クレイモランから聖地ラムダまでの道程は長く険しい。さらに命の大樹が落ち、大陸の姿が大きく変貌してしまった今である。その道筋は勿論、出没する魔物まで変わり果ててしまっているかもしれない。そんな何が起こるか分からない所へ、不用意に飛び込むのは避けたい。
イレブン達は万全を期し、黄金病騒動収束の後丸一日を出立準備に費やした。まず全員で装備品を点検し、この後の旅程と備えるべきものについて話し合う。それからロウとシルビアが現在の荷物と必要品のチェックをして買い出しリストを作成し、それをもとにイレブンとマルティナ、グレイグが町へと繰り出す。そうして飛び回っていれば、もう時は夕刻。体調を万全に調えるため、普段はなかなか取らない宿で、ゆっくりと身体を休めることにした。
夕食も入浴も済ませたイレブンは、マグ二つを載せた盆を手に、宿の階段を上る。仲間たちは皆、それぞれ休むと言っていた。イレブンも休まないと明日に響くのだが、一向に眠気が来そうにない。眠気を呼ぶために運動したくとも、外は寒くて歩く気にすらならない。だから暖かいものでも飲んで、眠気が訪れるのを待つことにしたのである。
自室に辿り着く。改めてその扉を眺め、イレブンは眉根を寄せた。そうだ、この宿は引き戸なのだった。盆を両手に乗せたままだと扉を開けづらいのだが、他に盆を置いておけそうなところもない。
仕方なくイレブンは、手を使わずして扉を開くことにした。肘を使ってノブを回そうとする。案の定、なかなか開けられない。肘で丸いノブを突くものの、扉はピクリと跳ねるだけである。やっと少し隙間を作ることができたと思っても、戸が重くてすぐにまた閉まってしまう。
イレブンはどうにかしてノブを回そうと四苦八苦する。あまりに集中しすぎて、ドアの向こうから軽い足音が近づいてきたのに気付かなかった。
「わっ!」
「ッと」
不意に扉が大きく開いた。驚いたイレブンがバランスを崩し、盆が大きく揺らぐ。しかし扉の内側から伸びてきた手が、盆が完全にひっくり返るより早くそれを水平に持ち直した。
「悪ぃ。一声かければよかったな」
「カミュ!?」
イレブンは目を瞠った。眼前にいるのは間違いなく、本日の同室人である。しかし彼は今後の旅程について話し合った後、妹のいる教会へ行ったのではなかったか。
「マヤさんのところにいなくていいの?」
「ああ。もういいだろ」
カミュはさらりと流すと、盆を取り上げてテーブルに置く。それから自身のベッドとイレブンのベッドの傍へテーブルを引き寄せた。
至って淡白な彼の様子に、イレブンの方が心配になってくる。
「いいの? しばらく会えないかもしれないんだよ?」
「馬鹿だな。だからこそだよ」
イレブンは首を傾げた。カミュは口の端だけを釣り上げる。
「オレがあいつの傍にいたって、できることは何もねえ。それなら他のできることをやらねえとな」
「今できること?」
「おう。これ、どっちかもらっていいか?」
「うん」
何だか、はぐらかされた気がする。しかし一口マグを啜ったカミュが「美味いな、落ち着くわ」と、あまりに満足そうに笑うので、イレブンははぐらかされてやることにした。
座れとカミュが促すので、イレブンも自分のベッドに腰掛けてマグを傾ける。女将のご好意で厨房を借りて作ったホットミルクだ。湯気と共に立ち上るシナモンの香りと、牛乳に合うまろやかな蜂蜜の甘みが好きなのである。
「……ん?」
ふと、カミュが眉根を寄せた。盗賊の鋭い双眸が、自身のマグを注視する。いや、正確にはその中に満ちた、イレブンのものとよく似た薄琥珀の水面を。
カミュはもう一口啜り、しばし黙り込んでから顔を上げた。
「これ、『オレの』だな」
「え?」
「ブランデー入りだ。お前、寝る前に酒は飲みたくねえって言ってただろ」
「あー……」
