太陽が燃えさかる身を海へと沈めながら、その真っ直ぐな軌跡を海の上に描いている。もしもあの上を歩いて道を辿っていく事ができたなら、いつか太陽に行き着けるのだろうか。そんなことをカノンに言ってみたら、つれない彼女は「行けば?」としか返してくれなかった。それでサタルは一人、センチメンタルに夕日を眺めている。
 随分前に、世話になったムオルの村もスーの村もアープの塔も、水平線の向こうに見送った。今はポルトガを南下し、テドンの村を目指している。いや、正確にはテドンの村の跡と言った方が正しいのかもしれない。
 テドンは十六年前に魔王軍の襲撃を受けて滅ぼされた。テドンだけではない。テドンのあるネクロゴンド地方は、今では魔物の巣窟と化しているものの、その昔はアリアハンと肩を並べる強大な軍事国家があったのだ。ネクロゴンドはその国の名で、今でもその国の領域はネクロゴンド地方と呼ばれているのである。
 ネクロゴンド王国は魔王の存在が世に知られ始めた頃、最も魔王に反抗した国であった。何度も戦いを繰り返し、魔王軍を退けてきたのだという。ところがそんな王国が十六年前のある日、たった一日で魔王軍に滅ぼされてしまった。一体その日、何が起こったのかは定かではない。しかしその日以来全世界の魔王への認識はがらりと変わり、バラモスの名に恐怖を覚えるようになった。それ以来、魔王軍はもとネクロゴンド城を拠点として世界に侵略の魔の手をじわじわと伸ばしているのである。
 サタルの父オルテガが旅立ったのも、このネクロゴンド滅亡の件があったからだった。もと世界帝国アリアハンとしては、この世界の危機に魔王討伐の手を打たないわけにはいかない。しかし下手な事をしては、ネクロゴンドの二の舞になってしまう。そこで、オルテガを魔王への刺客として送り出したのだ。オルテガはただの人間とは思えないほど強靱な肉体の持ち主で、その力は一個大隊を凌駕するほどであったという。その彼を一人送り出せば、自国の軍を魔王軍に割くことないまま魔王の命を狙う事もできる。彼は魔王討伐にうってつけの人物だったのである。
 それに比べて。サタルは夕日を眺めながら自身を顧みる。肉体も剣の腕もオルテガには到底及ばない。性格も実直で誠実だった彼とは正反対な、軟派で口先だけが上手いほら吹き。彼より勝っているのはこの忌まわしい体質だけ。橙に照らされた秀麗な顔立ちが皮肉げに歪む。自分はつくづく勇者の称号に相応しくない。だが同時に、この世に自分ほど勇者に適した者はいないだろう。神は粋な計らいをされたものだ。
 サタルは手の中にあるものを日にかざした。素朴なオカリナである。しかしこれは山彦の笛と言って、オーブがある所では音色が山彦したように何重にも聞こえるのだという。彼らがムオルからスーへと渡り、アープの塔へと足を運んだのはこの笛を手に入れるためだった。
 本当にオーブのある場所では山彦するのだろうか。サタルはこれまで何度か至る所でこの笛を吹いてみたが、山彦したことはなかった。恐らくその場所にオーブがなかったからなのだろうが、これでもしこの笛の伝承が眉唾だったらえらいことである。しかし仮に眉唾だったとしても、それを手がかりの一つとしたいくらい一行にはオーブの手がかりがなかった。
 いや、手がかりはもう一つある。テドンの村だ。一行は、テドンの村にオーブを持つ男が行ったという噂を耳にしたのである。それはテドンが滅びる前のことであったらしいから、今もそこにあるかどうかは確かではない。だがやはり、行ってみないわけにはいかなかった。
 サタルは笛を唇に当てる。そっと息を通すと、柔らかな土の音が響いた。温もりのある音色である。仮にこれがガセだったとしても、音はいいからもらっておいて良かったかもしれない。サタルはしばらく笛の音色に耳を澄ませていたが、やがてはっと息を呑んだ。潮騒に紛れて明瞭には聞こえなかったが、一瞬笛の音が微かに山彦したような気がしたのだ。そしてその山彦は、海の声より遠くから聞こえたように感じられた。
 サタルは夕日から海の上に黒々と横たわる大陸へと目を移す。太陽のせいで目が赤く霞んで最初はよく見えなかったが、次第に目が慣れてくると大陸に自然のものではない明かりが見えた。
 すぐに甲板を駆け抜け操縦室へと向かう。今舵を取っているのはフーガだった。扉を開け放つと、海図に目を落としていた彼が驚いてこちらを見た。
「フーガ、今一瞬笛が山彦したんだ! 陸にさっきまでなかった明かりが見えるし、何かあるのかもしれない」
「陸に明かりが見える?」
 フーガは海図を片手に外へ出た。サタルも後に続く。先程の光が見える場所まで来ると、サタルは指さして見せた。
「ほら、あそこ」
 フーガは潮風に吹かれる海図を無理矢理広げて、目の前の光景と照らし合わせる。

目が何度も陸と海図を行き来して、回数を重ねる事にその顔が険しくなっていった。
「どういうことだ……」
 呟きに並ならぬ感情を感じ取ったサタルは、大陸の光から仲間の顔に目を据える。一重の瞳は見開かれ、顔の筋が強張っている。呼吸も常より心なしか浅そうだ。
 これはただ事ではない可能性があるらしい。サタルはそれを察して、次にここ数日の彼の様子を思い出した。思えばテドンにオーブがあるという噂を聞いてから、彼の様子が少し変わった。とは言っても大きな違いはない。彼はいつも通り綿密にテドンへの道程について計画し、指揮を取っていた。表向きはほとんど平常通り、変わりなんてなかった。だが部屋に戻ると、黙っている時間が少し増えて彼の方から会話を始めることが少なくなった。加えて、部屋で黙っている時のフーガは時折痛みを堪えるような顔をするようになっていたのだ。
「どうしたんだ、フーガ」
 サタルは以前から持っていた疑念が確証に変わるのを感じながら、しかしそれを問う事はせず現状について訊ねた。フーガは我に返ってサタルの方を見る。いつも変化のない死んだような目には、確かな動揺が見て取れた。
「いや……あの光のある方向は、ちょうどテドンがあるはずの場所なんだ」
 フーガは口調だけは冷静にそう答えた。
「だが、きっと近くに誰か移り住んできただけなんだろう。もしかしたらオーブを持っているかもしれないな」
 フーガは海図を畳む。サタルはその手つきが少し危ういことに気付いたが、黙っていた。
「上陸しよう。もうじき日が暮れる。急ごう」
 フーガは操縦室に戻っていく。サタルは彼の行った方を見つめ、それから食堂にいるだろうカノンとアリアにこのことを伝えるべくマントを翻した。



