エルギオスが堕ちた。

 親しい人の弟子が持ってきた情報は、ただちに記録を司るラフェットのもとへも伝えられた。それを聞いてすぐ、ラフェットは過去の記録を全てさらった。

 天使界でまとめられている記録書は、天使界と地上界のことのみである。特に地上界のことは、世界中の各地域を守護する天使の記憶から成り立っている。したがって守護天使のいない場所、つまりいわゆる悪の支配下にある地域の記録はない。

 だから、彼女が知ることができたのはガナン帝国についての外部の情報だけだった。

 父親の暗殺から始まる、悪行の羅列――書物をさらううちに、ラフェットは知らずその細腕をさすっていた。

 この所業のどこからかエルギオスの力が使われ、そして遂にはその慈愛に満ちた気高い魂までもが悪に染まりきってしまった。 

 このかつての師を慕い、己の愛弟子を裏切って一人敵地に身を投じ死んだ彼は、これを知ってどう思うだろうか。

 日の届かない部屋が急に寒く感じられて、気が付けばラフェットは例の墓標の前に来ていた。彼女は目を閉じる。暗闇に、優しく楽器を爪弾くように話していた、在りし日の美しい金髪の大天使の姿が浮かぶ。その姿はやがて暗闇に溶け、代わりに生真面目で頑健な上級天使の仏頂面が現れる。そしてその隣に。

「ラフェット様」

 図ったかのようなタイミング。ラフェットは瞼を上げ、ゆっくりと振り返る。

「お別れに参りました」

 今まさに思い浮かべようとしていた人物が、そこにいた。ややくすんだこげ茶の髪。大きな黒に似た瞳に幼い面立ち。師匠とは似ても似つかない、愛嬌のある少年である。

 彼こそ、天使界にかつての大天使の生存と堕天を伝えた者だった。

「天使から……身を落とすのね」

「はい」

 少年は赤子のような笑顔で首を縦に振った。その幼すぎる笑みに、ラフェットは不安を覚える。

「分かってるの? 貴方の選択がどういうことなのか」

「はい」

「もう天使界には帰ってこられないかもしれないのよ?」

 いや、「帰ってこられないかもしれない」ではない、まず間違いなく「帰ってこられない」のだ。世の原理を知る天使なら、少し考えれば誰でも分かることである。勿論、この若すぎる守護天使にも。

「はい」

 しかし、少年は頷いた。それでラフェットの覚悟は決まった。

「ついてきて。貴方に見せたいものがある」

 



 

 

 ラフェットの普段座っている椅子の下には隠し階段がある。天井も壁も階段も黒曜石で作られたその空間はとても天使の建造物であるとは思えず、訪れた者は皆、奈落を滑り落ちるようだと語った。

 そしてその先にあるのは、彼女達天使にとってまさに奈落だった。

「ここは、上級天使以上の者しか来ることを許されない場所」

 階段の終点、重厚な扉を開けた途端、闇が深まったような気がした。

 暗黒の上に立ち並ぶ、棚、棚、棚――ラフェット二人分ほどある、背の高い色褪せた本棚がずらりと列を作っている。どの棚にも隙間なく本が詰まっており、左右前方、どちらを見ても本棚の行列が続いている。空間の終わりは見えず、視界には暗闇に棚が飲み込まれたよう、または暗闇から棚が湧き出て来たようにも映った。

「面積はこの城の敷地と同じくらいある。広すぎて、書記長である私も目当ての書物を探すのに大分苦労するわ」

 ラフェットは幼い天使を振り返る。いつも泰然としている彼も、さすがに驚いたように辺りを見回していた。

「ここに置かれている本は何なのですか?」

「並んでいる本のテーマは同じ。全て、『人間』について研究されたもの」

 少年の視線がラフェットに定まる。彼女も彼をまっすぐに見つめ返した。

「私達天使は神の使い、善の化身。人を災いから守るのが使命。そうしていれば、いずれ神の国へと帰ることができる。私達はずっとそう、信じていた」

 実際、怪しいものだけど。それは言わずに、ラフェットは言葉を続ける。

「その職務を全うするため、天使は人を、人の住む世界を見て研究してきた。人間とは、神が生み出した神と似た形をしたもの。知能があり、言葉で同族と意思疎通をし、道具を生み出して操る。それを学んで学んで分かったのは……貴方も知ってるでしょう? 人間ほど出来損ないな生物はいない、ということを」

 ラフェットもかつては見習い天使だった。小さな村から始まり、大きな国を見守る仕事もした。世界を眺めるうち、当時人間嫌いだったライバルとは対照的に人間への愛着が湧いた。人間を守ろうと、熱心に働いた。

 けれど彼女の守護していた国は、内部の紛争によって滅んでしまった。村もなくなってしまった。

「人間は能力が低い上に悪に惑わされやすく、生みの親である神はおろか、自らの大切な信念や人でさえ裏切る。彼らの行動基準は欲をもとに成り立っていて、簡単に心変わりする。己への異様なこだわりを持つくせに、その己をすぐに失う。肉に弱く精神が脆く、魂は穢れやすい。これを守って何の意味があるのかと、失望する天使も多くいたわ」

  それから記録の仕事へ移り、人間界と天使界に起こることを書物に仕立て上げるようになった。

  記録する内容は、いいことばかりではない。人間を知るうち、彼女は人を研究するようになった。膨大な人の物語、飽きることなく繰り返される反復の歴史を記していて込み上げてきた、言いようのないやるせなさから逃げたくなったのだ。

