三槍阿保話【腐】FINAL

※にほ!へし!腐!

 

 

 

⑧戦闘n+一回目

 

 昨晩帰って来た時から同室の連中がおかしい。

 どうおかしいかと聞かれると困るのだか、強いて言うならばそわそわしている気がする。

「ぎゃあああ鋏男士怖ぇ怖ぇ怖ぇ!! 来んな来んな!来んなっての!」

「早く逃げろ御手杵! 銭子殿が危ない!」

 だがそれはただ単に昨夜から御手杵がホラーゲームを始めたせいではないかとも思えてきたのが、一晩経った今の心境である。

 日本号は欠伸を噛み殺した。昨日は出陣先で思いの外苦戦させられ、疲労困憊で帰って来た頃にはすっかり夕餉の時間が過ぎていた。苦労の割に芳しくなかった戦果のせいか、寝入った時刻が遅かったせいか。頑丈な日本号にしては珍しく、起きてもまだ身体が怠かった。だがどうせ今日は非番だ。だから日本号は重い身体を畳の上に伸ばして、壁に据えられた薄くて大きな液晶画面と睨み合い叫び合いしている御手杵と蜻蛉切を眺めていた。

「早く走れよ銭子ぉ!」

「命がかかっているのだぞ、もっと心して走らんか!」

 二本してゲームの主人公である銭子という少女に檄を飛ばしている。日本号は途中から見始めたのでその物語をよく分かっていないのだが、どうもこの銭子という少女は鋏を手にどこまでも迫ってくる殺人鬼に追われて、命からがら逃げているらしい。怪人に捕まることは勿論一瞬でも接触することがあれば、忽ち少女は怪人の掌中で物騒に輝く巨大な鋏の餌食となる。だから少女は懸命に逃げる。

「もうちょっと落ち着いて操作出来んのかっ。ああっ、危なっかしい!」

「俺にしちゃあ十分落ち着こうとしてるんだよぉっ」

 板の中の少女に感情移入しすぎている蜻蛉切が、掌大の操作機を弄る御手杵に厳しい言葉を浴びせる。しかしこういったスリル溢れるゲームを好む割に動揺しやすい御手杵は、切羽詰まった様子で言い返すくらいしか出来ない。いつもならば日本号も茶々を入れる所なのだが、今日はそんな気持ちになれなかった。酒をちびちびと啜りながら平たい世界の中で拙い逃げ方しか出来ない少女を眺めているうちに、常と違う連想が勝手に成されていく。

(人の身ってのは思うがままにならねえからこそ面白いものだと思っているが、今回ばかりは厄介でならねえ)

 そうなのだ。身体も心も自身も他者も、一度崩れてしまってはもうどうにも意のままには出来ないものなのだ。

 逃げ惑う少女と追いかける怪人に、全く別の影が重なっていく。

「そう、その部屋の暖炉脇だ!」

 蜻蛉切が助言した通り、赤絨毯の敷かれた階段を駆け下りてきた少女は大広間を横切って暖炉のある書斎へと飛び込む。その背中を怪人が追う。

(あの野郎、好き勝手してくれやがって)

日本号の脳裏を、ひらひらと様々な表情が駆け抜けては消えていく。いつもの仏頂面、親しげな笑顔、目尻を光らせた微笑み、バツの悪そうな顔、きっと吊り上がった眉、挑発的な藤色、驚きのあまり固まった口、微睡み溶ける顔。

 一つの顔の裏を覗こうとすれば、いつだって奴はまた別の顔を見せた。そしてその度、此方の都合など考えず一方的に拒み逃げていく。

「おっしゃあーッ火掻き棒ゲット!」

 少女が暖炉脇へ寄り、得物を手に入れた。突きっ、と御手杵は勝ち誇った声で叫ぶ。それに合わせて少女が、迫って来た鋏男士の頭に入手したばかりの棒を叩き込む。渾身の力が込められたのだろうそれに打たれた男は、その場に蹲って消えた。彼の黒い影が消え失せたのを見届けた少女は、安堵の溜め息を吐く。

