巨大な鉤爪に、端正な顔立ちが映り込んでいる。真摯に上方を見つめる彼は、怖くはないのだろうか。フーガは改めて鉤爪の主を見上げる。

 象牙の古城の、大切にしまいこむかのように隠された玉座の間に鎮座していたのが、この巨大な竜だった。全身を鱗の鎧で覆う彼女は、竜の女王と呼ばれていた。

「この光の玉で、ひとときもはやく平和が訪れることを祈ります」

 太い喉から漏れた声は、あたたかい威厳に満ちている。しかしフーガは、その中にしゅうしゅうという異音が混ざっていることに気づいた。

「生まれ出る、私の赤ちゃんのためにも……」

 差しだされる竜の手、己の顔より大きいその尖った鉤爪の下へ、サタルは手を伸ばした。白百合から朝露が零れるかのごとく、白銀の鉤爪の先から光輝く宝珠が、一回り小さな人の掌に落ちる。

 それを見届けると、女王は瞼を閉じ長い溜め息を吐いた。息が弱まるにつれて女王の姿が薄れる。吐息が抜けきる頃には、そこにもう竜の姿はなかった。代わりに、ヒトほどの大きさがある鶯色の卵が、緋の毛布にくるまれて佇んでいた。

「どうなったんだ」

「竜の女王は崩御された」

 フーガの問いに、テングが答えた。

「神の御使いは、世に二人とはいられない」

 サタルは手の中で燦然と輝く小さな太陽を見つめる。熱くは、眩くはないのだろうか。フーガは目を眇めずにはいられない。光の宝珠は清浄で美しい。だがあまりに輝きが強すぎて、目がくらみそうだった。

「サタル。その光の玉を、アレフガルドへ」

 テングが呼べば、彼は振り返った。勇者は小さく頷く。

「闇を封じればいいんだね」

 まるでやるべき作業を確認するような、淡々とした口ぶりである。テングが首肯すると、サタルは竜の卵を一瞥してそれに背を向けた。女王の間を出る少年の後に、フーガ達は続く。城の住人たちが女王の崩御を嘆いている。サタルは彼らに軽く頭を下げるのみで、語りかけるようなことはしなかった。

 城の門を抜ける。途端全身を包んだ豊かな緑の香り、生命を謳歌する鳥たちのさえずりに、フーガは安堵の息を吐いた。女王の城は生命の慈愛に満ちて静謐ではあった。だが、あの悲嘆に暮れる空気は堪えられなかった。

「ラーミア!」

 離れたところにうずくまる不死鳥を見て、サタルが手を振った。巨鳥はこちらを見るなり、立ち上がる。サタルが駆け寄る。巨鳥は嬉しそうに、少年にくちばしを寄せた。

「待たせてごめんね」

 彼女のくちばしやふわふわと生えそろった白い羽を撫でてやるサタルの手は柔らかく、表情は明るい喜びを湛えている。まだ幼鳥であるはずのラーミアは、フーガを縦に五人並べたより大きく、横幅に至っては何人自分を並べたらいいのかを考えるのも面倒なほどである。それにほいほいと近づいていって愛でられるサタルは、どういう神経をしているのだろう。

「ラーミア様って、やっぱり可愛いよね」

 遠巻きに少年と不死鳥の戯れを眺めていたアリアが、ぼそりと呟く。敬虔なルビス教徒である彼女は、不死鳥にどう接していいか測りかねているようだった。本心ではサタルのように、気さくに撫でてみたりしたいのだろう。

 一方、その隣のカノンは依然として変わらぬ仏頂面で少年達を見つつ、賢者の少女に提案する。

「やってみればいいじゃん」

「だっ、ダメよ! 恐れ多い!」

「大丈夫だよ。神様みたいなモンなんだから、それくらい許してくれるって」

 そうかなあ、とアリアが唸る。目に見えてそわそわしていて分かりやすい。

 そうか、ラーミアは神のようなものだった。フーガは改めて、不死鳥を畏怖の念をもって眺める。

 聖域に守られていた卵から、不死鳥が生まれた。竜の女神が死んで、その子が生まれ落ちた。こう短期間に大きな出来事を目にすると、世界の摂理なんてとんと気にしないフーガでも、落ち着かない気持ちになって来る。世界は変わろうとしているのだろうか。いや、異変が起きつつあるのか。現象だけを見据えて生きて来たフーガは、何も知らない。だが、古い王が退き新しい王が立つ時のように、変わり目というのは何か起きるものだ。

 ならば、光の神の意を代行するという勇者は。フーガはサタルを見つめる。勇者は視線に気付かず、賢者に不死鳥を撫でてみればいいと促している。振り向いたその背、巨大な何かの前へ堂々と立つその姿に、かつて見た勇士の逞しい背中を見た気がして、フーガは目を瞬かせた。

 

 

 

***

 

 

 

