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 にっかり青江は二の丸の端から畑を眺めていた。二つの影が植物を覗き込んでいる。

「長谷部君、茄子の花が咲かないんだ」

 片方が言う。ここからかなり離れているのに声はよく聞こえた。

「そうか」

 もう片割れが応える。緑豊かな広い畑を眺め、青江も思う。成る程、確かに他の色は一つもない。

「長谷部くん、茄子の花が咲かないんだ」

「そうか」

「長谷部くん、茄子の花が咲かないんだ」

「そうか」

 燭台切光忠とへし切長谷部は同じ会話を繰り返している。いつまで続けるのだろう。この本丸に入ってあの手の幻も見慣れた。何百回と繰り返すものもあれば、一度きりで姿を見せないものもある。

 彼等の幻を見るのは三度目だ。一度は今、一度は離れの一つで、そしてもう一度は。

「二の丸探索終了だね。これより一の丸の調査を始めようかな」

『わかった、引き続き気を付けてくれ』

 審神者の返事を聞き遂げて青江は踵を返す。その先には二の丸から一の丸へ通じる廊下が伸びている。長くて壁のないこの通路の左右には、真白の玉石が敷き詰められるばかり。己の姿が、あたりに生える松やら榊やらに見間違われるとは思えない。遠目にも狙いやすいだろう。既にここに入り込むために長谷部を介した身だから今更存在を隠す必要がないことは分かっているのだが、任務遂行のために危険を避ける努力はしておくべきだ。

 脇差はもう一度周囲を伺ってから駆け出した。爪先だけで板目を蹴る。途中目の端に何か動くものを視認したように思ったが、玉石が陽光を照り返しただけだった。

 やがて対岸へ辿り着き、壁に身を寄せて視線を辺りへ配る。先程までいた二の丸は懐かしの寝殿造で、草木染めのような燻んだ色合いが優美な印象を齎らすものであったが、此方の一の丸は黒白を中心とした色彩の対比が鮮烈な武家屋敷だ。屋根瓦は黒々として重厚、白壁には何にも染まらない眩さがある。今己が踏みしめている濡れ縁にしても、仰いだ碧空を映して滴るような青い艶を帯びている。更に延々と障子戸の並ぶ景色は、本丸を想起させるに十分だった。

 目を眇め耳を澄ます。やはりあのささやかな音が聞こえてくる。囁き声にしては不明瞭で自然物にしては明瞭な、細やかな何かが触れ合い離れるかの如き音である。にっかり青江の感覚をもってしても、情の物とも非情の物とも判別し難い。

 しかし、だからこそ感じる部分もある。

(君達は敢えてそうしているのかい)

 にっかり青江は心の中で語りかけた。まだ声を掛けてはいけない。彼等は言葉を掛ければ交わりを明確にし、力を持つものだから。

 耳元に手を当て、装着した端末機器に小さく吹き込む。

「一の丸に到着。依然として生きるものの気配はしない。だが先程の二の丸に比べて、ここは近いよ」

『正体が分かりそうなの?』

 青年の声が直接鼓膜に響く。刀はにっかりと形容するにはまだ少し曖昧に笑う。

「そうだねえ。明言は出来ないけれど、何となく。それと、この屋敷からは博多の気配がするね」

『無事なのか』

「それはまだ姿を見ていないから何とも。見つけたらすぐこの目で教えるよ」

 青江は耳元につけた極小記憶媒体を指で軽く叩く。己の見たもの、聞いたものはこれを通じて端末から主の元へ送られる。そこから更に、主の同業者が集っているという電子界の部屋へ選別した情報を送っているらしい。青江は最初の方に書き込みの動作確認をしたきりで、それ以降は彼の話した内容を審神者や石切丸がチェックし、問題なさそうだと判断すれば掲載しているはずだった。

 見回り開始を宣言して歩み始める。障子を一つひとつ開き、中を調べていく。時間はかかるが、粗末な調査をすればまた後でこの広い敷地を再調査しなければならないのだ。手間でも丁寧にやっておくに越したことはない。

