フーガとカノンは、以前まで朝食を一緒に摂らなかった。戦闘で前線に立つ二人には、毎朝修練を兼ねたウォーミングアップをする習慣がある。その日の体調によって内容を変えるため、朝食を一定の時間にしてしまうと、調子を整えられなくなってしまう。だから、事前に相談して出発時間だけを決めて、待ち合わせていた。
しかしここ、アリアハン王の命を受けてロマリアを訪れてからの二人は、変わった。トレーニングの後、食べ始める時間こそ揃えないまでも、必ず顔を合わせるようになっている。
今日もそうだった。方形の卓が並ぶ閑散とした食堂で、フーガは卓の一つを一人で陣取り、ステーキを齧っていた。
そこへカノンがやって来て、フーガの向かいに腰掛けた。
「おはよう」
「うん」
カノンは、サラミとレタスを挟んだベーグルを齧る。フーガもステーキを一口で二切れ平らげる。
二人きり、黙々と食事をする。古びた食堂へ、次第に朝日が差し込んでくる。年季の入った木目のテーブルが、やたら眩い朝の日差しを吸い込んで、落ち着いた艶に変えていく。
しばらくして、カノンが口を開いた。
「さっき、まだ部屋に気配があった。アイツの他に女の声が二人分。滅茶苦茶にお楽しみ中」
「はあ」
二人が朝食を一緒に取るようになった理由は、新しくできた連れ、少年勇者サタルにあった。サタルは宿に泊まると、頻繁に女を連れ込むのである。そして、朝まで部屋から出て来ない。
「いつも通り、出発三十分前になっても出て来なそうならば、ドアに一発、時報を入れてやっていいかな」
「まあ、いいんじゃないか」
フーガは肩を竦めた。
様子を伺う限り、少年の女遊びは頻繁でこそあるが、相手に無茶をしたり、厄介な相手を選んでいたりする様子はないので、現状、放っておけばいいと思っている。だがそれより、毎度その様子に嫌そうな顔をするカノンの方が、フーガは気にかかっている。
「なあ。無理にあいつの様子を確認しなくても、いいんだぞ? 一度くらい、遅れてきたところを見計らって、文句を言ったっていいんだから」
「進んで確認しに行ってるわけじゃない」
カノンはこめかみを揉む。
「いくら声を殺してても、伝わってくる空気の感じで分かる」
「特殊能力だな」
「呼吸くらい、武闘家ならある程度読めて当たり前だから」
王位を譲るってジョークを飛ばす王もどうかと思うけど、出発の寸前までよろしくやってる勇者もどうかと思う。
そのようなことを、少女は愚痴る。頬がやや膨らんでいる。
フーガが微かに笑みを浮かべているのに気付いたカノンが、片眉を上げた。
「お前は、勇者や為政者に対して、真面目に期待するタイプなんだな」
「そんなに期待してないと思うけど」
「別に、期待してもいいんだぞ」
「どっちかというと、失望でしょ」
「そうか。なら、勇者や王にクリーンなイメージを持ってた、ってことか? 奴らも、社会の肩書き以前に人間さ。人にはそれぞれ趣味やら事情があるんだろうから、あまり手厳しくしてやるなって」
カノンは眉間にしわを寄せ、考え込む。フーガはその様子を微笑ましく見守る。
「あたしが嫌なのは、肩書きとか、やってることそのものじゃない」
「じゃあ、なんだ」
「そもそものアイツの人間性が嫌い」
フーガは噴き出した。
「それじゃあ、仕方ないな」
「えー。そこは諦めないでよ」
噂の声が割り込んで、武闘家の眉間の皺が更に深くなった。
食堂の入り口に、サタルがやって来ていた。無造作にシャツの襟元を正しながら、カノンの隣へ座ろうとして、しかし彼女の心底嫌そうな顔に気付き、さすがにフーガの隣へと座った。
「おはよう。早く飯食え」
「はーい」
サタルはスープに口をつける。それでもすぐに口を開いてしまう。
「カノンちゃん、俺の部屋が気になったの?」
「あんたの部屋っていうか、気配」
気配、と復唱するサタルの顔は、珍しく真剣だ。カノンは気が進まないようだったが、サタルが目を逸さないので、溜息をついて話し始める。
「空気を伝わってくる呼吸が忙しなくて、普通な状態じゃないのが丸分かり。あたしたちに合わせなくていいから、こっそりじゃなく楽しめる宿に泊まりなよ」
「えーと」
勇者は目を瞬かせている。カノンが立ち上がって、食器を下げて食堂を出る寸前になってから、やっと声を発した。
「期待外れの勇者で、ごめんね?」
「そういうのはいらない」
カノンはちらりと振り向いて、鼻を鳴らす。
「勇者じゃなくても、あんたみたいな適当で調子のいい奴は嫌い」
そして、今度こそ食堂を後にした。
サタルはまだ呆然としている。
「えー……髪にキスはダメなのに、えっちはいいの?」
「カノンが気にすると思ったのか」
「だって、結構ウブかなって」
「アイツはそんなタマじゃない」
サタルはまだえー、とか、でもー、などと呟いていたが、フーガが食べ終わろうとしているのに気付いて、慌ててフォークを動かしながら、話しかけてきた。
「フーガも、また俺が女の子たちと遊んでたの、気付いてた?」
「ああ」
「何でこんなに毎回バレるかな。そんなに分かりやすい? フーガは遊んだりしないの?」
「あまり。それからこの際言っておくが、俺はお前が人として守るべき最低限の線さえ守ってるならば、何人と関係を持っていようがどうでもいい」
「わあ、すごくドライ」
「なんだ、文句を言って欲しいのか? この流れで説教されるかもしれないって認識がお前にあったことの方が、俺は驚きだな」
再開しかけていたサタルの食事の手が、また止まった。難しい顔になっている。
「フーガって、意外と意地悪だね」
「お前は構って欲しがりなんだな」
フーガがジョッキで水を飲み干す間、サタルは無言だった。
「カノンは、さっき本人が言ってた通りだ。アイツは取り繕わないし、嘘は言わない」
「俺、どうしたらいいんだろ」
「知らん」
そこまで教えてやる義理はない。フーガはサタルの頭に一つ、軽く掌を落として席を立った。こっそり一瞥すると、サタルは掌を落とされたところに自分の手を添えて、きょとんとしている。
なんだか妙なやつだ、とフーガは思った。成人したてだ。子供扱いを嫌がるかと思ったのだが、全くそんな素振りもない。
フーガは食堂を出ようとして、しかしすぐに立ち止まった。視線の先、フロントにはとっくに立ち去ったはずの仲間の姿があった。
「カノン?」
かたまって、立ち尽くしている。声をかけて近づこうとして、フーガは彼女の体の影、正面に誰かいることに気づいた。
小柄な少女だ。頭の上で縛られた桜色の髪は、小さな尻尾が生えたよう。短めの青いチョッキに白のゆったりとしたズボンを身にまとい、背中に巨大な武器用算盤を背負っている。
