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 儚い月灯りを頼みに階段を降りたにっかり青江は、露わになった方の目を細めた。彼誰時、座敷牢は蛍光灯によって白く切り取られたように明るい。反対に廊下には行灯一つの暗がりで、その中から淡い橙を帯びて石切丸と鯰尾藤四郎の姿が浮き上がっていた。

「御勤め御苦労様だねえ。お客さんの様子は如何かな?」

「変わりないよ。微動だにしない」

 三振は牢を見遣る。格子戸の向こうに日本号の隆々とした背中がある。彼の見据える先、部屋の中央に座す長谷部は深く俯いて正座していた。

「日本号さんが牢の前に居る時はずっとこの調子です。でも居なくなると、すぐに扉の方を見るんですよね」

「屋敷の意図だろうな」

 背を向けたままの日本号が言う。

「此奴は絶対に俺を認識させたくないらしい。俺が居ると此方を見ようとしないし、見たかと思えば失神する。全く、徹底してやがるぜ」

「彼のナカ、僕を受け入れてくれるかなあ」

 お屋敷の話だよ、と、誰かに指摘される前に付け足した青江は、格子に近寄り指を這わせる。

「彼、此処に来る前に一つ本丸を解体させたそうじゃないか。お腹いっぱいになっていそうだけど」

「問題ねえな。彼奴の胃袋は底無しだ。これまでも、移った先で間を空けずにえらく喰ってやがった」

「おや、食いしん坊なんだね。かなりの欲しがりやさんと見た」

 長谷部を凝視する青江の瞳が細くなる。

「たくさん僕を食べてきただろうに。食べ応えがなかったのかな」

「青江」

 振り返ると、石切丸が厳しい顔をしていた。青江は肩を竦める。

「違うよ。他の僕を侮辱したわけじゃない」

「そうじゃない。君は彼に食べられに行くわけじゃないだろう」

「勿論さ。しかし君、気にならなかったかい」

「何が」

「主の師兄殿の采配だよ」

 青江は萌葱色の狩衣姿を指す。

「一番手に君──石切丸とはね。まるで既に対策を知っていたかのようだ」

「そうですよね」

 鯰尾藤四郎が顎に手を当てる。

「前に主も言ってました。政府で新しい時間遡行先が定まった時、最初に送り込まれるのは必ず熟練のにっかり青江がいる部隊だったって。理由を聞いたら、青江は対応できる範囲が広いからって言ってたけど」

「そうだね」

 やや目元を和らげ、石切丸も頷く。

「『にっかり青江』は索敵能力が高く、周囲の状況をよく察することができる。戦刀だから経験も積んでいる、霊的なものの理解もいい。難点はこの誤解を招きやすい物言いだけだ」

「君、意外と容赦ないよね」

「刀だからね。それに比べて私のような『石切丸』は厄落としと病気治癒が専門で、夜闇や手狭な所で戦うのが苦手だ。つまりは使い所が限られていて、未踏の地へ先鋒として送るには適さない。あの師兄殿がそんなことも分からない御仁なわけがない。何か思惑があったとして間違いないだろう」

 鯰尾が頷き、考え込むような動作で天井を仰ぐ。

「あの方は性格温厚、慎重極まりないって感じでしたし、何よりめちゃくちゃ強い霊視持ちです。霊視のできる人間が、そんな危ないものに挑むのに何も見ないなんて考えられませんよ」

「彼が他に何か手掛かりを掴んでいた可能性もあるがね」

「そして、あの人が掴んでいた手掛かりを弟弟子に残さないなんて、考えられないよねえ」

 三振の視線が交錯する。鯰尾が彼らの意を汲み取り、首肯する。

「そうです。師兄殿は主を可愛がっていました。それなのに、主にこの長谷部さんを何も言わずに託すなんて、普通に考えてありえません」

 にっかりはそうだよねと言いながら片手を顎にあてる。

「古参の君が言うなら間違いないんだろう。しかし、追い込まれると明後日の方へ心変わりするのが人間だよ。本当に、師兄殿は主のことを可愛がっていたのかな」

「僕は彼との最後の演練に行きましたけど、全く殺意は感じませんでした。強いて言うならちょっと疲れてるかなってくらいで、特に何もなかったと思います」

「日本号さん、どうかな」

 石切丸が牢の向こうへ尋ねる。日本号は振り返る。窶れた顔が逆光で黒くなる。

「俺はあんたらの主とあの審神者の関係は全く知らなかった。だが、あの男にひどく憎んでいる相手がいた様子はない。自分の次の人間を選んでいたような素振りも全く見なかった。しかし、俺は幽閉状態だったからな。俺が知らんだけというのも考えられる」

「どうして幽閉されたんだい」

「さあな」

 日本号は首を傾ける。

「一言、屋敷を攻略するためとの説明はあった。だがあいつらは、俺に一度もその正体についての話をしなかった。厚遇はしてくれたが、俺を信用していなかったのかもしれねえな」

