◆◆◆



 

 虎がすんと鼻を鳴らす。牙を剥き唸る頭を小さな手のひらが撫でる。

「虎君?」

 相棒の視線を追った五虎退の瞳孔が俄に太くなる。動きを止めた彼を訝しみ、秋田藤四郎もまた彼等を見つめた。

 二振で本丸西側を巡回していた。今朝方の不審の原因は発覚しないまま日が暮れようとしており、本丸の連絡板に掲示された情報は博多藤四郎が発見されたというものが最新である。そろそろ次の当番と交代しようかという頃合いで、五虎退が立ち止まったのだった。

「五虎退」

「匂いませんか」

 兄弟刀は問う。しかし秋田は別のものに目を奪われていた。

 比較的小さなこの本丸は、屋敷の西側と土塀の距離が近い。短刀等ならば大股で飛べば一度で壁にひっつける。実際身体を持ったばかりの頃、そうして遊んだこともある。

 その土塀に、何か在る。

 最初は木の葉の影かと思った。しかしよく眺めるうち、木の葉にしては形が歪であると気付く。小さく形の不規則なもの同士が縦長に寄り集まったかの如き形である。

 影が動くと、その中に濃淡がついた。寄り集まったものの一片一片の輪郭が露わになる。丸いような尖っているような──ちょうど、割れた金属の破片のような。

 影の中にまた濃淡がついた。それがさらに上下に、左右に、僅かに動いた。

 蠢いている。

 壁の中に、在る。

「あれは」

 向かいから風が吹いた。髪をなぶる空気が鼻腔に流れ込む。

 甘い。

「五虎退ッ」

 虎の唸り声が一際高くなり、秋田は兄弟の袖を引いた。壁を睨みつけ、退きながら腰に括り付けた無線を起動する。口元にマイクロフォンの丸く半透明の術式が煌めくのを認め、声を飛ばす。


 

 

 








 

 

『報告します! 西の塀から不可解な現象が発生。塀の内側から金属の破片の連なったような塊が複数出現、本丸中央に向かい侵攻中』

 本丸中に秋田藤四郎の声が響く。無論機械室に居る審神者のもとへも届いた。機械室にいた者らが揃って室内後方を向く。西側の監視カメラの映像に、丁度問題の場面が映っていた。濡れ縁に沿って後退していく秋田藤四郎と五虎退、彼の方へ迫る、純白に輝く塊。

「まだ攻撃しないで様子を見ろ、進ませていい。攻撃が来たら銃装でそらせ、本体はなるべく使うな」

「あれは何だ」

 審神者が無線に指示を出す横で厚が声を上げ、画面に映るそれを凝視する。

「蓑虫みたいだが、自立して進んでいるな」

「僕には歩く藤の花に見えるね」

 歌仙が言うと、厚はげんなりした顔をする。

「思っても絶対言わねえでおこうと思ったのに」

「来たね」

 石切丸が本体の柄に手をかける。

「正体は、拡大してみれば分かるよ」

 すかさず歌仙がズームする。塊は細かな白い破片で出来ていた。審神者は細めていた目を見開く。

「こんのすけ」

「はい!」

 空中に術式が展開して青白く瞬き、電子音を立てて管狐が飛び出してきた。

「あの画像に写るものを解析してくれ」

「承知いたしました。処理中です、お待ちください」

 管狐の丸い目に監視カメラの映像が映り込み、その上を文字と数式が流れていく。一秒も経たないうちに狐の前に半透明のモニターが浮かび上がった。

「解析が完了しました」

 審神者と歌仙兼定が覗き込む。終いに覗いた厚の口元が強張った。

「この主成分」

「金属の構成元素。しかも普通の金属からは検出されない霊素が多分に含まれている」

 審神者は額を押さえた。

「破損した刀剣の寄り集まり……もと刀剣男士の可能性が大だな」

 遂に屋敷が本格的に動き出したのだ。

 歌仙が考え込みながら言う。

「どうする。火力の高い連中を向かわせてみるかい?」

「やめておいた方が良いんじゃないかな。どう思う」

 審神者は首を横に振り、次いで石切丸に尋ねる。神剣は人離れした白い瞳孔を眇めて頷く。

「直接の接触は止めた方が良い。あの屋敷に棲まう怪異──もと刀剣達は、刀剣男士の意識に寄生して獲物にしていただろう。本体で触れたらどんな影響があるか分からない。銃、弓、投石で破壊出来ないか試すのがいいだろう」

