※盗×商のようでそうでないような。
彼は職業柄、絵も描けた。とは言っても、これは商売の一環としてではなくただの趣味らしい。彼の専門は考古学であり、その研究を生業としている。その分野の性質上どうしても絵画に触れることが多いらしく、だからこの延長で絵を描きたいと思うようになったのだそうだ。
そんな彼の絵は、本人曰く「商品になるわけがない」そうだが、絵の上手い下手が分からない俺はそう思わない。どうもお前は視野に映るモノを美醜ではなく特徴として捉える傾向が強いようだ、というのは俺の制作した前衛的な絵画を見た彼の言で、そんな俺だから彼の絵を家に飾るようなことをするのだろうとも言っていた。
別に、俺の趣味やセンスの良し悪しなんてどうだっていいだろう。俺は彼の絵が好きだから、買い取って飾るのである。それに彼は旅先で目にした情景を好んで描くから、買って帰って家に飾れば、その切り抜かれた新鮮な旅の記憶を家族も喜んだ。彼の筆はリムルダールの美しい街路やマイラの田園風景に始まり、巨大な人を形どる岩や世界の端を滑り落ちる海といった奇怪な景色までよく描いた。
やがて俺は、絵を見るという口実で彼の部屋によく上がり込むようになっていった。
その習慣が染みついて長くなったある時。彼もつい、気が弛んでいたのだろうか。いつものように店先で客の応対をする彼に許可を取って、いつものように俺は二階の居住スペースに上がり込み、いつものように彼の部屋の戸を開けて、いつものように壁際の作業机の辺りに置いたままの絵を眺めようとした。
しかし卓上に広げられたスケッチブックを一目見た途端、俺は「いつも」が崩壊するのを感じた。
あ、これ絶対見られたくないヤツ。そう直感して即座にその表紙を閉じようとしたが、つい目は意に反して引き込まれるように凝視してしまう。
描かれていたのは、人だった。これまで俺は彼が人間を描いているところを見たことがなかったが、きっとこれは間違いなく彼の作品だろう。鉛筆画の上で踊る淡い水彩は、彼の手によるもので間違いない。しかも紙の中からこちらに向かって微笑む人物は、彼も己もよく知る者だった。
背後から嘆息が聞こえた。
「いじるなって言ったのに」
友が戸口に佇んでいた。咎めるような目の色に、思わず弁解じみた言葉を漏らす。
「いじってないよ。元から開きっぱなしだった」
「それは分かってる。そうじゃなくて、絵に触るなって話」
戸口に片腕で寄りかかっていた彼が、すらりと長い足を踏み出して歩み寄る。同様に長い腕がスケッチブックをどうするか迷うような仕草を見せたが、結局その黒い表紙に手が届くことはなく、俺の前を素通りして窓枠に寄りかかった。蒼穹を背景にしたシルバーブロンドが、陽光に透ける。
「言うなよ」
こちらを向かぬまま、彼は念押しした。誰に、なんて聞かなくたって分かる。
「なに、本人の許可取らずに描いたの?」
「描くつもりなかったけど、描けちまったんだよ」
もういい加減見慣れてきた顔だから、と彼は苦々しい口調でこぼす。俺は手元の絵を、改めて見下ろした。
「言ったっていいんじゃない? 上手く描けてるし」
「言ったらアイツ、売るかもらうかするだろ」
「手元に置いておきたかったの?」
「だいたいそんな絵、アイツに見せたらうるさいことになるからな」
俺の質問に、彼は焦ることなくズレた答えを返す。出会った頃は慌ててばかりのおっちょこちょいだったが、今では狼狽をあからさまに出すことが少なくなった。思うに相当場数を踏んだのと、動揺を声に出すのを抑えられるようになったのが大きいのだろう。おかげでここ三年は、すっかり盗賊らしい立ち振る舞いが身に着いていた。
一方。俺は手にした絵画の人物に思いを馳せる。
彼女はまったくと言っていいほど変わらない。多少は物腰が大人びたものの依然としてお転婆で、背丈と顔立ちは少女のようなまま変わらないし、さらにその頭と舌の鋭さは増すばかりである。
しかし、この絵の彼女はどうだろう。
「こういう顔、するようになったんだね」
「昔からしたぞ。極稀に」
俺は窓際の友を見やる。顔は、まだこちらを向かない。
「君の前だから?」
「カノンの前だとよくそういう顔するぞ」
「よく見てるんだね」
「飽きるほど一緒にいるからな。表情の見分けもいい加減つくわ」
「本当にそれだけ?」
畳みかければ、やっと細い背中がくるりと回った。
「妙な勘ぐりするなよ、色ボケ」
友はすげなく一蹴した。彼は時折滲み出る育ちの良さを隠したいのか、わざと乱暴な言葉を使う癖がある。今ではそれも定着したものだ。高いようで意外とハスキーな彼の声質に、溜め息交じりの罵り言葉はよく馴染む。
彼は呆れた顔で、俺を軽く睨む。
「何度も言わすな。確かに俺にとってアイツはかけがえのないパートナーだし、アイツ自身も俺のことを同じように言っている。けど、それはあくまで商売において、だ。現にアイツには恋人がいるし、俺も今こそフリーだけど、これまで何人もと付き合ってきてる。それでもお互いいつも通り仕事さえできれば満足で、妬きもしなければ恋愛相談までしてるんだぜ?」
これが恋仲に思えるか、と彼は緑の双眸を真直ぐにこちらへと注いだ。自分たちの関係性を、純真に信じる者の眼差しだった。
彼は片手を絵の上に翳した。八年の歳月は、このエジンベアの箱庭育ちだった指を着実に育て上げ、打たれ強くした。幾つになっても白魚のようと称されるのが嫌だと言っていた彼のコンプレックスは解消されたのだろうか。長い指は節が張り道具タコができていて立派に男らしいが、未だ彼特有の中性的で優美な曲線を残していた。
その指が、紙の中で微笑む人の輪郭を伝う。慎重な指先は鉛の線が滲むのを恐れつつ、しかし己の筆致を確かめたいのか、丹念になぞっていく。その指の動きを目で追っていた俺は、自分が先程どうして「いつも」が崩壊したと感じたのかをやっと理解した。
「アイツは大事な相棒だよ」
眼前のスケッチブックを覗き込む男は、俺には目もくれずにそう呟いている。
そりゃあそうだろうさ。
だっていつも「旅の景色って、覚えてそうで思い出せないんだよな」なんて言いながら、薄い薄い線で朧げな記憶を辿るように鉛筆の先を紙に繰り返し掠らせるお前が、これだけ濃く迷いのない線で「描くつもりなかったけど、描けちまった」んだから。
「昔も今も、な」
スケッチブックは、音もなく閉じられた。
20160528