二人の男が、焚火を挟み向かい合って座っている。

 左手側の男は眠り込んでいるらしく、こちらからは盛り上がった毛布から覗く、赤みがかってくすんだ色合いをした淡い茶髪の頭頂部しか窺えない。

 対して右手側の男は、多少眠そうではあるもののしっかと目を開いていた。くるくると跳ねる黒髪の、どことなくつまらなそうな顔つきをした男である。太く短い眉も尖った唇も端が下がりがちで、そういったパーツ一つ一つが、彼のアンニュイな雰囲気の要因となっている。胡坐を掻き猫背で座ってこそいるが、それでも十分大柄な人間であることが分かる。腕も肩幅も戦士のように鍛えられているが、その纏う衣装は鎧ではなく簡素な僧服だった。

 男は燃え盛る火を見つめていたが、やがて重たげな瞼はそのままに顎を上向けて天を仰いだ。鬱蒼と生い茂る樹海の空には、月はおろか、星一つさえ窺えない。曇っているのだろうか。それにしては、黒が濃いように感じられた。

 ぱち、と薪が爆ぜる。するとその音で目が覚めたのか、左手側の男がおもむろに上体を起こした。起きていた男の目が彼へと戻り、その尖った唇が開く。

「眠れた?」

「いや。正直、あんまり」

 横になっていた男は苦笑まじりに答え、身体の正面を焚火へ向けた。燃える橙が彼の横顔を照らし出す。涼し気な目もとがクールそうであるものの、白い歯を見せて笑う口元はどこかやんちゃな印象を抱かせる。身につけた立て襟の外套は上質な黒い天鵞絨で、男の日に焼けない肌によく似合っていた。

「しょうがねえよな。魔王との決戦前となっちゃあ」

 僧服の男が言うと、茶髪の男は僅かに肩を跳ねさせた。しかしそれは、眼前の男が口にした台詞のためではない。何故なら彼の細い瞳は既に向かって奥、曲がりくねった木々のさらに先、光が届かず輪郭を失った木々の凝縮された、乾留液のごとき暗闇を凝視していたからである。

 彼の不穏な気配を察した僧服の男が、即座に左手に置かれた巨大な杖を掴む。しかし武器を持ち上げる前に、茶髪の彼がふと表情を緩めた。

 彼らが見つめる先、暗がりから輪郭を現したのは鎧姿の男だった。まだ若く、焚火を囲む二人に比べるとやや小柄なように映るが、短い黒髪の下の双眸は、よく切れ味の良い刃物のごとき鋭利さを宿していた。

「お疲れ、イワイズミ」

「どうだった?」

 茶髪、僧服がそれぞれ彼に語り掛ける。イワイズミは二人の間、こちらから見て炎の向こうへと座る。背中に負われた大剣が、ガチャリと音を立てた。

「間違いねえ。あれが、アイツの城だ」

 ふ、と。

 その場の音が全て消え失せた気がした。

 茶髪と僧服は、それぞれイワイズミを見つめている。イワイズミは己の正面に横たえた大剣を、じっと見下ろしている。誰の表情も窺えなかった。

「いよいよだな」

 僧服が低く告げる。

「俺たち、やれるのかな」

 茶髪がどこか不安そうに尋ねる。

「やるしかねえだろ」

 イワイズミは腹の底から絞り出すような、しかし芯の通った声で答える。

 誰からともなく立ち上がった。速やかに荷物を整え、装備を確認する。最後にイワイズミが、その手にした巨大な業物を未だ燃え盛る焚火へと振り下ろした。

 まるで、迷いを断ち切ろうとするかのように。

「行くぞ」

 毅然としたイワイズミの声。辺りが暗闇に包まれる。

 俺は彼らの背中を見つめながら、ゆるゆると溜め息を吐いた。

「ああ……やっと、この時が来たんだね」

 

 

 

 

 

 

 

「イワちゃん、俺勇者になるっ!」

 澄み切った青空に、燦燦と輝く太陽。その暖かな光を浴びてのびのびと緑の葉を茂らせ、枝を伸ばす木々。その枝に留まった小鳥のさえずりも、何となく嬉しそうだ。

 そんなこの佳き日に、かねてからの夢を幼馴染に告げた。しかし彼から返ってきたのは、この日にまったくそぐわないのに、その吊り目にはよく似合ってしまう絶対零度の眼差しだった。

「いまさら、何だよ」

「え?」

「何度目だよ、それ」

 幼馴染は言いなおした。丁寧に言い直されても、眼差しが先程から一向に温度を上げないどころかどんどんマイナスになっているために、余計怖い。

「オイカワ」

「はい」

「俺たちは何年の付き合いだと思ってる?」

「じゅ、十七年?」

「そうだな。ほぼ人生の長さだな」

 イワイズミは淡々と話す。

 オイカワは知っている。いつも自分の発言を一文で一蹴する癖のある彼が何度も言葉を重ねるのは、「そろそろマジでキレるぞ」のサインであるということを。

「その十七年間、お前は俺に、何度勇者になりたいって言った? え?」

「いやその、でも俺も最初の二年くらいはまともに喋れなかったと思うんで、十五年くらいだと思いま――ったァッ!」

「聞き飽きたっつってんだよボゲェっ!」

 オイカワの悲鳴とイワイズミの怒号が、天然城砦都市アオバ特有である玉のごとき白壁とペールグリーンの屋根からなる家並みに反響し、青空へと抜けていく。美しき森の都と称されるその景色が、オイカワの視界で歪に滲んだ。

 痛い。幼馴染に殴られたり蹴られたりするのはもはや通例というより習慣となっているが、それにしてもその鋼の鎧フル装備の状態で容赦なく蹴り飛ばすのはどうかと思う。その鋼で覆われた脛がどれほどの威力を叩き出すのか、この衛兵部隊エースは分かっているのだろうか。この馬鹿。筋肉馬鹿。

「痛いよっ、イワちゃんの筋肉ゴリラ! 脳みそスライム!」

 うっかりして、罵倒の最後の方は口に出して言ってしまった。しかしイワイズミは聞こえなかったのか、なおもオイカワを罵る。

「そもそも今は任務中だろうが! これから森に入るんだぞ? 今じゃなくたっていいだろ」

「森なんていつも入ってるじゃん! 魔物だって最近特にまったりしてるし」

「油断すんなボケカワ。魔物との戦いだって、大会前の貴重な実戦練習なんだぞ」

「分かってるよ!」

 分かっている。それはよぉく分かっている。だが、オイカワはさらに言い募る。

「でも俺、ゆうべすっごいカッコいい夢見たんだよ! イワちゃんと知らない人と、魔王を倒しに行く夢」

「知らない人って誰だよ」

「知らないよ。もう顔だってまともに覚えてないし」

 オイカワは唇を尖らせた。

 そう。残念なことに、既に夢の細部が思い出せないのだ。ただ自分たちがどこか知らない夜の森にいて、目の前に焚火があって、それをイワイズミと知らない男二人とで囲んでいたことは覚えている。

「だけど、すっごくカッコよかったんだよ!」

「はいはい良かったな」

「イワちゃん棒読み! せっかくオイカワさんが褒めてあげてるのにっ。夢の中のイワちゃんは、今の三倍くらい女の子にモテそうなほどカッコよかったのにっ。あ、でもゼロに三かけても結局ゼ――」

 あいたァっ!

 再度イワイズミの脛が急襲し、オイカワは悲鳴を上げた。後続の後輩二人が、片方は呆れたように、片方は案じているような狼狽えているような顔つきで、前を歩く二人を見ている。

 道行く人々は、騒々しい彼らが通り過ぎていくのを白い目では眺めなかった。むしろ、年配の者は育ち盛りの孫を見守るような温かい眼差しで、若い男は興味深げにちらちらと、そして娘たちは好奇心剥き出しな目くばせと浮足立った囁き声を交わし合いながら、彼らを凝視している。

 無理もない。オイカワとイワイズミは、アオバにおいてちょっと有名なコンビだった。彼らは城砦都市アオバ防衛軍における花形、衛兵部隊の隊長と副隊長なのである。

 

 防衛軍というのは、東の島国、連合国家ヤマトの四十七国、その中の細かな都市ごとに存在する、警備隊のことである。この世界は太古より都市に住む人類と、平野や森、水辺等ありとあらゆる自然に生息する魔物とが、激しい争いを繰り返していた。だから、どんな小さな町にさえ魔物と戦うための組織が発生し、時代と共に発展してきた。

 しかし今から百五十年前、第五次人魔対戦が勃発。過去に類を見ない悲惨な大戦争の末、消耗した両者は遂に、平和協定を結ぶに至ったのである。

 それから、時折小競り合いこそあるものの、現在ではほとんど戦争など起こらなくなった。警戒の念から残された防衛軍も、今日ではこの通り。深夜帯に知能の低い魔物が迷い込んできた時でもなければ、戦う機会もなくなってしまった。最近などは、防衛軍を廃止してもいいのではないかという話も出ているような状態である。

 そのために、長らく戦場の荒野に生きてきた防衛軍も、次第に形を変えつつあった。軍備縮小の名目のもと、それまで大幅に与えられていた予算も減り、昨今一番の見せ場は、一般市民に公開する実戦模擬演習になった。実戦を積めない少年戦士達に少しでも経験を積ませる目的のもとに、防衛軍養成学校の精鋭を集めた衛兵部隊というものを作った。そして全国規模の「武道大会」として、若い少年戦士たちを競い合わせるようになった。

 この衛兵部隊と武道大会は、平和に退屈した市民たちに大いにウケた。地方で行われる予選大会には多くの地元の民が訪れ、実際にはその戦力を発揮することがないにも関わらず、汗と血の滲むような訓練を行い、必死に切磋琢磨する若者たちへと、熱い声援を送った。

 かつて己の生を守っていた術が、生を謳歌するための娯楽に変わった。世界は、確実に平和になっていた。

 

「暴力はんたーい、暴力はんたーい! ひゃああっ」

「うるせークズカワ! 口縫うぞ!」

「ひえっ、この人キケンです! 衛兵サーンっ助けてー!」

 そういう次第だから、市民からの人気も高い衛兵二人は、このような一回り年下の子供じみた言い合いをしながら追いかけっこをしていても、白い目で見られないのである。

 さらに、オイカワが走って追いかけてくるイワイズミから逃げ回った末に、後ろにいた後輩の背に隠れるという十七歳の青年とは思えないようなことをやっても、道端の女の子たちは「カワイー」としか言わなかった。

 その黄色い声を耳にしながら、後輩の背後から顔を覗かせてあっかんべえをして見せた幼馴染を睨み付けるイワイズミの額に青筋が浮く。これでまた、この幼馴染が本当に「アオバ衛兵部隊きっての歩く広告塔」と呼ばれるような優男であるのが、非常にムカつく。

「自分もそうじゃないですか……」

 オイカワに背中を取られた後輩が、その長い顔をオイカワとイワイズミとどちらに向けたものかと迷いながら、背後へと一応ツッコミを入れる。長身を厚い鎧で覆い、自らの頭身ほどもある盾を腕に提げた彼は、名をキンダイチという。オイカワとイワイズミとは、アオバ城砦衛兵部隊に入る以前、キタガワ中等養成学校第一時代から先輩後輩の関係を続けている。

 キンダイチは、依然として言い争いを続けるイワイズミとオイカワの間で視線を行ったり来たりさせ、やがて助けを求めるように隣を歩く同期を窺った。見開くことを知らない大ぶりの瞳が眠そうな、濃紺の法衣を纏う少年である。彼は癖のない黒髪を揺らして、ふいとそっぽを向いた。キンダイチの顔が困惑に染まり、クニミ、と声もなくその同期の名を呼んだ。

「お前な。夢も叶えたきゃ叶えりゃいーけどよ、もうすぐ武道大会が近いんだから忘れんなよな! 今年は厄介なんだぞ!」

「よーッく知ってますぅ! ダテもワク南もシラトリザワも絶好調だし、ジョーゼンジも調子上げてるし、カラスノとかいうダークホースも出て来ちゃったし!? まったく腹立つよねえ!」

 オイカワとイワイズミが、ぴったり同じタイミングで舌打ちをする。

 彼らの住む国ミャギは、どの都市の衛兵部隊も強力だった。

 「ダテの鉄壁」と称される屈強な騎士団を保有する、ダテ工業都市衛兵部隊。

 剣、魔術、戦術、統率力、全てにおいて安定した土台を築き上げている、ワクタニ南都市衛兵部隊。

 遊撃に秀でる悪戯好きの魔族のみで形成された、ジョーゼンジ魔界都市衛兵部隊。

 かつて空中戦において無敵と称され、現在も攻撃力をめきめき上げている古豪、名将ウカイを師に仰ぐカラスノ空中都市衛兵部隊。

 そしてヤマト全土をして天才と名高い皇帝勇者ウシワカを擁する、シラトリザワ王都衛兵部隊。

 オイカワたちが所属するアオバ城砦都市衛兵部隊は、これまでこうした猛者たちを蹴散らし、武道大会ミャギ国予選において四強の中に必ず数え上げられるほどの戦績を残してきていた。

 だが、どうしても頂点――王者シラトリザワを倒すことができないのである。

「こっちはさっさとウシワカをぶっ飛ばして、全国に行きたいっていうのに!」

 オイカワは唇を尖らせ、忌々しそうに首を振る。シラトリザワのウシワカは、キタガワ第一から雪辱を晴らせずにいる因縁の相手でもあった。

「でも、カラスノはきっと大したことないですよ」

 これまで無言だったクニミが呟いた。彼もキタガワ中等養成学校第一の卒業生である。だから、どうして先輩がカラスノを警戒しているかを察していた。

「カゲヤマはどうせ、またカラ回ってるでしょうし」

 キンダイチが顔を顰めた。

 カゲヤマとは、彼らのキタガワ第一時代のチームメイトである。魔術も含めた戦闘技能全般に優れており、特に弓においては天才的な腕前を持っていた。

 しかし優秀な彼は、それゆえにひどく独善的な性格でもあり、常に他者を己の手駒として捉え、自らのために戦うことしか考えていなかった。その癖が、カラスノに行って少し名将の指導を受けたところで、すぐ直るとは思えない。かえってこじらせそうだ、とオイカワも考えていた。

「まあそうだろうけど、用心するに越したことはないからね。今度監督にお願いして、演習組んでもらおうかな」

「おう」

「あ」

 クニミが突如、声を上げた。

「もう、森ですね」

 後輩の言う通り、白い街並みの向こうに森が見え始めていた。ツートップは先ほどの言い争う様が嘘だったかのように、速やかにもとの位置に戻った。

「いいよね、三人とも」

 オイカワは、隊員をして「隊長用の声」と呼ばれる、軽やかなようでいてヒトの警戒心を刺激する、特有の低い声で語り掛ける。

「今回の任務は、昨日見覚えのない大穴が出現したという報告があった、B地域を見回ること。そしてその大穴を発見し次第、その周囲をよく観察、立ち入り禁止区域に該当するかどうか判断し、上に報告すること」

 後輩二人がはい、と。イワイズミがおう、と無愛想に応じる。どの声にも、先程まで感じられなかった緊迫が含まれている。

「ないとは思うけど、魔物が襲い掛かってきたら身の安全を優先すること。単独行動は避け、はぐれたりした遭難したりした時はすぐに救助信号を挙げること」

「気ィ抜くなよ」

 オイカワが森に立ち入る際の注意事項を挙げれば、イワイズミが念を押す。後輩二人が、引き締まった表情で首を縦に振る。それらを振り返って確認したオイカワは、ふと奇妙な感覚に襲われた。

 これまで森に入る度何度も何度も繰り返してきた、この行為。それが、やけに今日は新鮮に感じられた。新鮮と言っても、初めてやる行為に対しての感情とは違う。

 まるで、しばらくやっていなかった日課を、久しぶりにこなす時のような。

「行くぞ」

 イワイズミの告げた言葉が、ゆうべの夢と重なった。オイカワは動揺を押し隠し、森へ――アオバの天然要塞へと足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

 アオバに育つ者は、皆森に通じている。

 アオバ城砦都市は、深い森の中央に位置する小高い丘の上に建っていた。だからアオバの民は、日常生活における森の恩恵をよく知っていたし、同時にその恐ろしさも重々承知していた。

 森は、当然だが生きている。生きているから、刻一刻と顔を変える。先日まで道標にしていた樹が倒れている、鳥の巣がなくなっているなんて頻繁に起こることだ。

 だからアオバの民でも、森に入る機会のあまりない者は、不用意に足を踏み入れない。仕事で出向く者だって、必ず救助信号など非常事態に備えたものを持っていく。

 そして一番森に入る回数の多い自分たち、防衛軍とその見習いは、森で生き抜くための術と、アオバの森についての知恵という知恵を叩き込まれている。

「天気のいい日で、よかったよね」

 森に分け入って結構経った頃、オイカワが木々の狭間から覗く碧空を仰いで、仲間たちに語りかけた。

「最近は雨も降ってなければ、大きな嵐も来てない。なら、道が大きく変わってるとは考えづらい。太陽の傾きと地図とアオバ磁針があれば、さっさと済ませられるだろう」

「今回はクニミも来てくれてるから、心強いな。頼むぞ」

 イワイズミがそう声をかけると、クニミは頷いた。彼は周囲の生体の様子を察知し、分析することを得意とする、占星術師だった。彼の読みは的確で、彼がいれば大概のダンジョンでは迷わずに済んだ。

 オイカワは周囲を見回す。一見すると、いつも通りの景色だ。天高く幹を伸ばした木々、その葉の隙間から差し込む木漏れ日は暖かく、長閑な陽気を醸し出している。

 まったくもって、平穏。平穏だ。平穏すぎるかもしれない。

 いつもなら小動物の葉をかき分ける音や、風に揺れた草花が囁く声が、もう少し聞こえてもいいはずなのに。

「なんか、静かすぎませんか」

 キンダイチが、気味悪そうに呟いた。その隣のクニミも、平時は気力の一片もない半眼に警戒の色をちらつかせている。

「おかしいですね。やけに、生物がなりを潜めています。風さえ、この森に入って来るのを躊躇っているような……」

 イワイズミが、背中に負った大剣を抜き放った。オイカワも白金の鎧を整え、腰に帯びた剣に手をかける。

 弱く樹の幹に反射する日差し。ようやく暖かくなり始めた、うららかな朝。清々しい木々の呼気に満ちた、森の空気。柔らかな土の香り。

 こんなにも心地よく安らかな空間なのに、まったくの無音。

 静寂が、痛いほどに耳を刺してくる。

「今日入ったばっかりの頃は、こんなじゃなかったよな?」

 己の発した声しか、耳に届かない。

「はい。ちゃんと鳥が飛びまわってました」

「なら、B地域に近づいたことが原因なのかな」

 イワイズミの問いかけとキンダイチの答えを聞き、オイカワは双眸を鋭くする。

「クニミちゃん、B地域はこっちで間違いないよね」

「はい、もうすぐさしかかります」

「何か変なものがないか、ここから分かる?」

 オイカワが足を止めると、全員がその場に立ち止まる。クニミは目を瞑り、周囲へと集中し始める。夜空の色をしたローブが、風もないのにふわりと広がり――その眼を、かっと見開いた。

「何だ、これ」

 クニミが独り言ちる。残り三人は目を瞠った。中等学校の頃から冷静で、どんなに危機的な局面でも平静を保っていたクニミの顔から、血の気が失せている。

「何があったの?」

「分かりません。分からないんですが、これは」

 オイカワの問いに答える声が、僅かに震えている。

「異世界への、扉――いや、穴です」

「穴?」

「はい。それも、ぽっかりとそこにあったはずの空間が抜け落ちてしまったような……魔物の気配はありません、でも危険です。近づきすぎたら、吸い込まれそうだ……」

 クニミは咳ばらいをして唇を湿らせ、一呼吸置いてから答えた。

「俺レベルの占星術師じゃダメです。もっと、俺より時空魔術に詳しい人がいないと」

 オイカワはちらりと視線を横に流す。イワイズミもちょうどそうしたところで、視線をかち合わせた二人は再びクニミへと目を戻した。

「それは、どこにある?」

「ここをもう少し、まっすぐ行った場所に」

「どうする、引き返すか?」

 イワイズミが隊長に訊ねる。オイカワは少し考え込んでから、首を横に振る。

「もう少しだけ近づいて、ちょっとだけ様子を見て引き返そう。その方が、報告した後に動きやすい」

「俺、一応シールド張っときます」

「うん、よろしく」

 キンダイチが両手で盾を握り締め、口の中で何事か呟く。白金の盾が燐光を放ち、それと同時に同じ輝きがオイカワ、イワイズミ、クニミの周囲で舞った。

 騎士の特技「シールド」である。身の守りの硬さを磨く彼らは、熟練するに従い、仲間に防護壁を張れるようになるのだ。

「何か怪しい気配を感じたら、教えてくれ」

「はい」

 イワイズミにクニミが頷いて見せ、準備を整えた彼らは再び歩を進め始めた。

 森は、依然として沈黙している。四人が土や枝を踏みしめる音が、明瞭に聞こえる。

 普段そこまで気にもならないはずの音が、こんなにも大きく感じられる。その事実は、彼らにさらなる緊張感を与えていた。

 さあ、何が来る? 魔物? 人間? 未知の怪物?

