「主なる神の名は、口にすることを禁じられているの」
アリアは、壁画を見上げてそう言った。
世界のへそ、ランシールには主神に捧げられた神殿がある。ダーマを修業のための聖地とするなら、ここは信仰のための聖地。もっとも主神への信仰心の熱い者達が通う、隠れた聖域として知られていた。
「何で?」
「恐れ多いから、かしら」
アリアはそう答えた。ルビス教徒である彼女だが、さすが賢者であるだけあって、世界最大の宗教と言われる正教のことは一般人以上に知っているようだった。
「主神様は太陽の神であらせられるのは有名でしょう? 正義を愛し魔を憎み、あたたかき光を分け隔てなく私達に注いで下さる恵みの神としてのお顔をお持ちの一方で、誇り高く気性の激しい方でもあらせられるの。だから私達の祖先は、その偉大なるお名前を地上に住まう下々の者が口にして、怒りを招くことを恐れた。その名残りだと伝えられているわ」
カノンは気のない返事をする。心の狭い最高神だ。名前を呼ぶことの、何が悪いのだろう。
そう思っていることが伝わったのだろう、アリアはくすりと笑った。
「カノンは正教には向いていなさそうね」
「偉そうな奴は嫌いだから」
壁画を、もう一度見上げる。立派な体格の壮年を、老若男女様々な人々が熱に浮かされたような飛び出た目で凝視し、膝を折り崇めている。壮年の右手は太陽を指し、左手は壁画の左方を指す。差された先には、暗闇へと逃げていく魔物の姿がある。
その絵面が何となく気に食わなくて、彼女は背を向けた。
「どこ行くの?」
「外」
無愛想に返事をしても、アリアはついて来た。ルビーに似た瞳が武闘家を覗き込む。
「サタルを待ってなくてもいいの?」
「いいんじゃないの。フーガがいるし」
サタルは今、この神殿の試練とやらに挑戦中である。試練に打ち勝ちし者、大いなる知性の珠をば得ん。そんな伝承を町の人に聞いたとかで、あの臆病者もやらないわけにはいかないと思ったようだ。
「本当にオーブはあるのかしら」
「さあ、どうだろうね」
「でも、ここはオーブがあるには妥当な場所だと思うわ」
天井が高く、上方に等間隔で開けられた窓から光が差し込む開放的な造りなのに、屋内が息苦しく感じられてカノンは表に出た。若葉の香りが鼻を通る。鬱屈した気分が、少し晴れた気がした。
「オーブのこと、前も言ったよね」
「うん」
「ダーマにも確かな場所について記してある文献はなかったけど、オーブはその特性ごとに相応しい人のもとへ渡るというわ。このランシールの神殿は、今でこそこんなに静かだけど、一昔前は千年に一人生まれるか生まれないかという、主神の寵愛を受けた巫女様がいらっしゃったこともあって、多くの熱心な信者が集まってたそうよ」
それで――と、続くランシールの歴史をカノンは話半分に聞いた。アリアには悪いが、こういうことにはいまいち関心が持てない。
「そんなわけで、神への信仰を試す地として発展していったらしいわ。試練もきっとその名残りなのね。だからそういった人々を導いていらっしゃった方々のいるここは、オーブのどれかがあるのにぴったりだと思うんだけど」
「まあ、そうだね」
「神官の方からイエローオーブの手掛かりが頂けたのは良かったわ。ダーマになかったのはちょっと残念ね」
「うん」
「まだまだ道のりは長いわね。レッド、ブルー、イエロー、パープル、シルバー……情熱に知性、交友、神秘、そして――って聞いてる?」
カノンが明後日の方を向いていることに気付いたアリアは抗議の声を上げかけて、彼女の目線を追って息を飲んだ。
神殿の柱の影に、青いものがいる。
「あれ、スライ」
ム、と言い切る前に、カノンはそちらへ疾走した。青い雫は逃げようとして壁にぶつかり、ぷるりと大きく震えた。