「破壊していいのかい」

「ああ、此方に被害が出るよりは遙かにいい。見たところ、屋敷本体は強大な存在だが、それに比べればあの一個体は大したことはない。何かあれば私が祓って差し上げよう」

 正体さえ分かれば此方のものだと石切丸は笑う。審神者は厚藤四郎に向き直る。

「秋田と五虎退の所に投石の出来る者を二人送ろう。ただ、他の巡回班が手薄にならないようにしないと」

「なら加州と浦島がいいぜ。手が空いてたはずだ」

 本丸警護の主を担う厚の言葉を受け、審神者は無線を取る。

「加州、浦島、備品室前へ。秋田と五虎退の応援を頼む。投石兵を連れて行くんだ」

『はーい』

『わかった!』

 二人分の返事を聞き届けてから再び口を開く。

「全刀剣男士に次ぐ。侵入者の正体は件の本丸の手先だ。件の本丸の正体が分かった。膨大なもと刀剣男士の情念だ。詳細はまだ不明だが、侵入者の身体はもと刀剣男士の破片らしいものが寄り集まって出来ている。件の本丸は刀剣男士の意識に寄生して傀儡に変えることが出来る。まだ他の場所にも似たような侵入者が来るかもしれない。もし出くわしたら自分の本体を触れさせるな。なるべく飛び道具で応戦しろ。飛び道具の無い者は優先的に逃げろ。躊躇うな」

 通信を終えた審神者は息を吐き、すぐに件の怪物が映っているモニター前へ移動する。歌仙兼定が後方大画面に映るよう調整を終えた所だった。画面には、銃兵を放って怪物周辺の地面を狙撃する藤四郎二振の姿が映っている。怪物達は地面の撃たれた場所からは遠ざかるようにして移動していく。

「知能はそこまで高くないのかもしれないな。誘導に乗せられている」

 歌仙が指摘する通り、短刀二振は屋敷に近い地面を撃つことで怪物を本陣に寄せないようにしているらしく、怪物はその誘いに乗っていた。十分に家屋から離れた怪物へ向けて、秋田藤四郎が手を振る。銃兵等が一斉に射撃した。弾は過たず標的に的中し、三体の怪物のうち一体が二つに裂けた。

「やったか?」

 厚が身を乗り出す。

 飛び散った身体が地に落ちる。しかし落ちた傍からどちらの塊もぞもぞと動き、また屋敷に向かって進み始めた。秋田が目を丸くしている。

『駄目です。傷つけることは出来ましたが、この程度じゃあ分裂して動けちゃうみたいです。もっとガツンとぶっ飛ばさないと』

『弓兵でも、駄目です』

 足止めがいいところで、と五虎退が付け足しながら四体に増えた怪物の足下を乱れ打って抉る。

 審神者は唇を噛んだ。

「どうしたら──」

『報告、報告!』

 無線から別の声が入った。後藤藤四郎だ。

『書庫前に変な蓑虫野郎が出やがった! 五体だ。応援頼む!』

『此方、庭巡回班』

 直後に長曽祢虎徹が言う。

『通達の特徴に一致する侵入者が現れた。刀剣の破片の集まった個体、七つだ』

『ゲート前も同じです』

 硬い声で告げるのは平野藤四郎だ。

『四体です。応援頼みます』

「くそ、一気に攻めてきたな」

 対策も練れていないっていうのに。

 歌仙は拳を握りしめ、主を振り向いた。

「君は一度地下シェルターへ避難すべきだ。様子を見て、飛び道具の無い太刀や槍の者も随時送った方がいいだろう」

「待って、まだ何の手立てもないのに」

「それは後だ。僕はここに留まって指示を出す。君と厚はシェルターへ」

 歌仙が審神者の背を押しこくる。厚が非常用ナップザックを抱えた。石切丸が扉へ向かう。

 この対処法の無い状況で己が逃がれたところで、先など知れている。

 何か方法は無いのか。

 奴等に触れること無く、撃退する方法は無いのか。

 審神者が歌仙の手を払いのけ、なお言いつのろうとした時だった。

『どぅりゃあ!』

 浦島虎徹の叫び声がした。続いてジュワ、と花火の散るような音がモニターから聞こえた。

 全員其方を見た。画面に居たはずの怪物が二体減っていた。代わりに二体が居た辺りの地面が何やら輝いており、残った者もものたうち回っている。

『一発じゃ終わんないぜぇ?』

 次いで加州清光の声と共に小さな札が画面上部から飛来した。札は怪物に刺さり、焙烙に変化したかと思うと破裂して激しい飛沫を迸らせた。怪物は飛沫を浴びた途端、線香花火の如く解け落ちてしまった。

