[ノスタルジアに怯えて]

 カーテンを開けるとまだ寝てやがったのかお前はなんて太陽ががなるもんだから私は思い切りあっかんべーをしてやった。うるせーばーか、何でアンタはそんな高い所にいんのよ。太陽は意地悪だ。せっかくの休みの日くらい、一緒に寝ててくれたっていいじゃない。ばーかばーか。私はさっさと太陽に背を向けて寝室を出た。

 ぱたぱた。一人分のスリッパの音が廊下に響く。すっかり陽光でぬくぬくしたリビングには、やっぱり誰もいない。ブレア、今日は珍しく昼間から出かけるとか言ってたもんね。こんな明るい時間に家のリビングにいるなんて久しぶりすぎて、何だかパラレルワールドに来たような気分だ。頭がぼうっとする。気を抜いたらかくんかくん揺れそう。

 額を押さえながらシリアルでも食べようとリビングを横切ろうとして、私は立ち止まった。机の上にビニールに包まれたサンドウィッチ、あとデスデパートのサラダがどん置いてあるように見える。あんなもの買ったっけ ぱたぱた。恐る恐る近寄ってみるけど、食べ物は消えない。それどころか横にメモまで置いてある。

『マカへ

  買い過ぎて食べきれなかったからあげる。お返しは三倍で♪』

 可愛くぷりんとした文字が並んでいて、最後には肉球印。私は瞬きを繰り返した。出会って七年、ブレアはいっつも食事をねだるばかりでこっちにくれるなんてことはなかった。空から槍でも降って来るんじゃないだろうか。

 私はいつブレアが「ドッキリしたかにゃー」なんて言いながら飛び出してくるものかとドキドキしながらサンドウィッチに手を伸ばした。だけど、肉厚トマトのサンドウィッチを食べ終わってサラダをシャキシャキ食べ終わってもブレアは出て来なかった。私はどうやらパラレルワールドに来てしまったらしい。こんな昼間まで寝て、ブレアが食事をくれて、そしてソウルがいない。

「……そんなわけないじゃん」

 思わず苦笑した。ソウルの不在を思い出した途端、頭が急に覚醒した。彼が家を空けているのは、いつものことだ。ラストデスサイズさまは相も変わらず忙しいらしい。

 ただ。私はカレンダーを見上げた。今日の日付には乱雑な丸がぐりぐりと書きこまれている。

 ブレアの三倍返しは早くした方がいい。パティスリー・オブ・デスシティに寄るついでに、そのついでに、化粧品を買おう。化粧水と口紅が終わってしまうそうなのだ。だから買いに行く。それだけ。

 思い立ったら即行動。さっさと身支度を整えて、私は我が家を飛び出した。太陽が行って来ぉいと叫んでいる。言われなくてもそうするよ。

 デスシティの空は、今日もラムネみたいな青。休日の昼下がりは人ごみもそれなりだけど、さらさらと風が素足をくすぐるから、こんな日なら膝丈のワンピースも悪くないかなって思う。ショートパンツやミニスカートは今でも好きだけど、履くには少し勇気がいるようなお年頃になってしまった私、ちょっと悲しい。

「あっマカせんせー」

「ティミー、レグ、こんにちは」

 人ごみの中から小さな顔がワンペアひょっこり出てきて、私ににっこり手を振った。私もしっぺ返しをする。この呼ばれ方にももう慣れてしまった。遠ざかっていく小さな死武専の制服一組。ティミーは職人でレグが武器。いつも一緒。

 ああ、私も昔はああやって。いえ、ダメよマカ。夕暮れが迫りくるのを感じて、私は正面を向き歩を速めようとする。回った視界に、ちらりとデパートのウィンドウに反射した女の姿が映り込んだ。ハーフアップのアンティックゴールド、いつまで経っても幼い顔、出るトコロが出ない案山子みたいな身体。なのに纏うのはふんわりフレアのワンピース。

 目を逸らそうとしたのに直視してしまうなんて、ツイてない。私は溜め息を吐いた。変わってないのに、変わっていく。私は今でもバリバリ前線に出ていきたいマカ=アルバーンなのに。

「あらあら、マカ先生」

 デパート内にある、いつも通ってる化粧品屋さんちなみにママが昔から使ってたのに行くと、すっかり顔なじみなおねえさんちなみに私が幼くてママのお供に来てた時からずっと「おねえさん」であるは破顔した。私はぺこりとお辞儀する。

「こんにちは。化粧水と口紅ください」

「マカ先生はお肌がキレイだから、お化粧なんていらないのに」

 なんて言いながらブースの棚を漁りにいくのだから、商売人である。私がバッグからお財布を引っ張り出していると、おねえさんも棚を漁りながら言う。

「化粧水新作出たけどいかが パッケージも可愛いわよ。ピンク、どう

「ごめんなさい、いつもので」

「マカちゃんは昔から飾りっ気がないわねえ」

 おねえさんは笑う。クリムゾンの唇が綺麗な弧を描いて歯が真珠みたいにきらり。私はつい見とれたけど、頬を膨らませた。

「そんなに私って子供っぽいですか

「あらあら、ごめんなさいね。たしかにマカちゃんはちょっと幼く見えるけど、でも随分綺麗になったわよ」

 本当だろうか。疑わしい。それが顔に出ていたのか、おねえさんは二度大きく頷いて見せた。

「本当よ。小さい頃からマカちゃんのこと知ってるおねえさんが言うんだもの、信じなさい」

「でも」

「だって、髪も下ろして雰囲気もぐっと大人っぽくなったもの。マカちゃん、好きな子でもできた

 その言葉は、思いがけず私の胸に刺さった。

 夕暮れが迫っている。真っ赤な夕暮れが。

「私、好きって分からないです」

「まあ。マカちゃんモテそうなのに」

「そんなことないです」

 モテる人の気持ちは、私には分からない。パパはママと私が今でも一番好きだって言うけど、ならどうしてずっと他の女の人と仲良くしたりパブに行ったりするのか分からない。ソウルはパートナーにするならムチムチなネエチャンがいいって言うけど、いざムチムチなブレアに迫られても鼻血を出すことしかしないし、かと思えば可愛い女の子たちからたくさんラブレターをもらってもその中の誰かと付き合うこともしないし、よく分からない(もしかして実は私の知らないところで恋人の二、三人くらい作ってるのかもしれない。そう思うと私の小さな胸はすぐもやもやでいっぱいになった)。オトコノヒトって分からない。分からないものはスキかも分からない。