「本当にスライムだね」
「こんなところに?」
神の力が強いこんなところで、よく生きられたものだ。感心しながらぷるぷると震えるそれをつまんで揺すると、甲高い声がした。
「ピキー! 僕悪いスライムじゃないよ! いじめないでよう!」
「虐めてない」
「カノン、それはその子からしてみると虐めてることになると思うけど……」
柔らかさと弾力が楽しい。透ける青が綺麗だ。眺めていて飽きない。
カノンは目と耳と手でスライムを堪能する。両手で揉んでいると、スライムはまた可愛い小さな男の子に似た声を張り上げた。
「ねえ、信じてよー! 僕悪いスライムじゃないよ!」
「うん、信じるよ」
カノンはすぐにそう返した。
悪いスライムじゃないというのは本当だろう。邪心があったらこんなところまで入ってこれまい。気のいい奴なのだ。
彼女の掌の上で、スライムがもとから丸い目をさらに丸くした。ついでに、何故かアリアもそうした。
「本当?」
「ああ。攻撃的な奴は、ここに来る途中で消滅するだろうからね」
「お姉さん、いい人だね」
僕の事信じてくれる人、なかなかいないんだ。スライムはそう言って口の両端を斜め上に上げた。笑っているらしい。
「嬉しいな。お礼にいいものあげる」
そう言ってスライムは、背中から何かを取り出した。妙な形をした葉である。
「これ消え去り草じゃない?」
アリアが声を上げた。
「そうだよ。これ食べると、しばらく姿が消えるんだ」
「わあ、本物を見たのは初めてだわ。ありがとう!」
アリアが喜ぶと、スライムはもぞもぞと横に身を動かした。ゼリーが振動する感覚が手に伝わる。猫が喉を鳴らしている時のあれに似ていると、カノンは思った。
「あっ」
しかし、スライムは突如ぴょんと飛び上がりカノンの手を下りた。そして地面と神殿の隙間に空いた、狭い穴へと潜っていってしまった。
「あら、急にどうしたのかしら」
「スライムは敏感だからね。何か気配でも察したのかもしれない」
アイツ、うまく生きていけてるといいんだけど。
武闘家が呟くと、アリアは桜の花びらに似た唇を綻ばせた。
「カノンって優しいよね」
「優しくなんかないさ」
「そんなことないわ。私、お世辞は言わないよ
アリアはカノンのそばにしゃがみ込む。
「カノンはあんまり思ってることを口にしないから分かりづらいけど、かなり他人思いだよ」
「……そんなこと、言われたことない」
「うふふ、見る目がないわ。またはみんな言いづらいのね」
それからウサギのような瞳でこちらを見つめる。何だか、ひどく居心地の悪い気分だ。
「表に出さない優しさ。うまく言えないけど、貴方は何やかんやで寄り添ってくれるタイプよね」
カノンは眉根を寄せた。自分がそんな人間だとはとても思えない。この子は何を言い出すのか。
「サタルが貴方につい話しかけたくなるのも分かるわ」
「は?」
どうしてそう飛んだ。話の飛躍が理解できないカノンに、アリアは可愛らしく小首を傾げて見せる。
「え、だってそうじゃない。サタルったら、カノンと話してるとすっごく楽しそうだもの」
「いや」
そんなことはないだろう。アイツは女を相手に話す時は、いつでも怪しいくらい愛想がいいのだ。そう返すと、アリアは目を丸くして、何故か嬉しそうに笑みを浮かべた。
「やだ! これ……やだっちょっと楽しい予感!」
大丈夫だろうか、この子は。発言の意を問いただそうか迷う。しかし、結論が出る前に気配を感じて振り返った。
「あれ、もう終わったのかい?」
フーガだった。彼は試練から帰って来るサタルを神殿内で待っていたはずなのだが。
「まあそうなんだが、それが」
フーガの説明することには、サタルは帰って来るなり、険しい顔をして大神官と共にどこかへ行ってしまったのだと言う。