桜色の少女は、カノンに抱きついて泣いているようだった。顔を俯けているせいで、表情はよく見えない。
「どうかしたのか?」
サタルが呑気な声を上げて駆け寄ってきた。足音に気付いた二人の少女が顔を上げ、こちらを向く。フーガは息を飲んだ。
黒目がちの大きな瞳。小さいながらも形の整った鼻と唇。幼い可愛らしい顔立ち。
二人の少女は、まったく同じ顔をしていた。
*
「俺、魔法は使えないけど、勇者だよ。なんとかできるかもしれない」
「何を根拠に」
「ねえ、お願い。エルフ の秘宝にあまり関わりたくないならそれでもいいから、ついてきてよ。私一人じゃ、捜索隊一つ、助けきれないよ」
キラナがカノンの顔を覗き込む。
「ね。ね?」
カノンは眉を下げる。少し考え込んでから、フーガを見た。
「捜索隊の救助だけでも、ダメかな」
「……やばそうならば、引き返すからな」
いつもなら危ない橋は渡らないカノンも、実の姉相手だと断れなかった。やむを得ず、戦士は首を縦に振った。
***
「やーもう助かるよー。一人で戦闘って結構面倒臭くって」
手にした算盤でマダンゴの顔面をぶっ叩いたキラナはにっこりと笑った。容赦ない一撃を喰らったお化け茸は、仰向けに倒れたまま動かない。
戦士に転職しても案外いけるかもしれないな。そう思いながら、フーガは剣についた血糊を拭う。鞘に収めつつ、辺りを見回す。
デスフラッター二匹、毒芋虫一匹、マダンゴ三匹、バリイドドッグ三匹が地に倒れ伏している。
不穏な噂から、下手すると以前より強い魔物が出没しているのではないかと予想していたが、今のところそれ程強い敵は出て来ていない。寧ろ、普段と全く変わらないと言ってもいい。
ただ、一つだけ変わったことがある。
「うーん、困ったなあ」
既に剣を収めていたサタルが、地図を開いて言う。
「これだけ霧が出て来ちゃうと、今どこにいるかさっぱり分かんねえよ」
そう、霧。
発生したのはいつ頃だっただろうか。当初カザーブを出発した時は全く出ておらず、寧ろ気持ちいい程の晴天だった。だが、北上していくにつれて、徐々に霧が濃くなってきたのである。
「ねーカノン、タカの目とか使えない?」
「使えるわけないでしょ」
「そうだよね。武闘家だもんねー」
サタルは大袈裟な程に大きな溜め息を吐くと、ふらふらと歩き出した。フーガは剣の柄に手をやりながら言う。
「おい、あまりふらふらするな。はぐれたらコトだぞ」
「確かにコトかもな。美貌の勇者様失踪! 全世界のお嬢様方が泣くだろうなー。ああ、モテる男は辛いよ」
「心配すんな。あたしだけは笑い泣いてやる」
「そこは泣いてよ!」
大仰にサタルが嘆いた。商人が笑い出す。戦士はやれやれと首を振ると、商人の方を向いた。
「変な奴だろ?」
「うん。噂に聞いてた、格好良いだけの勇者様とは、ちょっと違うね」
キラナはくすくすと笑いながら、歩いていくサタルを追いかけて歩き出す。フーガも同様に足を踏み出した。
「もっと気障ったらしいこと言う格好付けかと思ってた」
「結構そういう面もあるぞ。特に女を見かけるとそうだ」
ロマリア、カザーブと行動を共にして聞いた、浮ついた台詞の数々、毎夜の遊び。フーガは渋面を作る。
キラナはにっこりと笑った。
「面白いんだね、サタルって」
「毎度口説き文句を聞かされる身としては、そんなに面白くないぞ」
「面白いよ。だって、仲間を連れていけっていうアリアハン王の言葉を無視して、一人で旅立っちゃったんでしょ?」
「ああ。本当は一人じゃなくて、友人の遊び人と二人だったんらしいけどな」
「遊び人?」
フーガは頷くと、つい先日まで共に旅をしていた遊び人──テングに思いを馳せた。
シャンパーニの塔で金の冠を取り返しロマリアに帰って来た直後に、奴はパーティーを離脱した。奴の知り合いらしい旅芸人の一座に出会い、共に来ないかと誘われたからだ。何でも一座のピエロが風邪で寝込んだらしく、一時的でいいから代わりになって欲しいというのである。奴はそれを二つ返事で承諾し、例の如く陽気に去っていった。
じゃーまたねー! と、別れ際にぶんぶんと手を振るテングの姿を思い出し、フーガは少し微笑ましい気持ちになる。一緒にいる時はただの変な奴としか思えなかったのに、いざ別れる時になってみると少し寂しく感じられたのが意外だった。短い期間ではあったが、共に旅をすることで情が湧いたのかもしれない。
また、会えるだろうか。フーガは自問し、会えるだろうなとすぐに自答した。捕らえ所のない風のような男だったから、こちらが予想もしないような時に再び現れるだろう。何故か、そんな気がする。
フーガがテングについて話すと、キラナはしきりに羨ましがった。
「いいなー! そんな面白い人なら、見てみたかったなあ」
「そこまで見てみたいもんか?」
「見てみたいよ。話聞いてると、何か頭の中がちょっとした小宇宙みたいな人じゃん!」
いいなーいいなーと繰り返す商人に、戦士は苦笑気味に言う。
「小宇宙なあ。満更間違ってない気もするけど、そこまで凄いもんだっ──」
「ちょっとみんな!」
だがその時、先を行っていた勇者の声が和やかな空気を引き裂いた。フーガもキラナも思わず身構える。
いつもは軽く明るい少年の声が、珍しく緊迫している。
「ちょっと、全員来てくれ!」
「どうした?」
「いいから早く!」
おかしい。そう思った二人は、声のする方へ向かって走り出した。幸い、迷うことなく彼の元へ辿り着いた。彼の傍には、自分達よりも先に着いていたらしい武闘家の姿がある。
「何だ、どうしたんだ?」
フーガが得物に手をやりながら訊ねると、サタルは注意深く前方を凝視しつつ、そちらを指差した。出された人差し指の色は、心なしか白い。
「あれ、どう思う?」
静かに問い掛けられ、フーガは指差された方向を目で辿り、絶句した。動けなくなった彼の隣にいたキラナが、同じものを認識して小さく声を上げる。
濃霧の中、人が立っていた。全てのものを人の目から覆い隠す白濁に身を置きながら、その農夫らしい男の痩躯は、やけにくっきりとフーガ達の瞳孔に映った。人は彼らを前にしても何も言わず、ひっそりと佇んでいる。
「何だろう、あれ」
「人間だろ?」
カノンが簡潔に答えるが、勇者がそんな答えを求めているのではないことは、答えた当人にも分かっていた。キラナが人を凝視しながら問う。
「罠かな?」
「魔物のか?」
「うん、近付いたら襲ってくるみたいな」
「こんにちはー」
小声で話すキラナとフーガに構わず、サタルが呼び掛けた。一同、息を潜めて男の様子を窺うも、返ってきたのは沈黙。
「返事がない。ただの屍のようだ」
「立ったまま死ねるもんか。ありゃ生きてる」
