かつてのネクロゴンド城――現在のバラモス城の真なる王座の間は、かつての荘厳さをおどろどろしさに変えていた。天井、柱、絨毯、床、至る所に刻まれた裂傷や黒ずみがここで長年何が行われてきたかを物語っている。
 そこでは今、四人の挑戦者が新たな黒ずみと化そうとしていた。
 蜥蜴の魔人は、玉座の前に立ち満足そうに眼科の光景を見下ろしている。豪奢なローブは裂かれ青い血液が滲み悲惨な格好であるが、後述する者達ほどではない。それが彼に恍惚をもたらしていた。
 彼の見る光景――王座の間に散らばる者達は、最早虫の息だった。司令塔の戦士は赤き絨毯の中央で俯せに倒れている。その後ろに横たわる女賢者同様、全身が焼け爛れてもう指一本を動かすことすら大義だろう。武闘家の少女は彼らより遥か後方、壁に叩きつけられてから倒れ伏したまま微動だにしない。残る一人、少年は屍同然の仲間達の前に立ち尽くしている。火傷も切り傷も生々しいがまだ四肢は健在らしい。しかし、呆けたような様で、使い物になりそうにない。
 また愚かな人間どもを葬った。しばらく自分の力を存分に振るう機会がなくて退屈していたのだが、今回やって来たこの者達はなかなか手こずらせてくれた。しかし、結局はこれである。この世界は魔王バラモスの天下だ。それを再認識できたことが愉快で仕方ない。
 この者達はどうせどこからともなく集まった腕自慢だろう。拷問してどこの王の差し金か訊くまでもあるまい。光栄にも我が手で直々に命を奪ってやろう。
 近頃各地で相次いで部下を失っていた魔王だが、今日の戦いを制したことで少し気分が良くなった。まだ部下は来る。何も落ち込み急ぐことはない。何より、こんなに強い己がいるのだ。人間どもを完全制圧する日も近いだろう。
 魔王は自惚れる通り実力者ではあったが、少々ものの理解が甘かった。たとえば世界の情勢であったり部下の現実であったり、そういうものがよく見えていなかった。そして現に、彼は一つ重大な読み違いをしていた。
 一人仲間達の前に佇む少年、彼が何故動かないのかをバラモスは大して考えず、己の強大なる力の前に我をなくしたものと見ていた。だが、よく見れば分かったはずなのだ。
 少年の瞳はまだ絶望に曇っていなかった。澄み切ったそこにはあるのは、ただ諦めである。そして後悔である。口元の歪みは泣き笑いに近い。
 仲間達が死に瀕している。まだ死に絶えてはいない。敏感な彼は彼らの生命のあることを気配で感じ取っていた。
 彼はバラモスではなく、仲間のことを思い浮かべる。
 アリア、可憐で美しい心の持ち主。彼女とは他の二人に比べて過ごした時間は短いけど、それでもたくさん会話をした。彼女やその家族から、本来なら自分ももっと早くに手にしていたはずのものを知った。羨ましくて尊い人。
 アリアハンから彼を追いかけてきて、何かと案じてくれたフーガ。兄や父というのはこんなものだろうかと思わせるような言動が嬉しかった。とぼけた自分にも怒らず、苦笑い一つで許してくれた。本当は許してないのかもしれない。でも、多分許してくれていると思う。今度こそそうしてはくれないだろう。
 そしてカノン。自分のこれまでしてきたことがごっこ遊びであったことを、改めて思い知った。初めて本気で恋をした。愛を知った。彼女の先を見据える黒い瞳が好きで、言葉通りでない言葉が愛しい。自分を己を大切にしない粗忽者と罵っていたけど、彼女だってそうだ。武術武術ばかり、少しは自分のために何かしたらいいのに。だから彼女が己を大切にしない分、自分が大事にしてやりたかった。
 そう、少年は現状に絶望してなどいない。別れを惜しんで、恐れていた。
 仲間を作らず一人で挑むつもりだった。作ったところで、目的を成し遂げたらいなくなってしまうのは目に見えていたから。フーガ達が仲間に名乗り出てきてしまった時は、仕方ない、いつまで続くか分からないけど割りきろう、そういうつもりでいた。
 しかし、こんなに自分を信じて一緒に来てくれるとは思わなかったし、失いたくない存在になるとは予想外だった。それが嬉しくて、とても悲しい。
 でもどうあがいても、これでお別れだ。失いたくないからこそ、別れなければならない。だから彼は背後を振り返った。
 戦士は火傷で痛々しい顔を必死に歪めて逃げろと言っている。賢者は腕を動かそうとしているのか、肩がぴくぴくと跳ねる。武闘家の虚ろな目は宙を漂っている。
 ああ、何を言ったらいいんだろう? 言葉には自信のある少年である。しかし、この時ばかりは思い浮かんだ言葉が全て陳腐なものに感じられた。これまで散々嘘を吐いてきた自分である。今更何を言っても何にもならないだろう。
 だから代わりに彼は微笑んだ。言葉に比べればまだましな、自分のための嘘だった。

 

 

 





 こうして地に這いつくばったのは何年ぶりだろう。フーガの意識はそれを求めて、幼少期へと舞い戻る。父や多くの先輩兵に稽古をつけてもらったあの日々。やはりこの地の味を何度も味わった。もっとも、王座の間ではなかったが。
 まさかこんな日が来るとは――そこでフーガの意識が帰ってきた。実際には数秒のことである。しかし彼にとってはとんでもない過失だった。
 首を反らせば激痛が走る。長きに渡る戦いと憎き者の最大級呪文を繰り返し浴びたせいで、彼の装備は焼け焦げ、身体は限界を迎えていた。四肢は胴から切り離されてしまったかのように感覚がなく、唯一動く首でさえこの有り様だ。しかしそれでも彼は、必死に状況把握に努めた。
 アリアが少し離れた所で仰向けに倒れている。フーガ同様皮膚という皮膚が溶け、胸の上下が激しい。もう回復呪文を唱えられるような状態じゃないだろう。
 その更に遠方には、壁に大きなひび割れを作った小さな少女が転がっていた。武闘着の裾はぴくりとも動かない。
 残る一人は、呆けたようにフーガ達の前に立ち尽くしていた。彼も刻まれた傷がおびただしいが、幸いまだ立てている。絶望的な状況に火が灯った。
  サタル!

  喉がやられている。フーガは血の滲むのを気にせず振り絞った。

「逃げろ! お前だけでも逃げればまだチャンスがある!」

 サタルが振り返る。その顔を見て、フーガは言葉に詰まった。彼はこの危機的な状況で、幸せそうな笑みを浮かべていたのだ。
 頭がおかしくなったか? 瞬時、彼の脳裏にダーマでのことが過る。しかし呼び掛けるより他にない。フーガは彼の名を呼び逃げるよう繰り返す。だが、サタルは体をもとの向きに――即ち、バラモスの方に戻した。
 戦士は慄然とした。まさかまだ戦う気か?

