◆◆◆

 


 

 目の前に短刀が一振、刀置に据えられている。審神者はその拵えを見つめる。

 博多藤四郎そのもので間違いない。


「大将、すまねえ」


 彼と博多藤四郎の向こうにて、厚藤四郎と長曽祢虎徹とが頭を垂れている。彼らと審神者を円の弧として繋ぐかのように座る十九振の刀剣男士達はそれぞれ険しい面持ちであり、その緊迫感がただでさえ狭い審神者部屋を更に息苦しくさせる。


 厚藤四郎は沈痛な面持ちだった。隣に座る長曽祢虎徹が報告する。


「今から半刻前、博多藤四郎が俺達のもとへ昼餉を持ってきた。俺達はそれを平らげてから程なくして意識を失ったらしい。見回りに来たにっかりに起こされたのが、つい先程のことだ。その時には既に博多藤四郎の本体が牢の前に落ちていて、格子戸を挟んだ向こうに、長谷部が正座していた」

「博多は長谷部に会いたがっていた。警戒して然るべきだったのにそうしなかったのは、俺達の落ち度だ」


 厚はがばりと畳に伏せた。喉から声を絞り出すようにして懇願する。


「処罰は俺が受ける。あんたの言いつけを破った博多の分も含めて、何だってする。どうされたっていい。だからお願いだ、博多を──」

「この責めは君一人で負えるようなものじゃない」


 近侍である歌仙の厳しい声に、厚がびくりと跳ねた。口を開きかけた長曽祢を片手で制し、歌仙は溜め息を吐く。


「仕出かしたことは、きちんと仕出かした本人が始末をつけるべきだ。だからこの件の処遇については、博多藤四郎が帰って来るまで取り置きとする」

「心配しなくても、博多を見捨てるようなことなんてしないよ」


 歌仙の隣から審神者が告げる。その言葉を聞き、厚は詰めていた息をゆるゆると吐いた。彼の肩を、長曽祢の反対隣に座る乱藤四郎が軽く叩く。


「しかし、やられたなあ。睡眠薬なんてどこから手に入れてきたんだろう。あとで在庫を確認しないと」


 手入れ部屋か蔵か、はたまた万屋か。顎を撫でて考え込む主を、歌仙は戒める。


「それも結構だけどね。先に確認しなくちゃいけないことがあるだろう」

「分かってるよ」


 審神者は返して、真剣な表情になった。


「さあ、これからどうしようか」


 ぐるりと一同を見回す。牢の見張りに立つ蜻蛉切と平野藤四郎、そして見張られる対象である長谷部を除いて、この本丸の男士はこの二十一振で全てだ。各々が警戒するような、不安げな、或いは覚悟を決めたような眼差しを、若い審神者へ返してくる。

 真っ先に声を上げたのは、本丸五振目の刀剣である鶴丸国永だった。


「まずは、きみがどうしたいか聞きたいな。最終的にどういうところへ落ち着きたいのか、そのために何をすればいいと考えているのか。そして現状での課題を知りたい」

「勿論一番に目指したいのは、博多も含めた全員での生存だ」


 審神者は間髪入れずに答えた。


「ただそのためには、長谷部さんの中に在る来し方の清庭──藤の本丸の呪縛から、博多共々どうにかして逃れなくちゃいけない。これが相当に難しい」


 ここで審神者は、己の右隣の日本号を仰ぐ。


「これまでに、藤の本丸から出て来られた人や男士はいますか?」

「いないな」


 日本号は簡潔に答える。休息を取れたせいか、顔のくすみが幾分ましになっていた。


「あれがまだ実物として在った頃は、倅を連れに行った婆さんと御供の審神者どもが、どうにか帰って来ることができた。だがあの本丸が焼き払われてからは、誰も帰って来ねえ」

「ねえ、それってちょっとおかしくない?」


 疑問を投げかけたのは加州清光。彼は手を挙げて、日本号を真直ぐに見据える。


「その本丸は、あんたの前の主が火で清めたんでしょ? なのにむしろ誰も帰って来られなくなったなんて、前よりも強力になってるんじゃないの?」

「それは」

「いい指摘だけど、強力になったとは言い切れないんじゃないかな」


 答えかけた日本号の右で、石切丸が考え込む。加州は首を傾げる。


「どういうこと?」

「思い出してみてくれ。あの本丸の性質は、餌を魅了しておびき寄せ、次第に憑き殺すというものだろう? 以前は放っておけば勝手に寄って来た餌を殺すことのできた本丸が、現世に存在できなくなったとすれば、どうやって今度は現世の餌をおびき寄せると思う?」

