イザヤールは宙を漂いながら、自らの守護する村を観察していた。正午を迎えたウォルロ村では多くの村人達が、生活の手を休めて食事をしている。魔物も寄ってこない、平和そのものといった様である。
 ふと気配を感じ、振り向く。少年だった。

「ナインか」
「お休みの時間ですのに、師匠の姿が見当たらなかったので」

 莞爾とした弟子は隣へ来て、師の視線の向いていた先を見る。ここは雲より下ではあるもののかなりの上空、並の者なら森の輪郭を捉え大地の広さに溜め息を零し、果てしない水平線を眺めるだけだろうがこの師弟は違う。師弟は師弟でも天使の師弟、背中から生えた白き翼と頭上で輝く光輪は伊達ではなく、肉眼で見るには細かすぎる遠くのものを見ることだって、息をするよりも簡単にできた。

「食事は楽しそうですね」

 ナインは興味深そうに村を凝視している。天使には他の生物を摂取するという習慣がない。だから多くの天使は自らが生きるためとは言え、他の生を奪うことを平気でする下界の生物を野蛮と見なしがちである。しかし、この見習い天使はその気がなかった。

「食事を摂ってみたいか?」
「はい、できることならば」

 ナインの答えに躊躇はなかった。

「ですが人間界のものを摂取すると身体に支障が出ます。天使として仕事ができなくなっては困りますから、夢のまた夢です」

 イザヤールは自らの口元が緩みかけていることに気付いて、速やかに引き締めた。幸い弟子は人間の食事の様子に夢中で気付いていないようである。

「ナイン、しばらく人間の様子を見てみてどうだ? 改めてお前は人間についてどう思う?」

 ナインは目を師匠に戻した。師が平素より更にいかつい顔つきをしているよう、彼には感じられた。
 見つめ合う師弟の間を突風が通る。

「以前僕は、人間は天使よりなお善となり得る存在だとお答えしましたね」

 ですが、今は少々変わりました。少年はそう言って、なびく髪をかき上げる。

「人間はこの世界に住む何よりも世界を体現する生物であると、僕は考えます」
「……詳しく」
「これまで僕は、ありとあらゆる人間の様子を見てきました。人ほど理性と本能のバランスが絶妙で揺らぎやすいものはありません。それが、これまで我々天使が彼らを導くべき下等な存在と見なしてきた原因の一つでもあります」

 人間は考えが浅く、視野が狭く、肉と情に囚われやすく、本能に忠実で、快楽的であり、思い込みが強い 。
 さる大天使の一人が記した書物にある一節である。天使なら誰でも諳じられる有名な箇所だ。

「ですが僕は思うのです。生き物に下等も上等もありましょうか? 何事も一長一短、こちらが出ればあちらがへこんで、どの面から見ても完全な同一に見えるものはありません。天使の基準が、何故絶対だと言い切れましょう? 地上のものを下等とするのは天使の傲りだと、僕は考えます」

 ナインは断言した。微動だにせずこちらを凝視する師を、彼は見つめ返す。童顔には恐れも不安もない。曇りのない純真さのみが窺える。

「人間は考えが浅く、視野が狭く、肉と情に囚われやすく、本能に忠実で、快楽的であり、思い込みが強い――その通りです。ですが、それが劣っていようがいまいが、どちらでもいいではありませんか。そんな人間の情から、星のオーラが生まれることもあるのです。穿った見方をすれば、それにすがって神の国へ帰ろうとする天使こそ浅ましいではありませんか」

 イザヤールは怒らなければ、賛同もしない。それが先を話すことを促しているのだと、ナインは知っている。

 耳元で風が唸る。それに負けないよう、ナインは声を気持ち張り上げた。

「ですから僕は、人間は世界を見る手がかりとなる複雑な存在であると考えます。僕にはどうしても、彼らが下等な生物であるとは思えないのです。光とも闇ともなりうる彼らのことを、もっと知りたい。世界のように己に素直で理不尽で、世界のように多様な可能性を持つ彼らは、我々天使に学ぶべきことを多く提供してくれるでしょう」

 舞い上がっていた弟子の髪が、ふわりと額に落ちる。
 イザヤールは遥か下方へと目を転じる。人々は既に食事を終えて、午後の作業へと戻るところだった。
 彼は口の端を吊り上げた。








20140611 初稿

20180527 加筆修正