「やめろ、無茶だ!」

 呼び掛けてもサタルは何も反応しない。バラモスの声が朗々と響く。

「まだ戦うか? 愚か者め」

 明らかな侮蔑と余裕は感じ取っているだろうに、サタルは背を向ける気配がない。少年は玉座の前に立つ魔王を見上げ、静かに口を開いた。

「君はこの世界の存在じゃない。そうだね?」

 フーガは唖然とした。それはバラモスも同じようだった。

「……何が言いたい?」

 突拍子のないサタルの言葉に、魔王は勝利の陶酔を忘れた様子で訊ねる。しかし少年は、訊ねたくせにまともな答えを返さなかった。

「君がどれほどのものなのか……ずっと考えてきた。父の訃報を聞く前から、物心ついた頃から。君はどれだけの存在で、神は君をどう見なしているんだろう? そして」

 サタルは左の掌を見た。腕の裂傷から湧いた血が伝って濡れている。

「君は俺に、勝てるのかなって」

 彼は掌を額に、正しくは額にあるサークレットの宝玉へと押し付けた。何事かを口の中で唱える。


 ――前身が粟立った。


 フーガは瞬きを繰り返す。視界に大した変化はないのだ。少年がバラモスと自分達の間に佇んでいる。その身体は炎のような青い光を帯びている。それだけだ。

 けれど、体感が違う。あの炎を見つめていると肌がちりちりと焼けるような、ブリザードを浴びるかのような感覚を覚える。身体を無数の針の筵で包まれるよう、体中の穴という穴から氷の礫が溢れ出すよう、とも表現できるが、それでも正確に言い表せたとは思えない。

 フーガの知る、この世の感覚ではなかった。
  何かが小刻みにぶつかる音がする。何故バラモスは攻撃しない? 魔王を見ようとしたフーガは、少年の頭に見慣れた銀の光がないことに気付いた。

「ベホマズン」

 初めて耳にする詠唱。声の主は二人の少女ではない。
 爛れた皮膚が、断ち切られた筋が、みるみるうちに癒えていく。これまでにかけてもらったどの回復呪文より速い。

「うん、大丈夫そうだね」

 少年は背後を振り返って微笑んだ。その頬から覗いていた肉を、急速に発生した皮膚が覆う。彼の傷も不思議なことに衣服も、バラモスとの戦闘で負った傷が全て癒えていた。

「嘘よ……」

 己の傷もなくなっていることを確認して目を見開く戦士の後ろで、賢者が呟く。傷が全快したにも関わらずその身も声も震えていて、フーガは先程の音は彼女の歯が触れ合って鳴ったものだと理解した。

「こんな……どうして……」

 髪色より尚白い顔は、怯えてひきつっている。

「どうした?」

 フーガが尋ねるも、アリアは口を手で覆うのみ。サタルはそんな彼女を悲しそうに見つめる。サークレットの消えた彼の風貌は、常よりやや大人びているよう感じられる。

「ごめん、今はまだ説明できない」

 やるべきことを済ませなくちゃ。
 少年のマントが翻る。魔王バラモスは気圧されたように身を引いた。しかし、すぐに姿勢を戻す。

「ふん、どんな小細工か知らないが……また同じ目に遭うがいい!」

 魔王は最大火炎呪文を詠唱する。沸き上がった焔が少年を飲む――いや、飲んだかに見えた。しかし、火炎は少年の前で弾けて消える。
 不可解に怯むことなく、バラモスは次の呪文を繰り出す。

「イオナズン!!」

 少年は今度こそ、爆発に巻き込まれた。大爆発が身体を跳ねさせる。一度ならず二度、三度と爆発が彼を襲う。

 フーガは加勢しようと腰を上げかけて、ふと奇妙なことに気付いた。何故、魔王の呪文が自分やアリア、カノンに届かない?

 その躊躇いのうちに、爆発が掻き消えた。

 勇者が佇んでいる。その身体に大した傷がないのを見て、魔王の緑の肌は土気色に変わった。少年の口の端は吊り上がっていた。

「加減は掴めたかな?」

 風呂の湯加減を確かめるように、彼は右手人差し指で魔王を指さした。魔王の身体がぎくりと跳ねた、ように見えた。

「俺、嬲るのは嫌いなんだ。気分が悪くなるし、倫理的にも良くないと思うから」

 玉座の下から湧きあがった火炎が、バラモスの身体を宙に掲げ上げた。炎をよく見れば火柱が二本、腕のような形をしている。紅蓮の腕はバラモスを、赤子を天に捧げるように持ち上げ、暴れるのをしっかりと握りしめる。

「だけど、俺には君を葬る義務がある。これで下手にやり過ぎたら、ちゃんと殺したのかそれとも逃げられたのか分からなくなっちゃうからね。真面目にやらせてもらうよ」

 みんな、目を瞑ってて。低くサタルが警告する。フーガは我に返って、手近にいたアリアの目を腕で覆った。

「貴様ッ、ふざけたま」

 怒れるバラモスの声は、中途にくぐもり切れた。鶏肉をナイフで切った時に似た鈍い音。真空の刃が魔王の首を奪っていた。

 聖風が渦巻き、首を宙で転がす。バラモスの顔は何が起こったのか分かっているのかいないのか、まだ舌を動かしている。しかし、声は出ない。

「バギ……クロス?」

 フーガの腕の中で、アリアが呟いた。目隠しはまだ解いていない。

 次いで鋭い風の渦と炎の腕を、巨大な氷柱が突き抜けた。玉座周辺が一面、氷に支配される。

「マヒャ……ド」

 半ば放心状態のアリアが、また小さく言う。

 貫かれたものの緑で美しく染まった氷柱を、今度は爆発的な灼熱の炎が覆い尽くす。氷と人のものより粘着質な皮膚が熱で形を崩していく匂いが、フーガの鼻に抑えきれない不快感をもたらした。

「ベギラゴン」

 少年の指が再度、高熱で縮んだ塊二つを指す。指先から放たれた不死鳥の雛ほどの火球が塊に衝突し、塔のような火柱を立ち上げた。

「メラゾーマ」

 炎の消え去らないうちに、光の粒子が飛び散った。空気が爆ぜる音、圧倒的な熱量が、フーガの鼓膜を痛めつける。

「イオナズン」

 それでも、塊は残っていた。サタルはそれに語りかけた。

「しぶといね」

 集中砲火が始まった。サタルが次々と放つ魔法の強すぎる光に、フーガは耐え切れず俯く。床に、玉座で起こされる惨劇の影がちらついた。

「嘘よ……嘘よ!」

 アリアがフーガの拘束を解いて、サタルの方へ立ちあがった。

「最高位五大呪文を使いこなせるのは賢者だけのはず! 貴方は勇者でしょう!?」

「勇者……そうだな、俺は勇者だ」

 彼は歌うように肯定する。その最中にも、玉座での血生臭い魔法のマジックショーは繰り広げられている。

「天に許されし、天の怒りを代行せし者。万人に一人といない正義のヒーロー、人の希望で魔の絶望」

 赤橙黄緑青、五大呪文が錯綜する。そのカラフルなライトを受けて、勇者はこちらを振り返った。

「でもアリア。勇者は他の職に就いちゃいけないなんて、誰が決めたのかな?」

 逆光の中で、青く澄んだ瞳が煌めいた。

 フーガはもうわけがわからず、背後を窺った。女武闘家は何もかも忘れたような顔で、ぽかんと口を開けて勇者を凝視している。

「お願いサタル、サークレットをつけて!」

 アリアが悲鳴を上げた。

「じゃないと、貴方が死んでしまうッ!」

 地を揺らすほどの重低音が、玉座の間に響き渡った。

 五色の光が入り乱れる中から、漆黒の殺意が噴き出す。漆黒は収縮して鋭利で細い一本の槍へと変わり、サタルを目指して直線に飛来する。

 少年の右手が、横に開かれた。曲げた五指の中央に、光が蓄積される。眩く清く、いっそまがまがしいほどのエネルギーを放つそれを、サタルは自分の前に翳した。

 白い槍が黒い槍とぶつかり合い、混ざり、灰の残滓をまき散らす。そして、黒を白が飲み込んだ。

 視界を、白が埋め尽くす。……

 

