「女のあたしが海賊のお頭だなんて、おかしいかい?」

 サマンオサ大陸南端、海賊の住処の最奥に位置する一部屋、髑髏十字の紋章を刷った旗を背に立派な机に腰掛けていたのは女だった。彼女はバンダナでまとめられた腰まで届く豊かに波打つ黒髪を手で払って、妖艶と言うには鋭利に過ぎる視線と共にそんな問いを投げつけて来た。

 船乗りや商人達が口を揃えて恐ろしがる海賊の住処で、しかもその首領と見られる女に恐喝するような口調で切り出されたら、並みの人間なら震え上がってただただ首を横に振るところだろう。だが、今回質問を受けたのは普通なら常識のために空けておくだろう脳の一角を、能天気な花畑に費やしてしまっている男だった。

「ええ」

 満面に笑みを湛えて、サタルは頷いた。

「もっといかつい大男を予想していたのですが、こんな美しい方だなんて嬉しい限りです」

 女の濃く隈取された双眸がつと開かれる。一度瞬きした後、彼女は大笑いした。

「いいだろう、気に入ったよ! 持って行きな」

 そう言って、彼女は机の下に隠し持っていたらしい何かを取り出した。真紅の宝玉だ。球の中で、炎に似た紅が薔薇のごとく渦巻いている。

 レッドオーブだ。呆気に取られるカノン達を代表して、サタルがそれを受け取る。彼はとくとくと宝珠を眺めて、首領に目を戻した。

「こんなにあっさりと頂いてしまって、いいんですか?」

「何だい、いらないのかい?」

 サタルは慌てて首を横に振った。女海賊のふくよかな唇から、白い歯が零れる。

「あたし達は自分達の用があるものしか持たない。用がないものはみんな、流しちまうんだよ。金も宝も置いといたって場所取るだけし、なら欲しいって奴に渡してやるのが効率的だろう?」

 そう言って、彼女は日に焼けた長い手を伸ばしレッドオーブを指した。

「それだって、もっと早く手放しちまうはずだったんだ。だけど、まだ手放すなって言う変な奴がいてね。そいつは海賊に入るわけでもないのに、今もここに居候してるんだけど」

「あら、仕事だって手伝ったじゃない」

 突如覚えのない第三者の声が聞こえて、カノンは反射的に振り返った。彼女達の背後、部屋の入り口の脇に黒い三角帽の女が佇んでいた。

 いつの間に現れたのだろう。警戒を込めて彼女を睨み付けたカノンは、その容貌を遅れて認識してから驚いた。しばらく見ていなかったものの、それは紛うことなく彼女の知る人物だった。

「ルネ、アンタはどうするんだい?」

 ルネはブーツを鳴らして女海賊のもとへ歩み寄る。燃えあがるような外巻きの赤毛、切れ長の瞳、ルージュを引いた蠱惑的な唇も、橙色のマントも、たっぷりした若葉色のドレスも、以前アッサラームで出会った、変わり者のものに間違いない。何より、少し神経を研ぎ澄ました途端に感じられるこちらの魂を炙るような気配を、自分が忘れるわけがなかった。

「久しぶりね」

 首領机の隣に立った魔女は、カノン達を見て微笑む。女海賊が顎で彼女をしゃくって指す。

「コイツは炎に生きる女。あたしは水に生きる女。正反対だけど妙に気が合ってね。腕も悪くないから、一緒に船に乗せたりもしたのさ」

「暗い船内には、ランプが似合ったわ」

 ルネは夢見るような口調で言う。カノンは背筋がうすら寒くなるのを感じた。彼女は言うならば火炎信仰者、もとい中毒者だった。炎に常人には見ることのできない魅力を見出しているらしく、それを愛でるためなら罪を犯さない範疇で――以前フーガに聞いたところによると、牢に入れられてしまって好きな時に炎を眺められなくなるのが嫌なのらしい――何でも燃やしてしまう。

「お前、水は大して好きじゃないんじゃなかったのか?」

 呆れた声でフーガが言う。ルネはすまし顔で肩をそびやかした。

「水は炎を消すけど、だからと言って嫌いなわけじゃないわ。寧ろ炎を引き立ててくれるから感謝しているくらいよ」

 戦士は溜め息を吐いた。勇者は笑っている。どちらもあまりの変わらなさを感じ取ったゆえだろう。唯一彼女に会ったことのないアリアは、珍しいものを見るような顔で彼女を凝視している。

「どうしてここに?」

 サタルが訊ねると、ルネは彼に向き直った。

「三つ、見たいものがあったから一緒にいさせてもらったのよ」

 彼女は右手の指を三本立てた。

「一つはレッドオーブ。二つ目は人魂。三つめは火山」

 とことん炎絡みである。カノンは呆れた。ここまで趣味に生きる人間は見たことがない。一同の顔を見て、女海賊はにやりと口の端を吊り上げた。

「まったく、笑っちまうだろ? ある日急にうちに来て何を言いだすかと思ったら、『レッドオーブを見せなさい』とか抜かしてさ。見せないとこうだって、指先にメラゾーマなんてちらつかせるんだよ」

「あれは貴方の下僕の教育が悪いからよ、スカーレット」

 女海賊は肩を竦め、魔女の背後からカノン達に悪戯な仕草で舌を出して見せた。本当に女たちは仲が良いようだった。

「レッドオーブは期待を裏切らず、素晴らしかったわ。私はもう堪能したから貴方達が持って行けばいい」

「え、欲しいんじゃないのか?」

「炎は手に入れるものじゃないわ」

 理解しがたいといった表情の戦士に構わず、次は人魂よ、と魔女は続けた。

「幽霊船を探しているの。噂じゃあ船乗りの骨が教えてくれるらしいわ」

「船乗りの骨って何だよ」

「船乗りの骨は船乗りの骨よ。海に敗れた男の無念に惹かれるのかしら。幽霊船の位置を教えてくれるの」

 はあ、とフーガが気の抜けた返事をする。まともな会話をする気がないらしい彼女の代わりに、スカーレットが付け加えた。

「その昔、時化でやられた奴隷船が未だに海を彷徨ってるのさ。あたし達ならまず近づきたくない代物だけど、そこにこのお嬢さんは用があるっぽくて」

「貴方達だってそうでしょ?」

 ルネはカノン達にそう語りかけた。

「貴方達の道を今切り拓くのは、炎よ。ネクロゴンドで待つ銀の翼に辿り着くためには、大地の女神の導きを頼るしかない。しるべは祠の牢獄にある。それを手に入れるためには、オリビアの嘆きを鎮めないと」

 カノンはぎょっとした。彼女の言葉は具体的なようで抽象的である。だが、カノン達には何のことだか分かる。

 ルネはカノン達がネクロゴンドに行きたいことを知っていて、そのためにサマンオサの秘宝ガイアの剣が必要であることを言っているのだ。ガイアの剣はサマンオサの古代民族ティニ族の遺産であり、大地の女神の加護が宿ったものである。これが難攻不落のネクロゴンドへの道を指し示してくれるだろうとカノン達に教えてくれたのは、サマンオサ国王とガイアの剣を受け継いできた一族の末裔であるレオナルド、そして古代民族と秘宝に詳しいスランだった。だがあの話をしたのは近衛さえ下げさせたサマンオサ城王の間で、誰も立ち聞くことなどできないはずだった。

「お前、どうしてそれを」

 フーガは得体の知れないものを見るような目でルネに問う。だが彼女は一向に介さず、話を続ける。

「オリビアの嘆きを鎮めるのは愛の炎よ。奴隷船のエリックを尋ねないと。だから、船乗りの骨なのよ」

「でもその骨は、随分前にあたし達がグリンラッドの爺さんにくれちまってね」

 スカーレットの言葉に反応したのは、フーガとアリアだった。

「もしかしてグリンラッドの爺さんって、あの寒い島にたった一人で住んでるって噂の爺さんか?」

「そうだよ。会ったことあるかい?」

「ない。それどころか、今まで与太話だと思ってた」

「それが本当にいるんだよ」

「もしかして、その方は魔法使いなのではありませんか?」

 アリアが身を乗り出した。スカーレットは顎に手を当てて考え込む。

「言われてみれば、そうなのかもしれないな」

「もしそうなら、私も噂で聞いたことがあります! グリンラッドには、偉大なる魔法使いが住むと」

「偉大なる魔法使いだか何だか知らないけど、あの爺さんは変な奴だよ。ガラクタばっかり欲しがるんだ。まあそのお陰で、こっちは売れないモノがさばけて大助かりだけど」

 女海賊は、何かを思い出そうとするかのように眉間に皺を寄せた。

「船乗りの骨だって、あたし達みたいな海の連中には気持ちのいいモンじゃないから引き取ってもらったんだよ。けどコイツが必要だって言うからさ、爺さんのトコまで行ってちょっと貸せって言ったんだけど、あの爺さんときたら聞きゃしねえ。それどころか、変化の杖が欲しいなんて抜かしやがる」

「変化の杖?」

 アリアが思わず声を上げた。カノンは反射的にサタルの方を見た。彼は腰に提げた道具袋を押さえている。

 変化の杖は、つい先日サマンオサ王から譲り受けたばかりだった。

「これはいいな」

 サタルは愉快そうに言った。

「グリンラッドに行こうよ。変化の杖とその骨を交換してもらうんだ」

「話は決まったわね」

 ルネがマントを翻した。カノン達の横を通り過ぎて、つかつかと部屋を出ていこうとする。フーガが声をかけた。

「おい、どこ行くんだ」

「オモテに出なさい。行くわよ」

 へ、と戦士は間抜けな声を漏らした。ルネは振り返ると、切れ長の瞳を細めて意味深に微笑んだ。黄金色の瞳が、まさに三日月のようだった。

「私が、貴方達の前を拓いてあげるって言ってるのよ」

 

 

 

***

 

 

 

 北の果ての島、グリンラッド。地図上では分かりづらいが、聖地レイアムランドに近い極寒の地である。かの聖地のように地表が氷で覆われているわけではないが、生える草は小ぶりかつ地味で、冷たく乾いた大地に根を張るその姿は、北風に凍える旅人が身を縮ませているようだった。

 ルネの転移呪文で降り立った大地は、常に厳しい風が吹きすさんでいた。カノンは思わず外套の前を手繰り寄せた。決して防寒対策を怠ったわけではない。だがそれにしても、この地に吹く風は、最果ての村ムオルの周辺より身を切るようだった。さらに、まばらに生える草以外何もないどこまでも続く荒涼とした平原が、見る者の心に寂寥感を与えていた。

「本当にここに人が住んでるのか?」

「住んでるわ」

 疑い深げなフーガにルネは答え、何かを求めるように辺りを見回す。カノンもアリアもつられて周囲を眺めてみるが、何もない。前後左右、どこを向いても同じような光景が広がっている。

