
 私とカノン、フーガさんはテングの読みに従って、ゾーマの城にもルビス様のお住まいにも近いリムルダールで家を探すことにした。カノンとフーガさんは腕が立つ。以前のように二人が傭兵として働いて、私が同じく傭兵か治癒のお仕事をすれば、お金の心配はいらないだろう。
 キラナとスランは、一緒に商売をしていくみたい。ルネもテングも、一人で旅をして回るそうだ。
 誰にしても、生活の不安は全然ない。それよりも、カノンの精神的なことが心配だ。
 カノンは、サタルが帰ってこなくなったことについて何も言わない。でも本当は沈んでるんだって、私は知っている。
 だって光に満ちた故郷を見つめる彼女の目には、喜びが一切ない。勇者ロトの名を聞く度にさり気なく目を遠くへと彷徨わせ、そして睫毛を伏せる。
 サタルの馬鹿。
 みんなでもう一度旅をしようって、言ったのに。 



▲月☆日
 穏やかな日々を送っている。
 朝起きて朝ご飯を作って、カノンとフーガさんと一緒に食べる。二人がそれぞれ出掛けたら、私は街の教会でお手伝い。二人が帰ってくる前に家へ戻って、お夕飯を作る。お夕飯を三人で食べながら、みんなで今日一日にあったことを話して、笑って、お風呂に入って寝る。旅をしていた頃からは想像できないくらい規則正しく、穏やかな生活だ。
 私はみんなと一緒にいられるから、寂しくない。でもカノンは背負うものを一番理解してくれている人が帰ってこないから、寂しそう。
 そしてフーガさんも。寂しいとはまた違う、物思いに沈んだ顔をしていることが時折ある。あの顔つきを、私はよく覚えている。
 旅の終わりに訪れた安らぎの日々。帰る家があって、ただいまとおかえりを言い合える仲間がいる。毎日食材に困ることがなく、砂や汗にまみれていない清潔な服を着られて、お風呂に入ってふかふかのベッドで眠れる。
 だけど私たちの誰もがきっと、この仮初の平穏が終わることを願っている。




・ ー・ ー・ ー・ ー・ ー・ 



×月◇日
 サタルが帰ってきた。
 本当に異世界に行っていたみたいで、帰る方法をちゃんと見つけて来た。
 みんなが久しぶりに集まって、はしゃいだ。私も一緒にいっばい笑った。家族に会える。二度と叶わないとと思っていたことが現実になるなんて信じられなくて、期待と幸せでいっぱいだった。
 でも一方で、鳩尾に小さな穴が開けられたような気持ちも感じている。だって私は元の世界で暮らしたいから、この世界で暮らしたいと言うみんなと別れることになるんだもの。
 ……フーガさんにも、もう会えなくなるのかな。



×月×日
 元の世界へ帰るには、外海の涯に浮かぶ世界樹の孤島へ行かないといけない。
 私たちは世界の涯を目指して旅だった。久しぶりに船に乗り、サタルの証言やスランの眼、ルネとテングの力を頼りにして未知の海を拓いていく。
 闇から解放されたアレフガルドの海は果てしなく広くて、見たことのない大陸もあった。キラナやスランも寄りたがっていたし、みんな興味があったみたいだけど、世界樹の島を探すのに悠長なことはしていられない。だからたまに船を泊めて水を取りに行くことはあっても、きちんとした探索は全然できていない。
 島に船をつけて、用を済まして旅立つ時は、みんな名残惜しそうな顔をしている。冒険者だからかな。みんな、好奇心が強いのよね。
 でも、フーガさんだけはちょっと違った顔つきをしてる。きっとみんな、その理由を知ってる。
 フーガさんは遂にテドンへ帰る。けれど、あの村丸々一つ止まらせている強力な思いを昇華させる方法は、まだ見つけられていない。
 この状態で元の世界へ帰ったとして、フーガさんはどうするつもりなんだろう。



×月#日
 今のまま滅びた故郷に帰ってどうするかなんて、とてもじゃないけどフーガさん本人には聞けない。
 余計なお節介かもしれない。でも私も、村の人たちを召天させる方法を考えてみることにした。
 必要なのは召天の力。それもニフラムレベルじゃいけない。死にまつわる記憶や思いは特別なものだから、一人分だとしてもとても強い。それが村一個分も集まっていれば、土地に呪いをかけているのと同じ程度の執着にはなってしまっているだろう。
 だけど、シャナクを使うのはいけない。シャナクは破壊する呪文だから、魂を傷つけたり霊の暴走を招いたりする危険性がある。
 魔法の道具で村一つ召天させられる力を持つものなんて、聞いたことがない。儀式を行うには人手も材料も足りない。強力な召天呪を使えれば、それが一番いいんだと思うけど。
 やっぱり、サタルに聞いてみるのがいいかな。



