吐きそうだった。片手で口を抑え、もう片手で壁を伝いながらよろよろと歩く。周囲のどんちゃん騒ぎが頭蓋に響き、青年は眉を寄せた。

 酒は飲めども飲まれるなとはよく聞いたものだったが、こんなことなら飲まれた方がマシだったのではないかと思う。少なくとも気持ち悪さを自覚しないで済みそうだからだ。

 彼は酒の飲み方をまだ知らない。何故なら、今日が初体験だったからだ。彼は本日十六歳を迎えたばかりの、いわゆる新成人なのである。

 喧騒の聞こえない場所に行きたい。世界が割れそうだ。青年は壁にすがりつき、逃げるように壁を伝って歩く。足が縺れれば吐いてしまいそうだったが、嘔吐の恐怖より、喧騒から解き放たれたい、楽になりたいという気持ちが彼の足を動かした。

 爪先が壁とは異なる感触を捉えた。見上げれば階段がある。ずいぶん急勾配だったが、上から焦がれている静寂の気配を感じ取った青年は、必死で上った。辿り着いた先には果たして、期待通り静寂だけがあった。カウンターにも机周りにも誰もいない。

 青年はひび割れた声をあげてカウンターに寄りかかる。酷い目にあった、と知らず呟いていた。何故こんなことになったのだろう。浴びるほど酒を飲んだからだ。何故そこまで酒を飲んだのだろう。必要だったからだ。そうしても、本当に必要なものは手に入らなかったが。

「仲間……」

 漏れ出た声は、鼻をすする音と混じって濁った。

「魔王……勇者……仲間……」

 青年はカウンターに突っ伏してぐずる。酔っているのである。だから多少泣いたって仕方がないのだと己に言い訳をした。

 青年は魔王を討伐する勇者なのに、仲間になってくれる人は誰もいない。勇気を出すために大量の酒を飲んで声をかけたが、結局もたらされたのは嘔吐の予感だけで、非常に惨めだった。

「お客さん、だいぶ飲んでるね」

 青年は顔を上げた。カウンターの向こうに小太りの男が立っている。いつ来たのか、気配すら感じなかった。酔っているせいで気付けなかったのか。それともこれは、酔いの回った夢なのか。

 ここは登録所だよ、という男の声は、酒精で溶けた青年の頭には入らない。

「仲間が見つからないんだ……」

「どんな仲間が欲しいんだい」

「喜んで俺の仲間になってくれる人。単純なやつがいい」

「これで例えてくれるかな」

 そう言って男は袋を開けた。中からとりどりのタネが滑り出てカウンターを占領する。変なおっさんだと思いながら、青年はタネを手にする。

「そうだな。一人目は熱いやつがいい。魔王を討伐して、平和な世界が出来た時、泣くほど喜んでくれるような、夢と情熱があるやつがいいな。そいつはきっと……武闘家だろう。剣を使わなくても

、俺と互角で手合わせできるんだ。武器を持ってるくせにその程度か、って、容赦ない口の利き方するんだけど、別に悪意があるわけじゃなくて、真面目に俺の腕を上達させられるような意見をくれる、そういうやつがいい」

 不思議なもので、言葉はスラスラと出てきた。青年は一人目のタネを並べて、次のものを手にする。

「二人目はやっぱり僧侶だろ。でも、女の子じゃなくて男がいい。俺は女の子と魔王討伐なんてする余裕無いし、パーティー内で三角関係が出来たら嫌だ。だからパーティーは野郎ばっかりで良いんだ。で、僧侶のこいつは、良くも悪くも正直者なんだ。俺は塩梅なところを探りすぎて、言うべきことを言うべき時に言えないこととか、やるべきことをやるべき時にできないことがある。そいつが一緒に考えて、背中を押してくれたらありがたいな」

「最後のやつは冷静だ。俺は夢中になると周りが見えなくなるタイプだから、こいつがいつでも物事を俯瞰してツッコミを入れてくれればいいな。いつも真面目に動くことは少ないんだけど、その分俺らの様子を見て色々フォローに回ってくれる。美味しいとこ取りされそうだけど、助けられてるわけだからそれでもいい」