「じゃあ、大人っぽくなったマカちゃんに」

 悶々してたら、おねえさんがいつの間にか私に何かを手渡した。反射的に受け取ってしまってから、それを目の前に翳す。

「口紅

「パッと見は似てるけど、いつものとは違う色よ。蓋を開けてみて」

 言葉に従って小さな筒を引っ張る。出てきたのははじめてお化粧をした日からずっとつけてきたチェリーピンクじゃない。目が惹き寄せられるような、純な赤。瞳の色。夕暮れの空の色。気持ちが浮いて憂いて、でも。

「きれい」

「今のあなたなら、きっと似合うわ。あげるから使ってごらんなさい」

「あ、でもそんな」

「いつも頑張ってるご褒美。マカちゃん、疲れてるでしょ 目の下にクマできてるわよ」

「ええっ!?

 思わず目を覆った私をおねえさんはひとしきり笑って、私の唇にあの赤を差してからクマを隠すお化粧の仕方を教えてくれた。私は重ね重ねお礼を言って浮足立ちながらデパートを出た。スーパーで夕飯の買い物はしたのに、見事に三倍返しのことは忘れた。ま、いっか。




 夕飯を作っているうちに日は落ちて、夜がとっぷり訪れる。月は依然として星より暗い。私は窓辺に座って、夜空を、月を見上げる。一人の夜は月を見るのが怖い。でもあの子はきっともっと怖い思いでいるんじゃないかって思うと、見上げずにはいられない。そう、たとえ隣で一緒に見上げてくれるひとがいなくても。

「考えごとですか、おねーさん

「うおわあああっ!!?

 突如耳元で囁かれて、咄嗟に椅子から飛び上がって裏拳を繰り出した私はさすがだと思う。でもそれが犯人の顎にでもクリーンヒットしてたらもっと良かったのにな、なんてちょっとがっかりもする。

「いつまで経っても色気のねえ声してんな。最近の死武専はゴリラの職人とのコミュニケーションの取り方も教えてんのか

「んなわけないでしょバカ

 ついツッコみ返してから、私はこの裏拳を受け止めた不届きモノをまじまじと見つめた。落ち着きを増した白髪は、夜闇に近いと銀に煌めいて見える。垂れがちな灼眼をつと細め、そいつはギザギザの歯を見せて笑った。

「ただいま、マカ」

「お帰り、バカソウル」

 私はつっけんどんに言って、手をふりほどくとさっさと夕飯をよそりにリビングへ向かった。後ろからアイツがついてくる気配がする。

「思ったより早かったね」

「キッドはきっちりかっちりだからな。おかげでフライトも魔女への報告も何もかも順調だったが、あの野郎のきっちりかっちりのせいできっちりかっちりいかねえこともあってよ。おかげで今回も形態変化で肩凝ったわ」

 柄を中心にして鎌をシンメトリーにしろだのもうミリ左は長いだの違うそうじゃねえだの、うるせえの何のって。

 ソウルの仕事の話を聞きながら以前リズにもらったスパークリングを開けて、食事になだれ込む。ラストデスサイズさまはそう呼ばれ出してからずっとデスサイズスの中で話題性ナンバーワンだけど、一番の若手でもあるから使いっ走り度もナンバーワンだ。ヨーロッパの幽霊城へ送り込まれアフリカのジャングルに放り込まれ、今回はこの世ならざるこの世の一角、魔女界へ連れて行かれていた。まったくレコード買いに行く暇もねえ、死神様の武器ってのはとんだブラックだなんてぼやきながらでもパパは今でもいっつも暇そうだし、単純にコイツが良いように使われてるだけなんだと思う、コイツはいつものすかしたような顔つきで満更でもなさそうに世界を飛び回っている。ブラック☆スターと並ぶサボり魔として有名だったコイツがこんなに仕事熱心になるなんて、七年前に誰が予想しただろう。

 私は話しながら食べながら、ソウルの様子を窺う。パートナーを組み始めたばかりの頃は締まりのない顔ばっかりしてたのに、今じゃ別人みたいにきりっとしてる。子供らしい柔らかさが目立ってた顔の輪郭も、その幼い甘さが抜けてまた別の、今飲んでるスパークリングのような鋭く端整なものが、顔だけじゃなく骨格全体に漂ってるような気がする。

 ソウル、ちょっと痩せたかな。彼の筋ばった手を見ながら、私は思う。

 ソウル、やっぱり変わったな。その手がフォークとナイフを雑なように見せて美しいマナーで操るのを見ながら、私は感じる。昔はもっとわざとらしく雑にしてたのに。

「でキッドがぜひって言うからまた魔女界の音楽を聴いたんだけどよ、あれはよく分からねえもんだぜ。音楽っていうよりまるっきり呪文だ。だがあのコーラスはもうちょっと聞けば何か分かりそうな気がする。あれは悪くねえ」

 この音は二人で作って来たものだろう、と言ってくれた。何度でも二人でそれを伝えようと約束した。クロナを迎えに行き、鬼神に思い知らせてやろうと、二人の魂の共鳴を世界中に見てもらおうと言えば、彼は破顔した。

 二人はいつまで二人でいられるのだろう。

「キッドにも、お前の親父ほどじゃねえが合わせられるようになってきた。やっぱり平和にはなってるが狂気はなくならねえし、俺もデスサイズなんだからぼちぼち色々挑戦してみねえとな。ブラック☆スターも『もう一度やり直してみねえか!?』なんて言って来やがったんだが、今のアイツに魂威うっかりぶち込まれたら死ぬ気しかしねえ……いやでも

