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 佳い日だった。冬の冷気もようやっと薄らいできて、陽射しがじんわりと身体に染み込む感覚が快い。同期の審神者等はいつでも快適なようずっと好みの時節に設定している者も多いが、彼はどうにも現代の時節と合わせる癖が直らなかった。寒い暑いなどと言いながらも、そうやって一年の移ろいを楽しむのが結局のところ好きなのだ。

 かつての青年審神者は、今日も本丸の庭へ出る。刀剣が増えたので敷地も増やした。それに合わせて植裁も増やそうという話になり、迷った末藤棚を作ることにしたのだから我ながら笑ってしまう。しかし己の他の刀剣達も、相談してみたところいいのではないかと言うから驚いた。てっきり反対されると思っていたのだが、彼等は口を揃えてこう言った。

「だって主、素っ気ない塚だけだったから彼奴らも気に喰わないのかもしれないだろ。そうじゃなければ、あの二振だけ来ない理由が分からないじゃないか」

 偶然では無いかと思う。しかしかの刀と槍だけが未だやって来ないのも事実だった。

 太鼓橋を渡り、何処からやって来たのか池で羽を休める渡り鳥を眺めたり、最近造った二の丸の庭でシャボン玉を飛ばす短刀等に手を振ったりしながら、審神者は塚に辿り着いた。

 土塀に沿うようにしてこの小さな白木の社を造ってから、もう四年が経った。あの藤の本丸と呼んでいた忘却の館から帰ってきた審神者らは、職務的な後始末に忙殺されながらもこの社だけは造り上げた。そして念の為政府の専門家に話を聞きながら、石切丸とにっかり青江の采配のもと、あの忘却の館に纏わる者達を祀った。

 専門家からは政府の霊園に造ったてもいいではないかという意見も出たが、審神者はそうしたくなかった。何故ならもう、彼等のことを明確に覚えているのは自身しかいないのだ。あの館は忘れられたことを悲しんでいた。ならば、彼等のことを覚えている己が管理するのが一番では無いかと思った。

「こんにちは」

 審神者は社に向けて語りかけた。今は藤の季節では無いから、花の香りなどしない。しかしそれでも不思議と、あの香りがまた鼻腔に届くのでは無いかという気がしてしまう。

 不思議と恐怖は無い。担当職員などは、よく一人で参れるものだとよく感心するが、審神者としては旧友に会いに来た感覚だった。

「この間、政府の検診に行ってきました。何故かまた少し、霊力が増えてました。本当に微妙に、少しだけなんですけど。お陰でやっと審神者の平均値に届きました。周りからは遅れてきた成長期って言われます」

 やって来て話すのは、いつもくだらないことだ。歌仙の作った煮物が一段と美味しかっただとか、来週提出の報告書を保存した場所を忘れただとか、蒸し風呂が欲しいのだが作ってもいいか迷っているだとか、そんな話ばかりだ。

 審神者は酒と塩とを供えて、話を続ける。

「霊力が増えても、油断して無駄な使い方をしたら元も子もないですよね。コントロールには気をつけたいと思います」

 審神者はしゃがみ込んだまま、しばし黙っていた。そうしてただ何をするともなく社の閉ざされた扉を眺めていた。

「貴方達のお陰かもしれません」

 何となしに呟く。

「沢山の人と刀が亡くなりました。そうなりたくなくて、俺はあの時結構頑張ったつもりです。それでも出来ないことがあるって知って、結果として運良く柘榴様の力があったからどうにかなったけれど、俺は何も出来なかった。だから」

 審神者はまた黙って、俯く。藤の影が審神者の長襦袢に網目模様を施している。

「俺、今度講師をやるんです。話す内容は勿論、貴方達のことです。現在の審神者制度はオリジナルのコピーだから、政府でさえ把握していないことも沢山あるんですよ。あの本丸みたいにね。だから、俺の体験を語ります。歌仙に台本もチェックしてもらったんですよ。泣きました。俺が。原稿が涙でぐしゃぐしゃになるなんてフィクションの世界だけだと思ってたんですけど、あれ、本当に出来るんですね。初めて知りました」

 本当に鬼。審神者は思わず呟いてしまってから、慌てて辺りを見回した。何処にも彼の恐れる姿がないことを見て取ると、やっと胸をなで下ろす。それから社に向き直った。

「今度と言えば、聞いてください。俺の本丸、まだへし切長谷部と日本号が来てないじゃないですか」

 でも、もうすぐ来るかもしれないんです。

 審神者は微笑んだ。

「刀剣男士の力の源は、現存する本霊の記憶と人々の記憶じゃ無いですか。だから、刀剣男士の力を更に高められるか、実験として政府が新たな回想を作るんですって。歴史改変では無くて、時々やる定期訓練空間と同じように、正史とよく似た舞台の世界を擬似的に作って、そこに該当の刀剣男士を送り込めば回想『風』の物語を体感できるっていうものなんですけど。これを見た審神者達のイメージの変化によって、刀剣男士の力が増大するか試すんですって。賛否はあるみたいですけど、実戦訓練も含まれてるらしいから。良い結果になればいいなと思います」

 で、と審神者は身を乗り出した。

「この回想の対象となる男士が各本丸に渡されるんですけど、その中にへし切長谷部と日本号もいるんです。何事も無ければ、やっとこれで会えるんです」

 審神者を初めて九年、今年で十年目になるが、彼等と過ごしたあの日々を忘れたことは無い。今になってみると、不思議な日々だった。思い出すだに恐ろしいと思う時がある。一方で、細部が思い出せなくて無性に焦ることもある。懐かしいと感慨に耽ることさえある。

 そんな時にこの社の前にやってくると、無性に安心するのだ。ああそうだ、あの日々は過ぎ去った。此処に過ぎ去った証拠が在るのだ、と。

「ねえ。結局会えたんですか?」

 返事はない。当たり前だ。しかしいつか返事が聞えるのでは無いかと耳を澄ませてしまう。過ぎ去った記憶を形にするのが審神者なのだから仕方ない。

 渡り鳥の声、風のざわめき、木々の葉擦れ──審神者はやがて立ち上がる。

「あ、いた」

 自分とは別の声がして、跳ね上がった。身体を慌てて反転させると、歌仙兼定がやって来たところだった。

「かか歌仙さん、いつからいたんですかっ?」

「いつからって、たった今来たばかりだけど」

 歌仙兼定は小首を傾げたが、すぐに眉間の皺を深くした。

「さては君、僕に都合の悪いことでも?」

「いやまさかそんな。ところで何か用かな」

 会話しながら立ち去ろうとして、審神者はもう一度踵を返した。社は変わらず其処にある。藤棚の影と柔らかな春の陽光に包まれて、何処となく安らいでいるような気がした。

「また来ますね」

 早くおいでよと歌仙兼定が呼び掛けてくる。ただ今と一声答えて、審神者は社に背を向けて小走りに彼の隣へ向かう。

 共に小道を行く二人の影が並び、遠ざかって行った。