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 暗闇に一条の光が射した。薄紅の花弁が舞い、人の輪郭を形取る。審神者は自らの前に現れた巨躯を放心して眺めていた。

「日本号」

 茫然と呼ぶ。審神者ではない。長谷部の、先刻までの鬼気迫る勢いの削げた力無い声だった。

「日本号。どうして」

「こっちの台詞だ」

 日本号は応え、歩み寄った。

 大きな手が頬を張った。真白く細い顔が横に崩れた。前髪が垂れて、項垂れる。

 青江と博多が、追いついた宗三が、審神者のもとへ集う。三振と一人は邂逅を果たした二振を見守る。

「どうして俺を無視していた。お前、俺のことを忘れたか」

 長谷部は黙したまま語らない。日本号は吐き捨てるように笑う。

「今のこの本丸が良いか。俺のことも……俺達の主のことも、忘れたか」

「ああ、忘れたんだ」

 顔を伏せたまま呟いた。

「お前のことも、共に仕えた日々も、不忠な俺は忘れてしまった。そうでなければ、どうしてこの場所にいようか」

 この館は、いつでもいつまでも俺が必要なのだと言う。俺が居ることが、誰よりもこの本丸を満たすことになると。

 長谷部は訥々と語る。

「俺は此処ならずっと……ずっと、居られると」

「ずっと、な」

 日本号は頭を掻く。

「お前、誰かに捨てられるの嫌いだったからな。だから右府様のことは恨んで、黒田家のことは忘れたんだったか。ならば、俺達の主も同じだな? ずっと居られる場所に落ち着けて良かったな、と言いてえところだが」

 日本号は首を捻る。

「この屋敷、主人がいねえだろう。お前、何で空き家守ってんだ。お前の喜びは人間に末永く仕えることで、空き家の手入れじゃあ無かったはずだ。何でこんな所にいるんだ?」

 それはと長谷部は口籠る。日本号は寸刻待って、続けて問う。

「お前はこの屋敷で、何をしてるんだ。空き家に居るのが刀の務めか? なあ長谷部、答えろよ」

「俺は……」

 どこか淡白だった長谷部の語りが、震え始める。突如、刀は頭を抱えて地に伏した。

「俺はあの時何も心が動かなかった……何も! 赤子の頃から見守ってきた蘇芳様が首を吊ろうとしたのに、亡くなっていくのに、俺の心は何も動かなかった!」

 独白は急に始まった。上体を起こした長谷部の顔つきは茫洋としていた。しかし以前の能面の如き趣はなく、ひび割れた感情が剥き出しになっていた。

「取り返しのつかないところまで来て、何てことが起きてしまったのかと思った。俺も死のうとした。だがその頃には俺の身体は俺のもので無くなっていた。その後主がまだ実在していた頃のこの屋敷に一人出向いて、亡くなった。俺は死ねなかった」

「俺の身体をこの屋敷に与え。屋敷を維持する為に獲物を捕らえ。そうして屋敷を潤していて、俺は気付いたよ。この屋敷は、記憶を留めている。折れていった刀のものだけではない、やって来た者の思い出を見せてくれる。あの藤棚の中に、或いは自分の本丸と似た場所に、蘇芳様の御姿も石榴様の御姿も、はっきりと見えるんだ。この屋敷は住む者の望む思い出を見せてくれるんだ。だから望めばそのもっと前の記憶も──俺がまだ心を自覚しなかった、ずっと前の主の姿も記憶も見ることが出来る。俺はそれに気付いてしまったんだ」

「人の身を得て、記憶は恐ろしいものだと知った。実際に目にしないものは、次々に薄れていってしまうんだ。主の顔、声、背格好、好んだ服の色、何もかもだ。俺はそれが何より恐ろしかった」

