カノンは、あまりの事態に溜め息を吐くことしかできなかった。目の前では、戦士が仄暗い洞窟の様子を窺っている。
 本当なら今頃黒胡椒を手に入れて、宿屋でのんびり寝てでもいただろうに。そんなことを思いながら、彼女はこれまでのことに思いを馳せた。
 イシスを後にしようとしていた一行は、次の行き先を定めるべく世界地図を眺め、その際にふとネクロゴンド地方に行くためには船がいるのではないかということに思い至った。ネクロゴンドへの唯一の通り道、火山へ至るには、水路を通ることがどうしても必須だったのである。しかし、船を手に入れるためには大きな金が必要になる。そこでサタルが思い出したのが、ロマリアの王だった。ロマリア王には貸しがある。それを使えば、船を手に入れられるのではと考えたのだ。
 一旦ロマリアまで戻り、王に聞いてみたところ、くれてやりたいが自由になる船がないと言われた。しかし、交流のあるポルトガの王にお願いしたら船をくれるかもしれないとのことだった。ポルトガと言えば、造船技術に優れた海の国である。魔物のせいでまだそれほど遠方までは行けないらしいが、有能な戦士さえそろえば、ゆくゆくはその船を駆使して世界を駆けることができるだろうという噂であった。
 ロマリア王にお願いしてポルトガ王へ船貸与または譲渡に関する書簡を書いてもらい、西の関所を抜ける。何日も歩き続けて、ポルトガへと至る。ポルトガへ着いて早速王との謁見を給い、書状を見せた。すると、船の譲渡と引き替えに条件を提示された。その条件とは、ロマリアより東の山脈を越えた先にある清らかな水の町、バハラタより黒胡椒を仕入れてこいとのことだった。時間と手間はかかるが、船のためである。一行はその条件を呑んだ。
 そして来る日も来る日も歩き続け、ようやっとバハラタへ辿り着き、黒胡椒屋を見つけた矢先のことである。一人の若い男が、黒胡椒屋を猛然と飛び出していったのだ。一行がそれを唖然と見ていると、店の中から主人らしき老人が若者を追おうと出てきた。しかし老人の脚では如何せん無理である。とぼとぼと帰って来たところにフーガが声をかけ、黒胡椒を購入したい旨を伝えたところ、無理だとの返事が来た。何でも、現在店の営業の中心である娘が、賊にさらわれてしまったのだという。娘を助けるため婿のグプタ――カノン達が来た時に飛び出していった若者らしい――が出て行ったが、賊は強いので無謀だろうと老人は嘆いた。そこで困っている人を放っておけないフーガはたまりかねて、自分達が助けてくると提案したのである。
 賊は、バハラタより東の洞窟に住んでいるという。グプタの身が心配であるので、三人は旅に疲れた身体をおして、そのままの足で洞窟へ来た。そして、今に至る。
 洞窟は入り組んでいた。見渡す限り、似たような道が続いている。三人は感覚を狂わされながらも、壁伝いに歩くことによって下り階段を見つけた。
「人の気配がするな」
 フーガは小声でそう言った。洞窟の壁には、所々松明が備え付けられている。だから洞窟の中は少し明るい。しかしそれよりも彼らの行く手、曲がり角の左からは光が漏れてきていた。更に、人の話し声もする。
 三人は静かに曲がり角へと忍び寄った。一同の中で一番小柄で気配を消すことに長けているカノンが、角の先を窺う。
 そこは、人の居住空間であるようだった。部屋の中央に置かれた机に、人の姿はない。部屋にはやけに良質そうなベッドが四つ据えられており、品の良さにそぐわない扱いを受けているようだった。
「誰もいないみたいだよ」
   カノンは囁いた。フーガが頷く。
「よし、ここからは俺が先行しよう」
 戦士は剣を抜くと、一足先に角を曲がった。その後を、サタルとカノンが続く。
   部屋は酷い散らかりようだった。汗のすえた臭いと食べ物の腐敗臭に、カノンは顔を顰めずにはいられない。サタルもフーガも、部屋の酷さには呆れたようだった。
「これはひどいな」
「間違いなく、この盗賊団には野郎しかいないな」
 フーガが妙な確信を持って言う。そのまま散らかった部屋をどうにか横断して、奧の道へと進んだ。話し声はまだ聞こえる。どうやら、男と女が会話しているらしい。しかし、盗賊団ではないようだ。逃げようやら何やらと囁く声が聞こえる。
 戦士はまた曲がり角で一度止まり、話し声に耳を澄ませているようだった。だが次の瞬間、素早く道へと飛び出した。
 女の悲鳴が聞こえた。カノンは曲がり角から顔を出す。鉄格子の前で、一組の男女が身を寄せ合っていた。