×月♭日
 サタルに相談してみた。そしたら、「そういうのは俺よりテンちゃんの方が適任だから」って、テングのところへ連れて行かれた。
 どういう判断基準なのか分からなかったけど、でも聞いてみたのは間違いじゃなかったみたい。
 テングは、強力な召天呪文を知っていた。しかも、協力してくれるって。
 なんでもニフラムの上位にあたる呪文があるみたい。それを私に教えてくれて、さらにテドンの人たちを召天させるのも手伝ってくれるって。
「相当キツい訓練になるけど、いい?」
 って、テングは念を押した。
 私は勿論お願いした。
 だって私にもできることがあるって分かったのにやらないなんて、絶対に嫌だもの。それに賢者を名乗る身として、挑まないなんてことできない。



■月□日
 霊を召天させるのは楽じゃない。
 初めて神殿で霊障学を学んだ時にも感じたけど、改めてそう思った。
 万物に行き渡る神霊の力への干渉とは違い、人の魂は不安定だから、接触には物凄く負担がかかる。
 テングの指導のもと特訓を開始して、はや三週間。人目を忍んで深夜にこっそりと、舟幽霊などを相手にしてみたりテングと心の眼を使った練習をしたりしてるけど、なかなか上手くならない。
「君は素直で優しいからね。もっと人を呑んでかかるようなつもりでいかないと」
 こんなに私が手間取ってるのに、テングは全然怒らない。いつもの道化師メイクで笑っている。
 テングは本当に謎に包まれている。
 アリアハンで初めて出会った時、すぐに只者じゃないと分かった。賢者としての腕前は間違いなく私より数段上。神霊界に敏く博識で、地の精霊たちに愛されているから運も味方につけている。これだけの人がどうして最初からサタルについていかなかったのか、不思議で仕方なかった。
 今回の件もそう。既に召天呪が使いこなせるならば、私に教える必要なんてないのに。テング一人がフーガさんについていけばいい話なのに。
 そう思ったから、直接口に出して訊いてみた。するとテングは首を振って答えた。
「ヒトの執念を甘く見ちゃダメだよ。彼らはもう、ヒトではあるけど人間ではないんだからね。僕たちが手を出すことでどんな反撃に出るともしれない。だからこういうのはなるべく、複数人でやった方がいいんだ」
 それなら、私じゃなくてサタルがやった方が良かったんじゃないかな? サタルもニフラムは使えるし、魔法自体使うのが上手なんだもの。
 私がそう言うと、テングは肩を竦めて
「これでも、最善の人選のつもりだよ?」
と言った。どういうことなんだろう?
 ともかく、弱音は吐いてられない。
 元の世界に帰るまでに、どうにかして上位召天呪文を身につけなくちゃ。






・ ー・ ー・ ー・ ー・ ー・ 



 月 日
 できた。
 長いことかかったけど、ついにできた。
 テドンの人たちは、みんな天へ。

 でも。こんなこと、私がして良かったのかな。





・ ー・ ー・ ー・ ー・ ー・ 



-月●日
 目が覚めたら、一ヶ月経っていた。
 嘘じゃないかと思ったけど、テングもフーガさんも本当だっていうし、私が来た時より辺りの緑が濃くなっている。
 テドンの人たちは、本当にいなくなっていた。
 信じられない。召天させたのは自分だけど、あの人たちが本当にいなくなってしまったなんて……。
 私が眠っている間に、フーガさんはお墓作りを始めていた。
 私も手伝うことにする。



・ ー・ ー・ ー・ ー・ ー・ 



-月×日
 テドンには二百七十二人暮らしていたらしい。
 フーガさんは、私が意識を失った後に住民のリストを作っていた。村の兵士として勤めていた頃の記憶を呼び覚まして全員の名前を書き連ねたと、リストを覗き込む私に言った。
「国全体で魔族を警戒してたから、村に赴任してきてすぐ住人の総数と顔を覚えさせられたんだよ。人が増えたり減ったりしたら、またすぐに覚えなおした」
 だが、今でも漏れがあるんじゃないかと不安になる。
 リストの字をなぞりながら、フーガさんはそう呟いた。
 全てが変わってしまった後。フーガさんはどうにか集められた一部の遺体を埋葬し、簡素な木の十字架を添えて弔ったという。だが既にそうした者も、遺体のない者も、全ての住人にきちんとした墓を立てたいとフーガさんは望んだ。私もそうしたいと思った。だからフーガさんにお願いして、お墓作りを手伝わせてもらっている。