 

 

***

 

 

 気付けば、フーガは懐かしい景色にいた。赤い石造りの屋根に、白い壁の家々。木々の葉が映える。人々のさざめきも、遠くから聞こえてくる。

 常春の国、アリアハン。何故、ここにいるのだろう。

 絹を裂くような悲鳴が間近で上がり、フーガは身を強張らせた。

 アリアが座り込むサタルの頭へサークレットを押し付けている。少女の白い顔は、屑箱に投げ捨てられた紙屑のように歪んでいる。俯き己の身を抱える少年の、激しく震える身体を押さえつけてサークレットを嵌め、叫ぶ。

「どうしよう間に合わない! どうしようどうしようどうしよう……ッ」

 寒さに震えている少年に、少女は装飾品を装備させている。はたからだとそんな、何とも滑稽に見える光景である。しかし、フーガは彼女の行動が何を意味するのか、また彼の震えが寒さで起こるものではないことを知っていた。

「アリア、これは」

 フーガは性急に少年のもとへ跪き、その肩に手を置く。細く開いた口の端に透明な液が溜まり、わなわなと意味のない喘ぎ声を漏らしている。瞳孔は開きっぱなしで何も見えていない。

 肩が、異様に熱い。

「ウチじゃダメ間に合わないっここじゃあ――ああここはどこなのッ!?」

「落ちつけここはアリアハンだ! どうしたらいいのか言え!」

 フーガにも焦燥感が伝わり、語調がきつくなる。彼を仰ぎ見た垂れがちの瞳から、すうと一筋がつたい落ちた。 

「どこか広いところを――」

「待って」

 フーガ達の顔に影が落ちた。その顔を見てまた混乱する。不自然なほどの白と鮮やかな縞模様が、目に刺さった。

「テ、テング……?」

 にっこりというたとえに相応しく引かれた真っ赤なルージュ、焦点の分かりづらい糸のような目、ふくふくとした身体にピエロの手本のと称せそうな衣装を合わせた彼は、間違いなく自分の知る人物である。

「サタルのことは僕に任せて」

 男にしては高く子供にしては不気味な声でそう言い、テングはサタルの腕を取って担いだ。ルージュが裂け戦士の知らぬ言葉が、精霊文字がその周りを舞い、瞬時に姿が掻き消える。

 何でコイツがと思う間もなく、テングは去ってしまった。

 フーガ達は立ち尽くしていた。あとに残されたのは、未だ落ち着かぬ様子のアリアとフーガ、黙って空を仰ぐカノンのみである。

 アリアハンの町は、もとの平和な空気を取り戻した。

「い、今の方は……」

「テングっていう、サタルがアリアハンを出た時に一人だけ連れてった奴だ」

 遊び人だと聞いていたんだがな、とアリアを窺う。彼女は困惑したように首を傾げた。

「あのぅ」

 その時、間延びした声がした。

 彼らの向かいに建つ家の戸から、おっとりとした顔つきの女性がこちらを見つめている。よく手入れされた濃藍の髪はハーフアップにまとめられ、視線は彼らのやや上あたりに注がれているようにも見える。

「こんな所で立ち話も何ですし、上がっていきません?」

 何の脈絡もなく女性はそう誘い、莞爾とした。

 その笑顔は、サタルにそっくりだった。

 

 

 

 

 

「あの子がお腹にいる時に、私ね、夢を見たんです」

 テーブルに座らされてお茶とクッキーとを振る舞われ、他愛もない世間話を半刻ほどされた頃、ミシェル・ジャスティヌスは唐突にそう切り出した。

「名を呼ぶことを許さないあの方は、私の枕元でこう仰った。お前の幸せを祝して、私から贈り物をしよう。我が力の身に宿りし子を、一際光の加護強き子をやろう。その子は、闇を祓う宿命を背負っているのだ」

 話の切り替えにフーガ達がついていけていないことを知ってか知らずか、ミシェルはふふと微笑んだ。

「私ね、喜べませんでした。あの方のことは幼少のみぎりより、よく存じておりましたから。あの方に仕えることをやめた私に、そんな贈り物をタダで下さるなんて、おかしすぎます」

 そして、私の予想は当たりました。

 ミシェルはティーポットを自分のカップへ傾けた。

「お腹の子が育つにつれ、私は強い魔力を覚えるようになりました。かつてこの心をあの方に捧げていた頃、絶えることなく注がれていた身を焦がすような光の力。私のものではありません。あの子のものでした」

 若々しい夫人の年齢を、フーガは知らない。だが彼女の面差しと主観的すぎる語り口はあまりに若々しすぎて、少女のまま心が止まってしまった人のようだと思った。

「あの方は太陽ですもの。赤ちゃんには勿論、大の大人にも酷なものでした。私は夫に頼んで古い友人を訪ねてもらい、特別な守護を作ってもらいました」

 ミシェルの双眸が、突然隣に座る少女を映した。否。正確には、その膝の上に置かれた手を。

「痛かったでしょう」

 夫人はアリアの手を取った。彼女の黄色い手袋はまるで松明の炎を押し付けられたように溶け、酷く赤黒い傷が覗いていた。

 ミシェルは二言三言呟く。この国の言葉ではない。見る見るうちに、賢者の細い手は瑞々しい生の輝きを取り戻した。

「これは……」

「あれね、危ないのよ。あの子だから何ともないけど、他の人が手にするととんでもないことになるの。装備なんてしたら、そうねえ。貴方みたいなルビス様の信者でも、ミイラになっちゃうわ」

 のんびりと話しながら、ミシェルはアリアの手をしげしげと眺めている。それとは反対に、若い賢者の目はせわしなく彼女の首にかけられた精霊のネックレスと手とを行ったり来たりしていた。