「ここに来たことがあるんだよな。その爺さんに会ったとはあるのか?」

「ない」

 ルネはあっさりとそう言った。途端不安そうな顔つきになったフーガとアリアに、彼女は気楽に手を振って笑いかける。

「大丈夫。会ったことはなくても、家の場所なら分かるわよ」

「本当なんだろうな」

「ええ。何せ、私は昔その爺さんに会いに行こうとして、このグリンラッドを半年放浪したことがあるんだもの」

 カノンは耳を疑った。それは彼女だけでなく、フーガ達も同様だった。しかしルネは周囲の反応に構わず、さっさとある一方向へ向かって歩き始める。カノン達は足早にその後を追う。

「半年?」

「ええ」

 フーガが問い返すと、彼女はそちらを向かずに頷いた。

「貴方達は今は勇者様御一行だから大丈夫かもしれないけど、この島はとても特殊なのよ。海賊連中みたいな手練れじゃないと、危ないわ。特に、半人前の魔法職の人間は避けた方がいいわね」

 アリアがびくりと細い肩を跳ねさせた。ルネは彼女に向かって、珍しく安堵させるような笑みを見せて首を横に振った。

「貴方なんて賢者だもの、まだいい方よ。一番まずいのは、駆け出しの魔法使い――そう、ちょうど十年前の私みたいな、ね」

 ルネは立ち止まることなく、大股に歩を進める。本当にこの道で――道なんてないのだが――大丈夫なのか不安だが、他に進むべき方向も思いつかない。カノンは懸命に彼女についていく。ルネの背後にカノン、アリア、フーガ、そして殿にサタルが一列に続く形になった。

「十年前、私はまだ成人して魔法使いとして仕事を始めたばかりで、まだまだ未熟だった。勿論、同じ頃に似た年で仕事を始めた周りの子に比べたら、出来は良かったわ。火球呪文、閃光呪文、冷気呪文、爆発呪文、どれも中級まで使えたし、転移も脱出も難なくできて、補助呪文だってたくさん覚えてた。だから、過信してたのね。グリンラッドに住むという幻の魔法使いに会って、もっと高みを目指そうと思った。知り合いの商人に頼み込んで近くを通る貿易船に乗せてもらって、グリンラッドに辿り着いて。さあ、これで修業できるってウキウキしてたわ。氷河魔神の群れも得意の閃光呪文で溶かして、スノードラゴンにはメラミをお見舞いしてやって、上機嫌だった」

 ルネは、いつもの炎に魅せられた時のような浮かれた調子で語っているわけではない。いたって沈着に、淡々と語っている。それが、カノンには何故か少々不気味に感じられた。あまりにも広漠としている景色の影響もあるのだろうか。彼女はかじかんできた手を擦り合わせた。

「だけど、なかなかたどり着けなかった。迷ったの。教わった通りの方向に進んだはずなのに、行っても行っても何も見えない。ずっと似たような原っぱが続いているだけ。でも、たまに戦闘したような跡が地面に残ってたから、他にも誰かいるのかなって心強く思って進んでたのね」

 そう言えば、魔物を見かけない。カノンは辺りに目を配る。茫洋たる北の大地は、頭上にのしかかるぶ厚い雲の重みに耐えられないのか沈黙している。魔物はおろか、樹木の影さえ全く見られない。灰汁色の地平の果ては、空一面を覆い尽くす薄鈍の雲に吸い込まれたように途切れていた。

 いや、違う。カノンは強風に乾きぼやける視界をリセットするため瞬きを繰り返し、目を凝らす。地平線を隠しているのは雲ではない。霧だ。雲とよく似た形状だから、気付かなかった。大地を隠しているあれは、よく見ればおぼろげに明るい乳白色をしている。

 寒風になぶられる前髪を掻き上げながら、四方を窺う。どこも霧に囲まれている。カノンは眉根を寄せた。これでは、進んでいるか分かりづらい。ただでさえもメリハリの乏しい風景だというのに、こうも前後左右が窺えないのではどうしようもない。

「足が棒のようになって、どれだけ歩いたか分からなくなった頃に、さすがにおかしいなって気付いたわ。ずっとまっすぐ進んでたはずなのに、景色が変わらないの。いえ、でもね。それでも、変わらないと言うより単調な景色に慣れてきたのかなって、最初は思ってたわ」

 ルネのややハスキーな艶を帯びた声が、しっとりと霧に吸い込まれていく。落ち着いた調子で語られる話は、霧だけでなくカノンの耳にもよく馴染み、頭に染み入る。だから彼女はつい、景色を注視した。そしてあることに気付いた途端、背中を冷たいものが駆け抜けるのを感じた。

 ――こんなに風が強いのに、何故この霧は留まっているのだろう。

「でも、途中で分かったの。私が行く先で見かけていた戦闘の跡は、全部自分のものだった。倒れている魔物は、みんな見覚えのある傷で死んでた。私はいつの間にか、道順を示してくれる壁も道もない、ひらけた霧の迷宮に迷い込んでいた」

「ルーラも効かなかった。リレミトもダメだった。キメラの翼で飛んでも、降りる先は霧の中だった。私は半狂乱で出口を、霧のない方向を探したわ。でも、見つからなかった」

 霧のない方向――カノンは辺りを窺って戦慄した。やはり、どこもかしこも霧に覆われている。

 出口はおろか、自分達が辿って来た道だって分からない。

「おい、まさかこの霧は」

 フーガも同じことを思ったらしかった。やや大きめに呼びかけられた声に、ルネは弾ける笑い声で答えた。

「そんなに心配しなくても大丈夫よ。言ったでしょ? あなた達は勇者様御一行だから大丈夫よ」

「それとこれと、どういう関係があるんだ」

 ルネは何も言わず、微笑を返した。カノンは出そうとしていた追求の言葉を飲み込んだ。彼女の笑顔には、見る者を黙らせるような静かなる気迫が宿っていた。

「やがて、食べ物も尽きた」

 頭を前へと戻し、魔女は話を再開した。

「仕方ないからスノードラゴンの鱗を剥いで肉をナイフや冷気呪文で捌いて、火球呪の応用で焼いて食べて飢えを凌いだ。喉が渇いた時は、氷河魔神の体を閃光呪で溶かして滴った雫を飲んだ。だから、腹さえ括ってしまえば食事は別に困らなかったの」

 カノンは背後に続く者達と顔を見合わせた。フーガはやや渋い目つきで、アリアは困惑と驚愕を湛えた赤い瞳で、サタルは感心したような眼差しで彼女を見返した。カノン達は、共旅をするようになってから魔物食をしたことがない。フーガの采配がいいからだ。カノン自身は以前一人で働いていた時期に、どうしても食物に困った時に限って、襲い掛かってきたことを口実に食べたことがあった。だが、さすがに魔物の体液を水代わりに飲んだことはない。

 ルネは、他愛もない世間話をするように語り続ける。

「でも、それより困ったのは睡眠と疲労だったわ。まさかそんなに時間がかかるとは思わなかったから、聖水もすぐ尽きちゃって寝たい時に結界を張るのに苦労した。だけどせっかく張れても自分一人だから、自分の意識のないうちに守ってくれる人なんていないし、次に目を覚ました時は魔物にはらわたを喰われている最中かもしれないと思うと、恐ろしくて眠れなかった。だからどんどん疲れが溜まっていって、メラ一つ練るだけでも全身全霊を研ぎ澄ませなくちゃいけないほどに疲弊しきって。そんなだから戦闘で傷を負うことが多くなって、けれど薬草も尽きてて回復もできないから、なるべく魔物にかち合うことがないように周囲の気配を探ることに全神経を使って。昼も夜も時間も気にならなくなって、自分が何でここに来たのかすらも分からなくなって。でも、ただ進まなくちゃ、どこでもいいから生きて進まなくちゃ、って。そればかり考えていた」

 魔女の口調は至って平静で、喋る台詞も淀みない。聞きやすい話のはずだ。カノンは両手をしきりに擦り合わせる。

   なのに、どうしてこちらが落ち着かないのだろう。

「そうやって、どれくらいの時が経った頃だったかしら。妙に寒くなってきたのよね。本当に寒くて寒くて骨の髄まで凍りつくようで、耐えられなかったから、特に何も考えずに火を灯したの。そしたら」

 一呼吸分の沈黙。それから、話者の震える吐息が大気を揺らす音を聞いた。

「すっごく、綺麗だった……」

 カノンの肌が泡立った。魔女の声はとろりと口唇より流れ出て、甘く切なく空にほどけ、鼓膜を犯した。武闘家は俯き、魔女のブーツの動きから行先を辿ることに集中する。ルネは振り返らないから、どんな表情をしているのかは分からない。だが、それは見てはいけないもののような気がした。だから、見たくなかった。

「ゆらゆら、ふわふわして、温かくって、私の指先に、小鳥がとまるみたいに、触れて。そしたら、ぱあって。一瞬頭の中に白い炎が弾けて、身体が導火線になって、体中を温かいと気持ちいいが駆け抜けて、それから」

 朝靄に漂う夢の名残を追うように語り続けていたルネの声音が、また変化した。急に、地に足を着くように芯を取り戻したのだ。

「炎が『こっち』って言ったの」

 カノンは目を瞬かせた。彼女にも、話の展開にもついていけない。しかしルネは、口を挟ませる間も与えずに喋りつづける。

「私は従ったわ。すると不思議なことに、すぐに家が見えてね。可愛いログハウス風の一軒家だったわ。きっとあれが目指す家だったのね。だって私、何故か倒れてたもの。だけどどうにか着けたから、満足してルーラで帰ったわ。帰ったら何故か半年も時間が経ってて務め先もクビになってたけど、全然問題なかった。私の腕は随分上がってたし、何より声が聞こえるようになったんだもの」

 カノンは振り向いた。彼女の言動と思考の繋がりが理解できず、誰か噛み砕いてくれる人間が欲しかった。しかし、フーガは微妙な面持ちで魔女の後姿を見つめるのみである。もう一人の説明してくれそうな人間が、桃色の唇を躊躇いがちに開いた。

