春先だからかそれとも山だからか分からないが、夜は冷える。あたしは宿を出て一人、近くの雑木林に足を運んだ。一歩足を踏み入れた途端、集落の朧げな明かりからも月の輝きからも遠ざかってしまう。視界が黒に潰れる。それでもすぐ、自分に近寄る何者かの、隠そうともしていない気配を感じた。
「カーノンっ」
くすぐるような男の声。その方向から瞬時に来る方向を読み取って、振り向きざまに伸ばされた両手を掴んだ。手の主は大して驚いていない様子でこちらを見つめ返してきた。闇の中でも分かるほどに、整った顔立ちはにこにこと上機嫌な笑みを浮かべていた。
「ねえ、一生懸命掴んでくれるのは嬉しいんだけどいったん離してくれないかな。君に上着がかけられないから」
「先に言うことがあるんじゃないの?」
あたしがそう言うと、彼は途端にしゅんと頭を垂れた。普段仕事でもプライベートでも心の底から頭なんて下げたことがないだろう彼の、かなりレアなしょぼくれ姿である。
「……怒ってる?」
子供みたいな口調で言う。あたしは溜め息を吐いた。
「怒ってない」
一緒に入浴していた女の子達には迷惑をかけたと思うが、見られる前に退散させたから勘弁してもらいたい。彼の行動理由が常軌を逸してることなんて付き合って長い自分にはよく分かっているが、彼女達には分かってはもらえないだろう。だからさっさと投げ飛ばした。
「どうして女湯を覗いたの?」
一応聞いておこうと思って尋ねると、彼はいつも道行く人の視線を集める美貌を凛々しくしてこう言った。
「君が温泉でガールズトークなんて珍しいことしてると思ったら、行かずにはいられなくて」
付き合いたての頃のあたしなら、嘘だと思うだろう。だけど今なら分かる。彼は至って本心からそう言っている。
「あと君が脱いでるんだから、やっぱり見に行かなくちゃと」
手刀を頭にめり込ませた。いってえ! と悲鳴が上がった。
「何だよ! 今更照れなくてもいいだろ!?」
「照れてない、呆れてるんだ」
長い腕が背中に回された。あたしは背が低いからすぐ顔が胸についてしまうけど、抱き締める強さが加減されているから息はできるくらいの余裕がある。でも、身じろぎができない程度には締め付けられていた。
「少し、髪が湿ってる」
冷えた首筋に高い鼻梁が押し付けられる。温かい。けれどくすぐったい。
「ちゃんと乾かさないとダメだよ。風邪ひくよ?」
「話を逸らすんじゃない」
彼の顔が首筋から離れた。目と鼻の先、お互いの吐息を唇で感じるほどの距離で見つめ合う。その瞳を覗き込んで、言い聞かせる。
「覗きはダメ。しないで」
「妬く?」
「妬かない」
舌打ちされた。そんなつまらないって顔をされたって、彼の変わった嗜好はよく知ってるから今更妬くなんてしない。
彼は非常に変わっている。というか、物好きだ。何でも、あたし以外の生物に性的興奮を覚えないらしい。肉体の造型が美しいとか綺麗だとかそういうことはよく分かるのだが、それが下半身に全くつながらないのだそうだ。
姉の友人に聞くところによると以前はそれなりにプレイボーイだったのだという。が、あたしがコイツを誤って投げ飛ばした出会いの日、いきなり変わってしまったのだとか。信じられない話だが本当のことだ。友人達もとい彼の職場の同僚たちに協力してもらって色々試してみたけれど、こんな人間もいるんだということを見せつけられただけだった。
「妬いて欲しいの?」
「うん、妬いてる君が見たい」
そこは違うと言って欲しかった。どうして余計なところは正直なのか。
「そんなに心配しなくても、ちゃんとあたしはアンタが好きだよ」
彼は目を丸くした。そうするといつもの他人を小馬鹿にしたような飄々としたところが抜けて、途端に幼い印象が増す。
「君が自分から言ってくれるなんて……夢かな?」
