「すっげ、すっげー!」
船から降り立った時から高かったスランの興奮度合いは、最後の鍵を手にして最高潮に達した。
目指していた祠はムオルから北東の浅瀬に沈んでいた。迷った末祠目がけて渇きのツボを投げ入れると、たちまち辺りの海水は渦潮状にツボの中へと引きずり込まれ、浅瀬だった箇所が島へと変貌した。おっかなびっくり船から降り、ツボを回収して祠に入ってみれば宝箱が一つ中央に鎮座していて、中には念願の物が入っていたのである。
「すっげー、こんな建築様式見たことねえ!」
スランは祠の柱やら壁やらをいちいち調べてまわる。彼は盗賊についた動機といい、学者に向いていると思う。
「おーい、あんまりはしゃぎすぎんなよ」
「はい! うわーすっげえ」
フーガが釘を刺すが、スランは返事こそするものの上の空だ。サタルは視線を天井へと向ける。質素でありながら格調高い装飾を施されてはいたらしいが、長いこと水に浸かっていたせいで劣化して藻が生えてしまっている。入口から差し込む日の光が、湿気っぽい祠に陰鬱な影を投げかける。
何とも言えず不気味で退廃的な祠だ。その理由は海の侵食の跡のせいだけではない。
「俺は、あっちの方が気になるんだけどな」
「え?」
問い返すフーガを後ろに、サタルは奥へと進む。入口と宝箱を挟んで正反対の位置に、石の玉座があった。何の装飾もない棺のようなそれには、ぬらぬらと光る骸骨が一体腰掛けていた。
「この人、誰なんだろうね」
骸骨の前に立ち、サタルは誰ともなしに尋ねた。彼の声に引き寄せられるように、散っていたスランとフーガが集まって来た。
「うわっ骸骨」
「今更気付いたのか。それにしても綺麗に全身残ってるな」
言われてみればそうだ。建物の侵食具合の割に細かい骨までよく残っている。サタルは目を細めた。
「この骨、まさか」
話そうとした時、骨が軋むかしゃりという音が響いた。
「うわっ!」
スランが叫ぶ。サタルとフーガも一歩後に退いた。しゃれこうべがゆっくりと持ち上がって、こちらを向いたのだ。
「私はいにしえを語り伝える者」
黄ばんだ歯を触れ合わせながら髑髏は語った。しわがれた、男とも女ともつかない声だった。
「イシス砂漠の南……ネクロゴンドの山奥にギアガの大穴ありき。すべての災いはその大穴よりいずるものなり」
それだけ言うと、しゃれこうべはかしゃりと俯いた。
祠に沈黙が訪れる。スランはフーガの後ろから、恐る恐る骸骨を見つめる。
「何なんだ……?」
「さあ。それだけだろうか」
戦士はそう返して、周囲を警戒する。サタルはじっと待ってみる。しゃれこうべは何も言わない。
「行こうよ。目当てのものは手に入れたし、もういいだろ」
サタルは背を向けた。しゃれこうべの視線が絡みついてくるような気がした。
「これが最後の鍵?」
「わあっ綺麗!」
アリアは興味津々で覗き込み、キラナは目を輝かせて持ち帰られたそれに飛びつこうとした。だが一瞬速くスランがそれを高く持ち上げる。商人は不服そうに盗賊を睨んだ。
「何よぉ。アンタじゃないんだから盗りゃしないって」
「俺は盗るのが仕事じゃねーっつの」
「魔物から盗るじゃない」
「それは調査の一部で……とにかくこれはアンタにあげるわけじゃないんだからな」
スランは軽く鍵を放った。鍵は金の放物線を描いて、遠巻きにやりとりを眺めていたサタルの手の中に納まる。
「え、いいの?」
「お前らが一番必要だろ。魔王の城まで行って鍵かかってて入れませんでしたじゃ笑えねえぞ」
「ま、そうだよねー。勇者御一行様じゃあ商人ギルドは下がるしかないわ」
キラナは肩を竦めて、サタルに笑って見せた。
「持ってって。私がもらってったら利権争いで大変なことになりそうだし」
「スランはいいの?」
「盗賊なんだから、鍵開けくらい自力で何とかする」
「強がっちゃって」
「うっせ」
キラナのからかいをスランは軽くいなす。サタルは頭を下げた。
「ありがとう、助かるよ」
「悪いな」
フーガも礼を言うが、キラナは首を横に振る。
「いーのいーの。それより肝心なのはここからなんだから。サマンオサに繋がる祠にはルーラポイントがないの。そこまでは船でお願いね」
「ああ、前に聞いた航路でいいんだろ?」
「うん。あとで交代する」
言うが早いか、フーガはさっさと甲板を後にした。操を取りに行くつもりらしい。
良い男だよなあ。サタルはその広い背中を見送ってつくづく思う。腕が立つし胆が据わっていて、細かいことは気にせずいつもどんと構えている。だがマメな性格で面倒見はかなりいい。おまけに旅の知識が豊富で、食べられる薬草の選別から船の操縦までできる。
「俺も操縦習ってみようかなあ」
似たようなことを思っていたのか、羨むような口ぶりでスランが呟いた。キラナが噴き出す。
「アンタじゃすぐ転覆させちゃうって」
「バカ、ものは慣れだって言うだろ?」
「でもスランは慌てて舵切ってマジで倒しそう」
「しねーよ! きっと!」
サタルにもからかわれたスランが言い返す。そこは言い切れよとサタルがツッコんで、アリアがくすくす笑った。
「操縦できれば便利だろ! スーの辺りの細かい川を小舟で登っていく時とか」
「小舟じゃ規模が違うじゃない」
「だけどスランは本気で習っておいた方がいいかもな。一人で探検すること多そうだし」
「だろ?」
スランはうんうんと大きく頷いた。
彼はまだスーには行かず、このまま一緒にサマンオサを目指すことになっている。キラナが言うことには「盗賊が必要な事態になるかもしれない」かららしいが、今から色々と不安を感じずにはいられない。
「あれ、みんな帰ってきてたのか」
そこへ、顔を出さなかった二人が甲板へ出てきた。レオとカノンだ。キラナが手を振ってサタルを指す。
「見て見て! 最後の鍵」
「おお、これがあの」
レオは感心した様子でサタルの手元を見た。最後の鍵はその目玉模様でじいと無表情に英雄の息子を見つめ返した。
カノンはいつものごとく感心した風もない大きな瞳で凝視している。目玉と目玉が睨み合っていると思って、サタルは少し可笑しくなった。
「二人とも何してたの?」
「武術について教わってたんだ」
サタルが訊ねると、レオは前のカノンを横目で見た。彼女は軽く頷いてまた最後の鍵に目を戻す。
「彼女の型は見たことがなくてね。詳しい話は私じゃあ分からないだろうから、素人でも分かりそうなことだけ話してもらってたんだ」
「ふーん」
サタルは武闘家に視線を落とした。まだ最後の鍵に注目している。鼻先がつきそうなほどよく見入っている。伝説級の代物だから無理もないか。けれど、「お疲れ様」の一言くらいくれたっていいのに。
親指で鍵の先端を引っかけると、持ち上がった目玉がカノンの鼻にちょんと触った。彼女は眉間に皺を寄せてサタルを仰いだ。
「何?」
「なーんにも」
にっこりと愛想たっぷりに言ってやれば、余計嫌そうな顔をする。
「眉間の皺が取れなくなるよ?」
「うるさい」
「俺、君にはいつも美人でいてほしいなー」
「なら話しかけんな」
正反対な顔つきで勇者と武闘家が会話していると、床が大きく揺れた。船が動き始めたのだ。
「あっ! フーガさんに操縦教わってこよう!」
「操縦? じゃあ私も行こう」
スランが舵に向かって駆け出し、その後に大股のレオが続く。カノンは無言で踵を返すと、マストをよじ登っていった。
「あれ、どこ行くの?」
「見張り台」
彼女は必要最低限の返事だけをして上がっていく。それを見上げながら、サタルは呟いた。
「冷たいなあ」
「おにーさん、嫉妬ですかー?」
キラナが何とも形容しがたい嫌な笑みを浮かべてにじり寄って来た。サタルは眉を上げて首を傾げる。
「嫉妬? 誰に」
「とぼけちゃって」
またまたぁとキラナは手でしなを作ってサタルの肩を叩く。すると彼女の反対側にアリアが寄り添い立ち、淑やかに微笑んだ。
「もうとぼけちゃダメよ、サタル。分かったでしょ?」
「え、本当に何?」
両手に花の嬉しい状況のはずなのだが、あまり嬉しくない。彼女達は一体何を言っているのだろう。
キラナとアリアは視線を交わらせてうふふと笑いあった。端から見れば可愛いが、今の彼には得体が知れないのも合わさって素直に喜べない。
サタルは困ったように微笑んで尋ねる。
「頼むよ、何のことだか言ってくれ」
「言っちゃったら面白くないもの」
「自分で気付かなくちゃ」
ねーと二人の少女は声を合わせる。君達はいつそんなに仲良くなったんだ。いや、それはさておき。
少年は彼女達が何を言いたいのか察しようとする。分かったでしょ、とぼけちゃって、おにーさん嫉妬ですかー、その前に自分は何と言った? 冷たいなあ。誰が?
そこまで思い起こしてようやく合点がいく。
「カノンに俺が嫉妬?」
声に出して尋ねてみると、何故か揃って溜め息を吐かれた。息がぴったりだ。いや、そうじゃなくて。
キラナが額に手を当てる。
「サタルって女遊びはする方って話じゃなかったっけ?」
「ひどいな、これでも誠実にしてる方だよ?」
そう思われていた方が都合がいい。どちらにしても自分は「一夜限り」にとことんこだわるから、そういう意味では誠実だと思うのだが。
「違うの、きっと感覚がずれてるのよ。好き、とか恋、とか私達が思ってるのと違うんじゃないかしら」
アリアが手を頬に当てて嘆かわしげに言う。ちょっと待て。話が妙な方向に逸れて来たぞ。
しかしサタルが何か言う前に、キラナが叫んだ。
「サタルさんっ!」
「はい!」
思わず居住まいを正してしまう。妹よりきらきらとした瞳が彼を見据える。
「好き、とは何でしょうか!?」
「え? えっと……気持ちが惹かれて仕方ないこと?」
「気持ちが惹かれる、ってどうに?」
「どうって」
今度はアリアに尋ねられて、彼は詰まってしまう。どうと聞かれても、感覚的なものは言葉にしづらい。それでも彼は自分が声をかける女性、食べたい食事、来たい服やアクセサリーに対して共通する気持ちを言葉にしてみる。
「いいなーって?」
「じゃあ恋は?」
「恋?」
ティーンエイジャーのようなことを聞くものだと考えて、自分も相手もまだハイティーンであることをサタルは思い出した。
「特定の相手をすごく好ましく思うこと?」
「聞いたキラナ!?」
「聞いた! これじゃダメだわ!」
今度はダメ扱いである。手と手を取り合って頷く少女達に何と言ったものか迷うが、彼は精一杯笑みを取り繕って正直に尋ねた。
「あのさ、二人ともどうしたの? 俺をどうしたいの?」
けれど悲しいかな、二人は全く聞いていない。二人でひそひそと何かを話し合っている。振り回されるのはガラではないのだが、女性を支配しなくてはと思うタイプでもないサタルは彼女達の会話が終わるのを待つ。しばらくすると、二人は大きく頷きあってこちらを向いた。
「サタルあのね」
アリアが春の蕾のような唇を綻ばせて語りかける。
「恋って言うのはね」
「気が付くとある人のことを目で追ってて」
とキラナが愉快そうに続ける。
「その人のことを思うと夜も寝付けないほど考えてしまうこともあって」
「その人の一挙一動が気になって」
「どうしようもなく気持ちが惹かれてしょうがないことを言うのよ」
分かった? と締めくくったアリアが小首を傾げた。二人の勢いに、サタルはただ頭を縦に振る。
「分かったよ」
「じゃあ自分のこと、よーく考え直してみてね!」
「お夕飯の後に答えを聞かせてね」
彼が瞬きをする間に、二人の少女はきゃっきゃと笑いながら船室へと駆けていってしまった。
今のは何がしたかったんだ。サタルは彼女達が入っていった戸を眺めて考える。どうも、自分は誰かに恋をしているのではないかと思われているらしい。でも誰に?