「遅いッ!」

 少女のものとは思えぬ一喝が、フーガの鼓膜を震わせた。

 サタルの詠唱が呻き声で止まる。腹に重い拳撃を喰らった彼は後方へ吹き飛び、地面に上半身を擦られながら受身を取って立ち上がった。

 詠唱の暇を与えない鋭い一撃、武闘家らしい良い手である。重い武具防具を纏う戦士には、なかなかできない。

 木刀代わりのひのきの棒・改を握りしめ、サタルが地面を蹴る。もちろんカノンもそこに迫っている。交差する刹那、カノンが拳を、サタルが剣を突き出す。カノンが剣をかいくぐり、サタルの胸ぐらに肘を打ち込みながら剣の柄へ左の手刀を落とす。しかし手刀は、まるで剣の周囲に見えない壁でもあったかのように、目標を外れてするりと滑った。

「あっ」

 隣にいたアリアが手で口を押さえる。サタルがにやりと笑う。

「小威力の真空呪! いつの間に」

 カノンが流された動きのまま身体を反転させて退こうとする。そこへサタルが彼女と反対に回転させた木刀を、迎える形で振る。今度はまともに入った。カノンは避けきれずに喰らった衝撃を、飛ばされながら地に両手をついて流し、側転して跳ね起き構え直す。向き合った相手を睨んだ吊りがちな瞳が、つと見開かれる。

 漆黒の双眸に、雷を迸らせ迫る大剣が映った。

 アリアが悲鳴を上げる。カノンが間髪入れず脇に跳躍する。その靴底を掠めて、光の奔流が一文字に放たれた。荒れ狂う雷は土を抉り岩を削り、その延長線上にあった森へ切り込んだ。

 アレフガルド郊外の大地が揺れる。轟音の余韻が、戦士の腹の底で小さくたゆたう。鳥たちが金切声で騒ぐ。戦士は目を逸らせないまま、唾を飲んだ。

 剥き出しの地面に、巨大な船形の亀裂が走っていた。船形はポルトガで見た豪華客船よりなお大きく、到達した森の一角、そこに生えていた木々まで、綺麗に抉り取り消し飛ばしていた。その裂けた淵からは白煙が立ちのぼっている。削ぎ取られた岩の断面が熱したナイフで切られたバターのように滑らかなのを見たフーガは、思わず己が視界を疑った。

「やっちまった」

 亀裂の発生源である少年は、自らが刻んだ爪痕を前に引き攣った笑みを浮かべて立ち尽くしている。その動きの止まった彼の首に、鞭のように腕が巻きついた。気の抜けた悲鳴を上げて背中から地に叩きつけられる少年。それを見て、フーガは嘆息した。詰めが甘い。

「そこまでだ」

「今のはなし! なしだろ!」

 フーガの制止の声に、組み敷かれたサタルが抗議する。カノンは叩き込んだ手を彼の喉元に添えたまま、鼻を鳴らす。

「戦いに待ったもなしもあるもんか」

「あーもう、あと少しだと思ったのに!」

 サタルが悔しがる。駄々っ子のような少年と、彼が刻んだ亀裂とを見比べ、アリアが未だ唖然として呟く。

「すごい威力……」

「威力より精度だよ。こんなんじゃあ、実戦じゃ危なくて使い物にならない」

 サタルが彼女の声を聞きとめて、不服そうに言った。フーガは頷く。

 この少年と同じ釜の飯を食ってきたテング曰く、サタルはこの世に生まれ出でた時からこの世の摂理を体得し、神と精霊と人の始祖が始まりに定めた誓約の言葉――これを厳密には「呪文」と呼ぶのだそうだ――無しに、その膨大な魔力をもってして摂理に干渉することができるのだという。

 この術は、熟練の術者が用いる無言呪文と呼ばれるものに相応する。だがこれは、通常ならば何年何十年と同じ呪を行使し続けてきた術者がやっと体得するものであって、呪の理屈も知らぬ赤子が生まれながらにそうやすやすと使えるものではないのだ。だから彼は生まれてこの方、その力加減を学ぶためにグリンラッドの地で修業を積んできたのだという。

 それでも、誓約の言葉なしに全ての摂理に干渉できると言うのは、これまでに例を見ないことである。

「アリアのお父さんとアリアのおかげで、このサークレットをした状態でも魔法を使えるようにはなったけど、まだまだ調整が難しいな。回復呪文なんて、詠唱無しで唱える気になんて、とてもじゃないけどなれないよ」

「勇者呪文は一通りできるんでしょう?」

「一応ね。て言うか、他の呪文は詠唱無しの方が上手くいくんだよね」

「え、そうなの?」

 すごい、とアリアの感心の言葉が尻つぼみに消える。やや俯きがちな彼女の横顔を横目で見て、フーガは口を開いた。

「アリア、お前はこのパーティーに必要だからな」

 アリアは華奢な肩をびくりと跳ねさせて、こちらに顔を向けた。丸く大きくなった赤い瞳には、「どうして私の考えていることが」とありありと書いてあって、フーガは思わず笑みを零した。