 テングに教わった召天呪文・ニフラーヤは、亡くなった人々の魂に触れ、その魂に残された負の情念を浄化する。そうすることでやっと、この世に強く根づいた心を解き放つことができる。
 ……テドンの人たちにそれを使った時のことは、あまり思い出したくない。
 ニフラーヤによる召天は、あまりにも生々しかった。
 百七の断末魔を聞いた。私自身も百七回死んだ。ニフラーヤをかけ続けた三日間。たったの三日で私は百七の人生を体験し、そしてもう一度彼らと、彼らに触れていた自分自身に死をもたらした。
 まだ魔の手にかかった彼らの声が、耳から離れない。

 お墓作りはなかなか進まない。フーガさんが花崗岩を仕入れてそれを十字架に仕立て上げ、私がそれを磨いてから名前を一文字ずつ掘る。すべて手作業だから、進まなくて当然だ。
 話を聞いたテングは魔法を使って手伝おうかと提案してくれたけど、私もフーガさんも遠慮した。
 時間はかかるけど、その方がいい。
 お墓を作っている間、亡くなった人のことを考えていられるから。







◯月▶︎日
 葬儀は、亡くなった人との告別の儀式である。
 でもそれと同時に自分自身の心を整理するために欠かせない儀式なのだと、私は痛感した。
 お墓作りは、私にとってお葬式と同じ。石を磨いている間、文字を掘っている間、故人のことを思い出す。村にいた頃の彼らが、どう暮らしてたかを。そして、どんな最期を迎えたかを。
 フーガさんもそうみたい。石を削る間は何も喋らない。お墓ができあがると、私もフーガさんも少しだけほっとした気持ちになる。
 まだ、あと半分。





◁月■日
 お墓作りが終わった。
 思い出したくないけど、忘れたくない。そんな気持ちにお墓はちょうどいい。村の跡地に並んだ墓石は、もういなくなってしまった人々の代わりに佇んでくれているようで、出来上がった墓地を見て私は安らいだ気持ちになった。
 知らないうちにもう、冬が来てたみたい。このところ寒いと思っていたら、今日少しだけ雪が降った。半年以上が経っていた。
 フーガさんは私に、付き合わせて悪かったと謝った。私がお願いして手伝わせてもらっていたというのに、何を言うのだろう。
 こういう優しいところが、少しだけ憎い。





×月×日
 お墓作りは終わったけど、まだテドンにとどまっている。
 フーガさんはしきりに、ダーマに帰れと言う。ダーマにはこちらへ帰ってきたばかりの時真っ先に帰ったし、今でもちょこちょこと帰っている。そう言うと、フーガさんはそうじゃないと言った。分かっている。あちらにずっと住めということだろう。
 でも嫌だ。私はこの場所にいたい。
 高い身分や権力に興味はない。旅に出る前と変わらず、困っている人を助けることは好きだ。怪我をしたり病気になったりした人が元気を取り戻す姿を見るのが好きで、新しいことを知るのももちろん好き。だから私はきっと、ダーマに住むとしたら、一生ただの治癒僧か学者として過ごすのだと思う。
 でもここには、そんな一生よりも心惹かれるものがある。
 世界中の誰よりも助けたくて、これからももっといろんな顔を見たい人がいる。

 ニフラーヤを使って、人の極限を知ったからかな。
 今ある世界が石に刻まれるより前に、この目で見て耳で聞いて手で触れたいと思うことが増えた。
 私は一人でどこにでも飛べるから、治癒僧の仕事も知識を得ることもどこにいたってできる。でもフーガさんと当たり前に毎日を過ごすことは、ここに住まないとできない。
 これまでフーガさんとは長く旅をしてきたけど、どれだけ見つめても見つめても、もっと見たいという気持ちが消えなかった。
 やっぱりまだ、ここにいたい。