 それとも先に、穴のところへ着いてしまうのか?

 ――そもそも、穴ってどんなものなんだろう。

 ふと、オイカワの張りつめた思考回路の片隅で、そんな問いが発生する。

 今朝、急務だと言ってこの仕事を持ってきた防衛軍本部の人と話した時は、「大穴が空いた」としか言われなかったように思う。だからてっきり、また厄介な魔物の巣でもできたのではないかと予想していたけれど。

 くそ、もっと詳しく教えておいてもらいたかったな。オイカワは内心で舌打ちをした。大体、前情報が曖昧すぎたのだ。もちろん自分達は、この職が常に命の危険に晒されるものであることを承知した上で、日々職務に励んでいる。けれど、事前に命に危険が及ばないよう尽力することは、そういった覚悟云々の前にヒトとして当然ではないだろうか。

 これで万が一のことがあったら、どうしてくれるのだろう。帰ったらこの仕事を持ってきた人間に文句を言ってやろうと、オイカワはその顔を思い出そうとした。そう言えば、あまり見たことのない人だった。黒い髪を独特な形に突っ立て、前髪を顔の右側へと流した背の高い男。常に目を糸のように細めてにこやかな笑顔を絶やさなかったが、一瞬だけその双眸が薄く開いた時があって、瞳孔が日光を照り返して赤く輝いたように見えたっけ――

「オイカワ」

 イワイズミの硬い声で、オイカワは我に返った。隣を見やると、イワイズミは吊り上がった眦を裂かんばかりに目を見開いて、足下にある何かを凝視していた。

「これが、穴ってヤツなのか……?」

 彼の指がさす先を辿る。そして、見たものが把握できなくてイワイズミと全く同じ顔をしてしまった。

 延々と続いていた森が彼らの足下で途切れ、大穴が空いていた。

しかもその穴から、まるで上空から世界を覗いたかのように、小さな大陸や海の景色が見えた。

「なッにあれ!? 意味分かんないんだけど!」

 オイカワはついそれまでの緊迫感も忘れて、思ったことを思ったままに叫んだ。イワイズミは眉間に皺を寄せ、吐き捨てる。

「うるせえ。頭悪ぃギャルみたいな反応すんな」

「イワちゃんそっちじゃない! 俺の反応なんか今はどうでもいいデショ!」

「だが確かにわけが分からん。クニミ、あれが異世界ってヤツなのか?」

 イワイズミが指さしたのは、穴の中央から見える小さな大陸や海だった。クニミは青ざめた顔のまま、それを睨みつつ頷いた。

「そうだと思います。どうもこの世界に穴が空いて、下に並んでた世界が見えるようになってしまったようですね。しかもあれって、もしかして『夢の大地』なんじゃないでしょうか?」

「えっ、夢の大地って存在してたのか!?」

 キンダイチが驚いた声を上げる。

「ああ。俺たちが眠っている時に、魂が彷徨っている場所――それを『夢の大地』って呼ぶクセはどんな小さな子供にだって染みついているけど、これはお伽話じゃない。れっきとした、実在する異世界なんだよ」

 クニミは冷静に説明して聞かせながら、辺りへ素早く目を配る。オイカワもそれにならう。穴が空いている箇所以外は、四方八方見やってもこれまで通りの森だ。戦闘の名残も、何者かが細工したような痕跡も見当たらない。

「でも、どうしてこんなことが起こったんだろうね?」

「想像もつきません。一刻も早く、調査団を」

 言いかけたクニミが、背後を振り返ってハッと息を飲んだ。穴の存在に夢中になっていた他三人も後方を見やりぎょっとする。

 木々をすり抜け、大岩ほどの巨体を持つ芋虫型の魔物の大群が迫っていた。

「森蟲っ? 嘘だろ、気配なんて何も感じなかったのに!」

 クニミが、瞬きを繰り返す。森蟲はまったり這っている時は安全だが、走っている時は危険だ。人間でもそれ以外の生物でも、さらに同類でさえ、進路を阻むものは轢き殺し食い散らかす。

 森蟲の進行方向は、明らかにこちら向かっていた。占星術師の前に、イワイズミとキンダイチが飛び出す。

「原因を突き止めてるヒマはねえ。片づけるぞ!」

「はい!」

 イワイズミが先行し、先頭を走ってくる森蟲に向けて大剣を振り回す。巨蟲の体躯がまるでバターでも切るかのように、滑らかに切り裂かれる。一振りで五体の森蟲が絶命し、瀕死の個体が残ったうじゃうじゃと生えた足を動かして、こちらへ迫ろうとして来る。その前へキンダイチが氷の防壁を築いて撥ね返し、止めを刺す。

「おお、いい感じだねー」

 オイカワはキンダイチの後ろで、クニミと共にアオバ城砦の誇るエースと防壁の活躍を見守る。

 キンダイチは武器を使った戦法にも優れているが、この盾を活用した攻撃もとても上手い。彼は実直な性分が裏目に出ることも多いが、それでも騎士としての実力は申し分ないのだ。

 一方、イワイズミは反対に盾を持つことを決してしない。それより、大ぶりな得物一つで攻守ともにこなしてく戦闘スタイルを好む。普通あれだけ大きな武器を振り回すのならば、鎧や盾もそれに合わせて工夫を凝らし、しっかりと身に着ける者が多いが、岩泉はそれもしない。彼は命綱代わりに適当な鎧一つを身にまとってさえいれば、鍛え抜いてきた身のこなしだけで己が体を守ることができた。

 この攻守ともに手堅い二人が揃っていれば、大概の難所は切り抜けられる。

 しかし。現在の戦況を眺めていたオイカワは、目を眇める。

「キリがねえ! どうなってんだこれ!?」

 依然として森蟲の群の中央で大剣を振るうイワイズミが、魔物の濃緑の血をまき散らしながら叫ぶ。

 そう。オイカワが彼らに加勢するのを待った理由は、そこにあった。森蟲の群は、いくら大群であるにしても、数の減る様子が一向に見られなかった。どこか、様子がおかしいのである。

 オイカワはいずこからともなく湧いてくる森蟲たちを眺め、思案する。

 クニミは、「気配を感じなかった」と言っていた。

「みんな、聞いて!」

 隊長の張った声に、全員が一瞬彼へ目を留めた。オイカワの海老茶色の瞳孔が、淡い魔力の光を帯び始めている。

「≪目を覚ませ≫」

 形の良い唇が動き、しめやかに精霊の言葉を紡いでいく。

「≪迷える者に太陽神の導きを。汝が真に見定めるべきものを、その眼に映せ≫」

 ――パキン。

 硝子の割れるような音が、空間に響いた。

 キンダイチが防壁を解き、困惑した面持ちで辺りを見回す。あれほどいた森蟲の群が、一匹の影も見当たらなくなっていた。イワイズミも己が得物の刀身を見下ろす。鈍く輝く刃には、血の一滴たりとも付いていない。

「幻、だったのか」

「みたいだね」

 オイカワは整った目もとを顰め、周囲を窺う。まだ、あの不気味な沈黙が続いている。

背中に、じっとりと冷たい汗をかいている。嫌な予感がした。

「みんな、撤退するよ。早く本部に報こ――」

「それは別にいいんだが」

 聞きなれない男の声がした。

指示を出そうとしたオイカワの首が、急に締まった。首を押さえようとするも、身体が後方へと投げ飛ばされる。

 急速に遠ざかっていく、森の景色。硬直するキンダイチ、大きな目を限界まで開いたクニミ、口を大きく開けて地を蹴り、こちらに手を伸ばすイワイズミ。

 彼らの中央に、先程までいなかったはずの男が佇んでいた。

「アンタを逃がすわけには、いかねえんだよな」

 上下揃えた黒装束に、赤いマントを羽織っている。オイカワはこの服装こそ知らないものの、その男の独特に突っ立った黒髪には見覚えがあった。

 アイツだ。この任務を急に依頼してきた、あの男だ。

「悪ぃな。頑張ってくれ」

 男の薄い唇がニィと吊り上がり、肉食獣めいた二本の犬歯が覗く。

 視界が、くるりと回転した。碧空が、先刻己が覗き込んでいた穴の形にくり抜かれている。

 いや、違う。そうじゃない。

 ――あ。俺、落ちてるんだ。

 その事実を認識した時、上昇する気流と共にオイカワの意識は飛んだ。

 己の名を呼ぶ誰かの声が、聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢を見ている。暗い暗い、森の中で俯いている夢。伸び放題の草や、浅黒い木の幹が滲んでいる。子供のすすり泣きが、どこか近くからひっきりなしに聞こえる。

「帰らねえのかよ」

 懐かしい、高い声が聞こえた。

 視点が草だらけの地面から、上へと移動する。質素な布のズボンを穿いた足が仁王立ちしている。半袖から伸びるのは日焼けした腕、その手には木刀。移動する視点は、その身体の主である少年の吊り上がった眉と大きな目、口をへの字に曲げた顔を映して止まった。

 イワちゃんだ。子供の頃のイワちゃん。

 俺がそう認識した時、ちょうど近くでハジメちゃん、とぐずるような子供の声が聞こえた。

 おれ、帰りたくないよ、とその声は続けた。

「何でだよ」

 イワちゃんがぶっきらぼうに尋ねる。

 だって、みんなおれをいじめるから。見えない子供は答えた。

「お前、強いだろ。なのに何でやり返さないんだよ」

 おれ、ユウシャになるんだもん。ユウシャは子供と戦ったりしないもん。

「お前だって子供だろ」

 呆れたようにイワちゃんが言う。

 それにね。見えない子供は言葉を区切り、か細く震える声で語った。

 やり返す気持ちになれなくて。だってみんな、おれはユウシャにはなれないって言うから。

「…………」

 イワちゃんは、顰め面をした。

「あんな奴らの言うこと、真に受けるなよ」

 おれはユウシャになれないの? 何で?

「お前は、勇者になりたいのか?」

 うん、なりたい。

「じゃあ、なれるだろ」

 本当に? だって、おれ――

「お前、魔法も剣も得意だろ。なら、本当に勇者になりたければ、いっぱいいっぱいシュギョーすればなれるんじゃねえ?」

 なれる……かな。

「おう。おれはなれると思う」

 ハジメちゃんがそう言うなら、なれるね。

「帰ろう、トオル。俺、チャンバラしたい」

 イワちゃんがこちらに向かって手を差しのべる。視界の下から、その腕に比べると大分色の白い手が伸びて、彼の手を取った。

うん、帰ろ!

 イワちゃんにひっぱりあげられてから、俺はその声が己の口から出ていたことに気付いた。

 

 

 

 

 

 

 

 霧の立ち込める森に、二人の若者が倒れていた。二人ともよく似た白と灰の鎧姿であるが、兜は被っていない。その片割れ、柔らかそうな茶髪を軽く遊ばせている男がうっすらと瞼を開けた。夢を見ているようなぼんやりとした表情から、彼がまだ現状を把握できていないことが分かる。だがその明るい色の瞳がつと開かれたかと思うと、上体を跳ね起こして周囲を二度三度と見回した。そして傍に倒れている鋼の鎧を発見した途端、その肩を揺さぶり始めた。

「イワちゃん、イワちゃん!」

 男の黒い短髪が数回地面を擦り、やっとその吊り目が開く。イワイズミはがばりと身体を起こした。

「オイカワ、怪我ないか?」

 相棒の問いかけに、柔らかい茶髪が縦に振られる。

「俺は平気。イワちゃんは?」

「何ともねえ」

 二人は立ち上がり、周囲を険しい眼差しで眺める。

 森ではあるが、彼らの見慣れているアオバのものではない。佇む木一本一本の間が狭く、好き勝手伸びた葉枝が重なり合って空を閉ざされてしまっている。そのせいか、ひどく薄暗く寒々しい森だった。

「何が起こった?」

「さあ……俺が覚えてるのは、知らない人に穴に突き落とされたところまでで」

「知らない人? そんなのいたか?」

「あー、あの時はイワちゃんの後ろにいたから見えなかったかも。黒いツンツンした頭の、目が細くてニヤニヤした男」

「見なかったな。そいつがお前を突き落としたのか? いつ出てきたんだ、そいつ」

「分からない。知らないうちにいたんだ」

 オイカワは、あの大穴に突き落とされる寸前のことを思い返す。

 あの男、服装こそ違ったがやはり自分に急務を伝えに来た男だった。体格が優れていると言われるオイカワと同等かそれ以上に逞しいのに、妙なしなやかさを持つ佇まい。底の知れない笑み。初めて会った時、その得体の知れない雰囲気に引っかかってはいたのだ。

「なに、アオバの人間か?」

 それを伝えると、イワイズミは険しい目つきを更に鋭くした。

「そうかもしれないし、違うかも。防衛軍も人が多いから、思い出しようがない」

「他市のモグラかもな」

「ありえるよね。身のこなしがウチの戦士っぽくなかったし」

 オイカワは盛大な舌打ちをした。

「あークッソ! よく注意しとくべきだった!」

「今さら言っても仕方ねーべ。それより、何とかアオバ城砦に帰らねえとな」

 ここはどこだろう、とイワイズミは呟く。さあ、とオイカワが相槌を打つ。

「俺あの穴から落ちたわけだし、単純に考えるとあの穴から見えてた世界に落ちてきちゃったってことなのかな?」

「その可能性が高いな」

「なら、ここは夢の大地?」

 オイカワとイワイズミは、そろって空を見上げる。自分たちの落ちてきた大穴が見えないかと思ったのだ。しかし天を仰いでも、見えたのは不気味に背の高い木々と黒い葉だけだった。オイカワは眉をひそめる。

「ねえ、この森変じゃない?」

「そうだな」

 同意を求めれば、イワイズミも頷いた。

「やけに木の背が高すぎるし、枝が詰まりすぎだ。普通、樹海だって空なんて隠れねーよ」

だよね、とオイカワも同意する。天井を覆う枝葉は、よくよく注視するとまるで蜘蛛の巣のように張り巡らされ、みっしりと絡み合っていた。

「なんか、自然のものじゃないみたい。木の様子だって、ちょっとおかしい気がする」

 オイカワはそれとなく、近場にあった木の幹に触れる。普通ならガサガサゴツゴツしているだろう表皮は、形だけはささくれているように見えても、指を滑らせてみるとやけに滑らかだった。岩ででもできてるみたいだ、とオイカワは思った。

「て言うか、よく考えたら何でイワちゃんまでここにいるの? 穴に落ちるような場所には、いなかったよね?」

「そりゃ、お前を引っ張りあげようとして俺も落ちたからだ」

「はあ!?」

 さりげなく告げられた事情に、オイカワは目を瞠った。次いでその柳眉を吊り上げて叫ぶ。

「何危ないことしてんの! 副隊長に何かあったら、誰が衛兵部隊を引っ張るんだよ!」

「こっちの台詞だボゲ。隊長に何かあってくれちゃってどうすんだ、アア?」

「ご、ごもっともデス……」

 メンチを切られた上に至極真っ当な返しをされて、オイカワはしゅんと項垂れる。しかし怒ったような態度を見せても心中はそこまででもなかったらしく、イワイズミはすぐ仕方なさげに溜め息を吐いた。

「まあ、こうなっちゃ仕方ねえ。早くもとの世界に帰る方法を探さないとな」

「うん、そうだね」

 キンダイチとクニミちゃん、大丈夫かな。オイカワは心配になる。二人とも実力はあるしただの子供ではないから無用な心配かもしれないけれど。いやいや。でも、得体の知れない男だっていたのだ。無事ならいいのだが。

 彼らの安否が気になる。早く帰らなければ。しかしどうやって?

「誰かに聞けば、帰り方分かるかなあ?」

「聞くったって、ここヒトもいるかすら分からねえじゃねえか」

「そうなんだよなー。街、見つかるかなぁ? クニミちゃんがいてくれればなーっ。あと『渡り鳥の目』が使えばなー! あーもー! 異世界ヤダぁあー――」

 あ。

 オイカワの嘆きを全て込めた溜め息が、途中でぴたりと止まった。

「……ヒトだ」

「え、嘘だろ?」

「いや、ホントホント。ほら」

 指を差す。イワイズミがその方向へ目を凝らすと、闇の奥に不自然に移動する赤い何かが見えた。どうやら、ベストのようなものらしい。よく見れば、ちゃんと手足が四本伸びた人間らしい輪郭も備えている。

「今度は、幻じゃねえだろうな?」

「もうちょっと近づいてみないと、幻惑解除はできないよ」

「とりあえず着いていってみるか?」

「他に行くあてもないし、ねえ」

 二人は頷き合い、遠ざかっていく赤い影を追って走り始めた。

 ある程度近づいてみると、その影は赤いベストを羽織った小太りな男のものであることが分かった。背に負った薪、手にした斧、腰に提げた道具からして、どうも樵であるらしい。途中オイカワが幻惑解除の呪を唱えてみたが消えなかったので、実体を持ったものであるようだ。

 やがて、樵の行く手に小さな煉瓦造りの家が現れる。彼の家だろうか。

「すいませーん!」

 樵がドアの横に薪を下ろし中へ入ろうとしたので、オイカワは声を張り上げて手を振る。しかし赤いベストは、振り返りさえせず開いた扉の向こうへと消えてしまった。

「あれ、聞こえなかったのかな?」

「耳遠いんじゃね?」

 二人そろって首を傾げる。樵と彼らの距離はせいぜい離れていても三十メートル程度で、オイカワの声は決して小さくはない。うるさいことにかけてはイワイズミのお墨付きである。

「ごめんくださーい、こんにちはー!」

 仕方なく扉の前まで走って来て、今度は大きくドアをノックしながら叫んだ。

 しかし、返事がない。訝しんだイワイズミが、壁にはめ込まれたガラス窓を覗き込んだ。

「……全く反応ねえぞ」

「すいませーんこんにちはーっ! 聞こえますかぁーっこんにちはー遭難者でーすぅっ助けてくださぁぁぁぁぁい!!」

 オイカワが長く模擬演習で培ってきた大声と腕力でもって、木製のドアに向かって精一杯のアピールを始めた。隊長としての実力と生来の押しの強さが互いを高め合い、立派な騒音となっている。

 イワイズミは、迷うことなく耳を塞いだ。さりげなく、もう一度窓から中の様子を窺ってみる。暖炉のあるごちゃごちゃとした部屋の中心で、驚いた表情でドアを凝視している中年が見えた。今度こそ聞こえたようだ。

「開けてくれないとっアオバ城砦のプリンスがタイヘンなことになりますぅっ! 俺に何かあっちゃうとミャギ中の四万八千五百人の女の子たちが泣き叫び悲嘆に暮れっ! 街から笑顔が失せっ! 空は闇に閉ざされ山は吼え大地が裂け花は枯れ鳥は喚き狂い俺のせいで世界が崩か痛ァッ!」

「それがヒトにものを頼むときの台詞か」

 樵が扉に向かう様子を確認したイワイズミが、オイカワの傍に戻って来てその背中をどつく。ちょうどその時、扉が開いた。戸と煉瓦の隙間から顔を覗かせた男に、一転オイカワは好青年然とした笑みを浮かべて頭を下げる。

「突然お邪魔してすいません、俺たち――」

 柔らかな茶髪が持ち上がり、樵の様子を窺った唇が言葉を切る。

 彼は、途方にくれたように周囲を見回していた。その円らな瞳の焦点は、オイカワとイワイズミのどちらにも定まる様子が見られない。

「あ、あの?」

「ドアを叩かれた気がしたけど、気のせいかな」

 オイカワが声をかけても、樵はそう呟くなりまた戸を閉めてしまった。ぴしゃりと閉ざされたそれを、オイカワとイワイズミは唖然として眺める。

 ドアを叩かれた気がした? あの、張り切ったゴリラのドラミングよりも戦場の戦太鼓よりも騒々しいアレが、気のせい?