 鎌職人のマカ=アルバーンは死武専教師マカ=アルバーンで、魔鎌ソウル=イーターはラストデスサイズ・ソウルイーターエヴァンスで。でもマカ=アルバーンはあの頃から何も変わっていないのに、ソウルイーターエヴァンスは、マカ=アルバーンの知らないところでどんどん変わっていく。

 二人はいつまで二人でいられるのだろう。

「悪ぃ、先風呂入ってもいいか 気ぃ抜いたら寝る気がするんで。明日 キッドのとこ行く。一緒にホウレンソウとかきっちりかっちりやんなきゃならねえからよ。ったく、だりーったらねえぜ」

 ソウル。ソウル=イーター。エヴァンスを背負うことになっても、一緒に仕事をする回数が減っても、滅多に会えなくなっても、たとえ他の誰かとパートナーを組むことになっても、いいと思ってた。私たちの調和の波長の、あの記憶さえあればいつでも心は繋がっていられると呑気にも思っていた。だって、あの時は一緒に鬼神と戦って来たっていう勇気があったから。

 でも、人は簡単に恐怖する。

 二人は、いつまで二人でいられるのだろう。

「マカ……

 困惑と僅かな動揺を含んだ声が、頭上から、また伏せた胸を伝って聞こえた。眠気で低く掠れた彼の声は、ざらついた振動となって私の体を震わせる。やっぱり身体つき逞しくなったよね。胸板とか硬いよね。首筋もなんか筋ばっちゃってるし。ソウルのくせに生意気。

「おい、マカ 寝ぼけてるのか

 眠気のもやを漂わせていた声が、急にはっきりした。起きてしまったらしい。私がお風呂から上がった時には、もう自分のベッドの上ですっかりすやすやしてたはずなんだけどなあ。さすがに上に寝転がれば起きるか。一応デスサイズだもんね。

「起きてるよ」

 私は顔を上げて、ソウルの胸に重ねた両手の上へ顎を乗せた。赤い瞳がぱちぱちと瞬いて、それから予想通り顔を顰めて叱りつけるように罵った。

「起きてるよ、じゃねえっ 降りろ

「ねえソウル、こうやってると懐かしくない

「やめろよ もうガキじゃねえんだから」

「いつも散々色気がねえちんちくりんって言ってくるのはどこの誰だっけ

「私が悪うございましたマカお嬢様はたいへんウツクシューございます。ですからお退きになってくださいやがれ

 ソウルは慇懃無礼な口調、乱暴な手で私を引きはがそうとする。ブレアだったら引きはがそうとなんてしないくせに。だけど私は職人である。急所を突くように容赦なく、筋張った首に両腕を回してひっついた。

「おっおい

「アンタって、本当に変わらないよね」

 変わったくせに、何で私のことは変わってくれないの。

 私、そんなに変わっていないのかな。それともあなたの中の私が変わっていないの

 何かおかしいことに気づいたのか、ソウルは抵抗するのをやめた。しかしその両手はいつでも引きはがせるようにだろう、私の肩に置かれている。

「どうかしたのか」

「どうかしたわよ」

 アンタのせいで。付け足すと、垂れがちな瞳が大きく見開かれた。私は苦笑する。

「ううん。どうかしてた」

 急に悟った。彼の中で、マカはマカでしかないのだ。

 私はマカ。鎌職人のマカ。マカがマカ以外の誰かに生まれ変わることはなくて、だからマカから鎌職人は切り離せない。

 ならば、マカはソウルの鎌職人からは抜け出せない。マカはずっと、ちんちくりんでガサツで色気のない、ソウルの職人。

 でもソウルはもうデスサイズなのだ。マカだけが彼の特別だなんてありえない。死神やたくさんの職人で上書きされて上書きされて、マカは薄れてしまうのではないか。

 調和の波長は、自分達の最大の武器だ。それはきっとこれからも求められていくだろう。けれどもし、マカ以上の退魔の力を持つ職人が現れたら。またはマカよりずっと相性のいい職人をソウルが見つけてしまったら。

 人は簡単に恐怖する。

 二人は結局、一人と一人でしかない。

「ソウル、私

 その先が言えない。ソウルは優しいから、自分が離れたくないと言えば何のかんのと言いながらもきっと従うだろう。そんな形で縛りたくない。

 けれど、彼をデスサイズとそれを作り上げた職人という過去の関係性だけでなく、現在未来と確実に自分に繋ぎとめておく何かが欲しかった。

 それだけだった。

 気が付けば、大きく見開かれた赤に惹き寄せられていた。透き通る赤に映る自分の顔を見て、あの口紅差しておけば良かった、なんてぼんやりと思った。

「…………」

 いち、に、さん。心の中で数える。これって、何秒くらいくっつければいいものなんだろう。分からないながらも離した唇に、押し付けられていた唇がもとの形へとやんわりふわっと戻ろうとする柔らかな感触を感じて、ああいつか本で流し読んだ通り本当にキスってふわふわするものなんだと思った。

 私はじいっと間近にある色素の薄い端整な顔を見つめた。唖然とした顔って、こういうののことを言うんだろうな。いつも憎たらしい笑い方とか仏頂面ばっかりしてるけど、これは可愛くないこともないかもしれない。ブレアの気持ちが分かった気がした。

「お前、酔ってるのか

 だけどそう尋ねたツラは、思いっきりぶん殴った。

「酔いだけでっ、こっ、こんなことするもんかバカヤロー

 私は立ち上がって怒鳴りつけると、敏捷に自分の部屋へと駆け戻り鍵をかけた。ベッドにダイブして布団をかぶり、耳と目を固く閉じる。それでもドンドンとドアが叩かれる振動と何か言うソウルの声が伝わって来た。

 しばらくそうやって堪えていたら、辺りは静かになった。ソウルがいなくなったらしい。だから、一人で小さく呟く。

「ごめん」

 私、最低だ。好きでもないのに恋人でもない人に勝手にキスして、逆ギレして殴って。きっと怒りたかったのはソウルの方なのに。

 でも。でも、でも。

「置いてかないでよ、ソウルぅ……」

 あまりに情けない声が出て、思わず笑ってしまう。笑いで喉が引き攣って痛い。引き攣らないでよ、私の喉。全くもう、情けない。可愛くない。強がり。だからパパもママも一緒にいてくれないんだよ。