(あいつも、嫌だったのかねえ)

 ここ数日の自分に対する避けっぷりから考えるに、そうとしか思えない。だがそうだとすれば何故、殴ってでも止めようとしなかったのだろう。あの時殴ってでも蹴ってでも拒んでくれれば、彼に対するこんな物思いなど知らずに済んだのに。これまで通りの腐れ縁でいてやれたのに。

(あいつの目に、俺はどのように見えているのだろう)

 操作される少女は自分がプレイヤーの代替であり幻なのだという役割を理解でもしているのか、男を殴り倒してもなお能面を保っている。何を考えているのか分かりづらい。

 だがたとえ表情が豊かにあった所で、その胸の内は依然として読めないだろう。

(この男のような執拗く気味の悪いものとして映ってるのだろうか)

 鋏男士は一度撃退されても、またどこからともなく現れて幾度ともなく少女を追い掛け回す。その背筋を曲げて少しでも少女に近づこうと前のめりになっている男が一瞬自身と重なって、日本号は内心毒づいた。こんな後ろ向きに考えてしまうなんて己らしくない。

 自分はあの男を絶ってやろうなんて、考えたことも――

「日本号、頼みがあるんだが」

 不意に呼ばれた。物思いから返った日本号は、いつの間にか操縦機を蜻蛉切に託して眼前に正座していた御手杵に焦点を定めた。

「何だ」

「便所について来てくれ」

「ああ?」

 御手杵の口元が不自然に強張っている。身の丈六尺以上の男が吐いたものとは思えない台詞に日本号が目を瞬かせていると、男は縮こまってなおも懇願した。

「一人じゃ、怖くて無理なんだよ」

「お前なあ」

日本号は反射的に外を窺った。どう見ても明るい。

「今は昼間だぞ?」

「昼間だってなあ! いきなり厠から出て来たら真夜中になってるってことだってあり得るんだぞ!? 『世にも奇妙な本丸』でやってただろ!」

「知らねえが、お前が二二〇五年に毒されすぎだってことは分かる」

 御手杵は怯えた様子で喚いているが、気が進まない。もう一本の槍を呼んでみるも、「今銭子殿の御伴で忙しいですな」と言われた。何が銭子殿だ。生身の仲間より幻想の女を優先するなんて薄情にも程がある。

 日本号は仕方なしに、駄々をこねる御手杵について行くことにした。自身がついて行くことを決めた途端怯えていた槍は一転うきうきした足取りで部屋を出て厠に向かい始めたが、しばらくして厠が見えてくるとまた真剣な表情で振り返った。

「いいか、絶対この近くにいろよ? 遠くに行くなよ、俺を置いていくなよ?」

「へーへー。いいからさっさと用足して来い」

「本当に遠く行くなよな!?」

 日本号が適当に返した約束が信じられないのか、御手杵は何度も念押しして振り返りながら厠へ入って行った。

 ひょろ長い影が完全に厠へ消えたのを確認して、日本号は溜め息を吐いた。

 阿保らしい。御手杵のことではない(あいつが阿保なのはいつものことだ)、己自身のことだ。あの打刀が何を考えて自分をどう思っているかなんて、分かるはずがないのだから考えたって仕方ないだろう。どうしても気になるのならば、先日のことを詫びてからまた暴いてやればいい。

 本当はあの最後に酒盛りをした翌日に、自分の振る舞いを詫びるつもりだったのだ。しかし長谷部がとことん自分を避けるから、逆にだんだん腹が立ってきて謝る気も顔を合わせる気も失せてきてしまっていた。

 そのうちあいつのことなんてどうでもよくなるだろう。そう思おうとしたが一向に胸の澱みが消える気配はなく、酒を飲んでいてもその香りを自分の隣で夜の間だけ纏っていた存在の事を思い出して、苛立って杯を弄ればその滑らかな質感から己に委ねられた陶器の肌が蘇ってやるせなくなる一方だった。