「あなたは」

 アリアが語りかけた。白いかんばせには、感慨に耽るような慄然としているような、奇妙な感動が浮かんでいる。

「天啓を得たのですね。『聞こえる』のですね」

 武闘家は前に視線を戻す。ルネはこちらを向いて、微笑んでいた。それは赤子に微笑みかけるような慈愛に満ちた表情で、カノンに得体の知れない些細な違和感をもたらした。

「私がそれを他人が『声』と呼ぶっていうことを知ったのは、あれから一年は経った頃だったわ」

 アリアは頷くと、カノン達に語りかけた。

「魔法を会得する原理は知ってますか?」

「学として学ぶより、実際に外に出た方が覚えやすいとは聞いたことがあるな」

 フーガが言う。カノンも実体験として、確かにそれはその通りであると感じている。

「そうなんです。座学で学ぶより、町の外に出て魔物と戦っている最中の方が新しい呪を会得しやすいとは、よく言われる通りです。でもそれは、何故だか分かりますか?」

 アリアに問われて、戦士は唸った。

「実際に使う機会が増えるからか?」

「そうですね、それもあります。ただ、使えばいいというものではないんです」

 そう言って、アリアは灰色に淀む虚空を見上げた。赤眼を、何かを思いだそうとするかのように眇める。

「悟りの書にはこうあります。『汝、無知なる者よ。雄大なる大地をその足で踏みしめ、燦然たる火の威をその手に感じ、天駆ける風の音をその耳で聞き、純潔たる水でその目を清めよ。己が心身を研ぎ澄ませ。そこに悟りの道は啓かれる』と。己の身体に経験を、世界の定理の具現を蓄積するだけでは足りません。歩いて世界を見て回っている時も、戦っている時も、その目の前に現れる事象から神霊の定めた定理を導き出そうとする姿勢が要るのです」

 カノンは眉根を寄せた。こうも砕けていない語句ばかり聞いていると、分かったようで分からないような感覚に陥る。

「つまり普段から火を点けたり、燃やしたりする様子に注目してたり、敵からメラなんかを喰らったりしているうちに、火っていうものがどう生じるものか分かってきて、それでメラが使えるようになるようなもの?」

「そうよ」

 私も実際そうやって覚えたわ、とアリア。それならば、カノンも身に覚えがある。

「そういった蓄積があるからこそ、本人の意識無意識に関わらず、戦闘の土壇場で新しい呪を使えるようになる人が多いんです。危険な状況って、生存欲求が呼び起こされて感覚が過敏になったり、普段発揮できない力を出せたりするでしょう? 命を賭けた状況の方が、世界の根底を成す原理に気付きやすいんです」

 ほう、とフーガが感心したような声を漏らした。魔法を使えない彼にも、似たような経験があるのかもしれない。しかし、魔法を使えるカノンも同じように感心していた。アリアはさすが若くして賢者であるだけあって、この手のことに詳しかった。

「そうやって、通常私達は座学であれ体験であれ、経験の蓄積から真理、即ち新しい呪を得ます。ですが、たまに神霊自身の声を聞いてコトを悟ってしまう人がいるんです」

 アリアはいかにも気の良さそうな細い眉をひそめた。

「私達神への信仰を誓った僧侶、または僧職を経験した者はこの神の声を聞く者も多いです。特に祈りの最中や、神の奇蹟と言われる回復呪を会得する時などに、こうした体験をする人がいます。けれど、これは大抵あくまで一時的なものです。日常的にいつも聞こえるわけではありません。このような一時的な経験を、私達は天啓と呼んでいます」

「一方、この天啓を得た後に慢性的に神霊の声が聞こえるようになってしまう人が、ごく稀にいるんです。こういう人に、神霊はその人の知らない呪だけでなく様々なことを教えるといいます。聞くところによれば、それは人が扱うにはあまりに強力すぎる呪であったり、離れた所での出来事であったり、そして、時には未来を教えることさえあるようです」

「随分気前がいい神様がいるもんだな。いや、そうじゃなくてその人が気に入られてるってことか?」

 戦士が言うと、賢者は小首を傾げて曖昧な笑みを浮かべた。

「どちらとも言えます。ですが、これはそう良いことばかりでもないんです」

「何でだ?」

「善悪関わらず、如何なる神霊もそう簡単に人間に力を与えることはしません。そこに至るまでに、大きな障害を設けます」

「神霊がそうした障害を人間に課すって言うより、その領域に届くのはそう楽なもんじゃないって言うんじゃない?」

「そうかもしれません」

 ルネが指摘すると、アリアは同意した。その後、彼女はさらに付け加える。

「私も、どちらなのかは分かりません。それこそ神のみぞ知る、ですから」

「僧職らしい言い方ね。あなた、元僧侶だったでしょ?」

「今でも、ルビス様にお仕えしております」

 アリアが控えめに、しかし胸に秘めた矜持を滲ませて告げる。ルネは納得したように、繰り返し頷いた。

「ルビス。良い精霊だわ。古い太母神の一部ね」

「それで、神霊はどんな障害を設けるんだ?」

 フーガがわずかに逸れ始めた話題をもとに戻す。アリアは彼へと双眸を戻すと、また淀みなく説いた。

「二つの傾向が見受けられます。一つは、先天または後天的な心身の欠落。特に視覚、聴覚など五感のいずれかの欠落から悟りに至ることが多いようです」

 ここでアリアは言葉を区切り、ちらりとルネを窺う。それから、白銀の睫毛を伏せて答えた。

「もう一つは、生死の淵を彷徨う経験をすること。よく聞かれる例では、大病による衰弱の過程で神の声を聞き、そのまま回復してからも声が聞こえ続けているというものがあります。ですがこれもかなり個人差があるものでして、聞いてはいけないことを聞いてしまい、その――平静ではいられなくなってしまったり、神霊の命令が聞こえて、それに従わないとまた大病に侵され死に至らせられたりすることもあると聞きます」

 カノンはルネを仰いだ。彼女は意に介した様子もなく、あっけらかんと言ってのける。

「私は間違いなく後者でしょうね。病気にかかってたかどうかは分からないけど、間違いなくここで私は衰弱して死にかけてたわ。それから、ずっと声が聞こえてるの。もちろん言ってることは色々で、聞き取れることもあれば何言ってるか分からないこともあるし、かと思えば何も聞こえない状態が一ヶ月以上続くこともあったわ。こっちに直接語りかけてくることもあって、たまに会話もするわよ。それから、他の精霊との会話が聞こえてくることだってあるわ」

 なかなか愉快よ、とルネ。彼女をアリアは畏怖半分、尊敬半分の眼差しで見つめている。対してフーガは、半信半疑と言った面持ちで賢者に尋ねた。

「その声というのは、どういうものなんだ」

「説明が難しいんです。それはある時は本当に音を伴った声だったり――ですがこれも、神や精霊の声であるかどうかは定かではありません。人によっては、知人の声に似ていたということもあるのです――ある時は映像だったりします。私たちは、便宜上それを『声』と呼んでいるんです」

「私が天啓を得た時は、声だけだったわ」

 ルネが具体例を挙げる。そしてやや間を置いて、こう続けた。

「それからそうね。あなた達が海賊の家に来ることとその目的を知った時は、精霊同士の会話と映像の両方が来たわ」

「お前が声を聞くという神霊は、いったい何ていう名前なんだ?」

「あら、そんなの知らないわよ」

 当たり前といった風に魔女はかぶりを振る。ますます訝しげな戦士に、彼女はおどけた調子で肩を竦めた。

「神霊の名前なんてこっちから直接聞いたら、真名が返って来るじゃない。そしたら私は召喚士でもないんだから、支配されて良いように扱われて、人間としてジ・エンドよ」

「そういうわけで、神霊の声が聞こえるというのはリスクだらけなんです」

 重い一重瞼を持ち上げたフーガに、アリアはぎこちない笑みを浮かべて見せた。その傍から、ルネは我関せずといった風に彼らの後ろを指す。

「今精霊たちの話題は、あなたのことでもちきりよ」

 一同の視線が指された方へ向かう。いきなり注目されたサタルは、驚いたように眉を跳ね上げた。

「俺?」

「落とされた子供って、あなたのこと呼んでるみたい。あなたがどうしているか、散々噂しているわ。だから、あなたがサマンオサにいたことも海賊の家に来ることも、どうしなければならないかも分かったのよ」

「落とされた子供?」

 フーガが返す声を聞きながら、カノンはサタルへと視線と意識を集中した。彼の気は何度も探っているが、掴みどころがない。膨大な力、即ち呪いをかけられているというが、彼にかけられた呪いはよほど高度のものなのか、彼女の視界には映らない。ただ、たとえて言うならば「嵐の前の静けさ」に似たものを、甘やかなルックスの周囲に漂わせている。

「なんとなーく分かってたけど」

 涼やかな声で、カノンは現実に帰って来た。サタルは神妙な面持ちで仲間達の顔を見回す。ルネ以外の全員が、口を噤み真摯な眼差しを彼に向けていた。

 張りつめた静寂の中で、サタルは物憂げな溜め息を吐いた。

「俺、やっぱり天使の生まれ変わりなのかもしれない」

 薄ら寒い風が、一同の間をすり抜けていった。一瞬で場の空気が弛緩する。まずフーガが、呆れを通り越して死んだ眼差しを正面に向ける。アリアは困惑を濃厚に漂わせた、いかにも「持て余している」風の優しげな笑顔で、沈黙を貫く。カノンは己の顔がアストロンもかくやという無機質な冷たさになったのを自覚しながら、やはり視線を進行方向へ戻した。

「うんうん、で?」

 ルネだけが振り返ったまま楽しそうに相槌を打った。サタルはルネの歩く先頭へと小走りに進み、隣に並んで力説する。

「ほら、天使って国を傾けるレベルの美形揃いだって言うだろ? みんな正視したら目が潰れるくらい、眩しいイケメンと美女ばっかりだって話じゃん。だから俺もきっと、もともとは天使だったんじゃないかな」

「へえ、そうなのね」

「多分、あまりの美しさに主神から嫉妬されたんだ。いや、もしかしたら俺をめぐって一悶着くらいあったのかも。それで地に落とされることになったっていう」

 なるほど、アンタの顔見てると――特に街中で知らない女性と無駄話をしている時や、宿での朝食の最中に朝帰りしてきて満面の笑みで「ごめんごめん」なんて誠意の欠片も窺えない謝罪の言葉を吐いて来た時などに――無性にボコしたくなるのは、そうやって前世でも女の敵やってたからなんだね。

 そう皮肉を言ってやろうかと思ったが、言ったところでこの男は「カノンちゃん、俺が他の女の子と話してるの見てヤキモチ焼いてくれるの? かっわいー嬉しー」などと爆裂拳を見舞いたくなるような台詞を言うこと間違いなしなので、カノンは黙っていた。背後の二人の仲間達も、彼の性格をよく分かっているせいか溜め息の一つも漏らさない。ただその分、お調子者は話し続けている。

「いやー美しいって罪だよな。美しさはただの芸術だっていうのに、それだけで災いを引き起こしちゃうんだから。可哀想な俺。きっと主神の正妻ガイア様や居並ぶ愛人のどなたかの心を奪ってしまって、それで妬かれて天使の羽根を奪われたんだ。まったく主神ってばすぐ怒るから、俺はきっと健気に泣きながら――」