『いえーい、主見てるぅ?』

『焙烙玉最高ー!』

 呆気に取られている機械室など知るよしもなく、モニターの下から現れた加州と浦島がピースサインをしている。その手にある札──先程敵に向けて飛んでいったものと同じである──を見た審神者はわなわなと震え始めた。

「お、お前ら……それ何処で……ッ」

『この間担当さんに届けてって言われてたの、忘れてた』

『主、これ秘宝の里の手札じゃないの? なんか、威力すごいね』

 加州の言うとおり、それは刀のために紡ぐ曲を報酬に開かれた政府主催の訓練催事において刀剣達が引く手札のうち、「焙烙札」と呼ばれるものだった。

 頭を抱える審神者の顔を、歌仙兼定が覗き込む。

「ねえ、何であんなものが君に届くんだい」

「……前の職場で作ってしまった、試作品の残りだ」

 様々な原因から冷や汗が止まらない。

「それは秘宝の里開催のついでに作らされた、対歴史修正主義者呪符『ものすごくやばい焙烙札』だ。絶対、味方に対して使うなよ。術式に応えて出現するのは普通の焙烙じゃない、王水たっぷりの焙烙だ」

『ええっ、王水ですかあ!?』

 浦島虎徹の背後から秋田藤四郎が飛びついてきた。つぶらな瞳が煌めいている。

『どんな貴金属も溶かしちゃうってヤツですよね? 政府産の王水は一等すごいって聞きました!』

「絶対よそで言うなよ。この本丸の口外法度にするからな。他の人間にも刀剣にも誰にも知らせるなよ」

 何にしても、撃退手段は見つかった。

 審神者は気持ちを切替えた。何か言いたげな歌仙兼定の視線は無視することにした。

「加州、浦島、秋田、五虎退。その札を分けて他のまだ戦闘中の班へ届けに行ってくれないか。使い方にはくれぐれも気をつけてくれ」

 四振は返事をして散っていった。

 次いで、傍に控える三振を窺う。

「審神者部屋にまだ札がある。今後の事を考えれば出しておいた方が無難だろう。石切丸と厚はここで待機して、応答待ちの青江を含めた全体の状況の把握と指示を頼む。歌仙は俺に着いてきてくれるか」

 審神者部屋は審神者が居ないと開かない。それを承知している刀剣達は頷いた。

「無線は持ってるよな」

「勿論」

 厚藤四郎の念押しに応え、歌仙兼定と連れだって機械室を出て長い階段を上っていく。左右の蛍光灯をつけていなかったから、光源は上方の出口から差し込む夕日しかない。青く陰る橙は、陽の去る刻限が近い事を雄弁に語っていた。

 ──暗くなる。

 ふと、ぞっとした。当たり前のことだ。夜が必ず去るのと同様に、落ちない太陽は無い。しかしほぼ一日機械室に籠もっていた審神者は、その当然を忘れていた。監視カメラの画面に斜陽を眺めていても、対処に精一杯で過ぎていく時など意識していなかった。

 この事件も、いつか過ぎ去るんだろうか。

 審神者は思う。手掛かりもほぼ無く、暗中模索で進んで来た。屋敷に居着く荒魂の正体の見当こそついたが、どうやったら鎮められるかはまだ分からない。少なくとも武力では無理だ。