「無理矢理に引きずり込むしかないだろうねえ」


 にっかり青江が応じる。


「まだ推測の域を出ないけど、普通に人が訪れることのできなくなった今のような状態だからこそ、前とは違って強引に引きずり込むっていう手段を取るようになったんじゃない? だから目に見えてあの本丸から逃げ出す者がいなくなったのは、アレの食事の取り方が変わったからで、単に火を放たれて現世での寄る辺を失ったことで力が増したからとは限らないんじゃないかな?」

「あの本丸は建物としての形を失くす前にも、力のある審神者を死に追いやってる。そもそも誰も存在していたことさえ知らなかったような本丸だし、力が増しているかどうかの判断がつきづらいんだよ」


 審神者が苦々しげに言葉を付け足すのを聞いて、加州は片手をひらひらさせる。


「りょーかい。要するに、どっちにしてもめっちゃ面倒で厄介ってことね」

「そうそう」


 頷く審神者。依然として薄笑いを浮かべたままの青江が、敵の情報を整理する。


「相手は、下手すると僕達よりずっと古い時代からもっと上位の神々が住んでいたかもしれない神聖なる庭。そこにいつの頃からか、何らかの意思が加わって生き物のようになった。しかも、僕や石切丸のような手合いにも抗体があると見える。厄介極まりないよねえ」

「ええ!?」

「い、石切丸さんたちのお祓いも、効かないんですか……っ?」


 秋田藤四郎に五虎退の兄弟が悲鳴を上げる。石切丸が苦笑する。


「申し訳ないけど、その通りみたいだ。ただ日本号の話にあったことが本当だとすれば、私達はあの本丸の中にいても或る程度正気を保てていたようだし、長谷部も結界から逃れられなかったところを考えてみると、私達のような手合いが得意ってわけでもなさそうだけど」

「役立たずはどうにかまぬがれられるかな。けれど、過去に他の僕らを吸収した経験があるみたいだから、怖いよねえ」

「厄落としは効かないだろうな」

「そんなあ……」


 石切丸とにっかりの会話を聞き、五虎退の眼が更に潤む。今にも啜り泣きそうな弟の背を、手が擦る。兄であり本丸古参の刀でもある、鯰尾藤四郎のものだ。


「諦めるのはまだ早いよ」


 彼はそう励まして、審神者の方を向いた。


「何か、策があるんですよね?」

「まあ一応……大博打みたいなもんだけど」


 審神者は微妙に目を逸らしながら、ごにょごにょと口ごもる。聞いていた宗三左文字が眉根を寄せた。


「はっきりしませんね。あなた、神職でしょう?」

「宗三さん、あのですね。何度でも言うけど、俺みたいな西暦二二〇五年以降の審神者はにわか神職だからね? 本業公務員だから。しかもほぼ軍人と役人を足して二で割ったようなもんだから」

「小夜が無事で済むならば、あなたが武士だろうが検非違使だろうが何だって構いません。それで、どんな策があるんです?」


 そんなのでいいのか、検非違使は困るだろうなどとぼやきながら、審神者は歌仙や石切丸、青江や日本号を一瞥する。彼らが頷いたのを確認すると、意を決して告げた。


「あの本丸を鎮める」


 一同は呆気に取られたようだった。


「鎮める、って。そんなことできるの?」

「分からないから大博打なんだよ」


 乱藤四郎が問えば、審神者は額に手を当てて唸る。乱は丸い目を日本号へ移した。


「日本号も、鎮めようにもできなかったって言ってたよね?」

「ああ、そうだ」


 日本号は顎を擦って眉間に皺を刻む。


「長谷部は柘榴の婆さんから数えて十二人の審神者の手を巡って来たが、そのうち鎮めようとしたのは二人だけだ。どっちも失敗しちまった」


 日本号はここで、審神者を見る。


「あんた、それでもやる気なのか」

「他に取れる策がないんです」


 審神者は更に頭を抱えた。その形のまま固まっていたが、やがて顔を上げる。


「日本号さん。もう一度俺に、これまでの審神者がどうしてきたかを教えてくれませんか? 審神者が取って来た対策は勿論、その審神者本人がどういう人であったかや、長谷部さんのその時々の様子も、なるべく詳しくお願いしたいのですが」

「ああ、承知した」

「みんなもよく聞いていてくれ。何か糸口が見つかるかもしれない」


 審神者の指示を受け、全振が日本号へ向き直る。日本号は口を開いた。


「長谷部がああなってから渡り歩いて来た審神者の数は、十二。そのうち最初の主であった婆さん審神者とその倅については、昨日話した通りだ。婆さんはあの屋敷を燃やしたが完全に消滅させるまでには至らず、倅はその前にてめえで首くくった。三人目の坊ちゃん審神者と四人目の女審神者は手だてを考える前に取りこまれちまったし、その後の男審神者は長谷部を封じたが最終的に毒されて自害、六人目の嬢ちゃん審神者は、俺達を火にくべて滅したが問題を解決できたわけじゃなかった。俺達はこの通り、折れても本霊に帰れねえ分霊になっちまったからな」