「貴方は……貴方も、ルビス教の信者なのですか」

「そうねえ。だってやめるしかないと思わない? あの方のせいで、夫は自分を責めて旅に出ちゃったし、息子は酷い目に遭うし」

 夫人は頬を膨らませた。駄目だ、何を言いたいのかさっぱり分からない。

 そこへ、風が吹き込んだ。大きく開け放たれた戸に、丸々とした輪郭が立っている。その姿を目に映したミシェルが、初めて顔色を変えた。

「テングちゃん」

 ピエロの右腕が、ごっそりなくなっていた。断面からとめどなく溢れる液が黒い。アリアが口を抑え、カノンの握りしめた拳に筋が浮いた。

「すみません、驚かせちゃって」

 しかしテングは、存外落ち着いた調子で答える。そして、残った左手で何やら首のフリルを弄るとそれを下に引き下ろした。

 水色のぼろきれのような服を纏った、棒切れに似た身体が現れた。

「……へ?」

 フーガは間抜けな声を漏らした。

 テングの足下に、テングの身体が落ちている。しかしテングの身体の中には身体があった。大きな丸い顔に細い身体。毒々しい三角帽子と地味な衣装も、ひどく不釣合いだ。

「危なかったです。右腕を持っていかれるかと思いました」

 テングはそう言って――その声はやはり高い――右の手を前に出した。これまでフーガが彼のものとして認識していたものとは似ても似つかない筋張った腕の皮膚はなく、赤い肉が血をしたたらせていた。

「テングちゃん、痛いわ」

 ミシェルは顔を顰める。テングは謝って左手を自らの傷に翳す。癒しの光が湧きおこり、生々しい傷を包んだ。

「テング……?」

 フーガは信じられない思いで、奇跡の起こった腕と、見覚えのある頭とを見比べる。

「お前、本当にテングなんだよな?」

「そうだよ」

 テングの唇が動いた。先程までは人の顔に見えていたそれも、今は身体と対比すると大きすぎて、ただの被り物に見える。

「貴方達には、必要だったとはいえ随分嘘と隠し事をしてきてしまったみたいだ」

 あの、戯けたことしか言わなかったテングが、まともに話している。それだけでも驚きだったが、それ以上にその台詞の方が衝撃だった。

「どういう、ことだよ……」

「ミシェルさん、いいですか?」

 テングは夫人の方を窺った。彼女は首を縦に振る。

「いいわ。私より、テングちゃんの方がよく分かってるから」

 ピエロの口がアーチの形を描いた。しかし彼は何も言わず、フーガ達がずっと聞きたかったことを――真実を、語りだした。

「ダーマの大神官様から話は聞いているよ。貴方達はサタルがたまに高熱を出したり、体調を崩したりすることに、あれは呪いだって説明を受けたんだってね。でも実際のところは違うんだ」

「じゃあ、何だって言うんだ」

「あれは、言うならば魔力が強すぎる副作用なんだよ」

 フーガには、納得できなかった。

「そもそも、魔力っていうのは何だと思う?」

 テングはまず、そう切りだした。

「正直なことを言うと、魔法を使う僕達でも、誰も完璧かつ正確に魔力を把握できている者はいないっていうのが通説なんだ。魔力とは生命の源であり、生命を作り出した神や精霊に呼びかける力だとも言われているし、そこから生物がこの世に生を受ける前に神と世界を共有していた印とも言われている」

 自己犠牲呪文や蘇生呪文っていうのがあるだろう? あれはこの説のいい具体例だ。

 ピエロは淀みなくそう説いた。フーガ達が呆気に取られているのを気にせず、語るべきことを語っていく。

「魔力っていうのは霊性を、魂を持つ者なら誰でも持っている。でも、魔力がない、魔法が使えないと言われている人達がいるね。それは、魔力を自分で引き出せないというだけなんだ。だから、本当は魔力を持っているんだよ。ただ、引き出すことができないだけでね。魔法を使える者と使えない者の違いはそれだけなんだ」

 じゃあ、自分はその理屈通りなら引き出せない者なのか。フーガは自分の手を見下ろした。しかし、続く台詞で顔を上げた。

「サタルは、生まれつき無尽蔵の魔力を持っていた。いや……無尽蔵に魔力を引き出せる体質だったと言えばいいのかな? 僕達は、本当のところ彼の魔力がどのくらいなのか知らないんだ。何せ、彼の魔力が尽きるのを見たことがなくてね」

「どうして、そんな」

「さてね。僕達もどうにも、原因は突き止めようがないんだ」

 アリアの震える声とは対照的に、テングは平坦に答える。それは強いて起伏のないよう話しているようにも、フーガには聞こえた。

「僕達は普通、魔力のリミッターがあるんだよ。さっき言った通説もね、魔力を限界を超えてまでして使うと命の危険があることが分かったからできたものなんだ。あまり使い過ぎると身体がぼろぼろになったり、死んじゃったりするから危ないんだよ。けれど、サタルにはそれがなかった」

 フーガはぞっとした。身体がぼろぼろになってしまう、死ぬ――どちらも、覚えがあった。

「生まれた時にミシェルさんの言う通り、オルテガさんがうちの師匠に作らせたサークレットを嵌めたから、生まれてすぐには死なずに済んだ。あれはすっごく魔力使うように作ったから。でもそれでも幼い時は魔力の制御が聞かなくて、暴走していたんだ。あんまりにもやばそうだから、師匠のところで制御する修業しなくちゃだったけど」

「じゃあ、それが……その、サタルのあの症状は、制限を超えたから」

「そういうこと」

 呪いではなく、単純に、彼が自分で言っていた通り体質だったのか。そう分かると、今度は腹のそこからふつふつと煮えたぎるものを感じた。

「何で本当のことを言わなかったんだ! 何も隠すことなんてないじゃないか!」

「貴方達はそう思うだろうね。でも、他の人はどうかな?」

 テングは節くれだった指を三本立てた。

「たとえば、諸国の王。サタルの力は軍隊どころじゃない。アリアハン大陸くらいなら軽く消し飛ばせるよ。そんなのがいたら、貴方が王だったと仮定した場合、どうする?」

 アリアは首を横に振った。私は決してそんなことは、ということだろう。しかし、「そんなこと」を思い浮かべてしまった時点で、彼女にもどうなるかは分かっているのだ。

「たとえば、市井の民。いつ魔力を暴走させて辺りのものを破壊し出すともしれない人と、一緒に暮らしたいかい?」

 フーガには想像できる。十中八九、ほとんどの人が拒否するだろう。そしてそんなものがいるだけで、平穏には暮らせないと思うはずだ。

「そしてたとえば、そう――宗教者だ。彼の誕生は、そもそも神が図ったこと。規格外の彼の存在を、宗教的にどう扱ったらいいものか困るだろう。神の子としてみるべきか、それとも、類稀なる力を持つ破壊の現人神として見るべきか」

 カノンの顔は、蒼白だった。色味を失った唇がわななく。

「だから、大神官は隠したんだね……」

「それだけじゃない」

 大きな首が、風見鶏のように振られた。

「本人が隠したがったんだ。サタルは自分を怖がっていた。その魔力を知る誰よりもね。その暴走で死を知り、死が人を奪い去ることを知り、それから大切な人を失うことを恐れた。勿論、自分をさらけ出せば人が去っていくということもね」

    テングは天井を通り越した遠くを眺めている。細い眼が瞬いたのをフーガは見た。貧相な体に生えたピエロの頭は張りぼてであるはずなのに、動いている。そう言えば目だけでなく、唇も。