 解決出来るだろうか。この本丸を、守り切れるのか。

 濡れ縁を歩きながら屋敷の随所を注意深く見回す。侵入者の影は無く刀の姿も無い。先を行く刀の背中が、黒の外套が、濃さを増す夜闇に次第に馴染んでいく様を見つめる。

 守り切れなかった時、彼等は──彼等と自分の過ごしてきた月日はどうなるのだろう。

 消えてしまうのだろうか。強く優しかった兄弟子が、その本丸が、忽然ともぬけの殻になってしまったように。

「主」

 歌仙の声で現実に引き戻された。碧眼が不審がる様子で覗き込んでいた。審神者部屋に着いたのに、立ち尽くしてしまっていたのだった。

「どうした。解錠出来ないのかい」

「違う。ごめん」

 不甲斐なさに顔が熱くなる。まだ気を抜くには早過ぎる。少し放心してしまったと早口に告げて障子を開け放った。

 日中ずっと留守にしていた部屋に変化があるわけも無く、小さな方丈の空間は静寂に包まれて整然と待っていた。後ろ手に障子を閉め、左手から文机、戸棚、押し入れ、衣装棚、書棚と見回して目当てのものが何処にしまってあったかを思い出す。

 文机だっただろうか。低い机へ近付き跪く。背後から歌仙が言う。

「何事もなくここまで来られて良かった」

「ああ、本当だよ。無線も何も入らなかったし」

 微笑みながら言って、違和感を覚えた。

 どうして一つも無線に連絡が入らない?

 手札を持った刀剣等が各戦場に向かった。その後の報告が一切入っていないのはおかしくないか。

 俄かに肌が粟立つ。耳が痛いほどの静寂に、スラリと襖を開け放つ音がした。

「伏せろ!」

 歌仙が叫ぶ。即座に身体全体を畳に押し付ける。頭上で剣戟が鳴った。

 衣擦れと共に提灯袴が視界の端へ舞い込み、審神者は僅かに頭を持ち上げる。

 蹲る彼の前、歌仙兼定と刀を交えるは此処に居るはずの無い刀だった。均整の取れた長身。燻んだ短髪。そして精巧な造りの顔に、澄んだ藤色の両眼。

「何故貴様が此処に居る」

 へし切長谷部、と吐き捨てた歌仙が一歩踏み込んだ。長谷部は作り物めいた微かな笑みを浮かべていたが、目線は歌仙ではなく下方を向いている。

 下方、即ち自分の方へ。

 長谷部の目当てを悟った審神者は障子に飛びかかり、取っ手を引いた。微動だにしない。二枚の障子の繋ぎ目は貝のようにひっついている。

「くそっ」

 審神者は懸命に障子をこじ開けようとし、更に体当たりまでしてみたがびくともしない。

(この空間は俺の本丸じゃ無い。時空がずれているのか?)

 罠だったのだ。

「誰か、誰か!」

 無線が起動出来ない。端末は無い。声を張り上げるが応える声も気配も無い。そもそも障子の彼方に光が透けて見えない。

 長谷部は攻めの手を緩めず、自在に本体を閃かせる。歌仙は防戦一方で、審神者に敵の剣先が届かないよう身を挺して遮っている。ここ最近乱れを知らなかった着衣が乱れ、血が滴っている。

 障子に起爆札を貼り付け、念を込める。札は爆発したが障子は破れない。解呪を数種唱えてみたが破れない。正しい詞のはずなのに、何故。

「くっ」

 歌仙からまた新たな血が噴き出した。利き腕を薙がれたのだ。まだ刀は握れるが、肩を傷つけられている。

 いつもの彼に比べて動きが鈍い。

 自分が原因だと審神者は悟った。練度差ではない。本体を本丸に置いたまま単身敵地に乗り込んだにっかり青江をサポートし、本丸の守備を固めてきた己は疲弊していた。加えてこの腹心の刀は、多少の休息こそ取っているが気を張って働き続けている。霊力が上手く人の身に行き渡っていないのだ。

(俺が未熟だから。力が足りないから)

 審神者は唇を噛み締めた。

 もっと霊力があれば。もっと上手く采配していれば。

 歌仙兼定が、俺の刀がこんなに傷つかずに済んだのに。

「開け、開いてくれッ」

 審神者は叫ぶ。障子を殴りつける手から血が飛び散った。

「誰か!」

 背中に突き飛ばされた歌仙がぶつかってきた。ずれ落ちていこうとする彼の身体は荒く波打ち、足から下が深紅に塗れている。腿が手酷く切り裂かれていた。それでも立ち上がろうとする刀は、憤怒と嫌悪に碧眼を歪めてへし切長谷部に本体を向けた。長谷部も満身創痍だが、身体は傾ぐそぶりも見せず悠々と歩み寄ってくる。審神者は背後から歌仙兼定を抱き締めしゃがみ込んだ。崩れた二人の上を刃が通り過ぎていった。