「本格的に対策を取り出したのは、五人目の審神者以降ですよね」


 審神者が確認すると、日本号は首肯した。


「そうだ。六人目を除く五人目以降は全員、長谷部が本丸にいる時は結界を張って閉じ込めていた。七人目の審神者はあんたより年のいった兄ちゃんで、審神者を辞めたらしい六人目の後に引き入れられる形で本丸に来たって話だったな」


 この審神者は臆病者だった。日本号から事を聞いて大層怯え、政府にも助けを求めたが回答が返ってこないことにまた怯え、待ちきれずにどうにか長谷部を遠ざけられないかを必死に試した。


「あれこれやってたよ。刀解が駄目ならば戦場で折れるのはどうかって考えて、刀装もつけねえで難易度の高ぇ戦場に単騎出陣させて無理矢理折らせてみたり、遠征先の海に長谷部の本体を沈めて置いて帰ってきたり、バラバラに砕けた長谷部を投石代わりに使わせてみたり。長谷部がどうやったら帰って来られなくなるかを、手を替え品を変え試していた」


 だが、無駄だった。どの時代に置いて来ても、どんな方法で折っても遠ざけても、長谷部は帰って来た。


「あいつは本霊に帰れない分霊だからなあ。どんな方法であれ、折れれば本丸に帰って来るしかねえんだ」


 長谷部をいつぞやの時代に送り、さあもう大丈夫だろうと思い鍛刀すると長谷部が来る。また別の合戦場へ送り、さすがに今度こそはと出陣すれば、新しい長谷部を拾ってしまう。新しい長谷部は最初こそどこにでもいる普通の長谷部のような顔をしているが、日に日に「あの」長谷部に近づいていく。以前、五人目の審神者の時にも起こった現象だ。それに気付いた日本号によって正体を暴かれ、また破壊される。


「あいつが帰るあてのねえ分霊だってことを知ってりゃあ納得の話だ。他の手を打つこともできたんだろうが、あの審神者は気が小さかった」


 ある時、いつも通り長谷部を破壊するために出陣させた審神者は、彼の破壊を確かめるや否や失踪した。


 彼は、どこへ行ったのか。長らく分からなかったが、しばらくしてやって来た役人の口から、彼が現代に戻っていたこと、そして不審死を遂げたことを知らされた。自宅の台所でうつ伏せに倒れていたのが見つかったという。室内は荒らされており、彼の死体の周辺には切りかけの野菜と調理器具が散乱していた。調理中、それも恐らく湯を沸かしているところだったのだろう。水浸しの床に伏し、顔はひどく歪み火傷していたというが、しかしそれは直接の死因ではなかった。背中が、鋭利な刃物でめった刺しにされていたのだ。


 日本号は、彼が逃げきれなかったことを悟った。


「八人目の審神者は、腕っぷしの強そうなおっさんだったなあ。前の審神者から物騒なへし切長谷部がいるっていう話を聞いて本丸を引き継いだ、変な男だったぜ」


 彼は、真っ向から勝負を挑みに行った。高火力の刀剣を揃え、自ら藤の本丸へ入り込んでいった。

 結果は言うまでもない。


「屋敷は、天下五剣がぶん殴っても大太刀が斬りつけてもビクともしなかったんだろうな。潜り込んだ連中も審神者も帰って来ず、じきにまた主が変わった。九人目の審神者はイカれた野郎だった」


 その審神者もやはり、長谷部の噂を聞きつけて志願してきたのだと語った。しかし彼の長谷部への接し方は、それまでの審神者とは一線を画していた。


「奴は審神者である前に、憑き物を研究する学者なんだと。だから変なものが憑いた長谷部がいると聞いて、研究せずにはいられねえと思ったそうだ」


 審神者は審神者部屋に長谷部を連れ込み、昼夜問わず研究に勤しんだ。その一環としてどのような手法を用いたのか。日本号とて全ては知らない。だがその片鱗を見聞きする限り、彼の手法は実験と言う名の拷問に近かったようだ。


「何たらの観点からかんたらを探るっつってな。怪しい道具持ち込んで、好き勝手してたようだぜ。奴とずっと一緒にいた俺にも何か原因があるんじゃないかってんで、俺も巻き込まれたこともあったな。意識のあるままバラされたり、金属部分だけを取られたりして──いやあ、他の俺なら末代まで祟るだろう狼藉を、随分と働いてくれたぜ」