「いやいやいや待っておじさんッ!」

「そりゃねーだろおい!」

 二人は同時に叫びながらドアを押し開けた。硬い木の扉が、ちょうど鍵を閉めようとしていた樵の頭に激突し跳ね飛ばした。吊り上げられたマグロよろしく地に打ち付けられ巨体を跳ねさせた彼を、イワイズミが慌てて助け起こそうとする。

「わ、悪ぃ。大丈夫か」

 しかしイワイズミの手が男の肩に触れた途端、彼は霞むほどの素早さで後ずさり、我が身を抱いてやや上方の虚空を凝視した。さすがのイワイズミも、これには思わずぽかんと口を開けてしまう。男の丸々とした顔には、脂汗が浮いていた。

「なっ何だ、何かいるのか!?」

 その引き攣った声に、紛れもない恐怖が滲んでいる。立ち尽くしていたオイカワが我に返り、足下を見おろす。そこには、彼が使おうとしたのだろう南京錠が落ちていた。オイカワはそっとそれを拾い上げる。

「はい、これ」

 しかし、またもや彼は口を噤むことになってしまう。樵はオイカワの差しだした南京錠を見て、ガタガタと震え出したのだ。

「ヒィィィッ、幽霊だあ!!」

「あっ、おいコラおっさん待てッ!」

 イワイズミが手を伸ばすもむなしく、樵は一目散に外へと駆けていってしまった。

転がるように逃げていくその後姿を眺め、オイカワとイワイズミは顔を見合わせる。

「幽霊だってさ」

「んなもん、ここにはいねえだろ」

「そうじゃないよイワちゃん。俺たちが幽霊なんだ」

 オイカワの整った形の双眸が、何かを考え込むかのように狭められる。

「今のおじさん、俺たちがどんなに呼びかけても声は聞こえてなかった。けど、ドアを叩く音や触った手、持ち上げた鍵には反応してた。つまりこれって、俺たちの姿や声だけ認識されなくなってるってことじゃないかな?」

「ってことは、あのおっさんにとって俺たちはポルターガイスト的なもんに感じられたと」

「そうそう」

「んな馬鹿な」

 イワイズミがきゅっと眉根を寄せ、己の首筋に手を当てる。

「俺の身体はちゃんと生きてるぞ。脈がある」

「うん。俺もさっきイワちゃんにどつかれたり殴られたりした時、ちゃんと痛かったから生きてる」

 オイカワが背中をさすりながら頷く。しかしすぐ、その大きな両手を目の前に翳して言った。

「でもまさか、俺たちが生きてるように感じること自体が錯覚なんてないよね? もしここが冥界だったら……」

「だったらあのおっさんが幽霊だ、ってあんなにビビるわけねえだろ」

「あ、そっか。さっすがイワちゃん! 今日は珍しく冴えてるね!」

 イワイズミの拳が、オイカワの頭にめり込んだ。痛い。俺生きてる。物理的な生の実感に顔を顰めるオイカワとは反対に、イワイズミは開けっ放しになったドアの外を見て目を丸くした。

「おい。さっきのおっさん、戻って来たぞ」

「あれ、本当だ」

 オイカワも外へ視線を移し、声を上げる。

「しかも、誰か連れてきたね」

 入口の縦になった長方形の向こうに、果てなく続く森を背景に三人の男が歩み寄って来ていた。先頭を歩くのは、先程この家を飛び出して行った樵である。まだ怯えているのか、こちらをまっすぐ見つめようとはせず、後ろの人物をちらちらと見つめていた。

 彼の背後を歩くのは大柄な男だった。その黒髪は好き勝手跳ねており、顔立ちは昔絵本で見た水辺の魔物にどことなく似た、太い下がり眉に吊り目のアヒル口である。全体的に覇気のない雰囲気であるが、何となく油断できないな、とオイカワは思った。それはきっと身に纏うたっぷりした僧服でも隠し切れない聖職者らしからぬ逞しい体つきや、その肩にもたせかけている身の丈よりなお長い杖のせいだろう。杖の上部五分の二程度は、船のオールのように頑丈そうな平たい装飾となっている。

「あの天パの方、きっと僧侶だよね」

「しかも、ただの僧侶じゃねえな」

 イワイズミもオイカワと同じように思っていたのか、彼の武器から目を離さず低く言う。その巨大な得物は、遠目にもよく使い込まれていることが明らかだった。

 一方、その大柄な男のやや斜め後ろに追随するのは、彼より僅かに背の低い、ココアのような淡い茶の髪をベリーショートに整えた男である。前を歩く男の顔は総じてパーツが肉厚気味であるのに対して、こちらは薄い。細く短い眉を凛々しく引き締め、下三白気味の切れ長な目を周囲にあてもなく彷徨わせていたが、ふと前方を向きオイカワとイワイズミを捉えた途端、冷めた印象のポーカーフェイスを崩さないままにひらひらと手を振った。二人はまたお互いの顔を見る。こちらに対して振っているのだろうか? 釈然としないまま、二人は正面を向く。やはり彼はこちらを見つめていた。

「知り合いか?」

「うーん。この世界に知り合いはいないはずだし、もとの世界でもああいう人は見た覚えないな」

「見たところ、盗賊っぽいな」

 腰の皮ベルトの右に短剣一本、左に同じものがもう一本と偃月刀が吊るしてある。加えて背中側の腰に括りつけられたポーチ、ガタイがいいのに細身な印象のある上半身に似合うベスト、その二つのどちらもそのまま街に遊びに行けるような洒落たデザインではあるが、見る者が見れば分かる、収納とスリ対策に安心な盗賊スタイルのものである。イワイズミの言う通りだった。

 前二人は、何か喋っている。樵がオイカワたちのいる家を指さして、まくしたてる。

「おおお、お願いします、さっきドアを激しく叩いたような音がして、何かが入って来たような気配が――ヒィッ、ままままだ鍵がッ!」

 愛しの我が家の戸口に立った樵には、未だ中で佇んだオイカワが手にしている南京錠が、どのように見えたのだろうか。悲鳴を上げて、今にも泡を噴きそうである。

「はあ、そうですか」

 僧侶は気のない返事をした。しかしその双眸は、南京錠ではなくオイカワの顔に定まっていた。

 もしかして、この人は自分たちのことが見えているのでは? オイカワとイワイズミの胸に、淡い期待が戻って来る。男は尖った唇を開いた。

「あー。確かにいますね」

「どっどどどこに!?」

 樵が頭をぶんぶんと振り回した。僧侶はオイカワと視線を合わせたまま、真面目な顔で言う。

「そこにスケコマシっぽい男が一人と」

「え、まさか俺――ねえイワちゃん今笑ったよね? ちょっと今噴きだしたよね? どういうこと?」

「黙れ」

「そっちに、目つきの悪いゴリラっぽいのが一人」

「イワちゃんっ、それはダメ! 家壊れる!」

「るっせー止めんなッ!」

 イワイズミが大剣を抜こうとしているので、オイカワは慌ててその利き手に縋りついた。ここで物理攻撃力トップクラスが暴れたら目も当てられないどころか、煉瓦の下敷きになって二度と故郷の陽射しを浴びられないことになってしまうかもしれない。それは勘弁だ。

「すいません、俺たち幽霊じゃないです! 人間だから! ゴリラでもないからっ!」

「おう、分かってる分かってる」

 イワイズミにしがみついたまま訴えるオイカワに応えたのは、盗賊風の男の方である。口調こそ軽いが、その瞳は値踏みでもするかのように抜け目なく二人を見据えていた。

「二人とも、俺の声聞こえる?」

「え? うん」

 オイカワが首を縦に振り、イワイズミが暴れようとするのをやめると、盗賊風の男は唇の片側をにっと吊り上げた。クールな印象に反した、悪童のような笑みである。

「よし、初めて同類に会えたわ」

同類? 自分たちのことだろうか。彼の台詞を訝しく思いながらも、オイカワは奇妙なことに気づいた。この男の隣に佇む樵は、先程から僧侶の方を縋るように見たり自分の恐怖を訴えるばかりで、盗賊の方には見向きもしなければ話を聞くことさえしないのである。いくら得体の知れないものに出くわして動揺しているにしても、もう一人いる人間に一度でも一瞥をくれないなんておかしい。

「嬉しいねえ。じゃあ、お二人さんはちょっと外に出てて俺とお話ししようぜ。長いことコイツ以外とほとんど話せてねえから、俺お喋りに飢えてるんだよな」

「えっ、えっ?」

 盗賊はオイカワとイワイズミの背後に回り、その背を押しながら僧侶らしき男に目くばせする。僧侶は微かに頷いて、家を出た三人に代わって家の中へ入る。樵もオイカワの手――正確にはその握った南京錠だが――を恐る恐る眺めながらそれに続き、戸が閉まった。

 再び、暗い森の中に逆戻り。イワイズミが盗賊の手を振りほどき、背中の柄に手をかけた。警戒心露わな目つきで睨まれているにも関わらず、盗賊は両手を顔の横に挙げた。

「まあまあ落ちつけよ。俺たち、怪しいモンじゃねえから」

「誰だよ、お前」

「あ、やっぱり知らないんだな? 本当に俺と一緒だ」

 盗賊の双眸が細まる。何となく嬉しそうだ。

「俺はハナマキ。ハナマキタカヒロ。お前らが、オイカワトオルとイワイズミハジメ?」

 フルネームを言い当てられた二人は、そろって鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした。一呼吸おいて、オイカワが返事をする。

「そう、だけど」

「あ、マジ? どっちがどっちか知らねえけど、お前がイワイズミでお前がオイカワかな?」

 そう言いながらハナマキは、二人を順に指さして当てて見せる。知らないと言うくせに言い当てた怪しい男を睨み付ける目はそのままに、今度はイワイズミがぶっきらぼうに応じる。

「だとしたら、何だよ」

「ふーん。大体聞いてた通りだな」

「聞くって、誰から」

「まだ家の中にいるアイツ。お前らのことスケコマシとかゴリラとか呼んでたヤツ」

 マツカワって言うんだけど、と言いながらハナマキは二人の反応を窺うようにじいとその顔を見つめる。だがイワイズミはあまり嬉しくない呼び方をされたことを思い出して顔を顰め、オイカワはこの男の正体を掴もうと無表情に彼を注視していた。

「まー許してやってよ。アイツも大変なんだよ。トモダチが三人も記憶喪失のユーレイになっちゃってさ」

「それは大変だね」

「おい」

 オイカワの形だけの同情に、イワイズミが得体の知れない男と気軽に会話をするなと諌める。しかしハナマキは気にせず、まったくだと軽く応じながら眼前の二人を指さした。

「その三人のうち二人は、お前らなんだけど」

 ちなみにあと一人は俺な、とハナマキは自分を親指で示す。

 いよいよワケが分からない。警戒と混乱とが入り混じった幼馴染二人は、ちぐはぐな表情筋を持て余している。すると、背後から低く落ち着き払った声が聞こえた。

「こら。まだまともに説明してないのに、混乱させるなよ」

 振り返れば、僧侶風の男が家から出てきたところだった。ごめんと大して悪びれた風もなく、ハナマキが答える。僧侶はオイカワとイワイズミをしっかり見つめて、語りかけてきた。

「お待たせ。まあ、本当のところ待ってたのは俺の方なんだけどな」

「え?」

「その話は後でいいんだ。俺はマツカワイッセイ。改めてよろしく」

 僧侶ことマツカワは、その大きな手を差しだしてきた。幼馴染二人は戸惑う。

 この男たちは正体こそ知れないものの、こちらに対する敵意は抱いていないらしい。そう判断したオイカワが先にその手を握り、次にイワイズミが目つきの鋭さはそのままに手を取った。

「とりあえず、行くか。詳しい話はぼちぼちしてくからさ」

 マツカワが言って、おもむろに歩き始めた。その隣にハナマキが並び、顔をこちらに向けて手招きをする。二人は、おずおずと後について歩き出した。

 少なくとも今すぐこちらを害するつもりは、まったくなさそうだ。オイカワは前を歩く二人の無防備な背中を見つめ、考える。ひとまず、道先案内人ができたと喜んでおくべきか。

「あの、マツカワさん」

 オイカワがそう呼ぶと、マツカワは振り返った。大きく表情を動かしてはいないのだが、どことなくしっくり来ないと言いたげな顔だ。

「お前にサン付けで真面目に呼ばれるとか、すごいゾッとするわ」

「ちょっ」

 初対面の人間に思いの外貶されて、さすがのオイカワも何と返したものか分からなくなった。しかしすぐに、マツカワが微笑みを浮かべて言う。

「マツカワでいいから。俺ら同い年だし、そんなかしこまった関係じゃなかったからな」

 穏やかな声色にどこか寂しさを感じた気がして、オイカワは彼の顔をよく見ようとした。しかしその前に、マツカワは前を向いてしまう。

「なあ、マツカワ。ここはどこなんだ?」

「お、そこから聞く? そうな、その方がいいかも」

 イワイズミの問いにマツカワが答え、直後問いを返した。

「お前らは、ここがどこだと考えてる?」

「夢の大地じゃないの?」

「俺たち、自分の世界に空いた穴から落ちてきたんだ」

「ふーん。そっちではそういう認識になってるんだな」

 そっち。その言い方は、自分たちの世界を知っているということを意味する。

 しかしオイカワが帰り方を聞こうとするより早く、マツカワが口を開いた。

「あのな、混乱すると思うけど正直に言うわ。それ、逆なんだ」

 ――ん?

 オイカワとイワイズミは、彼の言ったことが頭に入らなかった。

 マツカワが首を回し、幼馴染二人を見据えて告げる。

「お前らが夢の世界だと思ってる、今お前らがいるこの世界が、本当は現実の世界なんだ」

 その吊り目は、まったく笑っていなかった。

 マツカワは初めにオイカワを、次にイワイズミを指して言う。

「お前は『この世界のオイカワ』の、お前は『この世界のイワイズミ』の見ている夢だ」

「ゆ、め?」

「うん、魂が見ている夢。普通は、幻みたいなもんなんだけどな。身体について来る影みたいな感じ」

 魂の、夢。オイカワはそっと己の胸部に手を当て、内心問いかける。

 もしもーし、トオル君起きてますかー? 俺、本物のオイカワトオルじゃないみたいなんですけどー?

 …………。

 十秒待ったが、応答の気配すらなかった。

「ただ、お前らの場合だけはちょっと違う。夢に、魂が宿っちゃってる」

 マツカワは、さらに難解な台詞を重ねた。オイカワはさりげなく隣を窺う。イワイズミの顔が、げんなりしている。

「イワちゃんのキュートな脳味噌のスタミナは、もう限界ですか?」

「脳漿ぶちまけるぞ」

 プラスな言葉でつつましいサイズの脳を労わってやると、舌打ちすらなしにドスの利いた声が返って来た。ああ、もう手足が出ないほどに疲れたんだねイワちゃん。可哀想に。でもごめんね、俺もこんな冗談でも言ってないと頭がどうにかなりそうなんだ。

 魂が見る夢に、魂が宿ったって?

「あー、悪いな」

 二人の消耗を悟ったのか、マツカワが頭を掻きながら詫びた。

「俺ももうちょっとうまく言いたいんだけど、普通ならありえねえ話を実現させられちまったから、どうしてもこんな言い方になっちまう」

 お前らからすれば自分は紛れもない自分なわけだから信じられねえだろうが、信じる信じないは置いといて一通りの話だけ聞いてくれ。マツカワはそう言って、続ける。

「まず夢の世界っていうのがどんなものかっていうと、これは俺たちの今いる現実世界の住人の見る夢が集まって出来た幻の世界なんだ。だから夢の世界には現実世界の住人の夢や希望が、多く反映されてる。たとえば、お前らのいた夢の世界はどんな感じだった?」

「どんなって?」

「たとえば世界全体の雰囲気とか、住んでた場所の様子とか」

 オイカワはマツカワのヒントを得て考え、答える。

「平和だったよ。人間同士の争いも滅多に起きないし、魔物も攻めてこない。俺たちの街も第五次人魔大戦が終結してから、ほぼ実戦知らずなくらい」

「それは、この世界の住人の多くが『そうあって欲しい』と願ったからそうなってるんだ」

 この世界は未だに物騒で、平和からは程遠い状況だから。

 マツカワは言い、ついでオイカワたちを指差した。

「で、次に今のお前らの状態な。簡単に言うなら、今のお前らはこの世界で普通に生きていた頃に『こうなりたかったなー』って思ってた人生のイメージを、自分の本物の記憶として信じさせられてる状態にある」

 …………。

 マツカワが嘘をついている可能性は、追及しだすとキリがないので置いておくとして。

 つまり自分は今記憶喪失の上に妄想を真実だと思わせられるような洗脳を受けているということだろうか。

「何それ、そんなことあり得るの?」

「あり得るんだよ。お前らはこっちの世界で肉体と魂を分離させられて、今魂だけの状態だからな。この世界に存在するためのよすがだった肉体を失い、魂だけの状態になってるから、自分のこの世界での記憶もなくすし自分の夢を現実だと信じきることもできちまったんだ」

 マツカワの背中を見ながらオイカワは彼の言った内容を脳内で反復し、整理する。筋は通っている。その説明ならば、自分達が先程樵に見てもらえなかったのも、肉体のない霊体であるせいだと納得できる。

 しかし、本当にそんなことがあり得たのだろうか?

「本当にそんなことがあったんだ。そういうことができちまったんだよ、アイツは」

「アイツ? 誰?」

 オイカワが訊ねる。マツカワは振り返らず、簡潔に答えた。

「魔王」

「マオー?」

 目を瞬かせて、オイカワは反駁した。そのような単語を現実に聞いたのは、初めてかもしれない。自分たちの世界――彼が現実の世界だと思っていた、マツカワ曰く「夢の世界」――では、第五次人魔大戦以来、その存在は確認されていない。

 魔王と言うものは、一般的には魔族の実力者を指す。だが、特に人間がその呼称を用いて特定の魔族を呼ぶ時は、人間に何らかの危害を与えている者としての意味合いが込められていることが多い。

「俺たち――俺と、お前らとハナマキは一年前、この世界に突然現れた『魔王』と呼ばれる存在を倒しに、その居城に乗り込んだ」

 オイカワとイワイズミは、無言でマツカワの背を凝視する。既にこの話を知っているのだろうハナマキも、同様に僧侶の横顔を見つめていた。

「結果から言うと、俺たちは失敗した。俺たち四人は肉体と魂を分離させられ、肉体をこの現実世界に残したまま、魂を夢の世界へ――お前らのいた世界へと飛ばされてしまった。

 お前らの魂はお前ら自身の見ていた夢に定着させられ、現実でのことを忘れちまった。お前らが、俺のこともこの世界のことも、現実で起こったことも覚えていないのは、魔王のせいなんだ」

 マツカワはまるで己を指し示すように、己の肩にもたせかけた杖をその位置のまま軽く跳ねさせた。

「俺は、運よくさっさと魂がこっちに落ちてきて、さっさと肉体と再会できたから、さっきみたいに人とも会話できる。だがお前らと、このハナマキの身体はまだ見つかっていない」

「ちょっと待って」

 マツカワの声が森に消えていくと、今度はオイカワの声が響く。

「じゃあ俺たちが見えないのって、本来の体がないからってことでいいんだよね?」

「さすがオイカワ、呑み込みが早いな」

 マツカワが僅かに彼へと顔を向けて、首肯した。

「その通り。お前らがさっき幽霊扱いされたのは、お前らが実体のない霊体だからだ」

「じゃあ、その本来の俺たちが住んでた世界が、今俺たちが住んでいたと思い込んでいる世界のオリジナルなんだとすると」

 オイカワは何気ない好奇心から尋ねた。

「この世界にもアオバ城砦と衛兵部隊があるんだね?」

 するおこれまでマツカワか前方を眺めてばかりだったハナマキが、ちらりと横目でオイカワを窺った。その無表情を保ちつつ様子を伺うような眼差しは、明らかに単なる好奇心からくるものではない。こちらがそう尋ねるのを予期し、案じていたかのような。

 胸騒ぎがする。

「一つ、追加で言っておこうか」

 マツカワはこちらを見ないままに言う。

「お前らのいた世界はこの世界の生物が見た夢――こうあってほしいという願望が反映されたものだって言ったよな?」

 オイカワの問いに、直接答えるものではない。これまでの説明の延長にも聞こえる。

 しかし、だとしても何故すぐに「あるよ」と答えてくれないのだろう。

「お前らが『住んでいたと思っている』世界は、無意識でも意識的にでも思ってること、希望、願い、そういったものが寄り集まって形になった、夢まぼろしの霊的世界だ。本来ならばどれもヒトの心の中にあるはずのもので、一つの次元として、世界として形になるようなもんじゃなかった」

「それが、どうして形になったの」

 訊ねながら、オイカワはその答えに察しがついていた。

「魔王が、夢の世界を具現化したんだ」

 マツカワは、その通りの言葉を口にした。

「魔王は自分の思い描く世界を実現しようとして、俺たち現実を生きる者の魂に深く根付いた欲求、夢を、世界の形に創り上げた。その結果、人々の見る夢はそれまで以上に明確で魅力的になり、惹かれた現実の人間たちは焦がれ、眠ることによって夢の世界へ逃避し、目覚めることのない病にかかるようになった」