誰にかなんて簡単だ。あの二人が盛り上がっているのだから、選択肢は二人も自分も知る人物。つまり今の旅の仲間しかいない。フーガ、カノン、アリア、スラン、キラナ、レオの六人だ。その中で自分が好意を寄せていると勘違いされそうな人物がいただろうか。
サタルは少女たちが台詞を分けてまで強調していたことを復唱する。
「気が付くとある人のことを目で追ってて、その人のことを思うと夜も寝付けないほど考えてしまうこともあって、その人の一挙一動が気になって、どうしようもなく気持ちが惹かれてしょうがない……」
空を仰ぐ。澄み渡った青に白い帆が泳いでいる。見張り台には小さな人影が見えた。
「女の子らしい言い方だよな」
結局答えが分からなかったサタルは、その日の夕食後に二人の少女からまたその台詞を言い聞かされることになった。
***
サマンオサへ通じる旅の扉は、スー族の住む北方大陸の更に北にある。サタル達は入江に船を停め、その扉を擁する祠へ歩いていった。
「さあ、どれがサマンオサ行きなのかな?」
祠は入ってすぐ道が三つに分かれていて、どれも旅の扉に繋がっていた。早い話飛び込んでみればいいのだが、旅の扉というのはそう気軽に飛び込みたいようなものじゃない。サタルがきょろきょろしていると、後から来たキラナが指さした。
「右だよ」
「そうなの?」
「うん。飛び込んだ先に鍵がかかってて、どうもサマンオサのお役人さんでもないと開けられないみたいなんだよね」
キラナはそう言って、アリアと連れだって右の道を曲がった。その後ろをカノン、レオ、フーガ、スランがついて行く。サタルも勿論その後に続いた。
七人は右の旅の扉の前に立った。扉は青く渦を巻いて揺らめいている。
「忘れ物ないだろうな?」
「やだなあフーガってば。そんな子供じゃないんだから」
「多分大丈夫だろ。ないもんは現地調達だ」
キラナが笑って、スランが両拳を打ち合わせた。
「抜けた先は教会に繋がっているはずだが気を付けて。何が起こるか分からないから」
レオの言葉に一同は頷く。それから順に、渦の中心へと身を躍らせた。
独特の浮遊感が全身を襲う。次に目を開けた時、彼らはおぼろげな燈明に照らされた石の廊下にいた。
行く手には鉄格子状の扉が見える。サタルは懐から最後の鍵を取り出し、その鍵穴にそうっと差し込んだ。金属の噛み合う音がして戸はゆっくりと開いた。
戸の向こうは、レオの言う通り小さな教会に繋がっていた。室内はサタル達が知る教会とあまり変わらない造りをしており、赤絨毯の上に整然と並べられた長椅子に人気はなく、老神父が一人、壁沿いに並べられた鉢植えに水をやっていた。
「おや、貴方は」
神父は一行を見て呟いた。レオが進み出て一礼する。
「お久しぶりです、神父様。レオナルド・ハイメスです」
「おお。無事でしたか」
老人は顔を皺くちゃにして微笑んだ。が、すぐにその表情に陰りが生じる。
「サイモン殿は……」
「どこかの岬の祠に閉じ込められたことは分かっているのですが、それがどこなのかは分かりません。それより、サマンオサの様子はどうなのです?」
「芳しいとは言えません」
神父は重く首を横に振った。
「王は城に籠り女を侍らせ、贅の限りを尽くしていると聞きます。既に何度も一部の者が蜂起しようとしましたが、ことごとく抑えられ死刑にされています。度重なる死刑に民は怯え、国は荒れる一方です」
「死んだ者はどれほどですか」
「今月に入って五十人です。ですがまだ、先月に比べれば少ないものです」
レオは薄い唇を噛み締める。事態は彼のいた頃より悪化しているらしい。しかし英雄の息子は毅然として顔を上げた。
「ありがとうございます。城下に向かってみます」
「お気をつけて。外の魔物は日増しに強くなっていますから」
貴方がたに神のご加護がありますように。神父の切る十字に送られ、一行は足早に教会を後にした。
サマンオサの空気は、ぬるく湿り気を帯びてサタル達の肌に絡みつく。空は他の地同様に晴れ渡っているが、周囲に濃く茂る暗い緑が澄んだ碧を狭めていて、何となく頭上が圧迫されている感がある。見たことのないどきつい黄の鳥が、ギャアギャアと喚きながら視界の隅を飛んでいった。
「この辺りはジャングルなんだな」
フーガが戦斧を手に取りながら言う。荷から腕の半分ほどのナイフを取り出してレオはああと頷いた。
「すぐ抜けるからここでの野宿の心配はしなくて大丈夫だ。だが毒虫や蛇には気をつけた方がいい」
「地図は?」
「この辺りは何度か来たことがあるから問題ない」
レオは鬱蒼とした道なき道を、先頭に立って切り開いていく。その背が一刻も早く故郷に帰りたいと言っているように思えて、サタルは何となく尋ねた。
「サマンオサに議会はないの?」
「あるが国王の方が俄然強い。陛下は長く平和に治めてらしたから何も困ったことはなかったのだが、今は……」
レオはツタを力任せに断ち切った。
「どうにも嫌な予感がする。いくらなんでも、これだけ長い間死刑が多く執行され続けるなんて妙だ」
「そうね。罪状にもよるけどあの数はおかしいよ」
キラナも同意する。
「完全な恐怖政治になっちゃってるのかしら。死刑っていうのは見せしめには効果てきめんだからね」
「にしても死なせすぎだろ」
スランが吐き捨てる。サタルは頷きながら、これはただの心変わりじゃないなと見当をつけた。だがまだ情報が足りない。
その時、ピリリと肌が灼けるのを感じた。視線を素早く周囲へ投げる。前後でも左右でもない。となると残る可能性は二つ。
「上だッ」
カノンが叫んだ。高い樹木の上から大きな葉に紛れて、複数の毛むくじゃらが降って来ようとしていた。
「イオラ!」
アリアが一早く詠唱する。敵が爆風に煽られる間に、一行は四方へと散って頭上からの攻撃を逃れた。
「コングだ! 攻撃力が高い上に仲間を呼ぶぞ、気を付けろ!」
レオが叫ぶ間に、カノンは既に敵の懐へもぐりこんでいる。鋭利で強烈な爪が頑丈な毛皮を食い破った。
「カノンはそのまま攻めろ! アリアとサタルは呪文でサポート、他は全員攻撃だ!」
フーガが指示を飛ばし、各々がコングの群れに対峙する。サタルは下がりながら敵の数を把握する。
「九匹。目潰しはどうかな?」
アリアの近づく気配を察して提案する。コング達の剛腕に仲間達は手間取っているようだった。
「うん、こういう単純な敵には聞きやすいと思う」
「じゃあアリアが攻撃サポートで俺が補助サポート、それでどう?」
賢者が頷いたのを確認して魔力を練る。敵を仲間の模倣体が取り囲む様をイメージ、それを呪に込めて送り出す。するとたちまち、魔物達の動きが乱れ始めた。敵の周囲に目に見えぬ幻惑の霧が立ち込めた気配を察して、サタルは小さく笑みを浮かべる。
コングたちの拳がいくつも大きく空ぶって、その隙を逃さず仲間達は攻勢に転じた。フーガの巨大な戦斧が、巨猿の岩の如き頭を一太刀に断つ。レオは隼斬りを次々と決める。風を切って鞭が深緑の皮膚を抉り取り、足下を絡め取り引き倒す。そのまま鞭を引くスラン、そこへ機を見計らってキラナが算盤を叩きつける。カノンは爪を閃かせて一匹の心臓を打ち抜き、絶命したのを放って次の獲物へと飛びかかる。
行ける。これなら自分が剣を抜いても問題ない。サタルは剣を鞘走らせて前に出る。
「アリア、あと頼む」
「はい!」
フーガとカノンが、それぞれ二匹を相手に戦っている。その手助けに行こうと足を踏み出す。
突如、悲鳴が耳を裂いた。
「きゃあああ何よこれぇ!?」
悲鳴の主は、キラナだった。算盤をきつく握りしめた彼女の前に、潰れた頭から赤い泡を吹き出したコングが倒れている。いや、違う。サタルは目を瞬かせた。座っている。泡が垂れた箇所から頭蓋が生えて行き、それを肉が覆っていく。破壊された頭が、再生している。
見ればもう一体、先ほどカノンが屠ったばかりのコングの胸からも赤い泡が噴き出していた。こちらもやはり、泡が消えるとみるみるうちに深緑の体毛が皮膚を覆い尽くす。横たわっていたコングはすっくと立ち上がり、胸板を叩いて吠えた。
「そ、蘇生したの? そんなまさか」
アリアは困惑している。葬ったはずのコング達が次々と蘇っている。サタルは木々の狭間に険しい眼を向ける。奇跡なしに自力で蘇生する生物なんてこの世には存在しない。しかし今確かにコング達の負った傷が癒え、魂が再び宿った。つまり、蘇生させた者がいるのだ。
刹那、自然色の合間を鮮やかな白が過るのが見えた。サタルはそれを追って駆けだした。
白い影は乱雑に蔓や草木を掻き分けて逃げていく。その背中を懸命に追いかける。距離はそう簡単には縮まりそうにない。
追うのをやめるか? しかし仲間を呼ばれたら厄介だ。
走りながら目標に向けて剣先を向ける。燃え上がる炎を思い描き、力を一点に集める。
「あ、やべ」
密林にいきなり炎の木が立ち現れ、追っていた人型が黒い影になるのが見えた。やりすぎた、大きすぎだ。
サタルは恐る恐る赤々と炎を上げるものへ近寄り、演奏をやめる指揮者のように左の掌を閉じた。瞬時で炎が消失する。黒く墨と化した一角には、奇妙な船形の頭部をした人型が倒れていた。
シャーマン属のモンスターだったらしい。以前テドンあたりで見かけたことがあるが、それと同じだろうか。
死体を覗き込もうとして、枝が派手に折れる音が耳に届いた。反射的に振り向いた途端、鼻先を何かが掠めていく。笑みとも怒りともつかない表情の、吊り上がった瞳と目が合った。
後ずさった足が、焼いたばかりの魔物の炭をざくりと踏む。先程追っていた影に似た、シャーマン属が迫っていた。痩せ細った身体に鶯色の毛皮をまとい、手には槍を握っている。痩躯に釣り合わない不恰好な船形の顔がぎょろぎょろとサタルをねめ回し、彼が剣を繰り出すより先に得物を突き出してきた。剣で受けて流し、矢継早に繰り出される穂先から反撃の隙を窺う。
魔物の力はさしてない。だが十分な速度と鋭い刃は装備を裂き、皮膚から血を滴らせるには十分だった。長いリーチを生かして、シャーマン型はこちらの剣が届かないよう仕組んでくる。むき出しになった腕は攻撃の度に限界まで伸びる。狙うならそこだろう。
敵の腕が最大まで伸びる。その一瞬を狙って、サタルは槍とすれ違うように前方へ身体を滑らせた。相手の利き手でない方へ潜り込む。上から回された石突きを柄で退け、纏った鶯の衣から覗く首筋へ剣を払い上げた。
人間より明らかに濃い紅が飛び散り、腕や顔にかかる。体勢を大きく崩したところへ止めを刺そうとして、サタルは瞠目した。倒れる人型の向こうから、コングが一匹迫っていた。
先に呪文で先手を切るか? 逡巡し、咄嗟に剣を振り下ろす。鈍い感触。同時に、鶯に紅が滲んだ。それから剣を引き抜こうと腕に力を込める。しかし、紅に輝く刀身を二つの掌が掴んだ。見下ろせば、眼下の獲物がにやりと笑っている。サタルがその笑みを視界に捉えた直後、強烈な打撃が胸にぶち込まれた。
悲鳴を上げる間もなく地に叩きつけられる。軋む身体に鞭打ち起き上がろうとするも、視野いっぱいにコングの深緑の体毛が広がった。丸太のような腕が、振りあげられる。
「ッ――」
避けられない。思わず手を翳す。強張った五本の指が、拒絶するように眼前を覆う。
その向こう、指の隙間に小さな影が舞った。
転瞬、視界は一変していた。黒に近い濃紺の衣が己の前に立ちはだかっている。先程まで場を支配していた獣は遥か上方へ追いやられ、その顎には冴え冴えと青銀の光沢を放つ爪が食い込んでいた。
「一人で勝手に動くんじゃない」
高く飛び上がった彼女が二回三回と身体を捻りながら敵の身体を蹴り上げ、その隙に自分の前へ降り立ったのだ。その常人離れした技をサタルが理解した時、彼女の台詞と共に獣は倒れた。
二つに結った髪を跳ねさせて武闘家が振り向く。いつも濡れたような双眸だけでなく、愛らしい顔立ち全体が敵の黒い血で染まっている。その中で一際艶のある闇に、呆けたような自分が映り込んだ。やけに、映る顔が大きい。それもそのはず、彼女が屈み込み距離を縮め、赤く花が咲いたような自分の胸に手を添えているのだった。
「また無茶な真似をして」
間に合わなかったらどうするんだとぶつくさ文句を言いながら、カノンは中位回復呪を唱える。だがサタルは聞いていない。間近にある彼女の体温、立ちのぼる戦いの残り香に脳髄が痺れたようになっていた。
知らない花の清香、汗の匂い、鉄臭さ、相反するものが混ざり合った香は彼に束の間の陶酔をもたらす。それはこれまでに嗅いだどんな香水より、良いものに思えた。
永遠にも思える夢心地に、サタルは少女の顔を見る。長い睫毛が頬に影を落とす。しかし白桃のような肌は汚泥に似た血で汚れている。綺麗にしてあげなくては。指を伸ばしてこびりついた黒を拭き取る。触れた肌は赤子のように柔く、拭き取った傍から林檎の皮を剥いたように瑞々しく輝いた。
「ちょっと、聞いてんの?」
「……え?」
「おいおい、大丈夫か?」
気が付けば、彼は仲間達に囲まれていた。カノン以外目に入っていなかったサタルは戸惑う。いつの間に皆来ていたのだろう。
「頭を強く打ったのかしら」
アリアが心配そうに傍に屈みこみ、サタルの目を覗き込む。回復呪をかけ終えたカノンもじいと見つめる。見られている。意識すると、ゆるくなりかけていた全身の血流が再び速くなるのを感じた。
「あ、ごめん。もう大丈夫だよ。少しぼうっとしてただけ」
サタルは笑顔を繕って手を振る。立ち上がりたいところだが、膝を動かそうとして、馬乗りになったカノンのしなやかに動く腿の肉を意識して止まった。彼女が馬乗りになっている限り、無理だ。
「で、何の話だっけ?」
「あたしの顔なんか拭いてないで自分の心配をしろって話だよ」
カノンがぴしゃりと言う。フーガが首を回して倒れた魔物達を見下ろした。
「三匹まとめて追ったのか」
「いや、最初はそこで炭になってる奴だけ見つけて追いかけたんだ。蘇生呪文を使ってたみたいだから」
「やはりか」
レオが厳しい面持ちで俯く。彼の身体にも流血の後があった。
「このシャーマン属はゾンビマスターと言って、普段はここより奥の暗い場所でしか出て来ない閉鎖的な奴らなんだ。それがこうして他種属と連携してくるなんて、私がいた頃は考えられなかった」
「そのゾンビマスターって奴、たくさんいるのか?」
スランが嫌そうに訊ねる。レオは頷いた。
「恐らくは。ザオラルを使う上に、魔力が尽きるとマホトラで補う嫌な奴らだ。だから奴らに出くわしそうにない道をいつも通るようにしていて、この道もそのはずだったんだが」
「生態系が変化したのかな。でも、こんな短い間に?」
キラナは唸る。彼女が自分で言った通り、一年にも満たない間に生態系が変わったことが要因だとしたら随分急激だ。生態系の頂点によほど強いものでも君臨したのだろうか。
サタルは仲間達を仰いでいた視線を下ろす。目と鼻の先にはまだカノンがいる。サタル同様、上を向いて皆の話を聞いているらしい。
餌を待つ雛鳥みたいだな。彼女をとくとくと眺めていると、顎に少しまだ血が残っているのが目についた。手を伸ばそうとして、はたと気が付く。
何で自分はさっき血糊を拭ってやったんだ? 普段はそのかかっている様を眺めているだけなのに。
女性へのボディータッチというのは気をつけなくてはいけない。異性間のボディータッチは男性、女性によって意味も感じ方も異なるからである。特に女性にとっては、不快ともなりうる行為なのだ。
それなのに、自分は考えなしにまたやってしまった。これは相当おかしいことなのではないか?
「考えていても仕方ない。先を急ごう」
頭上では話がまとまったらしく、フーガがそう言っている。駄目だよフーガ、俺はまだ考えないとまずいと思うんだ。いくらツッコミ代わりに殴られたり蹴られたり武術の稽古をつけてもらっている時に技をかけられたりしているからっておかしい。カノンは俺にとって何なんだ?