▷月▶︎日
 お墓作りを始める前。テドンを去ろうとするテングは、私たちにそれぞれ望む住処を作ると提案してくれた。
 フーガさんは小さな家を、私は教会を望んだ。
 あの時お願いしておいて、本当によかった。テングには感謝している。
 相変わらずフーガさんは私に帰れと言うけれど、私が教会にこもってしまえば何もできない。
 フーガさんが帰れと言い、私が教会に籠る日々がしばらく続いた。最近はやっと諦めてくれつつあるのか、私が作りすぎたご飯を持っていくと、溜息を吐きながらも食べてくれる。

 私だって、フーガさんが「お前がいると邪魔だ」と言うならばいなくなるつもりだ。でもフーガさんはいつも、
「ここにいることはお前のためにならない」
「お前はまだ若いんだから、人生を無駄にするな」
といったようなことを口にする。私が邪魔なのかと聞くと、そういうわけじゃないと言葉を濁す。

 ここにいることは、無駄なんかじゃない。
 私が何度そう言っても、ここにいたいと言っても、フーガさんには届かない。
 フーガさんの中で、私はどれだけ幼い存在なのだろう。
 私は最初から、あなたについて行きたいと思って言ってるのに。





-月◯日
 春が来た。もうすぐこの世界に帰ってきてから、一年が経つことになる。
 私はやっと、ここに住むことを認めてもらえたらしい。
 先日、ついに口論になった。
 フーガさんがいつものように言いだして、私がいつものように逃げられなかった。
 フーガさんは「帰れ」の一点張り。私は「どうして」の一点張り。
 相変わらず、私が「迷惑なんですか」と聞いてもフーガさんは「そんなことはない」と誤魔化してしまう。
 私にしては珍しく、腹が立った。
 フーガさんはダーマにいるのが私の為だと決めつけている。それをやめて欲しくて、いっそのこと思い切って胸の内を明かしてしまおうとした。
「どうして決めつけるんですかッ! 私は」
 叫んで──それで終わりだった。
 いきなり喉がつかえたようになって、話せなくなった。それでも伝えてしまいたいから精一杯息を吐こうとしたのにできなくて、ただ浅い呼吸を繰り返す。
 過呼吸だ。肝心な時なのに。情けなくなって視界が滲む。それに気付いたフーガさんが慌てて私を介抱してくれて、結局その後はうやむやになって。
 思いを告げられなかった。
 落ち着いた頃合いに、フーガさんは渋々といった感じに私がテドンに留まることを認めると言った。少し前なら喜んだだろうけど、その時の私はちょっと複雑な気持ちになった。
 フーガさんは苛々とした様子で反対していた。それが私が過呼吸になった途端、優しく私を抱きしめるようにして背中をさすってくれた。それに呼吸のリズムを教える、穏やかで低い声。
 呼吸は少しずつ落ち着いていったけど、痺れた手足が動くようになるまでそのままだったから、私は緊張しっぱなしだった。だってフーガさんがあんなに近くにいて、寄りかからせてくれて、頭を撫でてくれて髪を梳いてくれて、あんな、あんな優しい声で……。
 フーガさんの声が、直接胸に当てた耳から伝わってきた。それから、心臓の音も。初めて聞くから鼓動が遅いのか速いのか分からなかったけど、少なくとも私のよりは遅かったと思う。
 これから先テドンでずっと暮らしていくとして、仮にまたああいう状況ができたりしたら。私、気持ちを抑えられるかな。
 そもそもフーガさんに私の気持ちを伝えて、何になるんだろう。愛とか恋でもないこの、「ずっとあなたを見ていたいです」なんていう気持ちを伝えられて、嬉しいと思うわけもないのに。だいたいただずっと見ていたいなんて、変だわ。変質者みたい。

 本当に私はフーガさんをずっと見つめていたいだけなのに、私の中のよく分からない気持ちがすぐに邪魔をする。フーガさんを見つめていると、幸せと温かさで胸がいっぱいになりすぎて痛い。そのまま胸が張り裂けて、この気持ちがフーガさんに見えてしまえばいいのに、伝わればいいのにと思ってしまう。
 でもそうしたらきっと、私はフーガさんの傍にいさせてもらえなくなる。

