出陣
 
 
 天下三名槍と言えば結城の御手杵、本田の蜻蛉切、黒田の日本号の三本を指すと知らない審神者など、きっとこの国のどこにもいないだろう。槍男士は他の刀剣男士に比べ育成にひどく時間と労力と資源を注がなくてはならないが、育ち切った時にはかけがえのない戦力となる。雑兵をものともせず敵将のみを貫けるその鋭い穂先を求め、名立たる名刀をさしおき戦場を駆けまわる審神者も少なくはない。
 三本はその本体は勿論のこと、審神者の手により目視出来るようになった人の身も見事なものであった。容姿の趣こそ違えど六尺にも及ぶ上背に無駄なく鍛え抜かれた筋骨は美しく、また戦の美学こそ異なれど戦場で見せる槍としての矜持を漲らせたその雄姿に、魅せられぬ者はいないに違いない。
 さて、そんな性格外見戦法三者三様である三本だが、常にベタベタとくっついて離れないことこそないものの、実はそれなりに仲が良い。勿論その本丸に顕現する個体の組み合わせによって差はあるのだが、表面上どうであれ、概ね三名槍の間は奇妙な連帯感ないしそれに似た何かがあった。
 それは今回話題となる、さる本丸の三名槍においても同じらしい。各々に馴染みであったり気が合ったりする刀剣はいるのだが、槍同士で集まると、彼ら相手とはまた違った気安さを覚えるのだ。
 現にその晩も、三本は割り振られた大部屋にて円卓を囲み杯を傾けながらだらだらと語る、そんな時間を送っていた。語ると言っても特定の話題を熱心に話し合うわけではない。基本的に黙々と杯を干しては、ぽつりぽつりと話をする。その内容はいい加減でまとまりがなく、第一部隊の狩って来た首の切り口から鬼気迫る戦いぶりが伝わって来るだの、江雪左文字の本日一日において一番心の和睦に訴えかけた台詞は何だったのと話題は多種多様。語るペースにも緩急があり、しばらく黙っていたかと思えば急に盛り上がったりする。槍部屋とは、そういう場所だった。
「では、ここで質問です」
 冊子を手元に広げた御手杵が、何を思ったか突拍子もなく告げる。槍部屋の秩序がないのは五割方このマイペース極まりない槍のせいなのだが、そんなことはもはや他の二本も気にしない。
「蜻蛉切、質問だとよ」
 円卓に向き合いもせず、現代の夕飯後にテレビを見る親父よろしく片腕枕に寝酒と洒落こんでいる日本号が流す。一見最も自由気ままに思える豪放磊落傲岸不遜天上天下唯我独正三位な彼だが、実は他二本に比べると自分の方が平均的にブレーキのかかりやすい性質であることに自分でも気付いている。
「何だ、急にどうした」
 その日本号の真向かいで蜻蛉切が几帳面に問う。三河男士であると同時に本丸貞淑度及び包容度ナンバーワンを誇ると言われる彼だが、その誠実さと包容力がこの部屋の混沌を助長させていることに本人だけが気付いていない。
「この指は何本に見えますか」
 御手杵は右手の指を二本立てる。蜻蛉切がすぐさま答える。
「二本だろう?」
「三本」
「よし、いつも通りだな」
 平然と二本指を立ててのたまう正三位にも頷いて、御手杵は視線を落とし手にした雑誌の頁をはらりと捲った。蜻蛉切と日本号は、無言でその視線を追う。
「あんたらが部隊の隊長だとする」
 御手杵は目を上げて、真面目な表情で語り出した。何だ、戦術の相談か? 意図は分からないまでも、戦が絡めば黙って聞いてしまうのが刀剣男士の性である。二本は大人しく言葉の続きを待つ。
「あんたらは部隊を引き連れて敵陣に乗り込んだ。すると、前方に敵の秘密基地を発見した。ただこちらの刀装は残り少ない。戦いが長引けば不利になるのは間違いない状況だ。だが、あんたらは指示を出さなくてはならない。さて、どう指示を出す?」
「そりゃあお前――」
「一、とにかく先手必勝。その場で総攻撃を仕掛ける」
「選択肢あるのかよ」
「二、隊員と作戦を練って、勝機が見えれば攻撃を仕掛ける。
 三、敵に見つからないように万全の態勢を整えて、審神者からの連絡を待つ。
 四、敵地だから不利なので、一時退却」
 さあどれにする、とここでやっと御手杵が己の両隣を窺う。日本号が眉根を寄せて、無精ひげの生えた顎を擦る。
「情報が少なくねえか? まあいいや。俺なら二だな」
「迷うが、三で。勝ちに行きたいが、刀装もまともにない状態で敵陣に斬り込むのは危険だ。主のご意見を仰ぎたい」
「おおー、なるほどなあ」
 御手杵が感心した風の声を上げる。しかしその目は、もう冊子の方を向いている。
「診断結果を発表するぞ」
「は?」
「二を選んだあなたは用意周到な人。相手の情報は漏らさず集め、可能性があることを確かめてからアプローチするタイプです。だから成就の可能性が低ければ、決して行動は起こしません。自分が傷つくことを恐れるというよりは、相手に負担をかけたくないという気持ちが強いのでしょう」
 御手杵はどうも、冊子に書いてあることを読み上げているらしい。一区切り付くと日本号をちらりと窺ったが、ポカンとした顔を認めたらすぐにまた紙面に視線を落とした。
「三を選んだあなたは、好きな人が出来ても自分からは決してアプローチしません。相手からの出方を待つか、周囲の人が業を煮やしてあなたのために動いてくれるのを待つのがあなたです。自分が傷つくのを最も恐れるタイプです」
「お、御手杵殿?」
 蜻蛉切は戸惑いに太い眉を吊り下げている。
「今のはいったい」
「心理テストと言うらしい。人間の深層心理を暴くための問答のようだが、武器にも通じるのか試してみたいと短刀達が言うから、俺も協力して何人かに聞いてまわってるんだ」
 あっけらかんと、こちらの予想を裏切る言動を繰り出してくることには定評のある御手杵である。しかし今回のこれは初めてのパターンだ。蜻蛉切も日本号もやや目を丸くして、何と言ったらいいものか分からなくなってしまう。
「ちなみに今の問いでは、答え方次第で『回答者の恋愛の始め方』が分かるらしい」
 どうだ、当たってるのか? 御手杵は何食わぬ顔で飄々と首を傾げる。対して、蜻蛉切の顔は真っ赤に茹っていた。
「ひ、人が悪い! そういったものを問うのなら問うと、先に言ってくれ!」
「えー? 言ったら深層心理が暴けないだろ。なあ、当たってるのか?」
「知らん! 男児たるもの、そのような不名誉な結果を告げられて黙っては――」
「まーまー、そうムキになりなさんな」
 先に笑いだしたのは日本号だった。よっこらせと上体を起こすと、円卓に据えられた徳利を引き寄せて蜻蛉切に酌をする。
「その心理なんとやらのことは以前人間がやっているのを見たことがあるから知っているが、要は戯れだろ? 比喩で本当に訊ねたい所を上手く隠し、回答者の反応を見て遊ぶ手合いのものと見たがね」
「そうなのか?」
 蜻蛉切は酒をぐびりと煽ってから、恐る恐る御手杵に問う。彼は首を反対側に傾けた。
「んー。俺はこの質問を聞いてくれって言われただけだから知らないけど、そうなんじゃないのか?」
「だって全ての心を持つ者の色恋の始め方がこの四種に限られていたら、つまらんだろう」
 日本号がそう説いた途端、御手杵と蜻蛉切は揃って彼を凝視した。あまりに穴が空くほど見つめてくるので、流石の正三位もたじろぐ。
「何だよ」
「いやあ。その、流石だなあと」
「遠慮するなよ蜻蛉切。正直に言おうぜ。一番年食った見た目してるあんたが言うと納得な気もするが、やっぱりおっさんぽさの方が強くて助平臭いぞ」
「じ、自分はそのようなことを言いたかったわけではなくて」
「はっはっは、大丈夫だ蜻蛉切承知してる。おい御手杵てめえ目ん玉付いてんのか」
「偵察は苦手だがあんたよりは断然高い」
「そう言えば御手杵、先程その質問を聞いてまわっていると言っていたな? 他の者にも既に訊ねたのか?」
 軽い調子ながら言葉の応酬がやや加速してきた二本を見かねて、蜻蛉切が話題を逸らす。御手杵と日本号の東西槍は、喧嘩をすることなど滅多にないがこういったやりとりが始まると長い。それを遮ってやるのは、いつも蜻蛉切の役目である。
 果たして二本は、蜻蛉切の問いかけに気を引かれたらしい。言い返そうとしかけた口を噤んだ正三位の答えを待つ眼差しを受け、御手杵は天井を仰ぐ。
「あーそうだ。何口かに聞いた。同田貫と次郎と、ついでに次郎のトコにやって来た太郎と、太郎と一緒に内番やってたらしい長谷部に」
 面白そうな回答の気配を察知。日本号だけでなく、蜻蛉切も身を乗り出す。
「同田貫と次郎は一だって」
「彼ららしいな」
「結果教えたら――そうそう、一は『押して押して押しまくる』タイプだって――同田貫にはすげーどうでもいいって顔されたけど、次郎には『何だい、あたしに押して欲しいのかい?』ってその場で抱き付かれて俺廊下にぶっ倒されてさあ」
 あのタイミングで太郎太刀が来てくれなかったら俺は圧死してた、と御手杵はぶつくさ言う。大太刀は重い。それは次郎太刀自身分かっているのだろうが、ああいう性格だから仕方ない。日本号は大笑いする。
「はっはっは、そりゃあ見物だったろうなあ! 惜しいものを見逃した」
「他人事だと思いやがって」
 御手杵は唇を尖らせたが、すぐ気を取り直して話を続ける。
「で。太郎は聞いてみたら、三だって。結果を教えてみたら『そうですか』とは言ってたけど、俺の言ってること自体理解出来ないっていう心の声がありありと顔に出てた」
「太郎太刀殿は、幽世にほど近いところにいらっしゃるから」
「期待を裏切らねえ答えで」
「で、長谷部は」
 恐らくこの中で一番若々しい外見の槍は、一息置いてからおかしそうに言った。
「二からの三だって」
「両方か」
 蜻蛉切が驚いたように声を上げる。御手杵は首を上下に振る。
「何でもな、『秘密基地と言うからにはそれ相応の重要な何かが隠されているのだろう? 守りも堅いに違いない。まずは状況を探り、分析して勝算を叩き出す。それから態勢を整え、主にご指示を乞う。そこに多少の損害を被ってでも成し遂げるべきものがあるならば突き進むべきだし、それほどでもないならば退くべきだ。だがそこから先を決めるのは、俺の意思ではなく主の命だ。予め聞いた通りに行くかその場で指示された通りにするか、いずれにせよ俺は従うのみ』、だと」
 へし切長谷部の口調と台詞をそっくり真似したらしい御手杵の身振り手振り声色に、残る二本は漏れなく噴きだす。
「それは、全ての回答を網羅していないか?」
「行動だけ見れば確かにそうだな。だが、軸はあいつの言う通りだろう」
 言いながら、何ともあの刀らしいと日本号は思う。へし切長谷部は決して、主の言うがまま成すがままだけでいる刀剣ではない。主命を尊重し、己で考え己で尽くす男士だ。あの刀の主への献身はたとえ自己承認欲求と裏表であろうとも本物で、だからこそ一番優先すべき主の命と己の尽くしたい形とが一致しない時も、悶々とした感情を呑み込み主の命を押し戴くことを選ぶ。
「相変わらず面倒くせえヤツだな。たかが例え話に、全力で練った答え返してきやがって」
「長谷部もきっと、これがそういう意図の質問だと知っていたらこうは答えなかったんだろうな。俺がネタ明かししたら、『この暇人が』って言いたそうなすげー呆れた目ぇ向けてきたから」
 容易に想像できて、日本号は苦笑した。やはりあの仕事中毒者は、自分以外にも厳しい。それを聞くと少し安堵する自分がいて、不思議な感覚に内心首を捻った。
  再び盃を傾ける。口内において辛く清涼感のある酒は、喉を通ると意外なまろやかさと仄かな甘みで飲み手を楽しませてくれる。御手杵が俺にもくれよと強請るから、少しくれてやる。御手杵はグイと飲み干しもう一杯とまた強請ろうとして、日本号はまあ待てよなあ蜻蛉と振ろうとして、そこでやっと何か考え込んでいる風の蜻蛉切に気付いた。
「どうした、蜻蛉切」
「……主がな」
 俯きがちな、どこか憂いている風の面差し。そう感じ取ったから黙っていたのに、この誠実な大身槍はとんでもないことを言い出した。
「長谷部に連れ合いが欲しいと言っていた」
「は?」
 今度こそ、話題が吹っ飛んだ。
 周囲はよく誤解するが、三名槍において一番の迷打撃を放つのは蜻蛉切なのである。最近短刀達がはまっている現代の遊戯野球で喩えるなら、御手杵がちょこちょこと内野安打と外野安打とファウルを繰り返し、日本号が確実な鋭い打撃で出塁するのに対して、蜻蛉切はあまり打席に立つことこそないが一度立てば場外ホームランをぶっ放すという、そういうタイプだ。
 二本が呆気にとられて言葉を失ってしまったのをどう取ったのか、蜻蛉切は再び口を開く。
「長谷部殿はほら、あの通りの性格だろう?」
「あの通りってどの通りだよ」
 御手杵が的確に掘り下げる。蜻蛉切は答えに迷うかと思いきや、すぐさま言った。
「主は、長谷部殿のあんまりにも人に尽くし過ぎようとする姿勢を危惧されている」
 そこか。いや待て、それと連れ合いとどう関係があるんだ。連れ合いというのは、聞き間違いか?
 日本号は黙って傍観する。
「主曰く、アレは長谷部殿の強さだが、あまりに危うくて諸刃の剣となりかねない。長谷部殿のああした言動の根底にあるのは、挺身も厭わない他者への無辺の愛情と自己への承認欲求だ。だからこそ、その制止のかけようの難しい在り方が最大の泣き所でもあると」
 まあ、主の称するところも間違いではない。
 愛情や欲求等というものは、いくら尽くそう満たそうとしても尽くしきることも満たしきることもできない。長谷部は特に欲しがりだから、いくら誉れを与えられても満足できないだろう。
 もっともっと尽くしたい。そう思えば、その行く先にたとえ鉄屑となる未来が待っていようとも躊躇しない。
 それが日本号の知る、長谷部という刀剣だ。
「だから長谷部殿のような方は、人間に尽くそうとのみし続けてしまうと心が磨り減ってしまうだろう、と。彼自身のあの考え方が変わらぬなら、何人の主に何回どう仕え尽くそうと、相手が寿命短き人間である限り、何度も辛い思いを味わうことになるだろう。それが長谷部殿の刀身を磨り減らし、何時しか滅ぼすことに繋がるのを、主は懸念している」
 ーー付喪神にあの世があるならば、ついていきたかった。
 過日落とされた声が、日本号の鼓膜に蘇る。訥々とした、彼らしからぬ何処か諦めの滲んだ語り方は痛々しく、黒田での過ぎ去った日々と同じように忘れようにも忘れられなかった。
「そりゃ仕方ねえよ。愛別離苦なんて、長谷部でなくたって誰でも何にしてもつきものだろ?」
 御手杵は率直だ。その突くことに特化した穂先と同様に潔い。
 件の刀剣にも彼のような潔さがあったら、と日本号は思う。
「あの人も意外とお節介なんだな。うちの長谷部なんて、数多くいる分霊の一振だろうに」
「はは。そういうわけではないと思うぞ。あの方が求めているのは本霊の在り方の変化ではない。今この本丸にいる長谷部の、切れ味の鋭さのみだ」
 御手杵は目を瞠った。そうきたか、と日本号は呟く。
「苦しみや恐怖は、予感だけでも切れ味を鈍らせる。たかが一時の主を失うが如き懸念で切れ味を鈍らせることは許さない、と主は仰せだ」
 へし切長谷部という刀は、付喪神の中でも特に顕現者の存在に依存しがちだ。その性格を理解して尚、万全の状態で常に戦えるようにしたいと、そういうわけらしい。恒常的な勝利に貪欲な、我らが審神者らしい考えだ。
「あの人も、つくづく戦の鬼だなあ」
 御手杵が呆れたように零し、だからこそこの本丸は楽しいんだがと付け足した。蜻蛉切も全くだと破顔してまとめる。
「そういう次第で、長谷部に一歩進んだ強さ身につけて欲しいのだそうだ」
「で、それと連れ合いがどう関係してるんだ?」
 日本号は問題の一言を掘り起こす。おおそうだったと拳を打つ蜻蛉切は、あれだけ衝撃的な発言をしておきながら忘れていたらしい。
「連れ合いが欲しいというのは、擦り上げ役がいてくれたら、ということらしい。たとえば長谷部殿と同じ時間の感覚で生きていて、まっとうに過ごせば先に天寿の尽きる虞のない、長谷部殿のことを認め気を遣り続けてくれる相手。彼が共にいることを許し、彼が折れそうになったら再起させられる者。そういった相手が傍にいてくれれば、それによって長谷部殿の危うい部分を少しは補え、いつしか長谷部殿自身も主に依存する在り方から少し離れられ、己でその切れ味に磨きをかけられるようになるのではないかと」
「そんなことが可能なのか? 長谷部が主以外に共に歩もうとする奴なんて……」
 ここで御手杵は、ちらりと右隣を窺う。目と目がかち合った。
「なあ日本号。どうよ?」
「あ?」
 そこで俺に来るか。直入だな。日本号は一度、隣人から意識を逸らして考える。
 付き合いは誰よりも長いと自負している。奴自身のことを正確に理解できているかというと微妙なところがあるが、あの複雑な性格に付き合うのももう慣れた。普段何のかんのと言い争いはするし鋼の身の頃は戦場で共に振るわれたことすらなかったけれども、昔から奴のことは黒田の宝刀にして戦友だと認めている。あの危なっかしい性格は放っておけないし、好きか嫌いかと問われれば。
「まあ、俺ならばその条件に適うだろうな。面倒臭ぇ奴だが、あいつに折れられると困る。本霊も傍にいるよしみだ、この本丸にいる間くらいなら、多少は世話見てやったっていいぜ」
 すると何故か、御手杵は微妙な面持ちになった。
「あー、あのな。俺が今聞いたのは、長谷部に連れ合いが必要だって意見についてどう思うかってことなんだが」
「え?」
「え?」
 束の間の沈黙。
 三人分のけたたましい絶叫が響いた。それはまるで戦の始まりを告げる法螺貝の音の如く、本丸の夜空に長く尾を引いた。