やはり気付いた。さすが大盗賊と呼ばれた男である。味にも敏感だ。
イレブンの目が泳ごうとする。しかしその視線を追って、カミュの顔が移動してきた。斜め下から氷雪の如く儚い風合いの、そのくせ研ぎ澄まされた刃の如き眸がひたと見つめてくる。
同性であり馴染みとはいえ、久しぶりに元通りの彼と接しているのだ。その迫力に、美しさに、僅かでも動揺しない人間がいるなら見てみたい。
「何でお前、オレがいることも知らなかったってのに、オレの分まで持って来てたんだ?」
「あー、うん」
別に、言っても支障はないのだが。
「聞きたい?」
「何だ、そんなに言いづらいことなのか?」
カミュは心の底から不思議そうである。他人の領分に深く踏み入ることはしない彼だ。おそらく、イレブンが嫌だと言えば引くだろう。
だが。
「……まあ、隠すことでもないか」
溜め息一つで、踏ん切りをつけることにした。
カミュは至って真面目な面持ちである。そんなに改まった顔をされても困るのだが。
「ボク」
息を軽く吸い込んで、意を決する。
「一人分のホットミルクが、作れないみたいなんだ」
「あ?」
カミュの口が、ぽかんと開いた。
やはり言わなければ良かった。イレブンは既に後悔していたが、言い出してしまったのだから仕方がない。続けることにする。
「カミュも知ってるよね? ボク、カミュと旅するまで、必要最低限の料理しかしたことがなかったんだ」
「そうだったな。お互い腹が膨れりゃあいいやってんで、魚ばっかり釣って焼いて食ってたよな」
「あと、街で買ったパンとチーズも」
「ベロニカがピーピーうるさかったっけな」
「そうそう。『こんな適当なご飯ありえない!』って」
「ちゃんとたまには、ズッキーニャとか焼いて食ってたのによ」
「マンドラも意外といけた」
「あいつら贅沢だよな……で? それがどう、ホットミルクが一人分作れねえ話に繋がるんだ?」
「……単純な話なんだよ」
イレブンは苦笑した。
「だからホットミルクなんて、カミュが作ってくれるのを見るまで、作り方も材料も知らなかったんだ」
ホットミルク自体は飲んだことはあった。しかしそれは大抵、イレブンの知らないうちに母が持ってきてくれた完成品だったのだ。
「ボク、カミュみたいに器用じゃないから、見たものを見たままでしか作れないんだよ」
「それ、器用さ関係あるか?」
「カミュには分からないんだって」
イレブンは膨れた。カミュは手元のマグとイレブンの顔とを見比べて、信じられないといった風情で言う。
「まさかお前、オレが最初に作ったあの分量でしか作れねえの?」
「そうなんだ」
「あの、キャンプの夜の?」
「うん」
二人は揃って回顧する。
今となっては何十年も昔のように感じられる、命の大樹が空に燦然と輝いていた頃。デルカダールの地下牢から脱出し、追われる身となったイレブンには悩みがあった。自分の存在、村のこと、これからのこと──それらが一番の苦悩ではあったが、それとは別に、小さいながらも確実に苦しめられていたものがあった。睡眠不足である。
初めての追われながらの旅に疲れ果てたイレブンは、しかし極度の緊張から眠ることができなかったのだ。
それでも、状況が状況である。気丈に振る舞うことはできた。だが何日も宿に泊まらず、慣れない野宿で眠れずといった状態で過ごせば、旅慣れたカミュに気付かれないわけがない。
「あの夜はびっくりしたよ。キャンプから急にカミュがバケツを抱えて出て行ったと思ったら、牛乳抱えて帰ってくるんだもん!」
「牛がいれば絞るだろ」
「カミュのその思い切りの良すぎるところ、ボクすっごく尊敬してるけど、普通は野生の牛にそんなに気安く近寄らないと思うよ」
「生き死にがかかってちゃあ、そんな細けえこと気にしねえんだよ」