「いや、分からないよ? 案外立ったままでも死ねるかも」
呟くサタルにカノンは鼻を鳴らすと、ツカツカと男に歩み寄り始めた。他三人が慌てて制する。
「ちょっとちょっとちょっと!」
「おい待て!」
「かっ、カノン!?」
だが全く構うことなく男の真正面まで来た武闘家の少女は、下から男の顔を覗き込んだ。後ろにいる三人は、恐る恐る様子を見守る。パーティー内に、戦闘前の緊迫感が漂う。
「寝てるよ」
だが、カノンの冷静な一言だけが届く。メンバーは思わずぽかんと口を開ける。
「え?」
「だから、寝てる」
短く繰り返された台詞をきっかけに、商人がそろりそろりと近付いた。それに勇者と戦士が続く。男のもとに辿り着いた商人が、妹の横に並んで感嘆の声を上げた。
「本当だ」
寝ている。フーガは男を具に観察した。
短く刈り込まれた髪には所々白髪が混じっている。日に焼けた顔は俯き、体はやや前傾気味ではあるものの地に対して垂直に立っている。時折ふらふらと前後する足取りは思いの外しっかりしていて、転倒などしそうにもない。
顔を覗き込む。目は確かに閉じられている。特におかしな様子は見られない。それどころか、至って安らかな表情をしている。その様の安らいでいること、まるで疲れに疲れ切った人が、やっとながい休息を得ることが出来たかのようだった。
“ながい休息”。自分で思い浮かべた言葉に、戦士はぞっとした。
カノンが男の肩を叩く。反応はない。揺すぶってみても起きない。なのに倒れもしない。サタルが顔をしかめた。
「気味悪ぃな。何なんだ?」
「ただ寝てるだけじゃなさそうね」
ちゃんと生きてるみたいだし、と屈み込んで男の脈を取りながら、キラナが首を傾げる。と、その大きな瞳が戦士を見上げた。
「フーガ、こういうの見たり聞いたりしたことある?」
「ないな」
フーガは首を振った。
冒険者には酒場で自分の持つ情報を交換しあう習慣がある。自分の頭の回転や機転には自信はなかったが、記憶力にはいくらか自信があった。特に世界各地の情報については注意を払う癖がついており、どの町のどこでどんな話を聞いた、というようなことは大体覚えている。その記憶を片っ端から呼び起こしてみても、立ったまま眠る人については、全く聞いた覚えがないのだ。
「カノンは何か見当つく?」
サタルが尋ねて、カノンが無言で首を横に振る。だがそこで、あ、とキラナが顎に手を当てた。
「もしかしたら、魔法ってことない?」
「魔法?」
キラナが頷く。彼女の黒い瞳は真っ直ぐ眠る男を見つめている。
「あるでしょ? 眠りの呪文」
「ラリホーか」
戦士は手を顎にあてた。だが、あの催眠呪文にしては眠りが深すぎる気がする。それを口にすると、商人はだよねえと苦笑した。
「あたしもそうだなって思ったんだけど、他に思いつかないから」
「ねえ」
その時、サタルがいつになく真面目な声を出した。無表情になっている。
「霧、晴れたんだけど」
はっとした。見回すと、確かに先程まで辺りを乳白色で覆い尽くしていた霧が消えている。そして、代わりに見えたのは。
「村?」
キラナが呆然とした面持ちで立ち上がる。
そこには、木の小さな家々がぽつりぽつりと並んでいた。所々に針葉樹がそびえ立ち、畑や道の脇には雑多な草が蔓延っている。
突如姿を現した農村を言葉もなく見回していた冒険者達は、やがてあるものを見つけてそれぞれ表情を変えた。
「なあ、あれ」
最初に口を開いたサタルが指をさす。遠くに見える、岩を積み重ねて出来た壁──その近くに初老の男がいた。頭を俯けたまま、時折ふらふらと足を動かしている。
「あそこにも」
次いでキラナが指し示したのは、宿屋らしき建物の前に立つ女性。しかし彼女は僅かに首を右に傾けたままで、特に何をするようにも見られない。ただ時折、ぴくりと体が跳ねるだけだ。
それを横目で見たカノンはまた黒目がちの瞳を動かし、短く言葉を発する。
「あれ」
一同は、仲間の小柄な体の延長線上に人の姿を認めた。すぐ近くの民家に子供がいる。けれども彼から幼い子供特有の活発さを感じることはなく、ただ酔っ払いのような千鳥足を見るのみだった。
「あっちにもいるぞ」
最後にどこか投げやりにも感じられる口調で言ったフーガの、立てられた親指の向く方向に、上下左右に揺れる老人の姿を確認した一同は顔を見合わせた。お互いの顔に浮かぶ困惑と不安と、得体の知れない何かに対する嫌悪に似た色。
似た表情をしていた四人の中で、勇者がまず相好を崩した。
「ははは、凄ぇや。聞いた通りだ」
何がと言いたげな視線を向ける仲間達に対して、勇者は可笑しくて堪らないような何とも言えない笑顔を浮かべたまま、肩を竦めた。
「まんまだろ? これぞ眠れる村って奴なんじゃねえの?」
三人が夢から醒めたような顔をする。辺りを見回して、カクカクと不自然に歩きながら眠る人々を見やる。
キラナが呟いた。
「ここが、ノアニール……?」
眠る村。
まさにぴったり当てはまる。
「一体、どういうことなの?」
「村中見て回ってみないことには、ちょっと様子が分からないな」
フーガの一声で、一行はまた動き始めた。
村中を歩いて回る。だがどこに行ってもふらふらと歩く人間しかいなく、意識あって動く人間はいそうになかった。
「どうする? これ」
「どうしようもないだろう。これ見てみろ」
フーガは近くにある生け垣を指した。
「蔦が伸びっぱなしだ。つまりここの人達は、もう長いこと植木の手入れもできない状態にあるってことだろう」
「でもフーガ、あれ見て」
今度はサタルが空を指した。皆で空を見上げる。
「煙が上ってるよ。誰か意識のある人がいるんじゃないか?」
その通りだった。分かりづらいが、薄く煙が空に立ち上っている。
「確かに。あれは自然に上がった煙じゃなさそうだな」
「ちょっと行ってみようよ」
煙を辿って不気味な静けさ漂う家々を通り抜けると、町の外れにまだ回っていない家を一軒見つけた。煙突からは煙が上がっている。
家を恐る恐る見上げながら、キラナが口を開く。
「何か、変なものがいたらどうしよう」
「大丈夫だろう。この辺りの芝生は手入れされている。芝生を手入れする癖なんて、人間以外持ってない」
辺りを見回してフーガが答えた。
それを聞き届けたサタルが一歩前に踏み出て扉の前に手を出し、一同に目線で問い掛けた。全員が頷く。サタルが扉に向き直り、声を張り上げた。
「ごめんくださーい」
数拍の沈黙。やはり誰もいなかったかと思いかけた時、扉は開いた。
中から出てきたのは、初老過ぎの男性だった。彼は扉の外にいる一行を見るなり、目を見開いた。
「おお、貴方がたは。外から来られたのかな?」
「はい、旅人です」