 それでも日本号が彼に報復をしなかったのは、状況が状況だったからだ。長谷部、ひいては日本号の置かれている状況が異常なのは明らかで、彼自身にも、何とかしてこの謎を突き止めてほしい心があったのである。


「あいつはイかれた常識知らずだったが、頭と腕は悪くなかったぜ。わけのわからねえ実験の繰り返しの中で突き止めたことを、嬉々として俺に語ってたな」


 九人目の審神者の語ったことによると、長谷部に宿るものは俗に言うところの「憑き物」──狐憑きや犬神などで知られる、人やモノに取り憑き悪さをなす低俗霊──ではないらしい。また、このような憑き物と紛らわしいことで知られる、現代精神病に罹患しているわけでもないと言う。


 だから十中八九、長谷部は荒御魂状態の神霊に取り憑かれている。何とかして、長谷部の中にいるものの正体を探り出してみせる。


 そう意気込んでいたその審神者も、気付けば姿を消していた。


「九人目の審神者の研究成果を聞いた十人目の女審神者は、荒御霊に真っ向から勝負をしにいっても勝ち目はないと考えた。ならば、奴の目を欺くのはどうだろうってんで、諸々方法を試した。目眩しの結界を張ってみたり、奴の欲しがる住民を模したヒトガタを喰わせてみたり、とかな。結構頑張ったんだが、残念ながら清庭様はどれもお気に召さなかったらしいぜ」


 十人目は、ヒトガタを捧げる儀式の途中で亡くなった。政府の鑑定によると、若人にしては不自然な、心臓発作だったらしい。


「その後やってきた、十一人目の審神者は」


 日本号の語りが、ここで初めて淀んだ。


「十一人目の審神者は、神様相手に戦うだ騙すだなんて畏れ多い、と言った。どうにかしてご機嫌を伺うしかねえ、と」


 そのために、毎日長谷部に供物を捧げたと言う。


「怨霊信仰ってヤツだな。天神なんぞと一緒で、祀り上げて、お願いだから静かにしてくれって拝み倒すやり方だ」


 審神者は毎日長谷部を真摯に拝み、供物を捧げた。

 しかし、やり方が悪かった。


「あいつの死に様が一番、ひどかったな」


 日本号は顎をさすり、遠い目をした。


「最初は普通の食事を提供してたんだ。鯛の尾頭付きとか、めでたげなものを出してたんだよな。だが効き目が無かった。刀剣が一本連れて行かれちまって、供物をより強力にしようとしたんだ」


 審神者は生きた動物を捧げるようになった。亀だとか狐だとか熊だとか、そういった動物を生け捕りにして、長谷部に差し出したのである。


「ひでえ有様だったぜ。長谷部のいる座敷牢に、捕らえてきた動物を生きたまま放り込んで、衰弱死させるんだ。何匹も何匹も、あの座敷に溜まっていってよ。嫌ァな臭いがしたわ」


 それでも、本丸の怪は止まなかった。二本目の刀剣が喰われてしまい、審神者はそれでも生贄を止めなかった。


「奴は、藤の本丸に霊力を直接流し込んでやれればいいんじゃないかって理論に至っていたらしい。そこで、手ずから霊力の高いと言われる動物をさばいて、その生き血を長谷部に飲ませた」


 血は霊性の象徴の一つだという。だからそれを、何も食べようとしない長谷部の喉へ無理やりに流し込んだ。

 効果は勿論、審神者の期待しない形で出た。


「ある朝、審神者が起きてこないことを訝しんだ近侍が、奴が審神者部屋で息絶えているのを発見した。昨夜は健康に酒を嗜んで寝ていたはずなのに、奴の身体は昨夜死んだとは思えねえほど腐敗していた。そりゃあもう、ぐずぐずに溶けてたぜ。あいつが長谷部の牢の中に放り込んだ、生贄の末期みてえにな」


 十一人目のやり方は、悪意こそ無かったものの邪道である。だが、長谷部の中にいる何かが本当に荒御霊だとするならば、祀り上げるというのは理に適った対処法だ。そう言ったのが十二人目の審神者だった。