驚くイレブンを傍目に、カミュはテキパキと手を動かした。牛乳を鍋へ注ぎ、火に掛ける。鞄から砂糖とシナモン、そして蜂蜜漬けの毒消し草を牛乳に加える。
野生の牛の乳は、そのまま飲むと腹下すからな。こうやって、一応解毒してあっためて飲むのがいいんだ。
そう言う口調はぶっきらぼうなのに、手馴れた様子でかき混ぜる鍋からは何とも言えない良い匂いをさせているのが意外で、イレブンは何も言わず、ただその整った横顔を眺めていた。
「それからだんだん、お前の方が作るようになってったよな」
「だって、アレ飲むと本当によく眠れたから」
その晩から、どちらかが眠れないと必ずホットミルクを作るようになった。野宿ならばその焚き火で、宿ならば厨房を借りて。いつも二人分作った。イレブンはカミュが作ってくれたそのままを飲むのだが、カミュは必ずブランデーを入れた。そして大抵イレブンにも入れるか聞いてくれたのだが、イレブンは断っていた。蒸留酒の強い香りが足されたものより、ただ甘いだけのホットミルクの方が、ふわふわと心地よく眠りの世界に旅立てたからだ。
だから何故カミュがブランデーを入れるのか、不思議で仕方なかった。
「半分に減らして作りゃあいいだけだろうが」
カミュは呆れている。イレブンは微笑んで首を横に振った。
「それが、上手くいかないんだよ」
大樹が地に落ち、再び旅に出てから初めて作った一人分のホットミルクは、とんでもなく苦かった。牛乳の量が少なかった上に、毒消し草を煮込みすぎたからだ。その次に作ったものは、味が薄かった。調味料が足りなかったらしい。ではその次は、と挑んでみると、今度は砂糖が多すぎた。
「どうにも、カミュが作ってくれた味にならなかったんだ。似たところまではいけるんだけど、何かが足りなくて」
似た味程度では、いつもほど上手く眠りに落ちられない。しかし最初から二杯分作れば全くそんなことにはならず、満足して快適に眠ることができた。
だから、二杯分作るのがやめられないのである。
「何だそりゃあ」
カミュはどうしても理解できない風だったが、やがて理解を諦めたらしい。肩をすくめ、首を振った。
「まあ、一人分のホットミルクが作れない理由はよしとして……何でわざわざ、二人分のうちの片方をオレの味付けにしたんだよ? ブランデー入れるの、苦手だっただろ?」
イレブンは考え込む。んー、と顎に手を当てて唸り、ややあって答えた。
「カミュが、いつも美味しそうに飲むから」
「……は?」
イレブンは大真面目な顔で説明する。
「ほら、よくあるだろ? それほど食べる気がしないと思ってたパンケーキでも、美味しそうに食べてる人を見かけると美味しそうだなー食べたいなーって思っちゃうこと」
「まあ、なくはねえけど」
「それと一緒。カミュが美味しそうに飲むから、慣れれば美味しいのかなって気がして。ボクもその味で飲んでみたくなったんだ」
「ふーん。じゃあ、お前もついにブランデー入りの良さがわかったか」
「うん。でもやっぱり、ブランデーなしの方が好きかな」
カミュはがくりと上体を折った。イレブンは飄々として言う。
「前に比べればブランデー入りも気に入ったけど、好きなものは好きだから」
「じゃあ何で作るんだよ?」
「よく分かんない」
「オレの方が分かんねえよ!」
わけわかんねー、何なんだよ。カミュが嘆く。それを眺めるイレブンは、伸ばした髪を揺らして笑っている。
「ボクも分かんないんだよ。でも……眠ろうと思ってホットミルク作ると、必ず思い出しちゃうんだ」
コスパ重視、と彼が好んだボトルの色。ツンと鼻をつくアルコール。初めての夜に鍋をかき混ぜつつ呟いた「懐かしいな」の声色から、一杯煽った後にゆるゆると漏らす吐息まで。
それは常に強い意志を滲ませた彼の眦が弛む、ほんの一瞬の、安息の記憶だった。