「あ、着いた」

 だが、ルネは容赦なく彼の話を途中でぶっちぎった。常ならば「ひどい!」と抗議の声を上げるだろう少年は、しかし何も言わない。それもそうだろう。何故ならば、急に四方を覆っていた霧が晴れ、視界一面に青空が広がったのだから。

「まあ、きれい」

 アリアがうっとりと呟いた。彼女の言う通り、先ほどまでの悪天候が信じられないほどの晴れやかな光景であった。青々と茂る若草が足下で元気よく跳ね、吹く風が清々しい生の香りを届ける。天には雲の一片もなく、伝説のブルーメタルを彷彿とさせる蒼に冴え渡っている。その悠久の青に呑まれそうで、小柄な少女は知らず拳を握りしめた。

 その碧空と草原の境、視界の中心に、小さな家がちょこんと建っていた。まるで子供の好む絵本にでも出て来そうな、愛らしい造りのログハウスである。カノンは思わずルネを見た。彼女は懐かしそうに双眸を細めていた。

「ええ、あれが噂のグリンラッドのお爺さんの家よ」

「ここは、本当に現実なのか?」

 フーガは得物から手を離さないままに尋ねる。信じられないのも無理はない。カノンだって、俄かには信じがたく感じている。

「きっとそう。私レベルの魔法使いじゃ分からないわ」

「私も、判断がつきません」

 アリアが困惑したように言う。だが、あたたかな太陽を浴びた彼女の口元は、嬉しそうに綻んでいた。雪解けに喜ぶ花のようだとカノンは思い、視線を余所へと転じた。

「その、グリンラッドの爺さんっていうのは何者なんだ」

「彼は定められた神霊の定理に最も詳しい、偉大なる魔法使いだと聞いているわ」

「魔法使い? 賢者じゃないのか」

「さあね。そこまでは知らないわよ。ただ、幻術が専門だって聞いてるわ。無限ダンジョンがあるでしょう? 正しい道を歩かないと永遠に同じ光景から進めないっていうやつ。それを仕掛けられるようなのが、プロの幻術使いよ」

 ルネとフーガが会話している。だがカノンはその時、ログハウスから目が離せなかった。家の赤い小さな扉が、キィと微かな音を立ててこちらに向けて開いたのである。風は、それとは逆の方へ向かって吹いているというのに。

「ひ、開いたわ」

 アリアが恐れと好奇心の入り混じった表情で、扉を見つめる。しかし、サタルは楽しそうに口の端を吊り上げた。

「面白そうだな。行ってみよう」

「あ、待てサタル。おい、一人で行くな!」

 戦士の制止も聞かず、彼はさっさとログハウス目がけて歩を進めていく。まったく、妙な所で勇者っぷりを発揮する男である。カノン達は急ぎ足でその後に続き、メルヘンチックな小さい家の戸をくぐった。

 一歩足を踏み入れてみて、カノンは拍子抜けした。なぜならば、その先に続いたのはごくごく一般的なリビングの景色だったからである。丁寧に組み合わされた木目調の床は、柔らかな森の香りを漂わせて彼女の鼻腔をくすぐる。その上に敷かれた真紅の絨毯は床と同じ素材で作られたのだろうテーブルと椅子のセットを乗せている。卓上には花瓶が据えられており、スノードロップの花が飾ってある。そういったこじんまりとした調度品、アイボリーの壁、そこにかけられた毛織物のタペストリー、火の爆ぜる暖炉、それぞれが穏やかな調和のもとくつろいでいる。あの荒野を過ぎていた後だから、なおさらここは平凡ながら快適な空間に思えた。

 しかし、二歩目を踏み出したカノンは首を傾げた。ぐんと部屋の奥行きが増した気がしたのだ。そんなに小股に一歩を踏み出したわけではないはずなのに。けれど普通なら少々近づいて見えるはずの机が、暖炉が、奥に続いている廊下が、変わらない位置にあるようにさえ見えるのは、気のせいだろうか。

 試しにもう三歩四歩と進んでみると、疑惑は確信に変わった。部屋が広がっている。いや、思いの外広い部屋だということが分かったと言うべきだろうか。踏み出すごとに床と壁が伸び、天井も奥へ上へと遠のいていく。カノンは六歩歩いてみて、足を止めた。距離感覚がおかしくなりそうだった。

「何だ、この部屋は」

「目が変になりそうです」

 その感覚はカノンだけを襲っていたわけではないようだった。後ろで戦士の気味悪そうな声が聞こえ、隣で賢者がふらつく。しかし武闘家が彼女を支える間に、前にいた魔女と勇者はすんなりと前方へと歩いていく。そしてテーブルに腰掛ける何かの前で立ち止まって、二人は何かを見下ろした。

「よくこんな所に住んでいられるわね」

 魔女は何の挨拶もなしに、そう切り出した。カノンは反射的に身構える。彼女らの体で死角となって見えないが、誰かいるらしい。きっとここの家主――偉大なる魔法使いと称される人間に違いない。

 返ってきたのは、朗らかな笑い声だった。

「この家の良さが分からんとは、残念じゃのう」

 たとえるなら真昼の晴れ渡った空を舞うフクロウのような声、とでも言えば良いのだろうか。カノンは声の主を見るために前へ進み出る。ルネの横に並ぶと、やっと安楽椅子に座る背の丸まった老人が見えた。禿頭で顔には多く皺が刻まれているが、意外にも肌の血色はよく滑らかである。たっぷりとした濃紺のローブに包まれた痩せ細ったハゲタカに似た身体は、大きく頑丈な造りの安楽椅子に座ると、まるで安楽椅子に乗っていると言うより乗せられているようだった。

 見たところ、ただの老人である。彼は何が楽しいのか、もとから皺の多い顔を更に皺くちゃにして、にこにこしながらしきりに頷いている。

「こうして人に会うのは何年ぶりじゃろう。んんー」

 老人は筋の浮いた首を捻る。カノン達が黙って待っていると、ややあって彼は「おお」と手を打った。

「いかんいかん、茶ぐらい出そうかの。どうかね? 一杯」

 老人は片手で卓上を指す。つられてテーブルに視線を転じたカノンは、目を見開いた。先程まで花瓶とレースのテーブルクロスしかなかったそこには、いつの間にか六人分のカップとソーサー、そして人形のような菓子ののったバスケットが並んでいた。

 カノンはフーガ、アリアと視線を交える。彼らはそろって信じられないという顔をしていた。

「おおーそうじゃ。思い出したぞ。いつぞや海賊たちが、おかしな骨を置いて行った時以来じゃな」

 だが老人は、カノン達に卓につくよう促すでもなく、自分の記憶が戻って来たことを喜んでいる。それまで眉一つ動かさなかったルネが、やはり平静かつ単刀直入に彼へ尋ねた。

「おじいちゃん、お菓子はいいから取り換えっこしましょ。その骨くれないかしら。代わりに変化の杖をあげるわ」

「ほほー!」

 すると、老人は素っ頓狂な声をあげた。目が黒い糸になるまで細まり、顔が今度こそ丸められた羊皮紙もかくやという皺くちゃに笑みを浮かべる。どうやら、喜んでいるようだ。

「なんとまことか!? 言ってみるもんじゃのう! いやーありがたい!」

 ほっほー! 老人がもう一度叫ぶ。その直後、何か白いモノが部屋を横切って飛んできた。霞むそれを、飛んだ先にいたサタルがすんでのところで取る。彼は掌を開いて、取ったそれをカノン達に見せた。紛れもなく、人骨だった。

「ほれ、早く早く」

 老人が急かすので、サタルは道具袋から変化の杖を出して彼に手渡した。老魔法使いは文字通り破顔して、その杖を両手で大事そうに抱えると、その球とそれを囲む曲線からなる先端から杖の尻までをじっくりと眺めまわした。

「ほほー。これが、何にでも化けられるという変化の杖! 何もしなければ術者の意識に関係なく、勝手に適当な姿になる! 素晴らしい!」

 老人はつるりと禿げ上がった頭を機嫌良さそうに撫でる。それから、立ち尽くしたままのカノン達の方を仰いだ。

「嬉しいのう。儂はこれがずっと欲しかったのじゃ。お礼に骨の十本でも二十本でもくれてやりたいところじゃが、あいにく呪われたものと魔物のとしかなくてのう。代わりに別のモノをやろう」

 そう言って、彼は骨と皮ばかりの手で戸口の方を指さした。

「そこを出て、真正面に宝箱がある。その中に入っておるから、取って行ってくれ。重いもんじゃから、みんなで協力して持って行くんじゃぞ」

 老人はそれだけ口にすると、また愛おしそうに変化の杖と見つめ合いはじめた。カノン達は顔を見合わせる。変な爺さんである。しかし何にしてももう目的は果たした上、住人から情報を集めるにも、たった一人の住人だろう老人はこの有様である。仕方ないので、カノンが先頭に立って出入り口に向かう。ドアノブを回し躊躇いなく外に出てから、カノンはぎょっとして飛び上がった。

 扉を抜けた先は、外ではなかった。そこは暗く、緑の藻の生えて腐った木の壁の崩れかけた、どこかの部屋の中だった。

 塩辛さが鼻に突く。カノンは一歩後退ろうとして、背後から突如襲ってきた猛烈な風に耐え切れず吹き飛ばされた。そのまま硬い何かに衝突し、頭から暗い穴の中に突っ込む。さらに後ろから、勢いよく衝撃がいくつかぶつかってきた。

「痛っ」

 カノンは呻いて拳を握りしめた。すると、冷たいものが指先に当たった。何も考えずそれを掴んで、上体を起こす。視界が真っ暗闇から抜け出た。彼女は、先ほどの暗い部屋の中央に据えられた宝箱の中に頭から突っ込んでいたのだった。

 状況を確かめようとして、彼女は反射的に目線を手元に落とした。すると、見たことのない女性の横顔が目に入った。カノンは瞬きをした。女性は金のハート型をしたチャームの中に収まっていた。ハートの先には、ふちと同じ黄金に輝くネックレスがついている。これはペンダントらしい。

 こんなものは持っていた覚えがない。カノンはハートを裏返した。そこには、小さく文字が彫ってあった。

『OよりEへ。愛を込めて』

「重いじゃろう。『愛の思い出』だけにな」

 カノンは振り返る。あたたかな居間の風景を背後に戸口に立った老人は、朗らかに笑ってぴしゃりと扉を閉じた。

 暫時、場は唖然としていた。カノンはしばし閉まった扉を放心した状態で見つめていた。そのため、自分の後ろに仲間達が積み木崩しのように倒れていることに気付いたのは、たっぷり暗闇に目が慣れてからのことであった。