「お前は一体、何者なんだ」

 いつの間にかこのピエロのような男に飲まれていることに気付いて、フーガは身構えた。

「僕はテングだよ」

 遊び人はまた唇で半月を形取る。この相手を煙に巻くような話し方が、サタルと似ている。

「それは知っている。一般的な遊び人じゃないだろう、お前」

「僕はれっきとした遊び人だよぉ。気の向くまま風の吹くまま、世界を流れるんだ!」

 旅芸人の華の笑み。一瞬、フーガの知るテングが戻ってきた。しかしそう言い終えた刹那、陽気さは蜃気楼のように消え去っていた。

「……って答えたいのは山々だけどサタルの兄弟子、と言えばいいのかな。はぐれ魔術師だよ」

 魔術師というのは、ダーマ神や悟りの書の助けなく魔法を使える者達のことである。回復呪文も攻撃呪文も使いこなし、能力的には賢者とほとんど変わらないと言ってもいい。決定的に違うことがあるとすれば、ダーマにその名が記されているか否かのみらしい。ただし、中にはダーマ出身の者でも「賢者」という偉そうな名を嫌がって、魔術師、魔導士などと名乗る者もいるという。

 コイツの場合はどうなのだろう。しかし、フーガはそれより違う語彙が気になった。

「兄弟子?」

「あの子は魔力を自分でコントロールすることを覚えるために、歩けるようになってすぐある魔術師のもとへ弟子入りした。それが僕の師匠さ。もっとも彼の場合、呪文や魔法の原理なんて教えなくても、言葉を覚えるより先に魔法を使ってたような子だったから、僕が兄弟子っていうのもおかしな話なんだけど」

「待ってください」

 堪え切れず、アリアが口を挟んだ。 

「それは、一体どういう」

「勇者となるべき者が賢者の修業をすることについてかな? それとも言葉を覚えるより先に魔法を使いこなしたことかな?」

「りょ、両方です」

「君は誤解をしているね。サタルは魔法を習ってから使ったんじゃない。使えてしまったから習ったんだ」

 アリアは目を白黒させているが、それはフーガも同じだった。この年齢も正体も不詳の男は、察しがいいものの話の展開が速い。

「勇者と賢者は選ばれし者だと言われているのは知ってる? 何に選ばれたのかは?」

「勇者は天、賢者は地です」

「その通り。勇者は天界の命、天命を背負い神の代行を許された人、賢者は地上界、この世の理を知り精霊に許された人」

 分かるような、分からんような。

「賢者の習熟は普通、下級から上級へと向かっていく。まずメラを覚えてメラミ、メラゾーマって風に。それは、自分の日常のレベルから次第に世界を見て、やがては定理を悟れるようにするためだ。でもサタルは逆でね。生まれながらに世の定理を、どういう形だか知らないが知っていたみたいだ」

「はあ……?」

「言うならば、彼は生まれながらの賢者だった。今でも覚えてるよ。生まれたての彼を抱いてミシェルさんが僕らの家に来た時、彼は小さなくしゃみでバギクロスを巻き起こした。やーあの時は慌てたね! 遂に神の子が人の世に舞い降りたかと思ったよ!」

 テングは愉快そうに笑う。しかし懐かしそうに微笑んでいるのはミシェルのみで、他は呆気に取られたように口を開けている。

 魔術師だという遊び人は、肩を竦めた。

「まあそんなわけだ。制御することを覚えていくうちにそういう事故は減ったけど、副作用がね……均衡が崩れやすいんだ。霊性と肉体の折り合いがつかないと、すぐ身体を壊してしまう。酷い時は魔力を一度魔法として吐き出さないといられなくて、そんな時は広くて何もないところへ連れて行って、落ち着くまで魔法をバンバン使わせまくる。ちょうど、今のようにね」

 フーガは喉を鳴らした。

 知らず、先程まで血を滴らせていたテングの腕を見る。あれを負わせたのはサタルなのか? テングは移動呪文を使ってサタルをどこかへ置いて来て、離れる寸前に至近距離でその魔法を喰らった。しかし、どこへ? テングがついていなくて大丈夫なのだろうか。

 尋ねようとしたが、その前に相手が語りかけてきた。

「ところで君たちはこれからどうする? もとの生活に戻るの?」

 フーガはその問いより先に、と思いかけて留まった。実母である夫人が何も言わないことに気付き、これは彼らにとって日常茶飯事なのだと悟ったのだ。きっと安全なところで、別の人物が彼を見ているに違いない。それで戦士は答えた。

「その前にアイツに会いに行かなきゃだろ。アイツがいないと、アリアハン王にも報告できないからな。それでやっと終わりになるんだ」

「まだ、終わっていない」

 己の耳を疑った。

 しかし、テングは不気味でしかない真面目な面持ちで、もう一度繰り返した。

「まだ、終わってないんだ」

 そして、フーガ達は知った。すべての災いは大穴より出でる――かつて浅瀬の祠でしゃれこうべが語った、その言葉の意味を。

 

 

 

***

 

 

 

 ジャスティヌス邸で一泊し、翌朝フーガ達はテングに連れられてアリアハンを発った。正直、疲れはあまり取れていなかった。それは昨日のバラモスとの戦のせいであったり、これまで隠されていた勇者の真実を知ったからというのもある。しかし、それよりテングの話から地下世界に住まう大魔王の存在を知り、その実在を身をもって感じたことが、重くのしかかったせいだった。

 話の後、テングは魔法でサタルに擬態し、フーガ達を連れてアリアハン王へバラモスを討ち取ったことを報告した。その報告の席で、大魔王が念派を送ってきたのだ。それも、フーガ達だけではなく、アリアハンの王の間にいた者全てに。

 報告を受けて一時的に祝いのムードになっていた城の者達は目に見えて萎縮し、新たなる恐怖に慄いた。事前に聞いていたため心構えができていたフーガは彼らほど取り乱さなかったが、それでも大魔王の力に戦慄したのは事実だった。

 思えばバラモスも、手下を使ってかなり回りくどく地上を支配しようとしていた。しかし、時空を捻じ曲げ大穴を開け、異世界に住む者へ、しかも最も効果的な頃合いを見計らって自らの存在を仄めかしたゾーマが、それとは比べ物にならない大器であることは間違いなかった。

「大魔王は日の昇らない暗黒で、絶望を啜り生きている」

 気休めにしかならないことを承知で、ニコラスや馴染みの兵士達が嘆くのを励まし、ジャスティヌス邸へ戻ったフーガにテングはそう言った。

「バラモスなんて比じゃない。魔族というより闇の精霊に近いものだ。生半可な覚悟で行ったら、必ず後悔することになる」

 しかも、ゾーマを倒したらこの、今いる自分達の世界に帰ってこられなくなるかもしれないという。自分達の世界と闇の世界を繋ぐギアガの大穴はゾーマによって開けられたものであり、彼を倒せばその穴もおのずと閉じてしまうのだそうだ。