武闘家の温もりが離れる。それを名残惜しく感じている己に気付いて、サタルはまた動揺した。
サマンオサ国領最北の教会から王都までは、二日以上かかる。彼らは宿場町にも止まらず強行軍で進んだが、途中何度もコングやゾンビマスター、更に守備力の高いガメゴンといった魔物が現れ苦戦を強いられた。個々の強さは大したことはない。ただ、複数体同時に出るから厄介なのである。ゾンビマスターは賢さが高いらしく、なかなか真っ向から現れない。なるべく早く見つけて先に倒すようにしていたが、気付かず倒した魔物を蘇らせられて焦ることを何度も繰り返した。サマンオサ一帯の魔物には、他の地域の魔物にはない計画的な連携が見られた。
野宿の時はこれまで以上に警戒した。いつもより大目に聖水を撒き、見張りも交代制、二人組で行った。
「サマンオサって、物騒なところなんだな」
二日目の野営、前半の寝ずの番はスランとサタルだった。夜も更けて月が頭上を通り過ぎようかという頃、スランが声を潜めてそう言った。寝ているメンバーとは距離を取ってはいるものの、睡眠の妨げとなることはしたくない。だがこちらもずっと無言では眠ってしまう。そのため、彼らは小声で時折会話していた。
サタルの脳裏を足早に通り過ぎて来た小さな村、町が過る。これほど資源と土壌の豊かそうな国なのに、どこも物が少なかった。おまけに人々の目つきは穏やかとは言い難く、すれ違う者は皆瞳を鋭くして彼らを見返してきた。
「事情が事情だからね。前は平和だったみたいだけど」
サタルは焚火に薪をくべる。スランは三角に折り曲げた足を抱え、膝に顎を乗せたまま喋る。
「俺、実はサマンオサって憧れの国だったんだ」
「何で?」
「今の王国が栄えるよりずっとずうっと昔、ここには凄い文明が栄えてたらしいんだよ」
盗賊の双眸が翠玉のように煌めく。彼の表情は俄かにいきいきとし始めていた。
「そう言えば魔法技術が凄い先住民がいたんだっけ?」
「ああ。魔法でサマンオサ大陸の南にでっかい都市を作ってな、エルフみたいに自然に寄り添いその力を引き出すすごい文明を持って暮らしてたんだ」
道具も使わずに巨大な石を切り出す技術を持ち、水を糸に衣を織ることや鉄に炎の守護を籠めることも難なくできたらしい。今いる識者の誰よりも正確な星読みで知られ、あまりの正確さから未来を知ることまで可能だったのではないかと推測されている。公明正大な政治をし、古い夫婦神への敬虔な信仰を持ち、そして大地に根付いた慎ましやかな暮らしをしたと言う。
スランはそういったサマンオサの古代民族の伝説を嬉々として語って聞かせた。あまりに熱心に語るので次第に声が大きくなり、サタルに声量を下げるよう三回注意された。
「詳しいな。盗賊やめて賢者にでも転職して学者始めた方がいいんじゃねえ?」
「やだよ。賢者だと正教絡みとか面倒だろ? 前に宗旨を覆す論を発表したって理由で学会追放どころか最果ての島に飛ばされた人がいたって聞いてさ、絶対なりたくねえって」
「あー、確かにそれはやだな」
言われてみれば以前聞いたことがある。確か地面は球状で回っていると主張したのだったか。正教の考えでは、海も大地も母なる女神の掌の上に存在しており、掌の果てへ行くと心正しき者は女神の祝福を受け知らぬうちに再び世界へと掬い上げてもらえるが、邪なる者は掌から奈落へと滑り落ちてしまうのだ。
別に掌の上だろうが回っていようがどちらでもいいと思ったのを覚えている。
「だろ? 古文書研究の特権には興味あるけど精霊文字や古代文字の勉強は賢者じゃなくたってできるし、何よりまずはフィールドワークがしたいんだ」
それで類稀なる文化的な盗賊が生まれたのか。サタルは剣をもてあそびながら尋ねる。
「じゃあ、サマンオサでもフィールドワークがやってみたいの?」
「勿論! ……あっまあそれより先にやらなくちゃなんねえことはするけど」
スランはまた声を大きくしてしまい、しまったといった顔で眠っている面子の方を窺ってから付け足した。
「仕事にはきっちり協力する。スーの村にはツボを返す。そしたらそうだな、ゆくゆくはサマンオサ大陸中を探検して遺跡とか文明の跡を探して、この国の人にも知ってもらいたいなあ。この国には先民族の残した魔法のアイテムがあるはずなんだ。火山を噴火させる剣とか、まやかしを暴く鏡とか……平和になれば文化にも目を向ける余裕ができて、そういうのも大事にしてもらえるだろ」
「夢があるね」
調査はそう簡単にできるものじゃない。簡単なフィールドワークならまだしも、遺跡発掘なんてことになればとくに人手と技術がいるから資金がかかる。そうなったら、この世間ずれしていない直向きな盗賊はどうするつもりなんだろう。
「ああ、夢だ。でも目標にしたいんだ」
だがスランははっきりと言って夜空を見上げた。その頼りなくも気品ある横顔には確固たる決意と憧憬、希望が窺えた。
彼を羨ましいと思う。彼だけでなく明確な夢を持ち、それを現とするため一途になれる者は皆羨望の対象だ。
サタルもつられて天を仰ぎ見る。濃藍の帳に音もなく星々が瞬いている。仲間の愛用する旅衣を思い出した。
夜は良い。その宵闇で己の輪郭をぼかし、包んでくれる。さらに静かな夜なら尚良い。何も言わぬ夜空は、己を受け入れてくれているような錯覚を引き起こさせる。
「いいよな、平和って」
ぽつりと呟く。隣の男がこちらを向く気配がしたが、構わず天を眺め続けた。
「サタルは魔王を倒すために旅してたんだな。俺知らなかったよ」
「うん、そうそう。俺勇者なんだ」
勇者は輝かしい称号である。天に選ばれた者しか名乗ることを許されず、真理と運命の円環を象徴するサークレットの着用を許される。
スランは興味津々といった様子で身を乗り出す。
「なあ、勇者ってどんな人がなるもんなんだ?」
「なるものって言うかなってるものだから説明がややこしいんだけど」
「なってるもの? ダーマ神殿に行ってもなれないのか?」
「今のところなれないよ」
彼は勇者について全く知らないらしい。世界大戦が起きて国が分断され、世界各地を股に駆けることが難しくなり、そして勇者として最も有名だったオルテガとサイモンの名が聞こえなくなって久しい今だから無理もないだろう。
基準から話した方が分かりやすい。サタルはそう判断して語り始める。
「よく勇者って呼ばれる人には二パターンあるんだ。一つは生まれつき雷を操れる人。雷は聖なる神意の現れだから、それを操れるっていうのは天に選ばれた印なんだよ」
「へーっ! サタルもできるのか?」
「大変だから滅多にやらないけど、一応ね」
加えてこのタイプの勇者は雷の激しい嵐の最中に生まれると決まっているという。自分が生まれた日も、天地がひっくり返ったような騒ぎの猛烈な嵐に見舞われたらしい。
「もう一つはすごく実績があって皆から実力を認められ、尊敬されてる人。これはどんな人でもなれるけど、武勇が要るし正確には職業としての勇者じゃないんだ。でも本来的な勇気ある者っていう意味ではこっちの方が本当の勇者かもしれない」
前者は天の希望としての勇者、後者は人の希望としての勇者とでも言えばいいのだろうか。
だが多く勇者という者は、父もサイモンもそうだったようにこの二つの条件を兼ね備えているように思う。または、二つ目のパターンを第一条件として見なされることも多い。何故なら人々が勇者を呼ぶ時、その声には期待と信頼が込められているからである。
スランは感心したようで、繰り返し頷いている。
「だから勇者ってあんまり見ないんだな。俺、旅に出てオルテガって人の話しか聞いたことないけど、その人にも全然会ったことないもんな」
「そのオルテガっていう人が俺の父親」
「えっ、そうなのか!?」
目が丸くなった。そして整った口元を大きく笑み崩した。
「俺オルテガさんに一回会ってみたいんだ! ムオルの樹海で昔仲間だったっていうおっさんに会って色々聞いたんだ。ネクロゴンドの大冒険とかイカダ一枚世界一周とか! すごかった!」
「人間とは思えない人だったらしいからな。俺も会ってみたいよ」
サタルは同意する。スランは途端に不思議そうな顔をした。
「親父さんなのに会ったことないのか?」
「俺がかなり小さい頃に、魔王を倒す勅命を受けて出かけていったんだ。だから全然覚えてない」
いや、正確には覚えている。天井を背景にどこかへと去っていく大きな男の背中が、何故か物心つく前から記憶の片隅に刻みついている。
だがおぼろげで現実の記憶だったのか、またあれが本当に父だったのか定かではないため誰にも話したことはない。
一方スランは何故か悲しそうに顔を歪めた。
「ごめん……俺、嫌なこと聞いたんだな」
「別に全然嫌じゃないよ。その分母から父のことは耳にタコができるほど言い聞かされてね。若い頃こんな場所に連れてってくれた、あんなプレゼントをくれた、ほらこれよ見て見てって。まったく、息子に惚気るなって思わねえ?」
申し訳なさそうだった青年は笑った。それを見てサタルも微笑む。
「もうずっと父は帰って来てないけど、俺も母も父はどこかで生きてるんじゃないかって思いたいんだ。後から見に行ったアリアハンの兵士は死亡したって報告したけど、誰も父が死ぬところなんて見てないから」
「俺が話を聞いたオルテガさんの仲間だっていうおっさんもそう言ってたなあ。あの人が火山で死ぬわけがないって」
スランは二度頷く。そしてサタルに向かって身体の向きを変え、真摯な眼差しで尋ねた。
「親父さんに会えるといいな。あんまあてにならないかもしれないけど、俺もオルテガさんのことはよく聞いてみる! もし会うようなことがあったらお前に知らせるよ」
「ありがとう。助かるよ」
素直に礼を言えた。彼はオルテガの噂に詳しくないから、話しやすい。
サタルは月の傾きを見る。まだ交代には少し早い。次は確かカノンとアリアの二人だったか。
「なあなあ」
スランがまた話しかけてくる。
「魔王倒して平和になったらさ、魔物もいなくなるのか?」
「どうなんだろうな。俺もやってみないと分からないよ」
魔王を倒しても、恐らく恒久の平和は訪れない。けれどサタルはそう返した。
「魔物がいなくなって欲しい?」
「うーん。調査に役立つことも多いからいなくなられると困るなあ。だから戦わなくなってくれるといいな。戦うの嫌だし」
「ああ、それは分かるなあ」
外で魔物と戦う時はいつも命がけだ。生きるためとは言え、命を奪うという行為は気持ちいいものではない。食べるため、生きるため、何の理由があっても改めてその行為を考えると恐ろしい心地がする。
だが、魔物が襲ってくることがなくなったらカノンが戦ってるところをあまり見られなくなる。それは惜しい。彼女の武術は芸術の域にあるから、なくすのは勿体ない。でも自分が彼女を怒らせるようなことをし続ければ、ずっとあの技を自分にかけ続けてくれるだろうか。
ふと先日の記憶が脳裏に蘇る。空中での旋回、過たず敵を打った足、寸分の狂いもなく自分の前に着地した身体。それから文句を言いながら傷を癒してくれた優しい掌と、戦闘の残り香。膝に彼女の高い体温が蘇った気がしてズボンを握りしめた。
あれからいつも以上に彼女の動きを目で追ってしまう。以前から武術を使用する様はよく見て来たけど、ここのところ特にそうだ。気が付くとカノンが何をしているか窺っている。あの鴉の濡れ羽の髪は宙にどのような軌跡を描くのか、漆黒の刃物に似た双眸は何を映すのか、変化に乏しい分人形的な美しさを持つ顔は何を見れば変化するのか、横に引き結ばれながらも柔らかい輪郭を描く唇はどういう時動くのか、弓のように張りつめた小さな身体はどんな神がかった動きを見せてくれるのか、子供のように飾ることをしないのにどうしてその仕草の端々が艶めくのか。
「お前ら強いから戦力にはあまりなれないかもしれないけど、何か俺にできることがあったら言ってくれよ」
「ん……ああ、ありがとう」
サタルは追想から帰って来て頷いた。危うく聞き逃すところだった。それはいくらなんでもスランに悪い。
カノンについて考え始めると際限がなくなってしまうのでいけない。しかしいくら考えても、カノンがどうしてこんなに自分の関心を掻きたてるのか分からなかった。
「あの賢者の子はダーマから仲間になったんだろ?」
サタルがそんなことを考えているとは露知らずスランは喋る。うんそうと軽く相槌を打つ。
「カノンとは付き合い長いのか?」
「え、全然だよ。フーガと一緒に俺を追いかけて来たんだ」
「そうなのか?」
声が少し高くなる。サタルが己の唇に人差し指を当てると、慌てて口を押さえた。
「俺達仲良いの?」
「何言ってんだよ。お前ら他とお互いに対する反応全然違うだろ」
目を瞬かせてスランを凝視する。それをどう取ったか、彼はサタルを指さした。
「お前はカノンにだけやたら絡みに行く」
「そう?」
「おう。しかもお前がおちょくる女はアイツだけだ」
「ええ?」
サタルは首を傾げる。そんなにバカにするようなことをしていただろうか。
「可愛がってるだけだよ」
「その感覚おかしいだろ」
スランはきっぱりと言う。
カノンの可愛さを思えば全然おかしくないし、誰でも彼女の魅力を知れば愛でたくなるだろう。そう考えて目の前の男に自分の思う彼女の魅力を言おうとしたが、口をついて出る寸前で勿体なく思われて止めてしまった。
「挑発して怒らせて殴られてって、お前っぽくない。あんまり俺はお前と行動して長くないけどさ、それでも分かるぞ。他の女にはもっとかっこつけてるじゃねえか」
「えーそうかなあ。俺はいつだって自然体だし、カノンはお気に入りではあるけどそんな特別なことはないよ」
「何だよそのお気に入りって。難しいなお前」
スランは怪訝な顔で納得いかなそうに首を捻る。
「よく分からねえけど、カノンのこと好きなわけじゃないのか」
サタルは思わず固まってしまった。何だよてっきり付き合ってるかと思ってたのにと一人呟きながら、スランは腰を上げる。
「そろそろ交代だな。次の奴起こしに行こうぜ」
サタルはのろのろと立つ。細い背中が眠る人の塊へ近づき、その一人を揺さぶる。白銀の髪が応じて寝返りを打った。となると、自分が起こしに行くのはもう一人の方だ。