「覚えていたい、忘れたくない、ずっと傍にいたい離れたくない置いていかれたくない! もう二度と! なのに薄れていく。どうして。どうして!」

「此処にいれば全ての願いが叶ったんだ。昔の主達といつでも会える。藤霞の向こうから微笑んでくれる。もう置いていかれることもない。忘れることもないんだ」

 長谷部は強張った笑みを浮かべ、立ち上がった。

「邪魔しないでくれ。俺をこのままにしておいてくれ。そうでなければ滅ぼしてくれ。もう置いていかれるのは嫌だ。忘れるのは嫌だ。どうして付喪神は人間について行けないんだ。生み出したくせに、散々使ったくせに!」

 言葉が高まっていくにつれ、周囲に変化が起きる。壁に掛けられた刀達が輝きを帯び始めたのだ。その光の色を見て審神者は息を飲む。凶悪な紅、冷徹な留紺──最初ははらはらと舞う蛍火のようであった二つの色が、勢いを増し繋がって天へ向けて滝の如く迸る。

 屋敷が──屋敷に住まう刀達が、器である長谷部の感情につられて荒ぶっているのだ。

「主、此処を出よう」

 にっかり青江が言う。博多藤四郎は唖然としている。宗三左文字は舌打ちをした。

「へし切の奴、滅茶苦茶になってますね。もうアレが立ち直るのは不可能ですよ。刃を交えるなんて以ての外。脱出しましょう、主」

 宗三は言いながら隣を伺って、訝しげな顔をした。審神者が思いの外冷静な顔をして、槍と刀とを見つめていたのだ。

「主?」

 問い掛けを無視して審神者は立ち上がった。対峙する二つの影へ向けて歩み寄る。追おうとした彼の刀達は、次に発せられた主の声を聞いて固まった。

「へし切長谷部」

 青年のものではなく、毅然とした女の声だった。

 長谷部が此方を見た。燐光に照らされた瞳孔が、審神者の上に初めて定まった。眦が裂けそうなほど、瞼が開く。

「お前……いや、貴方は」

「私を覚えていますか」

 審神者は依然として女の声で言う。顔容に年に似合わぬ威厳が漂っていた。

「貴方を顕現したのは春のことでした。これから花の盛りが来ようかという頃なのに、冬に戻ったかのように冷える日でした」

 歩む審神者の輪郭がぼやけ、二重になる。二重になった影が、審神者の身体の少し先を行く。

「やって来た貴方は私のやることを何でもやりたがりました。仕事と名のつく仕事は己がやらねばならぬと思い込んでいる節がありました。私は赤子ではない、貴方も振るわれるだけの刀ではない。分からせてやらねばと思いました」

 青年から分離した幻影が俄かに輪郭を確かにする。ほっそりとした水干姿の女だ。瓜実顔に切れ長の瞳、墨の川の如き髪を結い上げて慎ましい珊瑚の飾りで纏めている。

「私は貴方を叩きのめしました。確か最初に傷付けたのは右の頬でしたか」

 繊手が長谷部の右頬を撫でる、そこに薄らと紅の切り傷が滲む。長谷部は震える手でその指をなぞった。

「あるじ」

 女審神者は微笑んだ。

「待たせましたね、へし切長谷部。年老いた私の身体が予想より保たなかったために、苦労をかけました」

 それから女は振り返り、へたり込んだ青年と彼を引き下がらせる刀等に頭を下げる。

「貴方達にも、大変な迷惑をかけました。そして感謝します。貴方が来てくれなければ、貴方が日本号を連れてきてくれなければ、私はこうして自らの意思で喋ることも適わなかった。この屋敷は長谷部の肉体という器がありましたが、私の身体はとうに失せてしまいましたからね。他の審神者の身体を使うにも、他人の身体に憑依することは、そう容易には出来ません。日本号を通じて、私との繋がりを作ってくれないと不可能でした」