「もう二度と上に帰れないかもしれないのに、お前に来てもらってる理由、分かってるよな?」

「え? その……私は、自分の意思で」

「確かにそうだけどな、アリア。お前が帰れなくなっても来てくれると決意してくれて、俺は内心安心したんだよ。お前は俺たちにない良いものを、いっぱい持ってるから」

 アリアは双眸をぱちくりさせて、こちらを見つめている。こういうところも、サタルやカノン、自分にはないところだとフーガは思った。

「俺たちははっきりモノを言い過ぎるくせに、親しい相手に対してでも必要以上に距離を置きたがるところがある。おまけにコイツらは特に強がりでドライでマイペース極まりないからな。こう、良くも悪くもパーティーがつかず離れずになるわけだ」

「ちょっとー? 他人のコトを遠回しに薄情で変な奴って言うのやめてくれますー?」

「コイツと一緒にしないでくれる?」

「だが、お前がいてくれると空気が変わるんだよ。なんというか、華やぐというか柔らかくなるというか。サタルもカノンも、お前相手ならギスギスしないでいられるし、お前がいてくれた方が俺たちも楽しいんだ。な?」

 フーガは途中で入った苦情を無視して、二人に振った。サタルとカノンはふと視線をかち合わせ、慌てて互いに視線を外してこちらを向いた。サタルは莞爾と笑って、カノンは変化の乏しい表情で答える。

「アリアが俺たちのオアシスなのは、当たり前だろ?」

「三人だとむさくてたまったもんじゃない」

「ねえ、俺っていう爽やかなイケメンがいるの知ってる?」

 カノンはつんと明後日へ顔を向ける。サタルは肩を竦めた。

 アリアは呆気に取られたように彼らを見ていたが、フーガが自分の方へ眼差しを戻すのを認めると、再び彼を見上げた。フーガは彼女に、思ったままを語り聞かせる。

「最初お前にこのパーティーに入ってもらった理由は賢者だから、ルビス教の僧侶だからだった。けどな、今はもうそれだけじゃない。職業も役割も関係なく、アリア、お前にいて欲しいんだ。必要不可欠なんだよ。お前さえよければ、最後まで一緒に来てほしい」

 口笛が聞こえた。音のした方を向けば、にやにやと企むような笑みを浮かべたサタルと、呆れたような半眼をこちらに向けるカノンと視線が合った。

 サタルが茶化すように言う。

「ずっるいなぁフーガさん」

「なんだよ」

「ひどい」

「カノンまでなんだ。俺が何をした」

「あっあの!」

 アリアが大きな声を出して、フーガたちは驚いた。彼女の白い頬は上気して、色付き始めた林檎のようだった。

「ありがとうございます! 私、頑張ります!」

「うん。無理はするなよ」

 賢者は繰り返し、大きく頷いた。彼女にサタルが微笑みかける。

「フーガの言う通りだよ。アリアは十分持ってる。俺みたいなのは、むしろリスクばっかりなんだから、本来はいるべきじゃないんだよ」

「そ、そんなことは」

「ここまで強い力は、世界の均衡を崩す恐れがある。だからこういう力を生まれつき持っているモノなんて、本来なら生まれないはずなんだ」

 否定しようとしたアリアは、口を噤んだ。悟りの書を紐解いた彼女には、フーガとは違った視点から、何か思うところがあるのだろうか。

 戦士は改めて、少年が大地に刻んだ亀裂を眺める。いくらこれまで魔法特化の修業を積んできたとは言っても、たかが十八になるかならないかという若造ができる技ではない。

 だがそれにしても、だ。

「均衡均衡ってお前は言うけど、お前はその崩れた均衡を正すために勇者として生まれてきたって前に言ってたよな。なら、そんなに悲観的になることはないんじゃないか? お前はこの世界に欠かせない一部として見なされてるわけなんだろう?」

 もちろん世間の人々が彼の実力を知ってどう捉えるかは別物だが。フーガがそう言うと、サタルは莞爾と微笑んだ。

「人がいいなあ、フーガは」

 分かっていないと言っているかのような口ぶりに、フーガはいささかムッとする。それが顔に現れていたのか、サタルはゆるやかに首を横に振った。

「違うよ、怒らないでよ。世の中、フーガみたいな人ばかりだったら平和なんだろうにね」

「何が言いたいんだ」

「俺は、どこをもって均衡とするのか分からないんだ」

 フーガは眉根を寄せた。しかし、サタルに詳しく話すつもりはないらしい。話が繋がっているのかさえ怪しい続きを口にする。

「少なくともゾーマはどうにかしないといけない。彼はこの世界のモノじゃないし侵略力が強すぎるから、共存は難しい。彼は人も魔物も苦しめ過ぎている」

 アリアが頷いた。

「ルビス様を石化させ封じ、人間を自分の娯楽と食のためだけに苦しめるゾーマを許すわけにはいかないわ」

「まあ食べ物は生物なら誰だって必要だから気持ちは分かるけど、ちょっとやりすぎだよね。アレフガルド制圧の手順なんて、すごかったなあ」

 サタルは口調こそ軽いが、顔はまったく笑っていない。それもそうだろう。ラダトーム王を始めとした地下世界の民に聞いた大魔王によるアレフガルド制圧までの筋書きは、こちらの予想の斜め上を行っていた。