「おいっ、爺さん!」

 最初に立ち上がったのはフーガだった。彼は最後尾にいたらしく、吹き飛ばされて片腕と膝をついた体勢からいち早く跳ね起きると、老人がしめた扉を開け放った。しかしその向こうは、あの温もりあふれるリビングではなかった。今いるこの部屋と同じ腐った木材の天井に、錆びついた赤銅色のランプが耳障りな音を立てて揺れていた。

「どうなったんだ。これも幻なのか?」

 フーガが部屋を出て辺りを見回す。最後尾から二番目に倒れていたアリアが立ち上がり、一言ザメハと詠唱した。しかし、視界には何の変化もない。彼女はそこで、この急に足を踏み入れることになってしまった空間を眺めた。

「どこかの家かしら」

 いえ、とアリアは言葉を途切って黙った。どうしたのだろう。カノンも周囲に意識を這わせて、気付く。鼓膜を低く揺さぶる木材や金属が軋む音と同時に、微かに潮が騒ぐ声がした。それから、身体がコップに注がれた液体のように揺られていることを自覚した。

「船だわ。どこかの船の中なのね」

「ええ、しかもただの船じゃないわね」

 ルネは立ち上がりドレスの裾を払ってから、アリアを追い越して部屋から出る。アリアも続いて戸口をくぐる。カノンも続いて起き上がろうとして、暗がりの中で冴えた輝きを放つ青と視線がぶつかった。大ぶりなサファイアのような――それにしてはやけに大きい。

   カノンはそこで、やっと自分が倒れた上にサタルが積み重なっていたことに気が付いた。己の捩じった体とうつ伏せになった彼の体の間には、マント一枚程度の隙間しかない。彼が自分の上体の両脇に両腕をついているから、顔が触れあわずに済んでいるのだ。通りで彼の瞳孔が大きく見えたわけだ、ともう一人のカノンが冷静に頭の隅で頷いた。

「どいて」

 反射的に言って、何だか覚えのある状況だと思った。一度そんな閃きが走れば、思い出すのは一瞬だった。ピラミッドだ。あの地下でこうして覆いかぶさられて、それからいたずらに戯れかけられて。耳に吐息を吹き込んできた彼を睨もうとした時の強い動揺は、今でも覚えている。始まりに悪童じみた笑みを目と口元に浮かべていたはずの彼が、その刹那だけ、甘い顔立ちから媚びを売るような笑みを削ぎ落として、眼差しに剣呑にさえ感じる雄を滲ませていたのだ。

 あれは錯覚だったのだろうか。カノンは瞬く間に流れ込んできた回想から帰り、つい少年の顔を凝視する。またあのふざけた笑顔を浮かべているに違いない。むしろそうあって欲しいと願っていた。

 それなのに。カノンは目を伏せる。

「どいて」

 思わず、もう一度繰り返していた。先程に比べて言葉尻が震えていたと思う。動悸がするのに、悪寒を伴うような汗が噴き出していないのが嫌だった。

 すると、衣擦れの音が聞こえて温もりが遠ざかった。その代わり手首に温かな指が絡んで、冷たい床板から彼女の体ごと引き上げた。

「ごめん、痛かった?」

 サタルはにっこり、と笑みを浮かべた。傍目に見れば爽やかで好感の持てる笑みである。そして彼と出会ったばかりの自分なら、この放蕩者と罵るような状況である。

 けれど、カノンには責める気など微塵も起こらなかった。にこやかで調子の良さそうないつもの笑顔が、たまらなく妙に感じられた。

「なんてことないよ。早く退いてくれなかったから重かったけど」

 強いていつもの調子で返す。カノンは次に来るだろう台詞を予想した。

 ――カノンちゃんだってすぐにどかなかったくせに。

 ――ていうか、こんなイケメンに押し倒されて何とも思わないの?

「ごめんごめん、ちょっとぼうっとしちゃって」

 しかし、サタルはにこやかな顔で返しただけだった。それがまたカノンに居所の悪い、落ち着かない変な心地をもたらした。

 何故、からかってこないのだろう。いつもならちょっかいを出すなり軟派風に絡んでくるなりするはずなのに。

「カノン、サタル。どうした?」

 フーガが呼ぶ声がする。途端、サタルは弾かれたようにそちらへ身体を向けて叫んだ。

「はいはーい、今行く! ……行こう、カノン」

 サタルは顔だけ振り向かせて、彼女を呼ぶ。青い双眸が、こちらを見つめる。

 彼の瞳は、見ていると落ち着かない。その瞳孔は遠い南国の海の色であり雲一つない碧空の色であり、自分には眩く美しすぎるよう思われて――彼の中身は対照的にあんなにも入り組んでいることを知ってもなお――正視していることさえ悪いことのように感じられてくる。

 ただでさえもそうなのにああ、どうかそんな目で見ないでほしい。水底さえ見透かせる海の青なのに、何故彼の瞳は時折青炎を宿して揺らめくように見えるのだろうか。そんな目をされたら困ってしまう。自分は彼のことが気に入らないはずなのに。

 気に入らないのに、どうして必要以上に気にかけてしまうのか。

 カノンは今回も頷くふりをして目を逸らした。視線を浴びた箇所が、全身が、熱をはらんで疼く。それを口の中での舌打ちに変え、彼の後に続いて走ることで誤魔化した。

  ところが部屋を一歩出てすぐ、カノンの足は竦んだ。頭をガツンと殴られたような衝撃と共に白い閃光が視野一面に閃いたのだ。目が焼かれる。目を瞑る。顔にざあっと冷たい何かが吹きつける。冷水のようだ――そう思って顔に触れて驚いた。手が濡れていた。

 反射的に瞼を上げると、そこは嵐だった。黒い空、黒い海、そしてその黒い荒波にもまれる黒い船、黒い甲板。そこを駆けまわる人影すら黒い。すべてが黒で塗り潰されているのにそうしたものが判別できるのは、漆黒の世界を裂くように天から白い稲妻が迸るからである。水浸しの甲板が、稲光を反射してぬらぬら輝き揺れる。黒い波が白く泡立ち、甲板へと荒々しく滑り込んでくる。逃げ惑う人影、持ち場についていた人影――持ち場? 何のだろう。決まっている、漕ぎ手のだ。船を漕ぐのは奴隷か罪人の仕事なのさ――関わりなく波に飲まれる。黒い海へ引きずり込まれる。抗おうとしたのか諦めたのか、大きく天に向けて広げた人々の両手が稲光で白く輝き、黒き海へと消える。呑気に眺めていられるのも今のうち、次は自分の番そう思う前に視界が横倒しになった。塩、潮、潮が口の中に入り込んでくる。鼻の奥がツンとする。身体が擦れる海に吸い込まれる、溺れるのは苦しいああでもおら人をころしちまったでな、どんな死に方したってしかたねえって思うだよでも櫂を漕ぎつづけるのはもっと苦しい擦り切れた手潰れたタコ血の滲んだ指に塩が潮が塩が

 突如、身体ががくりと落ち込んだ。カノンは昏い海に一人きりで沈んでいく。嵐なのだから潮の流れは相当速いはずなのに、彼女を取り巻く黒は泥のようにまったりと遅く、しかし着実に彼女を底へと誘う。ごぽ、ごぽり。口から白い泡が漏れて、稲光で明るい水面へとのぼって行く。彼女はぼんやりと遠ざかる白い水面を見つめ、手を伸ばす。届かない。沈んでいくことを選んだのはカノンなのだ、届くわけがない。

 ――つれーよう。

 誰かが、耳元で嘆いた。

「カノン?」

 肩に温かいものが触れて、はっと息を飲んだ。瞬きした途端、黒白の世界は泡が弾けるごとく消え去った。

 カノンは肩で浅く息をしながら、目の前で心配そうに自分を覗き込む男の顔を見た。美しい、快晴の海が瞳に映り込んでいる。彼女は幾ばくかの嫉妬を覚えながらそこから目を逸らし、彼の後ろを見た。そこには嵐など来ておらず、苔むした甲板と星のない曇った夜空、そして沈黙する黒い海があるだけだった。

「アンタ、何ともないの?」

「何ともって、何かあったの?」

 サタルの瞳がさらに眇められる。カノンは手で己が心臓の辺りを握りしめた。心臓は、不規則に大きく脈打っている。まるで見えない巨大な手によって、全身に通う血潮の元を断たんと握りしめられてでもいたかのように。

「嵐が……」

「嵐?」

「いや、何でもない」

 カノンは首を軽く横に振ると、肩に置かれていた彼の手を退けて前方へ歩き始めた。サタルがちょっと、と声を荒げる。

「何でもないわけ――」

 その時、悲鳴が暗闇を切り裂いた。

 二人は咄嗟に声の響いた方を向き、刹那視線を交わらせる。

「アリア?」

 サタルが短く確認する。カノンは頷き、駆けだした。後からサタルの足音が続く。

 悲鳴が聞こえたのはこの壁の向こう側だったはず。フジツボのびっしり生えたそれを左手に曲がると、いた。暗い甲板では目を引く鮮やかな橙色のマントの後ろに、縹の外套を羽織った少女がへたり込んでいる。彼女達の前に立つ戦士は、抜き身の剣をこちらからは彼らの姿で死角となっている何かに向けている。

「そんな怖がンなくても、おら何にもしねえだよ」

 変に震える濁声が聞こえた。同じ声が二つ重なって聞こえるようで、猫が喉を鳴らすのにも似た妙な音である。カノンは、立ち尽くす仲間の背後からその声の主を覗き込む。縞模様の粗末な衣類をまとう、たるんだ体つきの男が座り込んでいる。身体の前で横向きに握っている棒は、オールのようだ。

 こちらを害する意思は感じられない。だが、カノンは警戒を緩めることができない。

何故なら、この男からは生きている者なら必ずあるはずの気脈が一切感じ取れなかったからである。

「ほれ、よく見なよダンナさん」

 そう言って、男は己の濃い体毛で覆われた右手を掲げて見せた。カノンはよくよく観察しようとして、瞬間目にしたものが信じられず呼吸を忘れた。彼の腕に生える体毛に見えたそれは、藻だった。細かい藻が、肌に生えているのである。

 さらに暗闇に慣れた彼女の瞳は、彼の肌が自分や仲間のものとは違うふやけた鼠色をしていること、肌のあちらこちらが水にふやけたパンのごとくぐずぐずになっているのをみとめた。奇しくもちょうどその時、海から船内に湿った風が吹き付ける。潮に紛れようのない腐肉の匂いを嗅ぎつけて、カノンは自分の鼻の良さを呪った。