「あんたの、前任だな」


 日本号が青年審神者を一瞥する。彼は膝に乗せた拳を握り締めた。


「あいつは、藤の本丸そのものを神として祀ってしまおうと考えたようだった。それで、今度は真っ当に藤の本丸の正体を探って、何に祟ろうとしているのかを調べたらしい」

「で、その正体は?」


 鯰尾藤四郎が問う。寸刻、日本号が答える。


「分からん」


  拍子抜けする脇差に、日本号は肩を竦めて見せる。


「実はな、俺はその調査の途中で外されたんだ。だからその審神者がどんなことをしたのかも、どんな最期を迎えたのかも知らねえ」


  へし切長谷部の隣の牢で、日本号はずっと彼のもとへ出入りする刀剣を眺めていた。


  だから刀剣の出入りが少なくなり、それが完全に途切れたある日、役人がやってきて十二人目の死を告げた時にも、実感を持てなかったという。


「長谷部の所に出入りする刀剣たちは、取り乱す様子もなければ自我をなくしてしまったようでもなかった。もちろん、長谷部の牢に入ったきり出てこない刀もいたが」


  日本号は考え込む。


「あの審神者は霊力も高ければ、肝も据わっていた。そう簡単に、とも思えねえし、あんたに全てを押し付けて逃げる奴でもなかった。あいつに何があったんだろうな」

「……と、いうことで」


  審神者は日本号の話を切り、一同を見回した。

「俺はこの十二人目と同様に、この本丸を神として祀って鎮める方針でいこうと思う」

「方法は?」

「戦と同様」


 問う刀達に歌仙が答える。


「まずは索敵。本丸の荒ぶる性質の原因を暴く。その後、それを鎮めるための行動に出る。そしてこの地に藤の本丸の新しい依代として『社』を建て、こちらに移ってもらって祀っていこうと思う」

「天神様と同じような感じかな」


 審神者が付け足してから、続ける。


「できることならば、同じような方法を取ろうとしたんだろう十二人目の審神者の方策を知りたかったけど、仕方ない。我流でやってみよう」

「どうやって知るんですか?」

「あの本丸については公的資料もなく、かつ深く関わった人間も皆故人となっている。だから探るための手段は、誰かが実際にあの本丸の中に潜り込むしかない」

「僕が適任だろうねえ」


 手が挙がった。にっかり青江である。審神者が黒目を動かし、行ってくれるかと確かめる。


「勿論。コッチの『戦』も、僕は経験豊富だからね」


 刀はその名に馴染む笑みを浮かべている。


「でも、どうやってそこで知った情報を知らせるの? 一度入ったら帰ってこられないでしょ?」

「そういう時こそ、文明の利器の出番だ」


 審神者は部屋にある液晶画面と、己の手にした四角い板とを示す。


「政府から審神者に渡される電子機器本体と端末。にっかりがこの端末を持っていってくれれば、俺の本体と連絡を取れるはず」


 しかも今回は、全審神者の閲覧する『さにちゃんねる』を連絡手段の一つとして用いる。『さにちゃんねる』はどんな異界でも通じるからいけるだろう、と審神者は説く。


「にっかりがさにちゃんで藤の本丸での調査内容をこまめに報告してくれれば、俺や他の審神者がそれを見て、逐一情報を共有して正体を分析することができる」

「僕が無事に、端末に書き込みをできる状態であるならばの話だけどね」

「そう。問題は、音信不通になってしまった場合だ」


 にっかり青江の不穏な補足を、審神者も認める。


「行って早々音信不通になることはないと思いたいが、可能性としては十分あり得る。それから、途中で連絡が途絶えることも。どちらにしても、そうなったらあらかじめ定めておいた一定期間の後に、生存確認と補佐を兼ねてもう一振に行ってもらう」

「誰が行くかは、実際に本丸の様子を窺ってから考える。それでどうだい?」


 歌仙が皆に問う。全員が応と答えた。審神者は眉を下げ、にっかりに詫びる。


「最初から二振送り込めればいいんだけど、俺の霊力から考えるにちょっと厳しい。申し訳ないけど、堪えてくれ」

「心配ないさ。博多を見つけることができれば、二振で調査ができることになるしね」


 霊刀は笑っている。

 審神者は立ち上がり、博多のもとへ歩み寄る。本体の前へ屈み込み、片手を翳した。にっかりは主人の手と短刀の間に、細い糸のようなものが光っているのを見た。


「博多とは、まだ繋がっている」


 手を離して、審神者は言った。


「これまで本丸に行った刀の手入れを出来ていたことから考えるに、刀が折れさえしない限り、博多とにっかりは戻って来られるだろう。いくら霊力が低いとは言っても、俺との縁が切れてない状態で刀を呼び戻せなかったら、それこそ審神者失格だ」