健やかに寝息を立てる桃色の隣、隅で死んだようにぴくりとも動かない黒い髪。足音を忍ばせて近寄り、寝袋の傍に膝を落として上体をかがめる。ぼんやりと流れる墨色に浮いていた白い輪郭が、急に少女の形を取った。いつも引き締まった印象のある面立ちはあどけなさを増していた。やや吊りがちの瞳は閉じられ、代わりに唇は緩んでいる。小さな二片の花弁は、月光のもと淡く艶めく。僅かに開いた隙間は蜜を吸うにはちょうどいい。そう、悪い蜜蜂なら躊躇なく己の口唇を寄せたくなってしまうような、耐え難い誘惑を含んでいた。
片手を頭の横につき、顔を俯ける。彼女の寝顔に自分の濃い影が落ちる。長い睫毛の一本一本が緩やかに上向く様、つつきたくなる愛らしい鼻、穏やかに寝息を立てる唇、上下する胸。
人が覆いかぶさっているようなものだと言うのに、何故呑気に寝ているのだろう。サタルは知らず詰めていた息を吐く。吐息が米神辺りを擽って、少女は音ともつかない鼻にかかった声を漏らした。
「カノン、起きて」
自分がやったことながら耐え切れず、かけた台詞は掠れていた。軽く咳払いをして上体を起こす。すると次の瞬間にはぱっちりと一対の黒曜石が現れていた。
「交代?」
「そう、頼むよ」
カノンはてきぱきと寝袋から抜け出して支度を整える。サタルはそそくさと自分の荷物から寝袋を引っ張り出して敷き、中に身を横たえた。
まったく、これだから夜というのは。目をかたく瞑って湧きあがる情動を闇へ溶かす。こういうのは見ないふりに限る。しかし、一度頭を支配した考えはなかなか去ってはくれなかった。
目の裏に浮かぶ彼女の姿を掻き消し、違うことを考えようとする。瞼の裏に今度は銀髪の青年が出てくる。
――カノンのこと好きなわけじゃないのか。
よく理解できないといった顔で彼は頭を振る。彼も掻き消すと、今度は二人の少女が現れた。
――とぼけちゃダメよ。
サタルは額を手で押さえる。そんな馬鹿な。だって俺はいつからこうだった? その存在が気になったのは出会い頭に投げられた時。触れたくて仕方なくなったのはそれより数日後の夜。より強く関心を引かれたのはその後。それからは次第に、迷宮でしるべの糸を手繰るうちに大きな糸玉を作り上げてしまうように。
そんなのは嘘だ。
思うも絡み合った思考の糸が解れることはなく、その晩は彼が容易に眠りの海へと落ちることを許さなかった。
***
黒い人の列がうねうねと通りを練り歩く。それを道端で見送る者は皆石炭で塗り潰したような服を身に纏い、重く肩を落としていた。
「まさか、そんな」
レオは愕然と立ち尽くしていた。人々の押し殺したような囁き声、呻きとすすり泣き、時折繰り返し耳に届く「ブレナン」「処刑」の言葉。どうも棺はブレナンという者のもので、皆に慕われていたようだった。
レオは足早に葬列の後を追う。黒い列は墓場に入っていくようだった。
「バスコさん」
墓場の入り口、柵に一人寄りかかって力なく項垂れていた大男が振り返る。広い口をへの字に曲げた怖い顔をしていたが目は小さく優しげで、赤く潤んでいた。
レオは彼を見上げ、己の胸に手を当てる。
「僕です。レオナルドです」
「レオ、無事帰れたのか!」
バスコと呼ばれた男は円らな瞳を見開いて驚きを露わにした。レオは顔つきも険しく問いかける。
「何があったのです?」
「ブレナンの奴、一人で王の首を取りに行ったんだ」
切れ長の双眸が大きくなった。大男は暗い顔のまま語る。
「先月のセルバンテス村が蜂起した件で、あの村に住んでた全員が死刑にされたんだ。女も子供も寝たきりの年よりも関係ねえ、みんな焼かれちまった。それで腹に据えかねて」
「なんてことを……陛下がご命令なさったのですか?」
「勿論そうだよ。勅書があったんだ。で、いくら戦っても無駄だ、あの王を止めないとって」
バスコは墓場の中を見やる。夥しく居並ぶ白骨の如き十字架群に、花冠のかかってつやつやとした真新しいものがある。その前に黒衣の神父が立ち、黒いヴェールの女が蹲っていた。その背には蹲る彼女よりなお小さい、幼子が縋っている。
「ブレナン、お前良い奴だったのによぉ。若い女房と小っちぇガキ置いて行くなんて馬鹿だぜ」
ぽつりとバスコが呟く。レオは薄い唇を噛み締めた。
「くそ、何で……あと少し待っていてくれれば」
掌が柵をきつく握り、筋が浮く。その背に手を置いて、バスコは辺りを素早く窺ってから小声で語り掛ける。
「なあレオ、やっとお前だけでも帰って来てくれたんだ。もう無理はしないでくれよ」
「そういうわけにはいきません。このままでは国が滅んでしまう」
「こう言っちゃなんだけど、やっぱりティニ族の遺産なんて手を出さなきゃ良かったんだ。変化の杖なんて献上したから王は」
「変化の杖!?」
第三者の声が被さった。レオとバスコはそちらを見る。キラナとスランはそろって口を抑えて顔を見合わせた。
「あ、すいません」
「今変化の杖って言いましたよね?」
スランが謝り、キラナが意気込む。バスコは訝しげに彼らを眺めまわした。
「おう、言ったけど。お嬢ちゃん達誰だ?」
キラナは上着をめくる。括り付けられた鷲と天秤の紋章が輝いた。
「私達、商人ギルドから来ました。詳しくお話を聞かせてください」
「外からの商人なんていつぶりでしょう」
しかも本部からのだなんて、とサマンオサの商人ギルド長は声を震わせた。
キラナは手短に用向きを説明しサマンオサの現状を尋ね、できるだけ支援はすることを語った。それに対する長の返事は予想より悲観的だった。
まずこちらの申し出はありがたく思うが、もうサマンオサはどうにもできないだろうと彼は言った。民に課せられる税は重く、軽減を嘆願すれば言った者の首が飛ぶ。ならば上をすげ替えようと既に幾度となく蜂起したけれど、一度も成功した試しがない。城の兵士は普段皆全く城から出て来ず、外へ現れるのは反乱の鎮圧の時のみ。しかもかつてないほどに強く、異様なほどであるという。
武器や防具の製造と輸出入は国による制限がかかってしまっていて、自分達で自由に売買することはほぼ不可能、加えてここ一年市場にはロクな武具防具を回してもらえないらしい。牙も爪も何も削がれて、もはや打つ手なしというところのようだった。
「職人達は軍の監視下にあるため、不用意に近づくことはできません。だからいくら資金を出して頂けても、わしらにはどうしようもないのです」
「ブレナン以外にも暗殺を試みた者はおりました。あの王は昼は散々人を侍らせていますが夜は一人で眠るといいますので、暗いうちにこっそりと忍び込んだのです。ですが、誰も帰って来ませんでした」
ギルド長はすっかり委縮していた。他の商会の面々もそれは同様で、もう王に殺されるのを大人しく待っているだけのように見えた。
サマンオサ商人ギルドの会議室は、既に臨終の床のような空気が漂っている。まだ生気ある顔つきをしているのは外へ出ていたレオ、そしてキラナ率いる本部派遣雇いメンバーのみだった。
「いえ、まだ希望はあるわ」
商人たちが顔を上げる。若き女商人は毅然として立ち上がっている。小柄な体には戦女神のような貫禄が溢れていた。
「さっきこのバスコさんから変化の杖のことを伺いました。今は亡き古代民族、ティニ族の遺産で以前王へ献上したのだそうですね」
「ええ、南の洞窟から見つかったものですから」
「ついでにこうも伺いました。その変化の杖のせいで王は人変わりしたのだと」
「王がいつもあの杖を手にしているので、もっぱらそんな噂が流れております」
それを聞くとキラナはポニーテールを揺らして背後に控える男を振り返った。
「スラン、変化の杖ってどんなものだったかしら」
「あれはいわゆるモシャスの効果があるんだろ」
盗賊はやや緊張した面持ちで答える。
「変化の杖って言う通り、外見だけが変わるんだ。伝承じゃあ一年の恵みと加護を祈願する儀式に使われてたらしいが、人格まで変わるなんて魔書じゃないんだから聞いたことないぞ」
「私もアイテム大全で見たことがあるだけだけど、そう記憶してる」
商人たちは首を傾げる。彼らだけではない、戦士も武闘家も剣士も一様に理解できないという表情をしていた。
「じゃあ、どういうことなんだ」
レオが訊ねる。キラナは腰に手を当てた。
「変化の杖を使って、誰かが王様に化けてるって可能性があるんじゃないのってこと」
場がどよめいた。商会の一人がスランに視線を向ける。
「そんな真似ができるのか?」
「それは微妙です。あの杖の効果は一時的だって聞いてるんで」
「モシャスって好きに化けられるんじゃないのか?」
「いいえ、それはかなり上級者じゃないと難しいと思います」
フーガが言うと、アリアが答えた。
「モシャスは高度な魔法なんです。自分のなりたいものになり、その思考や能力まで完璧に擬態するには相当修業を積まないといけません」
「じゃあこんな長い間、王に化けることなんてできないんじゃないか?」
また商会の誰かが言う。キラナは再び、学者気質の盗賊を仰ぐ。
「どうなの、変化の杖って簡単にモシャスできるものなの?」
「うーん、俺も実物を見たことはないからそこまでは……変身能力があることは確かで、色々なものになれたっていうのは聞いたけど」
「簡単じゃないけどできるんじゃない?」
サタルが口を開いた途端、全員の目がこちらに注がれた。彼は肩を竦めて見せる。
「変身効果があるんだろ? なら触媒でも使って効果を上乗せしてやればいいんじゃね?」
「触媒ってもんがあれば、擬態の精度が上がるのか?」
「リスクもあるけどね。ねえアリア」
「ええ」
女賢者は頷き、卵型の顔に手を添えた。
「魔法薬のような感覚で考えれば分かりやすいと思うわ。変身薬は変身の効果をもたらすものの入手も調合もとても難しいのだけど、もうその効果をもたらすものがあるなら、あとは手軽に揃えられる」
「何がいる?」
「何を上乗せしたいかにもよるけど、数種類の薬草と魔物のパーツと、何より変身したい相手の髪の毛か血液よ。本人の情報があるだけで随分変わるわ。でも擬態はあまり慣れてない人が軽率にやり過ぎると、精神や肉体に負担がかかって自我が崩壊してしまう危険性があるけれど」
アリアは言いかけて、はっと息を飲む。
「本当に変化の杖を使ってなりかわってるのだとしたら、本物の王様は」
「多分どこかに監禁されてるんじゃないかな」
そうしないと国王の外見が維持できない。
サタルの台詞を聞いた会議室が、俄かにざわつき始める。ギルド長が深く俯いて唸る。
「しかし誰がそんなことを」
「魔物に決まっている!」
商会の一員が起立し、声を張り上げた。
「城の厨房の者に聞いたぞ。最近の王のお食事はイモリの黒焼きなどゲテモノばかりだと」
「人間の食べ物じゃない」
「いや、分からないぞ。怪しい術師が化けてて魔力を蓄えるために食ってるのかもしれん」
「ならばどうする。正体が分からないんじゃあ対策のたてようが」
「その前に戦力が」
「ちょっと! ちょっと待って!」
喧騒を少女の声が突き抜けた。キラナは大きく手を振って皆を見回す。
「お願いします、聞いてください。伊達に支援するって言ってきたわけじゃないんです。考えて来たことがあるの」
たちまち部屋は静まり返った。既にサマンオサ商人ギルドは、この若い商人を認めたようだった。
「まず一番にしなくちゃいけないことは、本物の国王陛下の安否確認です。ご無事ならば陛下を保護して偽を暴きましょう」
「どうやって」
「城に入り込みます」
キラナがそう言うと一同はぎょっとした。しかし構わず彼女は続ける。
「城の中を一度見てみないことには攻め入るにもやりづらいです、今の城の様子を見ながら、どこかに本物の国王陛下が幽閉されていないか探し出します」
「おいおい、でもそいつぁ危険だぜ」
バスコが頭を掻いてキラナを見下ろす。少女は逆に彼を見上げた。
「国の軍事力は今、全部あそこに集中してんだ。素人が潜り抜けるにゃあ厳しい」
「大丈夫、そのために」
キラナはスランを振り返って、だが少し何かを考え込んで首を横に振った。
「やっぱ無理かな」
「ドジで頼りになんなくて悪かったな!」
「まあそうだけど、私達よりよっぽどいいんじゃないかなあ……って思いたい」
しょげるスランの肩をフーガが叩く。サタルはにやにやと彼の顔を覗き込んで睨まれた。
「それから自分の目で確認したいから、私も行く。あと城に詳しい人が一人欲しいな」
「なら私が行こう」
剣士が名乗りを上げる。途端、サマンオサの民の顔つきが険しくなった。
「レオ! さっきも言っただろ、無茶はするな!」
バスコが語調を強めて詰め寄る。しかしレオは冷静に返す。
「今更ですよ。バスコさんだって知ってるでしょう。僕は動かずにはいられない性質なんです」
「俺はお前が外に行くのだって反対だったんだ」
「でもこうして無事です」
「だがお前に何かあったら、俺達は親父さんに」
「サマンオサの武人は主君を己の心臓だと思え」
大男の言葉が途切れる。レオは切れ長の瞳を鋭く光らせて己の胸に拳を当てた。
「父の口癖でしたが、僕自身もそう思っています。陛下には恩義があります。今忠義を果たさずにいつ果たすというのです?」
「なら俺も行こうか」
サタルは二人の間に軽く声をかけた。レオが驚いたようにこちらを向く。サタルは己の額を指さして微笑む。
「いくら王様が横暴でも他国の、それもアリアハンの勇者一行をいきなり処刑するようなことはしないだろ」
人々がざわめく。アリアハンの勇者? どういうことだ? というところだろうか。サタルは場の雰囲気にそぐわぬにこやかさを満面に浮かべて一同へ一礼した。
「申し遅れましたが私、アリアハンより参りましたサタル・ジャスティヌスと申します。以後お見知りおきを」
「ジャスティヌス! オルテガの一族か!」
「アリアハンに勇者が生まれたとは聞いていたが」
商会の男達は騒ぐ。話が早い。こういう扱いと空気は久しぶりだ。この感じの反応は嫌いじゃない。
サタルは愉快そうな様子を見せないよう気を付ける。しかし、とレオは凛々しい眉を下げて彼に語り掛ける。
「しかし、君にもしものことがあれば」
「やだなあ、そのお兄さんと同じこと言わないでくれよ。貴方は強いし、俺とキラナの両方いれば口で負けることもないだろ。大丈夫さ」