 つまり、闇の世界アレフガルドへ行ったが最後、生まれ故郷の土を踏むことは適わなくなるということらしかった。

「君の仕事は、バラモスを倒すまでだっただろう?」

 テングは至ってにこやかに、嫌味でもなんでもなくそう確認した。

「つまり、もうこれまででいいわけだ。明日からは、この旅を始める前の生活に戻れる」

「……サタルは」

 自分でも、何で聞いたのか分からない。テングは、眉を上げて答えた。

「ゆーちゃんは、アレフガルドに行くよ」

「アイツ知ってたのか?」

「知ってたよ。地上から大魔王の息がかかったバラモスを滅し、アレフガルドにいるゾーマを倒すまでが彼の目標だ」

「……一人でか」

「今度こそ、僕が一緒に行くよ。本当はバラモスの時も僕が行くはずだったんだけどね。僕も他にやることがあったし、君たちが行ってくれるっていうから任せちゃったけど、今度は……ね」

「俺達がやったことは、余計なお世話だったってわけか」

 フーガは自嘲気味な笑いを漏らした。フーガの仕事は、彼らにとって予想外かつ迷惑だったに違いない。アリアハン王のことがあったからフーガ達を受け入れたのだろうが、自分達さえいなければ、二人はさっさとバラモスを倒しに行っていただろう。

「まさか。逆だよ」

 しかし、テングからは驚くべき言葉が返ってきた。

「ゆーちゃんからちょいちょい話は聞いてたけど、すっごく喜んでた」

「……え?」

「どんなにあの子が迷惑かけても、言うことは言って、でも仲良くしてくれたでしょ? それが嬉しかったみたい。ゆーちゃんがずっとやりたかったのに身体が弱くて諦めてた剣や武術の稽古もつけてくれたし、むしろ、僕が行くより良かったみたいだ」

 フーガは、どんな顔をしていいのか分からなかった。

「でも、君達には酷いことをしてしまってるってしきりに気にしてたねえ。ほら、騙してたわけだし、仕事とは言え随分時間も手間かけさせちゃったでしょ? それが申し訳ないって」 

 唖然としているフーガを仰いで、テングは大きな首を振り子みたく傾けた。

「怒ってる?」

「初耳だ」

「そりゃあそうだろうね。ゆーちゃんは自分の欲望にバカ正直だけど、変なところ隠すから」

 それから、何故か遊び人は白い頬を丸く膨らませた。

「て言うかね、君怒ってるならちゃんと怒ってるって言いなよ」

「怒ってない」

「冗談でしょ。あんだけ嘘つかれてたのに? あんだけ振り回されたのに?」

「さあな。本人に会ってみたらまた、気持ちが変わるかもしれない」

 そして、フーガは言った。本人に会わせてくれ、と。

 翌日になってみると、驚いたことにアリアもカノンも行くと言い出した。まああんな別れ方をしてこんな形で真相を知ったのだから、直接話してすっきりさせたいと思っているだけなのかもしれないが、自分はさておき酔狂な奴らだと思った。

「ここだよ。僕とゆーちゃんの師匠の家は」

 移動呪文で一瞬。着いた場所は、可愛らしいログハウスの前だった。ここには見覚えがある。

「ここ、あのグリンラッドの変な爺さんのとこじゃないか?」

「そうそう。その変な爺さんが僕らの師匠」

 フーガは驚いた。サタルは何も言っていなかったが、通りでグリンラッドに寄りたがったわけだ。船乗りの骨が何で、爺さんがそれを持っていたことも知っていたに違いない。あの野郎、と小さく呟く。

「あれは、もしかして」

 アリアが指さす。フーガはそれを目で追って絶句した。

 あの、幻術にかかっているのではと錯覚する果てしない平原があったはずの場所に、海と見間違うほどの粗削りで広大な湖ができていた。

「ああ、ゆーちゃんだね」

 テングはこともなげにそう言う。

「ゆーちゃんが発作を起こした時のためにこういう何も場所にしてるんだけど、よく地形が変わっちゃうんだ」

 今回も派手にやったね、と感心しているのか分かりづらい口調で言って、彼はログハウスの扉を押した。

「ただいまもど――うわ、服着て下さいよ」

 フーガは咄嗟に後ろの少女達が入れないよう、入り口をふさいだ。お陰で、若い二人は何もおぞましいものを見ずに済んだようだった。

「ほほほ。変化の杖は楽しいのう」

 爺さんは相変わらずだった。前にフーガ達が渡した変化の杖で、まだ遊んでいるらしい。今は金髪巻き毛のバニーガールに姿を変え、杖を抱えてご満悦の様子である。

 本当にこの爺さんが、あのサタルの師匠だったんだろうか? とても疑わしいが、テングはそれを証明する気はないらしくすたすたと家の中を進んでいく。外観は小さそうに見えたのに、中は異様に広い。この場所にいると、感覚が狂いそうだ。

 テングはある一室の前で足を止めた。くすんだ茶色の扉には、「サタル」と彫られた札がかかっている。木札が古びていることから、フーガは本当にここに彼が住んでいたのだと確信する。

「サタル、入るよ」

 軽く二度のノック。くぐもっていて聞き取りづらいものの、覚えのある声が返事をした。テングはノブを回した。

    素朴な広い部屋だった。けれど、騒がしいほど色鮮やかでもある。その原因は、必要最低限の家具と壁にぐるりと飾られた名産品にあった。床に置かれているのは古びた文机とフーガほどの背丈の衣装棚、そして寝台のみ。それなのに、壁はスーの魔除けの彫刻、ポルトガのボトルシップ、サマンオサの羽冠など、世界中からあるだけ全部かき集めてきたといった風情の、名産品のオンパレードだった。

 そんな賑やかしい色彩に囲まれながら、彼はぽつりとベッドに横たわっていた。

「テンちゃん、大丈」

 サタルの慕う兄貴分を案じる声は、中途に途切れる。甘いマスクが、碧眼が、動きを止めた。

 顔色が良くない。特に、目の下が黒ずんでいる。フーガは硬直したサタルの顔を見て思った。

「やだな、言ってくれれば俺からそっちに行ったのに」

 一瞬の後、サタルはテングの背後に控えるフーガ達に向かって言った。既に愛想のいい余所行きの笑顔に切り替えている。

「どうしたんだ? 仕事の話?」

「お前の体調不良の本当の理由を、テングから聞いた」

 フーガが率直に告げても、少年の顔つきはもう変わらなかった。

「ああ、そうだろうと思ってた」

「アレフガルドに行くのか」

「それを聞いてどうする?」

「行くのか」

「行くよ」

 何故、と背後で消え入りそうな小さい問いが聞こえた。カノンだった。

「何故? 俺が勇者だからかな」

「誤魔化さないで」

 カノンの声色から切な懇願の響きを聞き取った戦士は、振り向いた。しかし感情ののらない少女の面はいつも通りで、細められた双眸は、黒い雫が二つ零れ落ちる様を形取っている。