あのお調子者にしては珍しい、別人かと見紛うほどに真剣な顔つきだったらしい。
「ただ事じゃない雰囲気だったな」
「試練で何か、あったんでしょうか」
アリアも一転して案じる顔つきになる。顎に細い指を当て、俯き――そして、自らの手に持つものに気付いてぱっと顔を明るくさせた。
「そうだわ、これよ!」
「何だ、それは」
「消え去り草です。これを使えば姿を消せます」
これで、サタルと大神官様を追いかけましょう! アリアはそう提案した。
「いいのか、そんなことして」
「分かりません。ですが何かあったとしたら……サタルはよく秘密ばかり作るから、たまにはこうして探りを入れるのも悪くないと思います」
アリアは大きく二度頷いた。フーガとカノンは顔を見合わせる。この少女は普段は真面目で大人しい癖に、妙なところで大胆になるのである。
「ばれないか?」
「時間制限と、物音さえ気にかければどうにかなります。あとは尾行の上手な人が行けば問題ないです。消え去り草は今、一つしかありませんから」
アリアはフーガを仰いで説明しながら、ちらちらとこちらに視線を送ってくる。それの意味が分からないカノンではない。
アリアは慎重すぎるし身のこなしが軽くないから、尾行には向かない。フーガは身体が大きいため、解けた時に隠れ場所を見つけにくく目立ってしまう可能性がある。
分かってるよ、あたしが適任なんだろう? カノンは彼女の無言の期待に応え、片手を挙げて受ける旨を伝えた。
「ありがとうカノン! よろしくね」
「気を付けろよ、あの爺さん気難しそうだからな」
二人の見送りを受けて、カノンは消え去り草片手に神殿を離れた。
戦士の話では、二人は神殿の中でも森に近い離れに入っていったという。既に神殿周辺は探索済みだから、どこのことかはすぐに分かった。
左右対称な構造をしている神殿を壁伝いに右手へ回り込み奥に向かうと、他の建築物と同様に白塗りの小ぶりな建物が見えてくる。きっと、これに違いない。
カノンは消え去り草を口に含んだ。良く言えば爽やかな、悪く言えば冷涼感が強すぎて身体が消し飛ぶのではないかという味が口の中を広がり、喉を伝う。胴体の中心から末端にかけて、自分が徐々に透明になっていくのは不思議な景色だった。服まで透明になるのを見届けて、カノンは目的の建物に近づいた。
乙女の柔肌のごとく見えた白い壁は、近づいてみるとやや黄と灰が混ざって人骨のようだった。表面をツタが這い、視界の端でトカゲが壁を走った。カノンの手が窓に届かないことは明らかだったので、正面から侵入するしかない。
カノンは仲間達とは違い、さして神官とサタルの会話内容を気にしていなかった。別に大した会話はしていないだろうし、万が一ばれても謝ればいい。そう構えながらも、彼女はまず慎重に扉をそっと押した。指先ほどに開いた隙間から、中の様子を窺う。外にも増して灰色がかった壁に、似たドアがいくつも並んでいる。ここは、神官の宿舎らしい。
誰もいないことを確認してから、素早く身体を滑りこませて音を立てずに扉を閉じた。足音を殺して廊下を進む。大きな食堂がある以外、全て神官の部屋らしい。質素なものだ。娯楽室くらいあるものだと思っていたのだが。
「おい、見たか?」
カノンはぎくりと背筋を伸ばした。しかし、声は彼女にかけられたものではなかった。
「何をだよ。まさかまた、ゴーストじゃないだろうな」
「そんなわけないだろう」
声の主は、ある一室から現れた。二人組の、中年神官である。
「大神官様だよ。さっき、若い子を連れてご自分の部屋に入っていかれたんだ」