レオはなおも何か言い募ろうとしたが、その前にギルド長が立ち上がった。
「サタル殿。レオをよろしくお願い致します」
いぶし銀に染まった頭を下げる。それにつられるように商会のメンバーが席を立ち、口々にお願いしますと頭を垂れた。サタルは頭を上げて下さいと誠実に言いながら内心感心する。同じ英雄の息子でも、レオの人望は凄い。
「お任せください。いえ、私の方がレオさんに頼ってばかりではありますが、祖国の名にかけてお約束します。必ず無事帰りましょう」
視界の隅でカノンが僅かに眉根を寄せるのが見えた。呆れているのだろう。いつになったら自分は彼女に認めてもらえるのだろうか。
「だが本物の陛下がいたとして、どうやって偽物の正体を暴くんだ?」
バスコが訊ねる。するとスランが机に手をついて身を乗り出した。
「それならいい考えがある!」
一対の翠玉を煌めかせて、彼はギルド長を見る。
「さっき、南の洞窟から変化の杖を見つけたって言ってたッスよね」
「ああ。ティニ族の使っていた洞窟だろうと言われているのだが」
ギルド長が答える。それを聞くと、盗賊の顔は更に輝きを増した。
「そこに変化の杖があったなら、ラーの鏡もあるかもしれねえ」
「ラーの鏡っていうと、映した者の真実の姿を暴き出すという」
レオの台詞に、スランは繰り返し頷いた。実に嬉しそうだ。今回の仕事のメインが何か忘れていなければいいのだが。
「ラーの鏡は変化の杖と一緒で儀式に使用される神具だったらしいんだ。だからもしかしたら同じ洞窟にあるのかも」
「そしてまやかしを暴くにもぴったりってわけか」
フーガが納得したように言う。ギルド長がふうむと手を顎に当てる。
「あの洞窟はまだ地下まで奥まで見ておらんから、もしかしたらということもありえる。けれど、毒沼だらけの上に毒の霧が噴きだしていて危険ですぞ」
「平気です! その洞窟、予想通りなら地図分かるんで」
スランは溌剌と言う。だがキラナは眉をきゅっと吊り上げた。
「ちょっと、アンタ城に行くんじゃなかったの?」
「えっでも俺明らかにこっち向きだろ」
ドジだし、と今度は開き直って言う。ドジならその洞窟の方が危ないんじゃないのか。
「だが洞窟に鏡を探しに行くならコイツは不可欠だと思うぞ。ラーの鏡なんて分かる奴、そうそういないからな」
フーガが客観的に言う。キラナは唇を尖らせた。
「それもそうなのよねぇ。あと鏡が分かるとしたら私くらいで、でも私はお城の様子を見たいし」
キラナは悩んでいたが、ややあってかぶりを振った。
「仕方ないわ。アンタには洞窟に行ってもらう」
盗賊は心底嬉しそうな表情になった。分かりやすい男である。だけど、とキラナは付け足した。
「こっちにカノンをちょうだい。身のこなしが軽くてもしもの時に対人戦がやりやすい人がいた方がいいもの」
今度はフーガが唸った。戦士はサマンオサの民に向けて問いかける。
「その洞窟に出る魔物はどんなもんだ?」
「面倒なの出るぞ。ベホマスライムとかゾンビマスターとか」
バスコの返答に一行は顔を顰めた。また蘇生と回復使いがいるなんて、この土地はなんて住みづらいところなのだろう。
「俺が一緒に行こうか? これでも武器屋と用心棒兼ねてるようなもんだから、ぼちぼち腕は立つぜ」
ところがバスコはそう提案した。フーガの疲れたような面立ちに安堵の色が浮かぶ。
「悪いがそうしてもらえると助かる」
「なに、てめえの故郷なんだ。これくらい当たり前よ」
大男は笑う。逞しい褐色の肌に白い歯が映えて、非常に頼もしく見えた。
城の偵察も洞窟探索も翌日に行うことになった。そのため今日は紹介された宿に泊まり、明日の支度を整えながら体を休ませることにした。
夜、夕食を済ませたサタルは宿を出てふらふらと歩いていた。闇に沈むサマンオサ城下は店の灯りも賑やかで人通りもそれなりに見られるものの、アッサラームの町のような開放的な雰囲気は微塵も感じられなかった。それより自暴自棄になりながらも何かに怯えて息を潜めているような、そんな印象を受けた。
屋根の欠けた飲み屋から届く罵声、酒気濃厚な乱痴気騒ぎ、しきりに辺りを窺う女の目、剣呑な男の目。五感に訴えかける東の大国の風景は、かつて聞いた開けっ広げの情熱と享楽の栄華からはかけ離れていた。
ついとマントを引かれた。振り返ると目元を濃く彩りスカートをひざ上までたくし上げた女が微笑んでいる。黒い巻き髪に鼈甲の肌、下がった目尻が愛らしく、露わになった形のいい太腿が目を引いた。
「すみません、先を急ぎますので」
しかしサタルは愛想よく笑みを返して女の手を外し、その場から離れた。ちょうど娼館の前を通りかかっていたのだった。
別に急いでなんかいないし、彼女は素敵だと思う。けれど今はそういう気分にはならなかった。
そう言えば最後に娼館にお世話になったのはいつだろう。近頃船での行動が多かったせいかさして行きたいと思わなかったため、いつのことだったか忘れてしまった。
歓楽街を抜けると町の外れに出る。辺りの暗さが急に増す。そこは日中サタルたちが葬列を見かけた、教会の前だった。墓地に立つ無数の白い十字が、月光の下、地中から蘇った幽鬼の手のように浮き上がった。
サタルはつと目を細める。死者の群れの中に誰かいる。いや。誰かなんて、この離れた位置からでも十分に分かる。あの長さの黒いツインテール、小柄なスタイルは彼女しかいない。後ろから声をかけようとして思い止まった。彼女の視線の先、真新しい墓標の前に昼と同じ人影が座り込んでいた。
「放っておいてください」
その人影は俯いたまま、か細い声で言った。黒いヴェールも喪服も日中見た時のままである。唯一異なるのは、その背に縋っていた幼子の姿がないことくらいだろうか。
カノンは黙って佇んでいたが、ややあってしゃがみ込み利き手に持つものを墓標に添えた。手製の小さな花束だった。
「貴方、この辺りの人じゃないわよね」
両手を組み頭を垂れる少女を、寡婦はようやく不思議に思ったらしい。彼女の問いにカノンは頭を上げ頷く。
「今日ここについてすぐ、葬列を見たから」
女はそう、とだけ呟いた。
「旦那さんは、その……」
「国王の暗殺なんて絶対行かせるんじゃなかった」
カノンは隣を見た。黒いヴェールの横顔は虚ろながら、旅立った人の墓を直視していた。
「あの人は一度やると言い出したら絶対聞かなかったけど、それでも無理やりにでも止めれば良かった」
女の声は震えている。肩が小刻みに揺れていて、カノンは伸ばそうとした手を引っ込めた。
「平和を取り戻すなんて言ったって、死んだら何もできないじゃないの……」
華奢な長い指が顔を覆う。その隙間から嗚咽が漏れて、少女は目を逸らした。しかし、その場に跪いたまま動かなかった。
サマンオサの夜に啜り泣きだけが響く。月は震える女、死者の墓標、古びた教会へただ物言わぬ金の眼を注ぎ、暗闇は彼らの傍に控えている。サタルはその光景を、月光の届かぬ物陰から眺めていた。
「ママ!」
微かにランタンの光が漏れていた教会の扉が開いた。中から小さな少年が現れる。髪の黒い艶は女のものにそっくりだったが、好き勝手跳ねているところは全く似ていなかった。
少年は弾むようにヴェールの女のもとへと駆けていく。彼の踏んだ草は月光を跳ね返し、波打つように白く輝いた。
「シチュー! 神父さんと作ったの。食べよう?」
少年は紅葉のような手で女の長い指を包む。しかし、すぐにぎょっとしたように彼女の顔を見た。
「ママ、手がすっごく冷たいね。僕あっためてあげる」
小さな手で自分よりずっと大きな手を擦る。いくら子供の体温が高いとはいえ、大の大人を温めるのは厳しい。けれど彼は懸命に母の手をさすり続けた。
母はしばらく彼を見つめていたが、突然無言で彼を抱き締めた。息子は当惑したように母を見下ろす。
「ママ?」
恐る恐るその背を撫でる。母は子の声に答え、顔を上げた。
「ありがとう。行きましょう」
カノンは夫人が立ち上がり、息子の手を引いて教会へ入っていく様を見送っていた。サタルは静かに彼女へ歩み寄った。
「気になってたの?」
こちらを向いても、カノンは驚いた素振りを見せなかった。ただすぐに眼前の墓標へと目を落とした。
「気が向いただけ」
捧げられた小さな花束は冷たい月明かりの下でも目に温かく映える、赤と黄の色合いだった。
サタルは黙って彼女の隣に立つ。少女の長い睫毛は下を向いたままである。
「あたしは、このブレナンって人の気持ちが分かる」
サタルは眉を上げた。カノンは墓標を見据えたまま独白を続ける。
「使命ならば、成し遂げなくてはならないことがあるならば自分の死も問わない。あたしの遺志が明確な形にはならなくても残って、誰かの役に立てるならそれでいい。そう思ってる。でもあの女の人は、死んだら何もできないって言ってた」
「うん」
「確かに残された人を元気づけることができるのは残した人だけなのに、それができないっていうのは悲しい」
「うん」
「あたしも今、何もできなかった」
「カノンは優しいな」
彼女は鼻を鳴らした。お世辞なんてどうでもいいといった風だった。お世辞でも何でもないのに。
「当たり前のことだけど、成し遂げられなかったら死んでも意味がないのかな」
突如カノンはそんなことを言った。だから彼は、言おうとしていた台詞を喉の奥に押し込める羽目になった。
「……君はたまに、急に怖いことを言うね」
咄嗟にはそう言うのが精いっぱいだった。彼女の何がそう思わせるのだろう。それが知りたくて、しかし知るのが恐ろしかった。
「死ぬことに意味をつけちゃったら、意味があれば死んでもいいってことになるじゃないか」
カノンは彼を見上げた。黒い瞳を、彼は真っ向から受け止めた。
「死んでいい理由なんてない。そう思わないか?」
「アンタ、死にたいとか言ってなかったっけ?」
「君に死んで欲しくない」
彼女に視線を据えたまま告げる。そのことの方が、今は大事に思われた。
「だからもう、そんな怖いこと言わないでくれ」
墓場をざあっと風が吹き抜ける。二人はそうしなければならないかのように互いの瞳を見つめ続け――やがて、先に目を逸らしたのはカノンの方だった。
「矛盾してる」
「そうかな」
サタルは小首を傾げる。完璧に矛盾の生じないことなどないだろう。矛盾の生じないことなどない、という矛盾も含めて。
少女はそうか、と呟いた。
「アンタは……死にたくないんだね」
サタルは黙って微笑んだ。ただ、率直な彼女の言葉を愛おしいと思った。
***
翌日、サタル達は城の勝手口から中へと侵入した。下働き達は彼らを見かけても衛兵を呼ぶなどということはせず、ただ身を縮こまらせてせかせかと動き回っていた。厨房を通り過ぎる時、サタルとそう年が変わらないだろう少女が大きなツボを抱えて歩くのに出会った。彼はすれ違いざまにその中身を覗き込み、ぞっとした。中は死んだイモリの死骸でいっぱいだったのだ。
「この匂い、何?」
レオの案内で城の中心部を目指す道の途中で、カノンが顔を顰める。鼻の粘膜にまとわりつくような甘ったるい匂いが、そこらじゅうに漂い始めていた。この匂いは、サタルには嗅ぎ覚えがある。
「香水と白粉じゃない?」
キラナが彼が思うのと同じ答えを口にする。そう、それは遊郭でよく嗅ぐものに似ていた。だがこちらの方がこれまで嗅いだものより甘さが濃く、鼻が麻痺しそうなほどの刺激に溢れていた。正直、好みではない。
「どうしてこんな――」
言いかけたレオは、台詞と同時に足を止めた。つられて全員がその場に止まる。廊下の四つ角を曲がる寸前、複数の男と思しき声が聞こえ始めていた。
全員声のする側の壁に身を寄せ、飾られた甲冑の影に隠れる。目の前を地味と派手の織り交ざった色合いをした一団が通り過ぎていった。地味な方は兵士達、派手な方は露出の高いドレスを着た女達だった。
兵士はそれぞれ女を両側に侍らせたり、腕をそのワイングラスのような腰に回したりしている。女たちは紅を引いた唇からくすくす笑いを漏らしながら彼らに追従する。彼らは隠れているこちらに気付くことなく、酔っ払いのような馬鹿笑いと共に何処かへと去っていった。
「馬鹿な」
一団が遠くなった頃、レオが愕然とした面持ちで呟いた。
「このサマンオサの城で、あのような……ふしだらな真似が、許されるはずが……」
「まさかとは思ってたけど、この城全体があんな感じなのかもしれないね」
キラナは意外にも大した動揺もないらしく、寧ろしたり顔で頷く。レオが弾かれたように彼女を振り返った。
「どういうことだ?」
「昨日商会の皆さんから聞いたんだけど、今このサマンオサで一番大儲かりしてるのが遊郭らしいの。特に王様が贔屓にしてる所は女の子がみんなお城に抱え込まれててね、大繁盛も大繁盛なんだって」
レオは言葉を失ったようだった。キラナが同情するように首を振る。
「みんな、貴方ががっかりするの分かってたから言いづらかったみたい。許してあげて。城は今、そんな状況なの」
「嘆いても仕方ないよ、レオ。状況を良くするためにも、本物の国王陛下を探そう」
サタルが励ますように声をかけると、レオはまだ呆然としながらも頷いた。彼はその背中を軽く叩いた。
レオの瞳がやや揺れながらも前を向いたのを確認すると、後ろからすいと小さな影が進み出た。カノンである。彼女はレオに代わって先頭に立ち、歩き始めた。その後ろにレオが続き、キラナが続いて、殿にサタルがつく。パーティーの後姿を見つめながら、サタルは先頭をいく少女の揺れる黒髪を見つめていた。
彼女は優しいとサタルは思う。慰めの言葉をかけることはしないが、落ち込むレオにそれとなく気を遣っているのが感じられた。パーティーの先頭に立ったのがその証だ。彼女の押し付けない配慮、率直な精神は、実に清々しい。そこが、サタルが彼女を気に入っている理由の一つだ。
気に入っている。頭に浮かんだ曖昧なイメージを前に、サタルは目を彼女から逸らした。