 サタルはかぶりを振った。

「誤魔化してなんかいないよ……光にしか、闇は殺せないらしいから」

「本当に、義務って理由だけで?」

 念を押す少女に、少年はただ黙って微笑む。

「義務だけじゃないのぉ」

 何とも間延びした声が割って入り、サタルは溜め息を吐いた。

「先生、口を挟まないで下さい」

「正確には、義務から逃れたいんじゃ」

 変化の杖を短い手に抱え、若者達の足元をすり抜けたホビットがサタルを見上げる。師匠は弟子の台詞を気にする素振りなど微塵も見せず、彼を杖で指した。

「こやつは魔物より己の虚像に怯える臆病者。ゾーマを倒しに行くのは、己の虚像から解き放たれたいからじゃぁ」

 言われんと分からんのかニブチンめ、と師匠がぶんぶん杖を振る。サタルは諦めたような顔で、窓へ視線を移した。

「そうですね。その通りです」

 彼は呆れているような気がした。だがフーガには、それが誰に対してなのかがわからない。

「俺は、ゾーマを倒すことで勇者をやめたいんだ」

 サタルは、簡潔に言い直した。

「俺は、ゾーマが滅ぼすべき恐ろしい存在だなんて思えない。魔物が憎いとも思えない。闇が滅び去るべきものだとも、思えない」

 強い光のもとに生まれついた少年は、窓を凝視したまま独白する。ぽつねんとした口調はフーガの聞いてきた流暢な喋り方とはかけ離れていて、ひどく安定しているようにも、そうでないようにも思えた。

「アイツらは実際、その辺にいる個体を見れば分かるけど、大したことはしていない。だけど、自分の身近な人を奴らに害された人を除いて、人間はただ魔族という概念に、曖昧な恐れや怒り、憎しみを抱いている。それが魔族の力になることも、知らないで。人は知らずそれを肥大させ、自ら魔族の糧を撒く……」

 俺は、魔族を憎んでいるだろうか。恐れているだろうか。

 フーガは自問して、自答した。そうだな、燃えたぎるようなものではないが、少なくとも憎んでいる。恐れてはいるのだろうか?

「勿論、魔族は人間がそう思うよう仕向けてるんだ。そう生まれついてるから。でも人間も、そう思うようできてるんだ。お互い、そう生まれついてしまった」

 サタルは、低く笑い声を漏らした。 

 魔族とろくに会話したこともないだろうに、何の確証があってそんなことを。

 フーガは問おうかと思った。しかしその前に彼が話し出す。

「俺も似たようなものさ。魔族に対峙するほど、自分の昂る魔力を感じる。その強さに、こんなものが存在していていいのかって怖くなる。俺は、自分のこの……魔を滅ぼすために与えられた力が、怖くてしょうがないんだ」

 ずっと、ずっと前から。

 サタルはこちらに目を戻した。唇はゆるやかな弧を描いている。

「でもそこから逆に、俺は一つの夢を持った。大魔王が滅びれば、俺の力もなくなるんじゃないかって。そしたら俺も、ただの人になれるんじゃないかってな」

 彼は軽薄に笑った。

「ひどいだろ? 俺は世界のことより、自分のことしか頭にないんだ」

 カノンは何も言わなかった。アリアは視線を床に落としている。フーガは、サタルの表情を見つめる。

 研いだナイフで、自分の指を切ってしまったような面持ちをしていると思った。

「だから、ここでお別れだ。俺は自分のためにアレフガルドに行く。君達についてくる理由はないよね?」

 サタルはこれで話は終わりだと言わんばかりに、口を噤んだ。

 部屋に静寂が訪れる。寝台の上を、一つ影が過った。窓の外を鳥が横切ったのである。それ以外に動くものはなく、時折思い出したように変化の杖が揺れるだけだった。

「お前達はどうする」

「私は……」

「どうするって、行かないだろ」

 フーガに答えようとアリアが躊躇いがちに口を開くのと同時に、サタルは言葉を重ねた。

「君達は皆、ここまで仕事だっただろ? フーガとカノンは陛下の、アリアは大神官様の命令で俺についてきていたはずだ。俺たちはもう、バラモスを殺した。だから、もういいんだよ」 

 勇者は優しく、微笑んだ。

「今まで、本当にありがとう」

 ――これで、本当にいいのか?

 フーガは昨夜から何度も繰り返してきた言葉を、再び自分に投げかける。

 そして首を横に振り、背を向けた。

 

 

 

 

 

「本当に良かったの?」

 いいんだよ、とだけサタルは返した。

 三人は何も言わずに出ていった。師匠もその後に続いて、今部屋にいるのはテングだけだ。

「楽しかったんでしょ?」

「大魔王討伐に楽しさを求めちゃいけないだろ」

「魔王討伐の旅は随分楽しそうだったけど?」

「それはそれ、これはこれ」

 はぐらかすも、誤魔化されてくれる相手ではない。テングは溜め息を吐いた。

「サタル。君も旅してみて分かっただろう? 命を賭けた局面になった時、その場限りのパーティーより長い時間一緒だった方が助かることが多い。特に戦いでは一瞬の判断ミス、連携ミスは命取りになる」

 テングの言葉を受けて、サタルは思い返す。最初は戦闘なんてフーガやカノンに頼りっぱなしだった。でも、二人はサタルを荷物扱いすることなく、サポートしてくれたり戦い方を教えてくれたり、仕事とは言え随分丁寧に面倒を見てくれた。戦い以外でも稽古をつけてくれ、最近では仲間の様子を見てお互いに望む動きを取れるようになり、息のあった攻撃も難なくできるようになっていた。

「正直、僕と君だけじゃゾーマに勝てるか怪しいものだ。誰かついて来てほしいって頼んだ方がいいんじゃないかい?」

「そんなこと、頼める立場じゃないよ」

 サタルは首を横に振って、窓の外を見る。日差しが目に痛い。それでも碧空に燦然と輝く太陽を仰いだ。

「命を賭けてくれた人に、俺は嘘を吐いた。きっともう一緒にいたくないと思ってるだろう。しかも、今度の旅はリスクが高すぎる。引き受けるわけがないよ」

「君はどうなの?」

「それを言ってどうするんだよ」

「相手の都合で自分を隠すのは、君の悪い癖だよ」

 サタルは押し黙った。しばし逡巡してからぽつりと呟く。

「俺に、来てほしいなんて言う資格はない」

「『嘘は吐きたくなかった、仕方なかったんだ』って言わないの? いつも一晩の友達に言うみたいに」

「駄目だよ。嘘を吐き続けることを選んだのは俺だ」

「彼等のこと、本当に好きだったんだね」

 染み渡るようなテングの声で、サタルの中で何かの箍が外れた。

「ああそうだよ、好きだったよ! 旅の本当の目的を忘れるくらいにね! 嘘を吐いてでも一緒にいたかった。何もかも投げ出して、あのまま旅をしていられたらって思ったよ!」

 腹の底から叫んだ。暴走中以外で声を荒げたのは久しぶりだった。

 嫌われたくないと思いだしたのは、いつ頃だっただろうか。ダーマでフーガに剣の腕が上達したと褒められた時? ムオルでアリアと秘密の話をして二人で笑いあった時? ランシールでカノンに慰めてもらった時? 思いつくきっかけなんていくらでもある。それは逆に明確なきっかけなどなく、旅をしていく中で次第に惹かれていったのだということの表れだった。

「また一緒に行きたいよ! もう会えなくなるなんて……でも駄目なんだ、これで完璧に信用してもらえなくなっただろう。だけど俺はバラモスと戦って、皆が死ぬかもしれねえってなった時にやっと思ったんだ。死なせたくないって。大事なんだ。皆がどこかで生きててくれるなら、俺は嫌われたっていい。憎まれたっていい。俺は――」