カノンは耳をそばだてた。男達はカノンの気配には気づかないようで、横に並んで廊下を奥へと進んでいく。その後を、そっとつける。
「本当か? 若いって、女じゃないだろうな」
「男だよ。今日試練を受けに来たのがいただろう。そのうちの一人さ」
「あー、あの気障ったらしそうな奴か」
おい、そんなことはないと思うが……。ここで、片方が声をひそめる。少しの耳打ち声を聞いて、もう片方がやや強く否定した。
「それはない! あの方がどれほどご自身に厳しいか知ってるだろ。奥様を亡くされてからもずっと信仰一筋だ。今時あんな方は他にいらっしゃらない!」
「分かってる、冗談だ。そう怒るな」
耳打ちをした方が宥める。それから靴音三回分の後、先ほどのやや怒ったようだった方が語調を和らげて言う。
「しかしあまりにお顔が険しくてな。どうされたのか、気になって仕方がない」
「それなら余計、二階には行かない方がいいぜ。昔は四階が大神官室だったから良かったが、二階の神官長室を大神官様がお使いになるようになってから、たまに二階のあの辺りを通ると中の会話が聞こえそうになるんだ。あの方は、立ち聞きとかそういうことがお嫌いだからな。下手に好奇心で行かない方がいいぞ」
神官達はそれから、重要な案件について話している大神官の部屋の前で騒いだ若手がどうなったかについて話し始めたが、ここまで聞けばもう十分だった。カノンは彼らに背を向け、既に通り過ぎていた階段を上った。
大神官は神官室を使っている。どの位置かは分からなかったが、二階ということだけ分かれば十分だ。広そうな部屋、または聞き覚えのある声のする部屋を覗けばいい。
神官寮は静かだった。先程の会話でも薄々窺えたが、どうやらかつてに比べて人が減っているらしい。一階はさすがに埋まっていたが、この階では空き部屋がちらほらと見られた。そのせいもあって、件の部屋はすぐに見つけられた。
古びた木の扉の両側に、燭台が据えてある部屋があった。その中から年寄りの声と、若い声が聞こえている。
カノンは扉に耳を当ててみるが、声が小さいようで話す内容までは分かりづらい。さすがに突入まではしない方がいいだろうか、と逡巡する。
しかしその時、木を伝って大きな振動が耳に届いた。
「この、呪われし者が!」
重い振動だった。続いてガラガラと棒状のものが転がったのだろう音がする。それから何かが石の床を跳ね、転がる気配が連続した。
「立ち去れ! 貴様に一滴でも我が血が流れていると思うだけでおぞましい! 望みのものは手に入れただろう! 立ち去れ!」
老人が枯れた喉を振り絞って叫んでいる。憤怒を、憎悪をこめた呪詛を。それに対して、聞こえてもいいはずのもう一人は何も言わない。
もはや躊躇っていられなかった。カノンは重い扉を開け放つ。
真っ先に認識したのは、散乱しているということだった。あまり物のない部屋だったのだろうに、床に割れた花瓶や折れた杖がぶちまけられている。その中心にいるのは、彼女の追ってきた少年である。
対する位置に立つ老神官は、手近にあったロザリオを取った。カノンは目を見張る。神官は、それを迷うことなく少年に投げつけたのだ。
サタルは避けようとしなかった。銀のロザリオは額にぶつかり、石畳を転がった。それを目で追うことすらせず、勇者は我を忘れた様で、肩で息をする老人へ視線を注いでいるようだった。
「何するんだい!?」
カノンはサタルの前に立ちはだかり、大神官を睨み付けた。神官帽のずれた老人はそれでも、荒い呼吸を繰り返しながら彼女の背後を睥睨している。
「何でここに」
背後の声は、呆けたように芯がない。そういえば消え去り草の効果は解けてたのか。だがそれどころではない。
「コイツが何をしたのか知らないけど、無抵抗の相手に手を挙げるなんておかしいんじゃないか。それとも、コイツはそれほどのことをしたっていうの?」