「どうしてこのような何もない場所に」
「それは」
そこでサタルの横にキラナが進み出た。シャンと胸を張り、男性の目を見つめる。
「私は商人ギルドから派遣されて参りました、キラナと申します。二ヶ月程前、あるエルフの秘宝の探索のため、当方の商人がこの地方に訪れたと思うのですが、何かご存知ありませんか? その商人を探して、その後救助隊も来たと思うのですが……」
キラナの台詞の途中で、男性の顔がサッと青ざめた。わななきながら口を開く。
「それは、もしかして、夢見るルビーのことではありませんか?」
「はい」
男性は俯いて、扉を大きく開けた。
「お入り下さい。立ち話で済ませるには、長い話になります」
四人は食卓とおぼしき机に座らされた。男性も彼等が座った後に同じく卓に腰掛ける。
「確かに貴方が仰るように、商人ギルドの方が何名かいらっしゃいました。ですが、申し上げにくいのですが、皆さんお帰りにならなかった」
キラナが膝の上で拳を握り締めた。男性は続ける。
「夢見るルビーは、確かに皆さんが聞いてこられた噂通り、ここから西にある洞窟にあると思われます。これは間違いありません。ですけれども、危険です。探しに行くのはお止しなさい」
あの宝は、少々厄介なことが原因で持ち出されたものですから。男性のそんな小さな呟き。漏らさず拾ったのは、サタルだった。
「どういうことですか?」
「そのままの意味です」
男性は何かを思い出すかのように目を上にやった。虚空に目を止めて数秒、彼はその厄介な原因を語り始めた。
「今から十数年前のことです。この村のある若者が、エルフの乙女と恋に落ちました。彼等は深く愛し合い、結婚しようとしました。ですが、どちらの両親からも反対を受け、彼等は駆け落ちしました」
男性は目をサタル達に戻し、悲しげな顔をした。
「普通なら、それだけで終わったことでしょう。しかし厄介なことに、若者が恋したエルフは、エルフの姫君だったのです。彼女は結婚を認めてもらえないならと、エルフの宝である夢見るルビーを持ち出し、そのまま姿を眩ましてしまった」
男性は溜め息を吐いた。
「エルフの女王はそれを知って烈火の如く怒りました。そして、この村に呪いをかけたのです。長い眠りの呪いを」
呪いにかかっていないのは村長である私と、駆け落ちした男の父親しかいません。そう言って彼は手で顔を覆った。
「なるほど、エルフの呪いか」
フーガは唸った。それならば納得がいく。人間より強い魔力を持つ異種族の、しかも長ならばこれくらいできて当たり前だろう。
そこで、これまで黙っていたカノンが言葉を発した。
「秘宝を持ち出したのは自分の種族、しかも娘じゃないか。何故それで、この村が呪いをかけられなければならないのさ?」
「我々が駈け落ちした二人を匿っていると思っているんでしょうな。またはジャン――駆け落ちした若者の名です――さえいなければという腹いせか。分かりませぬ」
村長は顔を上げ、首を振った。目の下に隈ができている。
「呪いがかけられてからというもの、毎日ジャンの父親がエルフの女王のもとへ謝罪しに行っているのですが、聞く耳も持ってくれない。彼女は人を信じてくれなんだ」
だから、第三者に夢見るルビーをエルフに渡してもらえないかと思ったのです。村長は遠い目をした。
「言葉で通じないなら、もう夢見るルビーを返すしか、村の呪いを解く術はない。ジャンは西の洞窟に行くと、私に言って行きました。なら夢見るルビーもそこにある。だけどあそこの魔物は強くて私にはどうにも太刀打ちできそうにないし、多分村の者が返したのでは、女王はまたあらぬ疑いを抱いて村の呪いを解いてはくれないでしょう。だから、あのギルドから来た商人さんがいらした時に事情をお話ししたのです」
「商人さんは快く引き受けて下さった。ですが洞窟に向かった後、ノアニールに帰ってくることも、エルフの里を訪れることもなかった。救助隊の皆さんもお帰りにならなかった」
村長はキラナに深々と頭を下げた。
「申し訳ありません、私がそんなことを頼んでしまったばかりに」
「いえ、お気になさらないで下さい。彼等は例え村長さんに頼まれなくても、洞窟に行ったでしょう。同じことです」
キラナは柔らかに首を振った。そして神妙に話を聞いていた一行に尋ねる。
「どうする? 思ったより何かヤバそうだけど」
「決まってんじゃん。ここまで来たんだし、行くよ」
「着いてくるなと言われても行く」
サタルがいつも通りの調子で答えた。次いでカノンもきっぱりと言う。そして二人とも間に座っている彼を見つめた。
「分かってる分かってる、お前らだけ行かせてたまるか」
俺も行くとフーガが最後に言って、パーティーの総意は決まった。
***
一行は村長の話を聞いた後、すぐに村を出た。教えてもらった通り、西の洞窟を目指す。洞窟は意外と近い場所にあり、日が沈む前に辿り着けた。
洞窟に入ると、皆ぎょっとして身構えた。何故なら、どこからともなく不気味な音が聞こえてきたのである。
おおぉん……
おおぉん……
「何だ、これ」
「風の音だろう。どこか隙間から入ってきた風が反響してるんだ」
「気味悪いね」
泣いているみたい。キラナは呟き、自分の身を抱き締めた。
洞窟の壁には、一定の距離を置きながら灯りが点してあり、松明を使わなくとも周りが見えるようになっている。空気は湿っていて、地下水が湧き出ているようでもあった。
「それにしても、夢見るルビーってのはどんなものなんだろうな」
フーガが辺りを警戒しながら、一同に問い掛けた。
洞窟の中を隈無く探しているが、今のところ件の宝石らしきものは見当たらない。そして、駆け落ちした二人の姿も。
もっと奥にいるのだろうか。
「聞いた話によると、透き通るような紅色で、宝石を覗き込んだ者があまりに強い魔力に負け、魂が引き込まれてしまったこともあるって」
「魂が引き込まれる? 本当に言葉通り、魂が吸い込まれるってことかなあ?」
「さあねぇ。何百年前から伝わる、伝説上の代物だもの。詳細を知っている人にお目にかかったことはないね」
キラナとサタルが平静と変わらぬ様子で会話する。だがその手は、決して己の武器を離そうとはしなかった。
今現在に到るまで、まだこれと言って強い魔物は出現していない。至っていつも通りだ。
だが四人は警戒を緩めることができなかった。なにせこの洞窟のどこかに強い魔力を秘めたエルフの秘宝があるのだ。
魔力とは恐ろしい。上手く使いこなせれば強力な味方となってくれるが、失敗すれば自身にどんな影響が出るか分からない。特に、今探しているのはエルフの秘宝である。人智を超えた存在だ。