「で、つい今度こそは美味しく感じるんじゃないかと思って、ブランデー入りとなしのを用意しちゃうんだ」
けれどもやはり自分の好みは変わらなくて、いざブランデー入りを飲んでみると、いつものものが飲みたくなる。そのため、異なる二つの味を用意して、交互に飲むようになったのである。
「今じゃあすっかり、これが癖になっちゃった」
イレブンが説明し終えると、カミュはすっかり奇妙なものを見る顔になっていた。
「変な奴だな」
「本当だよ」
へらいもない、率直な感想。しかしイレブンは微笑んで受け入れた。
「でもこれが意外といいんだ」
「へーへー、そうですか」
「これを飲みながら、いつも考えてたよ。今すべきことは何か。カミュだったら、何て言うんだろうなって」
寝台に寝転がり、イレブンに背を向けようとしていたカミュの動きが止まった。その背を見つめて、イレブンは言う。
「カミュはいつだって、今一番にやるべきことを分かりやすく言ってくれてただろ? だから大樹が落ちて、ボクがどこを目指したらいいのか分からなくなった時、カミュならどういう風に言うんだろうって……」
魔王と対抗するための手段を求めることに必死で、ひたすら目の前に現れた手がかりを追い続けた。まともな考えが働かなかった。でも予想以上に自分らの助けを求める声は多くて、それでもなかなかすぐには救いきれなくて。
少しずつ、できることを。そうは思っていても、もう手遅れになってしまったらどうしようと、そんな考えが頭をよぎることも多い。
そのようにあれこれ考えすぎてしまいそうな時は、脳裏にカミュを思い浮かべた。
「グレイグさんと和解して、彼がボクを守る盾になると言ってくれても、お祖父様がボクを労ってくれても、シルビアが笑わせてくれても、マルティナが励ましてくれても、ボクは心のどこかでカミュのことを考えてた。カミュだったらここでなんて言うかなとか、ここで呆れそうだなとか、あのタイミングでカミュがいたら気をつけろって言ったかなとか」
「おいおい。そんな言い方、あいつらに失礼だろ」
寝台から上体を起こし、こちらに向き直ったカミュが窘める。イレブンは軽く片手を挙げて、その言葉を制した。
「違うんだよ。みんなのことはもちろん有難いと思ってる。でも、グレイグさんの代わりが、お祖父様の代わりが、シルビアさんの代わりが、マルティナの代わりが、それぞれ誰にもできないように、カミュの代わりもどこにもいないって気付いちゃったんだ」
「……大袈裟だな、らしくもねえ」
イレブンは真正面からカミュを見つめる。それに対してカミュは、胡座をかいた上に頬杖を突いて、気怠げに視線を返した。
「ボクは思ってたよりずっと、カミュに頼ってたみたいだ」
「そうか」
「カミュは誰よりも、勇者としての僕を見ていてくれたから」
明後日へと流されかけていた薄氷の双眸が、イレブンのところへ戻ってくる。澄んだ瞳は彼を見据えたままだった。
「カミュは、マヤちゃんのために僕を信じてくれていたんだね」
「そうだな」
カミュは言った。イレブンは小首を傾げ、なおも問う。
「ボクが悪魔の子だと思わなかったの? ボクがそうじゃないと言い切れる根拠なんてあった? なのにどうして信じてくれたの?」
「今日はやけに喋るな」
「今日なら、カミュが喋ってくれる気がして」
カミュは鼻を鳴らす。
「オレと話したって、楽しい話はねえぞ」
「楽しい話がしたいんじゃないんだよ」
イレブンは身を乗り出した。寝台が軋む。
「ボクは、カミュと話したい」
二人は見つめ合った。
静寂が耳につく。時折暖炉から薪が爆ぜる音が響く程度で、窓の外はしんしんと降り積もる雪のせいか、人の話し声一つ聞こえない。クレイモランの夜は静かだった。
ははっ、と新しい音が零れた。カミュの笑い声だった。
