リッカは慌ててウォルロの家を出た。先日滝の辺りで拾った少年が、いつの間にかベッドから姿を消していたのである。

 まさか、もう出ていってしまったのだろうか? まだ言葉を交わして日は浅いけれど、そのような人ではなかったように思う。

 村の教会辺りまで来ると、どこからか弦の音色が聞こえてきた。首を向ければ、見慣れぬ人だかりがある。足を運び人の垣根を分けてみれば、いた。派手な服を着た小柄な少年が、集まりの中央で胡坐を掻き、弦楽器を爪弾いている。彼は手に抱えたものに神経を集中させているようでこちらを一切見ず、眉間に小さな皺を寄せていた。

 ややあって、人のざわめきの間をすり抜け、高く澄んだ歌声が流れだした。彼が歌っているのだ。男の声とは思えぬ美しい響きに一同はたちまち静まり返る。彼が弦の哀切な旋律に乗せて歌うのはお伽話だった。自らの罪により天より落とされた男が、神の国に復讐しようとする。復讐のため彼は人間を懐柔し、神の軍勢を前に大戦争を繰り広げる。しかし堕ちた男は敗れ、惑わされた人間も禁忌を犯し、住んでいた幸せの国を追われてしまう。彼らは何処へ行こうか、光は道を照らさんや否や。

 所々に古語が混じる難しいものだったが、物語とメロディーの魅力に惹かれついつい聴き惚れてしまった。終いのオルゴールのようにゆっくり、ゆっくりと弦を弾く指が止まると、辺りは水を打ったようにしんと静まり返る。次の瞬間には、リッカは他の村人と共に夢中で拍手していた。この小さな農村で未だかつてない大拍手、そして声援。その中心で少年は、ただにっこりと笑っている。

「凄いわナイン。貴方、本当に旅芸人だったのね!」

 興奮した人垣が散ると、リッカは少年に駆け寄った。ナインは彼女を見上げる。

「皆さんが僕を旅芸人だと言うので、真似事をしてみたまでです。おかげで目的が達成できました」

 そう言って自らの目の前に敷かれたマントを掬い上げ、立ち上がる。

「宿代です。まだ払えていませんでしたので」

 マントを差し出す。その上には先程の歌に感動した村人達のチップが散らばっている。リッカは面食らった。

「そんな、受け取れないわ。宿に泊めてるわけじゃないんだから」
「ですが食事や入浴までお世話になっていますから、そういうわけには参りません」

 押し問答の末、リッカは宿一泊分のお代だけもらうことにした。彼女がコインを数枚取るとナインは満足そうに頷き、残ったものを腰に下げていた小さな袋に移す。リッカは彼の足下に置かれたままの楽器に目を移した。

「さっきの曲、何ていう名前なの?」
「名前はありません。僕が昔読んだ話に即興で曲をつけただけです」
「まあ、凄いのね! さすがだわ」

 ありがとうございます、とナインは謙虚に受ける。リッカは夢見るように暮れゆく空を見つめ、胸元で指を組んで歌うように言う。

「とても綺麗な曲だったわ。この世のものとは思えないくらい……。また歌ってくれないかしら? お祖父ちゃんにも聴かせてあげたいの。勿論お金は払うから」
「お望みでしたらいつでも。お世話になってますからお代などいりません」
「ありがとう」

 リッカは嬉しそうに目を三日月に細める。しかしふと真剣な眼差しをして、

「でも、悲しいお話だったわ。もう二度と住んでいた所に帰れなくなるなんて……ねえ、どこの国のお話? 落ちてきた男の人は、何の罪を犯したの?」
「ここからは随分と遠い所です。罪は、高慢からの神への反逆でしょうか。諸説あるのです」
「そうなんだ。でもその人だけなら分かるけど、それに騙されただけの人が住んでた所をずっと追われてしまうって」

 リッカは更に言葉を続けようとして口ごもった。紫の細い眉を潜めてうーんと唸り、それから首を横にぶんぶんと振る。

「いけない、いけないわ。それよりそうよ、もう帰らなくちゃ。お夕飯にしましょう、ナイン」

 食べるよね? と上目遣いに彼を窺う。

 ナインはここにやってきて意識を取り戻してから三日間、何も口にしなかった。どんなに美味しいものを作っても健康に良さそうなものを作っても「食べられません」の一点張り。やつれていく彼を見るに見かねて泣きながら懇願して、ようやく粥を口にしてもらえた。
 それからはちゃんと食事を摂るようになってくれたのだけど、ご馳走様でしたの言葉と共に浮かべる笑顔はいつも悲しい。食事が問題なわけではないと彼は言うけれど、どうにも無理をしているように感じてしまう。それでいつも食事の要不要を尋ねてしまうのだった。
 勧めるくせに矛盾している、とは思っている。

「頂いてもよろしいでしょうか?」
「勿論よ」

 リッカはほっとした。ナインは燃えるような空を見上げる。

「もうそういう時間なのですね。言われてみればこれが空腹感……」

 突如、派手な色彩がばったりと倒れた。見事に顔面から地面に突っ込んだのを見たリッカは、狼狽して彼のもとにしゃがみ込む。

「どうしたの!? そんなにお腹が……!?」
「すみません、違うんです」

 ナインは動揺するリッカの問いに即座に答えるべく顔を上げた。額に土がついているが、意外にも痛そうな様子は全く見られない。リッカは彼の額を払ってやると、身体を起こすのを手伝う。

「ちょっと歩こうとしただけです。ご心配には及びません。まだ少し身体がおかしくて」

 彼は微笑んで見せる。しかしリッカは血相を変えた。

「どこか怪我してるの?」
「違います、そういうわけではないのです。ただ……高い所から落ちたせいか、少し感覚がおかしいんです」

 リッカは首を傾げた。ナインは彼女に支えられた状態で、左手の掌で開いては握って開いては握ってを繰り返している。かと思うと不意にその動きを止め、背後を振り返る。

「どうかした?」

 いえ、とナインは首を振る。諦観のような落胆のような、幼い顔立ちには似つかわしくない苦笑いを浮かべている。

「行きましょう」

 何気ないふりをして帰宅を促し、細心の注意を払って身体を動かす。背中の軽さ、全身の感覚がどうにも落ち着かない。リッカと話をしながら、今日も彼は考える。
 この状況をどうしたものだろう、と。









20140429 初稿

20180527 加筆修正