 フーガの横顔がこわばっている。アリアがひっと短い悲鳴を上げる。

「ぞっ、ゾンビ!?」

 だが男はそれらの反応に気分を害された様子もなく、むしろ愉快そうに紫の唇を吊り上げた。黒カビに覆われた歯が覗いた。

「この通りもう死んじまってるんだけどな、どういうわけかどこにも行けないから、こうやってぶらぶらギーコギコしてるだよ。死んじまっても船って漕げるんだな。ハハハ」

 こともなさげに笑う男を、一同はまじまじと見つめる。フーガが呟いた。

「どうなってるんだ、ここは」

「おらも知らん」

 独り言のつもりだったのだろうフーガの一言を、男は拾った。そして他人事のように続ける。

「この船は奴隷船だよ。奴隷商人の船さ。つってももう商品なんて流されちまったからよう、そうとは分からねえかもしれねえが」

「あ、あなたも奴隷なのですか?」

「いンや。おらぁ罪人だ。だから漕ぎ手だ」

 アリアが首を傾げる。船を漕ぐのは罪人の仕事なのさ。カノンの鼓膜が先程見た幻で聞いた声を思い出し、彼女は眉根を寄せた。カノンは海に縁のない場所で育ったし、彼女が世話になった地域ではそのような風習はなかった。だから、そんな台詞を聞いたことなんてないはずなのである。ならば、あれは何だったのだろう。しかもその内容は微妙に目の前の風景、男の話す内容と被っている。気味が悪い。

 背後で物音がした。カノンが振り返る。サタルが袋の中を探っているらしい。彼はあった、と独り言ちて仄かに黄ばんだ白いモノを取り出した。船乗りの骨だった。

「まさかとは思うけど」

 サタルが呟いて、骨に巻かれた糸の端を指でつまんで垂らす。糸がほどけ、先に括られた骨がひとりでにくるくると回り出す。しかし、骨はいつまで経っても回り続けている。

 彼らはしばらく、独楽よろしく回転するそれを眺めていた。しかし痺れを切らせたのか、サタルが途中で回るそれを手で止めた。

「何だ、これ」

 骨を掴み、間近でその表面を見つめたサタルがこちらにそれを示す。カノンはそれを覗き込んだ。骨の表面には、二列の文字が浮かんでいる。

『我 母なる海神の懐に抱かれし同胞を求む』

 つややかなアイボリーの表面、一列目には掠れたセピアの文字でそう記されている。その下には碇に似た古風な矢印が記され、そこに新たなインクが染み出てきていた。

『おお 母の羊水へ還り切れぬ胎児よ こんばんは』

「やったわね」

 カノンは声の主を振り返った。ルネは嫣然と微笑んでいる。見れば、フーガもアリアもサタルも同じように彼女に注目していた。

「無事、目的地に到着したのよ」

「目的地?」

「分かってるくせに」

 尋ねる戦士に、魔女は至極当然と言いたげに言い放った。

「ここが、幽霊船よ」

 フーガは口を開いたまま固まった。何か言いたいのだろうが、適切な言葉が出て来ないに違いない。カノンには、戦士の様子はそのように窺えた。

「そんな、どういうこと? 私達はグリンラッドにいたはずなのよ」

 アリアがまっとうな疑問を口にする。その一方で、サタルはまた袋から何かを取り出している。ぼろのような紙切れ、もとい魔法の地図である。

「見て」

 サタルはそれを一目見るなり、またこちらに地図の表を向けた。カノンもアリアもそれを覗き込んで絶句した。

 持ち主の現在いる位置を示す羽ペンの先は、ムオル北に広がる樹海大陸の西の内海、その中央を指していた。

「いやだ!」

 カノンは飛び上がった。突如響いた声は、仲間の誰のものではない。

「死にたくねえよう! 死にたくねえよう!」

 彼女達の傍を、赤い何かが喚きながらすり抜けて行った。赤いそれは球体の形から長く尾を引きながら、甲板を舳先の方へと飛んでいく。カノンは目で追って、つい疑心から瞬きした。

「まあ、人魂だわっ」

 カノンが己の目を疑ったそれの正体をルネは難なく認めて、それどころか嬉しそうに呟くと、その後を追って弾むように駆けていった。あとを追おうとしたアリアの肩を、フーガが抑える。

「放っとけ」

「でも」

「アイツはああなったら止まらないぞ。下手に邪魔したらこちらが燃やされる」

 アレを堪能しきるまで意地でも死なねえから、心配するな。フーガはなおも心配そうなアリアに、加えてそう言い聞かせた。

「まったくみっともねえ。まだ溺れてる気でいやがる」

 ゾンビ男が呆れたように吐き捨てた。彼の台詞は魔女ではなく、どうやら先程飛んでいった人魂に対して向けられたもののようである。

「だがまあ、アイツもかわいそうなんだぁよ。自分の身体が嵐で流されちまったのにまだ気づいてねえんだ。まあ、身体なんてあったところでおらみたいに腐っちまうのがいいところなんだが」

 ゾンビ男は一同の視線がこちらに集まったことに気づくと、海藻がストールのように絡みついた両肩を竦めて見せた。

「薄情だって思うべ? けンど、まだ地獄よりマシだと思うだよ。おらたち死んだのにラッキーだべ」

「潔いですね」

 サタルが褒め言葉ともつかない微妙な台詞を口にする。ゾンビ男はうっすらと笑った。

「おら人をころしちまったでな。どんな死に方したってしかたねえって思うだよ」

 背筋を冷たいものが駆ける。先程聞いたのとまったく同じ台詞、まったく同じ声だった。

「でもそこにいたエリックってやつは無実の罪だって」

 男が親指で示して見せた方を見る。隣のオールが設置されたそこに、若い男の死体が横たわっている。そちらを向いたサタルが、そのまま何かに導かれるように彼の方へ足を向けた。

「かわいそうになあ……」

 しみじみと言う男の声を背に、サタルはその若い死体の横に膝をついた。

「サタル?」

「ルネがオリビアの嘆きを鎮めるのは何だって言ってたか、覚えてる?」

 あ、とアリアが声を漏らした。カノンも、海賊の棲み処で彼女が言ったことを思い起こして、目を丸くした。

 ――奴隷船のエリックを尋ねないと。

 カノン達はサタルの傍に寄り、彼同様に死体を眺める。肉の削げ落ちた身体に潮風でべっとりと張り付いた黒髪がいかにも幽鬼然とした雰囲気を醸し出していたが、優し気な目元と下がりがちながら凛々しい眉、通った鼻梁から、生前はさぞや周囲にもてはやされただろうとカノンは推察した。人の器量に興味のないカノンでそう思えるほどに、その男は肉体が崩れてもなお美しかった。

「でも、本当にこれがそのエリックなのか?」

「フーガはアッサラームやバハラタ辺りの娼歌を覚えてる?」

「は?」

「ああそうか、流行り歌だって言ってたからフーガは知らないか」

 サタルは一人頷き、訝しげな仲間たちに語って聞かせる。

「あの辺りの一部の遊女は、お客さんと歌で遊ぶんだよ。伝統的な唱歌から流行り歌まで、店によって扱うものは違うんだけど、ここ最近流行っているっていう歌があって」

「で、お前もそれで遊んだと」

「そう言えば山脈越えした後に、やけにフンフン歌ってた時があったっけ」

 仕返しとばかりにフーガが言い、カノンは呆れたように横目で勇者を見る。サタルは整ったかんばせに曖昧な笑みを浮かべ、

「今は俺のことはいいだろ」

 さらりと流した。

「それでその歌がね、『尋ねうた』って言うんだ。歌詞は簡単で、女性が自分の恋人を探して道行く人に尋ねるっていうもので、歌詞の中にある恋人の特徴や名前を、その客の外見と名前に置き換えて歌ってきかせるんだよ。その雛型がこんな感じ」

 サタルは柔らかく軽快な、しかし哀愁漂う旋律を口ずさみ始めた。

 

   そこ行くあなた あなた

   お尋ねします

   あなたが私の良いひとですか

   私の良いひとはどんな人?

   私の良いひとはちょっと小柄

   でもとっても 神父様より優しいひと

   あの人の髪は 闇の衣

   あの人の目は 世界樹の葉

   穏やかなさざなみの声

   抱き締める腕は逞しく

   ああ 呼ばせてください

   あなたは私のエリックですか

 

「でも、黒い髪に緑の目のエリックなんて、この世界に五万といるんじゃないの?」

 カノンは目の前に倒れているエリックというらしい罪人の姿を眺めながら言った。だが確かに、この彼も黒髪に緑眼ではある。

「大体その歌のもとのエリックだって、適当に作られただけで実際にはいない人なんじゃ」

「いやいや、まだこの歌には続きがあるんだよ」

 そう言うとまた、サタルはさきほどのメロディの続きを辿る。

 

   そこ行くあなた あなた

   お尋ねします

   あなたの恋人のお名前は?

   おお 私の良いひとならば

   どうか この名をお呼びになって

   ぼくの愛しい オリビアと

 

「オリ、ビア」

 呻き声がして、サタルは歌を止めた。虚ろに空を仰いでいた男の首が、こちら側に少し傾いていた。

「ああ、オリビア……」

 男の双眸は黄色く濁っている。けれどその虹彩だけは、枯れることを知らぬ北方樹海のごとき常盤色に輝いている。かさついた唇から漏れる囁くような乾いた声は、よくよくその掠れた余韻に耳を済ませれば、在りし日は優しい海の声に似ていたに違いないと思えないこともなかった。

「もう船が沈んでしまう。君にはもう、永遠に会えなくなるんだね……」

 常盤色の瞳はもう、カノン達の顔の上どころか周囲の景色にさえ焦点を定められない。しかし彼の骨と皮だけの右手は、懸命に何かを探すように腐敗した木目の上を這う。その動きを目で追ううち、カノンの視線は縫い付けられたように動けなくなった。彼の手はカノンの膝を這いあがり、グローブで覆われた手甲の上で止まった。

 カノンはぎくしゃくと、手から腕、腕から顔と、視線を移す。エリックとおぼしき男は、やはりカノンのことが見えていないらしい。常盤の眼差しはカノンの肩の向こうへ向かっている。

「でも、僕は永遠に忘れないよ……君との、愛の思い出を……」

「ちょっとお兄さん?」

 擦れるような声に、特別愛想の良い声色が重なった。ついでにカノンの手を、上に密着するぬめりとした肉ごと熱い掌が包み込む。手の主を横目で窺う。彼は夢うつつを彷徨う亡者を、麗しい顔立ちいっぱいに、いっそ威圧するかのような晴れやかな笑みを浮かべて凝視していた。

「恋人の顔間違えるなんて、男としてどうかと思うんだけど」

「ねえ、何か言おうとしてるみたいから黙ってくれる?」

「何だよ、俺だとすごく嫌がるくせに」

「当たり前だろスケベ」

「静かにっ!」

 言い合う二人を制したのは、意外にもアリアだった。かつてない彼女の鋭い一声に、少年少女は黙り込む。エリックは餌を求める魚のごとくぱくぱくと口を動かしていたが、やっとのことで声を絞り出した。