 それがあんまりにも広まりすぎたから、俺たちは魔王を倒すことになった。

 淡々としたマツカワの声が、森の静寂とたゆたう霧に溶けていく。

 何かただならぬことが起こった時というのは、意外と静かになるものである。この森にしても、その有事を知る者の語り口にしても。

「アオバ城砦に、何があったの」

 無意識に、問いかける声が低くなる。

 ――ざわざわと、心が騒ぐ。

「そうだな。色んなことがあって、どこから話し始めればいいのか……分からないけど、百聞は一見に如かずって言うしなあ」

 一拍置いて、マツカワは視線を後方へと流した。オイカワをしても、表情の読み取れない瞳。

「驚くだろうが、聞いてくれ。この樹海はかつて美しき森の都の要、天然要塞と呼ばれていた、アオバの森のなれの果てだ」

 気付けば、オイカワの足は止まっていた。

 タチの悪い夢だ。この墓所めいて薄暗くじっとりした樹海が、どうして表情豊かなアオバの森とイコールになるのだろう。夢にしても、ぶっ飛びすぎていやしないか。

 これは夢だ。次の瞬間には、きっといい加減見飽きるほどに寝食を繰り返してきた、城砦の衛兵寝所の天井が眼前に現れるはず。寝返りを打てば柔らかい枕が頭を包みながら形を変えて、それほど広くはないけど十分使いやすい部屋の、その壁沿いに剣術指南書や魔導書、兵法書などがぎっしり詰められた本棚が見えて、その背表紙や木肌の色合いから弱くなっていく月光と朝靄の輝きに満たされた時間を感じて、ああ朝が来たと思いながら体を起こして、今日はイワちゃんと俺とどっちが先に起きられたかな、なんて考えつつ、身支度を整えて朝練をしにいく、そんないつもの日を始めるはずなんだ。

 だからこんな幻、早く覚めてしまえ。

「嘘だろ」

 しかしまだ眼前の光景は去らず、それどころか隣で幼馴染が呟いている。彼もまた、その場で愕然として立ち止まっていた。

「俺たちの知ってる森は、もっと明るかった」

「そう、そうだよ」

 幼馴染の言葉を受けて、オイカワも声を上げる。

「アオバの森には生き物がたくさんいて、いつも活き活きしてるんだ。たまに魔物が出て困ったりするけど、動物も植物もみんな元気で、小さい頃は遊びに入って行っちゃってよく怒られたりして」

 嘘だ。夢の大地が現実で、自分たちの現実が夢の世界であるはずがない。

 だって、自分はこんなにもよく幼い頃の記憶を覚えている。街のどこに何があるかだって、ソラで言える。

「街も、すごく綺麗なんだ。森の中心の少し高いところにあって、石造りの白壁と淡い緑の瓦屋根で建物が統一されててさ、それを手入れする専門の職人もいるの。ミャギ中でも一番美しいって言われてて、だから俺たち衛兵部隊の制服も同じ色で、この制服に初めて袖を通した時は嬉しくて」

 懸命に訴えるオイカワを、同様に歩を止めたハナマキとマツカワが見つめている。ハナマキは依然として表情を崩さないが、マツカワは僅かに顔を歪めていた。

 何で、何でアンタがそんなに苦しそうな顔をするんだ。苦しいのは俺とイワちゃんのはずなのに。

 俺の見ている夢の登場人物ならそれらしく、俺が目覚めやすいように冷酷な顔でもしてみせてよ。

「そうか。お前らの世界のアオバ城砦は、そういう景色になってるんだな」

 マツカワは視線を落とし、大きな溜め息を吐いた。しかし次に眼差しを上げた時には、もと通り感情の読みづらい面構えに戻ってしまっていた。

「それは、残念ながらこっちではだいぶ昔の話だ。お前らの世界とこの世界では、歴史もちょっと違うんだろうな」

「マツカワ」

 ハナマキが、そっと囁いた。

「もうすぐ日が暮れる」

「ああ、悪ぃな」

 マツカワは目元を和らげて、彼に頷いて見せた。それから踵を返しつつ、オイカワとイワイズミに告げる。

「俺からは、『嘘じゃない、信じてくれ』としか言えない。でもこんな話、すぐ信じられるヤツの方がどうかしてるとも思う。だからこの世界のことは、とりあえずよく似た平行世界として捉えてくれていいから――この世界の、アオバ城砦の様子だけでも見ていってくれないかな」

 オイカワの握りしめた拳が、ぴくりと跳ねた。この世界の、アオバ城砦。「アオバの森は城砦の命」とは、幼い頃からよく言い聞かせられていた。ならば、この木の墓場のようになってしまった森に囲まれた故郷は、どうなってしまったのだろう。

 逡巡する彼を説得しようとしているのか否か、マツカワは重ねて提案する。

「今日はもう日が沈んじゃうから行けないけど、明日になったらお前らを、お前らの身体がなくとも、姿が他人から見えるようにすることができる場所に連れて行く。だから今夜は、アオバに泊まっていってくれ」

「分かった」

 即座に答えたのは、イワイズミだった。イワちゃんとオイカワが呼びかけると、強い眼差しが返って来る。

「何にしても、今の俺たちは八方ふさがりだ。行くあてもねえし、この世界にアオバ城砦があるっていうなら俺は見てみてえ。たとえ、どんな状態だろうとな」

「……イワイズミは相変わらず男前だな」

 マツカワは微笑んで、歩を速めた。その後にハナマキとイワイズミが続き、やや躊躇ってからオイカワがついていく。

 イワイズミの言う通りだと思う。この世界と自分たちのいた世界とが本当に今言われたような関係性にあるのかどうかは別として、自分たちは行き場のない、次元レベルの迷子なのだ。危害を加えることなしに助けてくれる人間がいるなら、縋った方が良い。

 しかし、オイカワは「この世界のアオバ」を見るのが恐ろしかった。マツカワの口ぶりから察するに、もうここのアオバ城砦は美しき森の都ではなくなってしまったことは確実だろう。

 どうか、この先にあるのが「アオバ城砦」と同名の、まったく似ても似つかない別の都市でありますように。そして、この悪い夢が覚めてくれますように。

 オイカワは内心で祈る。いくら平行世界とは言えど、荒れ果てた故郷を見てしまったら、オイカワには平静を保っていられる自信がなかった。

「もう着くから、覚悟しといて」

 マツカワが言う。その言葉通り、時間の概念が失せた樹海の前方、木々の隙間から、橙色の光が漏れていた。オイカワの心臓が早鐘を打つ。

 美しくなくてもいい。多少建物が荒れていてもいいから、せめて人々が少しでも楽しく暮らしていてくれれば。

 そんなオイカワの祈りは、橙色の光に照らされた光景を見た途端、砕かれた。

 

 

 

 

 

 イワイズミは、街の中でも中心に近い所に位置するマツカワ宅の二階から、夜景を眺めていた。

 硝子窓の向こうは、とっぷりと闇に浸かっている。空には三日月と満天の星。それに対して、地上の明かりはたったの二カ所。片方は防衛軍本拠地の、もう片方は病院のものである。

 この世界のアオバ城砦は、自分たちの世界同様十万もの人々が住む、元々は賑わいのある都市だったと聞いた。

 だがまさかその九割以上が、眠りについたまま目覚めないとは。

 日が暮れる寸前、早足で通り過ぎながら目にした街の様子は、悲惨という言葉以外が出て来ないほどに、惨憺たる有様だった。自分たちの世界では整然と並んでいたはずの街路樹は葉を全て落とした丸裸の枝をぐねぐねとねじらせ、蔦を絡ませている。蔦は街路樹だけでなく街中を這っており、黒ずんだ白壁と淡緑の屋根まで余すことなく覆っていた。

 そして何より気味が悪かったのは、動く人の影が一つも見られなかったことである。マツカワの語るところによれば、アオバ城砦では一年前から眠り病が流行り始め、今では住民の九割以上が己の寝台に横たわったまま、微動だにせず眠り続けているのだそうだ。

 ――この世界では、戦争は終わったようでいて終わらなかったんだ。

 人々が眠り病にハマりこんでしまった理由としてマツカワが挙げたのは、この世界の現状だった。

 聞けば、こちらでの第五次人魔大戦は形式上では終わったものの、実際には終わらなかったらしい。人と魔族は小競り合いを続け、やがて戦の火花は元々は味方だったはずの人間同士、魔物同士にまで飛び散り、収束するどころかじわじわと拡大する一方なのだと言う。だから人間や、さらには魔族さえ、魔王の創りあげた夢の世界へと、誘われるままに眠ってしまうのだとか。

 軽い足音が聞こえた。振り返ると、ちょうど階段をハナマキが上って来たところだった。首にタオルをかけていて、髪がしっとりと湿っている。風呂上りらしい。

「よぉ、オイカワは?」

「寝てる」

 イワイズミは右手側の、少し離れた位置にあるドアを一瞥する。

 オイカワはこの家に上がり食事と入浴を済ませて早々、用意された部屋に籠って眠ってしまった。同室のイワイズミが傍に寄ってじっと様子を見ていてもまったく目を覚まさないほどの熟睡ぶりだった。

 もういい時間なのでイワイズミも寝てしまうべきなのだが、どうも目が冴えて眠れそうにない。だから、こうして外に出ているのである。

「悪いな。俺たちの方が先に風呂もらったっていうのに、飯まで作ってもらっちまって」

「気にすんなよ。相当気ィ張って、疲れてただろ」

 ハナマキは大したことなさそうに片手を振って見せる。まだ彼とは出会って数時間しか経っていないが、それでもイワイズミはこの男がよく気の回るタイプであることを感じ取っていた。冷めたような表情でいることが多く、話す口調や態度こそ軽いが、アオバ城砦の街並みを見て回っている時はちょくちょく己を含めた三人の様子を窺っていた。マツカワの説明に耳を傾ける自分達が周囲への注意を散漫にしていた時も、殿について周囲を警戒していたようだったし。オイカワほど喋らないが、彼と同じように冷静な見極めができる人間だと思われる。

「お前は大丈夫なの?」

「俺? 少しは疲れてるけど、そこまでじゃねえよ」

「そうじゃなくて」

 ハナマキは首を横に振り、距離を詰め人差し指でイワイズミの肩を突いた。甘さの中にほのかな痺れを含んだ香りが、湯上りの肌から立ちのぼる。

「俺たちのこと、注意しなくていいの? そんな薄着でナイフも持たずにボーっとしてたら、後ろからぶっすり刺されるかもよ?」

 薄い唇の端を吊り上げて言う彼に、あーそういうことかとイワイズミは頷く。て言うか自分でそんなことを聞くあたり、コイツちょっとひねくれてるな、とも思う。

「別に、しなくていいだろ」

 イワイズミは答えながら、ポケットに手を突っ込む。右手が何かに当たった。掴んで取り出してみると、胡桃である。そう言えば夜食用にと思っていただいたのだったか。

「もしそうなったら、俺の人を見る目と腕っぷしが足りなかったってことだから仕方ねえ。でも」

 胡桃を親指と人差し指で挟んで、ぐっと力を込める。

 分厚い殻が、乾いた音を立てて即座に弾け飛んだ。

「もちろん、タダでやられるつもりはねえけど」

 にっと口角を上げ無事な実を口に放り込んで見せれば、ハナマキの唇は笑みを保ったままひくついていた。

「イワイズミって、本当に人間かよ……?」

「あ? おめーもゴリラだって言いてえのか?」

 つい眉根を寄せてしまう。ハナマキはへらりと笑った。

「腕力については、そうっちゃそう」

「ああ!?」

「でもそれより、メンタルが特にな。胆据わりすぎだろっつーこと」

 イワイズミは鼻を鳴らして、床に散らばった殻を回収し始めた。綺麗に真ん中から割れている。力の込め具合がちょうど良かったということだ。

「そうでもねーよ。なるようにやるしかねえっていう、それだけだ」

「それがすげえんだよ」

 ハナマキは呆れたように言ってから、ふと、もとからそれほど響かないよう落としていた声量を更に潜めた。

「こう言ったらアレだけど、オイカワは本当に意外と繊細なんだな。マツカワからは『すごく性悪で図太いけど滅茶苦茶強くて、その分突き詰めちゃうところがあるから、ドツボにハマるとヤバい』って聞いてて」

「それは、間違ってねえな」

 殻を回収したイワイズミは立ち上がり、苦笑する。

 自分はそもそもマツカワの言うことを疑うつもりなどさしてなかったが、今初めて、本当に彼は以前自分達と知り合いだったのかもしれないなと思った。

「アイツ、いっつもヘラヘラフワフワしてんだけど、意外と感情が強い上に執念深くてな。好き嫌いが激しくて好きなモンにはとことんのめり込むけど、嫌いなモンは問答無用で突っぱねる」

「あー分かるかも。確かにそんな感じする」

 ハナマキは頷いた。

「だから強い分、無茶もしがちでよ。剣の修業にしても魔法の稽古にしても、のめり込むとオーバーワークになりがちで。昔はそれで、よく怒ったっけ」

 それだから、生まれ育ったアオバ城砦の荒廃した景色に衝撃を受けつつも、目を逸らすことができなかったのだろう。ハナマキとマツカワが何度大丈夫か尋ねてもダイジョブだとしか返さなかった辺りは相変わらずだが、さっさと休んだところを見ると、まだマシになった方だと思わされる。

 回顧するイワイズミの目元が、懐かしさに細まる。それを眺めていたハナマキが、感心したように呟いた。

「お前ら本当に、仲良しでアオバ城砦が好きだったんだな」

「ん? 何だよ急に。あの野郎と仲がいいかは置いといて、アオバはまあ、故郷だしそんなモンだろ。本当の故郷かどうかは、分かったもんじゃねえらしいけど」

「故郷だったらしいぞ。こっちでも」

 イワイズミは思わず、彼方に向いていた視線を戻す。ハナマキは真面目な顔をしていた。

「マツカワとか、衛兵部隊の奴に聞いたよ。お前らはこの街で生まれ育って二人で高め合って来て、そのまま二人そろって衛兵部隊のツートップにまでなっちまった、いわゆる阿吽の呼吸のコンビだったって」

「そうなのか?」

「うん。本当かどうかは俺も知らねえけど、こんなことでアイツらが嘘吐く必要もないだろ。あと、お前らの様子見てても、何も知らねえ俺だって本当だろうなって思うし」

 目を瞬かせていると、ハナマキは肩を竦めて首を横に振った。

「だってお前らの小っちぇ頃の思い出、やけにリアルじゃん。お前らの話してたコトと衛兵部の奴らが話してたコト、ぴったり重なるところもあるし。アオバ城砦の記憶にしても同じでさ。現実だけじゃなくて夢でも、アオバ城砦で育ちたかった、しかもお互い一緒にっていうのが、丸わかりだろ」

「そうか?」

 イワイズミは顔を顰めて唸る。アオバ城砦への愛着はあるが、オイカワと一緒に育ちたいと希望したことがあっただろうか? 一緒にあれこれするのが当たり前で、そんなことなど考えたこともなかった。

「俺たちみたいな夢の世界の人間って、そういう風にできてるものなんだってよ。現実の自分がなりたかった姿、それがこの姿なんだと」

 つっても、現実の記憶がねえ俺らにはよく分からねえ話なんだけどな。ハナマキはそう言って笑った。

 そういえば、この男も魂だけなのだったか。それについて詳しく尋ねようとした時、ココア色の頭はくるりと背を向けた。

「じゃあ、お前も早く寝ろよ。明日は多分やべーからな」

「やべえ? 何がだ?」

 イワイズミはつい、話題につられる。ハナマキは振り向いて、びしりとイワイズミを指さした。

「おめーらとマツカワとそれから一応俺の、カワイイ後輩からの忠告だ。『マツカワさんのことだからきっと言わないだろうと思うんで、伝えといてください。明日行くところは長いこと誰も出入りしてないから、きっと魔物がヤバいことになってますよ。気をつけて下さいね』、だと」

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝。オイカワとイワイズミは朝食と支度を済ませて早々、言われた通り連れ出された。

 昇りたての太陽のおかげなのか。空気は洗いたてのように清く、青天井を泳ぐ雲は悠々として心地よさそうである。だが蔦に覆われたアオバの街並みは、明るい陽射しのもとにその悲愴な姿を暴かれ、より濃く暗い影を地へと落としていた。

 まるで、廃墟みたいだ。荒れた街並みに挟まれる長くゆるやかな坂道をのぼりながら、オイカワは考えた。昨日は予期せぬ出来事の連続で消耗してしまったが、一晩寝てもまだもとの世界へ帰れていなければ、いい加減腹も括れてくるというものだ。荒廃した故郷の姿に胸が痛まないかと聞かれれば、嘘になるけれど。

「街と森がこうなっちまったのは、そもそもは戦争が長引いたせいだったんだ」

 マツカワは依然として先頭を歩きながら、淡々とこの世界の現状を語る。考えていることの分かりづらい男ではあるが、この話をすることに積極的ではないらしいことくらいは、昨日日没よりやや早いにも関わらず話を切り上げたことから察せられる。

 それでもオイカワが回復すれば、こうしてまた説明を始めるのだ。彼にとって、この世界におけるオイカワとイワイズミとはどんな存在だったのだろう。

「ウチはよそから攻め入られた時、伝統的に森とか地形を利用して追い返すだろ? 特にアオバの森はその作戦の中心で、どうしても戦地になってたわけだ。それを森自体も感じ取ってたのか、だんだん自分を守ろうとするかのように、深く暗くなっていった」

 ああ、その伝統は自分の世界とも同じだ。攻め入ってきたものは――主に知能の低い魔物ばかりだったけれど――森で惑わして野に帰すのだ。オイカワも幻術魔法くらいは使えるからよくやったし、占星術師であるクニミの時空魔術も活躍していた。

「街も、最近じゃあ手が回らなくてな。防衛軍と衛兵部隊以外に一般市民も戦闘に参加するようになったから、修理や手入れができなかった。当然、物資も足りなかったし」

「衛兵部隊も?」

 オイカワは思わず声を上げた。

「そう。ここ十年くらいのヤマトでは、それが普通になってる。人も魔族も関係ない、戦国時代だからな。アオバ城砦の衛兵部隊は特にメンバー集めに力を入れていたから、当然有力な戦力として見なされていた。アオバ衛兵部隊は昔から実力派として捉えられていたけど、特に近頃は歴代でも最高レベルの強豪として知られてたよ――うん、そうなったきっかけは、お前らが入隊したことだった」

 そう語るマツカワの眼差しは、間違いなくオイカワとイワイズミを捉えていた。二人は互いを窺う。夢の世界でもそれなりに知られてはいたが、この世界でのそのような記憶はまったくない。

「お前らは覚えてないだろうが、俺たちは衛兵部隊の同期だったんだ。上の先輩たちが防衛軍入りして、オイカワが隊長、イワイズミが副隊長になってから、数えきれないほど一緒に戦場に出てきた」

 マツカワの言葉に、ハナマキがそうなんだってさと軽く合わせる。

「二人とも、アオバの衛兵部隊に?」

「ああ。そっちの世界には、俺たちはいなかっただろうけどな」

 あとは他に、とマツカワが指を折って衛兵部隊の同期メンバーだったという名前を挙げていく。ユダ、シド、サワウチ。どれも、自分たちの世界でも衛兵部隊の仲間として親しんでいた名前だった。

「ま、俺らはこっちの世界にいたから、そっちの世界にいなくて当然だわ。な?」

「な」

 マツカワが振って、ハナマキが頷く。オイカワは昨日から疑問に思っていたことを思い出した。

「あの、マツ――」

 カワ、と呼ぼうとしたが、呼びづらさにどもってしまった。いつも通り、何かあだなをつけよう。マツカワちゃんは言いづらい。マツカワくん。マツくん。

「まっつんは、いつからこの世界にいたの?」

 するりと口に合うあだなを採用したところ、マツカワは仰天してオイカワを見下ろした。ポーカーフェイスの彼がこれまでになく驚いたので、オイカワも目を瞠ってしまう。

「え、嫌だった?」

「いや、そういうわけじゃない」

 それで呼んでくれとマツカワは言い、やや考え込む仕草を見せてから問いに答えた。

「十一ヶ月くらいかな。俺の夢はあんまりしっかりしてなかったんだか、もう叶ったかしてたみたいで、現実での魔王戦前後の記憶がない以外は、今と大して変わらなかったんだよな。そしたら現実世界にある肉体に呼ばれて、呼ばれるままに大穴に落ちて、気付いたら合体しててこの通りだ」

「へえ、魂がない肉体って動けるのか?」

 イワイズミが訊ねる。そう言えば、自分たち四人は魔王によって肉体と魂を分けられたという話だったか。

「いや、動けねえ。俺の身体も石みたいになってたんだそうだ。ただその石化した俺の身体がアオバ城砦の森の中に倒れてたんで、衛兵部隊の奴らが回収して、精神を通じて魂の方を呼び寄せてくれたらしい」