 四人が上陸した頃、日は落ちきってしまっていた。暗闇の森を、仄かに明るい空を目指して歩く。魔物が数回飛び出してきたがさして苦戦もせず、小一時間ほど経つか経たないかといううちにフーガを先頭にした一行は森を抜けて明かりのもとへと辿り着いた。
 随分寂れた村である。村の周囲にある柵は壊れてその役目を果たせていないし、木々の枝は伸びっぱなしで畑は草だらけだった。家々も暗い中で見ても分かるくらい古いし、中には屋根の瓦がいくつか落ちてしまっているようなところもある。しかし不思議な事に村の中はほんのりと明るく、まるで村全体が光を放っているかのようだった。
「これは……酷いわ。一体何があったのかしら」
 アリアが口元を押さえて辺りを見回す。両手が珍しく落ち着きを失って、しきりに腕をさすっている。カノンがその隣で冷静に目をこらした。
「人が住むような村には見えないけど、人はいるみたいだね」
 彼女の言う通り、手入れされていない木の向こうに人の姿が見えた。どうやら若い男のようである。しかし、サタルは妙な胸のざわめきを覚えていた。
 遠目に見た限りでは普通の男である。だが何かがおかしい。何がおかしいとはまだ明確に言えないのだが、あの男を見ていると奇妙な感覚がするのである。
 けれどもサタルがそれを口にする前に、カノンが男の方へ向かって行ってしまっていた。フーガがそれにつられ、アリアも続く。サタルも仕方なしに警戒を解かないままついていった。
「おや、いらっしゃい。旅の人かい?」
 男はカノンの姿に気が付くと、愛想良く言った。短く切りそろえられた髪に健康的な色の肌、邪気のない笑顔。身につけるのも丈夫な布の服で、ごく平凡な農家の男といった印象だった。
 だが、何かがおかしい。サタルは一行の後ろから男の全身を眺め回す。
「ここは何て名前のところなの?   あたしたちはテドンってとこに行きたくてこの辺りまで来たんだけど」
 カノンが訊ねる声がする。すると、男の笑い声がした。
「そうか、テドンに用があってきたのか。それならここがそのテドンだよ」
 サタルは耳を疑う。見れば、カノンもアリアもフーガも一様に彼の方を向いていた。
「ここが、テドンの村?」
 カノンが繰り返した。いつもあまり感情を乗せない声に、戸惑いと疑いが現れている。それでも男は快活に返した。
「そうだよ。ここが魔王と戦い続けているテドンの村さ」
 カノンがこちらを振り返った。黒目がちの瞳はわけが分からないと訴えかけている。アリアが代わりに口を開いた。
「あの、こちらに越されてきてからまだ短いのですか?」
「へ? 変なこと聞くなあ。この村の連中は生まれも育ちもテドンだよ。どっかから来た人なんていない、みんな家族みたいなもんさ」
 今度はアリアがカノンと目を合わせてからこちらを振り返った。眉を思い切り吊り下げて、困った顔をしている。サタルは顎に手を当てた。
 滅びたはずのテドンの村に人が住んでいる? この男の言葉によると、テドンの跡地に異郷の人が越してきたわけでもないらしい。

 と言うか、それ以前にここは本当にサタル達が目指していたテドンなのか? 同名の新しい村ということはないか?
「どうかしたのか? あんたらこの辺りは初めてなのかい?」
 男は一同の顔を順に見ようとして、はたと止まった。
「あれ、アンタ……」
 彼の視線が止まったのはフーガだった。サタルは少し前に出、フーガの顔を覗き込んで驚く。戦士の瞳は男の顔を凝視したまま動かない。それだけでなく、薄く開いた唇が微かに震えている以外は死者のように顔を硬くさせていた。
「フーガ?」
 案じたサタルが名を呼ぶ。その声を聞いた男がやっぱりと声を上げる。
「フーガか! 随分逞しくなったから誰だか分からなかったぞ。久しぶりだなあフーガ」
「やめろ!」
 親しげに肩を叩こうとした彼の手を、フーガは払いのける。フーガは怯えたような顔で自身の手を見て、それからぱっと村の中央に向かって走っていってしまった。彼の声の震え、表情の歪みが恐怖によるものだと悟ったサタルは男に目を戻す。そしてあることに気付いてカノンとアリアを引き寄せた。
「なに?  放しな」
「二人とも、落ち着いて聞いて欲しい」
 サタルは二人の耳元で囁いた。男は不思議そうな顔でフーガの去っていった方向とサタル達とを見比べている。
「あの人の足下を見て……何かおかしいのが分かるか」
 カノンとアリアは揃って男の足下を見る。先に気付いたカノンの身が強張り、数拍遅れてアリアが短く悲鳴を上げた。
 男の足下には彼の靴跡はおろか、夜でも薄くあるはずの影までもなかったのだ。
「どうしたんだ、さっきから」
「いえ、何でもありません。失礼しました」
 サタルは顔だけにこやかに繕って、女性二人の手を引いて村の中央に向かって歩き出した。女性二人は代わる代わる男の方を盗み見ていたが、彼から十分離れたことを確認するとアリアが今にも泣きそうになりながらサタルを揺さぶった。
「ねえあれどういうことなの!? ねえ!?」
「うーんまさに両手に花」
「馬鹿なこと言ってないでさっさと答えなよ、このまま投げられたいのかい!」
 カノンが凄んで、それは勘弁と答えたサタルが打って変わって真面目な顔をする。
「多分あれは人間じゃない。いや、人間と呼ぼうと思えばそう呼べるのかもしれないけど」
「もっと分かりやすく」
「可能性は二つ。あれは霊体か、残留思念だ」
「つまり、幽霊ってこと?」
 サタルは神妙な面持ちで肯定した。アリアが潤んだ赤い瞳を手で擦って首を横に振る。
「幽霊……いえ、霊体や残留思念のことは聞いたことあるわ。霊体は何らかの理由で天に召されなかった霊魂がこの世に留まってしまったもの、残留思念は死んだ人間が抱いていた強い情念がその場に残ってまるで生きているかのように振る舞うもののことよね」
「そう。俺は多分霊体なんじゃないかと思ってる。二人とも、魔物や魔法の気配は感じないよな?」
 カノンとアリアは頷いた。その時年配の女性が彼らとすれ違う。彼女も影がなく、歩いた後に足跡が残っていなかった。彼女に近いアリアがそれを恐る恐る見ながら、サタルに身を寄せる。
「多分害はないから安心して良いよ。さっきの男の人は俺達と普通に会話できていた。あれは残留思念ならばまずありえない。気になるのは自分が霊体であることに自覚がなさそうだったっていうことだけど……」
 サタルは行く先に見知った鎧姿を見つけて、足を速めた。
「そのことについては、フーガが詳しく教えてくれるだろう」
 無残に折れた枯れ木が生える池の前で、フーガが立ち尽くしていた。その背中を村の人々が遠巻きに見ているが彼に気にする様子はない。壁の欠けた家、伸び放題の雑草や雑木、荒んだ村の景色が池に映り込んでいる。それを彼は見つめているようだった。
 サタルが柔らかく、しかし芯の通った声音で彼の名を呼ぶ。フーガの背がぴくりと動いたが、いつもならすぐこちらを向く頭が回ることはなかった。サタルはそのまま話しかける。
「フーガ、テドンに来た事があるんだね。しかも、ここと浅からぬ縁があったように見えるけど、違うかな」
 フーガから返事はない。サタルはそれでも話し続けた。
「話したくないことなのは分かってる。でも、俺達状況がよく分からないんだ。この村は――テドンは滅びたはずなんじゃなったのか? 何でこんなに村人の霊がいることになってるんだ?」
「霊、か」
 低い声が聞こえた。フーガは依然として背を向けたまま、独り言のように呟く。
「やっぱり幽霊なのか、みんな。死にきれなかったんだな。いや、死んだ事も分かってないのか」
 フーガはかぶりを振った。大柄な身体が返り、こちらを向く。戦士の顔が一瞬やつれて見えてサタルは目を瞬かせた。彼の生気のない薄い唇が開く。
「テドンは俺の第二の故郷だった……だが俺が十五の頃に魔王軍に滅ぼされた。俺も、確かにそれを見ていた」

 

 

 