敵の気配を察知

 
「御手杵てッめぇ! ふざっけんなこのッ!」
「ひぃぃぃ」
 大絶叫の直後、槍部屋は技かけ大会会場と化していた。四文字固めを掛けている日本号は声を荒げ、その長い足に絡めとられている御手杵は悲鳴をあげている。その悲鳴は技をかけられている苦しみだけから来るものではなさそうだ。蜻蛉切はそう見当をつける。何故なら御手杵は、喘ぎながらも笑っているからだ。
「す、すまねえ日本号…っ! 俺は、強がりなお前の心のトクベツやわいところを刺しちまった……っ!」
「だァれが強がりだおらぁッ」
「あだだ! あッあの正三位殿が面倒をっ……この本丸にいる限り面倒を見て下さるなんてぶへッぶはははははあーやべやべ待って待って待ってホント落ちる」
 正三位がその隆々とした筋肉で本格的に締めにかかる。御手杵の声に苦痛の色合いが増し、蜻蛉切ぃと情けない声で助けを求める。呼ばれた槍は苦笑して声をかけた。
「日本号、そのくらいにしてやれ」
 彼の方とて、そろそろだと思っていたのだろう。日本号は舌打ちをしてから身体を離し、すぐまだ空になっていない一升瓶へと近寄って行った。御手杵は咳き込んでいる。その丸まった背に水を差しだしてやりながら、一杯あおる日本号を見て笑みを浮かべる。
「しかし、やはり憎からずは思っていたのだな」
「どういう意味だ」
 垂れがちの双眸がじろりと睨み付けた。要らぬ茶化しをするようなら斬ると言わんばかりの視線を、緩やかに首を振って否定する。
「いやなに、貴殿らは顔を合わせれば小言と憎まれ口ばかりだから、少々心配していたのだ」
「……それは、悪かった」
「もっとも、最近の戦での貴殿らの雰囲気を見ていれば杞憂だろうとは思っていたのだがな。はっきり口に出してくれて、安心した」
 そうか、とだけ日本号は返した。どうもこの誠実な槍に穏やかな言葉を向けられると、強い言葉を返せなくなってしまう。乱雑に頭を掻いて、日本号は気まずさを紛らわせた。
 呼吸の回復した御手杵は、何も言わずに穏和な槍の差しだしてくれた水を啜っている。蜻蛉切は微笑んだまま、日本号に確認する。
「長谷部殿のことは、大切に思っているのだな」
「あれでも、世話になった主が気に掛けていた刀だからよ」
 多少人の手を移ったこともあったが、日本号は黒田の下にいた期間が長い。そもそもの持ち主であった母里家も黒田家も日本号を宝として誇り、丁重に扱ってくれた。付喪神にとって、持ち主が自身を誉れとしてその存在を世に知らしめてくれることは何よりの活力となる。日本号の気質にも合っていたあの家で長い時を過ごせたことは、非常に幸福なことだった。
 そして日本号が黒田の傘下に入ってから、へし切長谷部が宝として扱われていない時は無かった。
 かけがえのない、この世に二振とない宝として大事にされているくせに、戦で誉を上げられないことを憂き目に感じているような変な刀で、守り刀として黒田の家を愛し守ろうとしながらも、戦場で主のため働けないことを嘆いていた。
 そこを、日本号は気に入っていた。
「長谷部も日本号のこと、他の刀とは別だと思ってるところがあるよな」
 黙していた御手杵がふと呟いた。日本号が反射的に険しい目を向けた途端、御手杵は慌てて両手を振る。
「ちげーよ、今度はちげーよ! 真面目に! 普段から思ってること言うから! ……長谷部って口悪いけど、主命の都合とか相手から何か言って来た時でもなければ、誰かに文句言うことってあんまりねえだろ?」
「そうか?」
「おう! 俺、前に非番の日にだらだら縁側で寝てて歌仙に怒られたことがあるんだけど、その前に俺の横を通った長谷部は全く怒らなかった」
 日本号は思い返してみる。ある晩、縁側で月見酒と洒落こんでいた所へ長谷部が通りかかったことがあった。その時「邪魔だ退け」と罵られた記憶がある。
 翌日に出陣があったわけでもなく、通行の邪魔にならないよう背後に十分な空間を空けておいたにも関わらず、だ。
「でも馬当番の時に鯰尾と糞野球してるのが見つかった時は、すげー怒られた」
「糞野球って何だよ」
「固めた馬糞を鍬で打つ遊びだ」
「ふざけんなよ」
「もっと叱られろ」
 日本号と蜻蛉切と二人して罵る。御手杵はちゃんとその後掃除したぞ、と唇を尖らせる。
「だが御手杵の言う通り、長谷部殿はどこか日本号に気を許しているところがあるような気がする」
「そうかぁ? 俺にゃ、まっっったくそうは思えないがね」
 日本号が鼻を鳴らす。
「酒に誘っても仕事を理由に断りやがるし、飯の時に向かい合って食ってたって、にこりともしやしねえ」
 唯一日本号と接触していて楽しそうにするのは、戦や手合せの時だけだ。打ち合いが激しくなる時、追い詰め追い詰められの瀬戸際で、奴は凄惨な顔をして笑う。まるで血が滾るのが楽しくて仕方ないとでも言うかのように、手傷を負った時でさえ笑い声を漏らすのだ。
 そういった戦場での様子を見る度、日本号はこの男が根っからの刀剣であることを噛み締める。この長谷部は、へし切の名を拝した時からこうなるべく定められてしまったのかもしれない。
 その名を証明するためには、血を吸うしかなくなった刀剣。しかし彼の笑みを見て日本号が感じるのは、何時だって昂揚と歓喜だ。
 あれでこそへし切長谷部。この日ノ本一の槍が認めた、黒田の宝だ。
「そうなあ。あんたら、戦に出てる時とか手合せしてる時は、やたらよく笑うし喋るよなあ」
「売り言葉に買い言葉だがな」
 御手杵の言う通り、戦闘中の日本号と長谷部はよく会話をする。とは言っても、主に煽り合うだけだ。合戦場ではまだ連携して勝利をもぎ取りに行くという頭があるから、戦術の相談もするし互いに庇われた時は礼を言う。
 しかし、手合せだけは完全な煽り合いとなる。
「先日の手合せも、えらく盛り上がっていただろう。見ている身としては、冷や冷やさせられたが」
「ありゃあ仕方ねえだろう。真剣で手合せ出来るんだぜ? 奴の本体に本気でぶつかっていいとなって、興奮しねえ方が無理だ」
 蜻蛉切が言うのは、この本丸特有の月一定例真剣手合せのことだ。ひと月に一度だけ、審神者の立ち合いの下真剣同士での手合せを許される。審神者の術のお陰で鋼の身が人の身に触れても手酷い怪我を負うことがない、夢のような時間だ。
「あのプライドの高ぇ、切れ味鋭い奴の膝をどうやって折らせてやるかっていうそればっかりに集中してたからな。多少物騒だったかもしれん」
「多少どこじゃねーよ。いつ互いに本体を折ることになるか、ハラハラしてたんだぞ!」
「バカ言え、誰があいつ本体を折るかよ。俺があいつを折る時は、」
 奴がどうしようもなく使い様がなくなった時か、戦で討たれ死にしそうになった時だけだ。
 日本号は告げて、清酒をあおった。戦の話をしていたら喉が渇いた。杯を干してふと仲間達を見ると、呆気に取られた顔をしている。
「え、何だそれ」
「あ? 前にした約束だ」
 目を間抜けな丸にしている御手杵に、日本号は説明してやる。
 以前、新たな戦場へ出向き重傷の状態で帰って来た長谷部を見舞った。そこで約束したのだ。
「付喪神の身体は、自害が出来ない仕組みになってるだろ? だから自分がもう使えない無様な末期を迎えそうになった時は、頼むから俺の手で折ってくれ、だと。俺はあいつと一緒に出陣することが多いし、本体も隣にいるからな。心置きなく還れると思ったんだろう」
「な、なんと」
 蜻蛉切は絶句している。口をあんぐりと開けて、閉じて、何か言おうとまた開けて閉じてを繰り返す。それから、咳ばらいをして溜め息を吐いた。
「台詞だけ聞けば物騒なはずなのだが、いやしかし……」
「あんたら仲悪いって嘘だろ」
 御手杵が怖いもの知らずの度胸で、蜻蛉切が言うに言えなかった代弁をする。しかし日本号は肩を竦めた。
「嘘じゃねえよ。あいつは用がなけりゃ、俺に接触しようとすらしねえからなあ」
「自分を折ってくれなんて、仲悪い相手に言う台詞じゃねえって」
「本霊がよしみなんだ。それくらい普通だろう」
「普通じゃねーよ」
 御手杵の返しも何のその、日本号はつまらなそうに杯を揺らして言う。
「ちょっと前の出陣で、あいつの前髪から滴ってた血を拭ってやったことがあるんだけどよ。俺は前が見えづらそうだったからしてやったんだぜ? だがその時も、余計な世話を焼くなと言われた。普通、気を許してる奴にそういうこと言うか?」
「以前自分が同じことをしようとした時は、『自分で拭くからいい』と触らせなかったぞ」
「そりゃあタイミングの問題だろう」
 己の時は、断りを入れながら拭いてしまったから。
 日本号はそう言うが、いやいやと蜻蛉切は内心否定する。自分だってそうしようとした。他の刀達だってそうだ。長谷部が触れてくるのを許すのは、頑是ない無邪気な短刀達くらいで、いやいや。
 蜻蛉切は御手杵と視線を交わらせる。茶色の瞳には混乱、戸惑い、愉悦、様々な感情が混ざり合っていたが、おおよそ自分と同じことを考えているらしい。
 互いに共通するその概念を簡潔にまとめるならば、「主命が遂行される気配を察知」だ。
「まあ。それは別にしても、だ」
 蜻蛉切は再び、軽く咳払いをした。
「そのような約束をしているならば、長谷部殿は日本号のことを嫌っているわけではないと思うぞ?」
「そうかぁ?」
「何にしても、主の懸念のこともある。気にかけてやってはくれないか」
「そうそう。あいつ、あんたと同じで一番色んな部隊に出入りして任務やるからなあ。第一部隊は戦線が激しくて、俺はとてもじゃないが様子を見てられる自信がねえ」
 御手杵は、飄々と言う。第一部隊にて毎日狩った首をその穂先に串刺して悠々と帰還する奴が何を言うか、と日本号は思う。
 ――何となく、一番厄介なのは身内である気がする。
 この時の三名槍は、のちに語るところによれば互いにそう考えていたという。
 




索敵

 
「あの野郎、やっぱり俺を嫌ってやがる」
 日本号は足音荒く部屋に踏み込んでくるなり、畳にどかりと座り込んでそう言った。蜻蛉切と御手杵は向かい合ってポーカーで遊んでいたが、明らかに機嫌の悪そうな槍の様子を見て一度遊戯を中断した。ただし御手杵は蜻蛉切が日本号の方を振り返った瞬間、さりげなく山札から良い札を抜き取り、代わりに手札の要らない数枚を混ぜ込んだ。
「どうしてそう思うんだ」
 蜻蛉切は冷静に問いかける。日本号は今にも舌打ちしたそうな様子で口を開く。
「さっきの、出陣先でのことだ」
 今日、日本号は第二部隊に入って厚樫山に出向いていた。いつものように、戦闘経験を積むことを兼ねた巡視の一環である。
 そこで、検非違使と四回交戦した。通常ならば何と言うことのないことだが、この日の第二部隊は練度上げを目的とした部隊編成になっていた。だから二度、三度と剣を交わすうちに、軽傷ながらも負傷者が増えていった。
 普段なら、ここで帰還するところである。しかし今回の面子は戦好きばかりだったため、皆撤退を渋りまだ行けると主張した。だから部隊長であった長谷部も、渋々あと一戦だけだと念を押して出陣したのである。
 そこでまさか検非違使部隊と四戦度目の交戦を果たすことになるとは、思いもせずに。
「巡り合わせが悪かったんだ。長谷部が一本槍を折ったところで、他の攻撃が集中して愛染が重傷を負った。今剣も中傷になって、岩融や山伏が踏ん張ってくれたんだが、敵も堅いからな。長谷部の動きも守る方に流れてた」
 形勢が崩れていると分かって、好機を逃す敵でもない。おぞましく輝く刃先が、岩融の補佐に回ろうとしていた長谷部を狙う。
 この状態で、一番腕の立つ動ける男がやられるとまずい。幸い日本号は無傷に等しく、彼に近かった。だから咄嗟にその身を敵の得物と長谷部の間に滑り込ませ、敵の得物が己に刺さり動きが止まったところを狙って薙いだのである。
 長谷部を狙っていた槍は折れ、他の刀剣も、負傷しながら奮闘した味方の活躍により次々に倒れ伏した。結果として愛染重傷、今剣に岩融と日本号が中傷、そして山伏と長谷部が軽傷とはなったが、巡り合わせが悪い中で全員折れることなく敵部隊を屠って来られたのだから、上出来だと日本号は思うのだ。
 しかし長谷部は、帰還して主への報告を終え労いの言葉を掛けられ、隊員全員の手入れが無事終了してもなお、眉間に皺を深く刻んだままだった。そして果てには手入れの終了して遅い夕食を摂った日本号を食堂の外で捕まえ、憮然とした顔でこう言ったのだ。
「貴様にあのような無様な庇われ方をされるなど不覚だった、だと」
「あー、それは……」
「長谷部が悪いな」
 蜻蛉切が言い淀んだところを、これまたずばりと御手杵が評する。
「そこはまず、ありがとうって言うところだろうに」
「だろう!?」
 日本号は吼えて、徳利の口からそのまま酒を喉へと流し込む。このように日本号が勢いよく酒を飲む時は、大概心を落ちつけたい時だ。
 二本が正三位の言葉を待っていると、彼はやがて大分軽くなった徳利を置いて口元を拭った。
「あいつ、頭も下げねえで罵りやがるんだ。『貴様は手入れに多く資源を費やすのだから余計なことをするな』『俺もこのようなヘマは二度としない。だから貴様ももうこんな馬鹿な真似はするな』だとよ。くっそ、てめえの方が練度高ぇからって偉そうに!」
「あーあーあー」
「いや待て日本号、それはだな」
「だが、『借りは返す』んだそうだ」
 呆れた声を上げていた御手杵と、長谷部の言葉を噛み砕こうとしていた蜻蛉切は、日本号の付け足した言葉に口を噤んだ。深い紫にうっすらと血の色を滲ませた瞳が、二本に獰猛な笑みを向ける。
「だから、精一杯の嫌がらせをしてやることにした」
「ど、どんな」
「てめえで俺の好きな銘柄の酒を買って、俺の指定した日に晩酌しろって言ってやったんだ」
 ひゅっ、と蜻蛉切は息を呑んだ。御手杵を振り返れば、彼も目を丸くして蜻蛉切を見ていた。
 ちなみにこの二本は、日本号が本丸に来る前から数え切れぬほど出陣を共にしている。だから、言葉もなしに互いの目から互いの思いを読み取ることなど造作もなかった。
(御手杵、これは)
(待て、長谷部の反応を聞くのが先だ)
 二本は目と目で頷き合い、日本号の方へ向き直った。
「長谷部殿は、何と?」
「すげえ嫌そうな顔してたが、了承したぜ。聞いてみれば明々後日が非番だと言うから、その前の晩にすることにした」
 絶対潰してやると物騒に目を光らせる日本号は、なおも息巻いて言う。
「ついでにいい機会だ、あいつの腹ン中を暴いてやる。いっつもお高く澄ました面しやがって」
 それから過去の長谷部の腹に据えかねたエピソードを語り始める。酒飲み連中のうちでも何故か日本号にだけよく突っかかって飲酒を注意して来ること、会話をする時に必ず一度は罵り言葉を混ぜてくること、日本号が洗濯物を干しているとわざわざ寄って来てその干したものの形を整え直すこと、以下、延々と続くそれを二本はポーカーを再開しながら聞いた。
「……酒が切れた。取って来る」
 日本号が席を立った。濃灰のつなぎが廊下に消えたのを見届けてから、蜻蛉切は向かい合う男にこそりと囁く。
「急展開ではないか?」
「あいつ何だかんだ言ってるけど、ここに来た時からずっと長谷部の様子窺ってるもんな」
「仲良くできないのが不満なのだろうか」
「心の底ではそうなんだろ」
 日本号は自尊心の強い男であり、その分何事にも鷹揚だ。そんな彼がこうも感情の昂りを露わにするのは、自身の威信が傷付けられた時か長谷部が絡んでいるかのどちらかである。
 それだけ、長谷部のことを気に掛けているのだ。長谷部は日本号にとってただの戦仲間ではなく、それ以上のものなのだろう。
「来たばっかりの頃は、長谷部が何で黒田家の話をしないのかってやたら気にしてたっけ」
「日本号からしてみれば、長谷部殿がまるでこれまで良い主に恵まれたことがなかったかの如く振る舞っているように感じられたのが、勘に障ったようだったな」
「他のもと黒田の刀がその頃の話をしなくたって、怒らないのになあ」
「よほど長谷部殿を気に入っているのだろうな。そうでなければ、彼が黒田家の話をしないことが黒田の威信を傷つけることに繋がるなど、思わないはずだ」
 蜻蛉切の台詞に御手杵は頷く。どうでもいい刀剣ならば、黒田家の悪口を言っていても日本号は放っておくだろう。あの槍は真に気位が高いから、本当にどうしようもない格下ならば歯牙にもかけない。
「ただ問題は、日本号が恐らく長谷部殿の意図を正確に理解できていないことか」
「それから、長谷部の言い方な」
 二本は揃って溜め息を吐いた。
 昔馴染みなのに難儀な二人を面白がっていいのか、はたまた真剣に世話を焼いてやった方がいいのか。しかし日本号からの伝え聞きがもとではあるが、この二人の互いに対する構え方は分かってきた。二人の性格を考慮する限り、少しでも他人に揶揄われていると勘づいてしまえば身構えて距離を取ろうとするのは目に見えている。ひとまずここは静観して、明後日の晩を待とう。
「蜻蛉切って、出歯亀するの好きだったのか?」
「いや、自分では人並みだと思っている。ただあの二口については、まことに気持ちが通じ合った時にどうなるのかを見てみたい」
「うぇぇ、性質悪いなあ。俺も他人のこと言えないけどさ」
「ところで御手杵。お前やけにポーカーが強くないか?」
「まさか。俺、刺すしか能がねえんだって」
 