(うだうだ悩むくれえなら一度でいい、さっさと捕まえて話をしちまった方がいい)

 その結果気持ち悪いと言われようがもう顔を見せるなと言われようが、構わない。少なくとも今よりはマシだ。日本号はここ数日いつも頭のどこかしらを占めていた悩みに、遂に踏ん切りをつけた。そうと決めたら早く長谷部を捕まえよう。しかし奴は昨夜確か夜戦に出ていたはずだ。ならば、自室で眠っているのか。

 厠前の壁に寄りかかり、日本号が唸った時である。

「貴方ね、いい加減にしてくださいよ」

 うんざりとした風合いを含んだ、涼しげな声が聞こえてきた。

 声が近いので日本号は一瞬自分に言われたものかと思ってどきりとしたが、そうではないらしい。前後は壁、左手突き当たりは厠、反対側は縁側と庭に面したこの場所のどこを見回しても人影はなく、更に声は日本号の様子に構わず喋り続けている。

「そんなに気にするならば、逃げたりしないでこれまで通り接していけばいいじゃないですか」

「簡単に言ってくれるな」

 先程の声とは別の、自虐を含んだ暗い声が答えた。日本号は壁から背中をがばりと離して辺りを見回す。

 この声こそ、今彼がちょうど聞きたいと思っていたものだった。

 厠の前から離れ、右手側を見る。規則正しい間取りのここは、手入れ部屋の並びだ。手前から三つ目の障子が僅かに開いている。日本号は耳を澄ませた。声はその隙間から聞こえてくるらしい。

「これまで通りに接することが出来そうならば、とっくにそうしている」

 また聞こえてきた。間違いない、長谷部の声だ。

(あいつ、怪我したのか)

 日本号は眉根を寄せた。この時間までここにいるということは、間違いなく軽傷以上。慣れた戦場でそこまでの傷を負うとは、奴にしては珍しい。

「何度も言っていますけどね、長谷部」

 言い返している涼しげな声は宗三左文字のものだろう。

「貴方はそう言いますけど、案外その場になってしまえば出来るものですよ? たとえうまく接することが出来なくとも、何とでも言い逃れはきくでしょう。日本号はいっとう、貴方の奇行には慣れているはずですからね」

 己の名が出てきた。これでこの二振が話している内容が己と長谷部の関係性についてだと気づかないほど、日本号は鈍くない。

 長谷部は不貞腐れたような調子で、奇行ばかりしていて悪かったなと呟いた。

「長谷部。貴方は何を恐れているのです?」

「恐れてなどいない」

「らしくないんですよ。貴方は一刀剣にどう思われようと、気にするような繊細な性格じゃないでしょう」

「…………」

「あんなことをされて、あの槍が怖くなりましたか?」

 日本号は息を飲んだ。宗三のした質問こそまさに、日本号が訊ねたかったことだった。

 無意識に手入れ部屋へにじり寄る。己の心音が、急速に巡り始めた血液を通じて耳元で騒ぎ立てる。

 やがて、小さく空気を揺らす気配がした。

「まさか」

 逆だ、と長谷部の声が言った。

 過ぎ去りし年月を見出そうと詰め寄った時に聞いたのと似た、心の零れ落ちる声色でそう呟いた。

「流石のお前でも軽蔑するだろうな」

 己を嘲っているらしい、どこか観念したような力のない抑揚。

 ――ついて行きたかった。

 ひとりでに思い出すのはこの打刀が口にした、かつての主君への敬愛と哀悼の言葉。奴がそう漏らしたあの時は、そうかこの刀は主君に関わる全ての情を主君と共に埋葬したのかと何も言わなかった。

「俺があの夜、あの槍にどうして欲しかったのか聞かせてやろうか?」

 ――だが、できない。

 今現在の長谷部の声に、以前の長谷部の台詞が重なって聞こえる。

 無論長谷部の主への思いと日本号への思いが別物であることなど百も承知だ。承知しているしそんなことはどうだっていい。それより許せないのは。

(今生きてる俺とてめえ自身の思いを、勝手に過去の遺物にすんじゃねえ)