 テドンはネクロゴンド領の南端にある、林業と農業を収入源とする小さな農村である。フーガがこの土地を初めて訪れたのは、今から十九年前のことだった。
 フーガはネクロゴンド城に勤める兵士の息子として生まれた。幼い頃から勇ましい性格の大柄な少年で、十歳の頃に父と同じ兵士になりたいと志望し、十二で見習い兵となった。それからネクロゴンドの法で定められた通り、地方で三年間先輩兵士の指導のもと村を守護する任に就いた。その時彼が配属されたのが、テドンである。
 テドンはよそ者への愛想はあまりないが仲間内の結束が強く、芯のある人が多かった。フーガも最初は手厳しく接されることが多かったが、だんだん打ち解けてくると作物を分けてもらったり似た年頃の者と遊んだり、年配の人から農業を教えてもらったりと随分良くしてもらった。三年が経つ頃には村の一員同然になっており、生まれ育った場所であるはずの城へ帰ることを辛く感じるほどになっていた。
 ところが城へ帰るまで七日を切ろうかという時のことである。村にネクロゴンド軍の小隊がやって来た。小隊を率いていたのはフーガ達より遙かに上の地位にある近衛兵で、王の密命で来たとのことだった。しかし城から使いが来る時は、如何なる場合でもあらかじめ伝書が来ることになっているはずなのに、その時は何も来ていなかった。どんな人物でも魔王と国をあげて戦っている今、警備を弛める事はできない。そのため、訝しんだテドン分隊長――テドンを守る八人の兵士の中では最も年配で高い地位にあった――が言ったのである。
「失礼でありますが、何も伝え聞いておりませんためお通しすることはできません」
 その直後である。近衛兵の拳がぐぷりと分隊長の胸にめり込んだ。隣にいたフーガは目を疑う。よく見れば、近衛兵の鎧に覆われた手首は分隊長の胸を突き抜けて、暗褐色に光る拳が彼の肩胛骨の狭間から生えている。
「な、何をッ」
 フーガは異常事態を察して剣を抜きはなった。しかしそれより早く近衛兵の後ろに控えていた兵士の白刃が煌めいた。右肩から脇腹にかけて熱く稲妻が走る。後ろによろめいたフーガの左腿に追撃が刺さり、そのまま地面に縫い付けられた。
「探せ。バラモス様のご指示通り、人間どもから聞き出すのだ」
 近衛兵の低い声と地を伝わる複数の足音。腿から剣が抜かれても、フーガはなかなか立ち上がることができなかった。
「隊長っ……」
 痛みを堪えて身体を起こし、指導を受けてきた隊長を見る。しかし、既に彼は動きを止めていた。
 彼の首筋に手をやって血潮が脈打たないことを認識する。初めての死に、若いフーガは心身ともに震えた。
 しかし怪しき者どもは既に村の中へ行ってしまっている。隊長亡き今、誰が村人達にこの危険を伝えられようか。フーガは自身を奮い立たせて立ち上がった。
「みんな逃げろ! 侵入者だ、逃げろ!」
 声を張り上げながら負傷した足をずって走る。傍から見れば走っているとは言えない有様だっただろうが、とにかく急がねばならなかった。身体中が熱く、皆に危機を伝え安否を確認することしか考えられない。隊長がほんの一撃で殺されてしまった。そんな相手に、自分が敵うわけがない。それを肌身で感じながら、自分ができることをしようとしていた。
 教会が視界に映る。フーガはそこを目指して走った。回復してもらえれば、せめて皆が逃げるまで時間稼ぎできるかもしれない。そして。
「神父様、セシリア! 逃げ」
 教会の戸を開け放って祈りを捧げる親子の背中に呼びかけた。そこで後頭部に衝撃を受け、フーガの意識は空白に投げ出された。



「――気が付いた時、俺は旅の僧侶の治療を受けていた。その人はネクロゴンド城に用があって来て、その前に宿を探して偶然テドンを訪れたらしい。そしたら村のいたる所で人が死んでて驚いた。それで村中を回って息がある連中を探して治療してくれていたそうだ。俺を含めて四人くらいかろうじて息があったんだが、俺を除いてみんな死んでしまった」
 フーガはそこまで語って一息吐いた。黒に近い群青の双眸は、地面を越してそれより深き場所を見ていた。
「そう、村を回って確認した。みんな、死んでしまった……」
 今でも夢に見る。しんと静まりかえったテドンの村を、生存者を捜して歩き回る夢だ。木こりのチャーリー、その妻のレベッカ、果物栽培の名人コフィン、頑固者のヴィンセント、その息子夫婦、彼らの生まれて間もなかった赤子のジル、料理上手のベラ、その娘なのに一向に料理が上手くならなかったロッティ――皆が皆、それぞれの家で死んでいた。誰も生きている者はいない。シシーは驚いたような顔で仰向けに倒れている。胸の中央に分隊長と似たような穴が空いていた。ダグは恐怖を叫ぼうとしたまま、首筋をぱっくりと切り裂かれて横向きに寝ていた。

 一人一人の死に顔、重く弾力性のないゴムのようになった身体、伸ばされた指先の角度まで覚えている。何度も見つけた時のまま夢に出てきて、忘れさせてくれないのだ。
 フーガの夢に出てきた彼らは次に起き上がって語りかけてくる。虚ろな囁き声か、または声にならないほどの絶叫で言うのである。どうして村を守ってくれなかった。何のための兵士だ。役立たず、何でお前は死ななかった。
 フーガはどの夢でも、泣きながら謝る事しかできない。しかし彼らの糾弾は次第に増えていって、終いには全員の罵声が耳元で責め立てる。そしてふっとそれらが消え、忘れもしないたった一人の声が最後に優しく囁く。
 ――どうして一緒にいてくれなかったの、フーガ。
「フーガ」
 戦士は我に返った。手がぬるく湿り、冷や汗が背中を伝っている。顔を上げると、三人の少年少女が彼を心配そうに見つめていた。
「辛いことを思い出させて、ごめん」
 サタルが凛々しい顔を曇らせて詫びる。フーガは無理に口の端を持ち上げる。
「テドンに来ることが決まった時から覚悟していたことだ。お前らのせいじゃない」
 乾いた唇を湿らせる。目は仲間達から逸らさないようにする。そうしないと、懐かしい村人達の姿に死に様を重ねてしまうからだ。
「先に船に戻ってる? ここのことは俺達だけで調べられるよ」
 重ねてサタルが問う。聡い少年の何気ない口調からは、配慮と優しさが感じられた。しかしフーガは迷わず首を横に振る。
「いや、自分で調べたい。何でみんなが蘇って、村がこんなことになってるのか知らないと……俺は落ち着かない」
 サタルは頷いた。それから両脇の少女らに訊ねる。
「何から始めようか。ここが目的通りのテドンで、何故か死んだはずの人が蘇っているってことは理解できたけど」
「オーブと村人が幽霊になっていること……もしかして、何か関係があるということはないかしら」
 アリアが顎に人差し指を当てて言う。彼女の顔は青ざめていたが、声はしっかりしていた。サタルが彼女に向かって首を縦に振る。
「それは俺も考えてた。さっきのフーガの話だと、その村を襲った偽の兵士はバラモスの配下だったんだよな?」
「そうだ」
 フーガは肯定する。
「その偽兵士達は何かを探しているらしかった。それがオーブってことは考えられないかな?」
「何でオーブなんだい。他の何かかもしれないじゃないか」
 カノンが反論する。サタルが再びフーガに訊ねた。
「テドンで、何か大切にしてるものってあった?」
「村の人達が俺に隠していたわけでなければ、何もなかったと思う。ただ、テドンに何かあったのは確かなことだろう」
「どうして?」
 十六年前、フーガは傷が癒えるのを待たずに危機を伝えるため城へ足を向けた。しかしその道で村という村、町という町が跡形もなく滅ぼされているのを見た。同じ道で運良く逃げおおせた者に出会ったが、その者の村ではバラモスの名を唱える魔物が人々を虐殺し、建物も一つ残さず破壊して更地にしてしまったのだと言う。
   フーガはそれからその者と共に城へ向かったが、辿り着いた時には既に城は魔王軍の住処となっており、城を囲う湖を渡る事さえできなくなっていた。
「それからネクロゴンド中を巡ったんだが、テドンとネクロゴンド城のように形を留めている場所はなかった。ネクロゴンド城はバラモスの住処にするために残されたっていうのは分かる。だが何でテドンはわざわざ魔物に兵士のふりをさせて何かを聞き出すような真似をさせた上で、滅ぼされなくちゃならなかったんだ?」
「なるほど」
 サタルは僅かに俯いて顎に手を当て、考え込むような仕草をした。秀麗な顔立ちが知的な印象を増す。ややあって彼は顔を上げ、手を解いた。
「仮の話をしよう。何処からか現れたバラモスは、自分の根城としてネクロゴンド城を選びたい。その理由は二つある。一つは彼に最も反抗する巨大な帝国を滅ぼせば自身の権威付けになるから。それともう一つは地図を見れば誰にでも明らかだ。ネクロゴンド城は巨大な湖の中にある島に建てられていて、周囲を険しい山々に囲まれている。人間は勿論、人ならざる者でも攻め入りづらい立地条件を持っているからだ。だが、そんな場所にもつけいる隙はある」
 サタルはここで右手の人差し指を上に向ける。
「それはずばり、空だ。空からなら、翼を持っている者ならば誰でも攻め入ることができる。しかしそんな存在は一部の魔物を除いてほとんどいない。いるとしたら鳥か、伝説の存在くらいだ。ドラゴンか……不死鳥、ラーミア」
 アリアがあっと声を上げた。フーガにも彼が何を言いたいのか、飲み込めてきた。サタルは肩をすくめてみせる。