 



戦闘一回目

 
 御手杵は今にもふらふらと揺れ出しそうな頭を止めておくべきか、それともその揺れに任せて倒れてしまうべきかを眠気で鉛のようになった頭で真剣に考えていた。槍ではあるが真剣である。目の前で蹲っている真剣な様子らしい男士も槍である。
「俺は、あいつって刀がよく分からなくなってきた……」
 眼前の槍は藤巴の黒着流しが乱れるのも構わず、がしがしと頭を掻いている。俺は今の状況が分からない。大体今深夜の何時だと思ってるんだ。そう言ってやろうと思ったが口にはその余裕がなく、気付けば「寝ていいか」と尋ねていた。すると癖の強い黒髪をばっと跳ねさせて頭を起こした槍は、その節くれだった両手で御手杵の両肩を掴み、必死に揺さぶった。
「待て、俺を一人にするな。俺は今、信じられないものを見たんだ」
「俺は、今まさに寝ようとしていた俺を、平然と叩き起こしたあんたが信じられねえよ。寝させろよ」
「寝かさねえよ?」
「無駄にイイ正三位ボイス使ったって効かねえよ? 眠いもんは眠いんだよぉ」
「へし切長谷部が俺の手に頬擦りしてきたって言ってもか」
「夢見てんのかおっさん」
 御手杵の瞼が閉じようとする。途端、日本号は躊躇いなくその滑らかな頬に張り手をくれた。渇いたいい音がして、御手杵の頭は先程とは違った種類の強烈な揺れに襲われる。
 これはあれだ。安静にしていないとまずくなるタイプの揺れだ。
「ふっざけんなおっさん! お天子さま気取りもいい加減にしろよねみーんだよ俺はッ!」
「頼む! 頼むから話を聞いてくれ!」
 いつも弱腰な御手杵が眠気からキレた。対していつも強気な日本号は、手段こそ横暴だがこれまた珍しいことに両手を合わせて相手を拝んでいる。両者の人格が逆転したかのような、常ならば考えられない妙な光景である。
「何だ何だ、騒がしいな」
 そこへ、盆を抱えた蜻蛉切が障子を開けて入って来た。手にした大きな丸盆の上には、湯気を立てる三つのどんぶりと小鉢が乗っている。
「ほら、簡単ではあるがにゅうめんだ。薬味もあるぞ」
 小さく三名槍で円を作るように座ったその中央に、蜻蛉切が盆を置く。湯気を立てていたのは彼の言う通り、にゅうめんだった。薄めのつゆとそこに溶ける温泉卵、そして淡く煙るようなとろろ昆布の色合いが優しい、作り手の心が反映されたかのような夜食である。
「神さま付喪神さま蜻蛉切ぃ」
 眠気でおかしくなった御手杵は、隣に腰を下ろしている蜻蛉切に抱き付いて言いつける。
「こいつひでぇよぉ。俺が寝ようとしてるのにぶっ叩きやがったぁ腹減ったぁ」
「そうだな、大変だったな。良かったらそれを食え。腹は満たされるぞ」
 蜻蛉切が促すと、御手杵はすんなりと自分の前に置かれたどんぶりに手を伸ばした。律儀に頂きますと一声言ってから汁を啜り始める。その様子を確認してから、蜻蛉切もそれに倣った。
 しかし日本号は、垂れがちの瞳でじっと彼ら二本を見つめている。
「どうした?」
「いや、そうだな」
 日本号は逡巡して、幸せそうに麺を啜っている御手杵に訊ねた。
「御手杵。今お前は蜻蛉切に抱き付いたが、それはどういう心境からだった?」
「えー? お前がひでえからだよ」
「それは悪かったがそうじゃない。お前はそう、誰かれ構わず抱き付く奴じゃないだろう。何で今、蜻蛉切にはそうした?」
「おかしなこと聞くなあ。蜻蛉切なら受け入れてくれるからだろ。あと眠いし、寄りかかる場所が欲しかった」
 食欲を満たされつつある御手杵は、機嫌よく素直に答える。日本号は次いで蜻蛉切に問う。
「蜻蛉切は? 今御手杵にそうされて、嫌じゃなかったか?」
「別に。親しい間柄ですし、嫌ではありませんが」
「何だよ日本号。誘導尋問みたいな真似はよせよ」
 御手杵が目元を顰める。何が聞きたいんだと問いただすと、らしからぬ様子の豪放な槍はまた少し躊躇ってから白状した。
「さっき俺は、俺の手を取って頬擦りするへし切長谷部を見た」
「待て、展開が速い」
「何の説明にもなってないぞ」
 これは相当動揺している。話の順序が滅裂だし、更に日本号が酒を飲んでいないというのが一番の証だ。この槍は酒が自身の存在に深く関わっているから、他の刀剣と違って酒が文字通り精神安定剤ならぬ霊力安定剤になるのだ。だから出陣先での飲酒も許されているのである。
 しかしそうは言っても過ぎたるは何とやらで、深酒はよろしくない。だがその逆も然りで、即ちその本来の酒好きの性を忘れてしまう事態というのは追い詰められているのと同義なのだ。
 それを、他二本のツッコミを受けてこの槍自身も自覚したのだろう。おもむろに徳利を少しだけ傾けて唇を湿らせ、一息吐いてから語り始めた。
「さっきまで、俺が長谷部の部屋であいつと酒盛りしていたのは知ってるだろ?」
「ああ」
「俺は宣言通り、あいつを潰してやろうと思ってたんだ。それでまあさりげなく、それなりに、速いペースで酒を飲ます流れに持って行こうとしたんだが」
「やだこのおっさん。酒は好きに飲めばいいとか言ってるくせに」
「しょうがねえだろ。あいつは顔色が変わらねえから知られてねえようだが、結構酒強いんだよ」
 日本号は苦々し気に零す。
「だが、俺が意図的にそうしようとするまでもなかったんだ」
 長谷部は勧められずとも、おのずからよく飲んだ。日本号にもよく勧めたが、自分でも手酌してまで飲んだ。隠れた酒豪である長谷部だが、勿論ザルである日本号よりは弱い。そのうち、酩酊が表面に漂い始めた。
「最初はもう、それはそれはご機嫌斜めな感じでよぉ。眉間の皺は谷かよってくらいに深ぇし、口はへの字にひん曲がってやがるし、俺が何か言わなきゃまともに喋らねえし、おうおうそんなに俺と酒を飲むのが嫌かと思ったんだが。だんだん眉間の皺が取れてきたなと思ったら話すようになってきて、これがまた、妙な塩梅で」
「ほう、どうに?」
「あいつって、主相手でもなきゃあツンって澄ました話し方するだろ? その調子がこう、氷が溶けるみたいに消えてきてだな」
 口調が柔らかくなる。眉間の皺が消える。眉に込められていた力が抜けて、必然的に表情からも厳しい気色が抜け落ちて。
「こう、長谷部の器に物吉貞宗が憑依してきたみてえな」
「何だよこれ、怪談なのか?」
「そういう類のオチがつくならやめてくれ。自分は物の怪は、ちょっと……」
「怪談じゃねえよ! 多分!」
 語気を強めながらも自信のない言葉を付け足してしまったのは、先程の長谷部の様子が本当に現実に見たものであったのか、日本号自身も怪しくなってきたからだ。
 だってあの時の長谷部ときたら、妙だった。への字に曲がっていた口はいつの間にか控えめな笑みを浮かべていて、日本号の話をにこにことしながら聞いているのだ。かと思えば自分からも話題を振って来て、日本号が笑えば長谷部も笑う。一度ふと自分たちしか知らない黒田家での思い出を零したら、長谷部も懐かしそうに双眸を細めて共に追憶を辿った。いつかの激しい拒絶からは考えられない楽しげな調子で言の葉を紡ぐのを心地よく聞いていたら、不意にそれが中途に途切れた。訝しんでそちらを窺えば、端正な横顔は隙間風に吹かれたかのように項垂れている。淡い藤色の瞳に影を落とす睫毛が、月光を受けて波打つ尾花の如く白く煌めいて。そのあまりに清らかな輝きに、刹那泣くのかと錯覚し慌てた。
 話したくないと言っていたのに悪かった、無理をするなと詫びると、煤色の頭がゆっくり横に振られる。違う、嫌だったわけではない。そう言ってこちらを向いた顔は、眉尻こそ下がっていたものの微笑んでいた。
 ――すまない。お前があまりに変わらないから、俺もつい気が弛んで……色々と、余計なものまで溢れて来そうになる。
 そう零して、下がった眦を指で拭った。
 手袋で守られていないその白い指先を、日本号は初めて眩いと思った。
「ありゃあれだわ。未確認生物だわ」
「あんたな。今結構いい雰囲気で話してたのに、何でいきなりそういうこと言うんだよ」
「しょうがねえだろ、調子狂ってるんだからよ。俺ぁあんなへし切知らねえぜ? あいつとの付き合いは長ぇが、あんなあいつは……あれがそうか、うーまって奴なのか。未確認生物なのか」
「馬ではないだろう。むーま、ではなかったか?」
「夢魔じゃねえだろ。春本やら西洋の坊主じゃねえんだから」
「ゆーま、UMAだろ? あんたら横文字弱いなあ」
「若ぶるな若作り」
「あんたがおっさん臭いだけだろー?」
「で、日本号。続きは?」
「ああそうだった、すまねえ」
 日本号は咳ばらいをした。
「あいつは酒を飲みながら、らしくねえ、力のないっつーより力の抜けた声でぽつぽつ話し続けた。俺と二人で飲む酒は美味いとか、宴の席では切り盛りや周囲の目の方が気になって飲んだ気になれないとか、宴や酔っている連中の様子を見るのは嫌いじゃないが性分のせいで酔えないのが申し訳ないだとか、ただ俺とのサシなら心置きなく酔えるだとか、俺相手だと気が抜けてしまう、気が置けないんだとか」
 挙句の果てには「もっともこんな辛気臭い飲み方をする相手とじゃあ、お前は楽しくないだろうがな」と皮肉気な笑みを浮かべて自虐の言葉まで漏らしたので、日本号は思わず真顔になった。
 別につまらなくねえよと否定すれば、長谷部は鼻を鳴らして「正三位殿の懐の広さにはまことに恐れ入るが、そこがたまに腹立たしくなる」と、穏やかな口調ながら吐き捨てた。
 憎たらしい。憎たらしいのだが、これまでの憎たらしさとは趣が異なるその感情が何なのか分からなくて、日本号は気を逸らそうと杯を干した。
 それを見た長谷部が新しく酒を注ぎ足そうとする。しかし、もう手先まで酒気が回ってしまっていたらしい。日本号が差し出した杯から、奔放に注がれた酒が溢れた。ぱたぱたと着流しの右膝に雫が落ちる。長谷部がおぼつかない手つきで手拭いを取り濡れた着流しの膝を拭こうとするのを見て取った日本号が、その片手から徳利を奪い取る。膝を拭こうとした長谷部は急に手の内から失せた徳利の重みに、思いの外戸惑ったらしかった。バランスを崩した彼はそのまま雪崩込み、日本号の分厚い胸に寄りかかって胴に腕を回す形になってしまった。
 そうなって焦ったのは、最初彼を潰すことを目論んでいたはずの日本号の方だった。大丈夫かと声を掛けて寄りかかった上体を起こそうとしたが、長谷部の身体はぐにゃりとしてうまく起き上がらない。掴んだ肩も腕も熱くて、溶けた鉄のようだと思った。
 長谷部はよほど酩酊していたのだろう。日本号にしな垂れかかったまま、離れようとしなかった。が、日本号がその身体を起こそうとするのを諦めた頃、もそもそと身動ぎをして右手を着流しの左側に添わせた。
 ――腹は、もう大丈夫なのか。
 一瞬何のことか分からなかったが、添う右手の擦った脇腹の箇所ですぐに悟る。一昨日の出陣で長谷部を庇おうとして受けた、腹の傷のことを言っているのだろう。
 ――本当に……胆が冷えた。お前を傷つけたくはなかったんだ。なのにお前は、俺なんかを庇って。
 罵る声の響きは、ぐずりに近い。右手が着流し越しに、脇腹の輪郭を筋肉の凹凸にそって丹念になぞる。温かな吐息が泣いているように震えて、襟から覗く剥き出しの胸を擽る。
 長谷部と呼びかけた声が震えてしまったのは、恐らく彼の吐息がくすぐったかったからだ。きっとそうだ。
 肩に腕を回しその顔を覗き込んで、そして――彼が眠っていることに気付いた。
「え? 嘘だろ?」
「そこで嘘吐いても何にもなんねーだろ」
 御手杵が問うが、日本号はぶすくれたような顔つきでそう言い返した。
「腹ン中暴くも潰すも何も、あいつは一人で好き勝手言って一人で潰れやがったのさ」
「おお……それは」
「しょうがねえから、抱え上げて布団を敷いてやって寝かしつけた」
 何故か憐れむような目を向けてくる二本。日本号自身、この自分が翻弄されているようで気に食わなかった。だが先程のしおらしい様子を思い出し布団に横たえらえた彼のあどけない寝顔を見ていると腹が立ってこないことが、更に日本号の胸を騒がせた。
 幸い、長谷部はまっさらな内番着で飲んでいたから着替えさせる手間はない。律儀に布団を肩までかけてやって、日本号はその場を去ろうとした。
 しかし、布団から離れようとした手を引かれる。寝ているものと思っていた長谷部が、うっすらと藤の瞳孔を覗かせていた。
 もう寝ろと低く囁くが、長谷部は首を縦に振ろうとしない。寝ぼけ眼で日本号の手を見つめ、両手でそれを挟んでふにふにと押したり撫でたりを繰り返した。暗がりであるせいだろうか、それとも酒精を纏うせいだろうか。平時より赤味を増した唇が、おもむろに綻ぶ。
 にほんごうの手は、おおきい、な。
 微笑んだ唇が、たどたどしく零した。厳しく号令や檄を飛ばし、仲間の言葉にさえ冷笑を浴びせるそれから出たものとは信じられないくらい、柔らかな温もりで出来た声だった。
 その声で、長谷部は呟いた。
 たくましいお前の手が好きだ、と。
「そしてあいつは、何を寝ぼけたのか俺の手を取って頬擦りした。俺が黙っているうちに奴はすっかり寝入っちまって、それを確認してから部屋を出て、ここに戻って来た」
 日本号は語り終えた。頬擦りする前の長谷部の台詞については、何となく口に出せなかった。明確な理由などないのだが、正体不明のあの発言は自分でその正体を突き止めるまで誰にも言ってはいけないような気がした。
 御手杵と蜻蛉切は、いつの間にか夜食を食べ終わっている。否、正確には御手杵がまだ日本号のどんぶりを綺麗にする作業に取り掛かっていたが、ひとまず今はいい。日本号は溜め息を吐きたいのを堪えて、呟いた。
「なあ、あいつ何なんだよ。何なんだ、俺はどう捉えたらいいんだ」
「その答えは、もうお前の中で出ているのではないか?」
 蜻蛉切の返事と眼差しは、その本体の如く真直ぐに日本号の瞳を貫いた。日本号が黙す。御手杵は最後の汁を胃に流し込み空になったどんぶり三つを積み重ねて丸盆の上に乗せ、それを彼に差し出してにっと笑いかける。
「明日の朝をお楽しみに、だな」
「それは、つまり」
 日本号が盆を受け取った。途端、御手杵と蜻蛉切はそそくさと敷かれた布団に潜りこみ就寝の姿勢に入る。残された正三位はなおも何か言い募ろうとしたが、溜め息一つで諦めて部屋の灯りを落とし、丸盆片手に部屋を出た。
 
 その翌朝、「さっき目を覚まして水を飲みにいったら偶然長谷部と厨で出くわしていつもの調子で何のかんのと会話したが次のサシ飲みの約束をした」と起き抜けに報告してきた黒田の槍に、古参二本は「朝っぱらから長谷部の話か」と言おうか「肝心な会話の部分を略してんじゃねえよ」と言おうか迷い、結局「もう三十分寝かせてくれ」と寝不足の目を閉じることを選んだという。
 