「都市それぞれを魔物で外から脅かしながら、内側へも魔の息がかかった人間を入れて信頼関係を崩していく。しかも精霊を封じ込めて、頭上を自分の暗黒で染める」

「闇は破壊性に優れていて、だから魔物達は力で攻めることが多いと聞いたけれど。ゾーマは違うのね」

「まるで、人間のような攻め方だ」

「まったくだよ。あげくにこの飼い殺し状態。人間を分かり過ぎていて、恐ろしいよ」

 お調子者はそう言って、天に顔を向けた。漆黒の空には、星の瞬きの一つもない。

「それでもこの世界をまるごと包み込み蝕む闇の力と、何でも切り裂き焼き尽くしてしまう光の力と。危険性で言うならどっちだって同じなんだ」

「そうか?」

「仮に俺が力づくで世界中に言うことを聞かせてやる! って言いだしたら、それは魔王と変わりない。そうだろ?」

「まあ、そうだな」

「でも、サタルはそんなこと言わないと思うわ」

「俺も今はそう思うよ」

 アリアの台詞に、サタルは他人事のように返す。それからおもむろに上体を起こした。

「よく見極めなくちゃ。そのために、俺みたいなこの世界のモノじゃない人間が降りて来たんだ」

 遥か彼方、故郷の水平線を眺めているような色をした彼の眼差しを見つめ、戦士は思う。この少年は自分のため世界を救うと豪語するくせに、時折やけにスケールの大きすぎる話をする。彼の視点は、いったいどこにあるのだろう。

 サタルは急に勢いをつけて立ち上がり、大きく伸びをした。仲間たちに向けて破顔して見せる。

「そのためには、まず腕っぷしをどうにかしないとな! ね、カノンもう一回!」

「今日はこれで終わり」

「ええっ! せっかくやる気出したのに!」

「あとはフーガにやってもらって」

 武闘家はすげなく言って、踵を返した。振り返る素振りも見せずアレフガルド城下へと去っていく少女。それを見て、アリアが慌てて走り出す。

「待って、私も戻る!」

 後には男二人が残された。彼らは顔を見合わせる。

「カノン、最近おかしくないか?」

「どうに?」

「前から無愛想だったけど、最近特に冷たい気がする」

「そうか?」

 フーガは首を捻る。

「冷たいようには感じないが、確かに元気はないかもしれないな。仕方ないだろう。この空なんだから」

 二人で空を見上げる。依然として太陽はおろか、月も星も存在しない。これが、アレフガルドという大地における普通の空なのらしかった。

「災難だよな、空が闇に閉ざされちゃうなんて」

「太陽がないというだけでこんなに気持ちが塞ぐなんて、知らなかったぞ」

「この世界に来てから驚くことだらけだ。空はいつも真っ暗だし、もう何十年ってこの状態だって言うし、魔王に征服されてるって言うし、ルビス様がいてしかも石にされてるって言うし、それに、父が、本当に生きてるなんて」

 フーガは少年を窺った。彼は天を仰いでいたが、戦士の目線に気づくと頭をもとに戻して微笑んだ。

「もちろん、信じてはいたよ。いや、信じてるって言うとちょっと違うか。期待してたんだ。父はまだ生きていて、いつか帰って来るんじゃないかって。特に、母がね」

「しかし記憶をなくしても大魔王を討伐しにいくなんて、お前の親父さんは本当に勇敢と言うか、正義感の強い人なんだな。火山に落ちて生きていたというだけでも随分だが、俺はそっちの方に驚いたよ」

 サタルは口を噤んだ。何か思うところがあるらしい、とフーガは察した。

 記憶を失った英雄は、全身がまともに機能しないようなひどい火傷を負っていたらしい。それを介抱していたのがラダトーム城下のある宿屋だったと聞いて、彼らはそこへ行ってその男について話を聞いていた。そして話を限り、その記憶喪失の英雄はアリアハンのオルテガで間違いなさそうだった。

 オルテガは長い年月宿で養生していたが、先日ゾーマを討ち取りにいくと言い出し、周囲の制止も振り切って発ってしまったのだという。記憶が戻らない上に後遺症だってあるのに、と宿の主人は心配そうに零していた。

「父がああなのは、性分もあるけど、きっと俺のせいなんだ」

 サタルは呟いた。突拍子もない独白に、戦士は嘆息する。

「何でそう思う。オルテガさんは記憶がないんだぞ」

「うなされてたって言ってただろ?」

 フーガは思い出す。そう言えば、宿の女将が言っていた。オルテガは記憶こそ戻らなかったが、何かが行かなければならないと急かしていると時折漏らしていたという。加えて夜眠っている間、まるで誰かと会話しているかのようにうなされていたらしい。その時特に何度も繰り返していた台詞は、看病をしていた女将の耳に残っていた。