「バラモスは多分この二者を警戒した。だけどドラゴンなんてここ最近は特に全然見られていない。昔は北の方で見かけられたらしいけどね。でも、ラーミアは所在がはっきりしている」
「レイアムランドね! あの祠は聖地だから、バラモスや魔物は手出しできないわ」
「そう。だからバラモスはラーミア自体を始末する事はできない。だが、復活を阻止することはできる。世界に散らばった、不死鳥を蘇らせる六つのオーブ……これを、自分のもとに集めれば、誰も彼のもとに辿り着けなくなる。そう考えたなら、恐らくバラモスはオーブの情報を集めたはずだ。そして、オーブの一つががテドンに行ったという噂を手に入れたとしたらどうだろう? ネクロゴンド、テドン、どちらか片方でも先に手を出せば、残った一方に攻め入りづらくなる。それでネクロゴンド襲撃とテドン捜索を同時に行ったんじゃないかな」
 集中して聞き入っていたフーガは大きく息を吐いた。確かにそれならテドンだけ襲撃方法が違った理由も理解できるし、オーブも繋げられる。
 しかし、カノンは不満そうに首を傾ける。
「でも、それならオーブはバラモスにもう取られちゃったってことになるんじゃない?」
「いや、多分それはない。オーブを見つけたなら、ここも他と同じように破壊し尽くしちゃっても良かったはずだ。それをそうしないでこのままにしているのは、きっと目当てのものが見つけられなかったからなんじゃないかと俺は思う」
 サタルはそう返して、身につけた荷物袋を漁りながらにやりと笑った。
「まあ、それもこれを使えば本当かどうか分かるけどね」
 彼の袋から黄土色の笛が姿を現した。唇にあてがい、三人と視線を交わしてから笛に目を落とす。素朴な音が流れ出した。それほど時を待たずして同じ音色が被さった時、四人は顔を見合わせた。
「これではっきりしたな。どうもこの笛の伝説もオーブのことも、本当だったみたいだね」
 笛から口を離したサタルに頷きながらも、フーガの頭は勝手に過去へと巻き戻っていた。
 本当に、この村のどこかにオーブがある? お伽噺のような伝説とは無縁な、人々の長閑な笑顔が瞼の裏に浮かぶ。ここにオーブがあったからあんなことになってしまったのか? 彼らはオーブがあることを知っていたのだろうか。定かではないが、少なくともフーガは知らなかった。もしオーブがこの村になかったら、今も彼らは生きていられたのだろうか。
 いや、あの日ネクロゴンドの町はことごとく滅ぼされてしまっていた。だからどちらにしても彼らはあの日死ぬ確率が高かったのだ。
 だけどもし、あの時の自分がもっと強かったなら。
「昔、オーブを持った誰かが来た覚えはあるかい?」
 自分を仰ぎ見るカノンの視線に気付いてフーガは我に返った。無理矢理頭を今に切り換える。問いの答えは、テドンにオーブが渡ったという噂を聞いた時から思い浮かんでいた。
「オーブを持っていたかどうかは定かじゃないが、思い当たる人物が一人だけいる」
 フーガがテドンに来てから二年と少し経つ頃、村に珍しく来訪者があった。みすぼらしい身なりの初老を過ぎた男だったように思う。
 その人物は聞くところによるとかつての村人だったらしいのだが、村を訪れた翌日何故か牢に入れられていた。先輩兵の誰に尋ねても、その詳しい経緯は分からない。しかしその日から、フーガ達の仕事に彼がいる牢の警備というものが加わった。
 当時は田舎のことだからと何も疑問を抱かなかったが、今考えてみるとおかしな点が二つある。
 一つ目はフーガ達が隊長から命じられた仕事内容である。牢の警備なら囚人が妙な真似をしないよう見張るのが普通だが、あの時指示されたのは「牢に不審者が近付かないよう見張ること」のみだった。確かにそれも肝要であると思うが、中にいる囚人について何も触れないのはおかしい。
 二つ目は牢の中にいた彼の待遇である。彼の世話は村人達が交代でしていたのだが、その態度が囚人に対するものとは思えなかったのである。たとえば、田舎の村に囚人など滅多に出るはずもないのに、わざわざ彼専用の囚人らしくも清潔な服を作って毎日洗濯をしていた。また食事も一日三食同じ時間にきっちりと用意され、中身もフーガが城で見たような粗食ではなかった。そしてよく彼と村人達は会話をしていたのだが、村人達の彼への接し方はまるで尊敬する客人に対するもののようだった。
 どれを取ってもおかしい。あの様子は罪人を見張ると言うより、寧ろ要人を警護しているという方が近しかった。どうして囚人の格好をさせて牢に入れたのか分からないが、あの男は囚人などではなかったのではないだろうか。それをサタル達に話すと彼らもやはりフーガと同様に感じ、その男はオーブに関係しているのかもしれないという話になった。そこで早速、彼の元へ行ってみることにした。