「精神は肉体と魂を繋ぐ糸みたいなもんだからね。曖昧で形が変わりやすい魂だと肉体の呼び寄せはできないから、肉体の方が先に見つかったのは運が良かったな」

 ハナマキが言う。盗賊のような見た目をしているが、意外にも魔法に詳しいようだ。

 オイカワが見つめていることに気づいた彼は、何を思ったか己を親指で指した。

「俺のことは、マッキーでいいらしいよ?」

「あ、うん」

 自分のあだななのに、まるで他人から伝え聞いたような言い方をする。

 少々戸惑いながらも「マッキーはいつからこの世界にいたの」と尋ねると、彼はへらっと笑った。

「それが、分からねえんだ」

「へ?」

「気付いたらこの世界にいた。自分が何でこの世界にいたのかも、何をしてたのかもまったく思い出せねえ。誰とも話できねえからあっちへふらふら、こっちへふらふらってして、やっとマツカワに拾ってもらえたのが半年前。それまで自分の名前と、身についた技しか思い出せなかった」

 あっさり言うハナマキに、オイカワはどう言葉をかけたらいいものか分からなくなる。

 自分やイワイズミの場合、己が夢幻の身であることを知らされて、これまで自分たちのれっきとした人生だと思っていたものが幻だったという事実を受け入れがたいという葛藤を覚えた。だが、ハナマキのこれもなかなかにキツいだろう。自分のことをまったく思い出せない上に他人と交流することすらできない状態で、長いことたった一人だったというのは、孤独に過ぎる。

「だからよー、ここに来てからマツカワとか俺のことが見える元後輩の奴らに話聞きまくって思い出そうとしたんだけど、全っ然ダメ。その代わりお前らの知識ばっかり増えちまって」

 しかし当のハナマキは飄々として、何食わぬ顔で腕を組んでいる。イワイズミが怪訝な表情をした。

「俺らの知識って何だよ」

「戦いの前はオイカワが手足をぷらぷらしだすとか」

「あ、それ本当に俺やってる」

「イワイズミが腕相撲強すぎて誰も勝てないだとか」

「確かに俺も負けたことねーわ」

「オイカワの座右の銘が『叩くなら折れるまで』で、その方針を貫いて、攻めてきた敵はほとんどメンタルブレイクだけで返り討ちにしただとか」

「こっちの俺もソレなんだ……」

「急に重くなったな」

「おかげで意思疎通のできない魔物は一年でトーキョータワーの高さより殺したけど、そうでない魔族や人間は一人として殺さなかったとか」

「それ、褒められたコトじゃないと思うけど」

「いーや、そんなことはねえよ」

 素直に喜べないオイカワに、マツカワが励ますように言い聞かせる。

「平和なお前らの世界の感覚じゃ分からねえだろうけどな。この世界で敵の命を奪わずに戦意喪失させられるのは、本当に実力がないとできないことなんだぞ。お前のえげつない戦法のおかげで、敵を必要以上に殺すことがなったし、おまけに無駄な戦をふっかけられる回数もぐんと減った。少なくとも、味方からは十分感謝されてたよ。マジでえげつなかったけどな」

「『えげつない』二回言う必要あった? 全然嬉しくないんだけど」

 トーキョータワーの高さとか、見たことないけど高すぎじゃん。

 しょんぼりと頭を垂れるオイカワ。夢の世界でも精神攻撃を重視する傾向はあって、よくえげつないとは言われていたが、あくまでそれは命を削り合わない試合でのこと。現実に実戦でそう称されていたと聞くと、複雑な気持ちになる。

オイカワの肩を、俺も共犯だから忘れるなとイワイズミが叩く。その温もりがやけに優しくて、涙が出そうになった。

「あ。マツカワぁ、もう待ってるよ」

 ハナマキが前方を指さす。見れば、緩く長かった坂道の終わりに、立派な屋敷がそびえ立っていた。あれは、オイカワにも見覚えがある。

「アオバ城砦市役所?」

「って、おい。アイツ」

 イワイズミが、ハナマキの指した人影を見て目を丸くする。役所の前に佇むローブが一つ。同様にその影を認めたオイカワも、大仰に口を開けた。

「くっ、クニミちゃん!?」

「クニミ?」

 突然名を呼ばれたことに驚いたのだろうか。ローブの人物も彼ら二人を見て瞠目したようだったが、すぐに仏頂面に戻って呟いた。

「……オイカワさん、イワイズミさん」

 ご無沙汰です、とクニミが会釈する。夜空色に染まったローブをまとったその人物は、オイカワとイワイズミが大穴に落ちる寸前まで一緒にいた後輩、クニミに間違いなかった。額の真ん中で分けられた癖のない黒髪、眠そうな瞳も覇気のない佇まいもそのままだ。いや、でもちょっといつもより疲れているみたいだと、彼の平時以上に光を映さない双眸を確認して、オイカワは思った。

「残念ながら俺は、今のお二人が知ってる俺とは別人――というか俺の方が本体なんですけど。それはもう聞きました?」

「うん。クニミちゃんもいるとは知らなかったけど、うん」

 やはり、自分が大穴に落ちる寸前まで共に行動していた後輩とは別人らしい。確かに、この現実の世界のクニミは、夢のクニミよりどこか張りつめているように感じられた。

 これが現実のクニミちゃんか。オイカワは彼をさらに観察しようとして、気付く。

「クニミちゃん、俺たちのこと見えてるの?」

「はい」

 クニミは頷いた。大ぶりな瞳が、ハナマキとマツカワにも視線を移す。本当に見えているらしい。

「霊体の人って基本的に目視できないんですけど、同じように魂だけの人や魂だけだったことがある人以外にも、見られるヤツがいるんですよ。マツカワさんたちから聞いてませんか?」

「いや、全然」

 眠そうな双眸が、じとりとマツカワとハナマキをねめつける。二人は、そろって悪戯好きの子供めいた笑みを浮かべた。マツカワがいけしゃあしゃあと言う。

「こいつらが相手なら、クニミもちょっと話すだろうと思って」

「ってことは、洞窟に魔物が出るだろうことも話してませんね?」

「俺はゆうべ伝えといたぞ。イワイズミにはな」

「えっそうなのイワちゃん! イワちゃん!?」

「うるせえ」

 イワイズミはぴしゃりとはねつけた。そっけなくされて、オイカワはあからさまに落ち込む。

 クニミは溜め息を吐いた。

「そんな気がしてたから、別にいいですけど。じゃあ、ちょっと洞窟に行くまでの時間でお話ししておきます」

 夜空のローブが翻る。観音開きのドアを開けるその背に、オイカワたちはついていく。

 役所の中は、外と同様に深閑としていた。広いエントランスフロアには、自分たち以外には床に敷かれた深緑の絨毯と大階段、天井につるされたシャンデリア以外、何もいない。

「あなたたちを見ることができるのは、精霊界が見える者です」

 クニミの声が、生クリーム色をした漆喰の壁に虚ろに反響する。

 精霊界というのは、この目に見える世界に重なって存在する不可視の世界、つまり、万物を司る八百万の精霊たちが住まう霊的世界のことだ。人や地域によっては、妖精界、魔界などと呼ぶこともある。

 彼らの世界と自分たちの世界とは密接に結びついており、特に魔法職の者は、彼らの恩恵なしには術を使うことさえままならない。

「具体的に言うならば、もともとはあちらの住人だった魔族、それから精霊界を視る目を持つ、俺みたいな占星術師ですね。だから俺は、オイカワさんもイワイズミさんもハナマキさんも見えます」

「あ、やっぱりこっちのクニミちゃんも、占星術師なんだね」

 オイカワがそう言うと、後輩は不思議そうな顔をした。

「こっちのって、まさか夢の世界の俺って占星術師なんですか?」

「うん。今のクニミちゃんとほとんど変わらないよ?」

「うわ。俺の夢のくせに、夢ねえな」

 クニミは眉根を寄せて、毒づいた。その忌々しそうな様子に、オイカワはきょとんとする。一方、ハナマキはニヤニヤとして彼の肩に手を置いた。

「お前らしいんじゃねえの?」

「全然らしくないですよ。俺、白魔導士とか、そういうのになりたいと思ってたのに」

「クニミちゃんが占星術師やってくれてるおかげで、俺たちすごく助かってたよ?」

 こちらの世界の占星術師事情は、あちらの世界と少し違うのだろうか。

 オイカワが後輩の顔を覗き込むと、彼はつと目を見開いた。それからすぐに苦虫を噛み潰したように顔を歪めて伏せ、至近距離でも聞き取れないほどの小声で呟く。

「そんなこと言ってくれちゃうから、きっと俺は――」

「ん、なに?」

「……何でもないです」

 訊ねるも、クニミはむっすりとして階段の裏に回り込んだ。そのちょうど正面の玄関からは死角となった壁に、先程のものより一回り小さい扉がついていた。

「もう二人、ちょっと会っていきましょうか」

 扉を開く。再び屋外の眩しい光に晒されて、オイカワは目を細める。

 繋がった場所は、中庭だった。四角く広い空間を、役所の白壁が高く囲んでいる。その景色に注目する前に、オイカワは己を見つめる二対の眼に気づき、おおと声を上げた。

「キンダイチ?」

「狂犬ちゃん!」

 それは隣に並んだイワイズミも同じだった。イワイズミが左手側に立っていた二個下の後輩を、オイカワが反対側に立つ一つ下の後輩を呼ぶ。

 キンダイチは夢の世界と同じ騎士の出で立ちである。対して、狂犬ことキョウタニが纏うのは武装も何もない丈夫な布の服のみで、彼の人相と姿勢の悪さも相まって山賊のようだった。

「あっ、マツカワさん! おはようございます!」

「おう、お疲れさん」

 しかしキンダイチに見えたのは、オイカワイワイズミコンビの後ろに続くマツカワだけだったらしい。マツカワが大きな手でその逆立った髪を撫でると、彼はくしゃりと破顔した。忠犬、という単語がオイカワの脳内に浮かんだ。

 一方のキョウタニは、穴が空くほどにオイカワを凝視している。オイカワが彼の目の前で反復横跳びをしてみせると、その動きに合わせて彼の瞳孔が左右した。

「おおっ? 狂犬ちゃん俺たちのこと見えてる? 見えちゃってる?」

「マジか。意外だな、こっちのキョウタニは魔法職なのか?」

 夢の世界の彼は、暗黒騎士だったように記憶しているが。

 ツートップコンビを前にしても、キョウタニは顎を引いて二人を睨み付けている。こういうところは、夢の世界のキョウタニと変わらない。彼は衛兵部隊と名乗ると驚かれるほどに破落戸のような物腰が身についていた。

「言ったじゃないですか。魔族はオイカワさんたちみたいな魂だけの人も見えるんですよ」

「え、魔族?」

 クニミの言葉に、改めてオイカワは彼をじっくりと観察する。見たところ、至って普通の目つきが悪い人間にしか見えない。

 あちらの世界では人間と魔族の住み分けがきっちりされていたから、魔族を見たことはほとんどない。しかし、オイカワにもある程度の知識はある。そしてこのような、幻術も使わない状態で人間と外見がほとんど変わらない魔族を、オイカワは二種だけ知っている。いやでも、まさか。

「狂犬ちゃん、人狼なの?」

「……ッスけど」

「おおっ、えっ、ちょっと狂犬ちゃん口開いて! あーんして? うわっ本当だ犬歯カッコいい! カッコいい~!」

「やめろボケカワ。キョウタニが借りてきた犬みたいになってるじゃねえか」

「間違ってるけど間違ってねえな」

 オイカワはキョウタニの両頬を引っ張り、人間よりやや鋭い歯並びを認め興奮して叫ぶ。キョウタニは至極迷惑そうだったが、意外にも突っぱねることはしない。その様子を逆に不憫に思ったイワイズミが、オイカワを後輩から引きはがす。ハナマキはおかしそうに眺めながら、イワイズミに訊ねる。

「お前らの世界でも、魔族って怖がられてるんじゃねえの?」

「あ? そうっちゃそうだけど、俺らは別に。な?」

「うん。お互い住み分けしっかりしてるから、最近じゃあ怖がる人も意外と少ないよ。それにアオバは森の都だから魔族との付き合いも慣れたもんで、軋轢もあんまりなかったし」

 オイカワの答える声が、つい明るくなってしまう。無理もない。あちらの世界のキョウタニはまだ衛兵部隊に復帰したばかりで、オイカワを見ると警戒姿勢ばかり取るから、うかつに近寄れなかったのだ。

 それが、こんなにスキンシップを取っても怒らないなんて! ここまでの関係を築き上げられたこの世界の自分を、賞賛してやりたい。

「こっちでは、俺みたいな占星術師もキョウタニさんみたいな魔族も、嫌われてるんですよ。人間に遠い、バケモノだって」

 しかし浮かれていたオイカワの気分は、クニミの暗い声を聞いてもとに戻る。後輩の顔を見れば、自虐するような笑みを浮かべていた。

 ああ。オイカワは双眸を眇める。このカワイイ後輩の拗らせた思考は、ここでもまだ健在か。だからこそ、アオバ衛兵部隊の役に立つわけだけれど。

「でも二人とも、衛兵部隊に所属して働いてるデショ?」

 口調はそのままに、オイカワは語りかける。しかし彼の空気が変わったことを察した周囲は、沈黙した。オイカワたちが見えないために状況が分からないだろうキンダイチさえ、同期にして相棒の顔つきを見て、口を噤んでいる。

「なら関係ないよ。こっちの俺や上の人たちがどういうつもりでいたかは知らないけど、ウチに来れてこうして街の中心の警護を任されてるんだから、腕もそれなりにいいんだよね? 若い占星術師はあまりお目にかかれないし、こちら側についてくれる人狼となればさらに珍しい。そんなお前らなら、戦闘力だけじゃなくものの見方、考え方で、俺みたいなただの人間の盲点を補ってくれるだろ。俺だったら歓迎するね」

「裏切るんじゃないかとか、考えないんですか」

 クニミは挑むように問いかける。オイカワはハッと、短く嘲うように息を吐いた。

「俺が裏切りを許すような接し方、すると思う?」

 オイカワとクニミは、無言で見つめ合う。先に目を逸らしたのは、後者だった。クニミは俯き、浅く溜め息を吐いて失礼しましたと頭を下げる。

「安心しました。記憶を無くしてもぬるま湯に浸かっても、そういうところは全然変わってないんですね」

「夢見てもオイカワだからな」

「ちょっとマッキー、それどういうこと?」

「性悪だってことだろ」

 イワちゃん! またオイカワが抗議の声を上げるが、息を吐くように幼馴染を貶したイワイズミは平然としている。クニミがこちらに背を向ける。

「その様子なら、身体と離れて弱体化した魂だけでも、どうにかなりそうですね。目当ての場所まで案内します。こっちです」

「キョウタニ、キンダイチ。守り頼むな」

「ッス」

「はい!」

 オイカワとイワイズミ、ハナマキがその後に続き、最後にマツカワが後輩二人に声をかけてから歩き出す。

 中庭は外とは違い、貴族が茶の時間に眺める庭のような優雅さを保っていた。庭木も花も、誰かが手入れしているのだろうことが明らかである。

 その中心に、やや広い東屋があった。周囲を薔薇に囲まれたそこには、休憩用の椅子と机が円卓のごとく並んでいる。真ん中に水瓶を担ぐ女神を形どった小さな噴水が据えられ、慎ましやかに石造りの湖へ甕の水を注いでいた。

「夢の身体を見えるようにするためには、『夢見の泉』という、特殊な水に満たされた泉に身体を浸す必要があります。その夢見の泉がある洞窟、通称『夢見の洞窟』へ続く入口があるのが、ここです」

「ここ? まさかこの噴水じゃないよね?」

「この下に隠されています。夢見の洞窟は、そう誰でも気安く入っていい場所じゃないんですよ。この世ならざる所にありますから」

 この世ならざる所。オイカワはその一言で、やっとこの夢見の洞窟がどんなものであるかを察した。

 夢見の洞窟はただのダンジョンではない。精霊界にあるダンジョンなのだ。精霊界は魔法の国、永久の楽園。そのダンジョンとなれば、つまり人智の及ばぬ摩訶不思議に支配される、神秘と魅力と未知への恐怖に満ちた空間である。

「夢見の泉は間接的にこの地の霊気を養う、アオバの森における命の源だと言われています。だからアオバの本部には必ず占星術師を一人置いて、代々ここを封じ、守るよう務めてきたのです」

 今はアオバ中の占星術師が眠ってしまったから、僕がその代理を務めています。

クニミは小さな噴水を見つめながら語る。

「もちろん、ここを封じるのはそれだけが理由ではありません。ここにあるモノは、生身の人間には毒となりうることもあるんです。それでも……行きますか?」

 そう言って振り向いた半眼気味の瞳が、四人のうち唯一肉体を持つ男を捉えた。

「何度も言っただろ。俺も行くよ」

 マツカワは苦笑して答える。

 その高い位置にある肩に、ハナマキが片方の肘を乗せて寄りかかった。自分の方を向いた彼に、ハナマキは歯を見せて笑いかける。

「イッセーちゃんよ。こう見えて俺らはお前よりオニーチャンだってことを、お忘れじゃないですか?」

「そう言えば、そうでしたかね」

 ふざけた調子のハナマキに、マツカワがすっとぼける。

「タカヒロお兄ちゃんは、わりとやり手なんですよ。さらに残り二体はゴリラですし?」

「マッキー、異議あり」

「ここはオニーチャンたちに任せてくれたって、いいんじゃねーの?」

 ハナマキの提案を耳にしたオイカワは、口を噤む。冗談のように言っているが、マツカワを見つめる彼の目は笑っていない。この軽口が「俺たちのためにお前が危ないことをする必要はないんだから、来なくていいんだ」というちゃらけた配慮であるということは、ゴリラだってきっと見抜けるだろう。

「ごめん。でも、もう決めたから」

 しかしマツカワはやんわりと、それでいて断固として拒絶した。

「俺、一年間お前らのことを探して、待ち続けてたんだよね。身体は無事なのかとか魂はどうかとか、無事だとしてもこの世界に来てくれるかとか……考えてもしょうがねえようなことを、ガラにもなくぐだぐだ考えながら」

 その薄い笑みの下にちらつくもの、声にも滲み出る掠れたそれは、紛れもなく苦悩だった。

 ハナマキの顔から、軽薄さを装った笑みが消える。マツカワは首を横に振って、ハナマキを見下ろした。

「気は長い方だと思うけど、もう待てねえわ。不出来な弟で悪いけど、連れてって安心させてよ」

「待って、待って」

 オイカワはたまらず大声を上げた。

 こんなの、耐えられない。

「ちょっと迷い込んできただけの俺たちのために、そこまでする必要ある? 何で、そんなにまでして――」

「必要あります」

 クニミが静かながら揺るぎない眼差しを注ぎ、遮る。

「この異常事態をどうにかできるのは、先輩方しかいません。だから魔王の城まで行って、もとの身体に戻って欲しい。これは、俺たち衛兵部隊の総意です」

「まあ、それもあるけど。そっちは建前な」

 そう付け加えたマツカワが、視線を移す。ハナマキを、イワイズミを、そしてオイカワを。順に見据えて、告げる。

「帰って来てほしいんだよ、生身のお前らに。いてくれないと、コイツらの元気が出ねえから」

 オイカワは息を飲んだ。

 ――そんなに俺たちのことを思ってくれるなんて。

 ――いや、俺たち記憶もないし。人違いかもしれないよ?