  しかし、徒労だった。

 「それでも天使は、人間を信じたかった。より多くの人間が感謝の気持ち、善なる神への信仰を持てるよう、気が遠くなるような年月をかけて研究した。けれど……無理だった。神の一度生み出したものは天使は勿論、生み出した神でさえ変えられなかった。たとえそれが、どんな出来損ないだとしても」

 彼女ができなかったように、先の天使達も人間を救いようのあるように解釈することも、救うこともできなかった。上級天使へと上り詰めて得たその事実に、ラフェットは打ちのめされた。

  思い出せば、彼と言い争う原因は大抵このこと絡まりだったように思う。

「でも、人間だけじゃない。この世界はなべて失敗作ばかりよ。現に、善であり続けるものなどなかった。善が栄え続けることもなかった。動植物も天使も世界も、皆全きままでいられない。諸行無常、全ては生まれたら栄え衰え滅び、移ろう……肉体も精神も魂も腐敗してしまう」

 考えてごらんなさい、偉大なる生みの神グランゼニス様ですら失墜してしまったでしょう? その結果、どうなったか――そう呟きながら、ラフェットは意味深に唇で弧を描いた。

「女神セレシア様は人間の善の心を示すため、世界樹になられたのだそうね。私はこれまで天使界が生まれてから付けられてきた記録を全て読んだ。けれど、女神様の御心は全く理解できないわ。私も人間を愛しく思うけど……人間の善なる心を信じ、彼らを身を挺してまで守り生かしたいとは思えない。世界も、守りたいとは思えない」

 ラフェットは瞳を上げ、闇を抱きかかえるかのように両腕を広げた。その手にあるランタンが、光が揺れて暗闇に残像を残す。

「これだけ先の天使が研究し考えてきても、人間を善にする方法は見つからなかった上に、災悪を根絶やしにすることもかなわなかった。それをどうにかする手段があるとしたら、それは全てをリセットすることくらいしかない」

 少年はまるで動くことを忘れてしまったかのように、じっと立ち尽くしている。黒に近い濃灰の瞳は書記長を凝視しているようにも、全く見ていないようにも見える。

 ラフェットは音もなく少年天使に近づき、囁いた。

「それなら、いいじゃない。エルギオス様を倒さなくても。そうしたところで、何も救われはしない。ずっとずっと、欠けたままよ」

 すると彼女の長舌が始まってから初めて、天使が動いた。あどけない顔が、ラフェットを見上げる。

「貴方は、本当に人間のことも師匠のことも大師匠のことも、愛してらしたのですね」

 ラフェットは息を飲んで後ずさった。長く伸ばした赤毛の先が、ランタンの火に触れる。焦げた匂いが、死んだ木の香りで満ちた空間を静かに揺らす。

「確かにラフェット様の仰る通り、この世は欠けております。欠けたものが欠けたものを追いかけて、無い物ねだりであらぬ方を見つめ寄り集まって暮らしています。観念論ですらそうです。善は悪に堕ちやすく、悪は善を求めて侵略する。でも、仮に全きものが生まれたとして――その時、全ては滅びましょう」

 少年の話しぶりは、野の草花を撫でる風に似た大天使のものとも、踏みつけられても揺るがない大地に似た上級天使のものとも違う。淀みなく流れ雨にも氷にも自在に姿を変える、水のようだった。

「ラフェット様。僕は、楽園とは常世ではないと考えています。絶対善の世界でも絶対悪の世界でもなく、栄枯盛衰移ろうこの世こそ楽園かと」

「なぜ……?」

「完全の一でしたら他を求める必要がなくなり、世界などなくなるからです」

 ラフェットの目が大きく、瞼が裂けんばかりに開かれる。

「全て同じ音が鳴るように弦を調節された弦楽器より、違う音が鳴るよう仕組まれた弦楽器の方が、僕は好みです。全て同一の世界もそれはそれでいいところはあるのでしょうが、僕達が知ることはないでしょう。その世界では、僕達は生きられませんから」

 少年天使は、にっこりと満面の笑みを浮かべる。

「ラフェット様はお優しいです。誰も苦しまずに済む方法を、ご自身は苦しいでしょうにずっとお考えになってらっしゃるだけでなく、エゴに囚われた矮小な僕のことまで思いやってくださいます。師匠が貴方をずっと意識してらっしゃったわけも、よく分かります」

 彼、が。

 声に出したつもりはなかったが、唇が動いていたらしい。少年が頷いた。

「僕は、エルギオス様に世界を滅ぼさせたくありません。だから行きます。僕は今こそかろうじて霊性のみ天使ですが、たとえ人間になっても僕は僕のままですし、何も問題はありません。僕は大丈夫です。天使界の皆様にもうお会いできないことは、とても寂しいですが……」

 寂しい。この子の口からそんな言葉が漏れるのを、初めて聞いた。

 そのことに驚く間も与えられず、まだ男のものとしては頼りない腕がラフェットの身体を包んだ。大気を裂く翼こそないものの、懐かしい、よく日を浴びた温かな香りが鼻腔をくすぐる。

「ありがとうございました。最後に貴方とお話しできて、良かった」

 どうか、ご自愛ください。

 若き天使は最後まで微笑んだまま、その場を後にした。ラフェットはしばし呆然と棒のように立っていたが、我に返って階段を、明かりを目指して駆け上がる。しかしその時には、城のどこにも若き天使の気配はなかった。

 残された天使は、己が背に馴染んだ椅子へと身を沈める。その拍子に、小さな雫がほろりと目尻を零れ落ちた。

「ありがとう」

 ラフェットは誰もいない空間へ向けて言葉を贈り、泣いた。

 

 

 





 


第八回ワンライ「9男主人公」お題作品

 


 

20140824 初稿

20180527 加筆修正