 この気持ちもお墓にしてしまえたら、静かにフーガさんを見つめていられるようになるのかな。







・ ー・ ー・ ー・ ー・ ー・ 



 月 日
 テドンの夏は暑い。
 冬は物凄く寒いのに。ここは特殊な土地だから、四季もあるし寒暖差も激しいのね。
 私の住んでいたダーマ地方は標高が高いこともあるせいか、一年中そこまで暑くならない。その分冬は積雪がすごくて、この雪のせいで冬はダーマも閑散とするのだとよく言っていたっけ。
 そんな地に育った私にとって、テドンは暑い。修道着も夏用の薄いものばかり着ているけど、外仕事をしてるとすぐに汗だくになってしまうから、何か外用の新しい服を買った方がいいのかも。
 私が外仕事をしていると、フーガさんはよく「旅をしてる頃からそうだったが、お前は全然日に焼けないな」と言う。言われてみればそうかもしれない。
 あんまりにも私が汗をだくだく流しながら動き回っていたせいか、フーガさんが髪結い紐を買ってくれた。きっと、汗で髪が汚くなっていて見苦しかったのだろう。切ってしまえばよかった。もらってからそれに気付いて恥ずかしくなり、「切った方が見苦しくないんでしょうけど」とフーガさんに謝ってしまう。でもフーガさんは「綺麗な髪だから切るのはもったいないだろう」なんてさらりと言った。俺はこういうものの趣味がわからないから、変だったら捨ててくれ、とも。
 出会った頃からそうだったけど、フーガさんは本当にずるい。
 




・ ー・ ー・ ー・ ー・ ー・ 

 

 月 日
 ここには誰も来ない。たまに旅人さんは来るけど、私とフーガさんの二人きり。
 生活のためのことは、二人で分担してやるようになった。薪割りと猟はフーガさん、料理は私。たまにフーガさんの家の掃除もする。買い物は一緒。
 ご飯ももっぱら、二人で食べている。ご飯は他の人と食べた方が美味しいと私が言うと、フーガさんはそうかもしれない、と少し笑った。
 寝る時は勿論自分の家に帰る。フーガさんがちゃんと鍵をかけろと言うから、かけることにしている。
 フーガさんと二人きり。質素だけどその分、フーガさんを見つめていられる生活。
 とっても幸せ。
 





