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審神者は藤の本丸に乗り込むことになった。この本丸にて顕現された刀達は、主君の無事を喜ぶ暇もろくに与えられず、今度は送り出すべく慌ただしく動き回っている。
その騒ぎの中で、審神者部屋に捕らわれた長谷部を見張る役割は、必然的に二振に任されることになった。彼を封じる核である山姥切国広と、知己の日本号だ。
「意外だな」
日本号は徳利を傾けた後、おもむろに言う。
「もっと主人の出陣に反対すると思ったんだが」
「いや、十分反対していただろう」
山姥切は肩を竦める。
「歌仙兼定のあの勢いを忘れたか。駆けつけてきた他の刀達は、奴が抜刀しないかハラハラしていたぞ」
「来歴が来歴だからな。歌仙兼定にああいう激しいのが多いのは、そのせいかね」
「さてな。ヒトの語る歴史など曖昧なものだし、審神者が形にするという記憶もまた曖昧なものだ。俺はそれより、あの歌仙兼定は主人に似たんだろうと思うが」
「そうか?」
日本号は首を傾げる。
「あの坊主、年頃の男にしちゃあ落ち着きがあると思うけどな。飄々としているというか、淡々としているというか」
「あれは元来情の強い奴だ。そうじゃなければ、誰があの素質で審神者など目指そうと思うものか。養成施設にさえ入れなかったんだぞ」
俺は奴がこのくらいの頃から知ってるんだと山姥切国広は水平にした手を掲げた。あの青年審神者のかつての身長を示しているらしい。日本号は頸を掻いた。
「人間ってのは分かんねえな。俺はそれなりに人に近い思考を持っていると自分では思ってたんだが、さっぱりだ」
「人間自身も分かっていないだろう。奴らは俺達と違ってあまりにも柔く移ろいやすい」
山姥切は己の手を見つめる。握り、開く動作を繰り返す。
「せめてもう少し頑丈であってくれればと何度も思ったが……実際自分でも心などというものを知覚してみて、こんな道理の分からない爆薬を抱えていては、長生きするのも辛かろうと考えるようになった」
掌を見下ろす端正な横顔を、日本号は黙って眺める。ややあって、山姥切と口を開いた。
「その。すまな──」
「謝罪は要らない」
穏やかながら断固とした言葉が即座に返ってきた。
「俺の主が亡くなったのはお前のせいじゃない。何をどうやっても、この世を去った者は帰ってこない」
山姥切は天を仰いだ。深海の如き夜空に、くっきりと満月が浮かんでいる。
彼はしばらく無言で空を見上げていたが、やがて辛くないと囁いた。
「意外と辛くないんだ。俺達道具はそもそもいわゆる非情のものだった。持ち主が短くなった方がいいというならそれに従った、殺せというなら何でも殺した、あの頃に戻ったようだ。主人が亡くなった今、俺の起こされた心も無くなったのかもしれない」
「これから、どうするんだ」
何を言ったら良いか分からなかったが、何か言わなければならない気がして尋ねた。山姥切は此方を向く。
「刀ならば次の主に仕えるべきなんだろう。だが俺は一度、刀剣男士になってしまった」
ただの写しに戻るのに、この身は重くなりすぎた。
口元は弧を描いている。纏うさやけき月影は、しかしどこか気怠く丸い。
「これで最後だろう。政府にいた時はあいつに遺してもらった霊力を極力使わずに過ごせていたが、此奴を押さえていれば、あと一晩も保てばいいところだ」
山姥切は磔の長谷部を指さす。他の刺さった四振の短刀も同様なのだろうか。己の本体に血文字を許した、その心境は計り知れない。
どうしてこんなことになってしまったのだ。
日本号は何度目か分からぬ物思いに耽る。短刀から中央の山姥切本体へ、山姥切本体から背景へ眼を移す。壁に括り付けられたかつての友の顔は窺えない。
健全だった頃の彼ならば、この状況を何と言うだろう。
思いを記憶の涯てに馳せ、その声を思い出そうとする。表情を想起する。
(……どんな面をしていた?)
