夕焼け空を見ると、幼い頃を思い出す。物心ついた頃から勇者候補として城で修業し、くたくたになって城を出ると、たいてい町は橙色に染まっていた。
 どこの家からか香草のすり込まれた肉の芳しい匂いがする、ブイヨンをきかせたスープのあたたかな香りがする。家路を急ぐ男達、買い物をする女達、遊びをやめて別れる、自分と同年代の少年少女――疲れた顔には様々な表情が浮かぶ。憂うような、安堵するような。バラバラだが、皆帰る場所を思っているのは確かなように感じられた。
 橙色の城下は、幼い彼女の目にいつも別世界として映った。余所行きに身を包んだ人々の顔から、内側が現れている。そんな気がしたのだ。

 ――お父さん、お父さん!

 甲高い声が耳につく。声を辿れば、少年が男性に飛びついていた。

 ――お父さん、迎えに来たよ!
 ――おお、何だ、今日は早いな。
 ――もう夕飯できるから早く呼んで来いって、お母さんが。

 そうかそうかと男性は破顔する。少年ははしゃいだように彼の節くれだった大きな手を取る。

 ――早く、早く!
 ――そう急ぐな。

 親子は手を繋いで帰っていく。上機嫌な少年の鼻歌が、暮れなずむ空の端に溶けていく。

 夕暮れ時に垣間見た、別世界の光景である。



 落ちる頃になると赤く空を燃え上がらせるのは、自分のいた世界と変わりないなと少女は思った。十何年前のアリアハンの回想から帰って来た彼女は、夕焼けから視線を落とす。
 つい先ほどまで大魔王が君臨していた城の庭に、少女は一人佇んでいる。いや、一人と言うと語弊があるかもしれない。庭にはもう一人いる。心臓が動いていないから、死体が一体いると言った方が正しいだろう。
 目の前で死んだ人間が、父であった。そして、どうも蘇らせることは不可能らしい。その事実は、案外あっさり彼女の胸に落ち着いている。どうやら父の死は自分にとって、水に落ちた小石以下の衝撃でしかないようである。胸の内は平穏そのもので、波紋など全く立つ気配がなかった。
 無理もない。父は自分が三つになる前に家を出たのだ。家や城にあった肖像画でその顔を見たから姿は知っていたが、所詮蜃気楼のような存在でしかなかった。

 ――お父さんはいつ帰って来るの?

 かつて幼い彼女は何度か問うたことがある。すると母は決まって目を逸らし、分からないけどきっとそのうち、と返す。母が困るところを見たくなかった良い子は、それ以上追及しなかった。

 その父が魔王討伐の任の途中で命を落とし、国から支払われる勇者支援金でやっと暮らしていた自分達の生活を守るため、母が自分を次の勇者として国に差し出したと知ったのはそれよりもっと後のことだった。

 母は生まれつき身体が弱く、祖父は当時頭の病を発症していた。だから、早くから剣も魔法も優秀だった自分が父の代わりになるしかなかったのだ。それは理解している。しかし、いつか世界の恐れる魔物や魔王と戦わなければならないという事実は、彼女の心に暗い影を落とした。影は年を重ねるにつれ濃くなり、成人を迎える頃には周囲から年の割に顔つきが老女のようだ、と噂されるまでになっていた。

「父さん」

 彼女は父に声をかけ、失笑してしまった。自分の口から洩れたそれが、違和感でしかなかったからだ。

「やめましょう。オルテガさん、とお呼びしますね」

 返事はない。死体として目の前に横たわっているのであるから、当たり前である。

「オルテガさん……貴方は最後の最後まで、勇者でした。この世界に落ちて記憶を無くしても闇を滅ぼすために尽力し、命まで捧げた。今わの際に記憶を取り戻しても、貴方が言ったのは、世界の平和のことでした」

 愛する家族のため、世界の平和を望んだか。はたまた一人の人として、世界の平和を望んだか。
 彼女は彼でないから知らない。最後の言葉だって、家族を思ってのことかもしれない。しかし、どちらにしても彼が「勇者」であることは切り離せなかった。

「オルテガさん。貴方は人の言う通り、まことの高潔の士でしょう。だけどね、父としては落第だわ」

 だって私も母も、世界の平和なんて望んでなかった。
 
「貴方はきっと子供の理屈だと、器量が狭いと仰るでしょう。でも私は世界を旅して、貴方の代わりに魔王を討って、思うのよ……貴方がこうする必要はあったのかしら、って」

 少女はしゃがみ込んで、男の手を取る。ふにゃりとした肌は、それほど時間を待たずに土へと還るだろう。

「ねえ。母さんとお祖父さんは大丈夫なの。大穴が閉じたら、多額の報奨金が二人のところに入ることになってる。だから働かなくても、死ぬまで生きていけるわ。だけどね、私は……帰れないの」

 少し口を噤んで、彼女は父をじっと見つめる。まるでその返事を待つかのように。

「でも、いいの。だって私は、帰りたくなかったから」

 腫物のように自分を扱う弱い母、一族の血統へのプライドだけ残った自我の怪しい祖父、自分が戻る度に顔色を窺う頻度が増していった城の者達。
 あんな面倒な人々と暮らしたくなんてない。だから、これでよかったのだ。
 だけど、もう二度とあの橙の景色に行くことはできない。

「ああ……本当に、帰れなくなっちゃった」

 少女の口から空気と共に笑い声が漏れる。それから、さして間を置かずに彼女は歌い始めた。その昔、誰とも知らぬ少年の口ずさんでいた鼻歌を。
 それはアリアハンの民なら知らぬ者はいない、帰郷の歌だった。







(後書き)
※第1回「DQ深夜の物書き60分一本勝負」参加。

 お題「3女勇者」選択。





20140703