下手したら、気付かないうちにその影響下に入ってしまっているかもしれない。そして、先に来た商人達同様、帰れなくなるかもしれない。
そう思うと、気が抜けなかった。
「駆け落ちしたって人達は、魔物と戦えたんだな。こんな奥の方まで来れるんだから」
「それなんだが、どうしてあの村長は駆け落ちした二人がここにいるって知ってるんだ? 普通行き先なんて教えないだろう」
「それはね、村長さんが駆け落ちした若者――ジャンと親しかったかららしいよ。ジャンが小さい頃から家族同然の付き合いをしてたんだって」
「ああ」
村長に聞いた話によると、駆け落ちする直前に思い詰めた様子でジャンがやって来て、挨拶していったのだという。
これから二人で村を出る、父と母をよろしくと。
その時に、行き先も語っていったのだそうだ。
「村長さんのことを、親同然に慕ってたらしいね。村長さん自身はそこまで二人が愛し合ってるならって特にその時止めなかったらしいけど、その時はまさか、エルフの秘宝を持ち出してるなんて知らなかったらしいからね。知ってたら、秘宝だけは返していけって説得しただろうって言ってた」
「そりゃ誰も想像しないよな」
「何かおかしいね」
サタルとフーガのやり取りを聞いていたカノンが、ふと眉をしかめた。キラナが双子の妹に尋ねる。
「何が?」
「駆け落ちっていうのは、これまでいた場所からはすっぱり縁を切るためにやるものだろ? 周りには反対されてるんだ。逃げた先で見付かっちゃったら、まずいじゃないか。なのに、何でわざわざ周りの誰かしらが追ってくるようなことをしたの?」
他の三人ははっとした。
いくら信頼している相手でも、行き先を告げてしまったら追手が出る可能性がある。ましてやエルフの秘宝など奪ってきてしまったら、尚更追手が出るに違いない。
しかもよくよく考えてみれば、この場所は駆け落ちした両者の故郷から近すぎる。エルフの隠れ里からは、ノアニールよりも近いと村長から聞いた。
こんなに近かったら、すぐに捕まってしまうだろうに。
「何で駆け落ちしたんだ?」
「待て待て。そう考えてみると更におかしい」
呟いたフーガと、頭を押さえるサタル。後者が続ける。
「これだけ近くて場所も特定できてるのに、何でエルフ側から追手が出てないんだ?」
「魔物を倒せそうにないから?」
「確かに村の人間はそうかもしれないけど、エルフなら問題ないだろ」
「村長さんしか居場所を知らないんじゃないの?」
「ジャンの父親が毎日エルフの所に謝りに行っているところを見ると、そうなのかもしれない。だけどエルフはどうかな? いくら人間の話は信じないし秘境に住んでいるとは言っても、夢見るルビーが西の洞窟にって噂くらい、どうにか掴んでると思うんだけど。で、そんな話聞いたら、一度は行ってみると思うんだけどなあ。しかも失踪してんのは、王族の娘さんなわけだし」
確かにそうだ。
この話、何かがおかしい。四人の中で今、その思いが固まった。
「油断せずに行くぞ」
フーガが言って、三人が同時に頷いた。
やがて、大きな水音が聞こえてきた。その音を頼りに階段を下りると、体感温度が一気に下がった気がした。
周りは水に囲まれていた。どうやらここは、地底湖の畔なのらしい。遠くに滝が見える。
一行が辺りを観察していた時、キラナが声をあげた。
「デニス?」
その声につられて皆、キラナのいる曲がり角の先を覗き混む。そこには、俯いて立ち尽くしている青年の姿があった。キラナが彼に向かって叫ぶ。
「デニス、デニスなの?」
青年は黙したままである。キラナが振り返り一行に囁いた。
「彼が例の、一番初めに夢見るルビーを探しに出たギルドの一員よ。でも、様子がおかしいわね」
彼、耳が聞こえないわけでもないのに。心配そうなキラナの目に新たな色が加わった。チラチラと横切るそれは、警戒だ。
そろそろと四人は彼に近付く。あと五歩で彼に辿り着く程度の距離で一度止まると、キラナがまた呼び掛けた。
「デニス、デニスよね? 何をしてるの? 救助隊の皆は?」
しかし彼は振り返るどころかぴくりとも動かない。やはりおかしい。四人全員が、各自の武器を握りしめた。
キラナを先頭に更に慎重に近寄り、遂に動かぬ彼に辿り着いた。彼の顔を覗きこんだキラナがはっと息を呑んで、その視線を辿り、動きを止める。
「キラナ?」
数拍置いてカノンが、彼女の後ろから商人達の視線をなぞる。そして、同様に動きを止めた。
サタルとフーガはお互い顔を見合わせた。
「なになに、どうしたの?」
わざと軽い口調でサタルは姉妹が見ているものを、フーガはデニスというらしい商人の顔を見て――ぎょっとした。
デニスの顔はげっそりと窶れていた。肌は土気色、頬は痩けて無精髭が生えており、生気が感じられない。まるで死者のようだ。死者と思えないのは、彼の目だけがギラギラと強い生気を発しているからである。
何だと思う間もなく、更に目をデニスの横に移して、驚愕した。キラナとカノンの姉妹も同じ目をしていたのである。顔こそ痩けていないものの、表情から全く生気が感じられない。
――何だこれは。
フーガの頭は自然にその原因を探そうとした。異様な生気のこもった三つの目線は一様に下を向いている。なら原因はその先にあるものか。それを見た途端にこうなったのか。
フーガの目がそちらに向かう。だが彼は思い至らなかった。
三人が「それ」を見た結果こうなっているのなら、自分も「それ」を見たら同様になるのではないかということに。
しかし、気付いた時には遅かった。
「それ」は赤い宝石だった。大きさは握り拳一個分ほど。テーブルの上にある小さな宝箱の中に置かれている。鮮血に似た赤と上級のワインを彷彿させる紅が、見ているこちらが息をすることを忘れてしまいそうなくらいに激しく、だが静かに乱れ合っている。石の中は透き通った赤い海のようで、覗き混めば奥底まで見通せそうな気がした。それでいながら、この赤い透明な海の中には、星の煌めきが見られるのである。きらきら、きらきらと瞬いていて、一瞬たりとも目を離したくないと感じた。
美しい。そう一言で表すには言葉が足りないほどの美しさを持つ宝石だった。
フーガはしばし、石に見とれていた。何も考えられない。ただこの美しい赤の世界に浸っていたい。なんて綺麗なんだろう。美しく穏やかで、どことなく温かみさえ感じる。きっと、この中は居心地が良いに違いない。
――この中に、入ってしまいたい。
ふと、強くそう思った。この赤い世界に入りたい。穏やかな紅の波の中に溶け込んで、ただたゆたっていたい。何も考えたくない。楽になりたい。この赤い世界の住民になりたい。そうしたらきっと、昔のように退屈だけど心地好い日々が送れる。
…………。
……昔?