 どちらを言ったらいいものか、判断がつかない。

「く、クニミちゃん。まっつん……」

「最近じゃあ、隊長代理のヤハバさんが嫌なことがある度に『オイカワさん……』って呟いて溜め息を吐く癖がついちゃって、ヤバいんですよね」

「え、ナニ。何の話?」

 急に真面目な顔をした後輩の口からそんな話が飛び出してきて、適応できなかったオイカワの口から感想がそのまま漏れ出た。しかしクニミは、平然と語り続ける。

「一日に何回もやるんです。『恋煩いか』ってワタリさんがツッコんでくれてるうちは良かったんですけど。もうワタリさん飽きちゃって」

「いやいやいや」

「おかげでストップかけられなくなったヤハバさんが、購買部特製オイカワさんハンガーを魔除け代わりに森の入り口に吊るそうかって言いだして」

「いやいやいやいや?」

「でもそれだとすごい量がいるから、折衷案で今衛兵部隊の仮本部になってるこの役所の入り口に飾ろうかって話に」

「こんなツラを飾ろうだなんて、末期だな。かわいそうに、何とかしてやらねえと」

「待ってイワちゃん。オイカワさんツッコミが追いつかない」

 いたって真摯な面持ちで会話に加わってきたイワイズミに、オイカワは救いの手を求める。イワイズミは、その強い意思を宿した瞳で幼馴染を睨んだ。

「何だよ、お前は何にそんなに混乱してるんだ?」

「なに、って。イワちゃん混乱しないの? だって俺たち、記憶あるのに記憶ないらしいんだよ? 俺たちのいた世界も、実在しないものかもしれないんだよ? この世界が何なのかだって、よく分からなくて、でも――」

「やかましい」

 イワイズミは逡巡するオイカワを、一言で切った。それから、クニミを指してオイカワに訊ねる。

「おい、クニミはお前にとって何だ?」

「え? その、後輩?」

「マツカワとハナマキは?」

「うーん。助けてくれた、ヒト?」

「で、その後輩と助けてくれた人間が、俺たちを必要だって言ってる。そうだな?」

「うん」

「なら、助けりゃいいだろうが。どうせ俺ら自身のことはよく分からねーんだからよ、助けながら考えたって別にいいべや」

 イワイズミは、すっぱりと言い切った。オイカワは幼馴染の思い切りの良さに、開いた口が塞がらない。それは、イワイズミ以外の三人も同じだった。

 何この人。合理的なのか合理的じゃないのかよく分からないけど、とにかくヤバい。何がヤバいってよく分からないけど、「確かにその通りかも」って気がしてくるからヤバい。

 彼らが一様にそんなことを考えているとはつゆ知らず、イワイズミは唖然としたままのオイカワを畳みかける。

「コイツらのこと、放っとけねーべ?」

「う、うん」

「なら決まりだ」

 クニミ頼んだ、とイワイズミが後輩を呼ぶ。我に返った後輩が、おそるおそる尋ねる。

「いいんですか?」

「いい。こーゆー時は動いた方が見通しが立つし、グズカワはほっとくといつまで経ってもグズグズしてるからな」

「俺がグズなんじゃないもん。イワちゃんが人外すぎるだけだもん」

 オイカワはどよんとその場で三角座りをする。じゃあ入り口を開けますから下がっていてください、とクニミが促す。ハナマキとマツカワ、それと三角になったオイカワを引きずるイワイズミが東屋の外に出たことを確認し、占星術師は手にした杖で石の湖に触れた。

「≪平円盤の果て、太陽の沈む処≫」

 次いで泉の左右に、懐から出した二つのよく似たオブジェを置く。

「≪象牙の門より角の門から≫」

 片方――おそらく象牙の方を倒す。

「≪幻影を真実に。恐ろしき者の眠れるうちに。夜の女神の祝福を――≫」

 精霊言語を紡ぎながら、クニミの手は淀みなくローブの内と外を往復する。オイカワたちからはよく見えないが、触媒を加えているらしい。

「≪――黒檀の寝台にケシの花≫」

 最後に赤い花弁をまく。途端、周囲に異質な空気が漂い出したことをオイカワは感じ取った。

「≪我、青き木の一葉。風と語らい星を読む者なり。夢見の神よ、微睡む汝が夢の一抹を、角の門より我が同胞に分け与えたまえ≫」

 カツン。杖が女神を突いた。

 空間が変化する。女神像が歪み、水瓶が消え、泉が広がる。やがて憩いの場に、燐光を放ち渦巻く光の扉が現れた。

「開きました」

 クニミが出来上がった狭間の扉を見て頷き、振り返る。淡い光を背にして影を帯びた彼に、先輩四人が歩み寄る。

「この時計の針が一周するまでに戻ってきてください。そうしないと、洞窟から出られなくなるどころじゃ済まなくなるんで」

 オイカワが手を伸ばし、差しだされた小さな懐中時計を受け取る。それを首にかけ、なくすことがないよう、慎重に鎧の中へとしまいこんだ。

「みんな、おっけー?」

「おう」

 制限時間つきとなれば、もたもたしていられない。

 四人は先ほどまでの迷いようが嘘のように、躊躇いなく扉に飛び込んだ。

「お気をつけて」

 クニミの低い声。視界はすぐ、光の渦に飲み込まれた。

 

 

 

 

 

 精霊界のダンジョンに入るのは初めてではない。だがそれはあくまで、自分たちの世界でのこと。夢見の洞窟は完全なる未知の世界。そう覚悟して、オイカワは踏み込んだ魔窟を見回した。

 やや青みを帯びた黒い岩肌が、彼らを囲んでいる。松明などの照明器具が取り付けられていないにも関わらずほのかに明るいため、行く手に伸びる一本道が、大分遠方で二股に分かれているところまで明瞭に見て取れる。

「ここは明るいな。松明の心配がなくていいわ」

「そうだね。いかにも魔窟って感じだよ。綺麗で神秘的で、どことなく不気味で」

 オイカワは岩壁に手を翳す。硬い岩の向こう、内側に魔力の流れを感じる。それに合わせて、壁自体も青白く発光しているようだ。凝視すれば、岩を伝う燐光が魔力の流れに合わせて細波のごとく明暗を変えている。

 水を吸い上げる植物、または血管を流れる血液のようだ。オイカワが手を離す。

「うわっ!」

 後ろで叫び声。ゴッと鈍い音。首を回すと、ハナマキが驚いた顔で足下に沈んでいく出目金じみた魔物を見下ろしていた。隣のマツカワが杖を構えた状態でいるところから察するに、彼が撃退してくれたようだ。

「さっそくのお出ましだったな」

「あーびっくりした。いきなり壁から出てくるんだもん」

「たまにこーゆーのがいるんだよ」

 ハナマキと話しながら、マツカワは杖をまた片手で持ち直す。先程の杖の構え方、このこなれた表情から察するに、肉弾戦初心者ではないなとオイカワは察する。さらに言えば、僧侶としてだけの修業を積んできた者の佇まいとも思えない。

「まっつん、打撃職の経験があるね? それも一つだけじゃない。武道家と、それから戦士か騎士あたり」

 やったことあるデショ? と尋ねれば、マツカワは吊りがちの双眸を僅かに開いた。

「確かに、騎士と武道家として修業したことならあるけど。ハナマキに聞いたのか?」

「いや。前からそうかなって思ってたんだけど、今の動き見て確信した」

 そもそも、純然たる僧侶にしては聖職者らしからぬ貫禄があると思っていたのだ。決してオイカワと同い年らしからぬ顔立ちや体格の良さのせいだけではない。無意識に身に沁みついた動作、習慣が彼をそのように見せているのだと、昨日から観察しながら考えていた。

「今は道師メインって感じかな?」

 ゆったりとした僧服は戦に不慣れな僧侶が身に着ける安物ではなく、くたびれてこそいるが、加護の魔法の織り込まれた良い品だ。気張らない様子の姿勢にしても、重心は安定している。杖を操るちょっとした手付きだって、見る者が見れば分かる熟練した武道家のそれだ。

 そうなれば、予想される彼の戦闘スタイルは一つしかない。森羅万象に学び己の肉体と精神を鍛え上げる格闘と癒術の専門家、通称「道師」である。

 オイカワの指摘に、マツカワはゆるゆると溜め息を吐いて首を横に振る。

「お前気持ち悪いな」

「ねえ、俺褒められて伸びるタイプだからもうちょっと褒めて」

「お前他人のことよく見えすぎてて気持ち悪いな」

「ありがとう」

「それでいいのかよ」

 彼らの会話を聞いていたハナマキが愉快そうにツッコミを入れる。オイカワは次に彼の方を向いた。

「マッキーは、盗賊だけど魔法使い? 魔導士でも召喚術士でもなくて、自分で精霊の力を使えるれっきとした魔法使い。違う?」

「そ。俺、何でか知らないけど魔法使えるんだよね」

 ハナマキが白い歯を見せる。

 これも、よく見て考えれば分かる話だ。昨日彼はアオバの樹海において、空が見えないにも関わらず日没を知らせてみせた。さらに会話からも、彼は魔法か魔術についての知識をある程度備えていることは明確で、更に盗賊と兼ね合いの良い魔法魔術職と言えば、魔法使いが一番である。

 オイカワも、彼同様に笑みを浮かべる。

「じゃあ、ここの進み方も探れる?」

「任せとけよ」

 ハナマキが親指を立てた。

 盗賊はダンジョン探索の専門家だ。風の精霊の加護を受けやすく感覚が鋭いために、未踏の地でもその術を用いて進むべき道を示してくれる。おまけに器用で肉弾戦も魔法戦もこなせるから、この職の者がいてくれると随分心強い。

「いいね、パーティーバランスいい感じだね! これなら前途洋々だよ!」

「いいから行くぞ、グズカワ」

 イワイズミが先へと伸びる一本道へと歩を進めながら、幼馴染を睨む。

「時間制限があるんだからな。時計、見るの忘れんじゃねーぞ」

「分かってるよ」

 オイカワは唇を尖らせ、彼の後に続こうとしてマツカワとハナマキを窺った。片手でイワイズミの方を示す。

「二人とも、先に歩いてくれる? イワちゃんが先頭で次がまっつん、マッキー、俺っていう順番がいいと思うんだ。で、まっつんは」

「シールドだろ?」

 マツカワは応じ、全員の周囲に防壁を張り巡らせる。だがその防壁は、透き通った平面を周囲に築き上げるキンダイチのものとは、少々趣が違う。萌黄色の煌めきが春風のごとく吹き抜け、一人一人を優しく包み込み消える。しかし不可視であろうとも、己の身辺を何かが守っている気配が感じられる。

 道師のみが会得できる技『精霊の加護』である。攻撃を防いでくれるのはもちろん、魔法や魔術の威力も弱めてくれる優れ技だ。

「俺当分ナビ専門でよろしくな。後ろは任せた」

「うん、オッケー」

 ハナマキは手を振って前に出る。すぐさまこめかみに人差し指を当て集中しだした彼の後ろに、オイカワがついた。

 パーティーを組むのは初めてのはずなのに、彼らとの共同戦線は妙にしっくりときた。魔物が襲い掛かってきても、まずマツカワのシールドで大抵弾かれ、そのひるんだところをイワイズミかオイカワが片づけるだけで済んだ。ハナマキの道案内も正確で淀みない。洞窟は地下五階にまで及ぶ広さだったが、時計の針が四分一を少々回ったあたりで最下層に到着できたほどに、良い効率で進めた。

 様子が変わり始めたのは、最下層を半ばまで進んだ頃である。曲がり角を折れたところで、魔物に出くわした。斬りつけようとしたイワイズミを、マツカワが制する。

「待て、何かおかしい」

「何って――」

 何だと続けようとしたイワイズミは眼前に現れた魔物を睨んで、はっと息を飲んだ。

 熊の身体に鳥類の頭がついた、異形の魔物――熊鳥と呼ばれる種が一体、佇んでいる。だが熊鳥はこれまでに何度も見かけている。イワイズミが驚いたのはその容姿ではなく、顔つきだった。

 飛び出した目玉は、完全に白目を剥いていた。顔を天井に向け、だらしなく半開きになった嘴の端から、ぽたぽたと涎を垂らしている。

「な、何だコイツ」

「全然こっちが見えてないね」

 イワイズミが気味悪そうに魔物を凝視し、オイカワが最後尾から前へと出てきて様子を窺う。

「何ていうか、アレっぽいよね。ヤバい薬キメちゃってる人」

「あー。確かにぽいわ」

 オイカワとイワイズミは、立ち尽くしたまま動かない魔物を眺めつつ会話する。その後ろから魔物を真剣な表情で見つめつつ、マツカワがハナマキに低く問いかける。

「なあハナマキさんや」

「何だいマツカワさん」

「マツカワさん、前にこの洞窟についてクニミから話を聞いた時に、最深部に行くと魔物が何ちゃらって話を聞いた気がするんですよ」

「おっ、気が合うね。ハナマキさんもですよ」

「何ちゃら部分って、どんな話でしたっけ?」

「運命だね。俺もそれをお前に聞こうと思ってた」

 パァン!

 突然鳴った張りのいい音に驚いた幼馴染コンビが振り返ると、マツカワとハナマキが真顔のままハイタッチをしていた。イワイズミが呆れて尋ねる。

「何してんだ、お前ら」

「いや、ちょっと義兄弟の契りを結んでて」

 ハナマキが答える。オイカワが訝し気に首を傾げた。

「このタイミングで?」

「このタイミングだからこそだよ。なあハナマキ?」

「おう。これからもズッ友でいようぜマイラバー」

「今も明日も共に生きような、マイラバーズッ友」

「表情も言ってることも滅茶苦茶だけど、頭大丈夫?」

 変わらぬ無表情で指切りをする二人を、イワイズミとオイカワはわけがわからんという眼差しで見つめた。

 結局「触らぬ神に祟りなし」の方針で、一行は妙な魔物を放って先に進むことにする。引き続きハナマキの指示のもと洞窟を進んでいくが、奇怪な光景は終わらない。むしろ彼らが進むにつれて、あの熊鳥と似た状態の魔物が一匹、また一匹と増えていく。立ち尽くし、焦点の合わない瞳で地を眺める魔物。壁に背中を投げかけて、あらぬところを見つめている魔物。寝転がって死んだように動かない魔物。

 心ここにあらずといった風情の魔物たちがここかしこに並ぶ景色は、まるで使わなくなった玩具で溢れた子供部屋のようだった。

「やだな。キメちゃってる人がごろごろしてる、イケナイ場所に迷い込んだ気分」

「アレだろ、ウン世紀のどこぞの貧民街みてぇな」

「そうそう。それ」

 幼馴染コンビの呑気な話し声が響いても、魔物たちはぴくりともしない。

 やがて黒岩でゴツゴツと覆われてばかりだった目の前が、急に開けた。役所の中庭ほどもある円形の空間に、四人は足を踏み入れる。

「これが夢見の泉か?」

 イワイズミが眼下を見据える。宝石のような輝きという喩えがまさに似合う、青く澄み渡る泉が広がっていた。水自体に不思議な力があるのか、水面下がおのずから発光している。そのシアンの煌めきが洞窟全体に漂う燐光のごとき明るさと同じであることに、オイカワは気付く。

「みたいだね」

 物が落ちる音がした。その方を見やれば、マツカワが膝から崩れ落ちている。

「マツカワ?」

 ハナマキが彼の隣にしゃがみ込み、顔を覗き込む。俯いていたマツカワが、僅かに顔を上げた。気怠そうな笑みを形どった双眸の底に、泉の燐光が揺らめいている。

「ごめん、ちょっと疲れたっぽい」

 気にしないで浸かっちゃって、とマツカワは泉を指さす。オイカワは胸元の時計を確認する。まだ半刻より少し前だが、悠長なことはやっていられない。

「悪いな、ちょっと待っててくれ」

 イワイズミが声をかけてから、実体のないらしい三人組はそろって泉の淵に佇む。

「水に浸ればいいのかな?」

「どのくらい? 全身?」

「とりあえず入ってみりゃいいだろ」

 底は明るく、浅そうであると判断した三人は一歩踏み出す。

 途端、三人とも吸い込まれるように掻き消えた。

 

 

 

 

 

 底が浅いように見えるなんて、とんだ錯覚だった。夢見の泉は見た目こそ清らかな泉だが実態は底なし沼で、踏み出した彼の足を捉えて引きずり込み、離そうとしなかった。

 底へ底へと沈んでいき、ついにおぼれ死ぬかと思った。しかしその時、何故か呼吸ができることに気づく。一瞬前までなかったはずの空気が吸える。そんな不思議に驚く間もなく、瑠璃色の水の世界に囲まれた自分の前に、仄暗い影が現れた。顔もなければ髪と頭部の境目も定かではないようなシルエットだったが、何故かオイカワは、それが自身であることを知っていた。

 ――よく来たねえ、勇者志望のオイカワ君。

 影はにやりと笑う。口なんて見えないが、そうしたのだろうとオイカワは思った。何せ自分なのだ。声の調子と仕草で察せられる。

 ――そんなに身構えないでよ。今日はハナムケに来ただけなんだから。

「お前は、何?」

 口を開けば、水が入って来ることもなく声が出た。

 ――分かってるデショ? 俺だよ。お前自身さ、オイカワ君。

 からかうように影は言う。

 ――まさかお前が本当にこの世界に降りてきて、こうして現実に適応しようとするとはね。俺はダメかなって思ってたんだよ? だってお前は、意外と情に流されることもあるからね。争いもなく命を取り合うこともしなくていいアオバ城砦で、微睡み続けるんだろうと思ってたけど。

 夢はさぞ快適だっただろうと囁く声は吐き気がするほど甘く、思わずオイカワは目元を顰めた。

「もしかしてお前は、この世界の俺?」

 ――往生際が悪いな、オイカワトオル。

 明らかに嘲っている。この性格の悪そうな喋り方、我ながらなかなか腹が立つ。

 ――まっつんやクニミちゃんが、あんなに頑張って説明してくれたのに。仕方ないかな。お前は俺の夢であり一応魂でもあるから、俺はお前をよーく知ってるよ。お前は恐ろしくストイックでいながら適応能力が高い。けど、その芯が迷いにこじれてしまうとウロボロスの輪のように堂々巡りし始める。今のお前は、その一歩手前。

 一転、影は猫撫で声で語りかけてくる。

 ――迷うことはないよ、俺のところへおいで。そうすれば全部分かる。それだけじゃない。俺ならお前を、勇者にしてあげられる。

「どういうこと?」

 ――とぼけすぎるのはよくないよ。俺はお前なんだから、お前の願いなんて知ってるんだよ。

 オイカワは舌打ちをした。冗談めかしていつも口にしてきたその願いが本気であることは、イワイズミ以外知らないのに。

 ――まあ、いいよ。肉体と魂は精神の糸で結ばれている。遅かれ早かれ、お前は俺のところへ来ることになるだろうからね。

 じっくり考えな。影はそう囁いて、ふと消えた。それと同時にまた呼吸ができなくなって、必死に水面まで泳いで上がる。何故か今度は、水底へと引きずり込まれなかった。

 

 

 

 

 

 鏡のような水面が揺れる。波紋の中央からまず現れたのは、ココア色の頭だった。

「――ッはあっ、うっ、は……」

 四つん這いになって泉の水を吐き出しながら、ハナマキは背後を睨み付ける。泉の青い煌めきは、全身ずぶ濡れになった彼を嘲笑うように揺らめいていた。

「ったく、ふざけんなっての」

 悪態を吐く。まったく、清楚なフリして荒々しい泉だ。いきなり引きずり込まれるわ、おぼれ死にかけるわ、挙句の果てに幻覚を見るわで、もう駄目かと思った。これで帰っても姿が見えないままだったらどうしてくれよう。

 そうだ、他の二人は? 見回してみるが、まったく影も形もない。マツカワは壁に寄りかかって、頭を垂れている。

 ハナマキの眉間に皺が寄る。マツカワは淡白なようではあるが意外と面倒見のいい男で、いつも姿が見えないために苦労するハナマキや、職務に励む後輩たちの世話を焼いてくれる。しかしその彼が、こうしてハナマキが苦しそうにしていても、何も言わない。つまりきっと、疲れたどころではなく本当に具合が悪いのだ。

「マツカワ、大丈夫?」

「寄るな」

 伸ばした手は、剣呑に払いのけられた。ハナマキはぎょっとする。マツカワが、見たこともないような険しい顔つきをしていた。

 彼は元々十代とは思えないような風格のある顔立ちをしているのだが、そのさばけた性格のために、平素はすっとぼけた印象の方が強い。なのにそれが今、いつもはやる気なさそうに垂れている太い眉は寄せられ、吊り上がった双眸はぎらついている。これはただごとではない。

「どうしたんだよ、お前」

 しかしマツカワは呻き、両手で顔を覆った。

「頼む、その杖で俺を殴ってくれ」

「え、何で?」

 錯乱しているのだろうか。しかし錯乱の呪いをかけられているにしては、目の焦点も喋り方もしっかりしている。

「何でも。頭がおかしくなりそうなんだ。早く」

 ハナマキは近くに転がっているマツカワ愛用の杖へと視線を移す。

 マツカワは意外と冗談をよく口にするが、この手のものは言わない。殴るにしても、パーティーの残り二人――まだ泉から出てきていないのか、またはどこに行ったのか知らないが――に任せれば、その怪力でマツカワが死ぬとも限らない。それは嫌だ。