「誰だ!」

 男が鉄の槍を構えて鋭い声を飛ばす。よく見れば、それは先程黒胡椒屋から飛び出していった若者だった。
「驚かせて申し訳ない。俺達は黒胡椒屋の主人に頼まれて、あなた方を助けに来た者だ」
 フーガは落ち着いた声でそう返した。するとたちまち、男の顔から警戒の色が解けていく。
「お義父さんが?」
「あなた方を随分心配しておられる。無事で良かった。さあ、帰りましょう」
「待って下さい」
 若い女が前へ進み出た。察するに、こちらが黒胡椒屋の娘だろう。
「ここには、私の他にも売られそうな女の子達がいるんです。お願いです、彼女たちのことも助けて下さいませんか?」
 カノンは、フーガにつられて辺りを見渡す。鉄格子の中には、若い女がたくさんいた。皆不安そうな顔つきで、自分達を縋るように見ている。
 この大人数を全員連れて逃げられるだろうか? カノンは考える。盗賊団が来なければいいが、見つかってしまった場合が厄介だ。
 その数を数えていたらしいサタルが、フーガの方を向く。
「二十三人。どう、いける?」
「いくしかないだろう」
 フーガは決断した。そう言うだろうと思っていた。
 女性達を檻から出し、先頭にフーガとグプタ、中に女性達を挟み、殿にカノンとサタルがついていくという形で脱出することにする。列を眺めながら、サタルがカノンに話しかけた。
「さっき、売られそうなって言ってたよね。ここの連中は人身売買をやってるのかな」
「そうだろうね」
「酷いことするなあ」
 サタルは、怯えて憔悴しきった女性達を労りの目で見つめる。珍しく真面目な顔をしている勇者に、武闘家はこういう彼を見たのはいつぶりだろうと考えた。
「さすがに、こんな時は口説かないんだ」
「当たり前だろ。俺のことどんだけ軽薄だと思ってんの?」
「大分。何で魔王を倒しに行こうかと思ったのか分からないくらい、軽薄に見えるね」
 勇者は大袈裟にショックを受けたような顔をした。
「酷いなあ。俺はものすごーく真面目なのに」
「何で魔王を倒そうと思ったの?」
 訊ねると、勇者はうーんと考える素振りを見せた。
「まあ世界平和のためっていうのかな? 後は父さんの代わりにっていうのと、父さんの仇討ちっていうのも兼ねてるのかも」
「かも、って」
 幾人もの猛者や軍隊を殺してきた相手を倒すのに、「かも」のつく動機でいいのだろうか。また、そんな弱い動機で自らの生命を危険に晒すことができるだろうか。カノンには理解し難い。
 以前から気になっていたことだったので聞いてみたのだが、やはり答えを得てもよく分からなかった。本気で言っているのかどうかさえ怪しい。こいつは勇者じゃないのかもしれない。そう考えると、何故かほっとしている自分がいた。
 顔に疑問が出ていたのかもしれない。サタルは肩をすくめて、言葉を続けた。
「まあとにかく、俺がやるのが一番向いてるというか、俺がやるべきなんだと思う」
 余計理解出来ない。カノンは前を向いて、この少年について回顧した。
 大体、経歴もよく分からないのだ。カノンは勇者オルテガの息子が旅立つらしいと聞いて、その仲間になりたく、ルイーダの酒場に登録しに来た。その前に勿論サタル自身のことも知りたかったので、町の人々に聞いてみた。
 ところが、誰もサタルのことをよく知らなかった。何故なら、サタルは旅立ちの一週間前まで長いことどこかに行っていて、アリアハンに住んでいないも同然だったのである。どこへ行っていたのかも誰も知らない。母であるミシェル夫人が皆に言うことには、親戚の家へ預けているとの話だった。
 この話を聞いて、当時のカノンはきっと修行に行っていたのだろうと思った。幼い頃から行っているのだから、きっとよほど強くなっているに違いないと予想していた。
 だが、勇者の息子は王様の言うことを聞かずにルイーダの酒場をすっぽかして行方不明になった。その後偶然機会を得て、フーガと一緒に彼を捜すことになったが、ようやく探し出した彼は、仲間として親友だという遊び人一人(実際は一時的に三人いたが)を連れて、のんきにすごろくを十数回やっていたのである。確かにすごろくは旅に役立つアイテムをくれるから行くべきだと思うが、十数回もやる必要性はない。
 いやしかし、遊び好きだけど実は凄腕かも知れないと思って戦う様を見てみたが、別に何ということもなかった。弱いわけではない。だが、格別に強いわけでもなかった。武器も剣しか使えない。剣術の腕はまあまあだが、体術は少し囓っているくらい。魔法に至っては全く使えないという。長いこと修行に出ていた割には、何ということなかった。これなら戦士として数々の場を踏んできたフーガの方が、よほど勇者らしい。