 馬鹿野郎が、と唇だけで思いを形にして、日本号は障子に手を掛けた。

「そりゃあ是非聞かせて欲しいねえ」

 声をかけて障子を開け放ったら、仰天した長谷部と目が合った。ズボン一つに上半身は袖を通さずシャツだけを羽織った状態で、包帯に覆われた右胸から左肋骨の下あたりまで以外は皆露わになっている。顎の下に少しだけ切り傷が走っていて、滲んで茶になりかけた朱と陽光に晒された白い肌の対照が眩い。だがそれ以上に見事な間抜け面だったので、日本号はつい笑ってしまう。

「にっ? は? きっ」

「おや、貴方いたのですか」

 長谷部の前に正座していた左文字の刀は、振り返って日本号を見上げる。傾国の美貌には驚きの「お」の字もなく、ははあこいつわざと聞かせてやがったかと日本号は得心した。流石は天下人を巡ってきた刀。外見性格は豪勇でなくとも、その胆力は見上げたものだ。

「盗み聞きとは行儀が悪い。正三位が聞いて呆れます」

「何とでも言え」

「宗三、き、貴様っ」

 やっとまともに言葉を話せるようになった長谷部が、旧友を睨んだ。しかし赤くなった眦では全く迫力がないし、日本号としてはその目で睨むならば自分にして欲しいと思う。

「僕の不注意を責めますか?」

 しかし宗三は平然としたもので、しなやかに立ち上がって狼狽える長谷部を見下ろした。

「その前に貴方はまず冷静になり、よく休むべきです。そうしないと、主のための自慢の高性能も形無しのようですから」

 長谷部ががくりと項垂れた。刀を抜かないままに会心の一撃を決めた宗三は、速やかに手入れ部屋に背を向ける。去り際に日本号へとくれた流し目は、「後はお好きにして下さい」と告げていた。