「何が聞きたいんだ。謝罪か? 懺悔か?」
「そんなの要らないよ。ただ、カミュが何を考えてボクと一緒にいることを選んでくれたのか、知りたいんだ」
「どうしても?」
「どうしても」
カミュは溜め息をつき、首筋を掻いた。イレブンはずっと、その白く筋の浮き出た首を見つめていた。
「こういう話はガラじゃねえんだけどな。お前には、迷惑かけた。聞きたいっていうなら、しょうがねえ」
カミュは彼の顔に焦点を合わせ、言った。
「もう、何もアテがなかったからだ」
故郷を出てあちこちを回った。広い世界を知り、様々な財宝を見た。欲しいと感じたものには迷わず手を伸ばし、狙った獲物は必ず手に入れてきた。
「てめえのやってることが何のためかなんて、どうでも良かった。ただオレが満足できりゃあ……マヤのことを忘れられれば、それで良かったんだ」
結論から言えば、忘れられるわけがなかった。どんな素晴らしい宝を手に入れても、己のこの手で救えなかった妹のことを思い出してしまう。
散々放浪して無茶をした。その旅の途中で、預言者という者に会った。預言者は勇者と贖罪について語った。
己の罪を贖う──それは妹を失った彼の世界に、ようやく見つけた微かな輝きだった。
カミュは基本的に、根拠のない話を信じない。自分にとって都合の良さそうなものでも、かえって疑ってかかる。だが己の罪に押し潰され、もうどう足掻いても妹のことを忘れられそうにないと気付き始めた時分だったから、口では信じないとは言いながらも、心の奥で信じたいと思っていたのかもしれない。
デルカダールの国宝に手を出したのは、その後だった。その末にあの世界最大の王国の地下、最奥へと落ちた。
「お前だって知ってるだろ。あの牢に入った人間は、死ぬまであそこから出られねえ。お天道様を拝むことさえ叶わず、冷てえ石畳の上で食っちゃ寝してるうちにいつの間にか死んでいく。体こそ生かされてるが、おっ死んでもいねえのに墓に入れられちまったみてえなもんさ。自然と気分も、死人の方に近づいてくんだよ」
そうして過ごしていくうちに、かつての無茶な盗みがバカらしくなった。そしてただ、ぼんやりと自分の閉じ込められた暗闇を見つめるようになった。
「ここにこのままいりゃあ、死ぬんだろうなと思ったよ。怖くはなかったさ。だが、後悔はありえねーくれえ湧き出てきた」
このまま、あいつが欲しがっていたレッドオーブを手に入れることさえ叶わず、死んでいくのだろうか。
気付けば死に物狂いで忘れようとしてきた、故郷の風穴を思い出していた。
あそこには今でもまだ、絶望に染まった顔で手を伸ばす妹の像があるのだろう。
あの時手を伸ばしていれば、もしかしたら違ったのではないか。
妹にかかった呪いが、自分が手を伸ばした程度のことで簡単に解けるとは思えない。だが手を伸ばしていれば、今こんなにも後悔しなくて済んだのではないか。
もしもあの時手を伸ばしていたならば──妹はたった一人、温もりも感じられぬ黄金の像となって死ぬことはなかったのではないか。
「そこまで落ちに落ちて、やっとオレは、覚悟が決まった」
恐怖はもう微塵もない。悔恨は狂いそうなほどに湧き出てくる。
どう生きても苦しくてやるせなくて、罪を贖うことさえもできないならば。
せめてここを出て、あの寒い風穴に佇む、己が殺してしまった妹の傍で死にたい。
「…………」
カミュはここで言葉を切り、イレブンを見た。青年は依然として、その目をまっすぐ向けたままだった。鏡のごときその瞳に、自身が映っている。カミュは笑った。
「オレにとってお前は、最後の最後に差した唯一の希望の光だった。それが本物なのか、幻覚なのか……どん底に落ちてお天道様なんざ拝めなかったオレには分からなかったが、たとえ偽物でもいいと思った」