戦闘二回目

 
 本丸に、また今日も洗い立ての朝日が昇ってきた。蜻蛉切は障子を大きく開け放つ。暴力的なまでに清々しい陽光が男だらけの寝所を暴き、まだ中身の詰まって丸まったままの布団を照らしだした。
「起きろ、御手杵」
「んん、ふぅあぁぁ」
 丸まった毛布から、緑のジャージに包まれた長い手足がにょきりと生えた。さらにそこから御手杵の頭が生えて、大きな欠伸をする。彼は重そうに瞼をこじ開け、日の差し込む方に立つ男士を仰ぐ。
「おはよー、蜻蛉切」
「うむ、おはよう」
 御手杵は反対側に頭を向ける。だがそこに、本来いるはずの男士はいなかった。
「日本号は?」
「それが、だな」
 訊ねてから、御手杵は室内に敷かれている布団が二組しかないことにやっと気付いた。一組は自分が今まで寝ていたもの。もう一組は、蜻蛉切が今まさに片付けようとしているもの。
 それ即ち。思い当たった可能性に、御手杵はさっと蒼褪める。
「午前様、だと……?」
「そういうことのようだ」
 蜻蛉切が重々しく頷く。眠気が飛んだ御手杵は上体を跳ね起こした。
 いつもならば、日本号が朝帰って来ない程度の事でこんなに動揺したりしない。奴が帰って来ないなんて、よくあることだ。だが今日に限っては、昨夜の行先が行先なだけに非常に気にかかる。
「夕べは長谷部と酒盛りだって言ってたよな?」
「そうだが、いやまさか」
「まさか、え、早くないか? まだ二回目だぞ?」
「いやいや、早過ぎるだろう」
 二本は俄かに焦り始める。
「いつもみたいに、大広間で寝てるんじゃねえ?」
「そうでなければ大太刀部屋か」
「でもそれはそれで困ったことになってそうで……うぇぇ」
「だがあの二口に限ってそのような、いやでも正直ありえそうで怖い……!」
「仲悪そうで本音ではお互いの事えらい信頼してるもんな、どこに一歩踏み出すか分からねえ怖さがあるよな」
「そうだ、爆発的な機動力が本来なら踏み越えないだろう一戦まで踏み越えそうで」
「それが今朝か、今朝発揮されたのか!?」
「なァに朝っぱらから騒いでんだ、お前ら」
「うおおおッ!?」
背後から噂の片割れが登場して、御手杵と蜻蛉切は揃って野太い悲鳴を上げた。朝日を背にした日本号は怪訝な顔をして二本を眺めている。御手杵が上擦った声で叫ぶ。
「にっ日本号! あんた今までどこにっ」
「どこって、長谷部の部屋だよ」
 簡潔な答えに、御手杵はやっぱりと目をこれでもかと見開く。蜻蛉切は何も言わず、一心不乱に赤飯の炊き方を思い出そうとしていた。
「あの野郎、やっぱりよく分からねえ」
 だが日本号は癖の強い髪を掻きながら独りごちる。それを聞き留めてしまった御手杵が、好奇心に負けて尋ねた。
「今度は何があったんだ?」
「あ? あいつ、自分で他人を閨に引きずり込んどいて起きた途端罵声を浴びせやがった」
「うひぇっ」
 うまく発声できず、喉から潰れた蟇のような声が出た。蜻蛉切の頭から、思い出しかけていた赤飯の作り方が完全に飛ぶ。しかし日本号は眉間に皺を一本刻んだのみで、冷静に訂正した。
「勘違いすんなよ、何もしてねえ。ただ、また酔い潰れたあいつが布団に寝かせてやっても離そうとしやがらなかったから、しょーがねえ一緒に横で寝てやっただけだ」
「いやおかっむン」
「面倒見がいいのだな」
 素直にすぎる御手杵の口を押さえ、蜻蛉切は感心した口調でそう言った。御手杵が何をするんだと目だけで非難する。だが蜻蛉切は鋭い眼差しを返して彼を咎めた。
(下手にツッコミを入れてみろ、この自尊心の強い男は何も話してくれなくなるぞ)
(それは困る)
 御手杵とて、日本号と長谷部の行く先には非常に興味がある。御手杵は大人しく、良い聞き手へと転身した。
「まったくな。我ながら笑っちまう」
 日本号は苦笑した。二本のアイコンタクトには気付いていないのか、それとも気付いていないふりをしているのか。どちらにしても、昨夜の出来事は話してくれるようだった。
「何でデカい図体した男二人で、仲良く手ぇ繋いで寝てんだかな。長谷部もよっぽどくたびれてるんだろ」
 いや、どんなに疲れていても普通そんなことはしない。
 そう言いたいのを抑え、「ソーダナ」と御手杵は同意する。若干棒読みになってしまった感が否めないが、幸いにも日本号は何か物思いに耽っているらしく気付かない。
「懐かしいな、昔もああして寝てた時期があった。鋼の身のみの頃はよく隣り合って寝ていたんだ。あの頃はあいつがいるのが当たり前だったから何とも思わなかったが、こうして本体を自由に動かせる身となって同じことをすると、妙な気分になるもんだな」
「妙な気分って、ムラムルァっ」
 日本号の言葉を曲解した御手杵の背中を蜻蛉切の太い指が抓った。痛い。思わず御手杵が涙の滲んだ目で振り返ると、蜻蛉切は莞爾と笑みを向けてきた。その目に軽率にシモに繋がる話題を振ったことを咎める風はなく、「この槍の気分を損ねて折角の楽しい話題を逃すことがあったら許さんぞ」とにこやかに牽制している。蜻蛉切ってこういう槍だっただろうかと御手杵は真剣に考え込む。
 しかし日本号は別に気分を害された風もなく、呆れたように言った。
「ムラムラはしてねーよ。どっちかっつーと、手触りのいい猫と寝てるのに近いぜ」
「ネコ」
 蜻蛉切の発音は、ちょっと聞いただけなら単に復唱したように聞こえる。しかし戦において幾度となく流星の如く降り注ぐ矢や礫の下を共に潜り抜け、何度となくどちらが屠った敵をより高き山と出来るかを競い合って来た御手杵には分かる。
(そうか蜻蛉切。お前の頭の中では、既に出来上がってるんだな)
 何が、とは聞かないで欲しい。
 しかし何故こうなったのだろう。思えば御手杵達は、先日睡魔に負けたせいで今回の飲みに至る流れさえ認識出来ていないのだ。
「そもそも、何でそんな展開になったんだよ? 前回の後どうやってまた飲むことになったかも俺達聞いてねえんだから、話を聞くにもそこから話してくれないと分かんねえぞ?」
「おっと、そうだったか」
 日本号は眉を上げ、説明のため回想し始めた。
 
 
 
 本丸に来て初めて互いの顔を眺めながら飲んだあの日の翌朝、二人は厨で顔を合わせた。奇しくも両者とも水を求めてきていたために、誰もいないまだ薄ら暗い厨にて二人並んで同じ硝子の杯を干している光景は、まるで昨夜の続きのようだと日本号は思った。
 そして、きっと似たようなことを考えたのだろう。顰め面で水を飲みながら、長谷部が口火を切った。
「俺はゆうべ、見苦しい姿を見せた……のか?」
「のか、って。お前覚えてねえのかよ?」
「ああ」
 実に苦々しげな表情で肯定する。どこまで覚えているのだろう。日本号がそれを問おうとする前に、長谷部は水を一息にあおって流し台に向かった。必然的に、日本号から顔を背ける形になる。
「思い出せないが、どうせ楽しい酔い方はしなかったのだろう?」
 流し台をせわしなく叩く水音のせいか、声がやや曇って聞こえた気がした。蛇口をきつく締める音。乾かすため伏せられたコップ。次いで、昨夜のことは忘れてくれ、と硬い一言。
 そしてそのまま顔を見せずに立ち去ろうとするから、咄嗟にその腕を掴んだ。途端不満を隠さない顔で睨みつけられたが、その程度で怯む日本号ではない。にやりと口の端を吊り上げてやる。
「決めつけんなよ。俺はまだ、何も言っちゃあいねえぜ?」
「聞く必要などないだろう」
 長谷部は吐き捨てる。しかしその目は日本号ではなく、斜め下を睨んでいた。
「最後まで、俺はちゃんと酌をしなかったんだからな」
 日本号は噴き出しそうになるのを堪えた。
 なんだなんだ、何に引っかかっているのかと思えばあの約束を律儀に気にしていたのか。先の出陣で傾いていた日本号の機嫌は既に昨夜の晩酌で直りかけていたが、このやりとりで完全にもとに戻った。しかし知ってはいたつもりだったが、何とまあ四角い刀だろう。堅真面目もここまで極めると、寧ろいじらしくなってくる。
「なんだ、そんなことを気にしてんのか」
 嘲けるつもりは微塵もなかったのだが、声に笑みが滲んでいたらしい。長谷部は急に眉を吊り上げて怒りだした。
「そんなことだと? 貴様が言い出したことだろう! 大体貴様が酒に強すぎるから俺が先に潰れる羽目になったんだ。おい、何を笑っている! 聞いてるのか!」
「おうおう、悪かった」
 喚く長谷部の頭を、日本号は機嫌よくぽんぽんと叩く。
「そんなに悪ぃと思ってんなら、また付き合えよ。今度は俺の酒で。どうだ?」
 長谷部はぴたりと口を噤んで、おずおずと日本号を見上げた。普段は冷笑を浮かべることの多い彼が惑う様は、意外なほどいとけなかった。つと開かれた瞳の輪郭が丸みを帯びたからだろうか。はたまた、素直に感情を露わにする瞳孔の藤が、あまりに淡く儚い色合いだからだろうか。
「また、潰れるかもしれんぞ」
「潰れる前提なのかよ」
「仕方ないだろう。貴様と飲むと、ペースが分からなくなるんだ」
 一転、長谷部はぶすくれる。くるくると表情のよく変わる男だ。
 しかしどうりで酒の進みが早かったわけだ。ものの見事に、こちらの調子に狂わされていたらしい。日本号はくつくつと笑う。自分が惑わされるのはあまり好まないが、自分に惑わされる他者を見るのは気分がいい。
「いっつも言ってんだろ? うわばみと飲む時は飲まれないようにしろって」
「うるさい! 嫌なら俺などと飲まなければいいだろう!」
「嫌じゃねえよ」
 否定しようと出した声色が存外優しかったことに、自分自身驚いた。それは長谷部も同様であったらしく、きょとんとしている。日本号は誤魔化すように咳ばらいをして言葉を続けた。
「うちの国宝様が飲み取られちゃあ困るからなあ? 仕方ねえ、この正三位様がうわばみと飲むペースってやつを教えてやろう」
「ふん。余計なお世話だが貴様に飲まれっぱなしなのも癪だからな」
 受けて立つ、と長谷部は勇ましく顎を上げて言い放った。何で教えられる側がそんな態度なんだとは、さすがの日本号も言い返さなかった。
 こんな流れから二度目の酒盛りが昨夜開催されたわけだが、しかしあの宣言はどこへやらで長谷部はまた潰れた。途中までは前回に比べ明瞭に平生の長谷部らしく飲んでいたのだが、また次第に目の縁がとろりと垂れてきた。そして子の刻を回る頃、日本号に寄りかかって完全に寝た。
「なァにが受けて立つ、だよ」
 日本号は寄りかかって寝息を立てる長谷部を抱き上げて、彼の室内に足を踏み入れた。整然としているというよりも物のない長谷部の部屋には、既に布団が一組敷かれている。前回の反省を踏まえた長谷部が、今回は寝落ちても大丈夫なように敷いておいたのだ。
 敷布と掛布の四隅をきっちりと揃えた、敷いた者の性格を如実に表している布団を乱雑に足で捲る。そこへ抱き上げていた男を横たえて毛布を掛けてやってから、さあ帰ろうと踵を返すはずだった。
 出来なかった。また、長谷部に引きとめられたのだ。
 布団に横にされた長谷部は、眠ったまま日本号の襟を掴んで離さなかった。屈みこんでいた日本号が上体を起こそうとしても、決して浴衣の袷を掴む指を緩めない。剥がそうとすると指を痛めそうなので無理矢理距離を取ろうとすれば、かえって日本号の浴衣が脱げそうになる。
 このまま浴衣だけ、こいつに掴ませて置いて帰ろうか。そんな考えもちらりと頭の隅を過ったが、そうなった場合には「己の浴衣を抱えて眠る長谷部」という対処に困る図が出来上がってしまうことが想定されて日本号の思考回路が止まった。そんな図が完成するなぞ万が一、憶が一にも考えられないが――完成したら、困る。何がどう困るのかと聞かれたら日本号自身にも答えようがないのだが、困るのだ。
 それ以上に、この肌寒い夜の本丸を下穿き一丁で歩くのはやめたい。この本丸は完全なる男所帯だが、もしもそんな姿を目撃されて「寒々しい深夜に下着一丁で徘徊する変態」のレッテルを張られることになったら。それだけは矜持が許さなかった。
 仕方ないので、日本号は長谷部をやや奥にずらして自分も布団に滑り込んだ。布団は大きめの日本号の布団に比べて一般的な一人用のものだから収まりきらない広い背中が肌寒いが、耐え切れないほどではない。幸か不幸か、眼前ですやすやと寝入る男の体温は常に比べて高い。きっと酒に温められたのだろうその身体が、湯たんぽの代わりに早くも布団をぬくくしてくれていた。
 日本号はしばし、この眠りに落ちた昔馴染みの寝顔を見つめていた。眉間に皺の寄っていない穏やかな表情は、彼の生来持つ透けるような美しさを日本号に思い出させた。
 よくよく見れば、綺麗な男なのだ。体格こそ日本号ほどではないにしても立派だが、尖った顎にしなやかな首筋から肩にかけての線、鋭く苛烈な刃を巧みに操るにふさわしい腕に天を刺すべく真直ぐに伸びた胴、締まった腰から素直に伸びた脚、その先の淡く色付く丸みを帯びた踝から足先の桜貝の如き爪の造作まで、彼を成す部位それぞれの形に無駄がなく細かな造りが精緻で、更にそれらを繋ぎ合わせれば猶の事美しい。
 綺麗な男なのだ、よくよく見つめなくたって分かる。知っていた。鋭利かつ強烈かつ複雑な性格のせいで最初ははっきりそう認識出来ない者も多いらしいが、そうなのだ。日本号自身遥か昔初めて目にした時、まあ整った刀もいたもんだと思った。華美というより清廉、しかし儚げというより危うい印象を抱かせたこの魔王刀の一振。それとまともに会話をするようになったのは互いに「元」魔王の刀という肩書がついた後、即ち黒田家でのことだったが、実際に話してみた長谷部は予想していたより難儀で口うるさくて面白かった。
 長谷部を気に掛けるようになったのはこの頃からだったように思われる。そして不思議な縁から何百年と持ち主を同じにして、つかず離れずの関係を続けてきた。その間、日本号は彼を何とはなしに眺めてきた。
 だから日本号は、長谷部の容姿の美しさなんてすっかり気に留めるのを忘れていた。彼にとって、長谷部の容姿が整っていることなど意識するまでのことではなく自明の事柄だったのだ。
 思い返せば長谷部は、顕現する前日本号の「当たり前」に相当組み込まれていた。長谷部が日本号の傍にいるのは当たり前、他愛のない口喧嘩も当たり前、泰平の退屈しのぎに徒然話をするのも当たり前、夜になれば隣り合った本体にならって並んで寝るのも当たり前。
 日本号と長谷部は、付き合いの長い隣人だった。特別な関係ではないがどういうわけか巡り合って傍にいる腐れ縁。それがどう転んでか、一度も戦場で共に振るわれたこともなければ戦う様も見たことがないのに、この変な刀に一抹の情というか信頼のようなものを覚えるようになっていた。
 それがまあ、何でまた、人の身など得て添い寝をすることになったのだか。日本号は過ぎ去った時と奇妙な縁を思って小さく笑った。奇奇怪怪奇妙奇天烈、ここに極まれりである。
「ん」
 眠っている長谷部の眉間に、一本皺が寄った。起こしてしまっただろうか。日本号が注視する先で、長谷部はむずがるように首を左右に振った。いやいやという動作に似ているが、何か夢でも見ているのだろうか。日本号が更に息を潜めた時である。
 おもむろに胸倉を掴む力が強まった。ガッと日本号は長谷部に引き寄せられて、身体がぴたりと寄り添うことになる。
「おいおい」
 呟くが、この男の眠りは深いらしい。日本号の襟を掴んだそのままにすり寄って来て、胸元に額を押し付けてきた。ぐりぐり額が押し付けられれば、前髪が首元を擽ってこそばゆい。細い絹糸のようなそれが肌の上を滑るのは、まるで愛でる意図を持った指が戯れに触れているようで。
 そっと、丸い後頭部を片手で包んで撫でる。顕現して初めてまともに触ったかもしれない髪は、鋼の身体に刻まれた記憶にあるより遥かに指通りがよい。癖になる。
 頭を撫でていると、長谷部が尚も頭を胸に押し付けてくる。彼の強情な手のせいですっかり乱れた袷の狭間に、長谷部の頭が潜りこんで頬が胸につく。日本号の硬い胸板に反して長谷部の頬は柔く、吸い付くような弾力があった。
 日本号は半ば唖然として眠る刀を見下ろした。片腕がいつの間にか日本号の背に回ってひしとしがみついている。まるで甘える子のような昔馴染みの姿に、槍は言葉を失っていた。
 いや。お前。あんな。お前。普段あんな。何で。
 予想外の事態に、彼の頭は半ば混乱していた。混乱して、何を考えたかその頬に手を伸ばした。そしてこれまた何を考えたのか、白いそれを撫でてみた。
 気持ち良かった。女子供の頬とは流石に違うが、肌はたった今清冽な水の流れに晒されたが如く滑らかで、しかも酒気を帯びたせいかしっとりとぬくい。温泉水滑らかにして凝脂を洗う。ふとそんな句が頭を過った。いわゆる珠肌というやつだ。事実そうなのだろう。美女ではないが、美しくはある。
 まずい、これは癖になる。そう思いながらも頬を撫でる指が止まらない。日本号の節くれだった指が、酒に色付いた白皙を撫で続ける。しかし長谷部は起きる素振りもなく、時折微笑んではくすくすと笑いを零す。それから擽ったそうに身を捩り、そのくせもっとと言わんばかりに日本号の手に頬をすりつける。愛嬌ある犬猫のような仕草で、甘えてくる。
(…………)
 日本号は考えることを放棄した。意を決してがばりと長谷部の頭を抱き込み、硬く目を瞑り現実とそれによってもたらされる一切を無視する。幸い腕の中にあるものが好い加減にぬくかったので、すぐに眠くなった。だから日本号は、眠りの世界へ旅立った。