 日本号は長谷部に向き直った。長谷部は呆けた様子で此方を見上げている。

「あーあ、こんなに怪我しやがって」

 日本号はしゃがみ込んで長谷部の顔に手を伸ばした。びくりと跳ねた白い手が、逞しい日に焼けた手を払いのける。

「だ、駄目だ……っ」

「嫌なのか?」

 問うと、長谷部はぶんぶんと首を横に振った。嫌ではないらしい。先程の逆だという台詞は聞き間違いでなかったと思っていいのだろうか。

 瞳を覗き込む。寄せられた眉根に皺は寄っていなくて、どちらかというと惑っている風に窺える。

「い、嫌ではないんだが」

「前みてえな真似はしねえよ。怪我の具合だけ見させろ」

 有無を言わさずに右手で顔に触れた。長谷部は身を跳ねさせたが逃げない。頬を捉えたまま指先で顎の傷をなぞると、ん、と少し痛そうな声を漏らした。

 手負いでもなお、長谷部は美しかった。知っていたことだ。長谷部は初めから美しい刀だった。

「お前の肌が好きだ」

 思い切って告げる。藤色の瞳が、めいっぱい見開かれた。嫌悪の色はなさそうだという見立てを信じたい。日本号は苦笑して言葉を続ける。

「最初に自覚したのはそれだった。……全く、我ながら呆れちまうわ。神ともあろうものが、借り受けた人の身を切っ掛けにてめえの気持ちに気付くなんてな」

俺達は人から生まれた神だから、仕方ないのだろうが。

日本号は傷をなぞっていた手を、煤色の頭へと滑らせた。

「指通りの良い髪が気に入った。目は前から綺麗だと思ってた。本体は、それよりずっと以前から。口煩さにほとほと参ってた時期もあったが」

 言いながら指を前髪から瞼へと、顔の輪郭を辿らせてそして唇へと行き着く。

「お前と言い合うのは悪くない」

 顎を捉えながら閉ざされた口唇を親指で撫でてやると、淡い色の虹彩が困ったように逸らされた。

「なあ、ここまで言ってもまだ隠すか?」

 色付いた形の良いそれを、ふにふにと押す。その下の食い縛られた歯の形をなぞるように、丁寧に嬲ってやる。

「お前はあの夜、俺にどうして欲しかった?」

「きさま、意地の悪い……っ」

 閉ざされた唇が開いた。指先が舌先を掠めれば、睨み付ける藤色が見たことのない潤み方をする。強いて言うなら酔うた時に似ている今にも瞳孔の溶けそうに揺らぐ様を見つめていると、長谷部は観念したように吐息を零した。

「もっと、触れて欲しかった」

 そっと大切に紡がれた言葉。指先を掠めた吐息の、湿った熱さ。

「もっと直に触れて、その温もりで満たして、貴様の身に俺自身を添わせて欲しかった」

 熱い吐息を孕んだ低い声の、掠れたようなざらついた余韻。日本号の背がぞくりと震える。

「じゃあ、何で俺を避けたんだ」

 つられて問いかける声が低くなってしまったのも、無理はないと思う。すると長谷部は今度こそ顔を真っ赤に染めて喚きたてた。

「仕方ないだろう! 貴様は途中でやめて出て行ってしまっただろうが! 俺がへっ変な反応をしてしまったから、嫌だったのだと……これで、た、たくさん触られて嬉しかったなんて……思っていたとばれたら、またああなったらもっと触って欲しくなってしまうなんて思っているとばれたらもっと嫌われ――」

 日本号はもう、それ以上聞いていられなかった。

 らしくなく狼狽えた長谷部の台詞が日本号の中で明確な思いの形を成す度に、鳩尾の辺りに刃を突き入れられたような衝撃が走る。お陰でこの手入れ部屋に来てから心臓が狂ったように跳ねているのだが、それは意地でもこの打刀には教えてやるまい。

 我慢の限界だった。日本号は今にも唸り出しそうな自分の口と凶刃ばかり繰り出して来る長谷部の口を、両方黙らせられる一番手っ取り早い方法で塞いだ。塞ぎ過ぎて、長谷部の唇が塞いでいてもなお凶器的な触感を伝え理性を削るような声を漏らしてくることを発見してしまい、結局どちらの口も開放することになってしまった。

 いつの間にか日本号の腕は長谷部の背中に回っていたが、一体いつ回したのかなんてことはどうでもいい。それより長谷部の手が恐る恐る、だがしっかりと日本号のタンクトップの胸元を掴んでいることの方が問題だ。何が問題なのか。この日本号を殴りどつきしてきた横暴な手が、ただ従順に添えられるだけになっている所がまずい。更にその手が手袋をしている所が大いにまずい。薄い手袋一枚越しに伝わって来る控えめな体温がもどかしくて、暴いてしまいたくなる。薄く水を湛えた瞳と燃えるような血の色の透ける唇が、そのまま暴いてくれと言っているような気がする。いや絶対言ってる。

(いやいや待て待て)

 しかし日本号は、なけなしの自制心を掻き集めた。相手に掻き立てられて衝動的にその上へ雪崩れ込むなんて、正三位の矜持が許さない。こういう時こそ、こういう大切な相手にこそ、余裕を持って懇切丁寧に扱うつもりだということを伝えなければならない。もう不必要に拗れるのは御免だ。

 ここまで親しくなれないことで不愉快になってしまうと自分に思わせる相手を、日本号は知らないのだから。

「ここに来る前は、お前が傍にいるのが当たり前のように思ってた」

 日本号が口を開くと、長谷部は不思議そうな顔をした。構わずに日本号は続ける。

「この人の身は便利でどこでも好きな場所に行けるが、その分お前の傍にずっといられねえ。お前がずっと傍に留まってることもねえ。それだけが不便だ」

 傍にいるのが当たり前。際立って話をするわけでなくとも互いを意識し、ぶつかる時は遠慮なくぶつかり合い、肩を並べる時は喜び勇んでしまう。そんなこの関係を、誰にも譲ることの出来ないようにしてしまいたい。更にそれだけでなく、何時だってその身に触れて魂と共に愛でることの出来る権利が欲しい。

