堅く閉ざされた殻の中で、ずっと夢を見ていた。
 それは先の自分と同じ種――自分はそれが己の何であるのか、また何でもないのかも知らない――の記憶だったかもしれないし、自分を加護する何者かの定めたことなのかもしれなかった。
 自分という意識が生じた時には、空を飛んでいた。実際には飛んでいない。まだ発生途中の翼は折りたたまれていて、力強く風を切ることなどできるはずがなかったし、まず卵から出られていなかったのだ。それでも翼を羽ばたかせれば風に乗った身体が前へと滑ったし、ないはずの風切り羽に冷たい空気の流れを感じた。緑芽吹く大地に下りて虫をついばむことも、砂漠に下り立とうとして熱砂に怯み、足を引っ込めることもできた。少し力を籠めれば、次元の違う場所へ行けることも分かった。
 夢は、どうも自分に世界を羽ばたく術を教えるための仮想世界のようだった。別に、誰か――たとえば「自分を加護する何者か」や、「自分と同じ種」など――から言葉で何かを教えられることなどなかった。自分は既に知っていて、それを思い出す段取りを踏む。それだけの夢であった。
 空を舞い、世界を見て知識を蓄える。透明な液体、たまに色を様々に変えるものの名は「水」、それがたくさん溜まったものは「海」、そこに住んでいて、たまに跳ねるのが「魚」、魚を食べるのが「鳥」、鳥が飛ぶのが「空」、空や海を造り万物にその力を及ぼすのが「神」。
 世界は全て、蜘蛛の糸のような細い線で繋がっていた。その中で、自分に繋がる線は一本だけだった。自分は「不死鳥」で、「神」の使いであるらしい。だから父なる神が造りたまいし空を、我が物顔で舞うことができる。
 自由気ままに舞って見る景色は、いつだって胸が空くほどに美しい。豊かな薄紫の羽根に覆われた胸を、身が引き締まるような澄んだ風が通り抜ける。
 それを、いつも寒いと思っていた。

 

 


 長い学びの期間を終え、殻の世界から出てまず見えたのは人間の顔だった。自分は「彼を乗せて飛ばなければならない」ことを知っていた。自分も彼も宿命があるのだった。
 彼は幼鳥である自分よりずっと小さかった。それでも彼と彼の仲間を背に乗せて飛ぶと、不思議と彼らの乗る僅かな面積がぽっと火を灯したように温かい。卵の頃に感じたことのない、不思議な感覚だった。
「君の背中から見る景色は、何というか、すごく特別なんだよ」
 ある時、彼は自分にそう言った。
 彼は町の宿で眠ることが多い。自分は彼が飛ぶ時を、町の外で待っている。すると彼は、大抵月が真上に登って他の人間が動き回らなくなった頃に自分のもとへ出向いてくるのだった。
 あの時も、彼が来たのはそのタイミングだった。彼は自分を見上げて、明ける夜空のような瞳を輝かせて語った。
「海が、すっごく広い。広いことは知ってたけど、あんなに一つの色では表せないような豊かさがあるなんて知らなかった。大陸も全体が視界に収まっちゃうし、いつも遠く見てただけの空なんてその青に手が届きそうで、飛び出したらその色に染まれるんじゃないかって思うくらいで」
 空には飛び込めない、飛び込んだら死んでしまう。自分がそう窘めると、彼は冗談だよと笑った。人間には喜びや楽しみを往々にして表す笑顔というものがあることを知っていたが、彼は人間の中でもよく笑う男だった。
「人間や、他の生物には行けない高さだからかな。それとも君に乗ってるからなのかな。どちらにしても、君の背中から見る景色って、すごく好きなんだ」
 彼は溌剌と話していたが、ふと何かに思い至ったように目を僅かに開いて眉を心地持ち上げた。それから眉根を寄せ、声の調子を落として呟く。
「でも、何でだろうな。君の景色は凄く綺麗で世界は美しいのに、眺めているとたまに、胸がひどく締め付けられるんだよ」
 彼の瞳に自分の姿が映っている。薄紫の体毛が生えそろった自分。彼とは違う、巨大な鳥の形をした自分。
 彼は自分を見つめたまま、独白する。
「地表から遠ざかって、世界がよくできた小さな模型みたいに見える。地上にいれば生物の息吹が肌に染みて感じられるのに、あの景色にいると何も感じられなくなる。冷たい風が体を切って、自分一人、世界から切り離されたような気がする」
 その感覚は知っている。卵の頃から感じていた。空は寒いのだ。自分だって、彼を乗せていなければ寒い。
 自分がそう言うと、だよなと彼は頷いた。
「だから、神の見る景色ってそんな感じなのかなって思ったんだ。もしそうだとしたら、神っていうのはすごく寂しいものなんだろうな」
 彼は首を傾げる。逆立った黒い髪が揺れた。
「神の鳥である君も、やっぱり寂しいって感じるんだね。人間だけじゃなかったんだ」
 今度は自分が首を傾けた。寂しい、というのは感情だ。概念は知っているが体感したことはない。だが彼の口ぶりでは、まるで自分が寂しいと感じたことがあるかのようだ。
 そのことについて問うと、彼はきょとんとしてからおかしそうに口の端を吊り上げた。
「君は何でも知ってるような顔をしてるくせに、意外と鈍いんだね。君の言う寒いは寂しいんだよ。じゃなければ、俺たちを乗せただけで寒くなくなるわけがないだろう?」
 自分は反対側へ頭を傾ける。納得できない自分の羽毛を、彼の小さな手が撫でる。
「じゃあ、今度飛ぶ用がない時にまた乗せてくれよ。確かめてみよう。目的も何もなく、ただ飛んで景色を満喫して、それで寒いと感じるかどうか」
 彼の羽根の生えていない手は、小さいくせに妙に温かい。毛が生えているわけでもないのに奇妙だ。見下ろしていると、顔を伏せていた彼がこちらを見上げた。
「君の羽根は温かいから、いつも助かってるよ」
  あの寒さを一緒に凌げる合える相手がいるって、いいよね。
  彼はそう言って屈託なく笑う。その言葉で、私はやっと自分を取り巻いていた温度を伴う概念の何たるかを知った。





 

 

 


 


※第38回ワンライ参加。

 お題「ラーミア」選択。

 


 

 

20150506