 目が熱くなってぎゅっと瞑ったら、目の裏が赤く染まった。


 

 

 


[ノスタルジアに甘えて]

 本当は気付いていた。柳のような身体が次第に丸みを帯びていくことに。それはまるで硬い蕾が膨らみ色付くよう、春を迎え今咲かんとする花の如く遅々とした変化だったが、出張から帰る度、離れていた時間が長ければ長いほど嫌でも気づいた。ガサツな彼女が化粧を覚えた。着る服の傾向が変わった。そのせいか、ちょっとした何気ない所作に女が滲むことが増えた。

 けれどまだ大雑把な動作の癖はそのままで、時折たっぷりしたスカートからすらりと健やかに伸びる太股や秘しておかなければならない花園のヴェールが覗いてしまうこともあって、そんな時は辟易しながら目を逸らした。そういう状況に出くわした時、大胆に迫られるのとはまた違った種の劣情が、腹の下で疼くようになった、それも見ないふりをしていた。

 分かっていた。もうちんちくりんではない。けれどまだ、女でもない。彼女はゆるやかに成長する乙女だった。

 認めてはいるのだ、彼女は確かに女性である。だがそれ以上に、長いことペアを組んできた大切なパートナーだ。これから誰と組むことになろうと誰に使役されることになろうと、彼女が自分をデスサイズに仕上げてくれたかけがえのないマスターであることに変わりはない。

 彼女と過ごしてきた時間は、とても心地よいものだった。幾度も死線を共に潜ってきた自分達は、自然と魂の相棒、ソウルメイトになっていた。出会ったのが比較的幼い時分だったのも、それを後押しした。そのお陰で自分達は互いの性別やしがらみを意識することなく、純粋に一人の職人と魔武器として向き合えた。

 加えて卑屈で籠りやすい自分とは対照的に、一本気でさばさばとした彼女の性格も快いものだった。不満があれば正直に口に出して時として手足が出ることもあったが伝えてくれる。考えていることが表に出やすく、表情もつられてコロコロとよく変わる。単純だが自分にはない一途な意志があり、時として男より男らしい気概を見せることもある。たとえるなら難解な迷路において自分なら一歩下がって正当な道筋を考えるところを、彼女は道も順路も何もぶち壊して一直線に進んでいくような人間なのである。それを眺めるのは時折腹が立つこともありはしても、痛快であることに変わりはなかった。

 こんなに気兼ねせず接することができるヒトなんて、今後そうそう現れないだろう。もうとっくに第二次性徴も終わったから、今後会う女は皆女である。身体的または文化的性差からくるものの見方だとか、男女の仲におけるABCだとか、そんなことを考えながら赤の他人と付き合うのはひどく億劫だ。こちとらデスサイズ業で日々世界を駆けまわっているというのに、キレイなドレスにイカしたスーツ、ドレスコードで腕を絡め、向かうは夜の眺望美しいレストラン、その窓際にてシャンパン傾け「ご趣味は」「ピアノを少々」などとお行儀よく向かい合ってちんたら自己紹介ごっこをしている暇なんてない。そこまで仰々しくなくフランクにするまでも、男と女のデートなんて基本原理は一緒である。ちくちく布地に刺繍針を刺して、この模様がいいだろうかこれだと自分の理想に合わないだろうかとうんうん唸る、そんなようなものだ。声をかけられたから自分も試しにお針子ごっこは少々やってみたが、そんな性分じゃないからさっさと放り投げてしまった(と言うより、針を指さな過ぎて相手に投げられた)。

 そんなわけで男女というのは非常にリスキーな関係性である。その危険要素を、かけがえのない少女との間に新たに持ち込むなんて、考えるだに恐ろしい。しかし、彼女は日々たおやかに成長していく。一つ屋根の下、うっかりその要素に目が行って取り返しがつかない過ちを犯してしまうのも、時間の問題のように思われた。

 幸い、自分は「見ないふり」と「蓋をする」が得意だった。そうやって、強いて彼女と自分の時間を止めた。おかげで自分の視界に映る彼女は、ガサツで色気のない、子どものようにひたむきで強い少女のまま変わることがなくなった。

 そうして、自分は願う。いつか自分達が道を違えるまで、一つ屋根の下に住むことがなくなって、誰か他の人間と生涯を共に歩むことを決め、それでも彼女と自分の互いがいつまでも魂の相棒であり続けられると信じることができるその日まで、どうかこの儚い幻想空間で彼女との心地よい一時を続けさせてほしい、と。

 それが美しく自己犠牲的な友愛に見せかけた、ただのエゴイズム的な恐怖からなるものでしかないと、心の底では理解していた。それでもずっと大切に築き上げて来たこの関係を、彼女との繋がりを、絶対に壊したくなかった。




「ソウルく~ん、久しぶり~」

 瞼を開いたはずなのに視界が黒かった。いや、正確には何かが迫りすぎていて視界が陰っているのである。その正体は横の隙間から僅かに差し込む光が肌色をしていたのと、それが温かく柔らかい何かでたぷたぷと目の辺りで波打つことから、すぐに察しはついた。と言うか、これだけ繰り返してきていて気付かなかったらおかしい。

「おぅ……ブレアか」

 その正体を呼ぶと、視界が開けた。艶やかな黒を帯びた濃紫の巻き髪、やや吊り上がった大きな黄金色の双眸は明らかに人のものではない。色猫は変わらぬ美貌であでやかに笑うと、破廉恥極まりない服と言うより下着に近い衣装から溢れんばかりの魅惑にして罪の果実を強調するように両腕で寄せて俺の首に押し付けた。