 それらを包括した関係性の名を、日本号は知っていた。

「だから長谷部、俺の連れ合いになっちゃあくれねえか」

 長谷部は刹那双眸を丸くした。しかしすぐに、その顔に挑発的な色合いが浮かぶ。

「たとえそれになろうとも、俺は主命を優先するぞ?」

「構わん。お前はそういう刀だし、俺はお前を命令で縛るつもりはねえ」

「いいのか? 他の者を優先することになるのに?」

「不満を覚えたら言ってやる。ただし主であろうと、契約者の関係を超えたら祟る。お前も不貞をはたらけば折る」

「俺は嫉妬深いぞ?」

「知ってる。俺もだ」

「俺には愛想がないし」

「そこが愛嬌なんだろ」

「付喪神の情の交わし方も、ろくに知らん」

「そこは心配するな。俺が仕込んでやる」

「……俺は、相当面倒臭い刀だ」

「何年お前のこと見てると思ってんだ。本当面倒臭ぇな、いいからさっさと『はい』って言え」

 長谷部は詰まった。日本号の強い眼差しから逃げるように視線を泳がせ、ややあって弱々しく問う。

「そのうち、俺に飽きるのではないか?」

「俺がお前と連れ合いになりたいのは、目新しさや面白さからじゃねえよ」

 日本号は少し呆れたように答えた。それから一途に、しかし未だ不安げに仰ぐ藤色を見つめ、語調を和らげて言い聞かせる。

「お前が傍にいるのが当たり前になっちまったんだ。だから別に特別なことなんてしないでいい」

 俺と共に生きてくれ。

 そう囁いたら、長谷部は俯いた。二三度肩を震わせながら深呼吸している。そしてまた顔を上げると、

「お前が、俺一人だけを連れ合いとしてくれるなら……いい」

 蚊の鳴くような声で、答えた。

 日本号は今度こそ衝動的に掻き抱いた。やっと互いの思いを知った二口は、自分達が重なった丁度その時、それまで薄く開いていた障子が閉まったことに気付かなかった。

 

 

 

 

 

⑨戦闘結果

 

「ばんざーい! ばんずぁーーーーい!」

 真昼の本丸の廊下を叫びながらひた走る、細長い影があった。

 緑ジャージの彼の名は御手杵。こう見えて天下三名槍だが、一人真顔で叫びながら本丸の廊下を疾走している姿にその威厳は皆無である。

「くっそ甘ぇっ! とんでもなくくそ甘ぇよぉーッ! ドロッドロに煮詰めたべっこう飴より甘ぇーッ!」

「うるさいですよ」

 槍部屋に駆け込むなり畳に倒れ込んでゴロゴロとのたうち回りながら叫び続ける彼を、蒼碧のオッドアイが冷めた目で見下ろす。

「だから言ったでしょう。他人の睦言など覗き見たって、胸焼けしかしないと」

「全くもってその通りです……」

「くれぐれも、覗いていたことは当刃達に伏せるのだぞ?」

 蜻蛉切が念を押す。御手杵は力なく畳に寝転がったまま、はぁいと返事をした。

「いやあアツかったぜ。あの分なら、あのままいい汗かきそうだな」

 続けてそう言いながら爽やかな笑みと共に槍部屋の戸口に立ったのは、白衣姿の少年である。これで仕掛け人が全員揃うことになり、蜻蛉切は静かに立ち上がり部屋を閉め切った。