 女は日本号へ一瞥をくれたが、槍が彼女の背後を顎でしゃくって見せたので正面に向き直った。へし切長谷部は女を凝視したまま、唇を震わせていた。

「主。本当に、主……なのですか」

「ええ」

 触れていいものかと惑う彼の指を、女は自ら握る。

「私は今世における貴方の主。審神者柘榴と名乗った者」

 長谷部は今度こそ主君の手を取り、跪いた。手を額に押し頂き、涙にむせぶ声で繰り返しその名を呼ぶ。

「主、主、俺は貴方とご子息に申し訳の立たないことをしました。俺は蘇芳様を見殺しにした。貴方の命を守れなかった。主、主」

「詮無いことです。年老いて力の弱まった私にも落ち度はありました」

 長谷部は激しく首を振った。若い女の姿になった老審神者は微笑み、首を上げる。

「しかし、若い身体を仮のよすがと出来た今ならば出来ることもある」

 青年審神者は我が身を抱えた。急に、身体の底から湧き上がる莫大な霊力を感じた。清水の如きそれが体中に、足先から頭の天辺までを満たし、やがて煌めきながら可視化して溢れ出す。

「長谷部」

 柘榴は長谷部の頤を持ち上げ、涙に燻る幼子のような瞳を見据える。

「この屋敷の見せる仮初の私との思い出は、甘美でしたか」

 刀の眦から一筋が流れる。長谷部はわななきながら、頭を振った。

「甘美に感じていたこともあります。ですが、時間が経つにつれ──俺を見る日本号の様子が、流れる外の時間を教えてくれました──苦しく、なりました。貴方はもう現世にいない。窶れる日本号の姿が語るのです。次第に、苦しくて仕方なくなりました」

 長谷部はそれでも幻に縋った。若かりし頃の主君の幻は、赤子をあやしながら藤の中で幸福そうに笑う。甘さに束の間浸りながら、胸の奥底から込み上げる苦みに蓋をした。

 あの人はもういないのだ。

 ついていけないならば、俺にもう出来ることは無い、と。

「私はこの屋敷にいました」

 主君の告白に、長谷部は顔を歪めた。

「けれど、貴方は甘やかで歪んだ幻の中にいた。無理も無い。この屋敷に捕らわれて、自分の主君筋を二人失うところを見たのですから。でもね、長谷部」

 老審神者は瞼を閉じる。

「もう、終わりにしましょう」

 ざあ、と風が吹いた。

 突風が吹き荒れる。屋敷で常に吹いていたささやかなものではない、清澄な山颪の如き颶風が、たちまちに立ち上っていた妖しき光を散らす。青年審神者と刀達は身を寄せ合い、恨めしい昏さを含んでいた光の粒子が眩しい清純な煌めきへと変化していく様を眺める。輝きの乱舞する奔流の中心で、黎明の審神者は微動だにせず佇んでいた。

「館に住まう御霊よ、御刀よ」

 古の審神者は朗々と呼び掛ける。

「汝の使命を忘れ給うか。汝は刀。散るにしても此処では無かろう、人のもとでその身を振るい、主君の誉れを咲かせて散るこそ刀の本道。汝のかつての誉れを穢すなかれ、汝の煌めきを曇らすなかれ。いざ給え、いざかし、戦場へ」

 謡うように呼びかける声が届いたのか。光輝の奔流は天へと昇っていく。辺りに立ちこめていた暗闇は晴れ、館の輪郭は崩れて淡く煌めく藤の花弁となり、光に続いて空へ巻き上がっていく。

 突如明るくなった視界に、青年の視界は霞む。手をかざし、仄かなとりどりの色彩が蒼穹に吸い込まれていく様に心を奪われる。

 散りゆく藤花の中、女審神者は刀を立たせた。そしてやや離れた所から此方を見ていた槍を呼ぶ。

「日本号」

 彼は鷹揚な足取りで近寄った。女審神者は彼に微笑みかけた。

「苦労を掛けました」

「全くだ」

「日本号」

 思わず窘めるような口調になった長谷部は、はっとして己の口を掌で押さえて横を向いた。気まずさが顔の全容に表れている。日本号は息を吐いた。

「長谷部」

 咎める色は無い。刀がそろそろと槍を見上げると、くたびれた顔が笑っていた。

「お前に、ずっと言おうと思って言えていなかったことがある」

 長谷部は僅かに眉を下げた。日本号は言う。

「俺の指南役が、お前で良かった。そりゃあ本気で腹立てたこともあったし、いつか見てろよって思ったこともあった。だが、お前じゃなければここまで張りのある今世を送れなかっただろう。お前のお陰で、俺は……楽しかった。最高にな」