「主。離すんだ」

「駄目だ、嫌だッ」

 加護の呪を唱え、歌仙を抱え込んだ。再び襲ってきた長谷部の刃が、呪に阻まれて弾き返されるのを感じた。

 出来る手を尽くしても内側から開かないならば、自衛しながら外側から誰かが開けてくれるのを待つしか無い。歌仙が折れてしまえば自分に未来は無い。

 薄れていく霊力を感じながら、青年は懸命に呪を唱え続けた。

 審神者として生きて五年。長い歴史から考えれば一度の瞬きにも満たない間だろうが、その間ずっと歌仙は一緒だった。真新しいがらんどうの本丸が広すぎて戸惑った。初めて誉を取った時は誇らしげだった。料理の味付けで口論した。機械が苦手だったのに、本丸の経営に必要な技術を必死に覚えてくれた。業務の合間にいにしえの風流ごとを教えてくれた。挫けそうになる己を叱咤して、君を誇りに思う僕を信じて胸を張れと言ってくれたのも彼だった。

(歌仙が折れたら、俺は審神者としても人としてもきっと死んでしまう)

 命を懸けた言霊は己の精神を蝕んでいく。霞んだ視界の中で、振り上げた長谷部の刀を受け止めようと、歌仙が身体を起こしたのが見えた。

(誰か)

 大切なものばかりがすり抜けていく。

 歴史から消えてしまう。

 消させたくない。

「助けて」

 願った。

 

 

 

 轟音が響いた。吹き飛んだ障子が長谷部に直撃し、よろけたところに白い塊が衝突する。白がひらりと舞い──布だったのだと審神者は気付いた──長谷部の顔面を覆う。鮮やかに斜陽を纏う短刀が四本飛び、長谷部の獅子を穿ち壁に縫い付けた。

 最後に白い布から現れた痩身は刀を長谷部の胴に突き立てる。刀が輝く。その灼光を照り返した四振の短刀も等しく輝き、長谷部を中心とした封印の陣を描き出す。

「静かにしろ、化物」

 闖入者が告げる。この本丸の誰でも無い、若い男の声だった。

 長谷部は最初こそもがいていたが。すぐに動かなくなり静寂が訪れた。審神者は朦朧とする意識を奮い起こし、血を流す歌仙の横顔を見上げた。

「貴殿は……」

 闖入者を凝視して唖然としている。視線を辿ろうとして身体に力を保てなくなった。

 今後こそシャットアウトする視界に刹那映ったのは、残日を照り返して輝く黄金だった。









 

 

 

 暗い土手を二人で歩いている。山の稜線が未だ仄かに日光の輝きを留めているが、もう闇は自分の足下まですっかり浸していた。

 早く帰らなくては叱られるかもしれない。それなのに自然と心は穏やかだった。

「空腹じゃないか?」

 言われてみればと腹に意識を集中させてみる。

減った、のかな。

 さすってみるが感覚が無い。時間帯からすれば減るはずなのだが、疲れすぎているのかも知れない。そう言うと、笑った。

「お前は根を詰めすぎるね。大した根性だが、上手く加減しないと隙が生まれてつけ込まれるぞ」

 加減って、どうやったらいいのだろう。

 考え込む此方を察したのだろう、いずれ分かるさと言われた。優しい口調だった。

「若いうちは、心がまっすぐだから無闇矢鱈と焦りやすい。お前ならばきっと、時が解決してくれるよ」

 時は全ての者に平等だ。老いも若いも善人も悪人も、その流れには逆らえない。

 穏やかな声は聞いていて落ち着くが、語る内容に反発を覚えた。

 それは嫌だ。

「どうして?」

 変わって欲しくないことまで変わってしまう。

「悪いことばかりじゃないさ」

 微笑みの形をした口から出る言葉は温かい。

「時の流れを止めることは出来ないけど、だからこそ苦しみも過ぎ去って行ってくれる。新しい喜びをもたらしてくれる」

 土手の先の暗がりに、ぼうと浮き上がる灯りが見える。本丸だ。

 しかし、首を傾げる。自分達が帰るものにしては随分小さいような。目印になる正門の大提灯も無い、質素な館だ。だけど、どうして見覚えがあるんだろう。

 近付くと独りでに戸が開いた。砂利道の先に引き戸の玄関が見える。自分達が帰る家はもっと玄関までが遠くて、繋ぐ道も砂利石ではなく市松模様の敷石で出来ていた。やはり昔住んでいた屋敷ではない。

 …………。

 ……昔?