「痛かったからってキレんなよ!?」

 覚悟を決めたハナマキは杖を握り締め、マツカワの頭を殴りつけた。

 鈍い音。好き勝手跳ねる黒髪は、殴られた方向に泳いだまま動かない。ハナマキはハラハラしながら、彼の頭を見守る。

 やがてマツカワの頭がゆらりと動き、正面を向いた。その眼差しがいつもの気だるげな様子であることを確認して、ハナマキは安堵の溜め息を漏らす。

「悪ぃ、人心地ついた」

「どうしたんだよ、いきなり」

「多分な、その泉の水のせいだわ」

 マツカワが泉を凝視するのにつられて、ハナマキもちらりとそちらを窺う。

 蒼玉のようでありながら取れたての果実のように柔らかく瑞々しい煌めきが踊っている。

「実体のないお前らには分かんないかもしれないけど、それすごいイイ匂いがするの。最初は匂いとも気付かねえんだけど、だんだん吸ってるうちに、その泉から匂ってくるもんだって分かるんだよ。そうなるともう、飲みたくて飛び込みたくてたまんなくなる」

 常に穏やかなマツカワの声がざらついている。ハナマキは息を飲む。

「飲んだのか?」

「飲まねえよ。俺も一応呪文職だから、この泉が源だって分かった時に、これはやべえヤツだって気付いた」

 けどおかげで、いいこと思い出した。マツカワはハナマキを見上げる。

「クニミの話だ。アイツはこの泉が毒ともなりうるって言ってたよな。その意味と、気を付けろって言ってた魔物の話がやっと繋がった」

 マツカワは後輩の言葉を回顧し、なぞる。

「夢見の泉は、不可視の者を可視にしてくれる。だが可視の者には、そいつらが見なくてもいい不可視を見せてしまう」

 ハナマキはひたと彼を見据える。何かを思い出しそうだった。

 マツカワは首を左右に振る。

「この辺にいるあのヤバい感じの魔物たちは、生きてるクセにどっか別のものを見てた。俺は飲んでないから分からねえ。でも多分、あの魔物たちが見ていたのは夢見の泉が見せてくれる、何らかのトッテモイイモノなんだろう」

「そうだ」

 ハナマキがその三白眼を瞠り、呟く。

「クニミが言ってた。『泉周辺の魔物は、夢見の泉の中毒になっておかしくなってます。だから、泉に入った後は要注意です』って」

「よし、これで失われたと思われた俺たちの記憶力が健在だったことが証明されたな」

 二人はにやりと笑い合う。ハナマキが頷いた。

「なるほどな。夢見の泉は肉体があるヤツにはとーってもいい夢を見せてくれるから、下手にその水を飲むと、夢の虜になっちまうのか。で、さっき見てきた魔物どもはあの泉の水を飲んじまって、泉の見せる夢にハマりこんであの気持ち悪ぃガンギマリ状態になったと」

「そう。そしてあの魔物たちは何度もその夢を求めて泉の水を飲むわけだが、決して夢は現実にならない。幻は幻だからな。だが」

 マツカワは語りながら、ハナマキに殴られたあたりをさすりつつ立ち上がり杖を手に取る。入口あたりのざわめきを察した吊り目が、先程とは異なる物騒な光を宿す。

「お前らは、具体化した夢だ。奴らにとってはずーっと夢見続けてきたものだから、欲しくて欲しくてしょーがないだろうな」

「やだぁ、どうしよう」

 ハナマキは眉を八の字にひそめて困った風の笑みを浮かべ、わざとらしくしなを作りながら己の両肩を抱く。

「俺ったら、襲われちゃう」

面白がるような口ぶり。肩に添えられた両の袖口から仕込みナイフが滑り出る。薄刃は泉の輝きと入口から迫りくる魔物達の姿とを映して、猛禽の双眸のごとく爛々と輝いた。

 

 

 

 

 

 オイカワが岸辺に這いあがった頃には、戦は既に幕を開けていた。泉の水を飲み込んで噎せる彼の頭上を、何か物体が飛んで過ぎていく。反射的にその正体を確かめたオイカワは、ギャッと叫んで水から上がった。先程も見た熊鳥が、頭部だけになってずぶずぶと泉に沈んでいった。

「待ってたぞモテ男!」

 そう言ってオイカワの腕を掴んで引き起こしたのは、ハナマキである。オイカワが座り込んでいた場所に血走った目の鮫頭人間が突っ込んできて、地面に食いついた。ハナマキがその頭をブーツで踏み潰し、オイカワをマツカワに押しこくる。マツカワは彼に精霊の加護をかけながら、真顔で問いかける。

「俺たちにモテる男の極意、押し寄せるオンナノコの躱し方を教えてくれ」

「なに、どこからツッコんだらいいの!? 俺こんなに個性あふれるオンナノコたちに囲まれたの初めてだけど!?」

 オイカワは叫びながら辺りを見回す。見渡す限り魔物、魔物、魔物! 足場がある場所には魔物がひしめき合い、こちらを目指した押し合いへし合いの末に泉に落ちる者までいる。しかし泉に浮かぶ落ちた者たちは一様に幸せそうな顔で水面を漂っていて、その異様な光景にオイカワはゾッとした。

 ハナマキは虫唾が走るといった顔つきの彼に構わず、魔法使い専用の投げナイフを操っている。投げつけられた薄い刃はブーメランのように滑空し、傷つけた者をことごとく燃え上がらせ、持ち主の手の中に戻って来た。

「俺たち今、この洞窟で最高の水も滴るイイ男になっちゃったんだよねー。だから夢見の泉ヘビーユーザーのオンナノコたちに大人気ってわけ」

「なるほど、この泉の水のせいなのか。じゃあ出口まで突っ切るしかないね!」

「察しが良くてマジ助かるわ」

 ハナマキの適当な説明にも納得してみせたオイカワに、マツカワが呟く。また彼らに向けて、継ぎ接ぎの魔物が五体襲い掛かってくる。マツカワが表情を変えぬまま杖を一閃させると、皆糸が切れたように倒れ伏した。

 オイカワは戦いに加わろうと背中の長剣を抜きかけて、ハッと我に返り周囲を窺う。

「あれっ、イワちゃんは?」

「まだ出てきてないみたいだけど?」

「えーっ何してんのイワちゃん! 制限時間だってあるのに――ってもう時間半分過ぎてるよ! ヤバいよ、ここまで来るのに半分くらいかかったのに!」

 時計を見たオイカワがぎゃあぎゃあと喚く。マツカワもハナマキも戦えとも言わず、黙って大挙する魔物を処理していく。

「もう、イワちゃんのぐずっ! のろま! あんぽんたんンギャアっ!」

「手を動かせボゲェッ」

 オイカワは背中に衝撃を受けてつんのめりそうになる。だが振り返って衝撃と共に聞こえた声の主を視界に収めるなり、にっと唇の端を吊り上げた。

「遅いよ。置いて行こうかと思った」

「そういうことは、背中のソレ抜いてから言えよ」

 いつの間にか水辺から上がったイワイズミが、幼馴染の言葉にやんちゃな笑みで応える。その手には、既に大剣が握られていた。

 彼の左右から魔物が飛びかかる。イワイズミは動じることなく剣を振るい、彼らを斬り捨ててからパーティーメンバーに問う。

「すげぇ数だな。とりあえず、蹴散らしていきゃあいいんだよな?」

「めっちゃ急ぎでね! あと半刻もないから!」

「キャーイワイズミサンオトコマエー」

「キャーイワイズミサンシビレルゥー」

 急かすオイカワ、囃し立てるマツカワとハナマキの声を背負い、イワイズミはさっさと入口に向けて大剣片手に突き進んでいく。その背中にオイカワが叫ぶ。

「あっ、一列じゃ危な――」

「おい、守りくらいちゃんと固めて行こーぜ」

「道案内役もお忘れなくー」

 マツカワが戦士の横に並びながら加護をかける。さらにその後ろにハナマキも並び、イワイズミが武器を振り抜いたのと逆方向から迫って来た敵をいなす。その切れ長の瞳が、ちらりとオイカワに視線を流す。

「キャプテンは殿から、ご指示をどうぞ?」

「お前らがしっかりしすぎてて、キャプテン仕事ないくらいなんですけど」

 オイカワは苦笑しながらも、不安とは異なるものが鼓動を高鳴らせていることに気づいていた。力強く脈打つ心臓は熱く新鮮な血流を送り出し、血が湧き立ち肉が踊りだす。

 それはオイカワがこれまで熱情を傾けてきた、戦いへの渇望からくるものだった。

「ボゲェ! 俺たちは前を切り開くのに集中しなきゃなんだから、おめーは後ろから舵を取るくれーしろ!」

「そうそう」

「俺は道順しか言わねーから」

 イワイズミが叫び、マツカワとハナマキが合わせる。会話しながらも続く武器がぶつかり合う音、戦士たちの熱い呼気と緊迫感、自分の前に晒された無防備な背中。戦場の空気に、オイカワの気分が否応なしに昂揚していく。

 命を奪うことが好きなわけじゃない。ただ、武器や魔法を己の手足のように振るい、己の内外に全集中を神経させ、仲間の力を引き出し自分の情熱を駆り立てられるこの時間――己が仲間とも敵とも一体化したような倒錯を覚える、この自分が命を振り絞る瞬間が、どうしようもなく好きだった。

「うん、分かった」

 オイカワは一人微笑む。弧を描く双眸と唇は美しく艶めいて、強い愉悦を露わにする。

 まったく、昨日会ったばかりの人間に背中を任せるなんて。イワイズミもそうだ。これまでの経験の蓄積があるにしても、この危機的状況で、何を根拠に自分に任せきっているのか。

 そんな命綱なしの綱渡り同然のことを、余裕を繕った冗談のような調子でされたら。

自分だって、全力で答えたくなってしまう。

「全員ガンガン攻めろ、サポートは俺がやる!」

 オイカワの声から甘さが削ぎ落ちる。背を向けたまま戦う三人は相槌こそ打たないが、耳を傾けている気配が感じられた。

「ひたすら生きて、アオバに辿り着くことために必要なことだけを考えろ!」

「おうッ!」

 野太い声が返って来る。オイカワの口元が弛む。

 ああ、もうこうなってしまえば彼らの言葉や自分のこれまでの人生が嘘か真かなんてどうでもいい。

 やっぱり、言いたい。

「信じてるよ、お前ら」

 いつものように囁けば、前を行く三人が振り向き笑った。

 

 

 

 

 

 雄叫びと共に洞窟の底が震えた。魔物のまき散らす赤黒い血、重なり合う断末魔に満ちた阿鼻叫喚の洞を、鋼鎧の男が駆け抜けていく。黒く硬い短髪をなびかせた彼は、行く手に壁のごとく押し寄せ涎を垂らしながら迫る魔物の群にもまったく怯むそぶりを見せない。

 木偶怪人が立ちはだかる。インプが飛び出す。人食い百足が襲いかかる。戦士の鋭い瞳が、彼らを映して狭められた。

 笑っている。

「甘ェってんだよッ!」

 大剣がまず小悪魔の身体を一刀に断ち切る。百足の吐いた粘着液を剣風だけで払い、数珠つなぎになったその身体の節目をバラバラに絶つ。そしてそびえ立つ泥の巨躯、木偶人形の懐へ飛び込み、過たず中心に埋められた核を砕いた。

 散らされた魔物たちの身体が、雨のように降る。その中を彼は止まることなく疾駆する。時に両手で、時に片手で操られる大剣は持ち主の意図に従順で、荒々しく奔放に舞いながら押し寄せる魔物の大波を砕いて藻屑へと変えていく。

「イワイズミー、どいて」

 戦士の背に声がかかる。イワイズミは即座に、唸らせてきたサイクロプスの拳を避けて足場とし、空中へ跳ねる。

 先鋒が一時離脱する最前線。追撃しようとした魔物達の視界に映ったのは、歯を見せて笑う盗賊の姿だった。

「≪滾れ火焔、咲けよ紅花。遮るものを染め尽くせ≫」

 両手から放たれた一対の投げナイフが、赤光をまとい一群の間をすり抜けていく。その薄い刃が魔物たちの肌をふつり、と浅く斬りつける。傷口が仄かな朱色を帯び玉のような血が溢れだしたかと思うと、カッと輝いて猛火がその全身を飲み込んだ。炎は斬りつけた魔物だけでなく空気と混乱を伝い、他の魔物へも伝染して一群を恐慌に陥れる。

「初級でもナイフに乗せれば案外イケるな。クニミがやばいって言ってたから、マジでキッツイのがもっと出てくるかと思ってたけど」

「いや、まだまだなんじゃね?」

 ハナマキが帰って来たナイフを受け止めながら話しかけると、後ろから追いついたマツカワが答えた。彼の僧服にも、返り血が点々とついている。

「だってこれ、まだ撒き餌につられた雑魚みたいなヤツばっかりだろ。大物は重役出勤してくるもんだからな」

「まあ何にしてもばっち来い、だ。我らがエースはあの通りビンビンだし」

 ハナマキが火焔呪の燃やし尽くした先を見る。空中へと逃れたイワイズミは炎の及ばぬ先へ着地し、次いで迫りくる敵を蹴散らしている。

「後ろのアイツもまだまだへばりそうにないし」

「夢の身体だからもっと弱体化してるかと思ってたけど」

 言いながらマツカワは背後を窺う。彼らに続いて焦げた地面を走る優男は、彼の視線を受け止めてにやりと不敵に笑う。

「全然元気そうだな」

「お前らに聞いてはいたけど、やべーなアイツ」

 ハナマキも彼を見てから、正面に顔を戻して事前に耳に入れていた話を思い返す。

 オイカワは技を磨くことを惜しまず、役立つ知恵も知識も余さず頭に叩き込み、かつ身に着けたそれらを戦場の土壇場で生かせる度胸もある。そして同時に冷徹なほどの観察眼をそなえており、敵味方関わらず即座にその力を分析し戦略を立て、勝利への道筋をはじき出すことにも長けているという。

 勝利に誰よりも貪欲で、その貪欲さゆえに冷静さを失わない司令塔の鑑にして、国内総合力随一の呼び声高い魔法戦士。それが、ハナマキが聞いてきたかつてのアオバ城砦衛兵部隊隊長、オイカワの姿だった。

「アイツどんだけ職業こなしてきたんだよ? 俺、あんだけ剣と魔法で攻めながら味方の補助もばっちりこなして、さらに召喚獣二体も呼び出した状態でパーティーに指示出し続けられるようなヤツ、初めて会ったぞ?」

「三年前のお前もそう言ってたよ。そんで、その後もアイツみたいなヤツには会わなかった」

 マツカワは喋りつつ、先頭で戦うイワイズミに加護をかけ直す。

「世間はアイツを、卓越したセンスを持つ華麗な魔法戦士だと思ってる。だが、実際はそれだけじゃない。アイツははっきりとは言わねえけど、俺の知ってる限りでは戦士、武道家、魔法使いに召喚士、騎士に加えて狩人の経験は積んでるっぽい」

「……俺らと同い年だよな? アイツ」

「おう。だからずっと、修業漬けだったそうだ。それも、全部本人の意思でこなしてたって」

「まっつん、前!」

 後ろからオイカワの声が飛ぶ。しかしその時には既に、マツカワの杖が唸っていた。

 矢の如く突進してきた鋼鳥を、たったの一振りで撃墜する。小型竜兵が、その爬虫類めいた口から炎を噴きだした。天井を焦がしてこちらを焼き尽くさんばかりの猛火を、身体の前に突き出した杖を回転させて防ぐ。その間にハナマキが詠唱して水を呼び出し鎮火する。炎が掻き消えた刹那を逃さず、間合いを詰めたマツカワが竜の頭部を殴りつけた。

「まっつん、本当に後衛メイン? 攻撃力高いねー」

「こんなもんだろ」

 これまた一撃で粉砕された頭部を見てオイカワが賛辞を送っても、マツカワは顔を緩ませもせず飄々と先を急ぐ。前を行くイワイズミが出目金型の魔物たちを斬り払い、黒い血をまき散らしながら振り返る。彼の頬には浅い裂傷ができていた。

「すまん、取り逃した!」

「気にすんな。お前はひたすら切り開け」

 マツカワが親指を立てる。ハナマキもその隣で親指を立てた。

「援護は任せろ」

「まっつんとマッキーも気をつけてよ?」

 オイカワが追いつきながら言い、ちらりと二人の上空を仰ぐ。洞窟のものとは異なる蒼い靄のようなものが漂っている。

「『サポーター』君たちがいるうちはまだいいけど、あんまり呪文使いすぎると消耗して歩けなくなっちゃうからね」

 靄はその言葉に反応するかのように、キラキラと瞬いた。

 オイカワが「サポーター」と勝手に名付けているそれらは、術者に取りついて術に様々な補助をしてくれる召喚獣である。蒼い靄は魔力を提供し、黄色の方は魔法の効果を重ねがけしてくれる。

「まだ行けるから大丈夫。それより、俺たち今どの辺りにいるんだ?」

 マツカワが訊ね、ハナマキがナイフを投げながら答える。

「今地下三階の真ん中あたり。イワイズミ、次今ナイフ投げた方に曲がって」

「おう」

「うわー微妙。あと四分の一刻過ぎてる。かっとばさなくちゃ」

「もうかっとばしとるわ」

 四人は軽く緩い調子で会話をしながら、先へ先へと進んでいく。共同戦線を組み始めて一刻も経っていないが、彼らはもうすっかり互いありきの戦闘に馴染んでいた。

 まず、先頭を切り開くのはイワイズミである。力も体力もある彼は、次々と己の身を求めて迫る魔物たちと長時間向き合っても、ちっとも疲れた素振りを見せなかった。ほぼ等身大の大剣のみを武器に、ガンガンと血路を開いていく。大胆な戦闘姿勢で常に死線ギリギリにいるために彼が一番傷を負っていたが、それでも勢いは衰えることを知らない。その鋭い眼光で瞬時に屠るべき敵を定め、大ぶりな業物で豪快に仕留めていく。

 そのイワイズミの身辺を守りつつ攻めの手を緩めないのが、次に続くマツカワとハナマキだ。近距離物理攻撃と道師ならではの防御技・癒術が専門のマツカワと、遠中距離魔法攻撃と盗賊ならではの補助や攻撃が専門のハナマキは相性がよく、彼らの強行軍を安定させるのに一役も二役も買っていた。イワイズミほどの力はないものの、マツカワはその機動力で、ハナマキは冷静な分析で、淡々と着実に道を拓く。

 そして最後尾につけるオイカワは、華麗なる衛兵隊長の名に恥じない活躍ぶりを見せていた。背後から追って来る敵の足止めと前三人の補助をこなしながら、前方で詰まった様子が見られれば即座に対処するなり、助言を出すなりした。行く道で新規二人の戦闘スタイルは掴んでいたので、戦いだしてからチームプレーが馴染むまでの時間は、いつもよりかからなかったように思う。

 恐ろしくしっくりくる。オイカワは道を拓く三人とその戦況を凝視しながら、つくづく感じる。イワイズミとは長い付き合いだから、それも当然だ。だが他の二人は初対面だと言うのに、どうしてこんなにも馴染むのだろう。

「イワちゃーん、いくよー!」

 前線に打撃に耐性のあるエレメント系の魔物が姿を現したのを見て取ったオイカワが叫び、逆属性の呪を放つ。そうすればその台詞を聞いて取ったイワイズミは微かに頷いて、オイカワとエレメントたちの間、死角に置いていた身体を、閃光弾が届くすれすれのところで退かした。迫る呪に気づかず避けきれなかったエレメントたちが、眩い光と共に四散する。

 イワイズミは、こうして何度も繰り返してきたことならば己の戦況から判断してオイカワの意図を正確に読み取ってくれる。

「まっつん、はい!」

「マッキー交代!」

 しかしマツカワはオイカワがいきなり魔法の合わせ技を振っても平然と合わせて決めてくれるし、魔法を頻繁に使うせいで精神力の疲労が激しくなりがちなハナマキも、一声かければすんなりオイカワと立ち位置を交換して同じように動くことができる。

 この柔軟性と安定感は、何なのだろう。まるで元の世界での衛兵部隊の戦闘のような――いや、はっきり言って後輩たちと戦うよりも、いい意味で気の抜けるパワーバランスと空気。

 歯車が合いすぎている。

「この先、まっすぐな」

 階を一つ上がって地下二階。盗賊が案内したちょうどその直後、腹の底に地響きが轟いた。

「おっ大御所来たぞ」

「やっとお出ましか」

 道師が独り言ち、戦士が額に浮いた汗を拭い大剣を担ぐ。

 背後から、魔物が追ってこなくなっていた。前方にも、まだ何も姿を現していない。

「これはちょっと面倒なのが来そうだね」

 あれだけ押し寄せていた魔物が、一様に退いた。これ即ち、美味しい餌を放っぽり出してでも避けたい嫌厭する敵がやって来るということを指す。

 どこからか、カサカサと木の葉の擦れあうのに似た音が聞こえる。それを聞いたハナマキが、合点のいった顔をする。

「あ、これあれじゃね?」

「なになに?」

「気配的に水系っぽいし、アレ。ザリガニみたいなヤツ」

「それって」

 彼とオイカワが会話していると、ちょうど機会を狙っていたかのごとく、前方の曲がりくねった三叉路から赤い頭部が覗いた。

 ハナマキの言う通り、甲殻類の頭部である。それだけでなく、全身も沢で獲れるザリガニにそっくりだ。

 しかしその大きさは、大人を縦に二人並べたより悠に大きかった。

「うわ。チュールだ」

 マツカワが不機嫌そうに眉根を寄せる。チュールと呼ばれるその巨大な甲殻類の魔物は、俗にシールドクラッシャーと呼ばれる、こちらの魔法的な防御を砕いてくることに長けた厄介な生物だった。