思い出した顔は、ぼやけていた。
ふやけた紙に筆で水彩絵の具を乗せるが如く、輪郭も焦点もいまいち定まらない。無性に背筋が寒くなった。
薄れている。この自分の記憶から、あの長谷部が。
そんな馬鹿な。
「やあ、ご両人。邪魔するぜ」
日本号は我に返る。戸口から二つの影が覗いていた。真っ白な方は鶴丸国永で、端末を持っている。黒い方は鶯丸で、此方は盆を抱えていた。その上には急須と湯飲みが一つずつしかない。
「おう。あんたら、主の手伝いはいいのか」
「あっちはもう大方済んだ。今はやたら若いのがひっつきに行っていてな。俺達じじいは一足先に此処で待つことにしたわけだ」
「茶が丁度良い頃合いなんだ」
どかりと胡座を掻く鶴丸国永は年長らしい台詞を言いながら端末を覗いている。鶯丸は嬉しそうに茶を注ぎ、啜り始めた。
「それは良かったな」
日本号がどうしたものか迷っていると山姥切が応じた。山姥切国広は真面目な良い刀だとしみじみ思う。
騒がしい刀が声を上げた。
「おっ。まだ盛り上がってるか。よしよし」
「何見てんだ」
「刀専用のネットワークだよ。主の立てたスレッドが凍結、恐らくそれを覗いていたんだろう人間達が悲鳴を上げたようだな。そのお付きの刀剣達が検証と推理に励んでいる」
満月の眼は空に浮かぶものより明るく澄んでいる。主人が苦境に置かれている刀とは思えない無邪気さだと日本号は呆れながら、そういえば鶴丸国永という刀はそういうものだったかと思い直した。墓にいた刀だと言うのに、こういうときは人一倍明朗だ。
「貧相な絵筆のような男が現れた、武器庫に置いてあった未顕現の刀が審神者部屋にやってきた、主の覗き込む端末からまずい気配を感じて思わず踏み潰した。いろいろ上がっている。やあ、有り難い。他の何も知らない本丸にも丁寧な注意喚起をしてくれているぞ。流石刀だな。鼻が利く上に有事の心得がよく分かっている。起こったことには己の出来る対処をして、不必要に騒ぎ立てることをしない。刀は己が身の上に何が起ころうと、人に求められるままただ其処にあって最善を尽くすものだ。人の身が生じてもそれは変わらん」
(墓にいたからこそなんだよな)
鶴丸国永の台詞からは、根底にある彼の激動の刃生が窺えた。人間に過度の期待をかけず、移ろいを受け入れ楽しみを見いだし、慈しむ。
山姥切国広が眉をひそめる。
「あんた達の主は大丈夫なのか。人間のネットワークに今回の件でスレッドを立てていただろう。罰されはしないか」
「ああ、大事にはならんだろう」
鶴丸は画面を見ながら手を振った。
「今回の件は政府も強気には出られん。何せ、十二の審神者とその刀剣男士を殺した化物を、制御も出来ず注意喚起もしないままほぼ野放しの状態にしていたわけだからな。加えて、主は政府にスレッドを立てる許可を取っている。スレッドを作成するにあたって審神者のレベルに応じた閲覧制限もかけた。主も下っ端とは言え、もと政府の人間だから、そのあたりの配慮は慣れている」
今のところ人命に関わることは起きていないようから、まあ幸いなのだろうと鶴丸はやっとここで目を上げた。
「それにこの屋敷の正体は、歴史防衛にあたる者全体で考えるに然るべき題材じゃないか。歴史是正省設立前からあったとおぼしき本丸なんて、本当にとんだ驚きだぞ。情報が公開されたことを利とする者も多く居るはずだ」
「無事にこの件が落着すれば、だがな」
湯飲みを掌に収めた鶯丸が和やかに言う。