「行為ではない! 存在が罪なのだッ!」
大神官は威圧的に怒鳴る。
「その者がこの世に生まれ落ちた時、災いが現れたのだ! こやつは争いを生む! 破壊をもたらす! そんなものにこれ以上、この地を踏まれてはたまらん!」
カノンは空気を飲んだ。老人の言うことは、カノンの予想を斜めに上回っていた。それで、用意していた言葉を出せなかったのだ。
しかし、彼女は無性に腹が立った。
「勝手に決めつけんじゃないッ! 何様のつもりで――」
「カノン、いい」
肩に手を置かれた。視界の横で、黒い髪が前へ揺れた。
「お世話になりました。失礼します」
「ちょっと、待ちなよ……っ」
彼女の制止を聞かず、サタルは手を引いて部屋を辞した。そのまま振り返らず、来た道を戻っていく。カノンは振りほどこうと腕をねじった。
「ちょっと待って、待ちな! あれで納得できるわけ」
「頼むよ」
カノンの腕が逃れる。瞬時に、サタルの手がまた捕らえなおした。
「早く、ここから離れたいんだ」
振り返らず告げる声は、沈んでいた。カノンは毒気を抜かれてしまい、彼の手が引くままに宿舎を出た。
既に、日は落ちかかっていた。何でコイツと見る景色は夕焼けが多いのだろうと、ふと思う。その間にサタルの手が離れた。
「さっきのことは、誰にも言わないでくれ」
やっとこちらを向いた彼の顔を見て、カノンは言葉を失った。逆光でも分かるほどに痛めつけられている。米神から流れた血が、整った輪郭を細くなぞってマントに落ちた。
戦闘で顔に傷を負った時は、どんな時でも自分で真っ先に治していたのに。あまりにらしくない彼の様子に、カノンは狼狽えた。
サタルは笑って見せる。泣いているようにしか見えなかった。
「頼む。厄介なところ見せちゃって悪いけど、誰にも言わないって約束してくれないか?」
カノンは悩んだ。何で、と聞きたい。だが、それを聞く勇気が彼女にはなかった。あの老人の鬼気迫る姿、明らかに傷心している仲間、その背後にあるものが、そう気軽に聞いていいものであるとは思えなかった。
「……頭を強く打ってるだろう。すぐ横になって、安静にした方がいい」
「ああ、そうするよ。だから早く、言わないって約束を」
「アンタの怪我が治るのを見たら、そう約束しようか」
サタルの笑顔が曇った。
「それくらい、ちゃんと治していけるよ」
「駄目だね。一応アンタは回復呪文も使えるだろうけど、頭を強く打ったんならまだ使わない方がいい。しばらく待たないと」
その見極めはあたしがつける。一方的に告げて、今度は彼女がサタルの手を引いて歩き出した。もう抵抗する元気もないのか、渋られなかった。
人目のつかない林に入り木の根元に腰掛けてから、サタルを寝転ばせて自身の膝の上に頭を持ってくる。右瞼を押し開け、瞳の様子を見る。
「あの」
「何。動くんじゃないよ。動いたら目玉がなくなると思いな」
はい、と大人しく返事をして、サタルは居心地が悪そうにしながらも彼女のされるがままになった。
辺りの影が濃く、境がなくなってくる。日が落ちるのだ。アリアかフーガが探しているだろうか。ふと仲間達のことを思い出したが、それよりもコイツを放っていくわけにはいかないと思い直した。
「寒くない?」
「あたしは平気。アンタは大丈夫?」
「大丈夫だよ」
木の葉が風で擦れて、一枚少年の胸の上へ落ちる。カノンはそっと指で摘み、また風に流した。葉は風に身を任せ、軽く舞い上がっていく。
「君に心配されるなんて、嘘みたいだ」
「アンタの好きな美人じゃなくて悪かったね」
そうじゃないと返して、またサタルは黙った。
「……また、君に格好悪いところを見られちゃったな」