 審神者はもといた位置へ戻り、正座した。目を瞑り大きく息を吸い、吐く。細くなるまで息を吐き切ってから目を開いた。


「明日、一番鶏が鳴いたら支度を始めよう」











◆◆◆



 潮騒が聞こえる。

 細波が寄せては砂を引く、どこか懐かしい、穏やかな音である。博多の海だと夢うつつに思う。


「博多。博多」


 呼ぶ声がする。


「そろそろ起きろ」


 博多藤四郎は目を開いた。へし切長谷部が覗き込んでいた。


「あれ、長谷部? なしておるん?」

「何でとは何だ」


 長谷部は呆れたように言う。


「ここは本丸だ。俺がいて当たり前だろうが」


 確かにそこは本丸だった。白木の天井と襖は、縁側から射し込む陽光を溜めているのだろう。室内は暖かく、綿の掛け布団が心地好い。さらに障子の向こうに臨む、松の常緑の鮮やかさと言ったら。

 けれど。博多藤四郎は考える。


「………」

「どうした?」

「長谷部」


 博多は「何か」を尋ねようとした。だがいざ言葉を舌に乗せようとして、肝心の中身を失念してしまった。

 何を尋ねようとしたのだろう。何だか分からないが、強烈な違和感が博多の中に残っていた。忘れてはいけなかったことであった気がする。だが思い出せない。


 彼は辺りを見回した。

 華やかな牡丹の襖。繊細な模様の障子。白木で組まれた、質素ながら風情溢れる和室。つややかに陽を照り返す縁側。そして外は、見渡す限りの枯山水。秋晴れにそそり立つ巨岩の周りを玉石が渦巻く様を眺める頃には、自分が何かを思い出そうとしていたことすら失せてしまった。やはりここは、「自分の本丸」である。代わりに彼の鼓膜に蘇ったのは、先程聴いた音だった。


「海の音ばする」

「海?」


 長谷部は耳を澄ませたらしかった。神妙な顔をして、それからああと頷く。


「ついてこい」


 長谷部は立ち上がり、縁側へ向かった。博多も倣う。履物石に大と小の下駄が二足並んでいて、それを履き、外へ出た。

 佳い天気だった。下駄の転がる音がよく響いた。


「お前が海だと思ったのは、これだろう」


 しばらくして、長谷部が立ち止まったのは屋敷の外れだった。博多は目を瞠る。


 一面、藤の棚だった。右に左に、見渡す限り薄紫の花房が垂れ下がっている。


 さら。


 博多の背後から、風が吹いてきた。長い長い花のしだり尾は、風に揺られて微かな音を立てる。


 さら。さらさら。ざざざ。











◆◆




 世話になった先輩が亡くなっていたことを知り、急遽墓参りに出た。梅の蕾こそ綻び始めたが、まだ風が身に染みる。角袖外套の襟を手繰り寄せながら、居並ぶ四角錐の間を走る玉敷の道を歩いた。静謐な、白い石の世界である。錐の其々に刻まれた文字だけが、彫られた溝の分、真白な世界に影を落としていた。


 角錐の中の一本に、目当ての名を見つけた。立ち止まり、玉櫛を供えて頭を垂れる。


 視界の左端に何かが映った気がした。首を曲げて見る。老女が此方を見ていた。椿油の丹念に塗り込まれた銀髪に珊瑚の飾りが目を惹く、細面の、色の白い人である。

 朱を引いた唇が、つと開いた。


「息子のご友人かしら」


 気負った風ではない。それなのに気品を感じる、低い声だった。

 大変世話になりましたと礼を述べた。老女は呟いた。


「ここに、息子はいないのよ」


 その眼を見つめた。此方を見ているようでもあり、何処か遠くを眺めているようでもあった。


「いないの」


 ならば、どこへ。

 考えているうち、土手に座っていた。斜陽に照らされる川べりで、橙色に波打つ水面を見下ろしている。


「やっぱりここにいたのか」


 隣に人がしゃがみ込んだ。兄さん、と彼を呼ぶ。


「厨の坊主が、夕飯時なのにお前が帰ってこないとおろおろしていた。何かあったのかい?」


 呼び戻し鳩が見つけられないのだ。師が自分の稽古用にと改造した中古品で、それに込められた師の霊力を手掛かりに探し出すのが今日の修業の内容だった。

 そう説明すると、兄は立ち上がった。


「ならば、俺が一緒に探そう」


 駄目だ。慌てて引き止める。

 師は厳格で敏い。兄が少しでも師の呼び戻し鳩に接すれば、すぐに不正を見抜くだろう。自分が叱られるのは構わないが、この人の良い兄を巻き込むわけにはいかない。それに、他人の好意に甘えていては、己の力を育てることが出来ないだろう。