「ソウルくーん、やっと会えたのにテンション低すぎなぁい

「おぅ」

「ブレア、ソウルくんのわたわたした可愛い声がもっと聞きたいなあ~」

「おぅ」

 鼻血はもう出てるからいいだろ。俺はぼんやりとブレアの顔を見上げる。猫目がきょとんと見つめ返してきた。

「ソウルくん

「あー……あっ

 オレは無理矢理飛び起きた。にゃあと声を上げてブレアがひっくり返ったがそれどころじゃない。目覚まし時計を掴んで覗き込む。短針がまだⅦを差しているのを確認した途端、止まっていた息がゆるゆるとこぼれた。良かった、まだ待ち合わせの時間には余裕がある。

「支度しねえと」

「あれ、お仕事

 俺は頷いて立ち上がった。鼻をティッシュで押さえたまま速やかに洗面所へ向かい、洗顔する。血は乾きかけていたから手荒く擦って落とす。

「ソウルくん。マカ、今日何かあるか知ってるにゃ

「あ

 着替えてリビングに戻ってくると、既に猫に戻って食事魚屋が貢いだとれたてサーモンらしいを取り始めていたブレアが尋ねた。俺も席について今日の朝飯と向き合う。トマトリゾット。マカの飯。起きた時から、いや寝ていた間でさえ俺の心を蝕んでいた何かがざわめくのを感じた。

「マカ、ずいぶん早起きさんだったにゃ。ブレアが帰ってきたらもう出かけていくところだったにゃ」

「そうか」

 ブレアがバイトから帰ってくるのはいつも太陽が昇る頃。そんな時間では、まず死武専は開いてないだろう。特別な任務でもあるのだろうか。それならば昨日マカが自分に言わないわけがないし、仮にもデスサイズである自分が知らないはずがない。急な任務だろうか。それにしても、マカがパートナーである自分に何も言わず出ていくなんて。

 胸の内に暗雲が立ち込める。夕べから乱れていた何かが頭をもたげる。

「俺は何も知らねえ」

「ソウルくん、マカと何かあったにゃ

 さすが、敏い。俺は探るような黄金色を見返して尋ねる。

「なあ、アイツ最近どうしてた

「どうしてたって、どういうことにゃ

「だからその、毎日仕事したりとか、他にも色々してるだろ。元気にしてたか

「元気っていうか、忙しそうだったにゃ。この一ヶ月、死神様もそうだし出張が多かったから人手が足りないってぼやいてたにゃ」

「遊びに行ったりしてなかったのか」

「椿ちゃんとブラック☆スターのボクがいた時は、お茶してたみたいにゃ。あとは、本の虫にゃ」

「それ、本当にブラック☆スターたちだったのか

「ソウルくん、何が知りたいんだにゃ

「その、アイツは」

 言いかけて、言葉が詰まった。それにまた苛立った。

「恋人とか、できてないのか

「できてないにゃ」

「本当か 職場でもそれっぽいヤツいないのかよ」

「マカはそういうの分かりやすいから、気になるヒトなんてできてたらぶーたんが気付かないなんてありえにゃいにゃ。マカ、最近ずっとポエポエしてないにゃ」

 それもそうだ。マカはポエポエスイッチが入ればすぐ分かる。自由気ままで出かけていることが多いとはいえ、一日一食は家に飯をせびりにくるブレアが、それを見て察しないわけがないだろう。しかし俺はなおも問う。

「最近よりその前は 俺がいなくなることが多くなって、ずっとか

「ソウルくんクドイにゃ。ヒトにものを聞く時は要領よく簡潔に、にゃ」

「お前ヒトじゃねえけどな」

 だが仰る通り。俺は気持ち息を深く吸う。落ち着け、ソウル。COOLに行け。

「その、なんだ。アイツが俺に間違ってキスするような相手、心当たりないか

「にゃあっ マカが、ソウルくんに、キスぅ

「ば、バカっ。あんまでけえ声で繰り返すなよ

 俺は誰に聞かれるわけでもないのに、焦ってブレアを制した。それから、昨夜起こったことの顛末を彼女にかいつまんで語って聞かせた。

「んーむぅ、マカもなかなか大胆にゃあ」

「アイツ、男とか恋とかに憧れるガラでもねえのに何であんなことしたんだろうな。恋人がいて失恋した後ならまだ分かるけど、そういう奴がいたわけでもないんだろ なのに何でまた、よりによって俺に」

 ご丁寧に、俺の名前まで呼んで。昨夜の彼女らしくないか細い声を思い出す。何故か、自分が無性に悪いことをしたかのような罪悪感が押し寄せて来た。

「なあブレア、分かるか

 そう言って目の前の猫に視線を戻し、俺はぎょっとした。ブレアの金の眼に浮かぶのはいつもの嬌態ではなく背筋が冷えるほどに怜悧な理性で、それは今となっては懐かしい、彼女を魔女と勘違いしていた頃に垣間見せた眼差しだった。彼女は俺をしばし凝視し、やがてふいと目を逸らした。

「ぶーたん、知ーらにゃいっ」

「え、おいっ」

 俺の開こうとした口は、カボチャネイルの指で抑えられた。瞬きする間もなくヒトに化けたブレアは、嫣然と微笑んで言った。

「そこまでちゃんと状況が分かってるなら、あとは自分で判断しなさい。ソウルくんだって、男の子なんだから」

 そう言われると、もう何も言い返せなかった。




 その日は、仕事なんてロクに身に入らなかった。キッドやデスサイズが何か言うのに相槌を打つだけ。頭の中では昨日のマカが何度も俺にのしかかって、ぎこちなく唇を押し付け、そしていきなり嵐のように怒り飛び出していく、そればかり繰り返していた。

『アンタって、本当に変わらないよね』

 また目を開くと、仄暗い部屋の中でマカが俺の上に横たわっていた。薄く水の膜が張ったエバーグリーンの一対、仄かに朱を帯びる頬、小さくもぽってりとした桜色の唇。下ろされたアンティークゴールドの髪はまだシャンプーの香りを漂わせていて、華奢な身体は記憶にあるより柔らかく、俺の体にしなやかな肉の感触を与えてくることに狼狽した。