「せめて、君だけは……幸せに生きておくれ……」

 カノンは身を竦ませた。重ねられていた掌に焼けるような痛みが走ったのだ。彼女が二枚重なった掌を払い落すと、その拍子に自分の手の中から白く発光する円が転がり出た。

「それ、何?」

 サタルが訊ねる。知らないとカノンが答えようとした時、白光が薄れて円が輪郭を取り戻した。その円は若い女性の横顔が刻まれたハートのチャームで、それを目にしてからカノンはようやっと自分がこれを持っていたことを自覚した。

「さっき、あの爺さんのせいで宝箱に頭から突っ込んだ時に見つけた」

「何でそんなの持ってきたの?」

 カノンは唸った。自分でもさっぱり分からない。こんな守備力の足しにも目くらましにもならなそうなもの、どうして持ってきてしまったのだろう。

 アリアが小首を傾げてカノンを覗き込む。

「もしかして気に入ったのかしら?」

「それはない」

 こんな金細工にパールピンクのハート型ネックレスなんて、趣味じゃない。そもそも、アクセサリーというもの自体が己の趣味に合わないのだ。それなのに、何故今の今まで握っていたのだろうか。

 ペンダントから白光が完全に消え去る。武闘家はそうっと、それに手を伸ばす。指先で突いてみてもう熱くないことを確認し、またそれを手の内に戻した。

「おい、エリック。エリック?」

 フーガが横たわった若い男の肩を揺する。男はまるで動かない。返事もしない。ただの屍のようだ。

 戦士は溜め息を吐き立ち上がると、カノン達を見下ろして逞しい首を横に振った。

「まったく、さっきからわけが分からないぞ。グリンラッドにいたと思ったら幽霊船で、幽霊船に来たらゾンビに人魂に――そもそも、こうなった原因はどこに行ったんだ」

 何が私が道を切り開いてあげる、だ。

 フーガは珍しく愚痴って、辺りを見回した。だが橙色のマントも若葉色のドレスも、あれほど目立つ色をしているのにどういうわけかちらりとも見当たらない。視界は一様に黒炭で塗り潰されたようである。崩れかけた甲板も足下に投げ出されたエリックの死体も、まったいらな黒真珠に似た海も、見つめれば見つめるほど、きめ細かい墨炭のタッチで描かれているような錯覚を覚える。

 

 ひときわ生ぬるい風が、頬を撫ぜた。

 ひとつ、生ぬるい雫が、頬で弾けた。

 人差し指で頬をなぞる。濡れている。

 

「雨?」

 アリアの問いが、カノンを幻想への回帰から呼び戻した。アリアが両手を皿にする。その上に大きな雨粒が一つ、二つと落ちる。自分だけの幻ではなかったらしい。

「まずいぞ」

 戦士が悪態を吐いた。勇者が対照的に呑気な調子で尋ねる。

「何が?」

「地図貸せ」

 フーガはサタルから世界地図を受け取り、自分達がいる場所を確認する。たちまち彼の顔つきが険しくなった。

「もうすぐ、オリビアの岬にさしかかる」

「おっ、ちょうどいいじゃん」

「いいわけないだろう。お前、どうやったらオリビアの呪いが解けるか分かってるのか?」

 サタルは笑顔のまま黙った。フーガは賢者へちらりと目を転じる。

「アリアは何か知ってるか?」

「天候を左右するほどの地縛霊はニフラムごときでは昇天しないでしょうし、しゃ、シャナクでもまず無理だと思います」

 心なしか語調を震わせ、賢者はそろそろと勇者へ視線を送る。

「こういうことは悟りの書でやっと五芒星に干渉できるようになった私より、生まれつき光の大三角形を持つサタルの方がどうにかできると思ってたんですけど」

 勇者は期待、不安、恐れの入り混じった視線を受け止めても、笑顔を崩さなかった。彼はその清々しい笑みを保ったまま、唇の隙間から白い歯を零し、言った。

「やっべえな、これ」

 途端、バケツをひっくり返したような豪雨が落ちてきた。頭を、肩を滝のような雨が殴りつけてくる。

 突風が身体を煽った。足を踏ん張って耐えようとするも、足場が急に沈み込んでがくりと膝をつく。先程まで波一つなかった海が、荒れていた。押し合い圧し合いする黒い荒波の狭間で、幽霊船はなすすべなく蹂躙される。

「何か、聞こえませんか?」

 耳元でわめきたてる狂風の向こうから、アリアが叫んだ。雨風の音以外に何が聞こえると言うのだろう。カノンは聞き返そうとした。

 

   あなた……

 

 彼女はぎょっとした。低く唸る風に紛れて、今にも消えそうな恨めしい女の声が聞こえたのだ。

 女の声はまだ何か言っている。しかもただ喋っているのではなく、節をつけて語っているらしい。

 

   そこ行くあなた あなた

   お尋ねします

   あなたが私の良いひとですか……

 

「あれ、お前がさっき歌ってたヤツじゃないのか?」

「思いっきりマイナーコード全開だけど、仰る通りで」

 男性陣にも聞こえていたらしい。フーガが訊ねるとサタルが頷いた。どことなく感心した風である。

「いやー、まさかオリジナルの方で楽曲提供してたなんて」

「呑気なこと言ってる場合か。このままだと船が沈むぞ」

 フーガは船体の揺れによろめきながらも、床を力強く蹴って走り出した。カノンも後に続く。このまま海に近い位置に居続けるのは危ない。

 戦士は先程カノン達が通りすぎた壁の内側へと入り込んだ。上へと続く階段がある。繋がる先は屋根のない甲板らしく、切り取られた四角から、稲光を撥ね返して降り注ぐおびただしい雨針が見えた。

「この船の舵は誰が取っているんだ。こんなボロ船でこの嵐に突っ込もうとするなんて、どうかしてる」

 言いながらフーガは階段を一足飛びに駆け上がり、周辺を見回して、何処かへと駆けていった。

 カノンは身体が揺れに持って行かれそうになるのをどうにかこらえつつ、低い姿勢で階段を手すり代わりに一つ上の甲板へ辿り着いた。周囲を見るため首をひねろうとして、またよろけた。上に屋根もない吹きさらしの甲板には、暴れ狂う風雨からカノンを守ってくれるものが何もなかった。

「わはは、わしの船は沈まんのだ!」 

「もう一回沈んだんだくせに何言ってんだ。早く舵貸せ!」

 開け放された操舵室から、丸太のような足で骸骨を蹴り倒すフーガの姿が見えた。彼は舵に飛びつく。

「くそ、舵が効かねえぞ」

「ダメだ」

 気が付くと、傍にサタルがしゃがみ込んでいた。彼は濡れて額にはりついた前髪を手で払い、険しい目つきで操舵室を睨んでいた。

「ここは一種の霊界だ。干渉できる術を持たない人間じゃあ何もできない」 

「じゃあどうすればいいのさ」

「見て!」

 振り返れば、階段から顔を覗かせたアリアが天を指している。カノンは彼女の指の先を辿って、瞬きを繰り返した。

 黒雲に、小さく女の顔だけが浮かび上がっていた。遠いから、どんな顔立ちで表情かまでは見て取ることができない。女の顔は真昼の月に似て青白く病的で、その周囲を黒雲が渦のように取り巻いている。まるで、あの雲全体があの女の髪のようだ。そう思ってしまって、カノンの肌が粟立った。

 

   あの人の髪は 闇の衣

   あの人の目は 世界樹の葉

 

 空の女が、物悲しい声で歌っている。目も鼻も口もはっきりとは窺えない。だが見えない視線が、悲しみに塗れたねっとりと絡みつく眼差しが、闇の衣の髪と世界樹の目を持つ男を求めて全身を舐めまわすのを感じた。

 肩にサタルの腕が回るのを感じた。怖いのだろうか。気休めに、肩に乗った手を握ってやった。

 

   穏やかなさざなみの声

   抱き締める腕は逞しく

   ああ 呼ばせてください

   あなたは私のエリックですか

 

 もしや、あの女がオリビアなのだろうか。そうカノンが考えた時、掌中で熱い脈動を感じた。驚いたカノンが手を開くと、ハート型のペンダントが白く脈打つように輝きながら浮き上がった。ペンダントはひとりでに宙へと舞い上がり、不意に目も眩むばかりの閃光を放ったかと思うと、そこから仄かに光輝く美男子が迸り出た。

「オリビアっ」

 男が叫んだ。よく見ると、彼は先程階下でエリックと呼ばれていた死体に似ていた。髑髏に皮がへばりついたようだった顔はしなやかな筋肉に覆われ若々しく、瞳は夏を迎えた木々のような明るい緑に燃えている。

 すると、天井の女に変化が起きた。白い顔がするりと雲から抜け出たのだ。女は長い黒髪を背後へ流し――不思議なことに、男に近づくにつれ髪は煌めきながら次第に栗色へと彩りを変えていった――一目で高価だと分かる向日葵のドレスを波打たせ、男に飛びついた。

「ああエリック! 私の愛しき人。あなたをずっと待っていたわ」

「オリビア、僕のオリビア。もう君を離さない!」

「エリックーッ!」

 恋人たちは抱き合ってくるくると回りながら、天高く上っていく。気付けば暗雲は薄れつつあり、碧空が顔を覗かせている。雲の切れ間から差し込む光のカーテンに導かれるように、恋人たちは幸せそうな笑い声と共に上昇していく。 

「え、昇天してる?」

「嘘だろ。コッテコテすぎねえ?」

 アリアとサタルが恋人たちを見上げながら会話する。カノンはあまりの急展開に、口を開けたまま天を仰ぐことしかできない。

「おーい、急に揺れなくなったんだがなにか――何だありゃあ」

 操舵室から出てきたフーガが、抱き合い回転しながら空を舞う男女を見つけて素頓狂な声をあげた。カノン達三人は顔を見合わせ、一斉に噴き出した。フーガは急に笑いだした少年少女と幽霊カップルをかわるがわる見て困惑しきった表情になる。だが、カノンは説明してやれない。

 なんだかおかしくておかしくて、笑いが止まらなかった。

 

 

 

***

 

 

 

「ついに、ここまで来ちゃったかぁ」

 サタルが舳先に立って、行く手にそびえる景色を前にひとりごちた。のびのびと波広がるあたたかなアッサラーム内海の向こう、険峻と立ちはだかるネクロゴンド新山脈は冷たい蝋色で、山脈と言うより鉄でできた絶壁のようだった。