彼女の事を、気に入っているつもりでいた。女性として、人間として最もと言っても過言ではないほど好感を持っている。彼女と話したい。まっすぐな言葉をもらうと気分が晴れ晴れする。嬉しくて覚えず口元が綻ぶ。多少殴り蹴りされても、サタルはまったく傷つかない。寧ろスキンシップの延長として、楽しいとさえ思う。彼女のほどよく筋肉のついた腕や足から繰り出される技は勿論強力なのだが、それが魔物と敵対した時に彼女が発揮する力より、格段に落とされているのが嬉しい。その強力な力を叩き出す小さな身体を、事故のせいとは言え、一度組み敷いて腕の中に収めることができた時のことを思い出すと、今でも気分が昂揚する。
それほど、自分はカノンのことを気に入っている。
――何だよそのお気に入りって。難しいなお前。
スランの怪訝そうな表情が、再び脳裏に蘇る。そう、自分では気に入っているのだと思っていた。
ならば、この気持ちを人はなんと呼ぶのだろう。
「見て」
カノンの一声で、サタルは我に返った。回廊を曲がったその先に、大きな広間が広がっていた。さきほどの明らかに酒気を帯びた兵達と違う、険しい顔つきの兵が辺りを巡回している。
「兵士の数が多いね。うまく立ち回らないと、王様とご対面する前に斬り捨てられちゃうかも」
「いや、案外いけると思うが」
レオが剣の柄をきつく握りしめて言う。彼の目は、威圧的なまでに足音高く巡回する兵士達に比べて澄んではいたが、それよりもなお剣呑だった。
「あの兵士達が守っている先が、王の間だ。私達なら護衛をどうにかして王に接触することもわけないだろう」
「まあ、待ちなよ」
サタルは宥めた。レオは普段紳士然とした佇まいでいるが、意外と血の気が多いらしい。それでこそサマンオサの獅子なのだろうが、入り込んだばかりのこの城でそれはまずい。
「あのような様子の輩に、負けるものか」
「そうだろうけど、俺たちはまだ城の様子をよく分かっていないんだ。もう少し調べ回ってみないと」
「元凶を暴けば、城の者も皆目が覚める」
「うん、そうだな。でも暴いたとして、もし本物の陛下を盾に取られたらどうする?」
レオが切れ長の瞳を見開いた。彼は玉座へ続く道を見据えたまま大きく息を吸い込んで、細くゆっくりと吐き出した。
「ああ、君の言う通りだ。今はやめた方がいい」
サタルは微笑みながら、内心安堵の溜め息を吐いた。キラナが前方に警戒の眼差しを配る妹をちらりと見遣ってから、彼らの方を向いて小声で提案した。
「ここで、予定通り二手に分かれましょう。私とカノンは、不審なところがないか調べてみる。正門と勝手口以外の侵入経路と脱出経路がないかとか、ないはずの空間があったりしないかとか」
つまり、本物の王様に似た人物がどこかに隠されていないかを探してまわるのだ。サタルは頷いた。
「俺達は玉座の間の警備状況を見に行きながら、今の王様の顔を見てみる。それが終わったら城全体を見て回ろう」
「お互い、やることが全て終わったらそれぞれ帰ろうね。これは絶対守ってよ? じゃないと、どちらかに万が一のことがあった時に片方までそれに巻き込まれたら、意味がなくなっちゃうから」
「うん、分かってる」
「気を付けて」
不意にカノンが振り向いて、そう言った。艶めいた漆黒の双眸と視線がぶつかって、サタルの鼓動が高く鳴った。
「この城、やけに魔物くさい」
サタルは思わず短く笑った。こんな時でも、いや、だからこそ彼女は変わりない。
「ありがとう。君もね」
手を振って、彼らは二手に分かれた。小さくなる女性二人の背中を見送って、サタルは己よりやや高い位置にあるレオの顔を見上げず言った。
「行こうか」
「ああ」
レオは先に歩き始めた。サタルも彼があまり先に行きすぎないようにと、その隣に並んだ。
「今のサマンオサ王とは面識があったんだよな?」
「近侍の者ほどではないが、何度もお会いした。父がちょうど陛下のお年と近かったから、昔から剣の稽古のお相手を務めていたんだ。父や俺のような民草にも分け隔てなく接して下さる、寛容で聡明なお方だった」
レオは視線を前方へと向け、赤い絨毯を大股に踏みしめながら淡々と語る。いや、淡白な語り口にしようと努めているだけだ。気持ちが逸っている。サタルは周囲へ目を配る。壁沿いに控える兵士の数が増えていた。
「やはり今、玉座に座っているのは陛下ではないのではという気が強くしている。陛下ならばご自身の周囲にこれだけ無駄に兵を控えさせるようなことはなさらない。ましてや、謀反鎮圧の時以外兵を城から一歩たりとも出さないなど――」
「偽者だったとしてもそれを暴くのは本物の陛下を見つけてからだ、レオ」
サタルはやや語調を強めた。兵士達がざわめき、玉座の間の方が賑やかしいお陰で彼の声は聞き咎められることもない。
「いいか、君がもしここで命を落とすようなことがあったら、俺達はサマンオサにもう関われなくなる。所詮俺達はよそ者だからな。それどころか君を殺したんじゃないかって疑われて、商会やサマンオサの人々に命を狙われることになったっておかしくないんだ」
低い声で話していると、殺気立っていたレオの気配が徐々に落ち着いていくのが感じられた。
「……分かっている。熱くなってすまない」
「分かってるならいいんだ」
「レオ」
その時、押し殺した声がした。サタルのものではない。見れば、整列した兵士のうちの一人が壁際から身を離し、猫のように背を縮めて、恐る恐るこちらに対して手招きをしていた。レオは訝しげに眉根を寄せてから、驚いたようで目を開いた。
「カミロさん! 随分顔つきが変わったから、分かりませんでした」
「こんな所で何をしてるんだ。親父さんは見つかったのか」
兵士は四十過ぎかと思われる、頬のこけた痩せ型の男だった。落ちくぼんだ目がぎょろぎょろと不安そうに辺りとレオとを行ったり来たりしている。
「こんな状態の故郷を放っておくわけにはいきません」
「陛下に見つかってみろよ。いくらお前だって、どんな目に遭わされるか」
「城はどうなっているのです? 近衛の貴方ならよくご存じなんでしょう? 先程、城の中で娼婦の姿を――」
言いかけて、レオは口を噤んだ。空虚な笑い声が、薄く開いたカミロの口から地の鳴動のように低く漏れ出ていた。
「ここはもうダメだ。勇敢な奴らはみんなさっさと行動に出て、陛下に目をつけられて殺された。だから残ったのは俺みたいな腰抜けばっかりだ。すっかり腐っちまってる」
「そんなこと、言わないでください」
レオは何故か自分が傷つけられたかのように、弱々しく首を横に振った。しかし、カミロは暗い笑みのまま首を縦に振った。
「いや、本当にダメなんだよレオ。俺達はもう、自分を人間だなんて思えないんだ」
「自分をそのように貶しめる言葉は、聞きたくありません」
「頼むレオ、聞いてくれ。城から出る事が禁じられてるから、教会で告解を聞いてもらうこともできないんだ。なあ、頼む」
カミロは一歩進み出る。いつの間にか、周囲に控えていた兵達も来訪者たる若者達を囲んでいた。彼らは揃ってサマンオサの色である真紅の鎧を纏って、目もとに重い暗雲、口元に引き攣った笑みを浮かべている。異様な雰囲気に、レオは後ずさりした。
「レオ。お前がいなくなってからも、陛下は色んな事を命じたんだ。税は国民の所得の七割になった。税が払えなかったら、人を差し出させるんだ。若い女はまだいい。顔が良ければ、陛下の囲み女に選んでもらえる。または俺達の相手にあてがわれる。それ以外はみんな地下牢へ連れて行かれて、帰って来ない」
「陛下はさらに、ご自分を悪く言う者は知らせよ、報告した者には一万ゴールドを出すと仰った。金が欲しい奴はどんどん密告しに来たよ。直接陛下に会うことは叶わないから、俺達に言うんだ。俺達もそれを陛下に伝えないと、縛り首にあうんだ」
「囲み女は怖いんだ。俺達のちょっとした愚痴だって陛下に届ける。陛下はそれを信じて、言いつけられた奴をまた極刑にする」
「陛下は自分に歯向かった者にも容赦しなかった。ちょっと影口を叩いただけで、斬り捨てられるんだ。俺達が斬り捨てなくちゃいけなかったんだ。命令を拒否すると――」
「謀反の時だけ、僕達も外に出るんだ。たくさん殺したよ。貴族も、町人も、農民も。前の兵士長だって、殺したんだ。やだって言った奴も勿論いたさ。でも、そいつらも――」
「俺、子供を殺したんだ。うちの息子と同じくらいの、やっと立ち始めたくらいの子さ。母親も一緒だった。庇ったところを、槍で一突きで――」
「私は老人が燃えるのを見ていた。火をつけた家屋に潜んでたんだ。火だるまになって飛び出してきた。水が欲しいって、喉が燃えながら叫んでた。でも、私は――」
「自分と似た年の男を殺したよ。あの人は立派に家族を逃がそうとして、俺に剣を向けて、俺は――」
シャンデリアの灯りにつやつやと輝く赤絨毯の上で、兵士達の口はどろどろと告白を吐き出す。それは懺悔であり怨み言であり、呪詛だった。己のしたこと、今ある己の生でさえ、呪われればいいという、祈りだった。
「でもな、俺達まだ生きてるんだよ」
カミロが呟くと、うねる様に連なっていた怨み言がぴたりと止んだ。そして、誰かがまた呟く。
「なんでこんな屑の俺達が生きてて、俺達よりずっとまっとうだった人達は、死ななきゃならなかったんだ」
「いや、死ななきゃならなかったんじゃない。死ななくても良かったのに私達が殺したんだ」
「しかし、王に逆らったところでどうなる? どうせどっちも殺されるんだ」
「なら死ねばよかったんじゃないのか? こんな、こんな思いをするなら」
「あら、騒がしいわね」
その声が聞こえた途端、兵士達は水を打ったように静かになった。彼らの視線は皆同じ方へと向けられている。サタルもそちらを振り向いた。
王の間から、紫の布一枚をドレスのように纏う妙齢の美女が覗いていた。卵型の顔はすべすべとした褐色で、豊かな花緑青がその周囲で波打っている。彼女は黒鳶の瞳で二つの三日月を浮かべる。パールピンクの唇から白い歯が零れた。
「どうかしたのかと、陛下が仰っているわ。あなた達、仕事は?」
兵士達は動くことさえままならない。兵士達の背中を滝のように伝う冷たい汗が、間の空気まで凍らせてしまったかのようだった。
サタルは横目でレオを見る。彼は女に突き刺すような視線を注いでいた。手は柄へと伸びている。ここは自分が出るしかないか。サタルは身体の向きを彼女へと変え、余所行きの中でも一際愛想のいい笑みを浮かべた。
「この城の仕事は、客をこのようにもてなすことなのですか? 私達は陛下に御目文字かないたいと思っただけだったのですが」
「あら、旅人さん?」
女はころころと笑った。朗らかな笑い声は、ここがもしポルトガの酒場だったらさぞ心地よく響いたことだろう。しかしこけた顔を恐怖に歪ませた兵士達の居並ぶこの場所では、獲物をなぶる猫のような無邪気な残酷さしか感じられなかった。
「この辺りははじめてかしら? 残念だけど、このお城は一般人には開かれていないのよ」
兵士達の身体が更に強張ったのが分かった。サタルは更に問いかける。
「貴方に会うために高い城壁も越え空を飛んできたと言ったら、信じてくれますか?」
「おしゃべりね、坊や」
こちらにおいで、と女が猫なで声で招いた。サタルは剣を抜こうとしたレオの腕を抑え、目で窘めてから笑みを浮かべたまま彼女の方へと歩み寄った。やめろ、と英雄の息子が声を殺して言うのが聞こえた。
サタルは女の前に立つ。彼女は少年を見上げた。
「どうやって入って来たの?」
「翼の似合う貴方につり合おうと、必死に翼で」
「まだ分かっていないのね」
女のふくよかな唇は間違うことなく弧を描いている。しかし、瞳には笑みなど欠片もなかった。
「このサマンオサでは、王の決めたことは絶対なのよ。貴方は何人たりとも入ってはならないと定めた王の門扉を潜った。これは無知でも過ちじゃすまされない。罪なのよ」
「今更罪が一つ付け足されても、何てことありません」
サタルはにこやかに応じた。
「罪深きは美しき者の性です。貴方も一緒。私達は同罪ですよ」
「面白い子ね」
女のやや吊り上がった黒の瞳が、サタルの全身を眺めまわした。瞳だけなら彼女に似ている、とサタルはふと思った。
「よく見れば、坊や結構イイじゃない」
褐色の腕がすらりと伸びて、サタルの首に回った。女の身体がサタルに投げ出される。麝香が鼻腔を擽る。薄い布地越しにハリを持って締まった豊かな肉が弾み、柔らかく跳ねるのが分かった。
「どう、私にちょっと注いでみない?」
耳元で囁かれる。サタルは伏せていた視線を女の背後へと投げた。
「国王陛下の前なのに、よろしいのですか?」
そこには真紅の甲冑に身を包んだ近衛兵達、色とりどりの布地に溢れそうな肢体をどうにか包み込んだ女達、二重の輪に囲まれて、豪奢な紅のローブを羽織った男が玉座に腰掛けていた。あれが今の国王だろう。硬質な黒い髪と髭には一本の白髪も見られず、血色が良く恵まれた体躯をしている。だが、目つきだけはレオの話にそぐわず、狡猾そうに充血していた。
「いいの。陛下のご趣味は、高尚でいらっしゃるから」
くすくすと、熱い息がサタルの首筋に吹きかかる。サタルは女の腰に手を置いた。
「ですが私は、このままより素顔の貴方と向き合いたいですね」
「女のすっぴんを見せろだなんて失礼じゃなくて?」
サタルは改めて彼女の顔を至近距離で見つめて、吐息交じりに笑った。やっぱり、彼女の瞳の方がずっと色っぽくて可愛いな。
「化粧は女の魔法だってよく言うけど、モシャスはカウント外だと思うよ」
ギャッと喚声が上がった。サタルが女を突き飛ばすと同時に、女も彼から飛び退って離れていた。彼女は二メートルほど離れた位置に転がった。絹を裂くような悲鳴と低いどよめきが広間を伝う。
絨毯に転がった女の姿が変わりつつあった。卵型の顔が円に、身体が縮み、褐色で艶やかだった肌が長い髪と同じ色の短い毛並みに覆われていく。耳が頭上へと移り伸び、ふくよかな唇が大きく裂けて長い舌が覗いた。
「ミニデーモンか。モシャスを使えるなんて珍しいな。それとも、変身薬でも使ったの? でも、もう少し念入りにしとくんだったね。イオラ程度で崩れるなんて、俺の方が驚いたよ」
サタルは絨毯の上で呻く小悪魔に近寄る。悪魔は、殺気立った目でこちらを見上げる。
「何故……」
彼は答えるように唇の端を吊り上げた。