「すまない、分かってくれ」

 サタルがそれを復唱した。

「それ、父がアリアハンを出る前に母に言った言葉なんだ。ふふ、父と母は本当にアツアツだからなあ」

 彼は目を細めた。年頃の少年が両親を思ったものとは思えない、友人を茶化すような笑みが端整な顔立ちに浮かんだ。

「父がそもそも魔王討伐の使命を受けたのは、世界に平和を取り戻したいからだった。でも、父がどうしてそんなに世界平和に焦がれたか知ってる? もちろん、他人の痛みを我が物と思えるような優しい人だったからっていうのもあるよ。でもそれ以上に、父にはある罪の意識があったんだ」

 フーガはここまで聞いて、反射的に聞きたくないと思った。それは己だけでなく誰もが尊敬し愛する英雄の、恐らく他人に知られたくないだろう部分を知りたくないからというのもある。だがそれ以上に、その父の後ろめたい部分を薄く笑みを保ったまま語ろうとする息子に、得体の知れない恐怖を感じたからだった。

「それは、世界の父の妻となるべき女性を奪い取ったっていうものだった」

 しかしサタルは、淡白に告げた。

「俺の母は、本来ならヒトの子を身籠ることどころか、ヒトの妻になることさえないはずのいとやんごとなき人だった。それがうっかり父と出会ってべた惚れしちゃってさ、自分のそれまで得ていた世界の父からの恩恵も失って、駆け落ち同然でアリアハンに嫁いできたんだ」

「そして元々世界に身を捧げるはずだった母は、やがて子を産んだ。生まれた子は母が身を捧げる予定だった相手の力を体中に宿して、死にそうに泣き喚いていた」

 話を聞きながら、フーガの背筋は震えていた。彼は今、かつてダーマの大神官が言っていたことを思い出していた。

 これは呪いだ。戦士は今になって初めて、大神官の言ったことを真に理解した。あれは決して、嘘ではなかったのだ。

「母は何度も俺に繰り返し語って聞かせてくれたよ。『いい? サタル。あなたのお父さんはね、あなたのために戦っているのよ。今はまだ帰って来られないみたいだけど、今にあなたのために世界を救って、あなたを苦しめる力が必要ない世界を作ってくれるわ。いい? サタル。父さんも母さんも、あなたを愛してるの。あなたになかなか会えなくても、あなたが生きていて幸せになってくれれば、それで幸せなの。お願いサタル、生きて。どんなに惨めでも情けなくてもいいから、生きていて』」

 サタルは淀みなく語る。その口調は優しい女性のようで、フーガは聞きながら、ああ彼はそんなに覚えるほどに言い聞かされてきたのだと悟った。

「大神官様に、両親を恨んでるか聞かれたことがある。思わず笑っちゃったね。両親を恨むなんて、俺にはできなかったよ。父は俺のために過酷な旅に出た。母はいつだって、暴走する魔力を制御できずにぼろぼろになった俺を抱き締めて泣いていた。俺だけじゃない、父も母も苦しんでた。おまけに俺の周りの人たちはことごとく、俺を可愛がって、良くしてくれた。師匠もテンちゃんも、みんな、俺とは血の繋がりも何もないのに」

 愛された少年は笑う。自嘲するように唇を歪めて、笑う。

「恨めなかったよ、誰ひとり。俺の世界は優しかった。誰も魔王と戦えなんて言わなかった。一番怨み言を言いたい相手は、俺の叫びには一度も答えてくれなかった。そう、俺は神霊に祈らなくても魔法が使えてしまうから、反応なんてまったくもらえなかったよ。ただ、他人を伝ってなら反応もらったことあるんだけどね。フーガも覚えてるだろう?」

 覚えている。忘れるわけがない。あの、少年の腕に突如焼き付いた痕を。焼きごてを押し付けたような、痛々しい傷痕を。

「だから俺は、確信しちゃうんだよ。父が記憶をなくしてもまだ世界平和を望んでいるのは、俺のためだって。幸せ者だろ?」

 

 

 

***

 

 

 

 稽古を終えて夕食を摂ろうというところに、テングが帰って来た。彼はラダトーム城下町に着いてすぐ、自分達とは少し別行動を取ると言って姿を消していた。それから三日経っても姿を見せなかったのが、やっと帰って来たのである。

 語るべきこともそこそこに、彼はフーガ達と同じ卓につきがっついて食事を摂った。よほど飢えていたのか、パンやスープを赤い大きな口で次々と平らげる姿に、当初フーガは圧倒された。だが次第に食事態度やこれまで彼が何をしていたかより、彼の体の構造の方が気になり始めた。つい忘れがちだが、このピエロめいた外見は着ぐるみ製のはずなのである。なのに、彼はそのぬいぐるみの頭をつけたままで食事ができている。フーガは、傍目にはそう見えないが作り物らしい大きくて赤い唇が、分厚い舌が、運ばれてきた食物を摂取するさまに、非常に混乱させられた。