 青年は並べた全てのタネを眺め、微笑みを浮かべた。

「いいな、仲間。そんな仲間がいてくれたら、魔王も怖く無いだろうな。そんな仲間を守るために、おれ、も、が、ば、れ」

 すぅ。

 青年は安らかな寝息を立てて眠る。

 夜は更けていく。カウンターの人影も、青年の姿も、夜陰に溶け込む。













 眼下を見下ろせば湖面に佇む城が迫っている。もうすぐバラモスの城に着くのだ。

「ついに来たな」

 かつての青年──勇者は呟く。ラーミアの羽毛を掻き分け、背後から武闘家が近づいて来た。

「楽しみだな! くーっ、たまんねえぜ」

 爛々と目を輝かせ、逞しい腕をさする。強敵との戦闘も、彼にとっては己の腕前を試すチャンスであるらしい。

「何匹倒せるか勝負しようぜ」

「勝ったら一回ぱふぱふ奢れよ」

「お前こそ、奢る覚悟しろよな」

「君たちね。何で前哨戦でそんなに燃えることになってるの?」

 離れたところから声がかかった。僧侶である。風に吹き上げられる前髪をうっとおしそうに掻き上げながら、呆れた調子で続ける。

「僕達の最終目的はバラモスを倒すことなんだからね? そこを忘れたら本末転倒でしょ。それより、どこに降りる?」

「え、城のてっぺんでいいんじゃないか?」

「危ないと思うけど。普通にラーミアの降りやすい、城の外の平野でいいじゃない。ねえ?」

「そうデスネ」

 僧侶が同意を求めたのは賢者である。派手な遊び人調の法衣を弄ぶ様は退屈そうだ。

「空以外隙のない城なのに、天守閣に本陣を構えたら馬鹿デショウ。ロード・バラモスは女の子しか頭にないようなマッスルモンキーとは頭の出来が違いマス」

「やんのかコラ」

「着きマシタ。降りマス」

「こういう時だけ速いよな」

「ベッドから出るの、一番遅いのにねえ」

 すたこらとラーミアから降りて城門に向かう賢者を、武闘家が追う。二人のやりとりを僧侶と眺めながら、勇者は魔王の城を見上げる。

 ここに至るまで、長かった。閉ざされたネクロゴンドの地を見つけるまでに一年。そこからこのバラモスの城へ潜入するため、ラーミア復活の手がかりを求めてもう一年。計二年の月日を経て、やっと辿り着いた。様々な苦難があった。それでもめげずにここまで来られたのが誰のおかげか、言うまでもない。

 旅立ちの日、ルイーダの酒場で仲間を見つけられなかったら、どうなっていたか。さらにこの気の置けない仲間たちでなく、別のものを雇っていたらどうなっていたか。彼にはもう、自分が迎えていたかもしれなかった仮の未来が思い描けない。そのことがひどく嬉しい。

「なんだかボーッとしてまセン?」

 いつの間にか戻ってきた賢者が声をかけてきた。勇者は我に返った。

「あ、すまん。ちょっと俺たちが会った日のことを思い出してた」

「なんだぁ、おセンチかぁ?」

「え、気持ち悪い。どうしたの、体調でも悪いの?」

 武闘家がにやけ、僧侶が真面目に心配する。どちらも一言余計だ。

「懐かしいな。朝から酒場で突っ伏してたお前を介抱したのがキッカケだったか」

「君は『頑張れ』とか適当な声掛けをしてただけでしょ。主に汚物拭き取ったり水飲ませたりしてたのは僕だからね」

「第一発見者はワタシデース」

「勇者くんのくせに、仲間探ししに来て酔潰れるなんて大丈夫かなって思ったよ」

「うるせえな。俺だって好きであんなに飲んだわけじゃない」

「じゃあ何で飲んだんだ?」

 旅立ちの日、彼は朝母親に叩き起こされて登城し、その足で仲間を探しにルイーダの酒場に向かった。熟達の冒険者たちに囲まれて、冒険者リストを見ても声をかけるのに気が引けて、勢い付けに浴びるように酒を飲んだ。気付いたら翌日の朝だったのだ。

「一晩丸々飲んでたの?」

「その時からもう酒好きだったんだな」

「いや、その頃はそうでもなくて」

 寧ろ不得意だったと言ってから、勇者は気付いた。

 そう言えば酒を飲んで一晩、自分は何をしていたのだろう。今まで気にも留めなかった。自分は大雑把な方だと思うが、これまで酒を飲んで記憶が飛んだ後は、自分が何かしでかしたのではないかと心配してきた。それがあの日に限って、目が覚めた後も何も気にしなかった。さらに今に至るまで、ずっと気にしなかった。

 何をしていたんだ。気になり始めると仕方なくて、勇者は記憶を呼び起こす。

「階段……」

「え?」

「階段を、登った気がする」

「変なことを言いマスネ」

 賢者が首を傾けた。

「ルイーダの酒場に、階段なんて無いデス」

「え?」

「昔はあったそうデスが、今は二階を倉庫にしているので、一般のお客の出入りはさせていないはずデス。従業員とか、一部の人しか入れないらしいデスヨ」

「そう、なの?」

「貴方も見たことあるデショ。フロアの片隅の、シスターがいる場所デス」

 言われてみれば、酒場のフロアの片隅にシスターがいて、その横に釘で打ち付けられた板があったことにはあったが、釘が錆び付いていて、最近誰かが外して付け直したとは思えなかった。それ以外に、階段らしいものを見た記憶がない。

 ならば気のせいか。もしくは夢でも見ていたのか。

 勇者は納得しようとしたが、なんだか腑に落ちない。

「お前は飲んだくれてたんだよ」

「ルイーダさんが優しい人でよかったね。カウンターに寝かせといてくれるなんて。綺麗にカウンターの上に横になれてたじゃん」

「それ、優しいのか?」

 まあいいか。今となってはそんな細かいことなどどうでもいい。

 勇者は気を取り直した。武闘家が彼の腕を引く。

「それよりバラモス退治に行こうぜ。ぱふぱふ奢ってくれよ」

「前提にするな。俺に勝ったらだ」

「まったく……」

 勇者と武闘家が先んじて大扉に向かって駆け出し、僧侶が後に続く。彼らの背中を、賢者はじいっと見つめていた。

「そうデス。気にしないのがいいデス」

 小さく呟いた。

(あの階段は、一部の人しか入れない。一般のお客の出入りをさせていないのはそのため。そういうことを言うと、すぐに貴方は調子にのるか、または気に病むから、詳しいことはいいデショウ)

 ルイーダから聞いたことがある。酒場の二階は倉庫であるということになっているが、誰も、従業員でさえ、そこには近寄らない。何故ならば、あの場所は或る者にだけ開かれた空間だから。

 ──アンタは一番勘がいいから言っとくわ。ウチの二階は空に近すぎる。私の店のようで、店じゃない。登録所の主人は気難しいから、アンタたちだって、恩があったとしても、近づいちゃダメよ。

「ワタシたちは力を得た。貴方は仲間を得た。それだけで十分」

 賢者は微笑んで勇者の後に続いた。








20190505