フーガは我に返った。動悸が激しくなっている。自分の荒い呼吸が、耳に届く。
今のは何だったんだ? 宝石の中に入る? 無理じゃないか。
戸惑いながらもう一度赤い宝石に目をやって、戦士はまた「入りたい」衝動に駆られるのを感じた。それで、気付いた。
この宝石は、目から魂を吸いとるのだ。だからデニスもキラナもカノンも、生気のない顔をしていた。
このままだと全員廃人になってしまう。フーガは宝石箱を閉じようとした。だがどういうわけか、体が動かない。宝石がフーガを邪魔しているのか。分からないが、簡単に諦めるわけにはいかない。
そうこうしているうちにも、「入りたい」衝動は幾度もフーガを襲う。それでも踏ん張っていると、少し体が動くようになってきた。右手を宝石箱に向かって伸ばす。頼む、届いてくれ。届かないと大変なことになる。
人差し指が箱に届いた。途端に意識が遠のく。ああ宝石の中に入ってしまいたい。いや入りたくない。赤と同化してしまいたい。いやしない、してはいけない。あの頃に戻れるかも。いや駄目だ。
視界が歪む。あと少しあと少し、もう駄目か――戦士が諦めかけた時。
宝箱は、音もなく閉じられた。
「皆、大丈夫?」
箱の上に右手を置いた状態のまま、サタルが問いかけた。問いかけとほぼ同時にデニスが倒れ、愕然としていたキラナが慌ててその傍にしゃがみこんだ。その様子を横目で見ながら、フーガは膝から崩れ落ちた。
「フーガ!?」
「大丈夫だ、ちょっと疲れただけで」
心臓が生を主張するかのように跳ね狂っている。何だったんだ。
「今のが、夢見るルビー?」
「多分。と言うか、間違いなくそうだと思うよ」
珍しく惚けたような顔付きで、カノンが問う。反対にその問いに答えたサタルは、しっかとルビーの入った箱を見据えている。
「夢見るルビーは伝説の通り、見た者を虜にする魔力を持っているんだ。虜になった者は宝石に魅入っている間に、魂ごと石に取り込まれてしまう。そうしてきっと、この石は美しさと魔力を保っているんだろうね」
とにかくこの魔力はヤバすぎる、とサタルは宝箱を荷物袋の中にそっとしまい込んだ。
「ん?」
「どうした?」
「箱の下に何かついてた」
サタルが手に取ったのは折り畳まれた一枚の紙だった。それを開いた彼は、息を飲んだ。
「これは、エルフの王女の手紙だ」
一同の視線が勇者に集まる。澄んだ青い瞳が紙に記された文字を追い、徐々に翳りを帯びていった。
「お母様。先立つ不幸をお赦し下さい。わたしたちはエルフと人間。この世で許されぬ愛なら……せめて、天国で一緒になります……アン」
よく通る声が手紙を読み終わると、洞窟に沈黙が訪れた。キラナがぽつりと言う。
「アン王女は、最初から死ぬ気だったのね」
「いや、違うよ」
全員がカノンの方を振り返った。少女は地面を見つめている。
「さっき、夢見るルビーに取り込まれそうになっていた時に幻が見えたんだ。エルフの女と人間の男がいた……あの二人は、死ぬつもりなんてなかった。宝石を返すことを条件に、結婚を認めてもらおうとしていたんだ。だけど宝石の力が予想以上に強くて」
カノンの声が僅かに震えて途切れた。案じるような視線が彼女に集まるも、少し経ってまた話し始めた。
「取り込まれるのも時間の問題だった。だから二人は、宝石に囚われて永久にさ迷うだけならと、あの世で幸せになる方を選んだ」
王女は死の呪文が使えたんだよ。そう言って頭を上げた彼女は、もういつもの彼女だった。
フーガが唸る。
「なるほど、そういうことか」
「でもそれは本当に駆け落ちした二人なの? 宝石の見せた、ありもしない幻ってことは」
「いや、きっと本物の二人だろう。カノンが見たのは残留思念なんじゃないかと、俺は思う」
「残留思念?」
「死んだ人間が抱いていた強い気持ちがその場に残ることだ。普段は目に見えないが、何らかの拍子に見えることがある。昔旅先でそういった例をいくつか聞いたことがある。カノンが見たのも、おそらくこれだろう」
「ジャンと王女は、一緒に生きたかった。そういうことか」
フーガとキラナの話を聞いて、カノンがぽつりと呟いた。その一言で、場がしんと静まり返る。
「宝石をエルフに返しに行こう」
静寂を破ったのはサタルだった。甘い顔立ちは引き締まり、凛々しく見える。
「これは人間が持ったらいけないものだ。もしこれが世の中に出回ったら、これ以上の悲劇が起きる」
「そうだな。キラナ、その商人は大丈夫か?」
「うん、大分衰弱してるけど、いますぐ命を取られるほどじゃない」
「じゃあ手分けしよう。キラナはそいつを連れて、先にノアニールに戻っていてくれ。俺はエルフの所に行く」
「俺も行くよ」
「ならサタルは、俺と一緒にエルフの所へ。カノンはキラナについていってくれるか? 人を一人庇っている状態じゃあ、魔物が出た時戦いづらい」
「分かった」
方針が定まった四人は、洞窟を出ることにした。サタルが先頭を行き、姉妹と弱った商人を真ん中に挟み、フーガが殿を務める。背後に前に気を配りながら進んでいくと、やがてあの風の音が聞こえてきた。
泣いているみたい、か。フーガは耳を澄ませる。そのように聞こえないこともなかった。
洞窟を抜けると、四人は打ち合わせ通り、二手に分かれた。フーガとサタルは、村長から聞いた話をもとに、エルフの隠れ里を目指す。エルフの隠れ里は、他種族から見つからないように入り口を魔法で巧妙に隠してあった。
入り口を潜った先には、巨大な木々が群生していた。その表面には窓とおぼしき穴が空いており、そこから人とは違う細面がいくつか覗いた。
「凄いな、木を家にしているのか」
サタルは感嘆の言葉を漏らす。近くから小さな悲鳴が聞こえた。
音源は、小さな少女だった。細い顔の中の瞳はこぼれ落ちんばかりに開かれており、その示す色合いが芳しいものではないことは明らかだった。