「準備が整った」

 そして、食し終わった途端にこれである。フーガが何を言うべきか迷う間に、サタルの方が先に問いかけた。

「見つかったの?」

「うん。ゆーちゃんの盾はこの近くの洞窟にある。鎧はルビス様が閉じ込められてる塔にあって、剣はどこにもなかったけど、ラッキーなことに残骸がドムドーラに落ちてる。それを使って作ってもらおう。腕のいい職人がマイラにいるみたいだから、彼に頼めば大丈夫。雨雲の杖はメルキド南の祠の隠者が持ってる。ゾーマの城に虹の橋をかけるためにはそもそものこの世界の創造主の力も要る。だから、ルビス様にお願いしよう。そのためには石化を解かないとね。石化解除には妖精の笛が要るって聞いたから、マイラで拾っていこう」

 テングがぺらぺらとよく喋る間に、フーガは黙って世界地図を卓上に広げる。それを、五人は囲んで覗き込んだ。

「その、盾があるっていう洞窟はどこだ」

「ここ」

 テングの白く丸々とした指が、ラダトームの北をさした。フーガは頷いて、ラダトームから指を滑らせる。

「なら、まずはそこに行こう。それからこう、ぐるっと大陸を回って行けば、マイラに行くまでに勇者の盾、剣の素材、雨雲の杖が集まる。マイラで剣を打ってもらえるか頼んで、妖精の笛を手に入れてからルビスの塔に行く。そこで光の鎧を手に入れて、ルビスに会う。そして剣が作ってもらえるならばそこでその完成を待って、剣をもらってからリムルダールに向かおう。この町が一番、ゾーマの城には近いらしいな」

「リムルダールの近くに、ルビスに仕える賢者がいる。彼が橋をかける手助けをしてくれる。そこまで行けたら、いよいよゾーマのところへ乗り込む」

 テングの台詞が終わった途端、しんと辺りが静まり返った。フーガ達は宿の一室、フーガとサタル、テングが借りている部屋にいるから、他に人の気配も目も耳もない。だから余計に、沈黙が耳についた。

「本当に行くんだね、サタル」

 確認する兄弟子に、サタルは笑って見せる。

「何度も言ってるだろ。ここまで五体満足で来られたんだ。行くよ」

 少年はそう言って、それから眼差しをこちらに向けた。

「それよりみんな、本当について来てくれるの?」

「いい加減くどいぞ」

 フーガは苦笑する。隣のカノンは呆れたのか、黙ったままである。テングの隣に立つアリアが、サタルを見て唇を綻ばせる。

「グリンラッドでも言ったじゃない。私の気持ちは変わらないわ」

「アンタは」

 カノンが口を開く。彼女の大ぶりな漆黒の双眸には、少年勇者の姿が映っている。

「覚悟、できてるんだね?」

「うん」

 サタルは頷く。彼女を見つめる彼の口元は、常とは違い引き締まっている。

「俺は最初から、魔王との戦いについては不安なんてあまりなかったよ。これだけ強い力があるんだから、最低でも魔王の前に立って力を暴走させることができれば、相打ちは間違いないだろうって思ってたからね。ただ、いつ暴走するともしれない自分が怖かった」

 机の上に乗せた彼の手は、握られている。フーガが目線をその顔に戻すと、秀麗な造作はゆっくりと横に振られていた。

「でも、今は違う。力に耐えられなかった俺の身体は、君達のおかげで強くなった。だから、前より……マシに生きたいっていう気が、するようになったんだ」

 戦士は目を丸くした。彼はフーガ達に死ぬなと言ったことはこれまでに二度あったものの、生きることについて、しかも生きたいなどと口にしたことはなかった。

「それで、頼みがあるんだけど聞いてくれる?」

「何だ。いつもの約束か?」

「うーん、頼みだからちょっと違うんだけど」

 サタルは少し躊躇って、告げた。

「みんなで、生きて帰って来ようよ。自分を犠牲にしてでもとか、万が一そういう事態になりそうになっても、それはやめよう? 全力で、みんなで帰る道を探したいんだ」

 ねえ、いいかな? とサタルは一同を見回した。いつものにこやかさを前面に押し出したような笑顔ではなく、控えめで、唇の端を一ミリ吊り上げただけという、その動きすらやめようかと悩んでいるような顔をしていた。

「サタル」

 アリアが半音トーンの上がった声で呼ぶ。彼女は、感極まったような顔つきをしていた。

「あなたも、随分可愛いこと言うようになったのね」

「え、何その『いつもは憎たらしいケド』みたいな言い方。しかもアリアに言われると、微妙に傷つくんだけど」

「憎たらしいのは事実だろう。お前、どれだけ自分の口が余計に回ってるか、まさか分かってないわけないだろうな?」

 フーガが言うと、サタルは口の端を引き攣らせた。戦士はその顔をじいと凝視して、やがて噴き出した。

「バカだな。お前が頼むことじゃないだろう。それこそ、これは約束にすべきだ」

「え、そう?」

「ああ。どちらかがどちらかに頭下げるんじゃなくて、お互いに頭上げて約束しよう」

「ええ、それがいいわ。私だって、みんなで生きて帰りたいもの」

 アリアが歌うように言って、両手を胸の前で重ね合わせた。

「約束しましょう。私達、みんなで帰って来るの。この世界のことはまだよく分からないけど、みんながいればきっと楽しいわ。帰って来て、みんなで楽しく暮らせる場所を探しましょ? ね、約束よ?」