 だがそれ以上に苦しそうな顔をしていたからどうかしたのか尋ねたら、自分のせいでどうかしたのだと返された。言っていることの意味が分からなかった。

『ソウル、私

 あの大きな目が、ぎゅっと狭められる。今にも目尻から雫が一つ、零れ落ちるのではないかと錯覚して慌てた。その隙に、彼女の幼い顔は間近に迫っていた。

 シャンプーの甘い匂いとそれとは異なる首筋を擽るような香りが、濃厚に立ちのぼった。目を逸らせないまま、アイツがキツく目を瞑って唇を押し付けてくる様を見ていた。それは単純に唇に唇を当てる、口唇越しに並んだ歯の形が分かるようなキスで、しかもきっかり二呼吸分ほどくっついただけで離れていった時は、行為の意味が分からないのとは違った方向に驚いた。だって考えてもみて欲しい、俺だけでなく同い年であるアイツも立派に成人しているはずなのだ。なのにあの、書類に判子を押すような口付けは何だ。まるでまだキスのやり方もろくに知らない子供じゃないか。それなのに潤んだ瞳は立派に男を誘うような、不安定な熱に疼いていていや、真偽のほどは分からないまでも疼いているように見えたことに、何より俺が動揺した。

 だからつい、酔っているのかなんて聞いた。答えは握りしめた拳で返って来た。

 分かってたさ、純粋培養のアイツが生半可な気持ちでこんな真似するわけがないことなんて。でもしょうがないだろ。だって、相手はあの純粋培養のマカだぜ

 アイツは怒涛の勢いで部屋を出ていったから、このままじゃ引き下がれない俺は追いかけた。だがアイツは聞く耳を持たなくて、俺は鍵がかかったドアを何度も叩き続けた。

『ごめん』

 いくら叩いても反応がないのでしばらく黙って待ってみて、それでも返事がないから立ち去ろうとした時、その細い声は聞こえた。俺の記憶にある、勇ましい彼女とはまったく別人のような声だった。

『置いてかないでよ、ソウルぅ……』

 今にも泣きそうな声。それから数秒後、実際にしゃくりあげる音も聞こえた。マカの泣き声なんて久しぶりで、しかもあんなに頼りなさげな声を聞くのは初めてかもしれなくて、俺は愕然とした。

 茫然と立ち尽くしながらも、俺は思う。バカ言ってんじゃねえよ。置いて行くとしたらお前の方だろうが。お前はいつだって簡単に、誰にでも手を差し伸べる。意外と世話焼きなんだよな。ひねくれて協調性のない俺に手を差し伸べたのも、俺が魔鎌だからっていうたったそれだけの理由からだった。だから今にお前はまた、新しい特定の誰かの世話を焼き始めるだろう。ああ、別にいつまでもいついつまでも俺の世話を見ろなんて言わねえさ。どっちかって言うと世話見てるのは俺の方だしな。お前は好きなようにすればいい。お前が突っ走ろうとするのを俺がリードして合わせる、昔からそうだっただろ

 だいたいお前、今の状況見てみろよ。明らかに俺の方が置いて行かれてるじゃねえか。男なんてみんな浮気ばっかりして信じられねえって言ってたじゃねえか。なのに何だよ、何で俺なんかにキスなんてしたんだよ。他のまったく知らねえ誰かならまだ分かるよ、何でお前なんだ。誰よりも俺の近くにいて、誰よりも俺の暗いところを見て来たお前が、何でそんなことするんだよ。自惚れるにも、戸惑うだろうが。

 またマカが唇をくっつけてくる。押し付けるだけの唇。それは言葉なくとも、まるでそれしかやり方を知らないと言っているようで。

 あんなのキスのうちに入らない。キスというのは愛撫の一環だ。もっと互いの唇の形をなぞるように寄せ強弱をつけて食み時として軽く歯を立ててみたりしてその柔らかさを堪能しそれから更に深みへと、その形状から第二のなんちゃらなどと呼ばれる中に舌を差し込めばアイツはどんな声を上げるだろうか。平素凛として強気な声は、理性にすがるように揺らぐのだろうか。それとも本能に抗うように狼狽を滲ませてイヤイヤと叫ぶのだろうか。小生意気で真面目な少女が官能を知った時、はたしてあのあどけなさの残る顔は女の顔になるのか否か

「うおおおおっ!!!

 目の前に星が散った。俺は目の前のシンクを睨み付けながら、そこに打ち付けたせいでひりひりと痛む額をさする。正直相当ダメージ喰らった。だが、いい一撃だった。

「くそ、COOLじゃねえ」

 俺は恨みがましくシンクに向かって舌打ちすると、ジャガイモの皮むきを再開した。

 長期出張の後の今日だから仕事の上がりは早く、俺は迅速に帰路につき帰宅、今は夕飯を作っている最中だった。ブレアは依然として出歩いているらしく、このまま夜のバイトに行くものだろうと思われる。つまり、今夜は俺とマカの二人きりになるわけだ。

 それにしても困った。俺はクラムチャウダーになる予定の鍋をかき混ぜながら考える。何に困ってるかって 具体的には三つだ。その一、昨日の今日でマカと二人きりになるらしいこと。その二、マカはどうも俺を、おそらくイイ方向性にこれまたおそらく男として意識しているらしいこと。その三、マカが仮にその二の通りだったとして、俺はまったく嫌な気がしないということ。

 そう、特に困るのはその三だ。俺は正直、マカを異性として好いているかどうか分からない。脳内シュミレーションでは異性の恋人がするようなことを彼女とすることは十分可能だということがリフレインの勝手な妄想進化により皮肉にも分かってしまったが、健全な若い男ならそれくらいたやすくできるものなのだろうし、それでいいのだろうか。相手のことを好きかどうかも分からないというのに。

 だが仮に、だ。これでマカが変に夕べのことを気にして、パートナーをやめようなどと言ってきたらどうする これがまだ俺がデスサイズになる前やなった直後ならともかく、もう俺たちは随分安定してしまってきている。調和の波長は確かに俺たちにしかできないことだが、それはパートナーを解消しても魂の共鳴さえできれば可能だ。後進の教育のために解散、なんて言われたらひっくり返せる自信がない。