それでも勇者は彼女に微笑んでみせ、声をかけた。しかし少女は何事か叫んで逃げていってしまった。
「ああ、嫌われちゃった」
「ちょっと違うだろ」
「そうだな」
二人は苦笑しあった。それから、エルフの女王を探して歩き始めた。
森を練り歩く異種族を、冷たい視線が出迎える。エルフたちは遠目に彼らを見ているのみで、決して近づこうとはしてこなかった。中には、彼らの姿を認めた途端、建物に隠れてしまう者も いた。
自分達が彼らにとって、いかに招かれざる者であるか。それをひしひしと感じた。
「あ。フーガ、あれ」
サタルが前方を指差した。そこには、一際大きい枯れた木の幹をくり貫いた、立派な建物があった。その中に、すらりとしたエルフとは違う小さな影を見る。
「お願いです、村の皆をもとに戻して下され! お願いです……!」
嗄れた声が、悲痛に耳を裂く。だがそれに答える声はない。エルフたちは沈黙している。
フーガたちは枯れ木の宮へ足を踏み入れた。エルフ達の前に、柳より細い老人が伏している。二人が歩み寄ると、先程にも増して胡乱な視線が彼らを刺す。
「何者です? ここがどこか分かっているのですか」
寒々とした声が投げかけられた。立ち並ぶエルフ達の中央、一際優雅なドレスを身に纏った女が二人を見下ろす。女王に違いない。サタルとフーガは地に伏す老人を越して、エルフ式の礼を取ってひざまづく。
「突然の訪問をお許し願いたい。私どもはこの辺りを通りかかった旅人です」
フーガはサタルに目配せした。サタルが背負った荷から、慎重に小さな宝箱を取り出した。その途端、謁見の間の空気が変わったのを感じた。
フーガは女王を上目に窺って、また目を地に落とした。
「さきほど、ノアニール西の洞窟にて、こちらの宝石を拾いました。これは貴殿方の宝、夢見るルビーではないかと」
サタルが彼女らに見えるよう、小箱を掲げて開いた。途端、エルフ達の目に異様な輝きが灯った。
その中を、女王の鋭い声が飛んだ。
「小箱を閉じなさい!」
サタルは従った。すると、一同の目の輝きが戻った。
エルフでも惑わされるほどの魔力ということか。フーガは宝石の力を思って、恐ろしい心地がした。
「なるほど、確かにそれは我々の宝です」
女王は一息吐いた。大理石の芸術と称したくなる顔は変わらず、冷淡なままである。
「ご苦労でした。それをこちらに寄越しなさい」
「待ってくだされ!」
嗄れた声が耳に届いた。振り返ると、老人が枯れ枝のような手を伸ばしていた。
「それが夢見るルビーだと言うなら、ジャンは、儂の息子は……っ」
「ご老体」
痛々しく震える老人に、フーガは首を振った。
「貴方の息子さんは、私達が訪れるずっと前に亡くなったようです」
濁った目が見開き、乾いた唇が戦慄く。細い首ががくりと折れた。
フーガは女王に向き直った。
「それと貴女のご息女、アン王女もです」
ざわめきが広間に広がった。女王は顔つきを変えなかったが、薔薇の唇から漏れた声は震えていた。
「嘘です」
「本当のことです」
サタルは手紙を取り出した。
「アン王女直筆と思われる手紙が、ルビーと一緒にありました。お読みになりますか?」
女王がサタルを招いた。彼は静かに進み出る。差し出された手紙を、彼女の白魚の指が摘まんだ。
女王は手紙を開く。 目が字を追うにつれ、もとから白い顔が血の気を失って青くなる。
足元にひざまづくサタルに、女王が目を向けた。そこには拒絶の色が見えた。
「これはアンの字……ですが、本当に彼女が、自らの意思で書いたものなのですか?」
「彼女の死んだ時のことは、私たちも直接見ていませんから分かりません」
フーガが答えた。一方で、サタルが彼女を見上げた。
「恐れながら、陛下は我々を疑ってらっしゃいますか」
女王は答えなかった。肯定ということだろう。
サタルが口を開いた。
「私の記憶をご覧になりますか?」
エルフたちはぎょっとしたようだった。
記憶を見る、だと? 何を言っているのだろうか。言うことの意味がわからないフーガをよそに、サタルは女王から目を逸らさない。
「エルフには他人の見た記憶、思い出を見る魔術が伝わると聞きます。私は洞窟でルビーを発見した時、アン王女とジャンが亡くなった時の幻を見ました。それを見れば、聡明でいらっしゃる女王陛下のこと、真偽のほどがお分かりになるのではないかと」
女王の薄い赤の瞳がサタルを凝視する。
「どこで術のことを聞いたのです」
「風の噂です」
彼は微笑んだ。女王はしばし考える素振りを見せた。
「分かりました。見せてもらいましょう。ただし、この呪のことは誰にも言ってはなりませんよ」
立ちなさいと命じられ、サタルは従った。繊手が伸び、その顎を捕らえて上を向かせる。青と赤の視線が交わり、女王の唇が何事か紡ぎ始めた。エルフたちは長を見守っている。
「……ッ!」
それから数拍の後、突如女王の手が弾かれたように引っ込んだ。エルフ達が身を乗り出す。フーガは彼女の顔を見て、驚いた。
そこには明らかな驚愕と悲しみ、そして恐れがあったのだ。
「貴方は……っ」
女王は伸ばしていた手を擦り、息を深く吸い込んだ。ゆっくり吐き出して、信じられないものを見るような目を、前に佇む少年に向けた。
「貴方は、どうして生きていられるのです?」
急に何を言っているのか。
対するサタルの顔は、戦士からは窺えない。ただ平素と変わらぬ声が答えた。
「私のことですか? さあ、両親のお陰ではないでしょうか?」
「そういう問題ではありません! こんな、あまりにも」
続く女王の声は小さくて聞き取れなかった。
「それより、幻は見えましたか?」
「ええ」
サタルが問いかけると、彼女の顔に浮かぶ悲しみが増した。女王は顔を覆う。