軽く腕を上げて、指を伸ばす。その向こうには、純朴な青年勇者の顔がある。
「手を伸ばさなかったことを、もう後悔したくなかった」
指先だけで、そのつやめく亜麻色の髪をなぞる。
「お前が勇者ならばそれでよし、悪魔の子だと言うならば……しょうがねえ、自業自得だ。どうなったって構わねえと思ったんだ」
イレブンは微動だにしない。カミュは口の端を吊り上げる。
「どうだ、勇者さま? オレのスウコウな話が聞けて、満足か?」
「ボクと一緒だ」
イレブンは呟いた。
薄氷の双眸が見開かれ、伸びていた指先がベッドに落ちた。イレブンはそれを一瞥して、また美しい双眸へと視線を戻す。
「ずっと、人に優しくあれ、親切であれと言われた通り生きてきた。それなのに、初めてあんな形で裏切られた。それも、最も聡明で優れていると言われてきた人たちに」
青年は独白する。
淡々と、外に降る雪のように言葉を紡いでいく。
「天地がひっくり返ったみたいだったよ。何が起こったのか、どうなってるのか、ボクが何をしたのか……全然、分からなかった。分からなくなった。それまで優しくしてくれた人たちが優しくしてくれなくなって、これまで生きてきた僕が変わってしまったかのような──」
優しくするべき「人」でなくなったかのような気がした。
「そんな時、カミュだけがボクを信じてくれた。血縁も面識もないボクを、確かな根拠もないのに救ってくれた。悪魔の子だと呼ばれたボクを、唯一勇者だと信じてくれた。だからそんな君がボクを裏切るというのなら、仕方ないと思ったんだ」
イレブンは微笑んだ。
「ありがとう、カミュ」
「…………」
「ボクを助けてくれて、信じてくれてありがとう。そしてまた、ついてきてくれてありがとう」
「やめろ」
カミュは低く言った。
「お前とオレじゃあ、業の深さが違う」
「違うの?」
イレブンは首を傾ける。
「ボクはどんな人でもいい、助けてくれる人を探していた。カミュは違うの?」
「オレは」
カミュは黙り込んだ。白皙を伏せ、細い眉を寄せて、呟いた。
「諦めたくなかった」
「そう」
イレブンは二度、大きく頷いた。
「カミュは、勇者だね」
「あ?」
「最後まで諦めない人のことを、勇者って言うんだよ」
「バカ言うんじゃねえよ」
カミュは顔を上げてせせらわらった。
「生まれも育ちも盗賊、しかも妹を殺した罪から逃げていたオレが勇者なんて。そんなゆっるゆるじゃあお前、どうしようもねえぜ」
「でもね、カミュ」
イレブンは寝台から足を下ろし、向かいの寝台の前に膝をついた。そしてその上で胡座をかくカミュの手を取って、両手で握った。
「ボクにとっての勇者は、間違いなくカミュのことだよ。カミュがボクを諦めさせないでくれた。ボクが人の子であると信じてくれた。光だと信じてくれた。傍にいてくれた。カミュが僕を勇者にしてくれた。カミュが諦めなかったからボクは、勇者になれた」
カミュは跪く勇者を見下ろした。イレブンの瞳に、暖炉の炎が映り込んできらきらと輝いている。
その無垢な煌めきを見ていると、聞かずにはいられなくなった。
「俺個人の目的のために、お前を勇者として勝手に縋ったとしてもか」
「だからこそ、だよ」
イレブンは首肯する。
「そもそも何の関わりもなかった人にこそそうやって必要としてもらえないと、ボクは勇者でいられない」
カミュの手を握る力が、一層強くなった。
「ボクにはカミュが必要なんだ。一番最初に、根拠もなく無縁だったボクを信じてくれたのは、カミュしかいない。宿命を知るベロニカとセーニャに出会うまで、命をかけてボクと一緒にいてくれた人は君だけだ」
イレブンは握った手を胸元に引き寄せる。
「これからも、ボクをカミュの相棒にさせておいてほしい」
「やめろよ」