 兄は眉根を寄せて溜め息を吐いた。


「お前のそういう、ストイックなところは良いと思うけどね。だが少し、素直すぎやしないか?」


 そんなことはない。

 自分は十分に弱虫である上、一度決めたことは曲げない聞き分けの悪い面もある。今みっともなく、審神者の非公式な弟子として世話をしてもらっているのなんて、まさにその悪面が出たいい例だ。

 兄は天を仰ぐ。


「うーん……師匠のやりたいことは分かるがね。もうちょっと、お前に合わせたやり方があるんじゃないかなあ」


 彼の声には、自分への思い遣りが篭っていた。しかし、だからこそ己は肩を落とす。


 改造呼び戻し鳩の追跡は、審神者訓練の初歩の初歩だ。師の霊力が籠もった鳩の気配を探し出すことで、他の霊性の察知する力を身につけ、己の霊性を自覚するのである。

 己に好意的な人物でさえ、審神者として資質がないと暗に言うのである。才能がないことは分かっていたが、ここまでないとは。


「自分を卑下するんじゃないよ」


 落ち込んでいることに気付いたのだろう。兄は優しかった。


「こういうのは、すぐに力が発揮されるとは限らない。気長に、お前のペースで鍛えていくのが一番だよ」


 気長にも何も、己にはそもそも持っているものが無いのだ。

 兄はやや目を瞠ったが、すぐに弛めて微笑んだ。


「元々持っているものに恵まれているってことが審神者の全てではないと、俺は思うけどなあ」


 もう一度、隣にしゃがみ込む。目が合う。左目の下にある泣き黒子が、彼の柔和な眼差しと調和している。


「お前には確かに、審神者として持っているともて囃されることの多い要素が少ない。霊力とか、霊感とかね。でもその分、別のいいものを持っていると俺は思うよ」


 そんなまさかと嗤うと、本当だよと言って橙色に染まる長い指を折りはじめた。


「今持ってるものを大切にして、周りよりずっとマメに、堅実に磨いていくことができること。さらに自分に無いものを素直に認め、自分に無いものを持つ人間を敬うことができること。なかなか出来ないことだ。あまり騒がれることはないかもしれないけど、立派なお前の長所だよ」


 でも、と自分は言い募る。

 時間遡行軍と戦う身として、霊力や霊感がないことは仇だ。他人に迷惑をかけることになる。だから、一刻も早く霊力を身につけたいのだ。


「いいんだよ」


 泣き黒子のある目は、笑っている。


「審神者の仕事は、激しい戦場に生きることだけじゃない。訓練場で刀を育てたり、現世で審神者じゃない人間と折衝したりすることも、大事な仕事だ。それ以上に、戦ってくれる付喪神に礼を尽くすことも、ね」


 兄は肩に手を置いた。


「お前はそのうち、きっといい審神者になる。霊力もずっと一定とは限らない、増えるかもしれないよ。もし増えなかったとしても、お前なら霊力なんて関係なく活躍できるだろうさ。そうだな、そうなるまでにもし、霊力や霊感が必要な場面に迫られることがあったら──俺が守ろうか。ね、約束するよ」














 審神者は目を開いた。自室の天井が白み始めていた。

 身を起こし、右肩をさする。兄の手があったはずのそこは、夜気に晒されて冷たかった。夢の中で置かれたぬくもりは、確かに温かかったのに。


 あまり眠れた気がしなかった。整理しきれない記憶の溢れ出すまま、気を失っていた感覚に近い。身仕度を調えてもなおしばしぼうとして座っていると、衣擦れの音が近付いて来た。失礼しますと声がして、障子の向こうから宗三左文字が現れる。何か言おうとして、しかし普段と異なる主の雰囲気に気付いたのか、黙ってその場に留まった。


「懐かしい夢を見たんだ」


 誤魔化すことも出来ず、説明した。


「そうですか」


 宗三はただ相槌を打ち、口を噤んだ。話を聞いてくれるつもりらしい。それに甘え、続けることにした。


「俺の霊力が低くて、審神者として求められる最低値のギリギリしかないってことは知ってるよね」


 刀は片眉を持ち上げたが、黙って続きを待つ。


「そのせいで、審神者に志願しても候補生としてすら認めてもらえなかった。でも諦めきれなくて、あの時代に勤めてる審神者の門戸を片っ端から叩いた。霊的能力の高い人の側に長いこといて、本丸の空気に慣れることが出来れば、霊的能力も上がるって聞いたんだ。でも……あの頃は知らなかったけど、現世に勤務出来てる審神者はかなりの地位にいる人ばっかりだったから、文字通りの門前払いだったよ」


