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 博多藤四郎は彷徨っていた。任された仕事が終わったのに、いつまで経っても長谷部が帰って来ないのである。屋敷は大方見て回ったが見当たらないため、屋敷外れのどこかにいるのではないかと西回りに探すことにした。

 畑は緑だけが豊かに茂っていて、煤色の頭は見当たらない。そのまま南下し、離れを見て回りながら鍛刀場の方へ向かう。広い屋敷だが、此処の住人である博多は慣れているので迷う心配もない。迷わず鍛刀場へ辿り着いた。

「長谷部ぇ」

 声を掛けながら、ふと首を傾げる。

 蔵の前に、何か落ちている。黒い円のようなものが、点々と一直線上に続いているように見える。

 博多は近寄ってみて息を飲んだ。黒く見えたのは、もとは紅かったのに乾いて茶けてきたせいだと分かった。それは血痕だった。

 血痕は鍛刀場の方へ続いているようだった。静かに鍛刀場へ近付き、慎重に戸を押す。四角い鉄色をした空間は整然として、平時と変わらぬ炉の赤に染まっていた。

 誰もいないのだろうか。戸の隙間に身体を滑り込ませた博多は、そこで初めて戸の死角になっていた部分を目にして跳ね上がった。人が倒れている。横向きに倒れた身体は男のもので、緑青の長髪が地に広がって顔は見えない。

 博多は恐る恐る彼に近付き、観察する。微かに胸が上下しているので生きてはいるらしい。背中の一文字に裂けた衣服から、赤く濡れた肉が覗いていた。

 痛そうだ。眉根を寄せた博多は目を逸らそうとして、ふと彼の耳に目が止まった。長い髪で見えづらかったが、耳殻に何やら小さな塊がついている。装飾具ではなく、黒い機械のようだ。円に蔓桔梗の紋が施してあり、指先ほどの大きさもないから耳孔のようにも見える。

 機械? 紋?

 首を傾げる。こんなものは初めて見るが、何故己はこれが機械だと分かったのだろう。何故己は、この絵を一目見て紋だと思ったのだろう。

 博多藤四郎はしゃがみ込む。動悸がしていた。胸が騒ぐ。何故この紋様が気になるのだ。

 ──なしてこの神紋ば選んだと?

 声がした。次いで、誰か若い男が応える。

 ──うちの一門は木のものを自分の文様として選ぶ決まりがあってね。そして俺は尊敬する人と同じ蔓系の植物にしたかった。それで、かな。

 ──蔓は強いんだよ。根も、そこから伸びた蔓の一本一本も細い、でもたくさん絡みつけば大きな木さえ枯れさせてしまう。

 ──君たち刀剣男士をまとめる者として、審神者として、そうありたいと思ったんだ。

「あ、主人」

 博多藤四郎の頬を一筋の涙が伝った。そうだ、己には霊力こそ足りないが芯の通った、若い男の主人がいたのだ。どうして今まで思い出せなかったのだろう。

 夢から覚めた博多藤四郎は立ち上がる。主人の所へ帰らないと。辺りを見回して、口元が強張った。

「ここ……何処」

 先程までは馴染みであった鍛刀場が、全く別のものに思われた。景色は変わっていない。しかしよく観察してみると、奇妙な鍛刀場だった。正方形をした鉄の空間は奥に炉が一つ、隅に上り階段が一つあるだけ。打ち終えた刀の一振もなければ、資源も一つも無い。冷却所も無い。しかし先程まで己は、此処を普通の鍛刀場として、よく慣れ親しんだ場所として認識していた。

 そもそもこの本丸は何だ。来たことも見たこともない場所である。それを何故──何故、「自分の本丸」だなどと、信じていたのだろう。どうして屋敷の全てを回ったこともないのに、あんなにこの家の設計が分かっていたのだろう。

「なんね。俺、どげんしたと」

 頭を抱える。この屋敷に来る前の記憶は、新入りのへし切長谷部に会いに行こうとしたところまでで終わっている。何故自分は長谷部に会いに行こうとしたのだったか。長谷部が屋敷に来たからだ。予定より少し早くやって来たと聞いて、早く会おうとした。

 しかし、その話を誰から聞いた?