 村の中央を通り、目を周囲に配りながら進む。村のいたるところが破損して生活に支障をきたしても不思議ではないくらいになっているのに、誰もそれを気にとめたり修理しようとしたりしていない。
 死んだはずの人間に滅んだはずの村。ところがどういうわけか人間達は昔と変わらぬ姿で歩き回り、反対に村は廃れている。
 どうなっているんだ。フーガはしきりに首を回さずにはいられない。先程まで彼を支配していた衝動的な恐ろしさは、もう身を潜めていた。代わりに、夢の中を動く時に似た重さが身体にかかっている。
 二階建ての建物、その傍でおそろいのシャツに色違いのズボンを穿いた男が二人立ち話をしているのが気に留まった。カインとジェリーという樵の兄弟だ。いつも一緒に仕事も遊びもこなす仲の良い二人だったが、死ぬ時は違ったらしい。カインは自宅の一階で、ジェリーは村の外れに近い生け垣の傍で眠るように死んでいた。どちらもマメな性分で、村の雑草が伸びているのを発見すると競い合うようにして抜く姿をよく見た。
 その二人の足下には脛辺りまで伸びた枯れ草が茫々と生えている。なのに彼らは何とも感じていないのか、和気藹々と会話している。かつての彼らを知っている者なら信じられない光景だった。
 やはり死んでいるのか。フーガは彼らの足下の草を注視するが、伸びすぎていて彼らに踏まれている草があるかどうか確認できない。霊体に詳しくないので確かではないが、霊体は蜃気楼のように実体を持たないと聞いた気がする。だから、サタルの言うように霊体ならば足下の草が折れているということはないだろうと考えたのだ。
 別の村人に目を凝らしているうちに、ふと腕に生暖かい感触が蘇る。それは入り口にいた男、ハンスの手を払った時の記憶だった。
 フーガの動悸が速くなる。そうだ、彼は実体を持っていた。ならばハンスは霊体ではなかったのか? 彼が物置小屋で冷たくなっているのを見た。でも、それは本当だったのか? 実は皆生きていたということは――あるいは、何らかの形で生き返ったということはないか?
 蘇生の話は聞いたことがある。一般的なのは僧侶が使用する蘇生呪文によるものだ。外傷が原因で魂の抜けかけた身体へ術者の魔力を注ぎ込むことで、止まった心臓を再び脈打たせるというのが仕組みらしい。どのくらいの時間経過まで蘇生可能なのか分からないが、これを誰かが使ったというのは考えられないだろうか。
 みんな、生きている? 感覚を失いつつある頭で問いが木霊する。自分は一体何を見て、ずっと何を負ってきたんだ?
「あれ、フーガじゃない」
 いきなり名を呼ばれて肩が大きく跳ねた。顔を正面に向ければ茶色の髪を肩へと流した少女がにっこりしていた。
「あ、やっぱりフーガだー! ご無沙汰ぁ」
 まだ心臓が震えるように跳ねている。彼の顔を見て、少女は怪訝そうな顔をした。
「なにそんな驚いてるのよ。あ、もしかしてあたしのこと忘れちゃった?」
「ろ、ロッティ」
 舌がもつれた。それでも彼女は嬉しそうに白い歯を見せた。
「そう! 良かった、覚えててくれたんだ」
 忘れるわけがない。首を一突き、頭がぽろり。
 一瞬の隙に重なる残像をフーガは拒めない。いつの間にか顔を彼女の方から動かすことができなくなっていた。
「フーガ、相変わらずみたいだね。元気だった?」
 料理下手のロッティはフーガと同じ年頃だった。生きているならば三十路を過ぎた女性になっているはずである。しかし目の前の彼女は、どう見ても若々しい少女だった。
 それに自分が相変わらずとは何だ。
「ど、どうして」
 ロッティの丸い瞳が彼を見上げる。早口になってしまうのを止められない。
「どうして変わらないんだ」
「変わらない?」
 ロッティは小首を傾げて、合点がいったのかころころと笑い出した。
「もしかして見た目のこと? 変わってなくて悪かったわね。でもあんたがネクロゴンドに帰ってからまだそんなに経ってないじゃない」
「帰ってからそんなに経ってない? 俺が?」
 覚えた言葉を意味もなく反復するオウムのような声だった。ロッティを真似たのか誰を模倣したのかは定かではない。
「ネクロゴンド城に呼び戻されたんでしょ? あの辺りに魔王が住み始めたとかいう話で」
 確かにそういう通知は来ていた。城付近にて魔王の僕見られるとの報有り。各分隊から数名派遣せよ。
「それでフーガと隊長さんが行ったんだって聞いたけど……違うの?」
 俺と隊長。隊長はいないのか。
 こちらを見つめる瞳は、海に星空が落ちてきたかのよう。どこかで見たことがあると思考に沈んだ刹那、彼の口は動いていた。
「そうだよ」
 それを聞いた少女は微笑む。我に返った彼は自らの口を押さえた。

「大変だよね、お城の仕事。でもこっちに来られたってことは、少しはいいんだよね? ここではゆっくり休んで、また頑張って」
 ママが呼んでるから、とロッティは手を振って颯爽と歩いていった。フーガの視線はまるで引きずられるように身体ごと彼女を追う。つられて視界に仲間の三人が映った。
「……俺は」
 声が掠れている。咳払いして喉の調子を整える。
「おかしくなったかもしれない」
 カノンの口元が僅かに強張っている。神妙な顔つきのサタルはアリアの方を向いた。
「どうも変だね。今の子も、この村も」
「ええ。ここに来てから、ずっと魔法とは言い切れないくらいの微量の魔力を常に感じてるんだけど」
 アリアは腕をさすりながら周囲を見回す。何度見ても変わらない、朽ち果てた村の光景である。
 サタルが首を縦に振る。
「君もか。俺もそう思ってた」
「でも、どこから発生しているのか全然分からないのよ。そうね……まるで、霧の中を歩いているような気分だわ」
「ノアニール」
 その時、カノンが一言だけ発した。フーガの脳を稲妻が駆け抜ける。
 そうだ、ノアニールだ! 彼はロッティのよく煌めく瞳をどこかで見た気がしていた。海に星空が沈んだような、水中で燃え盛る数多の灯火に似た光。あれはエルフの夢見るルビーと同じ輝きだったのだ。
   ただ一人ノアニールに行っていないアリアが首を傾げる。サタルが彼女に説明した。
「俺達は前にノアニールという村に行ったことがあるんだ。これはあまり言っちゃいけないことだから秘密にして欲しいんだけど、エルフの女王がある一件で人間に腹を立ててね、村人全員に眠りの呪いをかけたんだ」
 アリアははっと息を呑む。
「じゃあ、この村も誰かに?」
「いや、それは違うと思う。確かに村全体に魔力を感じるって点では似てるけど、ノアニールの時は住民一人一人に外から精度の高い呪いがかけられてるのが分かったよ」
 何も言わなかったくせに、あの時そんなことを感じ取ってたのか。サタルはカノンに目を転じる。彼女は黙って首を横に振る。そう言えばカノンは呪文は使えるが、魔力を使った探知は苦手だと言っていたように思う。
 サタルは空気を抱えようとするかのように両手を広げた。
「でもここはちょっと違うんだ。どちらかと言うと、内側から込み上げてくるような魔力を感じる」
 内側から? フーガは村人達のことを思い出す。魔法を使える者は数人いたが、それ以外は魔法や呪文なんて縁がなかった。そう言うと、サタルは顎に手をあてる。
「そうか、だとすると」
 サタルは少し黙っていたが、やがて顔をこちらに戻した。
「仮定の話をしていてもどうしようもない。考えるのは村の様子を見て回ってからだ」
 フーガは頷いた。手始めにあの男に会わなければ。
 四人は再び歩き始めた。幸か不幸か、村人の姿は少ない。時折すれ違う人々は、フーガに気付いて話しかけてくることは会っても、恨み言や怒りを訴えてくることはなかった。ただ皆、何事もなかったかのように再会を喜んでくれる。
 いつしか、フーガの中の不穏な空気が薄れてきていた。代わりに強くなるのは懐かしいという気持ちである。ずっと気に掛かっていた場所と人々に会えて、彼は純粋に喜びを感じていた。生まれ育った地、ネクロゴンド城のことも気にかかっている。だが一度目の前で失った人々が、その正体が何であれ、現れて元気そうにしているのが今は嬉しかった。
   宿屋の脇を過ぎる時、ふと中に目が行く。色褪せた椅子に腰掛けた主人が一心に帳簿を見ている。カウンター上に開かれたそれには大きな茶色が染みこんでいた。脳裏に乾いた血溜まりの中に突っ伏す彼とその横に落ちた帳簿が蘇る。フーガは気分が悪くなって、目を地面に戻した。
   宿の向かいにある木々をまわって毒の池を越すと、石造りの四角が見える。牢である。その正面に足を向けると、懐かしい鎧が視界に飛び込んできた。それはフーガより五つ年上のマイルという兵士のものだった。彼はちょうど今立っている場所で、壁にもたれかかるようにして死んでいた。埋葬する時、フーガより身体が大きいので運ぶのに苦労した覚えがある。
   マイルはまっすぐ前を見つめている。彼に声をかけなくては。そう思うが、なかなか声が出ない。喉が張り付いてしまったかのようだ。
「フーガさん」
 震える声が呼びかける。そちらを向くと、アリアが瞳に涙を湛えていた。
「どうかご無理をなさらないで。私達が聞いて参りますから、フーガさんは……」
 彼女は首を横に振る。今にも雫が零れ落ちそうだ。
   彼女に縁のない土地のことであるというのに、どうして泣きそうなのだろう。ゆかりない人のことでも我が身にかかったのと同様に考えられるほど、心優しいということだろうか。フーガは苦笑混じりに首を横に振った。