 その高い山脈のうち一カ所だけ、他より高さの低い山がある。頂より煙を立ちのぼらせるその山が、いにしえより存在するネクロゴンド火山である。

 あの火口に、ガイアの剣を落とすのだ。

 カノンは隣に立つサタルを仰いだ。そう言えば、この男の父親は火山に落ちて死んだのだったか。

「怖い?」

 サタルは眼前の眺望からカノンへ目を移し、唇に小さな笑みを乗せて首を横に振った。

「いつだって怖いよ。だから今更、『怖いからやーめた』なんて言わないさ」

 無理せずやめたっていいのに。カノンは思ったが口には出さなかった。

 年若い勇者は、まだこちらを見下ろしている。何か用があるのだろうか。カノンは首を傾けて見つめ返す。笑みの消えた口元。高くまっすぐな鼻筋。甘い目元と凛々しい柳眉。白色系の肌は荒れを知らず、出会った頃より日に焼けたせいだろうか、ひ弱で軟弱そうだった印象が少々薄れたように思う。体躯もやっと、それでもまだ細身なようではあるが、男と呼んでもいい様子になってきた。黙ってこうして陽射しのもとに立っていれば、光の恩恵受けし勇者と称するにふさわしい麗しさである。

 それでも、また彼が勇者ではないのではと思ってしまう自分がいる。

 その薄すぎず厚くない唇が、ふと緩んだ。

「俺、君のことが好きだ」

 思考の淵に沈んでいたカノンは、その考え事の中心である彼が口を動かしたという現象を認識するのが遅れた。だからもちろん、彼が口にした内容を理解するのにも時間がかかった。

 彼女は耳に残る彼の声の残滓を追った。いつになく優しい、真夏の木陰を吹き抜ける風に似た声音だった。

 その声で、彼は「おれ、きみのことがすきだ」と言った。

 まるで愛を囁くかのように。

「いきなり何」

「何って告白だよ」

 サタルは首をかしげてカノンの目を覗き込んだ。

「俺はカノンのことが好き。女の子として、ヒトとして好き。そういう告白」

 カノンは無言で、その南国の空と海の虹彩を凝視した。

 彼の瞳は、アリアハンの天海の色だ。ふと気づく。同じ南国にしても、この辺りの海はここまで色が澄んでいない。

 ――空気が、変わっている。

「で、どうしてほしいの?」

「え?」

「はいはいスキなわけね、って言えばいい? それとも冗談はよそで言えって言えばいい?」

 天海の双眸が、ぱちぱちと隠れて現れてを繰り返す。虹彩に映る自分の姿が揺らいだ。

「もしかしてジョークで言ってると思ってる?」

「他に何があるのさ」

 サタルは大きな溜め息を吐いた。

「困ったなあ。信じてもらえないのか」

「当たり前だろ。自分の普段の行いを振り返ってみなよ」

「ごもっとも」

 くそ、と毒づいてサタルは舳すりにもたれる。天を仰ぐ少年に、カノンは容赦なく言葉を浴びせる。

「だいたい、軽いんだよ。あれが好きこれが好き、食べ物の好みみたいにぽんぽん言いやがって」

「じゃあもっと重く言えばいいの? ミスリルの指輪買って百本の薔薇の花束持って『結婚前提でお付き合いしてください』って、正装で跪いたら分かってくれる? ご両親にも挨拶しようか? それとも、君の故郷の求婚の作法にならおうか」

「重くてヤダ」

「それもダメなのか」

 鼻を鳴らして答える。作法にならえば手に入れられてくれるのかと言いたげな口ぶりも気に食わない。

「あたしのことなんて何も知らないくせに」

「なら言うけど、君が君の全部だっていうことを俺が知って、それでも好きだって言ったら受け入れてくれるわけ?」

 カノンは咄嗟に返事ができなかった。それをどう受け取ったのか、サタルは肩を竦めて見える。

「無理だろそんなの。第一、君の全部なんて君自身把握してるのか?」

「うるさいな。そんなところからひっくり返してこないでくれる?」

「そもそもさ、俺に君の全部を見せたいって、君思ったことある?」

 今度こそ、言葉を発せなかった。

 カノンは彼に何も話していない。『話せない』のではない。『話さない』のだ。本当なら話すべき、彼は知っているべきなのだ。

 けれど、カノンは勇者から顔を背けた。

「理屈っぽい。面倒くさい」

「だってこのまま引き下がったら、君は俺の言ったことを冗談だって思うんだろ」

 その通りである。そうでなくとも、冗談であってほしいし冗談であることを信じたいと思っている。

「みっともないのは分かってるよ。屁理屈こねてあげ足取って、君に嫌な思いさせて。だけど、君はどうせスマートに言ったって信じてくれないんだろ? 現にこうして話してたって、君は俺の言ったことなんてまともに信じてないはずだ」

「分かってるなら無駄な絡みはやめてくれる?」

 分かってないなあと彼は言った。

「信じてくれなくてもいいから、こうやって喋ってるんだよ」

 カノンはその台詞を頭で反芻した。わけが分からなかった。

「勘違いしないでね。遊びで言ってるわけじゃないんだ」

「ふざけてるようにしか聞こえないんだけど」

「ふざけてない。言っただろ、これは『告白』だって」

 サタルの方へ顔を戻した。彼は呆れたような困ったような、諦めかけているとも取れるような笑い顔でこちらへ視線を返した。

「神父サマのところでするやつと一緒だよ。信じて欲しいとか返事が欲しいとか、そういうことは期待してない。ただ、認めてくれればそれで十分なんだ」

「余計冗談みたいに聞こえる」

「じゃあ『俺のコト好きになって! 好きって言って!』って喚いたら信じてくれる?」

「信じない。コイツバカだなって思う」

「そろそろ心折れそうなんだけど」

 少年は苦笑した。さっさと折れるなら折れろ。折れてくれ。

「とにかく、そういうことなんだよ」

「どういうことさ」

 碧空の瞳が、三日月のように細まる。黒く柔らかな毛先を、さわやかな海風が軽くもてあそんだ。

「あなたが好きです。俺が君を好いてしまったこと、慕ってしまったことを許してくれますか?」

「……気持ち悪っ」

「だ! か! ら!」

 サタルは地団太を踏んだ。その様子を見て、子供かとカノンは他人事のように考えた。

「どうしてそう俺の心をバッキバキに折ろうとしてくるんだよ! 辛い! いくら自分がこれまでそう捉えられても仕方ないことしてきたからって辛い!」

「折れればいいじゃん」

「折れてたまるか。て言うか、折れてもまた自分で復活してやる」

 サタルは悔しそうに言うと、カノンの脇を通り過ぎていこうとした。カノンは振り返ってその背に尋ねる。

「返事は?」

「『告白』なんだからしなくていい。怖いから」

 今度はカノンが瞠目する番だった。サタルは身をこちらへ翻すと、ふてくされたように言いわけした。

「しょうがないだろ。君が欲しくて堪らない分、なくすのも怖いんだ」

 それからカノンの反応が薄いことを不満に思ったのか、それまでより心持ち声を張り胸を張って、こう告げた。

「でも! これで終わりなわけじゃないからね! 俺はいつだってカノンのこと好きだから。いつだって君にいつか好きって言ってもらえるようにしてやるから!」

 いつだっていつか、というのはいつのことなんだ。カノンは笑った。

「勝手にしなよ」

 そう返すと、サタルは己の額を自分の掌で叩いた。そして小声で何やら毒づき、今度こそ踵を返した。カノンは彼の背中が船室に向かう様を見送る。

 空色の短衣が、扉に消える。それを確認して、カノンは欄干をずるずると滑り落ちた。

「くそっ」

 身体から、張りつめた空気が抜けていた。欄干に背を預け甲板に座り込み、俯く顔を両手で覆う。早鐘を打つ心臓が憎い。熱い頬が情けない。

 本当だと信じたい自分がいる。冗談だと思うべきだという自分がいる。ふしだらでけがれたこの身体が、相反した思いの狭間で喘いでいる。

 そうだ、本当に遊びだと思いたいのは、自分の方なのだ。彼のことを軽薄だ不誠実だなんて言えた義理じゃない。

 カノンは暫時、一人でその身を抱えてしゃがみ込んでいた。そうして、そう言えば今回はスキンシップを一度もされなかったな、とやがて気付いた。

 

 

 

***

 

 

 

 火口はさぞかし熱かろうと予想していた。だが意外にも、頂についてもそこまで急激な気温の変化を感じることはなかった。

 火山は他のネクロゴンド新山脈の山々と異なり、剥き出しの岩場ばかりではあるものの、瘴気には満ちていなかった。それは火口周辺も同様で、だからこそ殺風景な岩場に突如現れた大地の竈は、圧巻の一言だった。

「素晴らしいわ」

 遥か下方で煮えたぎるマグマを見下ろして、ルネが夢見るように微笑み吐息を吐いた。フーガとアリアは火口を観察するふりをしながら、時折サタルを横目で盗み見る。サタルは踊る紅蓮を見つめているのか、睫毛を伏せたままである。

 父親のことを恨んだことはないと言っていた。勇者の称号を、過ぎた重みに感じたこともないと言っていた。カノンはそれを確かに、ムオルで聞いている。

 それが本当だとするならば、今彼の俯いた顔に落ちる影は、哀悼の意から来るものなのだろうか。

「やろうか」

 自分達が見ていることに気づいたのだろうか、サタルは顔を上げて毅然と言った。

「サイモンさんと、レオの御厚意に甘えて」

 彼は手にしたガイアの剣を、眼下の灼熱に向けて放った。剣は灼熱を照り返し、燦然と輝きながら落ちて行く。輝きが、灼熱と同化する。その直後、大地の震動を感じた。

「みんな下がって」

 アリアが声をかけ、吐息軽減呪と足下防壁呪を詠唱する。身体が淡い魔力の輝きに包まれ宙に浮いた、それを確認した時、眼前で膨大な大地のエネルギーが弾けた。白熱する溶けた岩が、猛火が世界樹のごとく立ちのぼり、碧空に火の粉を散らした。青い空が橙に、紫に染まった。灼熱は花火のように散って、ネクロゴンドの大地へ降り注ぐ。

「うふふふふ」

 大地の鳴動に、低い笑声が重なった。カノンが誰のものかを確認する前に、笑い声は前方へと移動していた。振り向き、再び火山の方を見るまでの彼女の視界に、手を伸ばしたアリアの大きく開けた口、身を乗り出そうとするフーガ、驚いた表情のまま硬直するサタルの姿が映った。そしてカノンはまた、いまだ火を噴く火口へ目を転じる。

 その寸時。猛る白熱の中心に溶け込み身を沈める橙色のマントが、彼女の網膜に焼きついた。

 





 

 

 

20150922 執筆完了