「――で、さっき棚ごと圧し斬られた茶坊主の断末魔みてえな声で叩き起こされたってわけよ」
 日本号は肩をすくめて締めくくった。日はもうすっかり昇っていて、部屋も暖かくなっている。反対に先程まで好奇に輝いていたはずの二槍の目は、やや熱を失っていた。その眼差しは、眼前にあぐらをかいた日本号よりやや遠いところを見つめている。
「健全……だな?」
「健全、だな」
 御手杵と蜻蛉切は、同じ方角を眺めながら確かめ合った。朝日を浴びて目を眇めているように見えるその表情は、まるで後光に照らされた修行僧のそれである。
「だが、いやらしいな」
「ああ、やっぱりいやらしいのか」
「状況とやっていることが大していやらしくない分、かえっていやらしさが増している」
「滅茶苦茶な説明なのに何となく意味が分かっちゃうからすげえ怖ぇ」
「夕べの俺もそんな気分だった」
 蜻蛉切と御手杵の具体性の乏しい会話を聞いて日本号も同意する。流石我ら三名槍、通じ合う心を今まさに感じ取った等と友好を深めている余裕は、三本ともない。
「何もやらしいことはしてねえんだよ。やらしい気持ちなんてもんもねえよ。けどあんだけ密着してて、全く不快にならなかったんだよ。寧ろ逆なんだよ」
「うぇー怖ぇ」
「何ということだ」
 御手杵と蜻蛉切は呆然としている。実はあの時更に少し動悸が早まってドキドキもしたのだが、それは自分でもまだ認められないので日本号は報告しなかった。
 蜻蛉切が躊躇いがちに訊ねる。
「ちなみに、今朝方の長谷部殿の反応は?」
「大絶叫した後即抜刀。からの『貴様ァ状況を報告しろ! 怠慢は許さんぞッ!』だ」
「バリバリ戦闘モードじゃねえか」
「安心しろ。『てめえが! 帰らせなかったんだろうがッ!』ってきっちり言い返したら固まったまま動かなくなったんで、その隙に脱出してきた」
「それ大丈夫なのか?」
「その時の長谷部殿は、どんな顔を?」
「キレてたせいか、顔から首まで真っ赤だったぜ」
 日本号が答える。何故か蜻蛉切は顔を覆い、御手杵は手で額を打った。日本号はしかし他に考え事をしているらしく、俯いて彼らの不審な所作に目もくれない。
「なあ、お前ら」
「何だよ」
「どっちでもいいや。ちょっと身体貸せ」
「は? 何言ってうわっやめっ」
 日本号が唐突に、座ったままの状態で御手杵の腕を引いた。不意を衝かれた御手杵がその太い腕の中に倒れ込む。日本号はその茶色い頭を抱き締めて撫でまわした。
「うーん。別に、楽しくはねえや」
「当たり前だろ離せバッぐええええ」
「御手杵ぇぇぇッ!」
 日本号の手が頭から頬に移り、更に首筋を指でなぞる。ただでさえも寝乱れていた御手杵の浴衣が、日本号の拘束から逃れようとして更に乱れる。
 日本号の行動は、長谷部相手にやった行動を反復してのものだろう。恐らく比較したいのだ。だが暴れすぎてほぼ浴衣が脱げかけている御手杵を流石に見ていられなくて、蜻蛉切は日本号の肩に手をかけて揺さぶった。
「落ち着け日本号! さては酒を飲んでいないな!? お前の場合酒を切らしたらまずいのだから、早く飲っ」
 蜻蛉切が硬直した。急に振り向いた日本号が、片手で彼の顎を引いたのである。
「お前らも槍とは言え、あいつと同じ男士ではあるが」
 真摯な表情で呟く日本号の親指が、するりと頬を撫でた。蜻蛉切は内心冷汗をかく。
 この触れ方がそっくりそのまま長谷部に触れた時と同じであるのだとしたら、それはとんでもないことだと蜻蛉切は思った。何故ならばたった今触れた日本号の指の動きは、明らかに愛玩動物を撫でるそれとは違ったからである。このような、触れた対象を慈しみつつも堪能するかのような指の動きをしてしまう関係性の名を、蜻蛉切は一種しか知らない。
「別に何てことねえな。進んで触ろうとは思わねえ」
 日本号は己の気持ちを入念に確かめているのか、蜻蛉切の喉を人差し指でちょいちょいと軽く引っ掻く。蜻蛉切は彼の顔を凝視した。まずい、目が虚ろだ。酒が切れて正気を失いつつある。
「日本号落ち着けぇ! 今足音が!」
「みんなおはよう元気だね! 朝食の準備が」
 最悪のタイミングだった。御手杵が叫んで日本号に取りすがったのと障子の向こうから華やかな美男子が現れたのとは同時だった。右目を眼帯で覆った伊達男は、快笑を浮かべたまま絶句した。
 彼の目の前には、如何にも乱暴されましたといった風情で腰に浴衣を引っかけただけの御手杵が日本号にしがみつき、その日本号が片膝を立てて座ったまま不敵な面差しで正座の姿勢にて侍る蜻蛉切の顎を人差し指で軽く持ち上げている――燭台切は現代の漫画という絵巻の知識で、それが「顎クイ」というものであることを知っていた――という、漢だらけの灼熱地獄が広がっていた。
「ぬ゛わ゛あ゛あ゛あ゛!?」
 燭台切が、にこやかな笑みを浮かべていたはずの口から野太い絶叫を迸らせた。伊達男らしからぬ、焼け爛れたような割れた叫びだった。
「長谷部くん長谷部くん長谷部くぅぅぅぅぅんッ!! 大変だよーッ槍部屋が朝から大乱交し――」
「キエェェアァーッ!」
 本丸の検非違使の異名を持つへし切長谷部を求めて走り出した燭台切の背に、御手杵が親しい打刀そっくりの奇声を上げながら突撃した。伊達男は百九十越えの男に飛びつかれて堪えきれず、顔面から床に突っ伏した。
「燭台切殿」
 重々しく呼ばれて、燭台切はハッと顔を上げた。そこには眉を凛々しく引き締めた蜻蛉切が聳え立っていた。
「驚かせてすまなかった。今我らは、モテる男士の色気を追求するために刀剣男士専用ファッション雑誌『[[rb:不免殴 > めんずなっぐる]]』の真似をしていたのだ」
「嘘だよね!? こんな朝っぱらからそんなテンション高すぎることするわけないよね!?」
「してたんだよ! ほら、迦具土命が俺たちにもっと輝けって囁いてるからな!」
「そんなこと言う御手杵君なんて、僕知らないよ!?」
 燭台切は騙されてくれない。蜻蛉切と御手杵は、焦って視線を交わらせた。今の状況の元凶にしてこういう時頼りになるはずの日本号は、まだ酒不足のため一人部屋に留まり虚ろな目を宙に漂わせている。
 燭台切は無理に引き攣った笑みを浮かべて、背中にのしかかる御手杵を見上げる。
「べ、別に隠さなくていいんだからね? 僕は三人が幸せなら全然、全然いいと思ってるからね本当に!」
「違ぇってば! 勘違いすんなよ頼むからやめてくれ!」
「ただその、TPOは大切にしてほしいなというか出陣前だしそれ以前にまず致す時は障子を閉めて――」
「燭台切殿」
 蜻蛉切がしゃがみ込んだ。伊達男の金色の目を見据えて、低く尋ねる。
「先程貴殿が口にした悲鳴を、伊達の皆に教えると言ったら?」
「オーケー分かった。やっぱり誰しも格好良くありたいよね!」
 燭台切は一瞬で話を飲み込んでくれた。
 結局その後、徒歩五分の位置にあるはずの食堂からものの三十秒もしないうちに駆け付けた長谷部に、「槍部屋でTVゲーム『大乱闘[[rb:島津一家郎党> しまつぶらざーず]]』が大盛り上がりし過ぎて現実に乱闘騒ぎになり、朝餉のために呼びに来た燭台切が不幸にも巻き込まれて[[rb:波留魂拳> ふぁるこんぱんち]]を喰らった」という説明を燭台切がしてくれたために事なきを得た。だがそれからというものの、燭台切が槍部屋を見る目がどうにも「近所の噂話に精通していることを生きがいとしている主婦の眼差し」になってしまったので、蜻蛉切と御手杵は、早く日本号に成果を出させて燭台切にきちんと詫びと訂正をさせようと、固く誓い合うのであった。
 



戦闘n回目

 
 夜半ば。遠征帰りの蜻蛉切が報告湯浴み食事を済ませて部屋へ戻ると、そこには漫画本を眺めながら桜酒をちびりちびりとあおっている御手杵しかいなかった。彼は蜻蛉切の姿を認め、いつもの如く、おーと呑気な声を上げた。
「鬼の居ぬ間に良い酒開けたぜ。一杯どうだ?」
「鬼か。あれは鬼というより虎だろう」
 蜻蛉切は腰を下ろして、いただこうかと自分の猪口を差し出す。御手杵は鼻歌交じりにそこへとっておきを注ぐ。機嫌が良さそうだ。
「日本号殿は今日もお渡り遊ばしているのか?」
「おう。自前の酒持ってお通いだぜ」
「そのまま大殿籠るのか」
「どうせそうだろ。最近多いよな」
「うむ。仲睦まじきは美しきかな、だ」
 虎こと日本号は近頃長谷部のところへ晩酌に出向くことが多くなった。そして彼が長谷部のところへ飲みに行く時は、朝まで帰って来ないのが常となりつつあった。
「きっと今夜も共寝だろうな……おっと、一緒に布団に入るだけって意味だぜ?」
「御手杵。いい加減日本号が長谷部殿の部屋に行くたびに、下手な青江殿の真似をするのはよせ」
「しょーがねえだろ。うまく言いたいけど言えねえんだから」
 蜻蛉切が呆れるので、御手杵は頬を膨らませて言い返す。しかし彼はすぐにその頬から空気を抜き、無邪気に言った。
「しかし、あいつらもよく一緒に寝るよなあ」
「そうだな」
「毎度離れようとしない長谷部もそうだが、その度に付き合ってやる日本号も日本号だ。いくら昔は長いこと一緒に寝てたとは言え、鋼の身の頃の習性っていうのはそんなに強いもんなのか?」
「それは、どうだろうな」
 蜻蛉切は含みのある相槌を打った。そして、それに気づかぬほど御手杵は鈍くはない。ちらりと横目で隣人を見やる。蜻蛉切は、意味ありげに笑っている。
「あー……やっぱり、主命果たされちゃう?」
「果たされるのだろう」
「日本号はまあ置いといて、長谷部なんて相変わらず日本号に邪険だぞ? 今日だって酒の飲みすぎだ酒樽にでもなるつもりかって、本人目の前にしてくどくど文句垂れてぜ?」
「それはな。長谷部殿は、そういう性格の刀剣だからだ」
「はあ」
 御手杵が首を捻った時、スパンと音を立てて障子が開いた。御手杵と蜻蛉切は反射的に振り返って大いに驚く。
 そこには件の槍が、肩を大きく上下させながら立ち尽くしていた。
「とんでもねえことになった」
 息切れしているのに、日本号の顔面は蒼白だった。
 その色褪せた唇を舐めて湿らせてから、槍は呆然と呟いた。
「俺、長谷部なら抱けるかもしれねえ」
 
 
 