 しかも、性格に至っては戦闘能力以上に勇者らしくなかった。口の上手さは一人前だが、お調子者で頼りにならないしリーダーシップもない。更に町へ行くごとに女性にばかり声をかけ、口の端から蜜を垂れ流しそうな、良く言えば優しい、悪く言えば甘すぎてむかつく言葉を吐きまくる女たらしときている。特に自分に対する絡みはひどいものだ。彼が自分に対してかける言葉は甘いを通り越してうざい。最近はボディータッチだってあった。なめられているのだろうか。一度シメてやった方がいいのだろうか。
 一番酷かったのはピラミッドである。あの王墓で、彼女はサタルに押し倒された。大事にはならなかったのだが、拘束されて首筋に口付けられ、耳は舐められた。そもそも彼女が落とし穴に嵌って落ちそうになったのを助けようとしてくれた結果だったのだが、助けようとしたからと言って押し倒して良いことにはならない。無論その後様々な技をかけてやったが、全て使わず、しかも怪我もさせなかったのだから自分は優しいと思う。
 ――もっと、君のことを教えて?
 突如、あの時耳元で囁かれた言葉が鼓膜に蘇った。体感温度が上がり、耐えきれず顔を俯ける。
 あの時のことはこうして度々記憶の底から蘇ってきて、カノンを襲う。忘れようとしても忘れられないのは、恐らく無駄に顔と声が良いせいだろう。あんなことを易々とできるのは、奴がたらしだからに違いない。しかもそんなことをしておいて、平気で「こんなに強く触れたいと思ったのは君が初めて」といったようなことをほざくのだ。信じられるわけがない。
 そう、信じてたまるものか。
 カノンは横を歩く少年を横目で見る。まっすぐな澄んだ眼、高い鼻、引き締まった口元、総じて凛々しく整った顔立ち。しかしそれは微笑むと甘くとろけるようで、しかし誠実そうな端正さは忘れない。
 見た目だけは絵本に出てくる王子様か、一般女性が夢見るような勇者様だ。そこがまた嫌な男だと思う。外見がいいというのは得だ。中身は大したことなくても、それっぽく見せてくれる。
 ――こんなに触れたいとか知りたいと思ったのは君だけなんだ!
 記憶の中の彼が叫ぶ。その顔つきはあくまで真摯。まっすぐな眼差しをカノンだけに向けて、少し切羽詰まった様子で。
 あれも嘘だ、騙されてはいけない。カノンは自らに言い聞かせる。奴は勇者の皮を被った女たらしだ。あんなのに構っていてはいけない。自分にはもっと大事な使命がある。騙されるわけがない。大丈夫だ。
 だから、嬉しいなんて欠片でも思うはずがない。
 思考に耽っていたカノンを、悲鳴が切り裂いた。瞬時に頭を切り換えて辺りの様子を窺う。悲鳴は前から聞こえた。
「後ろ任せた!」
 サタルに言い捨てて前へと躍り出る。列の前に、薄汚い盗賊が三人立ちはだかっていた。
「おいてめえら! 俺達の許可なしに、なに商品を持ち出してくれてんだ!」
 三人の一人が啖呵を切った。対峙するフーガは、落ち着いていた。
「彼女達は人間だ。人間は金で売り買いできるものじゃない。そこを通してもらおうか」
「へっ、馬鹿ぬかしてんじゃねーよ! さっさと商品を返しやがれ!」
 三悪党は各々の武器を構えた。フーガは片手で剣を構えたまま、カノンを呼び寄せて低い声で言った。
「こいつらの面倒は俺が見る。だからお前とサタルは、グプタさんと女性達を連れて先に帰ってろ」
「でも、いくら何でも三対一じゃ」
「大丈夫だ。あれくらいの奴らなら俺一人でちょうど良い。それより、一般の人に被害があっちゃいけない。頼むから早く先に逃げてくれ」
 カノンは唇を咬んだ。自分もここに残りたい。しかしこの大人数の一般人を連れて行くのがサタルとグプタだけでは、不安だった。
 彼女は、気怠げな中に勇壮さを秘めた男を見上げる。
「バハラタに皆を送ったら、すぐ戻ってくる」
 戦士はいらないと言いたげに首を横に振ったが、武闘家は見ていなかった。脇道に逸れるよう、一同を先導する。賊が後を追おうとする様が見えたが、戦士の投げたナイフがそれを遮った。間もなく、金属の激しくぶつかり合う音が聞こえてくる。
 カノンは後ろに気を配りつつ走った。全員ついて来ているようだった。道はしっかり覚えている。彼女達はそれからさほど時間の経たないうちに、出口へと辿り着いた。
「皆、落ち着いて急いで!」
 出口に止まり、恐怖に震える彼女達を励ましながら、グプタを先頭に進ませて人数を数える。全員いる。殿のサタルが出てきたのを確認した時、彼の目が見開かれた。
「危ない!」
 視界が回転する。何だか分からぬうちに、カノンは地面にぶつかった。痛いと文句を言おうとして、自分に覆い被さっているサタルに驚く。上体を起こして目に入ったものに、息が止まった。