「ほら、お行き」

 隣の人が言った。背中を押す手が温かくて、涙が溢れそうになった。

「君の家だ。ね、呼んでるよ」

 言われた通りだった。家中から耳に馴染んだ声がする。首を横に振る。

 嫌だ。

「嫌なわけないだろう」

 本丸に帰るのが嫌なわけじゃない。

 分かるだろう?

「分からないよ。言葉にしなければ何も分からない」

 分かるくせに。

 声帯が過剰に震え、わなないた。

「あんたがそれを言うのかッ!」

 予想以上に大きな声が出た。

「こんなことを抱えていたのにあんたは何も言わなかった! 何も知らずにはしゃいで、しばらくして訃報を受け取った時の……あんたの本丸に行って、空っぽになった屋敷を見て、あんたが存在した跡を何も見つけられなかった俺の気持ちが分かるか! 何か出来たかもしれないのに何も出来なかった俺の気持ちが分かるか! 分からないだろ? 時が過ぎればいいなんて言うなよッ!」

 滅茶苦茶なことを言っていると自分でも分かった。駄々をこねる子供だ。だがどうしたらいいか分からない。

 隣人は黙っている。それにまた腹が立った。

「何で何も言わないんだ、何であの刀達を譲ったんだ、どうして俺だったんだ。遺された俺のこと、考えなかったのかよ。何で!」

「恨めばいい」

 ぽつりと声が言った。落とした声量から感情は窺えなかったが、背中に添えられた手に僅かに力が篭った。天を仰ぐ。

「恨んでるよ。何で、俺に助けさせてくれなかったんだよ……ッ」

 瞼が熱くなり鼻が詰まる。

 振り返ろうとしたが、後ろから目を覆われた。

「駄目だよ。今はまだ振り返る時じゃない」

 触れる手の感触が懐かしくて涙が流れた。

「僕の土はもう流されてしまったから、お前の土を貸しておくれ。頑なな金とお前の陰陽は、よく似ている」

 溜息がうなじをくすぐる。

「もっと早くに気付けばよかった。でも僕は僕の戦いに後悔はないよ。お前のことだけが気掛かりだった」

 ──また会えるよ。

 するりと手が解けた。

「兄さんッ」

 振り向いたが扉は閉まっていた。自分の家のはずなのに、もう開け方も、向こうにあった筈の景色への行き方も分からなかった。












 

「主、主!」

 呼ぶ声が激しくなって、やっと自分が目を開いていることに気がついた。天井を背景にして中央に歌仙兼定の顔がある。せっかくの美形が血と表情のせいで台無しだ。

「うっわ……歌仙痛い……」

「何処が痛いんだい!? 医者を呼ばなくては」

「違う。歌仙の傷、見てるだけでこっちまで痛くなってくる……早く治そ」

「き、み、はっ! そうやってすぐ他人のことばっかり!」

 歌仙は酷く怒っていたが、構わず手伝い札を使って手入れをした。そうしてから自分が手入れ部屋に寝かされていたことに気付いた。

 審神者部屋ではないのか。疑問に思ってからやっと自分が意識を失う前のことを思い出した。

「一体何が起きたんだ。長谷部は?」

「はあ、言うと思ったよ」

 君、後で説教だから覚えておきたまえよ。

 歌仙は不機嫌そうに言ったが、すんなりと答えてくれた。

「君の部屋に磔にされているよ。僕等は運が良かった」

 外はとっくに暗くなっていた。三時間寝ていたのだという。二人で手入れ部屋を出て審神者部屋に向かいながら、何があったかを聞いた。

 審神者と歌仙が機械室を出たのとほぼ同時期に長谷部が脱獄した。日本号が見張っていたのだが、長谷部の暴れようは尋常では無く、なんと牢を破壊して逃げてしまったのだという。