「そうかな」

 青江は口を挟んだ。紫の瞳が三つ、此方を向くのを認めてから続きを言う。

「口にしてはいけない類のものなのかもしれないよ」

 怪異というものは、名をつけることにより呼吸を始める性質がある。多くは名をつけることによりその怪異を把握し、収め、対処することが出来るのだが、その一方であまりに力が強すぎるものについては、逆にそれ以上の増長を防ぐために名をつけることを避ける、もしくは名を呼ばないようにした。

「僕のこの喋り方もこれによるところが大きくてね」

「単に君の趣味だろう」

「半分正解だよ。まあそれはともかく、本当にこの屋敷のモノもそうだとするならば、対処法に気付いたとしても、君達にどうやって伝えるかが難しくなる」

「謎かけでいいんじゃないですか。僕らならば察しますよ」

「そうだね。ま、上手くやるよ」

 青江は降りてきた階段を見上げた。次第に白く形を露わにしてきた段差へ、赤光が差し込みつつあった。もうすぐ一番鶏が鳴くだろう。知らず本体を握り締める。青江、と石切丸が呼んだ。

「帰って来なくてはいけないよ」

「おやおや、どうしたんだい」

「あの主には私だけじゃあ駄目だ。君がいてくれないといけないんだ」

「彼は情が深くて、すぐに余計なモノをくっつけてくるからね」

 青江は含み笑いをする。人間には得てしてそのような性質があるが、彼等の主は特にその気が強い。

「他に御神刀が来てくれればいいんだけど」

「今の私達に新しい刀を育てる時間はないし、君の代わりはどの刀にも出来ない」

「分かっているさ」

 石切丸の肩を叩き、青江は微笑む。

「大丈夫だよ、石切丸。君は本陣の守護、僕は露払い。いつもの通りさ」

 一番鶏が鳴いた。

 衣擦れの音がする。それから足音も二つ。

 青江は再び階段を仰いだ。眩い陽を背に、審神者と宗三左文字が降りてきた。

「にっかり」

 座敷牢の前へ辿り着いた審神者は、青江の両手を本体ごと握り締め、色違いの双眼を見つめた。曙光がひときわ白くなり、肌寒さを覚え始めた時節だと言うのに、掌は汗ばんでいた。

「お熱いねえ。照れてしまうよ」

 おどけて言うと、青年はふざけてるわけじゃないよと微苦笑する。普段はちょっとした思わせぶりな台詞回しだけで真っ赤になるくせに、こういう時は全く狼狽えない。人間というのは分かりづらい。

「頼んだよ」

 握り締めた柄と、絡みつく審神者の指とが熱い。玉鋼が溶けて、全部一緒くたになってしまいそうだ。ふと思いついた表現に、刀は内心で笑う。

「主、武運を」

 行くのは此方なのだが、そう返した。審神者は頷いた。

 本体を預け、にっかり青江は座敷牢へ入る。ギイと蝶番が軋み、辺りの温度が下がった気がした。

 座敷牢の中は薄暗い。電灯が点いているはずなのに、何処となく暗い。畳の四隅が、天井の四方の角が、明瞭に照らされているはずなのに、その板の継ぎ目の黒が濃く思える。無論「暗い」とは、霊刀的表現である。

 へし切長谷部は正座している。青江が膝先まで寄っても微動だにせず、俯いて畳の向こうを眺めていた。

「呼べば応えるぜ」

 壁際に寄りかかった日本号が言う。落ち窪んだ眼窩に浮かぶ目が、油断なく光っている。ありがとうと礼を述べて、青江はしゃがみ込んだ。

「へし切長谷部。僕を君の主の庭に招待しておくれよ」

 煤色の前髪が揺れた。次いで頸が持ち上がる。鼻筋が、目が露わになり、そして遂に藤色の光彩を凝視した。

 頭を殴打したが如き衝撃を覚えた気がした。頭蓋が、目の奥が揺れ、輪郭がぼやける。天井が二枚に壁が三重になり、揺らぐ視界の中で、藤色の虹彩だけが微動だせず其所に在った。あたかも望遠鏡の丸い窓を覗くかのように、青江は瞳の中に在る景色を見た。藤色はたなびいていた。花房の連なりが風を受けて揺れ、その向こうに立派な屋敷を頂く白砂青松を透かし見た。

 顔に何かが触れる。さら、と微かに湿るそれがもう一度頬を撫ぜ、花の香が鼻腔を掠めた。そして目を開けると其所にもう庭は在った。

 抜けるような青空に藤色の花弁が渦を巻いて舞う。白砂に黒々と立派な巨石が聳え立ち、その向こうに三尊石が並ぶ。身体をずらしてその彼方を伺うと、青松の庭に凛々しく武家屋敷が佇んでいるのが窺えた。

 何かが背を押している。青江は身体を反転させる。藤色の壁が甘い香りを漂わせ、ささやかな音を立てて優しく靡いていた。向こうから風が吹いているらしい。

「ああ」

 溜息を吐く。今、彼は──幽霊斬りの霊刀、にっかり青江は正しく理解した。

 確かにこれは、分が悪い。








続く