 銀の少女は眩い笑みで仲間達を見回して、最後に隣の黒い少女を覗き込んだ。カノンは一瞬目を見開いてから、気圧されたようにこくりと頷いた。

「そうだな。住む場所を探して、また旅するのもいいかもしれないな」

 フーガも首を縦に振る。サタルは思いの外話が飛躍したのに驚いているのか、目を丸くしている。こういう表情を見ていると、意外と年相応に幼い顔立ちをしているのだなと思う。

「仲良しな友達ができて、良かったねえ」

 テングが隣から、勇者ににっこりと笑って見せる。お前も一緒だぞテング、とフーガは念押ししてから、サタルを見下ろしてにやりと口の端を吊り上げた。

「何だ、泣きそうなほど嬉しいのか?」

「イケメンの涙はレアなんですぅー。だからそう、簡単に見せてたまるかよっ」

 サタルはそっぽを向いて舌打ちした。照れ隠しだろう。フーガはバラモス戦後、グリンラッドで一緒に旅を続けることを告げた時涙を見せた彼が、慌てて目を拭いながら部屋から一度出ていけと怒鳴ったことを思い出して、つい微笑んだ。

「じゃあ、明日出発でいいね?」

「おう、いいだろう。いいよな、お前ら」

 テングに答えたフーガが問いかけると、アリアとサタルがもちろんと答えた。

 そこで、大きな欠伸が聞こえた。見れば、カノンが口を押さえていた。

「決まったなら、悪いけどあたしはもう風呂に入って休ませてもらうよ。最近どうも疲れやすくてね」

「あ、それなら私ももう戻るわ。明日の支度もあるものね」

 カノンがまず扉に向かい、アリアがこちらに微笑んで見せてから背を向ける。男達は経ったまま、彼女らを見送る。扉が閉まると、テングが大きく伸びをした。

「あーあ、ずっとお風呂入ってないから気持ち悪いや。先入って来てもいい?」

「ずっとっていつからだよ。まさか俺たちと別れた後からじゃないだろうな?」

「そのまさかだね」

「お前どこ行ってたんだ」

「んー? ちょっとそ・こ・ま・で~」

 テングは鼻歌交じりに告げて、スキップしながら浴室へと消えていく。はぐらかされたフーガは顔を顰めて首を捻る。

「アイツ、本当によく分からないヤツだな。面白いことは面白いし博識だから助かるんだが。なあ?」

 フーガはちらりと横に目を流す。だが、何か教えてくれるかもと期待した聞き手は、まったくこちらの言うことを聞いていなかったらしい。サタルは俯いて、何やら考え込んでいるようである。

「おーい、サタル?」

「俺、やっぱりカノンに避けられてる」

 サタルは顔を上げて、戦士を見上げるとそう断言した。何の脈絡もなくそのようなことを言われ、フーガは少々面食らう。

「いきなり何だ」

「だって、気になって」

「俺はお前以外に、カノンに冷たくされてるなんて言ってる奴聞かないぞ」

「じゃあ俺だけに?」

「何かしたんじゃないのか?」

「そんな、何も……いや」

 サタルはしばし熟考するそぶりを見せる。思いの外、真剣な様子である。ややあって、彼は貴公子然とした顔立ちをこちらへ向けた。

「いや、実はですね。最近、カノン以外で興奮を覚えなくなった」

 フーガは黙って、サタルを見つめる。サタルの方もこちらを、至って真摯な眼差しで見つめ返してきた。

 冗談だろうか。いや、それが事実かどうかは確認したくないが、それは置いておいて。

「お前、まさかカノンに手出しを」

「それがまっったく、手出ししてないんだよ」

 サタルは奇跡だとでも言いたげな様子である。フーガは世の善男ならそれが普通だと言いたい気持ちを堪えた。サタルはそれに気づかず、呟く。

「手出ししてないのにカノンのアレやコレやが頭に浮かんでさ、他はそれと比べるとグッと来ないんだ。綺麗なヒトだなあとか可愛いコだなあとか、それは思うんだけど、お近づきになりたいと思わなくて。代わりにカノンちゃんに近づきたくて近づきたくて、でも近づくわけにはいかないから、その結果妄想の中のカノンちゃんと夜な夜な――」