そうなんだよなあと鶴丸は顎をさすった。
「そこが一番の懸念事項だ。ここで主がしくじれば、審神者界は次の生け贄が誰になるかで恐慌状態に陥るだろう──おっと、無遠慮な発言だったな。すまん」
眉を下げ、日本号に詫びた。
「きみが気に病むことはない。審神者も命のかかる仕事についたのだという自覚がある奴ばかりならばいいのだが、そうでない者も多いのが現状なんだ」
「知ってるさ」
過去に出会った審神者等もそうだった。己の近くに死がやって来てしまったことを受け入れるのに苦労した者が多かった。恐らく人間というのはそういうものなのだ。死が間近に迫ってこなければ、己は永遠なのだと妄信し続ける。
「あんたらの審神者にも、あんたらにも、本当に感謝している。俺の所の長谷部が持ち込んだ厄介だって言うのに、あんたらは俺に良くしてくれるし、長谷部にも理不尽に手荒なことをしない」
冷たい目で見られることが多かった。殴打されることもあった。しかし迷惑をかけているという負い目があったから、日本号は何も言わなかった。長谷部はどう思っているのだろう。
鶴丸と鶯丸は、礼を述べる槍を凝視していた。台詞が終わってから鶴丸が小首を傾げる。
「きみは巻き込まれただけだというのに、随分腰が低いな。加えてよく、長谷部のことを気にかけている」
「災厄をもたらし、更に己を認識することも無い相手に、よくその姿勢で接していられるものだ」
鶯丸の継いだ台詞に、胸が詰まる。
そうだ、其処なのだ。迷惑を懸けてしまった審神者に詰られるのは仕方が無い。その刀に蔑視されるのも詮方ない。
だがこれだけ傍に居て全く解決出来ないこの化物には──また古馴染みとして反応の無い様にも──納得出来ない。
「憎くないのか」
鶴丸が問う。
山姥切はまっすぐ目を此方に向けている。憎むならば、それこそ彼だろう。日本号は息を漏らす。
「激しく憎んだこともあった。滅茶苦茶に、残骸すら残さねえほど壊してやったこともある。だが今は、違う」
憎くないと言えば嘘になる。藤の本丸とかいう怪物は特に憎い。
しかし今はただ、真相が知りたい。そして、解き放たれて欲しかった。
「此奴の中に俺の知ってる長谷部が残っているかどうかは知らねえ。いるならば話が聞きてえ。いないならば仕方ねえ、せめてその身体だけでも解放出来ればと思う」
俯いていた日本号は、顔を上げて三振へ真っ向から向き合う。
「あんた等にも審神者にも苦労をかけている。処罰をしても気が済まねえだろうが、どうか俺含めてどうにでもしてくれ」
「いや。俺達は主のしたいようにすればいいと、それだけだからなあ」
「お前は真相が知りたいという個人的な欲もあるだろう」
「ああ、ばれてたか」
鶯丸に指摘され、鶴丸が舌を出した。山姥切は苦笑する。
「俺ももう過ぎてしまった話だから、何とも。あんたも苦労しているんだから、責められん」
日本号は黙って頭を下げることしか出来なかった。
「刀だなあ」
鶴丸国永が笑い、片手を差し上げた。
「折角だ、乾杯でもするか」
「どうしてそうなる」
「いいじゃないか、二度と無いぞ。おい、きみのその茶をもらえるか。盃は主のそこの棚にある奴で良いだろう」
「構わんぞ」
鶴丸が勝手に審神者の棚を漁り、持ってきた小さな盃を山姥切と日本号に差し出す。そこへ鶯丸が茶を注ぐ。山姥切が盃を掲げる。
「何に乾杯するんだ」
「そうだなあ」
じゃあ、と鶴丸国永は歌うように言う。
「俺達の邂逅と、人と刀の幸せに」