「大丈夫だ」
 言い聞かせるように言う。今更何を恐れることがある? 口を開くと今度はすんなり声が出た。
「マイルさん」
 先輩兵は自分を見て、眉を上げ口を丸とも半月ともつかない形にした。そう言えばこんな表情をする人だったなとフーガは思い出す。
「フーガ! 元気か?」
 肯定すると、彼は弾丸のように話し出す。村のこと、城のこと、魔王軍のこと。先程ロッティが言っていた話と同じものを除けば、どれもフーガの聞き覚えのあるようなことばかりだった。
 フーガは彼の言葉の切れ目を狙って、本題を切り出す。
「マイルさん、この中の人とお話させてもらえませんか?」
「話? 別に構わないが」
 マイルはきょとんとして、それからフーガの背後に目を映す。
「その人達は誰だ?」
「……仲間です」
 咄嗟に上手い返しが思い浮かばなかった。マイルは首を傾げて三人をじろじろと見る。
「仲間? 新人兵にしちゃあ妙な面子だな」
 先程までと違って怪しむような目の光である。どう返したものかフーガは逡巡する。しかしその時、穏やかな声が兵士達の間に割って入った。
「その人達を通してあげて下さい」
 救いの声は牢の中から聞こえた。マイルは背筋を伸ばして、格子戸の中を覗く。
「構わないのですか?」
「私の客人です。皆、こちらへ」
 格子戸が風に吹かれたかのように、独りでに開く。フーガはマイルを見る。彼は戸の前からどいて、手で中へ入るように促した。フーガは後ろを振り向く。サタル達は頷いている。彼は身を少し屈めて牢の中へ足を踏み入れた。
 思っていたより暗く、湿気っている。目を瞬かせると、壁に生えた苔の緑とは明らかに違う縞模様が見えた。天井に近い小さな格子窓から月光が差し込み、群青と白の縞を浮き上がらせている。そちらに向かってフーガ達は歩み寄った。
 男はフーガの記憶と違わない姿をしていた。痩せ型でさっぱりした印象と言えば聞こえは良いが悪く言えばみすぼらしい。けれど引き締まった口元と秋の山に似た深緑の瞳は、彼がみすぼらしいだけの男ではないことを物語っているように感じられた。
「あなた方のような生きた人間を待っていました」
 彼は深く岩壁に染み入るような声でそう言った。わざわざつけられた「生きた」という言葉に、フーガの胸はざわついた。
「それは……」
「この村の人間は、ずっと昔に死んでいます。この私も含めて」
 男の骨張った手が掲げられ、岩壁に触れる。指先はすんなりと岩壁を突き抜けていく。固体を持つ人間のできる技ではない。
 その事実は予想していたより重くフーガの心にのしかかる。ずっと以前に受け入れたはずの現実を疑い、一度希望を持ってしまった。それが反って彼に、やり場のなく逸らしきれない思いを抱かせる。
 少しの間場は黙する。囚人風の男は来訪者の言葉を待つが、戦士は口を堅く引き結んでいる。真白な少女は口元を手で多い、黒髪の彼女は俯いて誰とも目を合わせない。それで沈黙を破ったのは、必然的に残された一人になった。
「貴方は他の方と違って、現実を分かってらっしゃるのですね」
 サタルが丁寧な口調で問うと、男は頷いた。
「少なくとも己の身体がとうに朽ち果てたことは感じ取っています」
「貴方にお伺いしたいことが二つあります」
 何を聞くのだっただろうか。フーガは雑然とした頭で思う。
「一つはこの村はどうなってしまっているのかということについて、もう一つはこの世に散らばった六つのオーブについて何かご存じありませんか?」
 一つ目を耳にして、フーガは男に目の焦点を合わせた。彼はまだ少年とも呼べる男に顔を向けている。
「それならば両方ともお答えできましょう。まず、オーブのことから」
 男は左の拳を回して開いた。その掌から忽然と深緑の球体が現れる。瞬きもせぬ間に起きたことに、一同は驚きを隠せない。
「私は生前、ひょんなことからこのグリーンオーブを手にしました。それ以来、オーブを集める者が来るのを待っていたのです。どうもあなた方がその待ち人のようだ」
 どうぞお持ちになって下さいと男は言う。差し出された宝玉を前にして、サタルは躊躇った。
「貴方は、どうして」
「オーブが教えてくれたのです。ラーミアの力を必要とする者が現れると。思えば、私がこうしていられるのもこのためだったのかもしれません」
 男はサタルの掌にオーブを押し込んだ。彼が受け取ると、男は二度ゆっくりと深く頷く。
「全てのオーブを手にした者は高きに上る。オーブを集めた時、ラーミアも力を貸すでしょう」
 空を飛べることを指しているのだろうか。何もそんな抽象的な言い回しをしなくてもいいだろうに。
 男はサタルがオーブを荷物にしまい込むのを見届けると、大きく溜め息を吐いた。
「あと、村のことでしたね。簡潔に言うならば村人全体の想像と祈りだけで村全体に幻惑呪文のようなものがかかっているのです」

 フーガはいまいち理解できない。魔法には疎いのだ。一方他の三人は分かったらしい。
「村人全体で魔法が? そんなことがありえるのですか?」
 アリアが細い眉を八の字にして言う。ありえるのですと男。誰か早く自分に説明して欲しい。
「魔法には魔力に加えて発動に三要素が必要だと言われますが、特にそのうちの想像と祈りの力は大きい。これが欠けていれば、呪文を唱えても何も起きないのだから」
 男はフーガが理解していないことを察してか察せずか言う。それでも繋がりが分からない。
「簡単に言うと、この村は死んだ村人達の『自分達はまだ死んでいない』という思い込みで成り立ってるんだ」
 サタルが助け船を出した。フーガは思わず息を呑む。
「人の思いは魔法の要と言われることがある。強い思いは時として魔法を使ったことが一度もない人にも魔法に似た現象を起こすことができるんだ。特に同じ強い思いを大人数が持つと、それに応じた奇跡が起きることがある」
 飲み込めてきた。サタルは続ける。
「テドンの人達は皆、あまりにも唐突に死んだ。きっと自分達が殺された自覚もなかったと思う。それでも彼らのほとんどが、死ぬ間際に死を意識して強く『生きたい』と思ったんだろう」
 その結果、奇跡が起きたということか。しかしいつから?
「いつ頃からそうなったかは分からない。でも彼らの強い思いと魂は召天することなくこの地に残り、幾年も月光を浴びて確かな魔力となって、この村に魔法をかけたんだ。村人が皆生きて、滅ぼされるまでと同じ生活を送り続けるっていう強力な幻を村全体にかけた」
「自分自身に、ってことか」
 サタルが首を縦に振る。
 だから、フーガが随分年を取ったことも分からなかった。村が荒れ果てていることも、自身に幻覚をかけてある状態だから分からない。きっと彼らの目には襲撃される前の地味だけれど手入れの行き届いた風景が映っているのだろう。辻褄の合わない言動をして、こちらを惑わすのも説明がつく。皆、生きているつもりでいるのだ。死んでいるのに。
「どうにかならないのですか」
 気付けばそう問うていた。男ははっきりと横に首を振る。
「昼になると皆消えますが、夜になるとこの通りです。召天呪文も効きません。この村の時がいつまで止まり続けるのか……私にもさっぱり分からないのです」