・ ー・ ー・ ー・ ー・ ー・ 



 月 日
 フーガさんに私がふさわしくないことは分かってる。傍で見守っているだけでいいっていう気持ちも嘘じゃない。
 でも、つい願ってしまう。

 ……このまま、ずっといられたら。

 旅立ってから七年。私もやっと、自分の気持ちを認められた気がする。
 私はきっと、





──日記はここで破かれている──












***






 アリアは筆を置いた。年季の入った冊子の一ページを開いたまま、たった今書いたばかりの鮮やかな青い文字が褪せたセピアに変わっていくのをじっと見つめる。
 扉を叩く、くぐもった音がした。アリアは我に返り、自室の戸を開け聖堂を横切って正面玄関へ向かう。
 ドアを押す。暗がりから、ぬっと大男の顔が現れた。
「フーガさん、どうかしましたか? 何か忘れ物でも──」
「アリア」
 彼が硬く己を呼ぶのを聞いて、アリアは戸を開けたことを後悔した。しばらく言われないから油断していた。
「アリア。もう、ダーマに帰れ」
「まあ。急にどうしたんですか?」
 アリアは笑う。
「納得してくださったんじゃなかったんですか? 私、ここに住みたいんです」
「そうだとしても、だ。俺にはやはり、ここに住むことがお前にとっていいことだとは思えない」
 フーガの表情は硬いままである。
「ダーマじゃなくてもいい。もっと他の、たくさん人がいる場所に住んだ方がいい」
「どうして?」
「お前はまだ──」
「若いからですか? まだ世界のことを知らないから?」
 フーガは口を噤む。アリアは笑みを深くした。
「フーガさん。私もう、世界中を回りました。色んな人に会いましたし、色んな出来事を見ました。この世界だけじゃなくて、ギアガの大穴の先にも行きました。それでもまだ、足りませんか?」
「……ああ」
「たとえ一生を賭けたとしても、世界の全てを知ることなんてできません」
 アリアは言いながら、この言い方はしばらく会っていない友人に似ているなと思った。
「私は今、とても充実してるんです。サタルやカノン、貴方の手伝いをしながら色んなことを知りたいと思って旅立ちました。広い世界を知って、自分の知る世界に限りがないことを知り、そして最後に心安らぐ場所を見つけました」
「…………」
「私はここに住みたいんです。いけませんか?」
 フーガはしばし黙っていた。
「賢者としての務めはいいのか」
「あら、フーガさんもご存知でしょう?」
 アリアは苛立ちが己の声にあらわれていることを自覚した。
「毎週必ずダーマ神殿に通って、任された役目を果たしてます。それ以外にも、私にできることがあると感じた場合には、遠方の地に飛ぶこともしてます」
「お前ほどの腕ならば、もっと必要とされてるんじゃないのか?」
「誰か一人だけが多くを手掛けることは、ダーマの地の質を落とすことに繋がります」
 アリアは有無を言わせず、たたみかける。
「フーガさん、納得していただけましたか? 私は賢者としての役目、なすべきことも追究しながらここにいるんです。そして私は、ここでの生活に満足しています」
「…………」
「静かな場所が好きなんです。あまり人の立ち寄らないガルナの辺境に生まれ育ちましたから、人は好きだけど人混みが苦手で。それにここは静かで自然豊かですから、神学や魔術の研究にはちょうどいいんです」
「……良い人は」
 押し黙っていたフーガが唸った。きょとんとするアリアに、今度ははっきりと訊ねる。
「しなくていいのか。結婚、とか」
 アリアは目を丸くしていたが、やがて笑い出した。フーガが渋い顔になる。
「何だ」
「あははは、ごめんなさい」
 アリアは笑いながら目尻を拭った。
「だってフーガさんがそんなこと聞くとは、思わなかったから」
「仕方ないだろう。だって、もうお前」
「いいんです」
 微笑みながらもぴしゃりと、フーガの言葉を遮った。
「ここで満足してますから」
 フーガは何も言わず、この年下の賢者を見下ろす。アリアはその視線を受け止め返す。
 どうか、この鼓動が伝わっていませんように。
「お前、子供好きだろう」
「好きですけど、子供は愛でるために産むものじゃないですよ」
「それはそうだが」
 またフーガは言葉を濁す。気まずげな表情。
 ああ、伝わってしまえばいいのに。
「どうしたんですか? 今日のフーガさん、変ですよ?」
「そうかもしれないな」
 自虐的な笑み。
 駄目だ、やっぱりこんなにうるさい音は伝えられない。
「お前なら、引く手数多だろう」
「興味はありません」
 何やら迷っている彼。いつも落ち着いているパーティーリーダーが狼狽えている、そんな表情さえ愛おしく。