「恐らく屋敷の正体が名を持って力を増したせいだろうと石切丸が言っていたよ」

 そこは僕の失態だな、と歌仙は苦々しげに言った。遅かれ早かれ、正体が明確になればこうなったのだから仕方ないと審神者は慰めた。

 逃げ出した長谷部は追っ手を振り切り消えた。どうもその時に審神者部屋周辺に罠を仕掛けたようだ。即ち、階段を上りきった後審神者と歌仙は知らぬうちに彼の空間に迷い込まされていたらしい。だから、実際には石切丸や厚がかなり無線に呼び掛けていたそうなのだが、連絡が取れなかったのだ。

「ああ、そういえば皆は無事だよ。あの怪物も撃退できた。今思えばあれ等も、本陣に罠を張るための囮だったのかもしれないね」

「勘弁してくれ」

 審神者は顔を引き攣らせた。

「ああいうことをもう一度されたら、今度こそ逃げ切れる気がしないぞ」

「その点は大丈夫だよ」

 強力な助っ人がいる。

 歌仙と共に開け放たれた審神者部屋を覗き込み、息を飲んだ。

 部屋は荒れていなかった。血痕も無ければ障子の破損も無く、顔に白い布を巻き付けられ、壁に刀五振で囚人の如く繋ぎ止められたままのへし切長谷部の存在だけが、意識を失う前に起こったことが幻で無かったのだと教えてくれる唯一のものだった。

 項垂れて動きそうも無い長谷部の前に、座り込む人影が二つある。

 一つは日本号。依然として顔色が悪かったが、審神者の姿を認めると眉を下げて表情の険しさを和らげた。

 もう一つは、思いがけぬ者だった。

「目が覚めたか、弟」

 その人が言った。眩い金髪が精悍な白皙を華やかに彩り、折り目正しく纏う洒脱なスーツの如き戦装束は、目の覚めるような青い瞳とよく合っている。

「やっ、ヤマさん!?」

 刀剣男士・山姥切国広そのものである。ただしこの本丸に山姥切国広はいない上に、余所の見知らぬ山姥切国広でもない。審神者のことを弟などと呼ぶ個体は一振しかいない。

「本当に? 本当に、兄さんのヤマさん?」

 半ば放心状態で言う。亡き兄弟子が最初に選んだ刀にして、いつ見かけても兄に付き添っていたのがこの山姥切国広だった。審神者も見習いの時期から何かと世話になっていて、互いを今のような形で呼び合うのもその頃の名残だ。

 山姥切は片眉を上げた。

「お前、素直になるのが遅いんじゃないか? 主が生きてた時にもっと兄さんと呼んでやれば良かったのに」

「そ……それは本当に、後悔してる……」

 間違いない、兄の山姥切国広だ。

「彼が助けてくれたんだ」

 歌仙が山姥切を指す。山姥切は聞き手の親指で長谷部をぞんざいに示す。

「俺達の時もそうだった。屋敷に巣食う者の正体が明らかになると凶暴になったから、この本丸もそろそろだろうと思って、お前達の担当に言って内緒で潜伏させてもらっていた」

「今朝のゲートの騒動は彼の仕業だったそうだよ」

 そういうことか。政府が一枚噛んでいれば、その本丸の主にさえ知らせず侵入することは容易いだろう。

 だがそれをするには、かなり立場が上の人間の許可が必要だったはずだ。

 思考が顔に出たのだろうか。山姥切が肩を竦める。

「担当職員に怒ってやるなよ。今回の無許可滞在は俺が無理を言ってやらせてもらったんだ。俺達の敵は」

 ここでまた、長谷部を顎でしゃくってみせる。

「記憶や感情に強い。流石はヒトの義憤や断末魔を血として吸ってきた刀の付喪神だといったところか。蜘蛛の糸のようなか細い縁を辿って他人の情念を読み取り、多くの意識につけ込む。此方の意図を読んで作戦の裏を突いてくることも多い。だからお前達を本当に助けようとするならば、全くお前達に知らせず秘密裏に動く必要があった」