 時はそれより、半刻ほど遡る。
 日本号はいつものように、長谷部自室の障子を開け放って秋の庭を眺めながら、彼と酒盛りを楽しんでいた。うわばみと飲むペースを教えるという名目で開いているが、日本号はそれにかなうめぼしい行動など何もしていない。それを教えるにはあれこれ理屈を捏ねるより、何度も飲んで己の飲む調子を掴むのが一番だと思っているからだ。
 一応教わる側である長谷部も、何となくそこのところは察しているのだろう。回数を重ねるごとに、普段通りの物腰や口調でいる時間が長くなっている。飲み慣れてきた証拠だ。
「今日出陣する時に、例のごとく石切丸の加持祈祷が途中でな」
「あいつも好きだよな。あれのお陰で俺達が無事でいられるところも強いんだろうが」
「それでいつものように、加持祈祷をする石切丸をその後ろで待ってたんだが」
 最低でも七日に一度は二人きりで飲んでいるために、そこまで酒の肴になるような話題もない。だが酔いに任せて気ままに話すのは楽しく、付き合いの長い相手だから沈黙さえ苦しくなかった。
「途中で御手杵の奴が、石切丸が『畏み畏み候』と言うのに合わせて『カチコミカチコミ候』と呟いたせいで、俺は今日一日石切丸が敵陣に突撃するのを見る度に御手杵のその台詞を思い出す羽目になった。ついでに石切丸が神職系ヤクザに見えて仕方なくなった」
「御手杵はいつものように馬鹿だが、お前も馬鹿だな。神職系ヤクザって何だよ」
「馬鹿正直な正三位殿だな。語感で察しろ」
 互いで互いに対して、息をするように悪態も吐く。それでも自分達の間の空気は不思議と平素に比べて柔らかい、と日本号は思っていた。それはきっと、どちらの悪態にもいつものような気勢がないからだろう。
 その気勢はどこから来ているのだろうか。ふと日本号は疑問に思う。
 元々の気性か。または相性か。きっと初めはそうだったのだろう。だがこの本丸に来て、急に言い合いの激しさが増したのはどうしてなのか。
(別にこいつを疎んじてるわけじゃねえ)
 ただ売り言葉に買い言葉なのだ。長谷部の煽り文句に、自分はどうも乗ってしまう。そもそも長谷部は、どうして自分を煽るようなことばかり言うのか。顔を合わせれば罵るばかりなのに、何故自ら日本号に接してくるのか。
「長谷部」
 隣に並んだ煤色の頭が、こっくりこっくりと舟を漕ぎ始めた。日本号は片腕をその肩に回して引き寄せ、不安定な頭を自分の肩にもたれさせる。
 長谷部は酒には慣れてきたようだが、依然として眠くなるまで飲む癖が抜けない。そして、眠ると日本号を離さないところも変わらない。だから最初のうちは長谷部の布団からの脱出を試みていた日本号も、最近は長谷部が眠くなってきた様子を見たら自分から彼を布団に運び、大人しく一緒に寝るようになった。
 決して疚しい気持ちなどはない。ちょっとだけ、眠る前に長谷部の顔であったり髪であったり首筋であったりを撫でたりはするが、そこに不健全な気持ちなんて全くない。
 だが。
(もう、聞いても良いか)
 日本号とて、ただ流されるままに共寝しているわけではない。
「長谷部」
 もう一度名を呼ぶ。微睡みかけていた藤色の目がさざめいて、ゆっくりと日本号を映した。その双眸を見つめ、なるべく穏やかに問うた。
「何でお前、わざわざ俺と寝るんだ」
 途端、長谷部は身を強張らせて日本号から離れようとした。しかしそれを許すわけがない。日本号は逃れようとする長谷部を肩に回した手で無理矢理押し止めて、強張った顔を間近で覗き込んだ。
「お前も飲み慣れてきた頃だ。もう自分が酒を飲みすぎると眠くなることも分かってるだろうし、眠っちまう前に酒をやめることだって出来るだろう。なのに何故潰れるまで飲む?」
 酒を飲まないで寝ると眠りが浅いのか? それともそうするのが好きなのか?
 あえて選択肢を上げてやる。だが日本号には、そのどちらでもないだろうことが分かっていた。何故なら日本号の記憶と読みが正しければ、寝かしつけている時に長谷部が起きているのだろうと思われたことが度々あったからだ。
 例えば、日本号が寝入るまで戯れに触れている時。時たま、長谷部の寝息がそれまでとは明らかに変化していることがあった。そういった場合は長谷部自身の様子も次第に変化して、触れているうちに眉根を微かに寄せふるふると震え出す。
 その様子を見て、嫌なのだろうかと日本号は考えた。それならば何故起きて自分を止めないのか。普段散々罵倒し合っている仲だ、それくらい容易いだろう。
「勘違いすんな。俺は責めているわけじゃねえ。ただ、単純に知りたいんだ」
 長谷部は瞠目した硬い表情のまま、日本号を見上げてぴくりとも動かない。
 日本号は気にかかっていた。長谷部は何故、己に触れられるのを寝たふりをしてまで受け入れるのだろう。そして何故、翌朝何事もなかったような顔をしてまた次の約束をして、無邪気に酒を飲んで潰れるのだろう。
 どうしても知りたかった。何故、自分と飲んで共に眠るのか。何故、触れ合うことを拒まないのか。だから寝たふりの矛盾を問わないまでも、遠回しに尋ねていくことにした。
「お前、何で俺が一緒に寝ることを許してるんだ。酒飲んで寝るなら一人だっていいだろう。または誰かと寝てえだけなら、俺じゃなくたっていいだろ。何でだ?」
 すると、やっと長谷部が動いた。端正な顔の強張りが解けて、しかし自虐とも嗜虐ともつかない笑みを浮かべる。
「許す? 変な言い方をするな。許すのはお前なんじゃないのか?」
 挑発的な口調で問う。しかし日本号は、その瞳の奥に俄かに生じた烟りに気付いた。靄のように立ち込めるそれは夜立ち込める不安を誘うようなそれにも、朝たゆたう煌めくようなそれにも思える。日本号はこの長谷部の眼差しに覚えがあった。
 遥か昔まだ日本号が母里の籍であった頃、長谷部が時折日本号に会う度に口にしていた言葉があった。それは、今の俺は主の役に立てていないというものだった。その話をしていた長谷部は、ちょうど今とそっくりな顔つきをしていた。
 へし切長谷部というのは、昔から難儀なところのある刀だった。いっとう言って欲しい言葉や向けて欲しい思いがある癖に、それをしっかと胸に抱えておきながら、決して自身ではその胸中を明かさないのだ。何故ならそうして強請って言葉を掛けてもらったところで、彼は満足出来ないからである。
 しかし、では欲しいものが相手から自然に向けられるのを待つのかというとそこまでの我慢は出来ないらしい。とにかく欲しがりの性分だから、あの手この手で遠回しに求めるものを引き出そうとする。その結果大胆に、求めるものとは反対のものを引き合いに出すことになろうとも構わないようだ。つくづく謙虚なようでいて強欲、熾烈なようでいて臆病なのだ。
 先に述べた質問などまさにこの例で、日本号が否定してやると未だ眉間に皺を寄せて不満を述べながらも、僅かに肩の力を抜くのであった。
 回想はさておき。つまり日本号の勘違いでなければ、今の長谷部はそういったジレンマの渦中にある顔つきをしていた。
 夜のせいだろうか。常より暗い色をした双眸を眇め、長谷部は噛み付いてくる。
「お前にこそ、俺と寝る理由などないだろう」
 これは、いつもの問い掛けなのだろうか。日本号はやや思案するが、口にする答えは決まっている。日本号は自分を偽らない槍だ。
「まあ、そうさな」
 肯定すると、長谷部は不意に斬りつけられたような顔をした。それならば聞かなければ良かっただろうに。日本号はいささかの呆れと憐憫と、何より紛れも無いいじらしさを眼前の刀に見出した。
 その期待を裏切られたらしい顔を見て昏い喜びを覚えるのだから、我ながら趣味が悪い。つい口元が緩む。
「大した理由なんざねえが、俺は気の向かねえ嫌なことはやらねえ主義だぜ?」
 さりげなく手を肩から頭に回して、髪を指先で梳いてみる。長谷部は触れられた瞬間一度肩を跳ねさせたが、後は視線を落としたのみでもう拒まなかった。
 長谷部の部屋は、本丸の外れにある。だから、部屋の障子を開け放っていても誰かが通る気配を一切感じない。つまり誰にも気兼ねする必要などないのだ。
 長屋造りに夜風が吹き込んできた。次ぐ季節の予兆を孕むそれに、刀がふるりと身を震わせる。羽織を取ってくるかと尋ねると、小さく要らないとの言葉が返ってきた。
 長谷部は依然として視線を逸らしたまま髪を弄らせていたが、正直な此方に感化されたのだろうか。小さく、ぽつぽつと話し始めた。
「この身が人に振るわれなくなって久しい。そのせいか、たまに……温もりが恋しくなる時があるんだ」
 熱い血飛沫を吸い甘い倒錯を覚えるは刀の性。だが一方で、添う主人の温もりを守るのもまた刀の務め。酩酊による高揚も他者の温もりも、後者から遠ざかった身には懐かしく心地よい。長谷部はつっかえがちながら、大体そんなようなことを言った。日本号は彼の台詞を終いまで聞き終えると、口を開いた。
「答えきれてねえな」
 藤の視線を追うように首を傾ける。
「お前が酒を飲んで他人と寝たがる理由は分かった。だが、どうして俺なのかの説明がまだだぜ」
「言いたくない」
 長谷部の方とてそれは察していたのだろう。日本号の視線を避けるように首を逸らした。しかし髪を弄るのをやめて待ち構えていた片手に側頭部が捕まった途端、観念したらしい。溜め息と共に零す。
「言いたくないが……お前が良いんだ」
 全く、狡い男である。日本号が何やかんやと言いながらも長谷部の意を優先することを知っていての言葉選びだろう。
 だが、残念ながら読みが甘かった。これまで長谷部に好かれていないと思っていた日本号は、彼のこの台詞を受けて逆に俄然闘志が湧いた。畳み掛けてもいいだろうという気が起こったのである。
「そうか」
 追及の手を緩めたふりをして、即座に日本号は手っ取り早い吐かせ方を選んだ。擽りの刑に掛けたのである。これ以外にも方法はあっただろう餓鬼かよと後になって頭を抱えることになるのだが、この時の日本号は長谷部も馴れ合いが嫌でないらしいという確信から少々舞い上がっていた。加えて急に首元と脇腹とを両手で擽られた長谷部が、それまでの硬い表情から一転してころころと笑い出したのも彼の勢いを助長した。
「おら、言う気になったか」
「やめろ馬鹿ッ! くすぐったい、ははっ」
 長谷部は実によく笑った。平素の挑発的な調子とは異なる、稚児のような笑い声を上げた。彼に珍しい純粋な笑顔は悪くないもので、こそばゆいと言いながらも不快な様子を見せないから日本号はもっと擽る。長谷部が笑い過ぎて転げた。日本号も前のめりになって手を伸ばす。脇腹を、脇の下を、胸を、首を、満遍なく。擽り回しながら日本号はずっと、長谷部を見つめていた。次第に長谷部の様子が変わってきたのに気付いていたにも関わらず、止めてやれなかった。手の動きが自然と緩やかになっていくも、止まらなかった。
 まず長谷部の頬が、耳朶が朱に染まった。次いで息遣いが浅く、荒くなる。目の縁が潤み、目付きが変わる。
「離せ、やめろ変だ、っあ」
 へし切長谷部というのは、こんな声も出せる刀だったか。睨もうとしているのだろう眦に不測の事態に対する困惑を滲ませながら、懇願するような声色で罵っている様子は悪くない。
 大体、だ。日本号の手はとうに拘束をやめている。左手は仰向けになった長谷部の顔の横に据えているだけ。右手もゆっくりと、指先で耳の表面を引っかけては離しを繰り返しているのみ。だから相手がその気になれば何時だって振り解けるだろう。
 だが自分だってそうだ。何故やめてやらない? 何でまた擽られたら弱そうな所ばかりを執拗に嬲って、声を引き出しているのだろう。
「はぁっ、にほっごぅ、ばかっやっ」
 長谷部は茹だった顔ではっはっと必死に息をしている。懸命に罵ろうとするのに全く出来ていない。首筋にも指を這わせてみれば、もっと悩ましげな吐息が漏れた。身体中が繊細に震えている。そのささやかな、羽化したばかりの蝶が飛ぼうと翅を開いて閉じているかのようないじらしい揺れを身体中で感じて、押さえ込んでやりたいと日本号は思った。その一方で飛ばせてやりたいとも思う。もっと、自分なら。自分ならーー。
 気付けば日本号は、息を飲んで見入っていた。口では拒んでいる癖に震える身をこの手に委ねている長谷部の姿に、蜘蛛の巣にかかった艶やかな蝶が重なった。
 これはまるで。
 ――まるで?
 そこまでだった。
 日本号は長谷部の頭を撫で、「悪かった、寝ろ」とだけ告げて部屋から逃亡した。長谷部は追ってこなかった。
 
 
 
「槍だけにやり逃げってな」
「二点だな」
「うええ」
 聞いた直後の御手杵と蜻蛉切の感想は、御手杵の洒落に関する呑気なものだった。しかし軽い応酬の後もなお俯きがちな正三位を前に、二本揃って溜息を漏らす。まず蜻蛉切が口火を切った。
「御手杵、言ってやれ」
「え、何を?」
「いつも言っているアレだ」
「あー、アレか。でもそれ本人に言っていいのか? 本人を前にしたら言うなって話だっただろ」
「今となっては問題ない。言ってしまえ」
「分かった」
 御手杵は心得て、日本号を正面から見据える。息を軽く吸い、何の躊躇いもなく言い放った。
「あんたらそれでデキてないとか、本当信じらんねえよな」
 日本号は顔を上げた。ぽかんと開いた口から、間の抜けた声が漏れる。
「あ?」
「あんたらのこれまで当然にやってたこと――つまり一緒に寝るだとか頬っぺ触るだとか、そういうのって普通友人同士じゃやらねえぞ」
「そう……なのか?」
「仲の良い兄弟なら別だがな。粟田口などはその例だ」
 蜻蛉切も頷く。日本号にとって、二本から聞かされる言葉は予想外だった。だが御手杵も蜻蛉切も、ここぞとばかりにこれまで胸に蓄積していた疑問をぶつけていく。
「て言うか、長谷部なら抱けるって今更気付いたのか? てっきり気付いてるもんだと思ってたんだが」
「え、いや」
「日本号は基本的に女子の身体を好むとは認識していたが、それはてっきり男の身体も味わっての上での性癖だろうと思っていたが違うのか?」
「まあ、そうだが」
「えええ!? なのにこれまで、長谷部とはただ寝てただけだったのかよ!? 信じらんねえ感覚が狂ってやがる!」
「親しすぎるとはそういうものなのだ御手杵。分かっただろう?」
「分かった。よく分かった。刀の付喪神に鞘の性質が組み込まれてることを分かっておきながら、さらに俺達付喪神にとって外見における性別なんて表面的なもんでそもそもは両方を持ち合わせてることを分かっておきながら、そんな状態だったんだな」
「なあ日本号、どうなのだ?」
「お、おう。そうだ」
 日本号は二本のらしからぬ剣幕に押されつつ首肯した。するとまた二本は吐息を漏らす。
「あんた、分かってるんだろう? 本当の答えは、あんたの中で出てるだろ」
 俺でさえ分かったぜ、と御手杵がじとりとした目付きで睨む。
「何をそんな、既に石で固めてある外堀の強度を確かめて更に石膏で埋めるような真似をしてるんだ。いつもの傲慢はどうした? 日ノ本一の槍だろう?」
 御手杵はずばずばと刺してくる。いつもならば怒るところだったかもしれない。だがこの時の日本号は、惑っていた。そこに投げ込まれた問い掛けは、少々強引ではあるが標の役割を果たすことになった。
 思い出してもみよ。酒を飲む度自分に委ねられた、男らしく筋張った身体つき。だがその恵まれた肉体を主張しすぎることのない、洋装も和装もそつなく着こなすその肢線を、自分はどうしてやりたいと思ったのか。
「日本号。先程、長谷部殿を抱けると言ったな」
 極め付けは蜻蛉切からの台詞だった。この奥手なように見えていた実直な槍は、存外にも知った顔でこう諭したのだ。
「『抱ける』と『抱きたい』は別だぞ。どちらなのだ?」
 思い出してもみよ。先程己は、無防備に身を横たえた長谷部を前にどうしてやりたいと思ったのか。
 日本号は自問した。そして彼はようやっと、自らがずっと抱えていた言葉にならぬ答えに気付いた。