 伝えてしまいたい。
 少女の頃から温めてきた思いが揺れる。後でどうなろうとも伝えてしまいたい。だってこんな、手に入らなくても幸せだなんて思える気持ち、彼に出会うまで知らなかった。
 いやしかし、伝えたら傍にいられなくなるのでは? 彼も困るだろうし。私がこんなことを思ってるなんて、夢にも思っていないだろうから。
 でももう、明らかにしたっていいんじゃないか? 
 彼もいい加減、怪しんでいる。こんな問答を繰り返して彼に気を遣わせることは、本意じゃない。
 結ばれなくたっていいんだから。アリアは内心で言い訳をする。
 口を開いた。
「他の場所にどんな男性がいようが、私にはどうでもいいんです」
 重い一重瞼が持ち上がる。そこから視線を逸らさず、続ける。
「私は、貴方に──」
 続きは、言葉にならなかった。戦士の大きな掌が口を覆っていた。
 アリアは目を見開く。フーガも目を瞠っていた。彼は驚いていた。アリアの言葉にではない。その唇を覆った自分の手を見て、驚いていた。
 その四角い顔が、次第に後悔に染まっていく。みるみるうちに変わる顔色を眼の前で認めて。
 賢者は、悟った。
「気付いてたんですか」
「…………」
「いつからですか」
「…………」
 フーガは何も答えない。アリアは震える唇を、どうにかこじ開ける。
「なにか、言ってください」
 フーガは首を垂れたまま、こちらを見ようとしない。
 どうして、何も言ってくれないのか。アリアは混乱のまま、叫びたくなる。
 こんなに近くにいて、貴方の温もりを感じることを許されて、気持ちに気づいてもらえたのに。
 いや。アリアはすぐに気付く。彼は知っていたのだ。そして何も言わないことが、その答えなのだ。
 硬い指の皮は開こうとする唇に蓋をする。だがそのくせ力は籠っていなくて、寄り添うかのような体温にアリアは泣きたくなった。
 心臓が一つ脈打つたび、血が噴き出して痛い。
「苦しいです」
「すまない」
「どうして、謝るんですか」
 まだ、何も言ってないのに。
 まともな答えの一つも、くれないのに。
「ひどい」
「……すまない」
「どうして、言わせてくれないんですか」
 せめて一言でもいいから、伝えたいのに。
 出会ってから七年。ずっとずっと伝えたかったことを本人に伝えるなと言われて、どうすればいいのだろう。
 どうして自分は、こんなに緩い制止を振り解けないのだろう。
「お前にはもっと他に、生きるべき場所があるだろう。ダーマに帰れば家族がいる。お前ほどの賢者なんて、この世界には滅多にいない。どこに行ったって、お前は求められ、愛される。ここは、若いお前が住むべき場所じゃない」
「誤魔化さないでください」
 答える声は泣き声に近かった。
「私、迷惑なんですか……?」
 あまりに甘ったれた言葉だ。アリアはそう思ったが、言わずにはいられなかった。
「それならそうと言ってください。私、貴方の嫌がることはしたくありません。嫌いなら嫌いと」
「嫌いなわけではない」
「私、貴方の側にいたいんです」
「ダメだ」
「フーガさん」
 縋っても、彼はさらに目を逸らしただけだった。それがアリアに絶望をもたらす。
「私が……貴方に嫌な気持ちを持っちゃったから、ダメなのですか」
 フーガは答えない。それでもアリアは己の口を押さえる腕に縋り、訴える。
「私、貴方が嫌がることなんてしたくないけど納得できません! お手伝いさせてください、ずっと貴方の力になりたかったんです、貴方を見ていたいんです! 何でもします、フーガさんの求めることなら何でも!」
 押さえていた手がずり落ちる。アリアは言い募る。
「狩りもします、薪集めも山菜採りもお洗濯も料理もします! お金が必要なら稼いできます。里に行って食べ物も買ってこれます。必要でしたら、不束な身ではありますが、夜伽も」
「やめろ」
 初めてフーガの手が、アリアを押し戻した。
「冗談でもそういうことを言うんじゃない」
「冗談でこんなこと言いません!」
 アリアは押し戻した手を掴む。
「やったことはないんですけど、やり方なら知ってます。私では不満かもしれませんが、私だって女です」
「やめろ!」
 フーガは肩を掴み、アリアを引き剥がす。目を合わせて、彼ははっきりと言い聞かせた。
「ダメだ」
 紅い瞳にまた、涙が滲む。
「他に、寄り添いたい方がいらっしゃるんですか?」
 フーガが答えないと、その白い頬を涙が一筋伝った。
「私、お邪魔なんですね」
「俺はここで生きたいんだ」
 フーガは両手を外す。アリアはもう縋らない。
「君の助けは必要ない。今までありがとう」
 行き場をなくした細い手が、力なく垂れた。








