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『呪だな』

 乱藤四郎の声を聞いた審神者は言う。

『声から呼応の呪力が検出されてる。刀は金のものだから、金のものに拘束力を与えるんじゃないかな。にっかりはどう思う?』

「僕もただの呼びかけでは無いと思ったよ。この屋敷にある金属で出来た扉の前でこの言葉を言うと、反応して何かが起こるのかもね」

『キーワードはきっと、主と刀剣男士の一人称だ』

「うん、そうだろうね」

『金属の扉があった場所は覚えてるか』

「一つだけだよ。蔵だ」

『試してくれるか』

「無論だよ。着いたらまた報告する」

 にっかり青江は鍛錬場を出た。天気は依然として佳い。からりとした空気は淀みの一つもなく、踏み石を蹴る足音が上質の鼓でも打ったかの如く響く。

 誰かに聞かれてしまったら。ちらりとそんなことを考えた。しかし誰が聞くと言うのだ。誰も居はしないのに。

(誰も居ない)

 本当に、誰も居ないのだろうか。

 広大なこの敷地において、蔵は鍛錬場の対角線上にある。従って今の青江は通った道を引き返す形になっていた。一の丸が近づいてきたので軽く様子を窺ったが、変化があった痕跡はない。武家屋敷は澄まして沈黙を保っている。最初は微かに感じられた博多藤四郎の気配も、今は消えた。移動したということなのか、はたまた勘違いだったのか、そもそもあれは本当に博多藤四郎の気配だったのか。

(普段ならば、間違うはずがないって言い切れるんだけれど)

 本霊「にっかり青江」は幽霊斬りで知られた刀だ。そのために審神者によって起こされた分霊の青江らも、形の無いものを把握して接触することに優れている。その、自己の本質と言える霊感能力に微かでも不信感を抱いてしまう現状は、やはり青江も知らずこの屋敷の影響を受けているということか。

 この屋敷は静か過ぎる。時折藤花が風を纏う音以外、無音である。鳥の声がしない。虫の声もしない。色付く紅葉も下草も囁かない。おかしいではないか。藤棚だけを揺らしながらその内側にある草花までは届かない、そんな風が一定に吹くことがあるだろうか。藤棚の向こうからのみ風が吹いてくる──それ以外には全く空気の動く気配が無い、そんなことがあり得るのか。

 加えてこの二の丸だ。青江はちょうど差し掛かったこの建築物を覗く。先程の一の丸に比べて柔らかな土と草の色合いをしたこの建物は、差し掛かり、折角悠々とした寝殿造の大きな屋敷なのに、調度の類が一切無い。報告すべき内容に困惑する程、何も無い。ただだだっ広い畳を壁が囲い、その上に屋根が乗っているだけ。そのような部屋が複数あって、其々を濡れ縁が囲い、素直に互いを繋げているだけである。

 荒れてはいない。しかし何も無い。形こそ家屋らしく整っているが、青江は其処に漂う空気に廃墟の香りを感じ取った。

 この屋敷は昔本丸であったという。更に言えば化け物屋敷になってからも、複数の審神者と刀がこの家を訪れているはずだ。

 それなのに何故、何もないのか。生活の痕跡くらい、一の丸程度に残っていてもおかしく無いだろうに。

 何故、誰も居ない。

 本当に誰も居ないのか。

 耳を澄ます。藤花の揺蕩う音と己の呼吸音が混ざる。

 本当に、藤棚には風が通っているのか。

 何故あの花の靡く音は、屋敷の中心にある一の丸辺りでも、やや外れにある鍛錬場や蔵周辺同様に聞こえるのだ。何故音の大きさが変わらないのだ。

 この音は、何だ。

『青江』

 この音は何だ。

『青江、青江? 聞いているかい』

「…………」

『私だ、石切丸だ。返事をしてくれるかな』

 ああ。

 同胞の名を聞いた途端、青江の意識はささやかな音から解き放たれた。そうしてやっと、石切丸が語りかけていたこと、己があの音に囚われていたことに気付いた。

 知らず笑みがこぼれる。吐息を漏らし、頭を軽く振る。

「石切丸……ふふ、石切丸か」

『少し返事が遅れたけど、何かあったのかな』

「いや。君は素晴らしく御神刀様だよ」

 気付いたのだろう。鼓膜に響く声が戸惑いの色を帯びる。

『どういうことだい。やはり何かあったんだろう』

「何も無いさ。それがもう、堪らないんだよね」

 この自分が、一瞬とはいえ囚われた。その事実が堪らなく可笑しく、恐ろしい。

 やはりこの屋敷はおかしい。こうでなければ。

 幽霊斬りにして戦刀の謂れが、かりそめの血を沸き立たせる。

『青江、いけないよ』

 石切丸は窘める。

『君は謂れを──君が斬ったという怪を纏わせてしまう刀だ。それ故に其方側のものに染まりやすい。君が言っていたことじゃないか』

「ああ、そうだね」

『君はにっかり青江であると同時に、私の主の刀だ。己をしっかり持ちなさい』

「そう、だね」

 青江は辺りを窺う。屋敷の外れまで来た。蔵と櫓がすぐそこまで迫っている。

「この屋敷は、誰も居なくて静かだ。静か過ぎて、君たちと話でもしていないと、静寂に呑まれてしまいそうだよ」

『ならば、なるべく話をしていよう』

「そうしてくれるかな」

 青江は蔵を見て、それから向かいの櫓を窺う。背の高い物見櫓の一階は鍛刀場になっていて、珍しい造りだと先程も覗き込んだのだったか。ぴたりと閉じた扉を眺め、中で赤々と燃えていた炉を想起する。何故独りでに燃え続けるのか、あの光景の意味は何なのか。青江はそこで見たものについて、電波に乗せないよう主に進言した。先程端末を見た時の様子だと、約束は守られていたようだった。

 青江は物思いを断ち切り、蔵に向き直る。古典的な瓦葺の土蔵で、一の丸同様の白い漆喰には釣鐘型の鉄扉が黒々と沈み込んでいる。

 扉が隙間なく閉まっていることを確認し、語り掛ける。

「石切丸、主はいるかい」

『いるよ』

 審神者が応じる。

「着いた。入るよ」

『ああ、気を付けて』

 青江は扉に指を這わせ、口を開く。

「主殿、僕だよ」

 取手に手を掛け、戸を開く。

 刹那、頸に刺すような気配を感じた。青江が振り返るのと軽い足音が聞こえるのが同時だった。

 崩れゆく視界で最後に認識したのは、閃く皆焼刃と薄ら笑いだった。







続く