 その中で唯一、公式の弟子には出来ないが住み込みの手伝いとしてならばということで雇ってくれた人がいた。それが、師であった。


「しぶしぶ、って感じだったけどね。でも十分だった。俺みたいな若さしか取り柄がない奴を置いておいてくれて、たまにでも稽古をしてくれた。さすがに俺みたいな出来損ないを弟子にしてるって知れたら困るから、弟子として認めてくれたことは最後まで無かったけど」


 別に自虐でもなんでもない。霊的能力がない人間に審神者としての稽古をつけるなど、死にに行く人間を育てているようなものだ。周囲に知れたら、どんな叩かれ方をするか分からない。


「でも、兄さんは……知ってるよね。俺を認めてくれた、数少ない人間の一人だったんだ」


 彼は、師の正式な弟子だった。修身館に入るまでもなく、審神者の下につけられた。生え抜きの優等生だったのである。


「霊力も霊感も、桁違いだった。だけど、俺のことを全然馬鹿にもしなければ憐れまないでいてくれた。一人前の審神者を目指す仲間として認めてくれた」


 審神者は目を細める。己が審神者に就任した時、誰よりも喜んでくれた。本当に良かったお祝いの品は何がいいと繰り返し問いながら、あれこれと必要な知識を教えてくれたのを今でも覚えている。


「『様』とか『さん』をつけて呼ぶと嫌がるんだよ。お前は実質俺の弟弟子なんだから『兄さん』でいい、師匠に障りがあるといけないと思うなら、単純に昔から面識があった弟分ってことでいいじゃないか、って」


 演練会場でもそんな調子で、どうしたものかと頭を悩ませた時期もあった。


「可笑しいよね。俺を弟弟子にしたって、何のいいこともないのにさ。俺が審神者になってからも、周りに人がいると気が引けるから『さん』付けで呼ぶと、薄情者め、寂しいからやめてくれって。でも、兄さんに迷惑かけるわけにもいかないじゃないか。なのに呼ばないと拗ねるんだよな。いい大人なのに。どうしろっての、ははは」


 ほつ、と湿った音が落ちた。

 審神者は慌てて目元を覆う。駄目だ、止まれ。己を咎めながら瞼を眇め、手の甲で目を拭う。それでも溢れるものは止まらない。


「……水気は嫌いです。僕が見てないうちに、全部流しきって始末してしまいなさい」


 奇妙に歪んだ視界の端で、桃色の頭が外を向く。途端、堪えようとしていたものが堰切って溢れ出すのを感じた。


 兄がもうこの世にいないのだということは、長谷部を座敷牢に封じ、日本号の話を聞いた後に確かめた。兄は既に亡くなった扱いになっており、その本丸も既に解体されていた。彼の担当職員によると、兄の遺書にそうするよう書かれていたらしい。更に、解体後の刀剣男士の生き方は本刃達の自由にさせること、ただし長谷部と日本号だけは弟弟子の所へ行かせること、その際己の訃報は報せぬことと記されていたそうだ。


 意味の分からないことだらけだったが、遺書の作成された日付が最後に会ったあの日だったと知り、彼はあの段階で己の死を覚悟していたのだということだけは理解できた。したくもない理解だったのだが。


 兄は何を考えて、己に長谷部と日本号を託したのだろう。何故、何も話してくれなかったのだろう。人を憑き殺す刀剣男士を託すなんて、実は兄は己を嫌っていたのだろうか。


 分からない。どうして、何で、と問いたくとも相手は故人であり、己は刀剣の将である。混乱する心を押し殺して、すべき対処のことだけを考えてこれまで過ごしてきた。頼れる人間はいない。政府はこの問題を持て余しており、師は鬼門に入って久しい。少しでも策が欲しく、通信によって審神者仲間に協力を仰いだが、彼らによってもたらされた情報があったとしても、それを活用し、己を信じる刀剣らの命を負うのは己である。無闇に混乱している暇はなかった。


 だから、張り詰めた心にふと蘇ってきた記憶のあたたかさが、そして確かだったぬくもりがさめた後に残った現し身の冷たさが、どうしようもなく胸に痛んだ。


 審神者は声を殺して泣いた。将たる者が、これから得体の知れぬ戦場に出陣する刀を見送らねばならない者が、こんな有様であっていいわけがない。しかも刀の前である。この非常時に情けない姿を見せるなんて、以ての外だ。それなのに、涙は止めどなく溢れた。


 一頻り涙が流れると、あとには空虚さだけが残る。混乱が多少解消されたから、マシだということにしたい。審神者は立ち上がった。感傷に浸っている時間はない。深呼吸をして外に出ると、左文字の刀はまだそこに佇んでいた。ありがとうと告げると、彼はふいと明後日を向いて告げる。


「にっかり青江の支度が出来たそうです」


 もうすぐ、一番鶏が鳴く。