「思い出せん」

 愕然として呟く。物覚えはいい方だと自負している。商売も戦も、情報と出処を正確に記憶する必要がある。商売人の刀として肉付けされた博多藤四郎という刀剣男士は、商売における信条を曲げず、全うする性を持つ者が大半だ。その自分が何故思い出せない。

 これはまずいことに巻き込まれている。博多藤四郎は悟る。知らないうちに主人のことを含めた記憶を、別のものにすり替えられていた。先程までの己の頭にあったのは、この美しく静閑な屋敷で、へし切長谷部と穏やかな日々を過ごしてきたのだという記憶。花を愛で、庭を整える己と長谷部の姿。毎日そんなことをして過ごしてきたのだと、先程まで己は信じ込んでいた。

 混乱している。己の状況を理解し、問題を解決して主人のもとへ帰らねば。

 博多は眼前の男へ手を伸ばす。同じ主人を持つ脇差の男──今は彼のことをはっきり思い出せるが、先程までは全くだった──にっかり青江に触れる。

「お前は取り乱さないのだな」

 へし切長谷部の声がした。

 博多藤四郎は跳ねるが如く声の方を向く。炉の前にへし切長谷部が立っていた。博多の、青江の肩口を握る手に力がこもる。だが長谷部は博多の方など見もせず、炉の正面に立つ黒づくめの相手を見据えていた。

「まあね。何となく、こうなる日が来る気がしてた」

 艶やかな容姿に反して、優しい口調と表情を持つ男。燭台切光忠だ。

「どうして」

「君は僕の知る長谷部君じゃないって、気付いたから」

 長谷部はどのような表情をしたのだろうか。燭台切は肩を竦める。

「外見は全くそのままなのにね。でも、気付いたよ。目遣いも身嗜みも口調も何もかも、僕の知る長谷部君とは全然違ったから。君にここに連れてこられてすぐに気付いた。そして、やがて君が僕をどうしようとするかも」

「仮にその予測が正しいとして」

 長谷部は燭台切の手を見下ろす。握り締めた彼の本体は汚れて、業物としての冴えを失っていた。 火を照り返して輝きすらしない、墨のような黒がこびりついている。

「どうして逃げようとしなかった。俺を始末しようとは考えなかったのか」

 燭台切は目を瞬かせる。それからああと得心したように頷く。

「あれ。君ならもうとっくに分かってると思ってたんだけどな。まあいい、話そうか」

 理由は二つだよと言う。

「一つは僕のよく知る長谷部君に会いたかったから。君は僕の知る長谷部君じゃないけど、たまに君の中に長谷部君がいた気がした。どうにか会えたら、話が出来たらと思ってたんだよ」

 もう一つは、と続ける。

「君のことを知りたかったから、かな」

 燭台切は口を噤んで、長谷部を見つめた。長谷部は動かない。背後にいる博多からは、彼の表情を窺い知ることなど出来なかったが、燭台切は何を見たのだろう、眉尻を下げた。

「主のもとには勿論帰りたかったよ。だから、この屋敷唯一の住人である君を手掛かりにしようと思っていた。でも」

 言葉を切り、かぶりを振る。

「もういいんだ。疲れてしまった。どれだけの間、僕はここに居続けたんだろうね。おかげでもう刀剣男士には戻れない。だから、最後に教えてくれるかい」

「なんだ」

「君の望みは、なに」

 火が爆ぜ、陽炎が揺れる。灼熱の煌めきが二人の男の上で踊り、一際強く輝いて目を灼いた。目を瞑る博多の耳に声だけが届く。

 それまで聞いた誰の声でもなかった。

 小さく弱々しくて、何と言ったかも聞き取れなかった。

 そうかいと燭台切の微笑む顔が、瞼の裏に滲んだ。

「君は僕の知る長谷部くんじゃないけれど。僕は、君の幸せを祈っているよ」

 ──先にいこう。

 耳元で囁きが聞こえた。

 博多は目を開く。誰もいない。ただ炉の炎だけが揺らめいている。

 幻だったのだろうか。

 知らず詰めていた息を吐き、いつの間にかにっかり青江から離していた手を彼の上に乗せる。






 あ───────────────────






 異様な絶叫が響いた。

 腹のどん底から放たれた、男とも女とも苦痛とも絶望とも怒りとも嘆きともつかぬ人間の肉声だった。そのくせ、機械の如き一定の高い音程と大きな音量をのっぺりと保ち続けていた。

 博多は青江に取りすがり、音の響く方を見てしまった。

 炉に誰かいる。人影が赤々とした炉に刀を突き立てている。否、突き立てているのは炉ではない。

 炎中に、五肢に分かれた黒い影がある。






 あ───────────────────






 のっぺりとした絶叫はどこから響いている? 炉ではない。炉からは爆ぜる音がする。水分のある物質が熱されて燻る音がする。空気に脂が滲み出ている。甘ったるい匂いがする。

 黒い影がどろりと解け、刹那金色に瞬いた。

 金に戻っている。人間は火にくべたら骨になるのだ。真っ白ですかすかの骨になるはずなのだ。

 あれは。

 炉に還った者の正体を悟った途端、眼鏡に半ば透けた景色が雪崩れ込んできた。炉に沈んでいく刀刀刀。様々の意匠に刃紋、煌めくものから折れたものまで、その下に崩れるは人型。口を開け天を掴まんとするが如くに手を掲げる、鋼となり炭となり灰燼と化す──数多の同胞。