「親友にそういうのが専門な奴がいてね。目は利く方なんだ」
運が悪かったねと笑いかけると、悪魔は両目を剥いた。
「魔力の高い美味そうな小僧だと思ったら、貴様も術者か!」
「ご名答」
小悪魔の足下に白光が広がった。魔方陣が展開され、空気に朱が滲む。サタルはその術式を視界の下方で捉えて呟く。メラミか。
剣を抜いたちょうどその時、ミニデーモンから一直線に火球が放たれた。サタルは剣を向けようとして、その前に黒い影が割り込んだ。
「はッ」
黒い影、レオが剣を閃かせる。すると火球は二つに割れ、小さな破裂音を立てて消え失せた。炎を刀身にまとわせたレオが、正面へ顔を向けて動揺した。
「へ、陛下……?」
「旅人達よ」
サマンオサ現国王は、ぴくりとも表情を変えず口だけを動かして言った。声は平淡でさして張っていなかったが、発された途端、玉座の間がしんと静まり返った。
「まさか我が城に魔物が潜んでいたとは思わなんだ。それを討伐した働きには感謝しよう。だが、それと我が城に忍び込んだこととは別。よって、汝らには牢へ入ってもらおう。処罰は追って知らせる」
広間は沈黙している。サタルは、兵士や囲い女、従僕らが戸惑いと恐怖の狭間で誰かと視線を交わらせようとして、できずに俯くのを見た。
「どうした、お前達」
厳粛な王の声が広間を打った。
「追わないのか」
「逃げるよ」
サタルはレオの腕を引いて踵を返した。それからやや遅れて、兵士達が彼らを追って走り出した。
「何故だ! あれは陛下じゃないのに!」
「こんなところでドンパチしたら、一般人に被害が出るだろっ」
抵抗しようとするレオを、力尽くで引っ張りながら駆ける。こんな剣士を引っ張りながら走るなんて、冗談じゃない。
「それにあの中には、まだ魔物が隠れてる。俺達二人じゃ、とてもじゃないけど一般人を庇いながら戦いきれないよ」
「だが、皆の力を借りれば――」
「数が多ければいいってもんじゃない! もし俺達が負けるようなことがあれば、彼らだって無事じゃ済まないんだぞ。これ以上国に国民を殺させる気か!」
レオは黙った。彼の抵抗する力が弱まるのを、サタルは感じた。
「あの王は、陛下じゃない」
「そうか」
「顔立ちはそっくりだ。だが、まるで別人だ。表情一つで、あんなに人の顔は変わって見えるものなのか」
彼の声には、押さえきれない悔しさが滲んでいた。
「必ず戻って来て、偽りを暴いてやる」
「よし、なら逃げるぞ!」
*
まさに雲のような寝具に、苔の巨体が乗っている。巨体は人型をしているがそれよりずっと間抜けな顔つきをして、縦は勿論横にも大きく、たるんだ肉が雲上人の寝台から今にも零れそうだった。
「伝説は、本当だったんだな」
「静かにね」
「さすがの俺も、これは騒げねえよ」
暗がりの中で、銀の髪と優美な顔立ちが白く浮かび上がる。彼は手にした真実の鏡を覗き込み、信じられなそうに鏡の中の怪物と眼前の偉丈夫然とした王の寝姿とを見比べる。
「本当に、魔物が国を治めていたのか」
「国を治めていたなんてものじゃない。蹂躙されていたんだ」
レオはもはや鏡を覗き込まず、紛い物の雲上人を憎々しげに睥睨した。細い瞳は薄くもよく砥がれた剃刀のような鋭い輝きを宿して、怪物を凝視する。
「コイツだけじゃない。これの傍に控えていた女の一部もそうだったんだ。どうして気付かなかったのか。あの陛下が、あんな政策をおとりになるはずがないのに」
ラーの鏡が突如、眩い輝きを放った。サタルは反射的に目を庇う。光が収まった気配を察して掲げていた腕をどかすと、鏡の中の光景が現実になっていた。
幾何学模様を描く天井を突かんばかりに、苔色の巨躯がそびえ立っている。絹の布団と立派な寝台はまるで初めから敷物だったかのようにまっ平らに潰れ、それを短く太い芋虫に似た五本の指を生やした足が踏み潰していた。暗い緑の壁は高く、顔を仰ごうにも少し見上げたくらいでは仰ぎようがないほどである。
サタルは再度腕を顔の高さまで持ち上げた。すえた匂いが鼻をついた。汗のような腐肉のような、嫌な匂いだ。
喉のひきつるのに似た不気味なリズムが聞こえた。そびえる壁の上に丸いものが覗く。丸の中からぎょろりと目玉がこちらを見下ろし、分厚い唇がめくれて黄ばんだ歯がぎっしりと並んだ。
「みーたーなあ?」
重低音が夜の底を這う。刹那、サタル達は四方に散った。彼らを束にするよりなお太かろうという棍棒が、ベルベットの絨毯を横薙ぎに抉り取っていった。
「うっわ、勘弁してくれよっ」
「でもこれで納得いったな」
己の得物の攻撃範囲より広い面積を、深く一瞬で削り取られたのを目にしたスランが悲鳴を上げる。サタルは舞台の後方から敵の全身を改めて眺め、口笛を吹いた。トロルにしては大きすぎる。もしかしたらそれとは別の上位種かもしれない。
「これだけデカければ、大した術が使えなくても身体が保つわけだ」
ただ、頭はもう溶け始めていてもおかしくないだろう。モシャスは素人が長期間使い続けても自我を保っていられるほど、やさしい呪ではない。
いくら他者に姿を見られないためとはいえ、この室内であの大きな得物を使うか。サタルは棍棒が直撃した床を見やる。剥き出しになった骨組みを透かして、下の景色が見える。玉座の間は既に空らしい。キラナや商会が先導しての避難はうまくいっているようだ。城の兵に追われながら地下牢にて発見した真の王も、既に救出されていて民衆の目にちらりとでも晒されているはずだ。娼婦に紛れた魔物については手を回しておいたから、フーガとアリアが何とかしてくれているだろう。
あとは、この怪物をどうにかすればいい。
「貴様、どこから来た!」
レオが剣の切っ先を怪物に向け、険しい声色で問いかける。トロルはニタニタと笑っている。
「我がサマンオサに、何故このような真似をした。目的は何だ!」
「目的なんて決まっておろう」
下卑た笑みで、トロルは答える。
「我らの世界では、人間など家畜に等しいとバラモスさまは言った。おでさまもそう思う。それだけよ」
雄叫びが上がった。レオは、これ以上の言葉は無用と判断したようだった。剣士はサマンオサ生まれの名刀、ゾンビキラーと共に突き込んでいく。
「スランは下がってろ。誰か間違えて入って来ることがないか、見ててくれ」
サタルが指示すると、スランは頷いて階下へ繋がる部屋の北側へと移動した。それを確認して戦況の確認のため、視線をあちこちに飛ばす。
剣士の例に漏れず、レオは戦士に比べて格段に動きが速い。滅茶苦茶に振り回される棍棒を掻い潜り、真っ向から立ち向かっていく。対して、トロルは動きが遅い。疾風のごとく立ち回るレオの動きについていくことが敵わず、がむしゃらに剣士の残像を追っては棍棒を落とす。
敵の左手側に回っていたレオが床を蹴り、一跳びに右手側へと移る。トロルの目が彼の姿を捉えた時には、細身の剣が十字に深い切れ込みを刻み込んでいた。
トロルが怒りの咆哮を上げる。鼓膜と腹の底が重く震動する。だがサタルよりずっと至近距離にいるレオは、それでも吊り上げた眉をぴくりとも動かさず、自分で今刻んだ傷口に足をかけて飛び上がった。肉を抉る強烈な蹴りに、トロルが呻いて視線が獲物から逸れる。その隙に、剣士は五月雨の如く斬撃をトロルの顔面へと浴びせた。禿頭が大きく仰け反った。
「ベギラマ」
そこへ更に、冷徹な一声が付け足される。五月雨の残滓に燃えさかる閃光が加わり、敵の鼻づらを焼く。叫喚するトロルの胸を蹴って、宙を舞っていたレオが地上へと帰って来る。
「カノンッ」
剣士が吠える。部屋の隅、暗がりが揺れる。するりと小柄な影が踊り出た。
絶叫がサマンオサの城を打ち震わせる。武闘家の旋風を伴った拳が、巨躯を支える二本の足を横真一文字に襲ったのだ。支えを失った怪物は、喚きながら棍棒をそれまでになく激しく振るった。縦横無尽に振り回された棍棒は、既に半壊だった床だけでなく壁を打ち壊した。煉瓦が散らばり、砕かれた天井が彼らの上へ降って来る。
「イ――」
サタルは詠唱しかけた唇を中途に止めた。トロルが暴れまわってもこれまで何ともなかった広さを持つ部屋の、天井。それがほぼそっくりそのまま落ちてくるのに、イオラで全て抑えきれるわけがない。
その時、不意に彼を取り巻く世界が動きを止めた。
彼は瞬きをして、頭上を仰いだ。割れて緩やかに落ちてくる天井の隙間から、群青の天蓋に浮かぶ満月が覗く。物言わぬ銀の眼差しが、彼へと注がれる。
青い双眸に二つの銀の真円が映る。途端、瞳の奥で雷が閃いた。雷は一筆に五芒星を形取り、燦然と輝く。サタルは何も考えず手を翳した。
天井が、瓦礫が爆発した。同時に時が動き出す。巨大な破片が砕け散り、細かな破片が土砂降りのごとく降り注ぐ。サタルは手で顔を庇って凌ぎ、戦場に目を戻した。
王の寝室は、すっかり半屋外になっていた。天井と南側の壁がなくなり、サマンオサの町の営みが眼下に窺える。トロルの大きな姿は既にそびえていない。怪物は、ちょうど落ちて来たサタルの頭身ほどある天井の一部で頭を打ったらしく、床に伸びていた。その小さな丘のような胴の傍に、米神から血を滴らせたレオが立っている。怪物を見下ろしている彼の右手は、まだ抜き身の剣を握っていた。
細かな石の弾ける音がした。壁に斜めに寄りかかった衣装棚の影から、スランが這い出て来ていた。
「あっぶねー、死ぬかと思った」
盗賊は一息吐いてサタル達の方を仰ぎ、表情を強張らせた。彼の緑眼は、逆光のもと濃く影の落ちたレオの顔を凝視しているらしかった。
「ふ、はは」
血の伝うレオの横顔から、短く嗤い声が漏れる。サタルの位置からでは、その顔つきは窺えない。
「この程度で伸びる奴が。この程度で死にかける、こんな奴が」
彼の言う通り、トロルの腹部はまだ浅く上下を繰り返していた。だが息があるとは言っても、虫の息である。
瞬間、サタルの全身を刺すような気配が辺りに満ちた。スランが細い肩を跳ねさせる。レオのゾンビキラーに、真紅の陽炎が宿っていた。殺気だ、とサタルは思った。レオの殺気が、憎悪が憤怒が、剣に宿り大気にまで滲み出ている。
レオは剣を振りかざした。刀身が一際紅く燃え上がる。彼は嘆きとも呪詛ともつかぬ叫声を上げて、刃を振り下ろした。
切っ先がぶよぶよと肥えた肉塊に吸い込まれるのを、サタルは見た。
「……何のつもりだ」
しかし、刃の落ちた先はトロルの腹部ではなかった。ゾンビキラーは高く紅い弧を描いて、サタルの眼前に刺さった。
「何故、邪魔をした」
レオの抑えた声が、金属の衝突した甲高い余韻と相まって不協和音を奏でた。彼の細い瞳は剣呑に、割り入った眼前の人物を睨む。トロルの鳩尾から派手に噴きあがっていた黒い噴水は、徐々に勢いを弱めつつあった。その生臭い噴水をもろに浴びたカノンは、纏う衣よりなお黒くなった姿で、完全に夜に溶け込んでいた。
それでも、彼女の表情はいつもの通り変化に乏しい。トロルから下りて、彼女は冷静にレオを見つめ返した。
「これは、アンタがすることじゃないから」
「僕がするべきことだった」
「アンタ、自分が何をするべきだと思ってたの?」
「サマンオサの国から魔を祓い、陛下の導きを取り戻して国民にもとの平穏な生活をもたらす。そのために、魔を僕が取り除く」
レオは冷や水を浴びせるようなぞっとする声で答える。対してカノンは、あくまで真摯に彼を見上げて問うた。
「で、取り除いて血に汚れた手で何をするつもりだった?」
「汚れなど気になるものか! それは、大切なものを守るための――」
「その憎しみのままに誰かを殺した手で、誰をどこに連れて行こうとしてるのかって聞いてるんだよ」
激昂しかけた英雄の口が固まった。彼の凍り付いた表情から顔を背けず、カノンは少女にしては落ち着きすぎた声音で語る。
「アンタは民を導くんだろう? なら、やっちゃいけない。憎いって気持ちで気に食わない奴を殺した奴が、その後また気に食わない奴が出てきた時にまた同じことを繰り返さない確証はないだろ」
カノンが語るにつれ、レオの刃から炎が失せていった。剣士は呆けたような顔で、カノンの顔を見つめていた。いや、彼女の顔と言うには焦点が遠い。どこか遠くを見ているようだった。
カノンは静かに、放心した英雄に言い聞かせた。
「アンタの手は、みんなを助けるためにあるんだ。殺すためじゃない」
なら、君の手はどうして汚れているんだ。
サタルは聞きたくも聞けなかった。彼の双眸はカノンだけを映しており、全身を彼女の方へ向ける以外の行為をする気には今はなれなかった。
脳裏に、雷が天を駆けるより速く英雄と怪物の間に割って入った少女の姿が蘇る。彼女は閃光が駆け抜けたというよりまるで闇からふと生じたように、彼らの狭間に現れた。そして扇を翻すように身体を捻り、その所作一つで剣を跳ね上げ足下の怪物にとどめの一撃を刺した。
その動きの、微塵も情けを見せない技の何と凄絶なことか。そして獲物が息絶える瞬間を見届け、伏せた睫毛を上げた瞬間の、涙に潤ったような瞳の何と美しかったことか。
サタルは自身の胸部を握りしめた。常より速く、全身を熱い血潮が駆け巡っている。心臓は新鮮な血の流れに歓喜し、同時に身を捩った。身体の芯に、昏い炎が灯っていたらしい。それはつい先程灯ったにしては激しく、盛んにサタルの情動を駆り立てた。
彼女に焦がれている。
彼は己の中に燻っていた感情を、やっと認めた。
***
「皆の者、すまなかった」
サマンオサ城のバルコニーに現れた白髪の老人が震える声で言うと、城の外に集まった者達はしんと静まり返った。老人は憂うような、しかし活き活きと輝いた眼差しを、眼下の国民たちに向ける。
「私を襲った者が、まさか魔王の手の者だとは思わなんだ。皆をこのような災難に巻き込んで、非常に申し訳なく思っている。詫びる言葉も浮かばない」
民衆は野次を飛ばすこともなく、眼前に現れた、記憶にあるより痩せ細った老人を見つめる。静かなざわめきが彼らの間を伝う。本当に陛下? これまでは何だったの? 偽物がなり替わっていたらしいよ。しかも、それは魔物だったんだそうだ。一週間前に、城ででっかい魔物が暴れてるのをみんな見たらしいよ。魔物はレオ様が倒したそうだ。まあ、じゃあこれまでのは全部魔物の! でも、本当にあれは陛下?