 サタルの背には、小振りだが鋭利な斧が刺さっていた。加えて、肩と太腿にも一本ずつ短剣が埋まり込んでいる。それぞれの刺さった場所から、赤黒い染みが湧きだしていた。
「怪我はない?」
 サタルは微笑みを浮かべた。そのいつもと変わらぬ様に、カノンは自責を通り越して苛立ちを覚える。
「あたしのことなんかいいだろ! それより、回復を――」
「んなことしてる暇はねえぜ?」
 くぐもった声が聞こえた。カノンはサタルを庇って立ち上がる。
 彼らの前に現れたのは、覆面とビキニパンツのみを身につけた筋骨隆々の男だった。右手に大戦斧を、左手には短剣を一本持っている。その異様な風体からは、先程の三悪党のような小物らしい雰囲気はなかった。
 カノンは知らず身構える。男は黙している。背後で、サタルが呻いた。
「皆は……」
「グプタが連れてってくれたよ。喋るんじゃない」
 叱責するが、サタルは黙らない。
「君も、逃げて」
「そんな怪我して、馬鹿言うんじゃないよ」

「置いていって。俺なんて、いつ死んでもいいんだから」
 サタルは優しく囁いて、小さく笑う。カノンの中でかっと何かが弾けた。
「黙れ! 死んでいい人間なんているか!」
 得体の知れない敵の前だということを忘れて、怒鳴った。身体中の血が沸騰して気化しそうだ。耳元で怒りが雄叫びを上げている。だから、危うく聞き逃すところだった。
「カノンか?」
 冷水を浴びせられたようだった。顔を正面に戻すと、覆面の男がこちらを凝視している。彼は自身を指さした。
「俺だよ、俺。分かんねえ?」
 男はおもむろに覆面を外した。現れた顔は、意外にも若い。刈り上げた髪は黒く、鷲鼻と獰猛な獅子に似た切れ長の瞳が特徴的である。
 息が中途に止まった。カノンは瞬間的に込み上げた名を呼ぼうとして、遮られる。
「おっと、今はその名前じゃねーんだ。カンダタって呼んでくれ」
「カン、ダタ……」
 カノンの脳裏にやんちゃな丸刈りの少年の姿が蘇り、目の前の男と重なる。荒々しさを増しているが、間違うことなく彼女のよく知った人物だった。
 背後に目をやる。サタルは胸を上下させるのみで、それ以外動きを見せない。
「気ぃ失ってるぜ、そいつ。ナイフに眠り毒を仕込んどいたからな」
 カノンの顔色の変化を楽しむかのように、カンダタは言った。彼女が口を開くより先に、彼は尋ねる。
「そいつが今のお前の相手か?」
「……違う」
「そうか」
 てっきりそうだと思ったんだけどなあ、と何故か残念そうに言う。男の顔を見つめたまま、カノンは黙っている。カンダタは首を傾けた。
「何だ?」
「カンダタ盗賊団というのは、お前が作ったのか?」
「そうさ。俺様がリーダーよ」
 カンダタは親指を自身に向けた。
「窃盗、殺人、詐欺、強姦、何でもやってるぜ。ポルトガからバハラタまで、この辺りの連中は、カンダタ盗賊団と聞けば皆震え上がるくれえの大悪党になってやったのよ」
 誇らしげなカンダタに対し、カノンは無表情である。それを不満に思ったのか、彼は口を曲げた。
「何だよ、ちったあ感心しろや」
「昔、私の部屋に来た時のことを覚えてるかい?」
 桃色の唇から紡ぎ出された静かな問いかけに、カンダタはしばし考え込んだ。それからああと声を上げる。
「ああ、あん時か。それが何だ?」
「あの時言ったことは、嘘だったの?」
 カンダタはぽかんと口を開けた。目が過去をさ迷い、カノンの言葉と繋ぎあわせようとするかのようにせわしなく動く。
「嘘、って何だ? 何か言ったか俺。相変わらずあの言葉通りやってるぜ? 人間が苦しんでんの、くそ楽しい」
 今度はカノンが、ひどく衝撃を受けたような顔で固まった。カンダタは構わず話し続ける。
「もーさ、すっげえ楽しいよ。俺マジ生まれて良かったって、神様って奴に感謝するようになったんだぜ? すごくね?」
 彼は更に、最近働いた悪事の中でも傑作だったものについて語り出す。しかしカノンの目は宙の一点を見つめたきり、動かない。男の言葉が続くにつれ、少女の瞳から色が褪せていった。
 なるほど、そういうことか。カノンは一人呟く。
 少女は後ろに下がってしゃがみこんだ。倒れた少年に片手を翳す。たちまち黄緑の光が宿り、彼の身体を癒し始めた。
「おい、何やってんだよ!」
 得意気に喋っていた男は、少女の行動を見て語気を荒げた。しかしカノンは答えず、黒の双眸を少年に据えたのみであった。やがて光が手から消える頃、彼の顔は随分安らいだものになっていた。
 カノンは立ち上がる。獰猛な視線と無機質な視線が交差した。