「お前の口からそんな言葉が聞けるなんてな」

 サタルは固まった。ぎくしゃくと視線を窓の外から内に戻す。先程より暗く映る部屋の戸は開け放たれて、そこからいなくなったはずの三人が覗いていた。

「え、あ……え?」

「あ、本当にいるの気付いてなかったの?」

 アリアがにこにこしている。カノンが仏頂面で立っている。フーガは苦笑して、サタルの部屋の中へと足を踏み入れた。

「誰も、さよならなんて言わなかっただろう。お前は普通に聞いたんじゃ簡単にどうしたいか言わないから、テングに協力してもらった」

「サタルって、言いづらそうなことは正直に言うのに大事なことは全然言ってくれないんだもの。うふふ、騙してごめんね?」

 ウサギのような瞳を三日月にして、アリアは嬉しそうに手を合わせる。サタルは開いた口が塞がらない。

「ほら、これでイーブンにしてやる。アレフガルドに行くぞ」

「え、そんな……駄目だ」

「駄目だぁ?」

 フーガが繰り返して溜め息を吐く。サタルにはその意味が分からなかった。

「サタル、俺達は確かにこれまで仕事でお前について来た。だが、忘れてないか? その仕事を引き受けたのは俺達自身だ。俺達は自分の意思でここまでお前について来たんだ。だからこれから先も、お前が何を言おうが関係ない。俺達は俺達の好きにさせてもらう」

 ちなみに、とフーガは自身の厚い胸板に手を添えた。

「俺はアレフガルドに行きたい。村を丸々一つ昇天させられるような呪文やアイテムは、この世界のどこにも見つからなかったからな。戻ってこれる確証はないが、行ってみないよりはマシだ」

「私もアレフガルドに行きたいの」

 アリアはほんのり頬を上気させて、はにかんだ。

「アレフガルドはルビス様のお創りになられた世界だと聞いたわ。私、アレフガルドを見てみたい。そしてその世界が本当に助けを求めてるなら、少しでも力になりたいの。それがルビス教徒としての私の使命よ」

 サタルは二人の言葉が終わるまで、その瞳に己の双眸を合わせていた。まるでそこから何かを読み取ろうとするかのように。それから視線を更に転じた。この中で一番小柄で、しかし一番芯の強い少女は、彼をまっすぐに見つめ返してきた。

「あたしはアンタについて行く」

 カノンの毅然とした一言。しかしいつまで経っても、彼女は後に言葉を続けようとしなかった。

「……どうして」

 サタルは問わずにはいられない。カノンは僅かに眉を跳ね上げ、少し考えてから小首を傾げた。

「ついて行きたいから、じゃダメ?」 

 彼は口元を覆う。自分がどんな顔をしているのか分からなかったし、どういう顔をしていいのかも分からなかった。ただ、顔は見せられないと思った。

 努めて笑顔を繕い、手を外す。

「なあ、みんな勘違いしてない? アレフガルドに行くのに俺と一緒に行く必要ないんだよ? ラーミアでギアガの大穴まで行ってアレフガルドに行ったら解散でもいいけど、何も一緒に行くことは」

「サタル、そんなに私達と一緒に行きたくないの?」

 純粋なアリアの問いに、一瞬彼は身を強張らせた。彼女はにっこりした。 

「慣れないところでの一人旅は危ないなんて、私でも知ってるわ。さっき一緒にいたいって言ってくれたじゃない。一緒に行きましょう?」

「お、俺は」

「何だ、お前らしくもない。女性の誘いは断らないんじゃなかったのか?」

「いつもならすぐいいよって言ってくれるのに。私がお願いするんじゃダメ? じゃあ――」

「待って、待ってくれ」

 サタルは叫んだ。

「みんな、俺のこと何とも思わないの? 俺、ずっと迷惑ばっかりかけてきただろ? 町に着けば女性と話してばっかりで娼館にも行くし、買い物も荷物持ちくらいしかできないし、性格も体も良くなくて、口ばかりよく回るけど頼りにならない、しかも嘘吐きだ。ずっと本当のこと隠して騙してきたんだよ? 怒らないの? 怒れよッ! 正直に言」

 言葉が途中で止まった。唇を、小さな掌が包んでいた。

「もういい」

 掌でサタルの口を覆ったまま、カノンは静かに首を横に振る。いつも吊り気味の眉に力はなく瞳は確かに揺れて、唇は引き結ばれている。それが緩やかに解け、今まで聞いたことがないほどに柔らかい声が彼の鼓膜を震わせた。

「苦しいのは分かってる……分かってるから」

 小さな温もりが唇の上を去る。しかし、彼はまだ遮られているかのように喋れなかった。

 アリアがカノンの後ろから身を乗り出した。

「ねえ、私は怒ってないわ。ちゃんと言ってくれれば良かったのにとか、信用してもらえてなかったのかなとか思うと悲しいけど仕方ない。信じるのって難しいもの」

「俺は少し怒ってるぞ。散々振り回されたからな」

 戦士の台詞にサタルは身を竦ませる。しかしアリアハンからの旅路を共にしてきた男は、苦笑していた。

「だがお前は色々面白い奴でもあったから、苦労もしたけど楽しかったよ。何というか、手のかかる弟みたいな感じで……手間をかけさせられるのと同じくらい、まあ、愉快な思いもさせてもらったかな」

「お人好しだねー」

「うるせえ」

 茶化すテングをフーガはあしらった。カノンはまた大柄な戦士を仰いでいたが、また視線を少年に戻した。

「皆、アンタを嫌ってなんかいないよ」

「お前が正直じゃないのは今に始まったことじゃないだろ?」

「今更なのよ、ね?」

 フーガが、アリアが声をかける。カノンはもう一度、唇を遮った時と同じ表情で彼を見つめた。

「だから、もう自分を傷つけないで。見てて……辛い」

 膝に下りていた手で顔の下半分を覆った。顔は己のものではなくなってしまったかのように、言うことを聞こうとしない。

 こんな、こんなはずではない。嘘だ。だって、これでは自分に都合が良すぎる。

「うん、いいよ。隠してもいい」

 アリアが頷く。また動揺してしまう。サタルはまだ膝の上にある方の手を力いっぱい握りしめた。鋭い痛みが走る。夢なら早く覚めて欲しい。長引くだけ現実に帰った時が辛い。

 フーガが、あのくたびれてはいるけれど安堵をもたらす笑みを浮かべる。サタルはせわしなく瞬きした。夢が覚めない。

「お前は人を信じられないんだろう。それでもいい。だが、これだけは本当だと思って聞いてくれ」

 彼はもう、瞬きができなかった。目がその光景から逃げたくなくなったのだ。

「信じるっていうのは『裏切られてもいい』と思うことだ。俺達はお前を信じてるよ」

 そこには、いつも通りの――これまで彼が愛してきた彼らがいた。

 サタルは泣いた。唇に伝った涙は塩辛く、温かかった。

  





 

 

 

20141229 執筆