彼らの声を察してか、国王を囲む真紅の一角が動いた。前へ進み出たのはサマンオサ国軍近衛兵団の鎧を纏い、濃紫のマントに金の王章を輝かせた、まだ若く、まっすぐな黒髪を持つ男である。
「このサマンオサにはびこっていた悪は滅んだ!」
レオは声を張り上げた。彼の生気と誠意溢れる声が、怯えていた民衆の間を伝っていく。
「陛下は長いこと地下牢に監禁されていたせいで、まだお身体が弱っていらっしゃる。だが、この国の復興のため、既に立て直しのため昼夜働いてくださっている! どうか皆、サマンオサの復活のため、協力してほしい!」
「これで、とりあえずまずは一件落着ってわけだ」
サタルは呟いた。民衆はレオと国王の声に耳を傾けている。その二分の疑惑と三分の不安、そして五分の期待に揺らぐ彼らの顔が、次第に明るくなっていくのを、彼は人々からは死角になっている奥の見張り台の上から見ていた。彼の後ろではスランとキラナ、そしてカノンが、同様に王とレオの演説を眺めていた。
「でも、復興には随分時間がかかるだろうな」
「当たり前でしょ。そんなすぐ元通りになるなら、世の中薬草なんて売れないよ」
何とはなしに言ったスランに、キラナが鼻を鳴らして見せる。歯に衣を着せない彼女に、スランは唇を尖らせた。
「分かってるっての。何となく言っただけだろ」
「こういう時こそ商人の出番よ。私達がしけた顔してたってどうしようもないもの。つまずいた時こそ復活のチャンス! 不死鳥は灰になって何度も綺麗に蘇るでしょ? 経済も世の中も、何度だって蘇るわ!」
「まあそうだけど、不死鳥って喩えはどうなんだよ。そもそもこの辺りの信仰は、不死鳥じゃなくてもっと古い――」
「商人ギルドも支援する! 伸びしろしかないわ。これから忙しくなるよ!」
薀蓄を垂れ始めるスランの言葉など、キラナは聞いていない。小ぶりな顔に笑みを浮かべて、細身の彼の背中を叩いた。
「アンタにも協力してもらうんだからね。キリキリ働いてよ?」
「は? 聞いてねえんだけど」
「いい話だから有り難く聞きなさいよ。アンタの遺跡発掘、私達が支援してあげる」
スランは目を丸くして、ぽかんと口を開けた。キラナが唇を勝気に吊り上げる。
「アンタが遺跡を発掘する。その人手にサマンオサの人たちを雇う。失業者をどうにかするのに、こういう作業ってうってつけなのよ」
「ほ、本当に……?」
「商人に二言はないよ。勿論やるよね?」
「やるっ!」
「勿論アンタの生活費も出してあげる。だから、積極的に協力してよね」
「おう!」
「いい? まずは――」
幼子のように顔を輝かせる長身のスランと、幼子のような顔立ちに目の奥をギラつかせ確信的な笑みを浮かべるキラナ。二人を見比べて、サタルは微笑んだ。商人ギルドは人遣いが荒く、見込んだ人材はどこまでも大切にする一方、よほど落ちない限りは生涯縁を持ち続けようとすると聞いている。頑張れスラン。就職おめでとう。
「レオ」
ふと、第三者の声が耳に入ってサタルは視線を盗賊商人コンビから移した。いつの間にか演説は終わり、人々は町へ、王は城内へと戻りつつあった。サタル達のいる見張り台の下に、城内へ戻る王を囲む一団から離れてきたらしい二人の近衛兵がいた。一人はレオ、もう一人は、為政者の偽りを暴く以前、城へ潜入した時に声をかけてきたカミロという男だった。
彼らは、塔の上にサタル達がいることに気付いてないらしい。サタルは声をかけようか迷って、口を噤んだ。彼らの醸し出す雰囲気は、ただの世間話をするには重すぎた。
カミロは、以前見た時と変わらずやつれていた。それどころか、目の下の隈が余計酷くなっているように見えた。
「俺、やっぱり近衛兵団を抜けるべきだと思うんだ」
「どうしてです」
「どうして、って」
レオが問い返すと、やつれた男の顔が崩れた。笑っているようにも、今にも泣き出しそうにも見える顔である。
「だって、俺は人を殺したんだ」
「それは……」
若い近衛が逡巡する間に、カミロは早口にまくし立てる。
「分かってるんだよ。神父様は、『魔物に惑わされていたのだろう。神はお許しくださる』って言うんだ。でも、俺には分かってる。俺は操られてなんかいなかった。俺が他人を殺したのは、俺の意志だった。俺は、自分の意志で、人を殺した!」
「カミロさん」
「守るべき国民を! 俺は、この手で!」
「カミロさんッ」
レオが肩を掴んで強く呼びかけると、カミロはがくりと膝をつき頭を垂れた。ぼそぼそと低い声が、風を伝ってかろうじて届く。
「神様が許してくれるもんか。あの方は、特別暗いモノには厳しいんだ。いや、神様が許すどうこうの問題じゃない。俺が許さない。俺が、俺を許せないんだ」
跪く男は、レオの方も向かずに独白を続ける。自分が誰に向かって話しているのかも忘れてしまったような虚無をはらんだ声に、サタルは背筋のうすら寒くなるのを感じた。
「夢で内乱を見るんだ。それだけじゃない。普段生活していても、ふとした時にあの時のことを思い出す。誰かが見ている気がする。悲鳴、断末魔、子供の泣き声、涙も鼻水も垂れ流して懇願する、俺が、殺した――」
「いいですか、カミロさん」
レオはしゃがみこんだ。先ほど言葉を遮った時とはうってかわって、優しいトーンで語りかける。
「貴方は魔が差したのです」
カミロが顔を上げた。落ちくぼんだ目を剥いて、異様な形相だった。
「魔が、差した?」
「そう。普段なら絶対起こりえない状況に陥った時、人の心には隙ができやすいのです。その一瞬の心の隙に、魔が付け込む」
話は聞いているらしいが茫然自失といった様子のカミロの肩に、レオは手を添えた。
「いいですか。貴方は魔が差したのです。だから今でもこんなに後悔している。普段の貴方なら選ばなかっただろう選択をしてしまったのは、貴方のせいではありません」
「魔が……」
「確かに失ってしまったものは、今どうあがいてももう戻って来ません。負った傷を治癒させることはできても、負う前に戻すことはできません。でも、これ以上何かを失わないよう、これ以上同じ痛みを味わうことがないよう対策を練ることは、今だからこそできるのです」
レオはゆっくりと、辛抱強く語りかける。
「そのためには、その苦しみを知っている貴方が必要なのです。カミロさん、辞めないでください。僕達には、サマンオサには貴方が要るんです」
男のこけた頬を、一筋の雫が伝った。カミロはすすり泣き始めた。レオは何も言わず、彼の前に跪き続けている。
サタルは横を向いた。カノンが自分と同じものを見下ろしている。彼女の幼い顔立ちには、依然として感情が乗っていない。
「どう思う?」
カノンは顔を上げてこちらを見た。サタルは首を傾げて語りかける。
「都合がいいと思う? 惑わされてもいないのに、自分のやったことを魔物のせいにして」
「アンタ、勇者なのにそんなこと言っていいの?」
「勇者はどんな場合も人間を擁護するような、絶対的な人の味方なわけじゃないよ」
勇者っていうのは、光の神の代行人だ。サタルがそう言うのを聞いているのかいないのか、カノンは眼下ですすり泣く男を凝視してぽつりと言った。
「仕方ないんじゃないの。自分が生きるためなら誰を殺してもいいっていうわけじゃないけど」
「魔っていうのはすごいね。あんなに優しく他人の罪を庇ってくれるんだ。心の平穏を与えてくれるんだよ」
カノンは漆黒の双眸を隣の勇者へと移した。今度は逆に、彼が跪く男を眺めていた。
「これからは、光が彼の心を苛むんだ。かつて闇に蝕まれ光の導きを求めていた心を、今度はその光が痛めつける。だからこれから彼を慰めてくれるのは、きっと闇なんだ」
「勇者が、そんなこと言っていいの?」
「勇者の目は、光が指す方向だけを見つめてその軌跡を辿るためだけについてるわけじゃないからね。逆に光を見つめて辿ることしか勇者には許されないなら、俺は勇者じゃないんだろうな」
サタルは目を細めた。
「光が差したから闇が生まれたのか、はたまた闇が濃くなったから光に目が行くようになったのか。分からないけど、ああいうのを見てると光と闇は兄弟なんだろうなって思うよ。片方ができることは片方ができなくて、両方あれば補い合うことができる」
サタルは眼差しを上へと向けた、太陽の輝きが眩しく、目を瞑っても瞼の裏にその残滓が滲んだ。
「でも、どうして争い合うことしかできないんだろうな」
誰に問うでもなくそう言った時、階下から仲間の声が聞こえた。階段を登って来たのは、フーガだった。
「陛下がお呼びだ。今から半刻後に玉座の間に集まれよ」
「はいはーい」
サタルは気楽に返事をする。スランが戦士の後について階段を下りていき、カノンもそれに続いた。サタルもその後を行こうとして、肘を引かれた。振り返ると、キラナが彼を掴んでいた。
「なに、どうかした?」
「いーえ、ただ、ちょっと聞いておきたいことがあって」
キラナは莞爾と微笑んだ。サタルはいつもの笑顔を保ちながら、気を引き締める。これは商人の笑みだった。
「平和って何だと思う?」
しかし彼女の唇から飛び出した台詞に、サタルはきょとんとした。キラナはふざける風でもなく、至って真面目な面持ちである。
「何事もないことじゃないの? どうして?」
「細かいことは考えないで、はぐらかさないで答えて」
「……退屈で善とも悪とも限らない、争いが必要なものじゃないかな」
女性に真剣に乞われたなら、答えないわけにいかない。サタルはなるべく平たい言葉で答えた。するとキラナは頷いて、再度尋ねてくる。
「貴方は平和を作れる?」
「作れないよ」
これには即答した。キラナの黒い瞳が、何かを探り取ろうとするかのようにこちらへ注がれる。妹と形は同じなのに、輝きが全く違う。
「最後に一つ。貴方は今の旅の最後に、何を望むの?」
サタルは戸惑う。自分が望むこと。それは、実現するかを別にすればたくさんある。サタルはしばし考え込んで、答えた。
「やりたいことはたくさんあるよ。でも一個あげてみるなら、そうだな……できるなら、今一緒に旅してるみんなと、遊んでみたいな。街を歩くのでもご飯を食べるのでも何でもいいから、一日どうでもいいことをして過ごしたい」
キラナは二度頷いた。そして腰に提げた道具袋に手を突っ込むと、おもむろに何かを取り出した。
「これあげる。必要なんでしょ?」
それは、彼女の小さな手に余る黄色の珠だった。向日葵や焼き立てのパイのような、温かい光を湛えている。サタルはそれを覗き込んで、まさかと呟いた。
「イエローオーブ?」
「その通り。信じられないなら、オカリナ吹いてみてくれてもいいよ」
キラナは先回って言った。サタルは首を横に振る。お転婆なようで堅実な彼女がこんなことで嘘を吐く目的が思い浮かばなかったし、今確かめる必然性を感じなかった
「どこでこれを?」
「イエローオーブは人から人の手に渡る。なら、商人の守備範囲ドンピシャよ。これくらいわけないわ」
商人舐めないでよね、とキラナは胸を張った。しかしすぐに顔から明るい笑みが消える。
「ただ、交換条件があるの」
「どんな?」
「カノンをお願い」
サタルは、今度こそ目を丸くした。キラナは至って真摯な表情である。
「今日はやけに突拍子のないことを言うな」
「冗談じゃないの、本気で言ってるんだよ」
キラナはちらりと目を転じた。階下に誰かいないかを確かめたようだった。
「あの子はずっと、勇者についていくために育てられてた。だから、戦う手段以外知らないの。年頃の近い子供達と遊んだり、おめかし用の服を買いに行ったり、そういうことをしたことがないんだ」
サタルは何も言えない。先程までの質問が、サタルの何かを量ろうとしてのものだっただろうことは分かる。だが、どうしてカノンの生い立ちが関わって来る? それに、勇者についていくために育てられたとはどういう事情だろう。彼女からそんな話を聞いた覚えは全くない。それに幼い頃から遊んだり、好きな物すら買いに行けないなんて、まるで。
「私があの子の代わりになってあげられれば良かったのに。でも、できなかった。それどころか……とにかく、いつかあの子と向き合ってあげて欲しい」
「カノンの、何と?」
「私からは話せない。いつか、あの子から話す時が来ると思う。無理矢理聞こうとしないで、待っていてくれないかな」
「よく分からないけど、何か複雑な事情があるんだね?」
サタルが問うと、キラナは頷いた。
「お願い。勇者で、あの子のことが好きな貴方にしか頼めないの」
思わず眉が跳ねてしまったらしい。サタルの顔を見て、キラナは妹そっくりの双眸を意地悪そうな三日月に細めてにやりと笑った。
「あ、やっと自覚したんだ? 遅くない?」
「遅っ!? いやそれどういうこと? 俺そんなに分かりやすかった?」
「最近は特にね」
サタルは額を押さえた。キラナはけたけたと笑っている。
「勇者が貴方みたいな人で良かった」
「え?」
聞き間違いかと思って、つい聞き返してしまった。商人は階下に向かいかけていた足を止め、振り返る。碧空に桃色の髪がなびいた。
「悔しいけど、きっとあの子を幸せにできるのは貴方だけなんだよ」
キラナはそれまでと違った雰囲気で微笑んだ。どことなく胸の痛む笑みだった。
「あの子を、一緒にいる限り大事にしてあげてくれる?」
「……頼まれるまでもなく、大事にしたいと思うよ」
彼女はイエローオーブを放った。サタルは投げつけられたそれを、慌てて宙で受け取る。
「交渉成立。色男なら口約束も守るって信じてるからね? くれぐれも、このことは口外法度で頼むよ」
キラナの満面の笑みから、白い歯が零れる。サタルはああ、と薄く笑みを浮かべて頷いた。
「もし私や商人ギルドの助けが必要になったら、近くの商人に声をかけてよ。どこだって駆けつけるわ。あ、出張代は頂くかもしれないから、それは知っといてね」
じゃあよろしく、と年相応に快活な、だが少女にしては力強い声で言って、商人は背を向けた。サタルはその場に一人残り、天を仰いだ。
陽射しが眩しい。
20150621 執筆完了
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