少年はぱっちりと瞳を開いた。まだ外は薄暗く、しかし空が白みつつある。彼は上体を起こし、幼い仕草で目を擦った。

「サンディ?」

 相棒を呼んでみるが、答えはない。いつもならすぐに返事が来るのに。昨夜何かあっただろうか。少年はそこまで考えてから、苦笑した。何かも何もない。彼女とは昨夜、別れたのだ。

 昨夜は流星群が夜空一面を駆けて、素晴らしい夜だった。あんな光景を、少年は見たことがなかった。あの星吹雪の夜、少年はただ尾を引いては流れていく星々を眺め続けた。彼の濃灰色の瞳は流星の一つ一つ、その輝きから尾の形や長さを瞳に留めようと必死だった。そのせいかその前から溜まっていたあまりの疲れのせいから、セントシュタインの宿に帰って来ると、彼は宿主への挨拶もそこそこに早々眠ってしまったのだった。

 しかし帰って来た時はかなり遅い時間だったのに、日が昇る前に起きるなんてどういうことだろう。少年は身を起こしてぼんやりと考えながら、ゆうべの星吹雪を思い出そうとした。星々は瞬いて、靄を散らすような細かい光を散らしながら流れた。

 星々は瞬いて、靄を散らすような細かい光を散らしながら流れた。

 少年は頭を抑えて首を捻った。どうも、頭がすっきりしない。いつもより明確に記憶が像を結ばないのだ。これは食事を摂っていないせいに違いない。人間になったのだ。食事はこれまで以上に必要不可欠になるだろう。

 …………。

 突如、少年は跳ねるように起き上がった。着替えるのももどかしく、割り当てられた部屋から廊下を駆けて城下町へと飛び出す。セントシュタインの町は、まだ薄明に眠っている。


「リッカ! リッカ!」


 少年は宿の前で井戸を覗き込む、橙バンダナの少女に呼びかけた。彼のやや高い声は、微睡む町によく響く。井戸の傍で水を汲んでいた少女は驚いて、思わず桶を取り落した。


「なっなに? どうしたの?」

「僕の名前は?」


 リッカは口をぽかんと開けた。少年は至って真摯な顔つきである。そして、もう一度同じ質問を口にした。


「僕の名前は、何ですか?」

「何を言ってるの、ナインでしょ?」


 彼女は唖然としながらも恐る恐る答える。すると、少年は溜め息を吐いた。これは呆れではなく、安堵のものだとリッカは見て取った。


「急にどうしたの?」

「いえ、ちょっと尋ねてみたかっただけです」


 すみません、と彼は頭を下げる。変なナインとリッカは笑って、彼もつられて微笑んだ。


「そうなんです。何だか変なんです」

「体調が悪いの?」

「それはありません」


 彼は存外きっぱりと否定した。つくづく変な少年である。リッカはまじまじと彼を見つめる。特に変わった点は見当たらない。彼女は空に目を転じた。空の西はまだ薄い群青で、東にいくに従って赤みを帯びて藤色に淡く輝く。日はまだ登っていない。

 綺麗な空だ。リッカはこの時間帯が好きだった。しかし、今日は何故か気持ちが落ち着かない。思い返してみれば少年が来る前、起きた瞬間からそうだったような。


「でも、私も何か変なんだよね。何か大切なことを忘れている気がするの」


 リッカは呟いた。何といったらいいのか。寝る前に歯磨きをしたか、今朝は顔を洗ったか。そういった類の、何度も繰り返してきた習慣を今日も繰り返したかを思い出せないような、そんな感覚に似ていた。


「リッカ」


 ふと呼ばれて顔を向けると、少年はまた真剣な顔つきに戻っていた。


「今朝のお祈りはどうしたのですか?」

「お祈り?」


 少女は小首を傾げた。何の事だろう。


「グランゼニス様への? それならいつも安息日に――ナイン、どこへ行くの?」


 ナインは走り出していた。リッカが追ってくる気配はない。


「ラヴィエル様!」


 宿の戸を開け放って呼ぶ。しかし、カウンターに女天使の姿はない。

 彼はまたすぐに踵を返して、今度は教会の裏手に回った。ここにはいつも犬の幽霊がいて、ナインを見るとちぎれんばかりに尻尾を振ってくれた。けれど、口笛を鳴らしても垣根をかき分けても呼んでも、犬は姿を見せなかった。

 彼はその次に町の中心、セントシュタイン城前へと走った。日が昇りつつある。清々しい陽光が、天使像を白く浮かび上がらせていた。ナインは息を切らしながら像のもとへ駆け寄り、足下を見て愕然とした。

 銅版には、何も記されていなかった。


「おや、若いのに朝早いねえ」


 彼の後ろを、老婆が通りかかった。ナインは弾かれたように振り向いた。


「お婆さん、この像は」

「これかい? それがね、あたしにも分からないんだよ」


 何だか意味があった気がするんだけどねえ、と老婆は首を捻りながら、像の前を通り過ぎていった。

 ナインは立ち尽くした。朝日に照らされるセントシュタインが、どこか知らない異郷の地に見えた。

 彼はもう一度、星吹雪を思い返そうとした。流星たちは煌めく靄を撒いて彼の脳裏を過ぎ去った。靄の中心の、形は――


「……思い出せない」


 少年は呟いた。思い出せなかった。どの流星が誰のもので、どの天使がどんな流星になったのか、目で追いながら記憶に刻み付けたはずなのに、思い出せない。記憶力が、異様に落ちている。

 脳裏にたくさんの情景が過る。昨夜戦った大師匠の去り際の笑み、長老の長くて白い下がり眉、憤懣やるかたない顔つきの褐色の妖精、行かなくていいと言っていた赤毛の書記長、自分の目の前に立ち塞がった広い背中、ナイン、と呼ぶ声。

 彼の声は、岩のようだったように思う。だが大きなゴツゴツとした形のだろうか、それとももう少し丸かっただろうか。ナインは師匠の声を再生しようとしたが、喉からはしわがれて潰れた声しか出ない。人間の咽喉だ。この世のあらゆる音を出すと言う、天使の咽喉ではない。

 ナイン。脳裏で師匠が呼ぶ。ナイン、ナインはいなくなってしまった。天使のナイン、変わり者で人間が大好きなナイン、ウォルロ村の守護天使、ナイン。

 天使はいない。天使のナインもいなくなってしまった。なら、今ここにいるナインは誰なのだろう。

 セントシュタインに、今日も朝日が昇る。少年は山際で輝くそれを眺める。生まれたての太陽は残酷なまでに美しく、採れたての果実のように眩かった。

 












第50回ワンライ「女神の果実」お題作品



20150614 初稿

20180527 加筆修正