「幻の光景から、アンの魔力を感じました。あの子はきっと、私がこうすることを分かっていたのでしょう。本当に、アンは死んだのですね……」
女王は顔を上げた。
「皆、広間から出て下さい。私はこの者たちと話があります」
エルフたちは大人しく従った。広々とした空間に、女王、サタル、フーガ、そして老人の四人きりが残された。
「村の呪いを解きましょう」
老人――ジャンの父親は顔を跳ね上げた。女王は続ける。
「こうなっては、こんなことをしていても意味がありません。疑ったりして、申し訳ありませんでした」
いきなり高圧的でなくなったエルフは、何だか萎れて見えた。
「ギルドの商人たちも返しましょう。……ええ、そうです。あの救助隊とかいう者たちは、ここへやってきました。ですが、この里の位置を教えてしまってはまずいと、記憶をいじって拘束してあります。里の存在を消しただけですから、何も問題ないでしょう」
女王は再び、彫刻のような顔を覆った。
「ですが、貴方たちは忘れないで下さい。エルフの力と、今回の話を。このようなことは、もう二度と繰り返されてはなりません」
フーガは頷いた。サタルも首を縦に振る。
エルフの長は、静かに独白を続けた。
「女王として……異種族婚など認めるわけにはいかなかった。それでも、どこかで幸せにやっているならと、いつか帰ってくるのではないかと待っていたのに……」
女王の覆われた手のひらから、一粒の真珠が零れ落ちた。その身を玉座に投げ出した彼女は、顔を晒さぬまま、ただこう叫んだ。
「おおアンよ、ママを許しておくれ!」
***
それからノアニールに戻り、女王からもらったアイテムを使用すると村の人々は目を開けた。彼らは自分が長いこと眠っていたことも、時が過ぎ去っていたことにも気付いていなかった。しかし真実を知る村長とジャンの父親は、何も言わないことにしたようだったので、フーガ達も黙することにした。
商人ギルドの人々も、夢見るルビーを探しに来たこと以外、何も覚えていなかった。キラナは、西の洞窟に行って特殊な魔物に襲われ、記憶を失ったのだと説明した。彼らは信じたようだった。
「あとは二グループに分かれて、片方はギルドに報告に、もう片方はデニスがもう少し回復するのを待ってから、後を追うことにしたわ」
フーガ達の見送りに来たキラナはそう言って、頭を下げた。
「本当にありがとう。おかげで仲間を助けられたよ」
「いや、これくらい当然さ」
サタルはにこやかに返した。
フーガたちは、エルフの里から帰ってきてから三日後の今日、旅立つことにした。村で聞き込みをした結果、次の目的地が定まったためである。
「アッサラームは随分気候が違うところだから、体調には気を付けて。あと、何か困ったことがあったら、商人ギルドの商人を探してちょうだい。私の名前を出せば、良くしてくれると思うよ」
「ありがとう」
次は遥か南のアッサラームに向かうことになった。ノアニールの宿に泊まっていた客から、以前魔王討伐の旅の最中であったオルテガが、魔法の鍵を求めてアッサラームに向かったという話を聞いたのだ。
魔法の鍵は、世界のどこで使える便利な代物である。バラモスへ至る旅路で要るかもしれない。
キラナは商人ギルドの仲間に同行するため、ここで別れることになった。
「短い間だったけど楽しかった。また良かったら、一緒に冒険しましょ?」
「ああ、是非。君とはこれだけの関係じゃないような気がするからね。今度はもうちょっとゆっくり、君のことを色々知りたいな」
「あら」
キラナは笑った。フーガは笑い、カノンは鼻を鳴らす。
「じゃあ、元気でね」
「うん」
姉妹の会話を最後に、四人は別れた。自分達を見送るキラナを後ろに見ながら、三人は改めてノアニールでの体験を振り返る。
「かなり特異な話だったよな」
「ああ。珍しい」
フーガは回顧して、ふと疑問に思ったことを口に出した。
「なあ、二人とも夢見るルビーに幻を見せられた時、アン王女とジャンの死に際が見えたのか?」
「うん」
「そうだよ」
カノンとサタルは肯定した。勇者が逆に問い返す。
「フーガには見えなかったの?」
「ああ」
自分にはもっと違うものが見えた。サタルはカノンに話しかけている。
「キラナも一瞬見えたみたいだけど、全部は見えなかったらしいね。何でなんだろうなぁ」
「さあ。個人差があるんじゃない?」
カノンはそっけなく返した。少年は唇を尖らせる。
「カノンちゃん冷たいなー。俺と君だけ見えたとか、不謹慎かもしれないけどロマンチックだと思わない? あ。もしかして俺たち、赤い糸で結ばれてるんじゃ」
「そんなもんあったら引きちぎる」
「間髪入れず言うなよ!」
フーガは声をたてて笑った。よくそんなに冗談が出てくるものだ。
それでまた一つ思い出した。
「サタル、よくエルフの魔術なんて知ってたな。あれを言わなかったら、絶対にあの女王は信じてくれなかったぞ」
「ああ、あれね」
サタルはフーガに顔を向けた。澄んだ瞳に、戦士の長身が映る。
「前に誰かが言ってたんだ。覚えててよかったよ」
「本当にな」
フーガは女王のことを思い返す。愛娘の死に、心を乱していた彼女。しかしその前に、サタルの記憶を見た時のことが彼の心に引っ掛かっていた。
――何故、貴方は生きていられるのです?
それこそ何故、女王はあんなことを言ったのだろう。あの表情。驚愕と悲哀は分かる。しかし、何故恐れた? しかもただの恐れではなく、あれは畏怖にも近いように見えた。
サタルの記憶の中には、娘の死以外にも、何か衝撃となることがあったのだ。それが何なのか、見当なんてつきそうにないが。
サタルはカノンにじゃれている。楽しそうに笑う彼を、フーガは無言で見つめた。
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