 博多は青江の胴に突っ伏した。気分が悪い。もう見たくない。

「余計なことをしたな」

 涼しい声がした。博多は今度こそ振り返る。戸口にへし切長谷部が佇んでいた。口の端が仄かに上がっているが、瞳孔が開ききっている。ぞっとして僅かに身を引く。

「お前は視えていないようだったから、保つと思ったんだが。残念だ」

「長谷部」

「にっかり青江に感化されたんだろう。仕方ない」

 博多の見つめる先で、長谷部はゆっくりと己が柄に手を伸ばした。鯉口を切る音が、今度こそ確実に聞こえた。

「何しょうと」

 声が震える。先程見たものを考えれば聞くまでもない。

 博多は少しずつ、にっかり青江から距離を取り後ずさる。案の定長谷部の目は博多を追って来た。先に仕留めやすい方を仕留めておいて、後で手強い者に取り掛かりたいのだろう。

「どげんしたかね。長谷部、話しんしゃい。俺、口は堅かけん」

 刀としてこの世に在った年数は長谷部より長い。しかし現在の己は顕現年数一年に満たない特付である。室内戦とは言え、熟練のへし切長谷部と、彼の本拠地で戦うのは無謀にすぎる。

 長谷部は薄ら笑いのまま、ゆったりと歩み寄ってくる。皆焼刃に火の粉がちらつく。警戒しながら、博多はさり気なく背後にある階段への距離を測る。己の大幅で十歩。長谷部ならば五歩。

 最低一撃、耐えねばなるまい。本体を起こす支度を密かに整える。

「長谷部?」

 戦慄く体を抑えてでも口だけは動かすのは、判断のための時間が欲しいからだ。長谷部の全身を観察する。緩慢でふらふらとした足取り、開ききった瞳孔が斜め上から見下ろしてくるその様が、全身から迸る殺伐の気が、彼の要求を物語っている。

 ──俺が背を見せたら終わり。俺から攻めても、勝てん。

 正攻法は尚更無理だ。博多は腹を括った。

「みんなば殺したんは、あーたやね」

 長谷部は立ち止まった。博多も同じく足を止め、見下ろしてくる藤色を真っ向から見据える。

「見たばい。燭台切も藤四郎の兄弟も、天下五剣も実戦刀も何もかも、みんなこの炉ば入っとう」

 笑って佇んだまま動かない。しかし柄を握る手に筋が浮いた。

 ヂッ、ヂッと火の粉が爆ぜる音が耳につく。俄かに鍛刀場の闇が深まった気がした。

「俺、先までどげんかしとって分からんばってん、今なら分かる。あーた、純な長谷部やなか。混ざっとうばい。長谷部の上に、こじゃんと乗っとうかね」

 へし切長谷部との付き合いは長い。彼に会ったことがあり、かつ、この謎の霊場で妙な暗示にかけられた己だから分かる。

「俺、此処ば俺ん家やと思っとった。すらごつ思えんかってん、長谷部も同じやろ?」

 棒立ちのまま、長谷部は動かない。博多は瞬きする。

 長谷部は動いていない。しかし──その背後にある闇が密度を増していないか。

 先頃此処に入ってきたばかりの頃は、壁に火影が舞う様が窺えた。それが今はどうだ。炉の炎が照らす範囲は部屋の半分にも満たない。天井は無論、壁など見えはしない。

 博多は長谷部を凝視したまま、視界の端に映る己の片手を脇へ僅かにずらす。ちょうど炉の火が照らす端、闇を薄く帯び始めた空気を軽く搔いた。

 何も触れない。だが過敏な付喪神の感覚は訴えかけている。

 ──闇が、其処に在る。

 間違いない。煤が舞い落ちるように闇が迫ってきている。己に刺激されたのか、長谷部が呼び寄せたのか。

 負けてたまるか。博多は気合を入れ直し、後ろ手に本体を顕現させる。

「あーた、長谷部を離してくれんね。長谷部はこげな空家に向かん」

 空気が重くなる。喉元を締められたが如き息苦しさの中、博多は言った。

「長谷部の主人は何処におると」

 言い終えたのと切先が目と鼻の先に迫ったのが同時だった。直ちに本体で弾くも、あまりの衝撃に腕が痺れる。

 上段から閃き落ちる刃を躱し、階段へと駆ける。闇を掻き分け、梯子に足を掛けながら、背後に肉薄する気配を感じた。

 駄目か。博多は死を覚悟した。

 しかし彼の足が階段を登りきっても、斬撃は襲ってこなかった。博多は恐々階下を見下ろす。

 長谷部は梯子下に倒れていた。右肩を彼自身の刃が貫き、左足をもう一本の刀が留めている。

 後の刀を抜いた人物が、此方を見上げる。

「君、やるね」

 散らばった青髪の隙間から、赤い片目がにっかりと笑った。