「って言うか」

 そこまで考えて、はたとスーパーで安売りしていた牛ブロックの両面に塩コショウを振りかける手が止まった。待て、俺はマカとパートナーを解消したくないのか 当たり前だ。だって何かと考えすぎな俺には単純で爆発力凄まじいアイツがちょうどいいし、狂気に目が行きやすい俺にアイツの退魔の波長は合っている。一緒にいる分にも楽しくないこともないし、何より昨日ののしかかられたの唇が触れたの殴られたのというたったあれだけのできごとで、これまでの関係性が完全な積み上げられることのない過去になるなんて許せない。

 異性として好きかどうかは、まだ分からない。けれどアイツのことは一人の人間として、一個の魂として好きで、また離れたくないのも確かで、この関係性をずっと続けていけたらとさえ思う。しかもこれまでに散々一緒に足掻いてきたアイツとなら、七面倒くさい性差だとかABCの一個や二個くらい、この関係性に加えたってどうにかやっていけるんじゃないかって気がする。

 俺にしては楽観的な考えだと自分でも思う。うまくいくかどうかさえ分からない。破綻するかもしれない。けれどそれは、俺一人で判断するんじゃなくてアイツにも考えてもらおう。もう蓋をして見て見ぬふりをする、いつもの俺の悪い癖はやめだ。夕べのせいで、俺の中のアイツはもうちんちくりんではなくなってしまった。この落ち着き先は、実物を前にして考えよう。きっと大丈夫だ。だって、俺たちは何度も躓いては二人で手を取って立ち上がって来たのだから。

 この妙に楽観的でリスキーな確信も、アイツに影響されたのかもしれない。そう考えると癪で自分がバカになったような気がするが、不思議と不愉快ではなかった。

「た、だいま」

 玄関から聞きなれた、何度も聞いてきた声がした。いつもより強張っている。俺は彼女がスリッパに履き替える音を聞きながら考える。何て言おうか。キスは先にされてしまったから、ここはさすがに俺がリードしたい。女にリードされるなんてCOOLじゃねえ。いやでも待て、そもそもこれ思い違いだったら相当恥ずかしいよな。保険はかけておくべきだろうか。

「うわ、どうしたのこの料理。いつもより多くない

 マカがそれまでの緊張を忘れた様子でテーブルの上を眺める。カプレーゼにオリーブのオードブル、アボカドとブロッコリーのタルタルソース和え、パプリカを切りレタスを千切るのが楽しくてつい盛ってしまったレタスサラダ、生魚が嫌いな彼女のためにしっかり魚の臭みを抜くよう工夫した定番のクラムチャウダー、安い牛ブロックを活かすのにうってつけのローストビーフ、パンは行きつけのパン屋で適当にくるみとライ麦、クロワッサンなどを買って来たから並べてみた。ついでに今日食べなかったら明日の朝食べるのでもいいかと思って米も炊いてある。果物もあったものを数種、適当に切って並べてしまった。

 言われてみれば確かに作りすぎた。帰って来て料理を始めたのが午後一時頃、それからずっと物思いに耽っていたからだろう。何も考えず手当たり次第に食材を消費していたせいで現在午後六時、テーブルは軽くパーティー状態だった。

「んー、そうかもな」

「かもって」

 詰るためだろうか、俺を見上げた彼女がそのまま固まった。そう言えばすっかり見下ろすくらいの身長差になったんだなと俺は感慨深く思い、低い位置にある翠玉を見据える。そして彼女の白い頬が桜に色付くのを見て、つい頬が緩んだ。さすが俺の職人は、思わぬところで勇気をくれる。

「マカ」

「な、なに

「結婚しようか」

 あんぐりと口を開けて真っ赤になった間抜け面が、なんとも愉快だった。



 

 

 


[ノスタルジアに酔いしれて]