「そうだったんだ」

 審神者は呟いた。不思議と肩が軽くなった気がした。政府の対応が淡泊だったのはそういうわけだったのだ。自分は知らないうちに、多くの人に支えられていたようだ。

「もっとも、政府の全ての人間がお前達の絶対的な味方というわけではないがな。現在政府では、中心部が二次災害に遭うことがないよう、全職員にお前の本丸への出入りを禁止している。それでもお前の担当職員は味方だ。政府に保護された俺に何かと協力してくれたのはあいつだったし、お前のことを気にかけていた。助けに行けなくて申し訳ないと言っていたな」

 後で直接礼を言うといい。

 山姥切が言う。無事に今回の件が済んだら、言われなくともそうしよう。

 此処で審神者はちらりと長谷部を見やる。全く身動きしないが、山姥切の言を聞くと俄に不安になってくる。

「意図を読めるなんて、これからどうやって対処していったらいいんだろう」

「それならもう心配要らねえよ」

 日本号が口を開いた。

「国広の兄ちゃんが、此奴に随分圧をかけてくれたそうだ。お陰で今はまともにこっちの考えてることは読めねえだろうとさ」

「俺だけの手柄では無い」

 山姥切が言う。

「俺『達』だ。過去に犠牲になった審神者達の封印術研究と、それをもとに呪を作った政府の奴ら、そして俺の仲間と、主だ」

 審神者は磔にされた長谷部を見る。刺さっている五振の刀には血で呪が記されている。短刀四振の銘は今剣、太鼓鐘貞宗、不動行光、前田藤四郎。そして胴に刺さる打刀は、山姥切国広だった。

「あいつの最期の時、傍にいて力を分けて貰っていた奴らだ」

 山姥切もまた、自身と四振の短刀を眺めていた。しかしその眼差しはそれよりもっと遠い場所にあるように思われた。

「あいつは長谷部の中に在る屋敷に審神者自身が行かなければならないんだと言って、数振を連れて行った。あいつの考えた計画は理に適っていると俺も思った。だから信じて見送った。あの屋敷に人間が行く時は、身体を置いて行かなければならない。それで俺達は抜け殻になったあいつの身体を守っていたわけだ」

 突然だった。

 小さく零す。

「本当に、急だった。見守っていた俺達の前で、あいつが苦しみ始めた。胸を掻き毟って、でもそこには何も傷が無いんだ」

 どうにも出来なかった。

 山姥切達の主君は死んだ。政府の調査の結果、肉体の死因は心臓発作だった。眼を見開いたまま逝った。

「今際の際に一瞬心が戻ってきて、一振一振、俺達の名を呼んだ。そして言った。すまなかった。次の目標は弟弟子だ。どうか助けてやってくれ、と」

 ──お前らの顔が見られて良かった。

 そう言って微笑んだのが最期だった。

 山姥切国広は居住まいを正し、青年に向き直った。

「あいつからの最後の贈り物だ」

 懐をまさぐり、書簡と本を一部ずつ取り出した。審神者は書簡を手に取った。見慣れた達筆で己の審神者名が書いてあった。

「あいつには屋敷を鎮める勝算があった。その一方で、万が一のことを考えて自分の調査結果と推理を書物にまとめていた。次に長谷部が行く本丸として此処を選んだのは、次にお前の所に行くことにしておけば、絶対お前に辛い思いをさせてなるか、と。そういう気持ちで屋敷に挑めるからだ。そして、そんなことは決して起きて欲しくないが、もしもの時は、お前ならばこの悲劇を食い止められるだろうからと、考えていたようだ」

 ──恨めばいい。

 夢の中で告げられた言葉が、その時に籠もった指先の力が蘇った。

「あー……」

 青年は片手で顔を覆い、上体を折った。

 腹が圧迫されて苦しい。己が苦しいのは、上体を折って腹が押し潰されているからだ。

 断じて、兄のせいなどでは無い。

「くっそ。迷惑だバカ兄貴」

 声が掠れるのも無理な体勢のせいだ。

 だって己にはまだ、振り返っている暇など無いのだから。

 成し遂げなければならないことがあるのだから。

「主」

 一言だけで、歌仙の心配が伝わってくる。日本号が何も言わずとも、膝の上で握りしめた拳を見れば罪悪感に駆られているのが分かる。山姥切の口調が、眼差しが、彼の主君への忠誠と親愛を語っている。

 もう充分だ。書簡を握り締める。

「俺も、屋敷に行く」