 とある部屋の文机を物色していると帳簿が出て来た。頁を捲る。機器を隔てた向こうで審神者が息を飲む。

 帳簿は一面黒かった。しかしムラのある黒で、墨そのものを押し付けたような漆黒の箇所と薄墨を流したような箇所とがある。和紙を染めたのだろうかと青江は目を近づけてみて理解した。極細い黒い線が繰り返し繰り返し刻み込まれているのだった。全てに目を通す。どの面にも細い一本の線が執拗に描きこまれ、さながら漆黒の和紙だ。

「はは、熱烈だね」

『どこが?』

 審神者が呆れている。

『拡大して撮れる? どういうもので黒く塗りつぶされたのか特定したい』

「必要あるのかい? やるけどね」

 青江は片耳に装着した媒体を弄る。肉眼で見る限り分かりづらかったが、カメラで拡大すると僅かに滲んでいることがわかった。送った画像について審神者と歌仙が話し合っている。

『にっかりはこれをどう思う?』

「形なきものだよ」

 明確にすれば彼等は形を持ってしまう。形を持ったら斬らねばならぬ。だがこれは斬れない。だからにっかり青江はぼかして答える。

 帳簿らしきものを仕舞って、襖を開けてみる。寝具がある。こちらはきちんと手入れをされているのか、黴臭さもない。そもそもこの屋敷で黴の臭いなどしただろうか。

「さっきの二の丸は生活感どころか生の気配がとんとない場所だったけど、ここは比較的あるね」

『それは物質的な意味で? それとも霊的な意味で?』

「両方かな。でも君達はこれを生の気配と呼ぶのかどうか」

 並んだ部屋を順に見ていく。箪笥や文机といった調度品以外にも、書物に着物、玩具に骨董といった物がある。生活にかならずしも必要ではないもの等だ。しかしその纏う空気は持ち主の生活を伺わせない。青江は考える。こけしを屋根裏に置く者がいるだろうか。芒ばかりの花札でどうやって遊ぶのだろう。或る衣紋掛けの着物は金糸銀糸で贅を尽くした織であるのに、青江の上背より五尺ばかり大きい。

 たまに現れる嗜好品を面白いと笑うと、審神者はそうだろうか自分にはおかしく見えると言った。対して歌仙は多少奇妙であるが其々は雅だと評した。

 ある一室を探っている時、隣室から声が聞こえた。襖を薄く開けて覗いてみると、長い髪を垂らした短刀が短い黒髪の少年に寄り添っている。乱藤四郎と薬研藤四郎だ。薬研はひどく切傷に塗れていた。