「大成功ですな」

「長谷部が夜戦上がりだったのが幸いでした」

「それで上手く乗せちまうあんたも怖いけどな」

「だがまあ何より、決め手だったのは二人のコレだろ」

 薬研が「コレ」として胸の前に掲げたのは、己の手で作ったハート型である。御手杵が感心しているのか呆れているのか分かりづらい大きな息を吐いた。

「ほんっとうにあいつら、見事に一線越えたなあ」

「元々友人と言うには親密すぎる間柄でしたからね。本人達さえ吹っ切れてしまえば早いものです」

「そうだな、早かったなあ」

 四口はしみじみと、あの二本を見守って来た日々を思う。

 思い返せば「見守って来た」というより「楽しんできた」という方が適当な気もするのだが、それは本刃達にとって自明であるので置いておく。一番大切なのは、今回の件が終わりではなく始まりであるということだ。

「これからもあの二口の無自覚お惚気騒動は続くでしょう。ですがまずは目先の後処理です。薬研、抜かりありませんね?」

「おーっと俺っちとしたことが! 大将が不在だってのに手入れ部屋を閉め切っちまったぜ! こいつぁ大将が帰って来るまで手入れ部屋は開かねえな。いやー長谷部と日本号の旦那は大丈夫かねー?」

「白々しいですがそれで構いません」

 薬研はにやにやしている上に台詞が棒読みである。その調子で他の刀剣の前で語れば仕組まれていたことがばれてしまうだろうが、そこは薬研である、きちんと演出するだろう。

 ずいと蜻蛉切が進み出る。

「後は機会を見計らって、自分が閉じ込められている二口を発見するだけですな!」

「なるべく早い方がいいぞ。本格的におっ始まったらエライことになる」

 薬研の言う「エライ」の内容は、聞かなくたって分かる。

「そうしたら長谷部の代わりに俺が出陣だな! 待ってたぜ!」

「貴方は長谷部とは違った方向に仕事中毒ですよね」

 浮足立っている御手杵は、宗三の台詞なんて気にしない。そもそも戦好きの御手杵にとって、宗三のこの台詞は毒に値しないのであった。

「ならばもう行ってみた方がいいだろうか」

「そうだな、俺も行こう。偵察なら任せてくれ」

 蜻蛉切に合わせて薬研が立ち上がる。手入れ部屋は騒がしくなることが多いので防音加工が施されているのだが、短刀であり主に次ぐ手入れ部屋の管理者である薬研にかかればその中の偵察などどうと言うこともない。

「俺も行く! 日本号連れて便所行ってたって設定だったし!」

「僕もそろそろ、部屋に戻るとしましょうか」

 御手杵と宗三も立ち上がった。部屋を出ようとする蜻蛉切を、しかしひとまず宗三が片手で制す。彼は怜悧な眼差しで皆を見渡した。

「皆、いいですか。今回だけでなく、今後とも彼らの戦いは続くでしょう」

「そうだろうなあ。あいつら喧嘩も愛情表現の一環だから」

 御手杵が同意する。宗三が頷いた。

「そうです。ですがその相談を受けた時には、絶対忘れてはいけないことがありましたね?」

「報告、連絡、相談だな」

 蜻蛉切が答える。

「その通り。おもしろ――戦は戦場での行動も勿論ですが、事前の情報戦を制し環境を整えることも肝要です」

「長谷部のことで、やたら心配してやきもきしたくないもんなあ?」

 薬研が口の端を吊り上げて宗三を仰ぐ。打刀はふいと顔を背けた。

「僕はただ、長谷部の非効率的な愚痴を必要以上に聞きたくないだけです」

「おう、そうな」

 薬研が宗三の肩を叩き、宗三は顔をしかめる。蜻蛉切はそれを微笑ましく見守っている。御手杵は頭を掻いて提案する。

「なあ、手入れ部屋が本格的に夜戦始める前に行こうぜ?」

「そうだな」

 昼間だけど。そんな無粋なツッコミなど、蜻蛉切はしない。

 障子を開け放てば、本丸の碧空に太陽が燦燦と輝いている。雲一つない良い天気だ。まるで勝利を飾った彼らと自分達を祝してくれているようで、御手杵はつられるように満面の笑みを浮かべた。そして思った。

 ああ、早く戦に行きたい。

 

 

 

(了)