**



 滅びた村テドンには、滅多に人が訪れない。
 だから巨大な鳥が村の敷地に直接舞い降りても大騒ぎにならなくていい、と巨鳥から降りた勇者は朗らかに言った。しかし彼の陽気さは、村の住人が一人になっていることに気付いてすぐに失せた。
「ひどいことするね、フーガ」
「また説教するのか」
 空になった教会を見て来たらしい男は、畑で鍬を振り上げる戦士がこちらを見るなり笑顔で罵った。フーガは渋い顔つきになる。
「俺はまだ、お前には何も言ってないぞ」
「そんなの聞かなくたって、ある程度は見当がつくよ。どうせ彼女が何を言っても聞かずに、突き放したんだろ」
 全くその通りだった。フーガは耕す手を再開する。
「君の優しさも誠実さも、本当に残酷だよ。『君のことが嫌いになった、もう来ないでくれ』って言ってあげた方が、アリアもすっぱり振られたことになって次に行きやすかっただろうに」
「あの子は別に、俺を好いていたわけじゃない」
「そうだね。好き、なんて生温い気持ちじゃなかったよ」
 フーガは鍬を、地に突き立てる。よく通る声が追ってくる。
「俺は愛とか恋とか、そういう気持ちを表すものの定義がどんなものかなんてどうでもいいと思ってる。そういう気持ちがなくたって、自分も相手も結ばれたいと思ってるならば結んでしまえばいい」
「モテる男の言うことは違うな」
「確かに初め、アリアの君への気持ちは単純な『憧れ』だった」
 嫌だな、とフーガは思った。語りの調子で分かる。彼は完全に、自分を説き伏せにかかっている。
「恋人に義理立てしてるわけじゃないんだろ?」
「そうだな」
 フーガは素直に認める。
「あいつは若い。これまで社会から外れて生きてきてしまったが、あいつにはまだ戻る場所がある。もとの居場所に収まれば」
 躊躇って、続ける。
「素直な良い子だ。周りから必ず愛されるだろう」
「ふーん」
 サタルは相槌を打って、首を振る。
「俺はそうは思わないけどな。アリアみたいな純真な子って、騙されやすいし貧乏クジ引かされても気付かなそうだし、そんな逆境に落とされても自分が悪いから仕方ないって割り切って、抜け出すことすらしないで周りの望みを叶えようとばっかりしてそう」
「お前が様子を見に行っていれば、大丈夫だろう」
「そんなこまめに行けるわけないだろ。俺、住んでる世界が違うんだから」
 サタルは肩を竦めた。
「あのさ、どんな道を選んだって山あり谷ありなんだよ? ダーマには文化も栄光もあるだろう。でも一方で、陰謀や妬み嫉みも渦巻いてる。魔王を討伐した一行の一員だなんて、あの業界では完全に目の上のたんこぶだよ。この地上においてルビス教は弱小宗派だから、確かな後ろ盾がいるわけでもない。きっとたくさんいる治癒僧の一人としてこき使われて、適当な男と結婚して、不満でもなければ満足もしない人生を送ることになるだろうさ」
「そうとも限らないだろ」
「そうなるんだよ」
 サタルは強く輝く双眸で、フーガを睨んだ。
「アリアは俺たちが連れ出した。世に二人とない腕も、知識も、見識も身につけた。そんな彼女が平凡な家庭に放り込まれて、浮かないわけがないだろ」
 フーガは反論できない。だがサタルの言い分を聞き、冷笑を浮かべる。
「アリアのことに責任を感じてるのか? お前は背負い込むのが好きだよなあ」
「それだけじゃねえよ」
 足音が近付いて来るのが分かったが、フーガは顔を上げなかった。
 突然視界に現れた手が、胸倉を掴む。鋤を取り落とす。思いきり真下に引かれて、サタルの顔と向き合った。
「俺を誤魔化せると思うなよ?」
 真正面から碧空の双眸が見据えてくる。フーガはふと、七年前に聞いた彼の台詞を思い出した。
 ──太陽は全ての真実を明らかにする力を持ち、月は全ての者に無限の慈悲を与える。
「惚れたんだろ。でも自分が幸せにしてあげられる自信がなくて、目を逸らしたんだろ。思いやってあげてるフリするなよ」
 まったく、太陽のような男だ。暴かなくてもいいところまでたやすく照らしてくれる。
「アリアからたまに聞いてたよ。繰り返し帰れと言われるけど、理由はいつも同じ納得できないものでもやもやする。いっそ嫌いだと言ってくれればいいのに、って」
「ははっ」
 笑うフーガをサタルは睨む。戦士は微笑んで言う。
「お前も、他人のことで怒るようになったんだな」
「いい加減答えてあげなよ」
「答えられるわけないだろ」
 戦士は溜息をついた。
「お前に一人残される者の苦しみが分かるか? 周りの人間に先立たれ、たった一人で残された時間を数える空虚さを知ってるか?」
「なくすことを恐れてたら何もできないよ」
「お前にしては、前向きなことを言う」
「フーガが教えてくれたんだろ」
 そうだったかな、とはぐらかす。
 サタルは彼の襟首を掴む手を緩め、呟いた。
「弱虫」
 彼が男を罵るのは初めてだった。
「絶対後悔するよ」
「なんとでも言え」
 フーガから笑みがなくなっていた。捕らえる手は外れたはずなのに、俯く彼は急に萎んだようだった。
「なんとでも、言ってくれ……」






 がらんどうの教会の奥、最低限の調度だけが残された部屋にサタルは再び足を踏み入れた。
 モザイクガラスの前に机が置かれている。その上には、冊子が乱雑に広げたまま置かれていた。
 サタルは褪せたページをめくる。几帳面ながら丸い字が連なっている。連なりの最後が記されたページを開く。


 旅立ってから七年。私もやっと、自分の気持ちを認められた気がする。
 私はきっと、


 「きっと」の後は、破かれていた。
「弱虫」
 サタルは囁く。
「二人して弱虫だ」
 冊子を閉じ、引き出しの中にしまった。





20170319