 牢を出ても、一行はしばらく黙り込んだままだった。村は宵闇に漠然と青い光を漂わせている。村人達はどこを目指しているのか、脇目もふらずに歩いている。
 彼らは毎晩、何をしているのだろう。何をしたいのだろう。少し考えてすぐにフーガは自らの疑問の愚かさに気付いた。何をしたいのかって? 決まっている。生きたいのだ。生きて、死ぬ前と同じ生活を続けたいのだ。
「アリア」
 呼びかけると少女の剥き出しになった肩が跳ねた。表情筋が強張っていて、そのせいか喉から漏れた声もか細かった。
「はい」
「蘇生呪文というのはどういうものなんだ?」
 少女はくしゃりと顔を歪める。
「蘇生呪文は、とてもデリケートな扱いの魔法なんです。死んだ身体に持ち主の魂を呼び込み、再び肉体と魂を無理矢理結びつけます。死因が外傷である場合のみ効果を発揮しますが、魂を肉体に結びつけた瞬間に一気に傷を癒す必要があるため、ある程度生命活動を維持できる状態の身体でないと蘇生できません。つまり……肉体がもうなかったり、死後あまりに日が経ってしまっている場合には効かないんです」
 恐らく聞かれることは分かっていたのだろう。声が震えていたが、ほとんど言い淀みはなかった。
「そうか、ありがとう」
 予想できていた答えだったから納得は早く、可能性に縋り付くような気は起きなかった。でも、ならばどうしようもないとは思えない。
 自分は彼らに何ができる? 生きたいと強く願い、自らに幻術をかけることでその願望を満たしている。身体がないことにも気付いていない。愛する村の廃れる様にも気付かないまま、想像上の不変の村に住み続ける。
 よく考えてみろ。それのどこが不幸せなんだ?
「あ」
 耳に届いたのは一音だけだった。それでも、長い夢から覚めたような心地がした。
 いつの間にか村外れの教会まで来ていたらしい。素朴な造りの十字架を掲げた門の前に、瑞々しい乙女が立っている。紺の修道服に身を包み、フードからは透き通るような白藍の髪が流れ落ちる。卵形の顔に美しい比率で配置された六つのパーツがそれぞれ驚きを現していたが、刹那全て喜びに染まった。
「来てくれたのね」
 フーガは地面と一体に造られた石像だった。彼女は滑るように歩み寄り、サタル達に一礼する。
「フーガのお友達かしら。テドンへようこそ」
 呆けたようなフーガと彼女とを見比べていたため、一行の反応は少し遅れた。それをどう取ったか、乙女は完爾とした。
「私、フーガの婚約者のセシリアと申します」

 セシリア。
 名の響きも声も眼差しも微笑みも、長いこと胸の奧に封印してきたものだった。もう実体を持つことなどないと思っていた。それが今、目の前にある。
 我に返った時には、己の腕が修道服を抱きしめていた。
「ちょっとやだっ、フーガったら」
 視界で紺の衣装がもぞもぞと動く。それに伴って腕に温もりと動きが伝わる。信じられない。夢のようだ。
 それでもなお腕をゆるめずにいると、彼女は大人しくなった。たまに身じろぎするので、死んでいるのではないと分かる。以前は、どんなに揺すっても自身の動かした反動しか返ってこなかった。
「ねえ、皆さんが待ってるわよ」
 セシリアに三度名前を呼ばれて、やっと彼は仲間達がいたことを思い出した。彼らは傍らで佇んでいた。青い双眸はじっとこちらを見つめている。黒い瞳はフーガではなく、セシリアを観察しているようだ。紅眼は地面と見つめ合っている。それぞれの目線と合ったり合わなかったりすることが、その心境をよく物語っていた。
 セシリアが取り繕うように中へ入るよう促したので、彼らはそれに従った。教会に一歩足を踏み入れると、埃と古い木の匂いが鼻を突く。床、長椅子、祭壇に積もった塵の厚さが過ぎ去った年月の長さを示していたが、フーガはそれに消沈するなどということはしなかった。彼は目の前を歩く恋人に心を奪われていた。
 彼女は十六年前と何も変わらない。水のヴェールを纏うかのような髪も、臙脂色をしたアーモンド型の瞳も、微笑むとできる笑窪も、修道服の清楚な着こなしも。他の村人達同様、彼女も年を取っていないようだ。外見だけでなく中身も変わらぬようで、フーガの記憶にある十六歳の少女のままであった。
 義理の父となるはずだった神父に再会した時も、仲間達と彼らが談笑している時も、フーガの意識はセシリアのみに注がれていた。春をうたう小鳥に似た声が笑う度、臙脂色の瞳がこちらを向く度、グラスに水を注ぐように心が満たされていく。しかしそれと反比例して、猛烈な喉の渇きも感じていた。
「どうしたの? 貴方何かどこか具合でも悪いの?」
 何を話していても上の空である恋人に気付いて、セシリアはその顔を覗き込む。いや、と返す声は力なかった。ただ黙って彼女に視線を留める。見つめ合う二人の瞳は、恋人以外のものを一切映していなかった。
「フーガ君も皆さんもお疲れだろう。もう休んでは如何かな?」
 神父の一声で、場の空気がいったん和らいだ。彼は一同に二階にある空き部屋に泊まるよう勧める。サタル達は遠慮しようとしたが、強く推された上にもう随分夜が深まった頃だったので、その厚意を有り難く受けることにした。
 三人が二階へ上がっていく。フーガがその後に続くべきか躊躇っていると、セシリアがその袖を引いた。薄く桜に色づいた頬を左手で隠すようにして俯き、間を含みながら囁く。
「あとで私の部屋に来て」
 是と答えないわけがなかった。フーガは逃げるように背を向ける彼女を見送って、急ぎ足で二階の一室に荷物を置き一階にとって返す。彼女の部屋はこの階、キッチンの脇にあった。
 まだいないだろうことは分かっていたので、先に入って待つことにする。物は少ないが寂しくはない彼女の部屋に入るのは久しぶりだ。寝具の上に積もった埃を払って綺麗にしているうちに、彼女がやって来た。
 臙脂に自身の姿が映るのを確かめる間もなく、互いに引かれ合う。フーガはS字を描く背中を下からなぞり上げ、柔らかな首筋を掌で包み髪を梳いた。白檀の香が鼻孔をくすぐり、彼の唇から吐息が漏れた。ああ、紛れもなく彼女である。セシリアが自身の腕の中にいる。その事実に、彼の身体は彼女を確認する以外の機能を忘れた。
 しばらく二人はその場を動かなかった。このまま石になってしまいたいとフーガは願う。この至福の時をここに、悠久を経て苔生し砕け散るまで刻みたいと思った。
「貴方がここを出たのは少し前のはずなのに、もう随分会ってなかったような気がするわ」
 婚約者の逞しい背に腕を回したまま、セシリアが呟く。フーガは彼女の首筋に顔を埋めるように、首を横に振った。
「気がするじゃない。もうずっと会えないかと思った」
「貴方にしては大袈裟じゃない」
 セシリアが僅かに身体を離し、無精髭の生えた顔を両手で挟む。
「どうしたの?」
 問いかける瞳では潮が満ち、星が煌めいている。フーガは溜め息を吐いた。この瞳には逆らえない。
「……会いたかった」
 言葉を直接口に流し込んだ。唇をはみ、一度離して今度は言葉もなくただ熱を送り込む。口付けは先程の抱擁よりも長く、二人の全身に熱が回りきるまで続いた。
「傍にいて」
 露わに浮かぶ表情の火照りも隠さず、セシリアが耳元で囁く。彼は言葉の代わりにそのフードを取ることで答えた。

 

 

 