「やめろ。それ以上言うな」

「だって」

「だってじゃない。お前の顔面カンオケにするぞ」

 それは勘弁、と色ボケ勇者はわざとらしく自分の身を抱える。フーガは彼をじとりと睨む。

「お前、それ本人にカミングアウトしたのか?」

「するわけないだろ。この空気読みの達人たる俺が」

 サタルはぬけぬけと言ってのけた。何が空気読みの達人だ。寧ろエア・クラッシャーだろう。

「て言うか、実はもう事故を含めて押し倒す機会は結構あったんだよ。五回くらい」

「聞いてないぞ」

「聞かすわけないだろ」

 フーガは内心頭を抱えた。ああ、なんということだ。

「それはカノンに悪いことをした。そんなにひどい真似をされていたのに、気付けなかったなんて」

「俺のこと陰湿な極悪人か何かみたいに言うの、やめてくれねえ? あと拳の関節鳴らすのもやめてくれませんか超怖い」

 フーガは派手な音を立てていた両拳を離した。それを見て、サタルは安堵の吐息を漏らして告白する。

「でもまあ安心してよ。全部失敗したんだ」

「失敗してなきゃ困る」

「一回目はいいカンジに行きそうだったんだよ? けどそれがだんだん、どんどん落ち着かなくなってですね、今じゃあその」

 サタルは俯いて、両手で顔を覆った。

「どさくさに紛れて髪の毛触るどころか、指先に触るだけでもできなくなってきた……」

「お前が?」

「笑えよ。笑ってくれよ」

 サタルは顔を覆っていた手で、腹立たしげにテーブルを叩く。拗ねたような顔つきの彼に、フーガは問いかける。

「でも、組手中は普通にやれてるじゃないか」

「それは別。男としてそう簡単にやられるわけにはいかないし、カノンの動きは本当に綺麗だから、合わせたくて」

「お前な、ダンスじゃないんだから」

「何より下手に気を抜いたら殺されかねないと思って」

「そうだよな、肝心なのはそこだよな」

 フーガは繰り返し首を縦に振る。サタルは自分の寝台に歩み寄って腰掛けると、溜め息を吐いた。

「さらに前にも、いわゆる愛の告白ってヤツをしたんだけどね」

「初耳だぞ」

「ごめんね報告しなくて」

「いや、別にしなくていい」

「だけど、『私も好き』って言ってもらえる自信なかったんで、『返事はいらない』なんて言っちゃって」

 フーガは思わずそちらを向いた。優男は座った位置を保って両足を下に垂らしたまま、寝台に仰向けに転がっている。顔は見えないが、ヤケになっているように窺えた。

「お前、もしかして」

 フーガは訊ねようとする。サタルはなに、とだけ返した。

「本命に対しては、すごい奥手なの?」

「笑えよ、大笑いしろよ、俺が笑いたいよ!」

 くそっくそっ。サタルは仰向けになったまま、脇に一文字に広げた両腕でベッドをバンバン叩いた。色男ぶりに似合わない、駄々をこねる子どものような仕草である。

「こんなこと今までなかったんだよ! だいたい、スキって言ったことだって付き合ったことだって片手で数えるくらいしかないし! ガキっぽい付き合い方してたんだよ!」

「ふーん。何となく、お前の恋愛のどこが問題なのか分かった気がするな」

 ガキっぽいかどうかは別として、彼は身体だけの関係に終始してきたのだろう。得意の口説き文句は、その前戯といったところか。

 サタルはおもむろに上体を起こす。いつもは整えられている黒髪が乱れている。彼はふてくされたようにぼやいた。

「問題なのは分かってるんだよ。嫌われる心当たりだって、ありすぎるくらいなんだよ。でも、このタイミングでっておかしくねえ?」

「これまでの鬱憤が、ここで一気に出てきたとか」

「カノンなら俺相手に溜め込まないだろ」

「それもそうだ」

「でも俺、最近すっごく大人しくしてるよ? 前ほど女の子と話し込まなくなったし、夜遊びに行かなくなったし、カノンにしつこく絡むこともしなくなったし」

 フーガは最近のサタルの様子を思い出す。確かに彼の言う通り、夜遊びにはまったく行かなくなった。街で女性に大した用もないくせに話しかけることも、随分少なくなった。

「まあ、そうだな。お前は大人しくなったよ」

「それでもなんか最近、カノンが冷たい気がする」

「気のせいじゃないのか?」

 そうかなあ、とサタルは首を傾げた。

 

 

 

 

 

 

 タイル張りの床を、細かな雫が執拗に叩く。高い位置に据えられたシャワーノズルから水が落ちている。冷たい雨のようなそれを一身に浴びる柔肌はきめ細かく、水は緩やかな曲線を描いた背を伝い流れていく。

 その肌の主は、先刻からしばらく鏡に映る己の背を凝視している。しかし、どんなにどんなに見つめても、彼女の背に浮き上がる漆黒の龍は、一向に水とともに流れ落ちる様子が見られなかった。

 少女は黒龍を、その震える指でなぞる。高温の鋼で焼き潰されたようなそれは、はっきりと肌に染み付いていた。刻印のごとく背中じゅうに刻み付けられている。

 龍はとぐろを巻いて、こちらを威嚇している。

「う、う」

 少女は呻き、口を押さえてへたり込んだ。床に擦らんばかりに頭を垂れる。彼女の幼い顔立ちを、長い黒髪が夜の帳のごとく覆い隠した。

 氷雨はそれでも、彼女の上へ執拗に降り注ぐ。

 





 

 

 

20151003 執筆完了