「まったくもう、だからって『結婚しようか』ってどうなの!? 私すっごいびっくりしたんだから! ねえ聞いてる!?」
「あーはいはい」
 私が何度目になるか分からないこの訴えをすると、ソウルはいつだって適当に流す。今日だってそう。向かい合って手の届く距離にいるのをいいことに、私の髪をくるくると自分の指に巻き付けながらやる気のない返事をした。それからつと、赤い双眼を私の顔へ移す。
「だってしょうがねえだろ。どっかの誰かさんが可愛く誘ってくれちゃうから」
「なっ」
 厚着をしているわけでもないのに身が発火したように火照って、私は後ろに下がろうとした。だけど髪を弄ばれていたせいでうまくいかず、躊躇った隙に腰に腕を回されてしまった。
「適当言わないでよバカっ」
「適当じゃねえよばーか。『アンタのせいでどうにかなった』なんてなかなかアツい台詞言ってくれたの、俺は今でも覚えてるぜ?」
 憎たらしく笑うその端整な顔を私は思いっきりはっ倒したくなった。けど不幸なことに、ここは窓際。後ろに引いた手は壁にぶつかって、それをいいことにアイツは空いた方の手で私の振り上げたその手を壁に押し付けた。
 くそっ、何で男ってこういうことばっかり上手いのよ!
「なあ、マカ」
「っや!」
 壁に追い込まれて自由の効かない状態で、私は身を捩った。少し熱を持った吐息と低く甘い囁きが、唇の動きさえ直接触れて伝わりそうな距離で耳に寄せられる。
「耳はやめろって言ってんだろ!」
「感じるから?」
 微かに笑いを含んだ問いが返ってくる。あー殴りたい、殴りたい、殴りたい!
 三年前は『お互い異性として好きかどうかはまだ分からねえだろ? だから手探りでのんびり試してみよう。結婚はそれからでもいいから』なんて言ってたくせに! 一年もしないうちにするようになったその目つきは何なの、何でいっつもこうなるとそんな目で見てくるわけ!?
「マカ」
 スカートを利用して両足の間に膝を割り込み押さえて、腰に回っていた右手が私の反らしていた顔に添えられる。至近距離真正面からその綺麗な顔立ちを拝むことになって正直恥ずかしいことこの上ないからやめてほしいのだけど、こうする度にコイツは透き通った赤い瞳を嬉しそうに細めるから、本当に卑怯。そんな優しい顔されたら抵抗できないじゃん。
 見つめ合うのに耐え切れなくて目を瞑ると、それを待っていたように口付けられる。そうなったらもう目を開ける勇気なんてなくて、閉ざされた視界で口内を嬲られるままになってしまう。視覚が断たれている分他の四つの感覚は敏感になっていて、熱く絡みついてくる舌や、それが絡まる度に響く恥ずかしい水音、合間にはっと吐き出される短い呼気、さりげなく寄せられる高い体温、そういった私を取り巻く全てで犯されているような錯覚に陥ってくる。
「三年経ったけど、全然キス上手くならないよな」
「う、るさい……っ」
 そして唇が離れればそうやってからかってくるのだから、タチが悪い。ちょっと顔が良くてモテるからって調子に乗るんじゃねえぞこの野郎。そう言ってやりたいが、長く熱を伝えられ呼気を乱された状態では喋ることもままならない。別に顔で選んだわけじゃないんだけど。
「どうしたんですかーマカさーん? さっきまでの威勢の良さがないですけど?」
「このバカソウっ、ん」
 罵ろうと声を強めて、慌てて口を抑えた。首と鎖骨の境を優しく舐められ、思わぬ刺激に身体が跳ねる。ソウルがくつくつと喉を鳴らした。こちらを見上げた瞳が、絞られた照明を反射してなまめかしく輝いた。
「まったく、これだから」
 たまんねえ、と囁く声は欲でざらついていて、幾度もそのざらつきを刻み込まれた腰はもうそれだけで溶けそうになる。
 死武専時代、ソウルが「何だかエロい」ということで噂になったことがあった。噂の主は主に女子。少し長めの白銀の髪から覗くアンニュイな表情、それが似合う整った容姿、また男の癖に雪を欺く白さの肌と、それを際立たせる対照的な真紅の瞳、そしてその年頃の男子にしては低くややハスキーな声。それらを総合して、エロいとのことだった。
 私も、その噂はまあ間違いないと思う。けれど当時の学生たちに今一言言えるならば、言ってやりたい。コイツのエロさは見た目のせいじゃないぞ。中身だ。よく分からないCOOLさへのこだわりと狂気をも制する鋼の理性のせいで分かりづらいだけで、ソウルがエロく見えるのはドスケベな中身が滲み出ているゆえなのだ。みんな間違ってる。ソウル先輩はドスケベですと書かれた貼り紙を校舎中に貼ってやりたい。
 声を抑えるために当てていた手が外れてしまった。ソウルが掴んで引きはがしたのだった。
「我慢するなよ。お前の声、聞きたいんだ」
 …………この、バカっバカっバカっバカっ!
 叫びたいがそんなことを叫ぼうとした時には、今だと間違いなくあられもない声に変わってしまうので堪える。こういうタイミングも卑怯。こうも耐えられないところまできてしまったら止まらないだろう。私は流されるしかない。
 でも、やっぱり言っておきたい。
「そっソウル!」
「何だよ」
 ソウルの頭を抱えてこちらを向かせる。訝しげに寄せられる細い眉。それから少し身をかがめて、その耳に口を寄せた。
「好き」
 そっと。空気を伝わせるだけ、ほとんど無音の声で囁く。こんなこと、はっきり声に出してなんて言えないから。
 だけど、私は知っている。頭を戻して抱えこんでいたソウルの顔を上向かせる。その耳はその瞳に似て、赤く染まっている。コイツは不意打ちに、ひどく弱いのだ。
「このやろ……ただじゃ済まさねえからな」
 ソウルが苦笑いして、私の手を引いた。倒れ込む視界の中、引かれた手と引く手、二つの銀が瞬くのを見て、私は微笑んだ。

 

 

 




(後書き)

ソウマカにハマってしまって困っています。

原作中であそこまで親密に、けれど恋愛要素があるかどうか微妙な二人を書き切られると逆にその後どうなるんだろう、もしかしてそのうち関係性も変化したり……?とかそんなまどろっこしいことを考えてしまう前に原作読みながら「これは美味い」と本能が惹き寄せられてしまってもうダメです。フィルター全開です。

 

個人的には「作中で実はくっついてましたー!」でも「本編終了後結婚しました!」でも、「いやいや、二人はずっと性別を超えた絆を持つ、心の友と書いてシンユウと読むって奴よ……!」のどれだっていいです。とりあえず惚れました。だから書きました。

 

以下、支部に挙げたキャプションよりまんま引用です。

 

ソウマカED後捏造。何でもいいからくっついてイチャイチャさせたかった。以前投降したものの続きができましたので、前作品を削除してまとめてあげさせてもらいました。ブックマーク、評価してくださった方申し訳ございません。ありがとうございました。
最終話後ソウマカは相変わらずパートナーとして働くことが多いのか、忙しくて全然会えてないのか分からないしどちらでもソウマカ的にはとっても美味いことに変わりはないのですがとりあえず忙しくてなかなか二人でいられない方向一本に縛って書いてみました。
ソウマカは原作ストーリー中で成立しててもただのコンビでも何でも、本当に何でも美味いからソウマカください雨乞いズンドコって感じなのですが今回は本編中にお互いにはっきりとした恋愛感情はなかったものとして七年後くらいを書いています。何で七年後なのかというと、ギリコさんが「七年後が楽しみ」って言ってたから。よく考えたらソウマカって十三歳から始まったんですもんね…小学生に毛が生えたようなもんじゃないですか…。でしかもお互いに恋愛に積極的じゃなさそうだから(マカは主に父親のせい。ソウルはコンプレックスやら何やらでそれどころじゃなさそう)、本編中は本当に良きパートナー、ソウルメイトで、ある程度大人になってからお互いの性やら人生についてやっと考える余裕ができて関係性について見直すようになって、それから成立したって楽しそうじゃない…なんて思って書きました。妄想乙。


というわけで少なくともあと一話分、ソウマカ書きます。

 

 

 

20150823