「てめえ、トチ狂ったか」
 男は地面に刺してあった大戦斧を引き抜いた。少女は腕に着けた爪をおもむろに指でなぞる。
「やっぱり、こいつのことを殺す気だったのか」
「たりめーだろ! 特にそいつにはシャンパーニでの借りがあるからな」
 獅子の目が獲物を捕らえんと輝く。寄せられる明らかな殺意から守ろうとするかのように、カノンは少年の前に再び立ちはだかった。
「何だ、邪魔すんならおめーも殺すぞ」
 武闘着の上に羽織った黒衣が風に舞う。流れる束ね髪を左手で掬い上げ、少女は低く言った。
「やってみな」
 場の空気が張りつめる。斧が空を裂き、観戦する木々がざわめいた。










***




 フーガは急ぎ足で洞窟を出ようとしていた。思ったより、あの三人を相手に時間を取られてしまったのである。他の賊に仲間が教われていないかが心配だった。
 外へ抜ける。視界に広がる緑の中に二つの人影が映り、彼は駆け寄った。
「カノン、大丈夫か!」
 片方、武闘家はこくりと頷いた。体のあちこちから血が滲んでいる。小さな掌は横たわる人物に向かい、青白い光を発していた。
 フーガはうつ伏せに寝かせられた彼の傍にしゃがみこむ。サタルの背は大きな切り傷が一つと、刺し傷があった。
「誰にやられたんだ?」
「カンダタって男さ」
 清光が傷口を包んでいる。断たれた肉は、繋がりつつあるようだった。フーガは息を吐く。するとそれが合図だったかのように、サタルが身動ぎをした。戦士はすぐさま尋ねる。
「サタル、大丈夫か?」
「ん、あれ」
「動くな」
 姿勢を変えようとしたサタルは、カノンに制止されて動きを止めた。彼女の方に首を捻る。寝起きの子供のような顔をして、彼は二人を見上げた。
「俺は」
 混迷した意識を整理しきれないようだったが、やがて思い出したのか、目にすっきりとした光が宿った。
「ありがとう、カノン」
 珍しくシンプルに礼を述べたサタルは、戦士に苦笑して見せた。
「こんな有り様でごめん。フーガは大事ない?」
「問題なかった。ちょっと時間がかかったが、奴らは逃げていったよ」
「そっか。カノンは?」
 大丈夫だと彼女は返す。サタルは彼女の顔にじっと目を注いだ。
「本当に?」
「何だい」
「暗い顔してるよ」
「うるさいね。元からだよ」
 彼女は顔を上げないまま答えた。長い髪が顔にかかり、その様はよく窺えない。日が暮れてきて、影が色濃く落ちていた。
「カンダタは?」
 フーガが問う。強風が三人の間を吹き抜けて、木の葉を巻き上げる。彼らは視線を上げて、葉の行方を追う。夕暮れの中で黒点になった頃、カノンは答えた。
「いなくなったよ」
 そう、とサタルは返した。

 






 

 

20151220 加執修正