「薬研、何があったの」

 乱藤四郎は蹲った兄弟刀の肩を支えて問う。彼のから滴る血は畳に痕を作らない。

「どうしてお前がここにいる」

「アイツを追い詰めたら無理矢理連れてこられちゃった」

 薬研は顔を上げ、切れた額から垂れる血も拭わず兄弟を窺う。

「長谷部か」

 乱は首肯する。薬研は舌打ちした。

「すまねえ、俺もぬかったんだ。あの長谷部はおかしい気がしていた。だが辛い目に遭ってきたから仕方ないんだと大将が言うから、信じちまった」

「山姥切さんもアイツに?」

「ああ、そうだ」

 言葉を続けようとして、しかし薬研は口を噤んだ。次いで乱もはっと濡れ縁の向こうを見る。

「アイツが来る」

 薬研は押し殺した声で呟くと、乱を押しのけた。

「逃げろ、乱。俺が引きつける。お前は大将を」

「主さんがここにいるの?」

「いるはいる、だが山姥切の旦那だけじゃあ限界だろう」

 乱を襖の方へと押しやりながら、薬研は濡れ縁を睨む。本体を構え、背後を親指で指す。

「探せ。この館の審神者部屋だ。今行けば分かる」

「薬研」

 どうか無事で。

 乱が呟き背を向けた。白いフリルが翻るその刹那、二人は泡のように消えた。

 青江はすらりと襖を開け放つ。短刀達が居た箇所を凝視するが、やはり血痕も無ければ淡い色の細い髪も落ちていない。二度目の開幕はないようだった。

「長谷部がこの屋敷を徘徊している可能性がある。戦闘になるかもしれないね」

 青江にはそれしか言えない。耳元で沈んだ声色がうんと応えた。彼も察したのだろう。この屋敷から生きて戻った者はいない。

『にっかりには分かる?』

「屋敷のことかな。それならば本陣を改めてみないと何ともねえ」

 この屋敷は本丸として機能していた形跡がある。やんごとなき神の住居に修練場や鍛冶場などいらない。そう考えるならば、本陣は審神者部屋だと考えるのが妥当だ。

 青江は短刀等の会話していた部屋へ入り、手早く捜索する。この屋敷に時があるのか知らないが、太陽の位置は変化している。日が沈む前に屋敷中を改めて情報を揃えてから、身を隠す場所を探したい。

 衣装棚を開ける。見慣れない古い意匠の、しかし綻びた様子もない衣類を見て青江は僅かに眉根を寄せる。

『この屋敷の幻が一体何なのか、にっかりには分かる?』

 審神者が問う。わざわざ先程の質問を言い直してくれたらしい。青江は少し間を置き、端的に答えた。

「記憶の残響」

 それ以外に、この哀れな者等を何と呼べるだろう。



 








 乱藤四郎は満身創痍だった。愛らしい衣装は破れ、髪はざんばらで、細い身体に幾筋も血が落ちている。しかしそれ以上に目につくのは、彼の虚ろな瞳の色だった。

「ああ、主さん……主さん……」

 呟きながら、しかし彼の目にその名を冠する者が映る様子はない。

 ほと、ほと、と濡れ縁に足音が落ちる。何の凹凸もない滑らかな床を行くのに、膝は不規則に曲がり、時折上体が傾ぐ。

 程なくして膝が折れる。細い腿が痙攣する、しかしもう力を入れることは叶わず。

 乱藤四郎は震える手で本体を抜いた。すぐに腕が折れ、柄が床を叩く。二の腕が震えるほど力んでも、本体は膝頭の傍から持ち上がらない。ならばと絞り出す声。切っ先を天井に向け、首を垂れる。

「せめて貴方と共に」

 上体の力が抜ける。かそけき音を立てて身体が床を叩いた。少年の背中から突き出た刃は紅く輝いていたが、やがて貫くものが消えてから二つに折れ、失せた。









 遣り廊下でへし切長谷部と燭台切光忠が出会う。

「あっ長谷部君、ちょうどいいところに。厨って何処にあるか知ってる?」

 長谷部は立ち止まり、眉根を寄せて相手の顔を凝視した。

「どうしてそんなものが要る」

「えっ、料理は必要でしょ。君も昔そう言ってたじゃないか」

「俺たちは何も食べずともいいだろう」

 にこやかだった燭台切の表情が固まる。笑みが消え、困惑が立ち現れる。

「確かに僕たちはいいよ。でも、食べるじゃないか」

「誰が」

「誰がって」

 燭台切は黙る。長谷部はその引き結んだ口元を凝視する。

「やっぱり要らないね。変なこと言ってごめん」

「構わん」

 長谷部が通り過ぎる。伸びた背筋が寝殿造の一室に消えるのを見届けて、燭台切は呟く。

「でも食べてたんだ。食べさせる誰かが、居たはずなんだ」











 さあ壊せ壊せと男は騒ぎ立てる。

 銃声、轟音、鬨の声。大小の影が畳を、襖を、柱を斬りつける。砂山の如く崩れていく屋敷を駆け回るつわもの等は遂に叫ぶ。

「本陣は何処だ。審神者部屋がないならば、本陣は何処なんだ」








続く