「関節を狙う。アイツら腹は柔らかかったよな?」

 イワイズミが剣を構えて問う。オイカワは敵を見据えつつ答える。

「確かに腹部が一番の急所だけど、そこを狙うのを知ってて押しつぶしてきたりするから気をつけて。あと、アイツらたまに呪文も撥ね返すから」

「へーい」

 ハナマキが気力の感じられない返事をする。オイカワがマツカワと彼を順に窺う。

「行けそう? 苦手な奴らだろうけど」

「ま、苦手っちゃ苦手だけど?」

「俺たちこれまで好き嫌いせず戦って来たから?」

 道師と盗賊はすっとぼけた無表情で答えて、ちらりと互いに目くばせをして口角を吊り上げた。その悪だくみする風の笑顔を見比べ、オイカワも悪魔めいた左右非対称な笑みを浮かべる。

「なになに、イイ作戦あるの?」

「お前ら全員、笑った顔がすげー悪役くさいな」

「ひどいな!」

 悪びれずしれっと言い放ったイワイズミ、彼の言葉に衝撃を受けるオイカワ、二人をマツカワとハナマキは引っ張り寄せて、小さな円を作り耳打ちをする。

「……それ、イケるかな?」

「イケる。お前の魔法の精度ならイケる」

「信じてるぜキャプテン」

「さっきまでの威勢はどうした? あ?」

「お前ら俺の扱い心得すぎだから」

 不安そうなオイカワに、敢えて彼の褒め言葉への弱さと負けず嫌いな性格を刺激する言葉を選んでかけるマツカワとハナマキとイワイズミ。オイカワはギリギリと歯を食いしばるふりをしつつ、込み上げるにやけを押さえきれない自分を呪った。

「ふんっ、いいさ。オイカワさんの凄さを、存分にその目に焼き付けるがいいさっ」

「行くぞー」

「おー」

「待って出発ゆるい! 心の準備させて!」

 マツカワが例のごとく適当に声をかけてすたこらと直進し、ハナマキがこれまた適当に渋るオイカワの背を押しながらさっさと進ませていく。イワイズミは大剣を担いで殿だ。

 真正面と左右、三方向からチュールが迫って来る。奴らは意外と足が速いのだ。せせこましく動く足を嫌そうに眺めてから、マツカワは杖を振った。

「はいっ」

 縦一列に並ぶ一行の周囲に、騎士の護身術における典型的なシールドが張られる。いくつもの壁を繋げて造った半透明の直方体に、甲殻類の飛び出した目玉が色を変える。

 三叉路の中央へ、一行は飛び込む。その周囲を寄って来たチュールたちが囲み、ガンガンと叩き始めた。彼らはシールドを壊して食べるのが大好物なのだ。

 大きなハサミで壁を叩くその様子を、オイカワが食い入るように見つめながら両手を胸の前で交差させる。伸ばした両指の間には、薄い剃刀のようなものを計八本挟んでいる。

 チャンスは一瞬。そこを逃したら、叩き潰される。オイカワの双眸が殺気を孕む。

 チュールたちは押し合いながら彼らを追い、各々叩き続ける。防御壁の隅にぴしりと亀裂が入った。オイカワの腕に力が籠る。

 ついに防御壁が瓦解した。ハサミを持ち上げたままの、その瞬間。オイカワは両腕を振るい、八本の刃を放った。狩人で培った微弱な魔力によるコントロールのもと飛ばされた刃たちは、一行を囲んでいた八体のチュールたちの関節にそれぞれ突き刺さる。

「≪輝け烈火、爆ぜろ撫子≫」

 ハナマキが詠唱する。彼の周囲に燐と輝く精霊文字が躍る。

「≪塵芥と変えてしまえ≫」

 その長い一指し指がすうと地と平行に宙を撫でた。八体のチュールに刺さった刃が精霊文字と同じ色合いに白熱し、刹那ザリガニたちは内側から砕け散った。バラバラと振る殻の残骸と白い肉塊。辺りに濃厚な磯の香りが立ち込める。その匂いを嗅いだイワイズミが呟いた。

「蟹の味噌汁食いてえな」

「ちょっとやめてくれる!? ゴリラメンタルにもほどがあるでしょ!」

 オイカワが悲鳴を上げる。マツカワは構わず周囲にまた壁を張り、頷いた。

「うん、イケるな。このまま突っ切っちまえ」

「はーい、オイカワくんまたよろしく」

「マッキーこれいくつ持ってるの? まだそんなに出てくるの?」

 ハナマキがベストの内側から先程彼が投げた薄い刃をまた取り出し、オイカワに渡す。精霊言語の彫られたそれは、術者の魔法を自身の刺さった位置で発動させる媒体だった。

 彼らの考えた作戦はこうだった。まずマツカワが周囲にわざとチュールたちの好きな防壁を張る。彼らがそれに夢中になって追いかけて叩いている隙に、先に進む。またこの間に、オイカワがハナマキ特製投げ剃刀の標準を定め、防壁が破れた瞬間に剃刀を投げてチュールたちの殻の柔らかい部分に突き刺す。そしてハナマキが閃光呪を唱え、剃刀を媒介として敵を内側から砕く。

 この作戦ならば必要以上に硬い殻に惑わされることも防壁を張りすぎることもしなくていいため、効率よく進むことができる。これを繰り返して、このうじゃうじゃと連なってくる甲殻類地獄をぬけてしまおうと予定だった。

 一行はその通りにして機械的にこれを繰り返し、実にいい能率で敵を屠りながら進んだ。案の定チュール以外の魔物の姿はなく、行く先行く先に甲殻類が詰めかけてくる。最初はどうしたものかと思わされたその光景も、順調に進めれば何と言うこともない。四人は想定していたより楽々と、地下二階を抜けることができた。

「ここ、出口があった階だよな?」

「チュールはいないっぽいね。マッキー、まずはどっちの道?」

「ちょっと待って」

 イワイズミとオイカワがあたりに目を配り、ハナマキはこめかみに指を当て、遠くへと目を凝らす。しかし次の瞬間、げ、と呟いた。

「ヤバい」

「何だよ」

「変動期来た」

 全員が、げ、と漏らした。

 変動期は精霊界の魔窟特有のものである。形が不確かな精霊界は、定期的にその輪郭を変えるのだ。

 つまり分かりやすく言うと、この階の道を含めた地形が急変してしまうのである。

「あと何分!?」

「五分!」

 時計を覗いたオイカワが悲痛に叫ぶ。イワイズミが強く地を蹴った。

「走るっきゃねえッ!」

「現時点で繋がる道案内するわ!」

 ハナマキが後に続き、全員が走り出す。周囲にはもう蜘蛛の子一匹もいない。

 そうか、変動期だから魔物がいないのか! オイカワはやっと気づくが、今はどうだっていい。とにかく、時間までにクニミが造った光の扉に辿り着かないと、文字通りこの洞窟の一部にされてしまう。

 自分たちの世界では見ることができる具体的な物質、肉体的なものが重視されるのに対して、精霊界の法則では本来ならば見えないもの、つまり霊的なものが優先される。自然の通り育ち衰えるだけのはずだった肉体でさえ、この世界にあれば霊的な力の影響により、本来ならばなるはずのない形に変化することだってざらにあるのだ。

「こんなイケメンが魚人間になるとか悲劇すぎるからっ! 絶対やだ!」

「俺はイソギンチャクのがトラウマだわ」

 幼馴染二人は昔、精霊界にうっかり長居してしまった人間が複数の魚類や貝類など別の生物と融合してしまったことを思い出し、顰め面で吐き捨てる。一方イワイズミの隣を走るハナマキは、目まぐるしく過ぎ去りながらも形を変えつつあることが明らかな景色より遠いところへ目を凝らして、ぶつぶつと呟いている。

「こっちの道のが速い? いやでもあっちが、あっやべ閉じた。あっち繋がった。そっちなら、いやこのまま……?」

「ある程度の変形ならシールドでちょっとだけ留められるかも」

「よっし頼んだマツカワ。こっち!」

 ハナマキが左手側に曲がる。すぐ先の道が、溶けた硝子のように曲がって閉じようとしていた。そこへマツカワが防壁を横にぶち込み、空間を無理矢理保たせて狭い隙間を通り抜ける。殿のオイカワが抜けたところで、防壁は変形する黒い壁に飲まれていった。

 走り抜ける彼らの周辺で、次々と道が閉じては開く。先程まで通って来た道が一瞬で落ちくぼんだ穴になり、通ろうとした道がせり上がってきた壁に変わってしまうこともあった。隣の道をうろうろしていたスライム――ゲル状の目鼻のない魔物――が、這い上がろうとした壁に取り込まれたのを偶然見てしまった時は、さすがのオイカワの背筋も冷えた。

 ハナマキは冷静に道を選び、進んでいく。しまいには一言も喋らなくなった彼だったが、最後の曲がり角を曲がり右手を見て、口角を僅かに吊り上げた。

「着いた」

「ナイスナビ!」

 三十メートルほど先に、来る時に飛び込んだのと同じ光の渦が漂っていた。これならば行ける。確信してそちらへ突進する一同。

 しかし、足場がぐにゃりと歪む気配がした。

「あ」

 誰が声を発したのかは分からない。だが全員、変化した正面の光景に言葉を失った。

 折角出口に通じる一本道、その中央が、急速に降りてくる天井と地面に閉ざされていく。

 マツカワは思案した。シールドは入るか? いや、もう差し込めない。

 ハナマキは愕然とした。もうここ以外、出口に通じる道はない。

 イワイズミは大剣を構えた。こちらの魂が変化することにはなっても、物理でぶっ壊すことはできないだろうか。

 オイカワは――

「俺が拓くッ!!」

 吼えた。大気を震わせる声に、仲間たちが振り返りながら左右に割れる。

 オイカワは左手を突き出し、右手を大きく引いていた。両手に灼光が集う。左手側は縦に伸び、右手側はその気配を大きくして、左手側へと棒状に伸びる。光輝く楔のごとき弓矢が、輪郭を露わにした。

 空間が張りつめる。耳鳴りがする。瞬きする間もなく仕上がった灼熱の矢は、放たれた途端じゅ、と音を立てて空気を焼いた。凝縮された高エネルギーの弾が、閉ざされつつあった行く手を穿ち銀の火花を散らした。

 道は拓かれた。四人は高熱で歪む足下を蹴りつけ、淡く揺らめく光の渦へと弾丸のごとく飛び込む。視界が回る。白くなる。光が溢れる。目が灼ける。……

 

 

 

 瞼の感覚が戻ってきた。ややあって、頬を撫でる爽やかな風を感じた。

 オイカワはおそるおそる瞼を持ち上げる。

 視界に飛び込んできたのは、白雲たなびく碧空と石壁、そして緑豊かなアオバ市役所の中庭の景色だった。

「いった……」

「重っ」

「俺の台詞だボゲ。全員さっさと降りろッ!」

 オイカワは目を丸くする。気付けば、彼らは東屋でひとかたまりに重なっていた。オイカワの下にハナマキ、その下にマツカワ、そして一番下で最も苦しそうな声をあげているのはイワイズミである。

「あーあー。大丈夫ですか」

 重なり合ってもがく彼らに、一つの影が落ちた。占星術師が、例の冷めた眼差しで彼らを見下ろしている。

「クニミちゃん」

「ギリギリでしたね」

 おかえりなさい、とクニミが呟いた。

 ――おかえりなさい。

 その言葉は、特に感情をあからさまに込めているわけでもないのに、オイカワの胸に小さな波紋を広げた。

 何故なのだろう。別にたったの一時魔窟に籠っていただけで、さらにここはオイカワの家でもないはずなのに。

 ひどく、その一言が嬉しかった。

「……ただいま」

「ああーーーッ!?」

 絶叫、と称していいのだろうか。動揺が駄々漏れになった叫び声が聞こえた。

 視線を移すと、エントランスフロアへ通じる扉を警護するキンダイチとキョウタニが、目を丸くしてこちらを見つめていた。キンダイチが口をパクパクさせているところを見ると、先程の叫び声はどうやら彼のものだったらしい。

「おっオオオオオオッ? イッ、イバッ」

「あはは、キンダイチ言葉になってないよ」

「キンダイチ、頼む引っ張ってくれ。百八十越えの男三人に乗っかられて限界だ」

「えーキンダイチ、俺のことは呼んでくれないの?」

「バ、バナッ……」

 オイカワ、イワイズミ、ハナマキのそれぞれの言葉に応じようとしたキンダイチは盾を取り落してあたふたと寄って来るも、近くで重なった先輩四人をまじまじと眺めるなり、その両目から滂沱の涙を流してうずくまってしまった。

 オイカワは嗚咽を漏らしている後輩を、唖然と見下ろす。何故こんなにも感極まっているのだろう。少し考えて、気付いた。そうだ。こちらの自分たちは、一年前から行方知れずだからだ。

「うううううーばっ、ばんでーびっ……う゛っううー」

「キンダイチ、落ち着いて喋れ。ボンデージと言おうとしているようにしか思えない」

 マツカワの冷静なツッコミに、イワイズミ以外が噴きだす。それを聞いたキンダイチはただでさえも涙で腫れた顔をさらに真っ赤にして否定しようとするのだが、やはりそれも「あばばば」としか聞こえず、クニミのツボを刺激することになっただけだった。

「剪定の時間だよっと――ん? ああーーーッ!?」

 そこへ、エントランスの扉が開いて麦わら帽子を被った猫毛の青年がやって来た。オイカワは自分達を見てやはり絶叫する彼を見て、にへらと笑う。

「ひっさしぶり、ユダっち」

「トッ、タッ、イっ?」

 ユダは積み重なった同級生を見て、目玉を落としそうになっている。誰を呼んだものか、そもそも何でこんなことになっているのか。そういった彼の逡巡は、人間小山の土台になっている青年をその真ん丸になった瞳に映した刹那、崩壊した。

「ハッ、ハジっ……メ゛アアアア!!」

「あああ何で乗るんだお前がッ! お前まで乗ってどうすんだ!」

「ユダ何言って――アアア!?」

「落ちつけユ――アアア!?」

 同級生の山に突撃のち合体したユダは、そのハジメの言葉の意味を取る余裕などなく、溢れる涙と鼻水をオイカワの鎧になすりつけている。その光景を後から中庭に入って来た同じく同級生、シドとサワウチが目撃してやはり叫ぶ。

 泣き声が加わって、デュエットからカルテットに変化する。さらにその騒ぎを聞きつけたヤハバとワタリが飛び込んできて、ヤハバが「オッオイカワザアアア」と慟哭し始めた結果、泣き声は見事クインテットへと昇格した。

 ああ。俺たちの姿、ちゃんと皆に見えてるんだ。騒々しいクインテットに耳を傾けながら、オイカワは今更ながら実感する。しかも、こんなにもみんな喜んでくれている。みんなどれだけ、俺たちのことを心配してくれたのだろう。俺は、どれだけこの人達に愛されていたのだろう。

 親しい人達が自分のために嬉し涙を流してくれるのは、嬉しくも気まずくも恥ずかしくもある。だがオイカワはそれ以上に、彼らの流す涙と自分の内面に温度差があることを感じとっていた。

 自分は、彼らの求めるオイカワトオルではない。彼らもまた、自分の知る仲間たちとは違う。姿形こそまったく同じだが、ほとんど他人と言っても過言ではないのだ。

 それでも抱いてしまうこの感情は、どういうことなのだろうか。自分は、どうしたらいいのだろう。オイカワは目の前の仲間たちに微笑みながら、これからのことに思いを馳せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「本当に、いいんだな?」

 マツカワの言葉に、オイカワとイワイズミは頷いた。

 夢見の洞窟に潜ってから三日が経った。オイカワとイワイズミは、以前イワイズミが言ったように、もとの世界へ帰る手がかりを探しながら、この世界の手助けをすることを決めた。

 装備を整え、武器を手入れし、必要な荷物をそろえて、世話になったアオバ城砦役所前に立っている。旅立つのはもちろん、二人だけではない。マツカワとハナマキも一緒だった。

「万が一この世界のアオバが魔王によってどうにかなることがあったら、俺たちの方のアオバにも影響が出ちゃうかもしれないし」

「俺たちに協力できることはやらせてもらう」

 幼馴染コンビの言葉に、ありがとうとマツカワは微笑んだ。

「とりあえず、これから魔王と対面するために必要な道具を作りにいくことになる。ある程度の戦いは避けられないだろうが、武器と装備は大丈夫か?」

「大丈夫。おやつまで持たせてもらったから」

「遠足かよ」

 ハナマキはオイカワに言ってから、役所前に並ぶ一同の顔を見て肩を竦めた。

「それにしては、見送る顔が辛気臭いけどな」

 オイカワもつられて、居並ぶ面々を眺めた。

 アオバ城砦衛兵部隊三年生全員と、精鋭の一二年生。彼らの真摯な、いっそ追い詰められていると見えるほどの表情を見つめ、オイカワは考える。

 ちょっと旅立つ者、それも本来彼らが知っているのとは別人である自分たちを見送るにしては、切羽詰まりすぎていやしないか。まるで、自分たちがもう二度と帰って来ないのではないかと危惧しているような様相だ。

 何故? 魔王はそこまでに危険な存在だからだろうか。

「オイカワさん、イワイズミさん、ハナマキさん」

 ヤハバが一歩前に進み出た。

「正直皆さんはこの世界での記憶がないから、色々ピンと来ないことばっかりだろうと思います。俺たちのことだって、あんまり親しみ湧かないだろうなって」

 オイカワが口を開こうとする。しかしヤハバは、首を横に振ってそれを止めた。

「無理ないです。いいんです、それでも。俺たちもいつまでも先輩に頼ってるわけにはいかないし、先輩方には先輩方の人生があるんだから、幸せになってほしいです。本当にそう思ってます」

 でも、とヤハバは言葉を切る。いま一度の沈黙。それから、堰切ったように語りだした。

「でも俺たち、また先輩方に会いたいです。先輩方の戦う姿を、もう一度見たい。一度と言わず、何度だって。だってまだ教われてないことがたくさん、たくさんあったし、俺っ」

「ヤハバ」

 ワタリに制されて、ヤハバはひゅ、と息を飲んで言葉を止めた。アーモンド形の瞳の縁が潤んでいる。

 すいません、とヤハバは小さく言って俯いた。唇を噛み締めて、意を決したように顔を上げる。

「だから、たまには遊びに来てください。そして、もしもとの姿に戻ることがあったら……一度でいいから、ここに、アオバ城砦に帰ってきてくれませんか?」

 オイカワは、後輩の甘い顔立ちを凝視する。陽気な言動が多く笑顔でいることが多い彼のこういう顔を、久しぶりに見た。

 ヤハバが頭を下げる。

「期待はしません。でも、待たせてください」

「俺は期待するっ!」

 次いでそう声を上げたのは、ユダだった。

「なあ頼むよ、絶対、絶対帰って来てくれよ! このままじゃ、俺絶対やだ。やなもんはやだからな!」

「ユダ」

「また言ってるコトおかしいぞ」

 シドとサワウチがまた泣きそうになっている彼を、両側から取り押さえた。おかしくない! と首をぶんぶん振るユダを苦笑して、こちらを見つめて頷く。

 と、イワイズミが進み出た。

「俺は帰って来る」

 そう告げて、ヤハバとユダの頭をむんずと掴むと乱暴にかき混ぜる。それを見て笑いを漏らしたハナマキも、軽やかに言う。

「俺は多分、ほぼ間違いなく帰って来るよ。ここ以外に行くあてもねえし」

「俺、は」

 オイカワは言いかけて、言葉を区切った。胸中に、形にできないほどに膨れ上がった思いが駆け巡る。

 幼い頃から、勇者になりたかった。強くなりたくて、戦士になった。防衛軍に入るために養成学校に入って、様々な職の技術を学んで、衛兵部隊に選ばれて。

 そんな自分の人生は、夢だったのだという。まだ見ぬ己の肉体もこの世界にあると聞いた。

 未だ信じられない。何を信じていいのか分からない。

 それでも強くなりたいという思いと、この自分の仲間によく似た仲間たちを助けたいと願う気持ちは、偽りではないと信じたかった。

「待ってて」

 オイカワは笑った。

 

 行く先の知れぬ旅が、始まる。

 

 

 

 

(1話 終)