「アンタの格好よさなんてどうでもいい」
「はは、ひどいな。結構自信あるのに」
「無理して喋らなくていい」
青い瞳が、少女の顔を映し出した。カノンは彼の頭に、そっと手を添える。
「何も言わなくていい。何も訊かないから」
サタルは何故か、傷ついたように顔を歪めた。話したかったのだろうか。あまり上手に笑えていないというのに。
「君は、俺のことが嫌いなんじゃないの?」
「何で」
「……今日は、いつもより優しいから。どうしてこんな、膝まで貸してくれるのかと思って」
「確かにアンタの無駄によく回る口とか、やたら見栄張るところは嫌いさ。あと色ボケなところもすぐ女に色目使うところも、自分は恋愛上手って見せたがるところもね」
やっぱり、といった風にサタルは溜め息を吐く。カノンは少し考えてから、言葉を続けた。
「けど、何でだろうね……アンタが子供みたいに強がるところを見てると、放っとけないんだ」
不思議なのである。自分はそんなに面倒見のいい性格ではないし、こういう男も好きなわけではない。けれど、この少年を憎むことができなかった。
口が上手く調子が良く八方美人の嘘吐きで、誠実さも勇敢さもなければ信用するに足るところが全くない。顔立ちが整っている以外に良いところがないのである。
しかしその虚像の自分を作って実の自分を必死になって隠そうとしている彼の、時折隠そうとしているものが見えてしまうと、どうにも駄目だった。
「子供みたい、か」
少年の声は、自嘲するような響きを持っていた。
「そんなに強がってたかな?」
「うん」
カノンは頷いた。
「今だって、痛いとも何とも言わないじゃないか」
サタルは驚いたようだった。目を僅かに開いて、声もなくカノンを凝視している。
「この米神の傷も、頭のたんこぶも、頬の痣も……痛いだろう」
カノンの指が、そっと傷の上を滑る。サタルは細い眉を中央に寄せた。やはり感覚がないわけではない。痛いのだ。しかし、きっとそれより他のことに気がいっているのだろう。
「あたしが感心するのは、アンタは全くそういうことを言わないところだよ。いつも楽しそうにしてるのは、その……凄いと思う」
そう言ったことに、カノン自身が驚いた。知らないうちに言葉がスラスラ出てきていた。形にしたことで、妙に彼女は納得した。そう言ってみれば、この少年はいつも楽しそうだった。何日も続いて雨の中を旅した時も、町で良からぬ輩に絡まれた時も、カノンに罵倒されている時も。
どこまでが本心か知らないが、それは素直に凄いと思った。
そこまで自覚した時、カノンはやっと信じられないものを見るような顔つきのサタルに気付いた。急に顔が、発火したように熱くなる。
「けど! 大丈夫じゃないのに隠されるとこっちが困るから、ちゃんと言いなよ!?」
カノンは語気を強めると、サタルの様子を確認して回復呪をかけた。傷が綺麗に癒えたことに頷いてからサタルを起こし立ち上がろうとする。
「……何?」
途中で動きを遮られ、中腰のままカノンは視線を戻した。手首を掴んだサタルは、固まっていた。まるで、自分でも無意識のうちに動いてしまったかのようだった。
「あの」
珍しく歯切れが悪い。暗闇のせいで深海の色をした瞳が、地面の上を彷徨う。
「もう少し、ここにいてくれないかな」
サタルはこちらを見ない。いつもなら続く言い訳もなく、カノンが黙っていればただ彼も口を噤んで彼女の言葉を待っていた。
「どこか痛いの?」
尋ねるとためらいがちな頷きが返って来る。カノンは、また座り込んだ。
20141114 執筆
20150731 加執修正
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