演練

 
 へし切長谷部が日本号を避けているらしい。それを聞いた御手杵の感想は、ああやっぱりなといったところであった。御手杵は長谷部と特別仲が良いわけではない。性格だって正反対だと言っていいと自分では思っている。だが不思議と彼の行動を聞いて納得できたのだった。
(まあ、あんなことがあった後だもんな。無理ねえよ)
 長谷部がとことん己を避けていると苛立った様子で相談してくる黒田の槍に相槌を打ちながらも、御手杵はそう思っていた。長谷部は強欲で臆病なのだ。それを御手杵に教えたのは他ならぬ日本号であるくせに、当の槍自身は今現在そこを結び付けて考えられないのだからどうしようもない。恋とはかくも盲目なものかとは蜻蛉切の言で、彼もまた日本号同様この膠着状態をもどかしく思っているらしかった。
 しかし御手杵には、他二本ほどこの件でどうこうするつもりがなかった。今手を打ってどうにかなるならば、とっくにこの黒田の刀槍は仲良しだろう。長谷部とていつまでもこの状態ではいられないに違いない。待てば海路の日和ありだ。待つことでどうなるという当てがあるわけでもないが、御手杵は日本号の愚痴を聞いてやりながら、蜻蛉切ほど煮えることもなくのんびりと二口の様子を眺めていた。
 それが逆に迷える槍と刀達の突破口を開くことになろうとは、当人でさえも知らずに。
「そこの結城の槍。ちょっとそのツラ貸しなさい」
 午前の畑当番を終え風呂場から出てきたばかりの御手杵に、物騒な誘いがかかった。この声と口調なら、容姿を見ずともその正体が分かる。御手杵はタオルで雑に髪を拭いながら、風呂場の暖簾向こうに立っていた打刀を見下ろした。
「宗三かあ。あんたが俺に声をかけるなんて珍しいな」
 左文字の打刀は内番姿だった。彼はその左右色違いの瞳で槍を品定めするように眺めると、つっけんどんに切り出した。
「貴方の所の飲んだくれの件で話したいことがあります」
「ええ? 痛いのは嫌だぞ?」
「貴方がちゃんと話さえしてくれれば問題ありません」
 ついて来れますねと尋ねてくる。ここでは駄目なのらしい。御手杵は暇なのでついて行くことにした。
 宗三が案内した場所は、何と彼自身の部屋だった。槍部屋とは室内の趣も漂う香りも明らかに違うそこでは、既に一振の刀が待っている。
「よっ、旦那。わざわざ悪いな」
 薬研藤四郎である。どことなくしっとりとした風情の部屋においても堂々たる態度で胡坐を掻いている彼の姿を見て、御手杵は少なからず安心した。良かった、薬研がいるならば痛い目には遭わされないだろう。
「おー。薬研も俺に話したいことがあるのか?」
「貴方にではありません。用があるのは飲んだくれの槍です」
「まあまあ宗三。長谷部に親身になってやるのはいいが、あんまりカリカリすると話せることも話しづらくなるぜ?」
「親身になどなっていません。ただ、これ以上面倒かけられるのは御免ですから」
 御手杵は二振の様子に目を丸くした。このやりとり、いや正確には二振の醸し出す雰囲気には覚えがある。思わず声を上げた。
「何だ、あんたらもあいつらのこと心配してるのか」
 宗三と薬研は揃って怪訝な顔をした。御手杵は莞爾として言う。
「あんたらも、俺と蜻蛉切みたいなもんなんだろ? そうかあ。長谷部にも、日本号にとっての俺らみたいな相談相手がいたんだな」
 薬研と宗三は呆気に取られた様子で御手杵の顔を凝視した。ややあって薬研がかぶりを振る。
「驚いた。旦那、案外鋭いんだな」
「刺すこと以外頭にないのかと思っていたのですが、驚きですね」
「褒めてねえだろ。いいけどさ」
 御手杵はその場に座り込んだ。宗三も薬研の隣に腰を下ろしかけて、はっと気づく。
「いやいやちょっと待ちなさい。まさか貴方、日本号が貴方と蜻蛉切に長谷部のことで相談を持ち掛けているとでも言うのですか?」
「おう。そうだぜ?」
「気安く認めてくれますね。何の相談の事を言っているか、貴方は分かっているのですか?」
「え、そうなあ。簡単にまとめるなら長谷部が思いの外可愛くて鞘にしちまいそうだのそうじゃねーのっていう相談だな」
「待て旦那。多分あんたは色々とはしょりすぎてるんだろうと思うから、最初から具体的に話してくれ。そんで宗三はいったん本体から手を離せ。最高練度の槍相手じゃあひと悶着して部屋の破壊だけじゃあ済まねえぞ」
 薬研の絶妙な言葉がけにより、御手杵はやっと自分に注がれる絶対零度の流し目に気付いた。ついでにその傾国の刀の繊手がさりげなく脇に置かれた本体の柄を握っているのにも目が行く。
 戦は嬉しいけど、仲間内での喧嘩は微妙だな。御手杵が刀にかけられた白い手を眺めていると、宗三は不承不承といった様子で手を離した。ひとまず喧嘩は回避出来るらしい。
 薬研が頷いて、御手杵に事の次第を説明するよう促した。請われるまま、これまでの槍部屋におけるやりとりを話して聞かせる。彼の説明は簡潔ではあるが、言葉や説明の足りないところが多い。しかしそのような箇所もこれまた薬研の絶妙な質問により補完されて、話の終わる頃には魔王刀二振も、どうにか槍部屋における対へし切長谷部心理対策相談会議の流れを掴めたようだった。
「なるほど。精々あの槍の日頃の外面的な様子しか聞けないだろうと予想していましたが、貴方なかなか役に立ちますね」
「そりゃあどうも」
「あのおじさんも思いの外純情で、それなりに真剣でしたか。ただ六尺超えの槍三本が恋心について語り合っていた状況を想像すると鳥肌しか立ちませんけど」
「それは無理ねえけど、あんた本当に口悪いな」
 宗三は冷静に評しつつも棘のある言葉も忘れない。綺麗な花には棘があるとは言うが、尖りすぎではないだろうか。刀だから仕方ないか。
「まあ、良かったじゃねえか宗三」
 薬研が腕組みをする。依然として感情の読み取りづらい能面っぷりの宗三に対し、此方は楽しげににっと口角を吊り上げている。
「日本号の旦那はああ見えてなかなか繊細な心配りの出来るイイ男だぜ? それがしっかり長谷部への気持ちを自覚してくれたとなっちゃあ、やっと生産性のある今後になりそうだって期待して良いんじゃないかと俺っちは思うがね」
「薬研、貴方はあの二口を甘く見ています。確かに日本号は長谷部に比べれば常識も柔軟性もありますが、いかんせん矜持が強すぎるのですよ。他の刀剣なら別ですが、長谷部相手となると些細なことでつまらない意地を張り出してもおかしくありません。長谷部だってあの通りですし、そうなるとまた面倒なことに……」
「なあ、話してる最中に悪いんだけど」
 御手杵は口を挟んだ。
「長谷部も、日本号のことを慕ってるのか?」
「決まっているでしょう」
 宗三は柳眉を寄せた。
「そうでなければ、どうしてあの主大好き堅物が主命でもないのに他の男士と共寝しますか」
「おー、やっぱりそうかぁ」
 嬉しそうな御手杵を、薬研と宗三は不思議そうに見ている。構わず御手杵は問いかけた。
「いつからだ? いつから慕い出したんだ?」
「日本号の旦那と大体同じだぜ」
 薬研が答える。
「最初は自分でも気付いてなかったらしい。だが、元々旦那には心を許してたからな。それで晩酌に添い寝にとしているうちにすっかりハマっちまったと……おっと、心理的な話だぜ?」
「へー、あんたにっかりの真似上手いなあ」
「どこに感心しているのですか」
 感心していた御手杵は、しかしすぐに首を捻る。
「だが、長谷部が元々日本号に心を許してたなんて初耳だぜ? 俺や蜻蛉切は何となくだんだん察してきてたけど、日本号なんてこの間長谷部に『お前がいい』って言われてやっと嫌われてはいないんだって気付いたくらいだ」
「あー……」
 薬研と宗三は、揃って微妙な面持ちになった。
「そんな気はいましたが、やはりちゃんと伝わってなかったんですね」
「長谷部、旦那のことあんなに大好きなのにな」
「大好きなのか?」
「おう。そりゃあもう、本当は日本号の旦那と接したくてしょうがなくて、でも話すことも思い浮かばないし用件もないから、仕方なしについついいちゃもんつけにいくくらいに」
「いや、おかしくね?」
「これが、へし切式コミュニケーションです」
「何だそれ」
 きっぱりと告げる宗三の言うコミュニケーションとは薬研の言うへし切長谷部の「話しかけたいけどネタがないからいちゃもんつけた」のことなのだろう。文脈的にはそうなのだろう。
 だが、おかしくないか?
 御手杵が首を傾げていると、薬研が苦笑して説明する。
「長谷部は昔から日本号と喧嘩仲間みたいなもんだったから、日本号とのコミュニケーション=罵り言葉っていう方程式が直らなくて自分でも困ってるんだ。それでこれまた日本号の旦那は何を言っても受け止めてくれるし正直に言い返してくれるから、つい口が正直になっちまうんだと」
「正直の方向性おかしくね?」
「そうなんだよなぁ。長谷部自身もそう思ってるから旦那に寄って行くと悪いかと思いつつ、でも旦那の傍は居心地が良いからつい寄ってっちまうんだそうだ」
 長谷部の心理は複雑だ。御手杵には分からない。
「素直に普通に接すりゃあいいのに」
「それが出来ねえんだよ。素直になろうとすると気持ちが緩みすぎちまって、自分でも耐えられねえらしい」
「何だそれ」
「甘えたくなるんだと」
 思わぬ薬研の言葉に、御手杵は目を剥いた。宗三が婀娜な仕草で肩を竦める。
「アレは究極に面倒臭い甘えたがりなんですよ。過去のこともあって、自分だけが一方的に甘えることは出来ないんです」
「何でだ?」
「自分だけが依存していて相手に求められていないような気がして、不安になるからでしょう」
「うええ」
 面倒臭い上に重い。加州より面倒臭い。
「それで、『俺がいないと駄目なんだからぁ』ってわけかー?」
「そう。だから、世話焼きたがりの甘えたがりだと言うんです。相手を甘やかすのも自分が甘える一環に組み込まれている。本人もそれを自覚してやってるから性質が悪いですよ」
「自覚してんの?」
「ええ。自分でも認めてます」
 御手杵ははあ、と肩を落とした。駄目だややこしい。一見すれば名が体を表すような性格に思えるのに、どうしてそこまで拗れているのか。
 此方が呆れている気色を察したのだろう。薬研が笑って話を元に戻した。
「日本号には世話焼かせ要素が詰まってるからな。見てると甘えたくなっちまって、事実小言言いすぎて甘えちまって、それを後から自覚してまずいと思って線を引こうとするんだが上手く出来ない」
「無意識のうちにあの飲兵衛を目で追ってしまう、その存在を意識しすぎてしまう自分に気付く、動揺する、でも声を掛けたいから声を掛ける、上手く話せなくて更に日本号に不審がられる、というまあ見事な悪循環ですよ」
 宗三は呆れに呆れかえって冷静なものである。
「全く下手くそ過ぎます。貴方だって、見ていれば分かるでしょう?」
「何が?」
「日本号に対して長谷部は口が過ぎると思うことはありませんか?」
「そうだな。あと、いっつも睨んでるよな」
「あれはね、日本号を前にしてデレデレしてしまいそうな長谷部が気を引き締めて通常通り接しようとした結果なんです」
 嘘吐け。御手杵は長谷部の、日本号を睨みつける鋭利な青を帯びた紫を思い返す。
「喧嘩売ってるようにしか見えねえんだけど」
「貴方、戦場で長谷部が気合い入れて斬りつける時の決まり文句覚えてます?」
「圧し斬る」
「そういうことです」
「はー、なるほどなあ」
 妙に納得してしまった。そうか、へし切式コミュニケーションとはそういうことか。何でも圧し斬る要領でいったわけだ。それなら喧嘩を売っているようにしか見えなくなるわけである。
「じゃああれか。酒飲んでやけに友好的だったのは、その圧し斬る気持ちが酒のおかげで抜けたからだったのか」
「それも勿論ありますが、その前に僕がそうするように仕向けました」
 さらりと凄いことを言う。御手杵が目を瞬かせた前で、宗三はしれっとして暴露する。
「あの晩酌の初回、怪我の詫びとして付き合うことになったその前に、長谷部がぐずぐず愚痴を言いに来たんですよ。『俺はまたあいつに嫌われてしまった』とか『俺のような奴と飲んだって楽しくないだろうに、どうしたらいいんだ』とかね。うざったいから適当に『どうせ嫌われてるんでしょう? なら思いっきり飲んで酒のせいにして、思いっきり甘えてきなさい』って言ってやったんですよ。そしたらまさか、ねえ」
 宗三はうっすらと微笑んだ。その笑みに、御手杵は傾国の刀の本懐を見た気がした。
「長谷部は変なところで思い切りが良いですから。実行したらしいですね。翌朝は面白かったですよ」
 朝餉の後に宗三の所へ転がり込んできて、どうしよう次の約束をしてしまった俺は潰れたのにしかも色々仕出かしたのに次があるって嫌じゃないって次があるって、と真っ赤な顔で繰り返す長谷部は支離滅裂かつ喧しいことこの上なかったが、悲鳴を上げながらもどこか隠しきれない嬉しさを滲ませていて、まるで惚気られているようだったと宗三は振り返る。
「そこからはもう、底なし沼に足を取られたようにずぶずぶと沈んでいきましたね」
「二度目の後は、俺達の所に押し入るなり『日本号は温かかった』っていう謎の第一声を発したもんな」
「ついに狂ったかと思いましたよ。あの時の長谷部は目一杯の狼狽と罪悪感とほんの少しの歓びで酷いことになってましたから」
「あんたら、結構楽しんでねえ?」
 二振の話し振りを聞いていた御手杵が直入に尋ねる。薬研は深い紫の双眸を猫のように細め、あっけらかんと言った。
「まあ正直楽しいよな」
「貴方がただって同じだったでしょう?」
 宗三に問い返され、御手杵は己を顧みる。そもそも日本号が長谷部を憎からず思っていると知れた時、日本号が長谷部の一挙一動に面白いくらいに悩んでいるのを初めて目にした時、日本号から話を引き出すために蜻蛉切と目配せし合った時、朝帰りした日本号の着流しからふわりと長谷部の香りが漂ってきた時。己はどう思ったか。
「あー、否めねえな」
 御手杵は正直だった。
「今話してくれたこと、全部本当なんだよな?」
「僕達が嘘を吐いてどうするのです」
 何を今更、と宗三は鼻を鳴らす。
「長谷部は日本号と飲んで眠れて楽しそうでした。嘘寝をする度に罪悪感を感じるとは言ってましたが」
「やっぱり狸寝入りしてたのかよ」
「ただ、最近はめっきりしょげてますね」
 卓袱台に頬杖をついた宗三は、物憂げとも怠そうとも取れる面持ちで吐息を漏らす。
「先日の前戯未遂事件で自分の日本号への思いをきちんと自覚した長谷部は、この気持ちが日本号にバレたら気持ち悪るがられるに違いない、距離を取るしかないと思ったようです」
「おいおい、そりゃあ逆効果だぜ」
 御手杵は驚いた。
「日本号は苛々してるぞ。あいつも自分の気持ちに整理が付いて面と向かって話し合いたいのに出来てねえから、このままじゃあ振り出しに戻るどころか悪化しかねねえって」
「見事なまでにすれ違っていますね。何処まで面倒なんでしょうか、あの二口は」
 どうします薬研、と宗三が傍の短刀に投げかける。薬研は理知的な眼差しを卓上に落とし、ややあって御手杵を振り仰いだ。
「日本号は?」
「夜更けまで遠征だ」
「長谷部は?」
「明日の朝まで出陣です」
「蜻蛉切は?」
「演練。ぼちぼち帰ってくるはずだ」
「よぉし、そりゃあいい。絶好のチャンスだ」
 薬研は胡座を掻いた両膝を打った。
「旦那、昼餉を済ませたら蜻蛉切を連れてまたここに来てくれ。作戦立てようぜ」
「何するつもりなんだ」
 合戦場育ち、きっと幾千もの修羅場を潜り抜けてきたのだろう短刀はそれに相応しい笑みを浮かべた。
「楽しませてもらってる礼だ。長谷部と日本号の正念場を、俺達で予測推定の上お膳立てしてやろうじゃないか」