 丸くなる藤色の双眸の前で、槍は苦笑いして目を逸らす。

「大変だったけどよ。半分は上手くやれなかった俺の自業自得みてえなもんなんだ。だから──ありがとな、長谷部」

「日本号」

「叶うものならば、また会おうぜ。何やかんや何度も会ってんだ。次もどうせあるんだろ」

 大きな節くれ立った手を差し出す。長谷部は呆然として差し出された手と槍の顔をと見比べていたが、やがて槍が業を煮やしたように言う。

「お前とは、まだ最後の約束が果たせてなかった。それが心残りだったからな。次こそ果たすとしようや」

「最後の」

「俺達の主のために、武勲を競い合うんだろう」

 長谷部は眉を上げた。

「覚えて、いたのか」

「当たり前だ」

「お前にはまだ時間が在るだろう」

「ねえよ」

 日本号は緩やかに首を振る。

「俺も、お前と同じで何度も折れちまった。俺を引き留めていたこの屋敷が無くなるなら、俺も消えるだろうよ」

「……すまん」

「もういいって」

 長谷部は日本号の手を取った。大きな手が力強く握ると、彼もまた思い切り握り返した。

「長谷部」

 次いで女審神者が呼ぶ。長谷部は其方へ向き直る。もう辺りは屋敷の影も消えて、薄紫の花片が宙を漂う吹きさらしの海岸線に三人は立っていた。

「もう貴方の魅力的な幻影は無いけれど、今度は私が貴方に幻を掛けましょう。ただ、この幻術には貴方の協力が必要なの。聞いてくれますか?」

 長谷部は頷いた。女審神者は水干の袖を風に強くなびかせながら、それでも彼の目を曲げずに見つめる。

「私と再び出会うことを夢見て欲しい。私達はどうしても人と刀。別の身体だから、共に逝くことは出来ない。でも、これまでの日々でも離れていた時はあったはず。その時と同じように、思いましょう。私は貴方に再び会う時を望む。貴方は私がそう願っていることを覚えていて、同じように望んで欲しい。互いが互いとのこれまでを思い、再会を願い、そしてまた出会う日を夢見て逝きましょう」

 ねえ長谷部と審神者は微笑む。その凜々しい顔に、束の間年老いてもなお気高き矜持と深い慈愛とを失わなかった銀髪の老女の面差しが重なる。

「貴方は私の最高の片腕だった。貴方と共に戦場を駆けたことは私の誇り。あの日々はもう戻らないけど、私は決して貴方を置いて行かないわ」

「主」

「命令よ。私と再会する日々を、待っていて頂戴」

 主は毅然と告げた。

へし切長谷部は笑い、膝を折る。

「待てと言うなら、いつまでも」

 

 

 

 

 

 青年審神者は聴いていた。黎明の審神者と刀剣達の誓いを、またその刀剣同士の誓いを胸に刻んだ。

 また強風に煽られて、他の声も飛んできた。悪かったと囁く先輩審神者の声と応じる神剣等の声がした。来たのかという兄弟子の声と当たり前だという化物斬りの打刀の声がした。こんな所にいたと嬉しげな青銅すら断つ刀の声も、これで次の戦場へ行けるという実戦刀の声も、主君の名を呼ぶ藤四郎の刀剣等の声も聞えた。

 どれもこれも、やがて強い海風と潮騒の狭間に消えていく。

「主」

 己を呼ぶ刀達の声がする。

 審神者が振り返ると、此処まで着いて来てくれた三振が待っている。その背後から朝日が昇ってくる。大きく一つ、頷いた。

「ああ、俺達の本丸に帰ろう」