カミュの台詞に、イレブンは顔を跳ね上げた。しかし彼が立ち上がり、その寝台へとイレブンを引き上げたことから、今の台詞から自分の危惧したものとは異なることを察して安堵する。
「ったく、勇者さまが気安く元盗賊風情に跪くんじゃねえよ」
「だって」
「だってじゃねえよ」
カミュはイレブンの髪をかき混ぜた。イレブンはされるがままで、呆れたように笑う盗賊の顔を見つめていた。
「そんなこと言わなくたって、オレはお前の相棒だよ。馬鹿だな」
「だって、カミュは一度組んだら誰だって相棒扱いする」
「そりゃそうだろうが。組めば相棒だろ」
「……カミュの一番の相棒は、ボクがいい」
イレブンは膨れた。カミュは肩を竦め、この勇者らしからぬゴネ方をする年下の頭を、ぽんぽんと叩く。
「はいはい。じゃあオレの一番の相棒にして勇者のイレブンさんよ、そろそろ寝ませんかね? そこの、冷めちまったミルクを飲み干してよ」
「あっ」
ここでようやくイレブンは、ホットでなくなったミルクのことを思い出した。カミュはしまった、という顔のイレブンを見てひとしきり笑った。
それから二人してマグを片付け、就寝の支度を整えた。そして眠ろうという段になって、またイレブンが一緒に寝たいとゴネたので──デルカダールからの逃亡中に添い寝してやってからたまにするようになったのだが、どうもこの穏やかな田舎村出身の勇者は末っ子気質が強い。根っからの兄気質を自覚しているカミュが甘やかすのもまた悪いのだと思うが──一緒にイレブンの寝台で寝ることになった。
「カミュは優しいね」
同じ布団に入って寄り添ってやれば、この弟のような相棒は機嫌良さそうにそう繰り返した。カミュは優しい、誰よりも優しい、と。優しくすることなんざ、やり方さえ知ってればどんな下衆野郎にでもできるんだぜと言うと、カミュはボクにとっては誰よりも優しい人なんだと、こちらの言ったことを聞いていたのかいないのか分からない返事が来た。
「不思議だな。こうしてクレイモランに来て、カミュのことを知る前からずっと、カミュとは分かり合える気がしてた。生まれも違う育ちも違う。なのにカミュとは不思議と、同じ道を選んで歩いて行けるような気がするんだ」
「お前はいい気なもんだな」
全く、呆れてしまう。ロマンチストもここまで来ればどうしようもない。カミュが背を向けると、背中にぴたりと温もりが張り付く感覚。何か言って欲しいのだろうと察して、正直に言ってやる。
「オレみてえな日陰者相手に無邪気に分かり合えるなんて言うの、お前だけだろうぜ」
「ボクだって分かってるんだよ」
イレブンは眠気で緩んだ声で言う。そんなに眠いならば、無理して喋らなければいいのに。カミュは思うが、どうせすぐ眠気に負けるだろうから口には出さない。
「人と魔物はもちろん、人と人同士でさえ完全には理解しあえない。別個体なんだもの。理解しあえないことが悲しいこともあるけれど……ボクは、カミュとならどんなに考えが違っても一緒に生きていける気がするんだ」
「まあ、お前と俺とは確かに、全然考え方が違ぇよな」
「光と闇とは表裏一体」
イレブンは意味深な台詞を吐いた。
「光も、もちろん闇も色々……そうだよね?」
「ま、そうだな」
「ボクとカミュもきっと、表裏一体なんだよ」
「なんだ、俺が闇か?」
「ボクの中にも闇はあるんだ」
「オレほどじゃねえだろ」
イレブンは笑った。うなじを吐息がくすぐる。
「どっちでも」
声がどんどん丸く、不明瞭になっていく。
「カミュとボクなら、うまくやっていけると思うんだよ……」
イレブンはなおも何やらごにょごにょと言っていたが、やがて声は寝息へと変わった。その呼吸が安定した頃を図って、カミュは体の向きを変えて相棒と向き合う。
「おやすみ、イレブン」
オレも、お前が照らす世界を見たい。
そう呟き、肩まで布団をかけてやった。