 翌朝目覚めてみると、フーガは恋人の部屋に一人だった。横たわる寝台脇には彼の衣服のみが散らばっている。曇った窓から差し込む陽光が日の昇って長いことを示していた。夜には気付かなかったタンスの傷み、腹から裂けたクマの縫いぐるみ、床に散乱した陶器の破片が目に入り、彼は顔を覆う。己の呼吸音だけが、やけにうるさく耳についた。
 控えめなノックがしたのは、それからしばらく経ってからのことだった。
「入るよ」
 扉から顔を出したのはサタルだった。フーガが下着以外身に纏っていないのを見ると、部屋には入りきらず中途に止まる。彼の視線が床の上の服からフーガに移って、手でジェスチャーをした。着ろ、ということらしい。フーガがシャツとズボンのみを身に纏うと、彼は部屋へ入って来た。後ろから二人の少女が続いて来る。
 彼らが入ってくるところだけ見ると、フーガは視線をシーツに落とした。シミ一つないが、埃で灰色がかっている。昨夜は白く見えたのに。
「村を一回りしてきた」
 ややあってサタルの声が耳に届く。
「俺達の他には、誰もいなかったよ」
 フーガは視線を落としたまま、そうかと答えた。
 昨晩は確かに一緒にいた。やっと再会できた。共にベッドに入ってこの腕で抱き、手や腕、至るところで彼女を感じて、彼女の香りを嗅いで、一緒に眠りに落ちた。
 あれが、この世に存在しないものだというのか。まだ彼女の甘い声が耳に残っている。あんなに確かなものに感じられても、昼になると消えてしまうものなのか。
「夜……また会えるのかな」
「オーブを渡して下さった方の、言う通りならば」
 サタルの答えは間を置いてから返って来た。フーガは、薄汚れたシーツに手を置く。
 日が暮れれば、また村の皆も彼女も出てくる。昔と外見、記憶ともに変わらない彼らは毎晩どんな生活をしているのだろう。生活の様子も変わらないのかもしれない。
 過ぎ去った時に置いてきたはずの村での情景が、昨夜のせいもあって鮮やかに脳裏へ蘇る。フーガの節くれだった手がシーツを握りしめた。
「皆にお願いがある」
 フーガはベッドの上で居住まいを正し、共に旅をしてきた仲間達に向き直う。アリアが怯んだように硬直するのが目についた。
「俺を、ここに残らせてくれないか」
 冷たい沈黙のとばりがフーガ達の間に下りた。少年達の視線がフーガに突き刺さる。直向きなそれらにこちらが予想していたほどの動揺はない。恐らくこうなることを予想していたのだろう。
「アリアハン国王から直々に仰せつかった仕事であるにも関わらず、無責任なことを言っているのは分かっている。だけど俺は、小さな村一つさえ守れなかった男だ。俺なんかがいてもいなくても、何も変わらないだろう」
「そんなっ……そんなことないです!」
 叫んだのはアリアだった。
「私新参者ですし、一緒に旅を始めてから全然時間なんて経ってないですけど、フーガさんがどれだけこの旅に必要かくらい分かります! フーガさんは旅の予定を立てて下さるし、情報収集もお上手ですし、戦闘だってフーガさんがいなかったら私……私達困ってしまいます!」
 アリアの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。必死の思いを込めてフーガに訴えかけるも、彼は目を合わせない。色素の薄い睫毛が震え、少女は唇を噛んで目を伏せた。
 代わりに進み出たのはカノンである。小刻みに震えるアリアの肩にそっと手を添え、幼い顔立ちを戦士に向ける。
「悪いけど、あたしもいいとは言えないね」
 ぶっきらぼうに挑むかのような口調で問いかける。
「アンタはこの旅じゃ欠かせない存在だ。それは自分でも分かってるだろう? ここに残って、何をする気?」
「今度こそ、皆を守りたいんだ」
 大きな瞳が丸くなる。気が狂ったのではないかと疑う顔つきに、フーガは苦笑して見せた。

「分かってるよ。皆死んでしまったことは認めてるさ。だからこそ、死んだ彼らの生活を守りたいんだ」
 村人達の魂は皆、ここで暮らしたがっている。霊体ならば誰かに害されることはないだろう。しかし今後、どんなことがこの地に起こるか分からない。だから霊体だから世界に干渉することがままならない彼らのために、生きたフーガが一人ついてこの土地を守りたいのだ。
「俺はこの村を守るために城から派遣された。だがこのざまだ。村どころか恋人一人さえ守れなかった。何をしたって罪滅ぼしになんてならない。けれど、俺の残った一生をかけてでもこの村を守って、村の皆に幸せな生活を送ってもらいたいんだ」
 フーガの心の底からの願いだった。切なる思いを感じ取ったのか、カノンは黙り込んでしまう。すると、それまで黙していたサタルが口を開いた。
「そうしたいなら、俺は止めない」
 アリアがはっと顔を上げてサタルを見た。眉根を寄せて何か言おうとするカノンを、少年は片手で制する。彼女を一瞬横目で見た、その表情がいつになく厳しくて武闘家は息を呑む。
「だけどフーガ、少し話しておきたいことがある」
 穏やかな声色はそのままにサタルが訊ねる。何を話すつもりなのだろう。フーガが頷くと、語り始めた。
「この村の現象は、人々の思いと自然の魔力から成り立っている。現在分かっている限りでは魂が滅びるということはないし、自然の魔力が尽きることはない。つまり、この村の魔法が解けることは永遠にない可能性がある」
 フーガは頷く。村人達は肉体がないとはいえども永遠の生を得て、ここでずっと幸せに暮らせるということか。素晴らしいじゃないか。
 サタルは戦士の顔に何を見て取ったか、溜め息を吐いて首を左右に振る。
「一方太陽は全ての真実を明らかにする力を持ち、月は全ての者に無限の慈悲を与える。太陽は月のもたらす魔法を一時的に消すことができる。だから夜は不思議なことが起こるのに対して、昼は何も起こらない」
 フーガはサタルのよく動く唇を見つめる。その生み出す言葉の意味が、意図が分からない。
「これらを示し合わせて考えると……この村の住人は永遠に半日以上記憶を継続することができないまま、自らかけた幻の中で生活することになる」
 賢者の少女が口元を両手で覆った。フーガはサタルの台詞を数回頭で反芻してから、やっと理解した。
「それは……皆、昨日あったことはもう覚えてないってことか?」
 サタルが肯定する。昨日会話した村の誰もが、フーガが帰ってきたことをもう忘れてしまうのか? そんな馬鹿な。太陽と月が何の力を持ってるかなんて知ったことじゃない。皆が記憶していないわけがない、フーガがそう言うと、サタルは肩を竦めた。
「今夜になってみれば分かるさ。だっておかしくないか? フーガが出ていったのは随分前のことで外見だって変わってるのに、オーブを持っていた彼以外誰もそれを認識できてないなんて」
 フーガは昨日会話した村人達を思い返す。ハンス、ロッティ、マイル、神父、そしてセシリア。全員フーガをその目で見て、時には手で触れて、会話していたはず。しかし彼らが見ていたのは、テドンが襲撃される前の少年兵士フーガだった。
 時が止まっているとオーブを持つ男が称した意味を、彼はやっと理解した。積み重ねるはずの時が日の昇るごとに消えてしまったら、時が過ぎたことになんてならない。
「さっき、幸せな生活を送ってもらいたいって言ったよな」
 サタルの声はあくまでも優しい。しかしその声が、一言一言がフーガの脳を丁寧に抉るようにして彫り込まれる。
「記憶が新しく刻まれることもなく、愛した土地の廃れる様も分からないままありもしない幻の中で彷徨い、この地の地縛霊として永遠に留まる……これが、今際の際に彼らが望んだ『生』の形? そしてこれが、フーガの言う幸せな生活なのか?」
 フーガの口は半開きのまま動かない。硬直する彼の姿がサタルの澄んだ碧眼に映り込み、沈んでいく。
「どうするかはフーガ次第だ。よく考えてくれ」
 サタルは踵を返した。カノンが躊躇ってからそれに続き、アリアはフーガをしきりに振り返りながらも退出していく。フーガは彼らを目で追うことすらせず、ただ呆けたような顔で座り込むのみだった。
「太陽が真上に昇るまで、船は出さないから」
 そう言ってもやはり、何も反応を示さなかった。






 

 

 

20140924 加執修正