戦闘n+一回目

 
 昨晩帰って来た時から同室の連中がおかしい。
 どうおかしいかと聞かれると困るのだか、強いて言うならばそわそわしている気がする。
「ぎゃあああ[[rb:鋏男士> シザーマン]]怖ぇ怖ぇ怖ぇ!! 来んな来んな!来んなっての!」
「早く逃げろ御手杵! 銭子殿が危ない!」
 だがそれはただ単に昨夜から御手杵がホラーゲームを始めたせいではないかとも思えてきたのが、一晩経った今の心境である。
 日本号は欠伸を噛み殺した。昨日は出陣先で思いの外苦戦させられ、疲労困憊で帰って来た頃にはすっかり夕餉の時間が過ぎていた。苦労の割に芳しくなかった戦果のせいか、寝入った時刻が遅かったせいか。頑丈な日本号にしては珍しく、起きてもまだ身体が怠かった。だがどうせ今日は非番だ。だから日本号は重い身体を畳の上に伸ばして、壁に据えられた薄くて大きな液晶画面と睨み合い叫び合いしている御手杵と蜻蛉切を眺めていた。
「早く走れよ銭子ぉ!」
「命がかかっているのだぞ、もっと心して走らんか!」
 二本してゲームの主人公である銭子という少女に檄を飛ばしている。日本号は途中から見始めたのでその物語をよく分かっていないのだが、どうもこの銭子という少女は鋏を手にどこまでも迫ってくる殺人鬼に追われて、命からがら逃げているらしい。怪人に捕まることは勿論一瞬でも接触することがあれば、忽ち少女は怪人の掌中で物騒に輝く巨大な鋏の餌食となる。だから少女は懸命に逃げる。
「もうちょっと落ち着いて操作出来んのかっ。ああっ、危なっかしい!」
「俺にしちゃあ十分落ち着こうとしてるんだよぉっ」
 板の中の少女に感情移入しすぎている蜻蛉切が、掌大の操作機を弄る御手杵に厳しい言葉を浴びせる。しかしこういったスリル溢れるゲームを好む割に動揺しやすい御手杵は、切羽詰まった様子で言い返すくらいしか出来ない。いつもならば日本号も茶々を入れる所なのだが、今日はそんな気持ちになれなかった。酒をちびちびと啜りながら平たい世界の中で拙い逃げ方しか出来ない少女を眺めているうちに、常と違う連想が勝手に成されていく。
(人の身ってのは思うがままにならねえからこそ面白いものだと思っているが、今回ばかりは厄介でならねえ)
 そうなのだ。身体も心も自身も他者も、一度崩れてしまってはもうどうにも意のままには出来ないものなのだ。
 逃げ惑う少女と追いかける怪人に、全く別の影が重なっていく。
「そう、その部屋の暖炉脇だ!」
 蜻蛉切が助言した通り、赤絨毯の敷かれた階段を駆け下りてきた少女は大広間を横切って暖炉のある書斎へと飛び込む。その背中を怪人が追う。
(あの野郎、好き勝手してくれやがって)
 日本号の脳裏を、ひらひらと様々な表情が駆け抜けては消えていく。いつもの仏頂面、親しげな笑顔、目尻を光らせた微笑み、バツの悪そうな顔、きっと吊り上がった眉、挑発的な藤色、驚きのあまり固まった口、微睡み溶ける顔。
 一つの顔の裏を覗こうとすれば、いつだって奴はまた別の顔を見せた。そしてその度、此方の都合など考えず一方的に拒み逃げていく。
「おっしゃあーッ火掻き棒ゲット!」
 少女が暖炉脇へ寄り、得物を手に入れた。突きっ、と御手杵は勝ち誇った声で叫ぶ。それに合わせて少女が、迫って来た鋏男士の頭に入手したばかりの棒を叩き込む。渾身の力が込められたのだろうそれに打たれた男は、その場に蹲って消えた。彼の黒い影が消え失せたのを見届けた少女は、安堵の溜め息を吐く。
(あいつも、嫌だったのかねえ)
 ここ数日の自分に対する避けっぷりから考えるに、そうとしか思えない。だがそうだとすれば何故、殴ってでも止めようとしなかったのだろう。あの時殴ってでも蹴ってでも拒んでくれれば、彼に対するこんな物思いなど知らずに済んだのに。これまで通りの腐れ縁でいてやれたのに。
(あいつの目に、俺はどのように見えているのだろう)
 操作される少女は自分がプレイヤーの代替であり幻なのだという役割を理解でもしているのか、男を殴り倒してもなお能面を保っている。何を考えているのか分かりづらい。
 だがたとえ表情が豊かにあった所で、その胸の内は依然として読めないだろう。
(この男のような執拗く気味の悪いものとして映ってるのだろうか)
 鋏男士は一度撃退されても、またどこからともなく現れて幾度ともなく少女を追い掛け回す。その背筋を曲げて少しでも少女に近づこうと前のめりになっている男が一瞬自身と重なって、日本号は内心毒づいた。こんな後ろ向きに考えてしまうなんて己らしくない。
 自分はあの男を絶ってやろうなんて、考えたことも――
「日本号、頼みがあるんだが」
 不意に呼ばれた。物思いから返った日本号は、いつの間にか操縦機を蜻蛉切に託して眼前に正座していた御手杵に焦点を定めた。
「何だ」
「便所について来てくれ」
「ああ?」
 御手杵の口元が不自然に強張っている。身の丈六尺以上の男が吐いたものとは思えない台詞に日本号が目を瞬かせていると、男は縮こまってなおも懇願した。
「一人じゃ、怖くて無理なんだよ」
「お前なあ」
 日本号は反射的に外を窺った。どう見ても明るい。
「今は昼間だぞ?」
「昼間だってなあ! いきなり厠から出て来たら真夜中になってるってことだってあり得るんだぞ!? 『世にも奇妙な本丸』でやってただろ!」
「知らねえが、お前が二二〇五年に毒されすぎだってことは分かる」
 御手杵は怯えた様子で喚いているが、気が進まない。もう一本の槍を呼んでみるも、「今銭子殿の御伴で忙しいですな」と言われた。何が銭子殿だ。生身の仲間より幻想の女を優先するなんて薄情にも程がある。
 日本号は仕方なしに、駄々をこねる御手杵について行くことにした。自身がついて行くことを決めた途端怯えていた槍は一転うきうきした足取りで部屋を出て厠に向かい始めたが、しばらくして厠が見えてくるとまた真剣な表情で振り返った。
「いいか、絶対この近くにいろよ? 遠くに行くなよ、俺を置いていくなよ?」
「へーへー。いいからさっさと用足して来い」
「本当に遠く行くなよな!?」
 日本号が適当に返した約束が信じられないのか、御手杵は何度も念押しして振り返りながら厠へ入って行った。
 ひょろ長い影が完全に厠へ消えたのを確認して、日本号は溜め息を吐いた。
 阿保らしい。御手杵のことではない(あいつが阿保なのはいつものことだ)、己自身のことだ。あの打刀が何を考えて自分をどう思っているかなんて、分かるはずがないのだから考えたって仕方ないだろう。どうしても気になるのならば、先日のことを詫びてからまた暴いてやればいい。
 本当はあの最後に酒盛りをした翌日に、自分の振る舞いを詫びるつもりだったのだ。しかし長谷部がとことん自分を避けるから、逆にだんだん腹が立ってきて謝る気も顔を合わせる気も失せてきてしまっていた。
 そのうちあいつのことなんてどうでもよくなるだろう。そう思おうとしたが一向に胸の澱みが消える気配はなく、酒を飲んでいてもその香りを自分の隣で夜の間だけ纏っていた存在の事を思い出して、苛立って杯を弄ればその滑らかな質感から己に委ねられた陶器の肌が蘇ってやるせなくなる一方だった。
(うだうだ悩むくれえなら一度でいい、さっさと捕まえて話をしちまった方がいい)
 その結果気持ち悪いと言われようがもう顔を見せるなと言われようが、構わない。少なくとも今よりはマシだ。日本号はここ数日いつも頭のどこかしらを占めていた悩みに、遂に踏ん切りをつけた。そうと決めたら早く長谷部を捕まえよう。しかし奴は昨夜確か夜戦に出ていたはずだ。ならば、自室で眠っているのか。
 厠前の壁に寄りかかり、日本号が唸った時である。
「貴方ね、いい加減にしてくださいよ」
 うんざりとした風合いを含んだ、涼しげな声が聞こえてきた。
 声が近いので日本号は一瞬自分に言われたものかと思ってどきりとしたが、そうではないらしい。前後は壁、左手突き当たりは厠、反対側は縁側と庭に面したこの場所のどこを見回しても人影はなく、更に声は日本号の様子に構わず喋り続けている。
「そんなに気にするならば、逃げたりしないでこれまで通り接していけばいいじゃないですか」
「簡単に言ってくれるな」
 先程の声とは別の、自虐を含んだ暗い声が答えた。日本号は壁から背中をがばりと離して辺りを見回す。
 この声こそ、今彼がちょうど聞きたいと思っていたものだった。
 厠の前から離れ、右手側を見る。規則正しい間取りのここは、手入れ部屋の並びだ。手前から三つ目の障子が僅かに開いている。日本号は耳を澄ませた。声はその隙間から聞こえてくるらしい。
「これまで通りに接することが出来そうならば、とっくにそうしている」
 また聞こえてきた。間違いない、長谷部の声だ。
(あいつ、怪我したのか)
 日本号は眉根を寄せた。この時間までここにいるということは、間違いなく軽傷以上。慣れた戦場でそこまでの傷を負うとは、奴にしては珍しい。
「何度も言っていますけどね、長谷部」
 言い返している涼しげな声は宗三左文字のものだろう。
「貴方はそう言いますけど、案外その場になってしまえば出来るものですよ? たとえうまく接することが出来なくとも、何とでも言い逃れはきくでしょう。日本号はいっとう、貴方の奇行には慣れているはずですからね」
 己の名が出てきた。これでこの二振が話している内容が己と長谷部の関係性についてだと気づかないほど、日本号は鈍くない。
 長谷部は不貞腐れたような調子で、奇行ばかりしていて悪かったなと呟いた。
「長谷部。貴方は何を恐れているのです?」
「恐れてなどいない」
「らしくないんですよ。貴方は一刀剣にどう思われようと、気にするような繊細な性格じゃないでしょう」
「…………」
「あんなことをされて、あの槍が怖くなりましたか?」
 日本号は息を飲んだ。宗三のした質問こそまさに、日本号が訊ねたかったことだった。
 無意識に手入れ部屋へにじり寄る。己の心音が、急速に巡り始めた血液を通じて耳元で騒ぎ立てる。
 やがて、小さく空気を揺らす気配がした。
「まさか」
 逆だ、と長谷部の声が言った。
 過ぎ去りし年月を見出そうと詰め寄った時に聞いたのと似た、心の零れ落ちる声色でそう呟いた。
「流石のお前でも軽蔑するだろうな」
 己を嘲っているらしい、どこか観念したような力のない抑揚。
 ――ついて行きたかった。
 ひとりでに思い出すのはこの打刀が口にした、かつての主君への敬愛と哀悼の言葉。奴がそう漏らしたあの時は、そうかこの刀は主君に関わる全ての情を主君と共に埋葬したのかと何も言わなかった。
「俺があの夜、あの槍にどうして欲しかったのか聞かせてやろうか?」
 ――だが、できない。
 今現在の長谷部の声に、以前の長谷部の台詞が重なって聞こえる。
 無論長谷部の主への思いと日本号への思いが別物であることなど百も承知だ。承知しているしそんなことはどうだっていい。それより許せないのは。
(今生きてる俺とてめえ自身の思いを、勝手に過去の遺物にすんじゃねえ)
 馬鹿野郎が、と唇だけで思いを形にして、日本号は障子に手を掛けた。
「そりゃあ是非聞かせて欲しいねえ」
 声をかけて障子を開け放ったら、仰天した長谷部と目が合った。ズボン一つに上半身は袖を通さずシャツだけを羽織った状態で、包帯に覆われた右胸から左肋骨の下あたりまで以外は皆露わになっている。顎の下に少しだけ切り傷が走っていて、滲んで茶になりかけた朱と陽光に晒された白い肌の対照が眩い。だがそれ以上に見事な間抜け面だったので、日本号はつい笑ってしまう。
「にっ? は? きっ」
「おや、貴方いたのですか」
 長谷部の前に正座していた左文字の刀は、振り返って日本号を見上げる。傾国の美貌には驚きの「お」の字もなく、ははあこいつわざと聞かせてやがったかと日本号は得心した。流石は天下人を巡ってきた刀。外見性格は豪勇でなくとも、その胆力は見上げたものだ。
「盗み聞きとは行儀が悪い。正三位が聞いて呆れます」
「何とでも言え」
「宗三、き、貴様っ」
 やっとまともに言葉を話せるようになった長谷部が、旧友を睨んだ。しかし赤くなった眦では全く迫力がないし、日本号としてはその目で睨むならば自分にして欲しいと思う。
「僕の不注意を責めますか?」
 しかし宗三は平然としたもので、しなやかに立ち上がって狼狽える長谷部を見下ろした。
「その前に貴方はまず冷静になり、よく休むべきです。そうしないと、主のための自慢の高性能も形無しのようですから」
 長谷部ががくりと項垂れた。刀を抜かないままに会心の一撃を決めた宗三は、速やかに手入れ部屋に背を向ける。去り際に日本号へとくれた流し目は、「後は好きにして下さい」と告げていた。
 日本号は長谷部に向き直った。長谷部は呆けた様子で此方を見上げている。
「あーあ、こんなに怪我しやがって」
 日本号はしゃがみ込んで長谷部の顔に手を伸ばした。びくりと跳ねた白い手が、逞しい日に焼けた手を払いのける。
「だ、駄目だ……っ」
「嫌なのか?」
 問うと、長谷部はぶんぶんと首を横に振った。嫌ではないらしい。先程の逆だという台詞は聞き間違いでなかったと思っていいのだろうか。
 瞳を覗き込む。寄せられた眉根に皺は寄っていなくて、どちらかというと惑っている風に窺える。
「い、嫌ではないんだが」
「前みてえな真似はしねえよ。怪我の具合だけ見させろ」
 有無を言わさずに右手で顔に触れた。長谷部は身を跳ねさせたが逃げない。頬を捉えたまま指先で顎の傷をなぞると、ん、と少し痛そうな声を漏らした。
 手負いでもなお、長谷部は美しかった。知っていたことだ。長谷部は初めから美しい刀だった。
「お前の肌が好きだ」
 思い切って告げる。藤色の瞳が、めいっぱい見開かれた。嫌悪の色はなさそうだという見立てを信じたい。日本号は苦笑して言葉を続ける。
「最初に自覚したのはそれだった。……全く、我ながら呆れちまうわ。神ともあろうものが、借り受けた人の身を切っ掛けにてめえの気持ちに気付くなんてな」
 俺達は人から生まれた神だから、仕方ないのだろうが。
 日本号は傷をなぞっていた手を、煤色の頭へと滑らせた。
「指通りの良い髪が気に入った。目は前から綺麗だと思ってた。本体は、それよりずっと以前から。口煩さにほとほと参ってた時期もあったが」
 言いながら指を前髪から瞼へと、顔の輪郭を辿らせてそして唇へと行き着く。
「お前と言い合うのは悪くない」
 顎を捉えながら閉ざされた口唇を親指で撫でてやると、淡い色の虹彩が困ったように逸らされた。
「なあ、ここまで言ってもまだ隠すか?」
 色付いた形の良いそれを、ふにふにと押す。その下の食い縛られた歯の形をなぞるように、丁寧に嬲ってやる。
「お前はあの夜、俺にどうして欲しかった?」
「きさま、意地の悪い……っ」
 閉ざされた唇が開いた。指先が舌先を掠めれば、睨み付ける藤色が見たことのない潤み方をする。強いて言うなら酔うた時に似ている今にも瞳孔の溶けそうに揺らぐ様を見つめていると、長谷部は観念したように吐息を零した。
「もっと、触れて欲しかった」
 そっと大切に紡がれた言葉。指先を掠めた吐息の、湿った熱さ。
「もっと直に触れて、その温もりで満たして、貴様の身に俺自身を添わせて欲しかった」
 熱い吐息を孕んだ低い声の、掠れたようなざらついた余韻。日本号の背がぞくりと震える。
「じゃあ、何で俺を避けたんだ」
 つられて問いかける声が低くなってしまったのも、無理はないと思う。すると長谷部は今度こそ顔を真っ赤に染めて喚きたてた。
「仕方ないだろう! 貴様は途中でやめて出て行ってしまっただろうが! 俺がへっ変な反応をしてしまったから、嫌だったのだと……これで、た、たくさん触られて嬉しかったなんて……思っていたとばれたら、またああなったらもっと触って欲しくなってしまうなんて思っているとばれたらもっと嫌われ――」
 日本号はもう、それ以上聞いていられなかった。
 らしくなく狼狽えた長谷部の台詞が日本号の中で明確な思いの形を成す度に、鳩尾の辺りに刃を突き入れられたような衝撃が走る。お陰でこの手入れ部屋に来てから心臓が狂ったように跳ねているのだが、それは意地でもこの打刀には教えてやるまい。
 我慢の限界だった。日本号は今にも唸り出しそうな自分の口と凶刃ばかり繰り出して来る長谷部の口を、両方黙らせられる一番手っ取り早い方法で塞いだ。塞ぎ過ぎて、長谷部の唇が塞いでいてもなお凶器的な触感を伝え理性を削るような声を漏らしてくることを発見してしまい、結局どちらの口も開放することになってしまった。
 いつの間にか日本号の腕は長谷部の背中に回っていたが、一体いつ回したのかなんてことはどうでもいい。それより長谷部の手が恐る恐る、だがしっかりと日本号のタンクトップの胸元を掴んでいることの方が問題だ。何が問題なのか。この日本号を殴りどつきしてきた横暴な手が、ただ従順に添えられるだけになっている所がまずい。更にその手が手袋をしている所が大いにまずい。薄い手袋一枚越しに伝わって来る控えめな体温がもどかしくて、暴いてしまいたくなる。薄く水を湛えた瞳と燃えるような血の色の透ける唇が、そのまま暴いてくれと言っているような気がする。いや絶対言ってる。
(いやいや待て待て)
 しかし日本号は、なけなしの自制心を掻き集めた。相手に掻き立てられて衝動的にその上へ雪崩れ込むなんて、正三位の矜持が許さない。こういう時こそ、こういう大切な相手にこそ、余裕を持って懇切丁寧に扱うつもりだということを伝えなければならない。もう不必要に拗れるのは御免だ。
 ここまで親しくなれないことで不愉快になってしまうと自分に思わせる相手を、日本号は知らないのだから。
「ここに来る前は、お前が傍にいるのが当たり前のように思ってた」
 日本号が口を開くと、長谷部は不思議そうな顔をした。構わずに日本号は続ける。
「この人の身は便利でどこでも好きな場所に行けるが、その分お前の傍にずっといられねえ。お前がずっと傍に留まってることもねえ。それだけが不便だ」
 傍にいるのが当たり前。際立って話をするわけでなくとも互いを意識し、ぶつかる時は遠慮なくぶつかり合い、肩を並べる時は喜び勇んでしまう。そんなこの関係を、誰にも譲ることの出来ないようにしてしまいたい。更にそれだけでなく、何時だってその身に触れて魂と共に愛でることの出来る権利が欲しい。
 それらを包括した関係性の名を、日本号は知っていた。
「だから長谷部、俺の連れ合いになっちゃあくれねえか」
 長谷部は刹那双眸を丸くした。しかしすぐに、その顔に挑発的な色合いが浮かぶ。
「たとえそれになろうとも、俺は主命を優先するぞ?」
「構わん。お前はそういう刀だし、俺はお前を命令で縛るつもりはねえ」
「いいのか? 他の者を優先することになるのに?」
「不満を覚えたら言ってやる。ただし主であろうと、契約者の関係を超えたら祟る。お前も不貞をはたらけば折る」
「俺は嫉妬深いぞ?」
「知ってる。俺もだ」
「俺には愛想がないし」
「そこが愛嬌なんだろ」
「付喪神の情の交わし方も、ろくに知らん」
「そこは心配するな。俺が仕込んでやる」
「……俺は、相当面倒臭い刀だ」
「何年お前のこと見てると思ってんだ。本当面倒臭ぇな、いいからさっさと『はい』って言え」
 長谷部は詰まった。日本号の強い眼差しから逃げるように視線を泳がせ、ややあって弱々しく問う。
「そのうち、俺に飽きるのではないか?」
「俺がお前と連れ合いになりたいのは、目新しさや面白さからじゃねえよ」
 日本号は少し呆れたように答えた。それから一途に、しかし未だ不安げに仰ぐ藤色を見つめ、語調を和らげて言い聞かせる。
「お前が傍にいるのが当たり前になっちまったんだ。だから別に特別なことなんてしないでいい」
 俺と共に生きてくれ。
 そう囁いたら、長谷部は俯いた。二三度肩を震わせながら深呼吸している。そしてまた顔を上げると、
「お前が、俺一人だけを連れ合いとしてくれるなら……いい」
 蚊の鳴くような声で、答えた。
 日本号は今度こそ衝動的に掻き抱いた。やっと互いの思いを知った二口は、自分達が重なった丁度その時、それまで薄く開いていた障子が閉まったことに気付かなかった。
 



戦闘結果

 
「ばんざーい! ばんずぁーーーーい!」
 真昼の本丸の廊下を叫びながらひた走る、細長い影があった。
 緑ジャージの彼の名は御手杵。こう見えて天下三名槍だが、一人真顔で叫びながら本丸の廊下を疾走している姿にその威厳は皆無である。
「くっそ甘ぇっ! とんでもなくくそ甘ぇよぉーッ! ドロッドロに煮詰めたべっこう飴より甘ぇーッ!」
「うるさいですよ」
 槍部屋に駆け込むなり畳に倒れ込んでゴロゴロとのたうち回りながら叫び続ける彼を、蒼碧のオッドアイが冷めた目で見下ろす。
「だから言ったでしょう。他人の睦言など覗き見たって、胸焼けしかしないと」
「全くもってその通りです……」
「くれぐれも、覗いていたことは当刃達に伏せるのだぞ?」
 蜻蛉切が念を押す。御手杵は力なく畳に寝転がったまま、はぁいと返事をした。
「いやあアツかったぜ。あの分なら、あのままいい汗かきそうだな」
 続けてそう言いながら爽やかな笑みと共に槍部屋の戸口に立ったのは、白衣姿の少年である。これで仕掛け人が全員揃うことになり、蜻蛉切は静かに立ち上がり部屋を閉め切った。
「大成功ですな」
「長谷部が夜戦上がりだったのが幸いでした」
「それで上手く乗せちまうあんたも怖いけどな」
「だがまあ何より、決め手だったのは二人のコレだろ」
 薬研が「コレ」として胸の前に掲げたのは、己の手で作ったハート型である。御手杵が感心しているのか呆れているのか分かりづらい大きな息を吐いた。
「ほんっとうにあいつら、見事に一線越えたなあ」
「元々友人と言うには親密すぎる間柄でしたからね。本人達さえ吹っ切れてしまえば早いものです」
「そうだな、早かったなあ」
 四口はしみじみと、あの二本を見守って来た日々を思う。
 思い返せば「見守って来た」というより「楽しんできた」という方が適当な気もするのだが、それは本刃達にとって自明であるので置いておく。一番大切なのは、今回の件が終わりではなく始まりであるということだ。
「これからもあの二口の無自覚お惚気騒動は続くでしょう。ですがまずは目先の後処理です。薬研、抜かりありませんね?」
「おーっと俺っちとしたことが! 大将が不在だってのに手入れ部屋を閉め切っちまったぜ! こいつぁ大将が帰って来るまで手入れ部屋は開かねえな。いやー長谷部と日本号の旦那は大丈夫かねー?」
「白々しいですがそれで構いません」
 薬研はにやにやしている上に台詞が棒読みである。その調子で他の刀剣の前で語れば仕組まれていたことがばれてしまうだろうが、そこは薬研である、きちんと演出するだろう。
 ずいと蜻蛉切が進み出る。
「後は機会を見計らって、自分が閉じ込められている二口を発見するだけですな!」
「なるべく早い方がいいぞ。本格的におっ始まったらエライことになる」
 薬研の言う「エライ」の内容は、聞かなくたって分かる。
「そうしたら長谷部の代わりに俺が出陣だな! 待ってたぜ!」
「貴方は長谷部とは違った方向に仕事中毒ですよね」
 浮足立っている御手杵は、宗三の台詞なんて気にしない。そもそも戦好きの御手杵にとって、宗三のこの台詞は毒に値しないのであった。
「ならばもう行ってみた方がいいだろうか」
「そうだな、俺も行こう。偵察なら任せてくれ」
 蜻蛉切に合わせて薬研が立ち上がる。手入れ部屋は騒がしくなることが多いので防音加工が施されているのだが、短刀であり主に次ぐ手入れ部屋の管理者である薬研にかかればその中の偵察などどうと言うこともない。
「俺も行く! 日本号連れて便所行ってたって設定だったし!」
「僕もそろそろ、部屋に戻るとしましょうか」
 御手杵と宗三も立ち上がった。部屋を出ようとする蜻蛉切を、しかしひとまず宗三が片手で制す。彼は怜悧な眼差しで皆を見渡した。
「皆、いいですか。今回だけでなく、今後とも彼らの戦いは続くでしょう」
「そうだろうなあ。あいつら喧嘩も愛情表現の一環だから」
 御手杵が同意する。宗三が頷いた。
「そうです。ですがその相談を受けた時には、絶対忘れてはいけないことがありましたね?」
「報告、連絡、相談だな」
 蜻蛉切が答える。
「その通り。おもしろ――戦は戦場での行動も勿論ですが、事前の情報戦を制し環境を整えることも肝要です」
「長谷部のことで、やたら心配してやきもきしたくないもんなあ?」
 薬研が口の端を吊り上げて宗三を仰ぐ。打刀はふいと顔を背けた。
「僕はただ、長谷部の非効率的な愚痴を必要以上に聞きたくないだけです」
「おう、そうな」
 薬研が宗三の肩を叩き、宗三は顔をしかめる。蜻蛉切はそれを微笑ましく見守っている。御手杵は頭を掻いて提案する。
「なあ、手入れ部屋が本格的に夜戦始める前に行こうぜ?」
「そうだな」
 昼間だけど。そんな無粋なツッコミなど、蜻蛉切はしない。
 障子を開け放てば、本丸の碧空に太陽が燦燦と輝いている。雲一つない良い天気だ。まるで勝利を飾った彼らと自分達を祝してくれているようで、御手杵はつられるように満面の笑みを浮かべた。そして思った。
 ああ、早く戦に行きたい。
 


 
 
20161017 執筆完了

※作中の質問は『それしゝレ十!ココ口ジ一』より抜粋