「取り消そうか」
「いやいやいや取り消さないで! もう一回言って!」
また抱き締められる。あたしは溜め息を吐いて、再び首筋に沈んだ頭をぽんぽんと叩いてやる。
「もっと自分に自信持ちなよ。アンタ良い男なんだから」
彼は短い笑い声を発した。猫がすり寄るように、耳元へ頬が触れる。
「そう言ってくれるのは君くらいだよ」
まったく面倒くさい。自己愛もプライドもあるくせに、とことん己に厳しい。いや、自己愛とプライドがあるからこそ、と言うべきなのだろうか。
「俺はね、カノン。いっそ全ての人間に嫌われればいいと思うんだよ」
「うん」
「というか、嫌われたって好かれたってどっちでもいい。嫌われればいいってもんじゃないし、それだと俺に都合がいいだけだ。結局のところ俺は俺で他人様は他人様で、どんな関係が生じて変化したって、それが何になるんだろう」
あたしはただ黙って彼の頭を撫でる。
彼は心の機微に聡く豊かな情感を持つ一方で、機械めいた怜悧さを併せ持っている。それは仕事でも遺憾なく発揮され、いかなる局面でも必要なことを見て取り平然と確実にこなしていく。残虐ではないが情もなく論理が人の皮をまとったようなその姿は、ぶれがない分どんな犯罪者よりも恐ろしいと聞く。
すべきと判断すれば、眉一つ動かさず魂さえ傷つける。それによって生じた罪悪感もエゴとしてせせら笑う。彼はそんな男だった。
「でも君にだけは嫌われたくないって思ってしまう。だからついこんなことをしちゃう」
「普通、他人の旅行に職場ぐるみで監視について来たら嫌われると思うけど」
首元に吸い付かれたので手で額を押して退けた。けれどあたしの身の動揺を悟ったようで、くつくつと笑っている。
「分かってる。だから、自分のためなんだ」
ここまで来るといっそ清々しい。貴方のため誰かのため、そんな風に彼は本気で主張をすることはなく、あくまで自分のためだという。他人や大義など幻でしかないと語り、根っからのエゴイストを自認する。その上で仲間や親族を大切に思い、あたしを愛しているとのたまう。
表面の飄々としたお調子者然とした様子からは想像もつかないほど、彼の根底はシビアで屈折している。だがある意味、ここまで自分に正直な男もいないだろう。
その堂々として自分本位だという愛の示し方が、あたしは好きだ。
「不安なら、あたしの心を読めばいい」
「それはできない」
彼はその能力をあたしに使わない。彼に言わせると世の中には知らない方がいいこともあり、踏み入るべきじゃないところもあり、また恋人という立場として互いの添わないところを認めてなお互いを恋しく思うことに夢があるかららしい。
よく分からない部分もあるが、これも彼なりの尊重の仕方なのだ。
彼が真摯な表情であたしを見つめる。明るい青の瞳は、能力など使わなくともあたしのしたいこと、言いたいことを高確率で読み取ってくれる。そこが姉曰く「職場で絶対に付き合いたくない男ナンバーワン」の理由でもあるらしいのだが。
「妬いたクセに」
「……カノンちゃん分かってたわけ?」
タチ悪っ。彼が呟く。当たり前だ。旅行に出る前に姉からの苦情は聞いている。
返事をする前に唇を塞がれた。いつもより荒々しく執拗になぶられ、舌の長さも技術も足りないあたしは時折与えられる呼吸の機会に、精々音の混じった吐息が漏れないよう必死になることしかできない。
馬鹿な奴。普段女っ気の「お」の字もないあたしをその気にさせられる人なんて、自分くらいしかいないってことも分かってるだろうに。それでも自分が嫌いで自信がないから、不安で揺らいでしまうのだ。
こんなに独善的なクセに壊れ物に触れるのに似て、それでいて迷子が頼りを求めて縋るように不安定なやり方で愛されて、庇護欲を掻き立てられる女は世の中にどのくらいいるのだろうか。知らないが、いくら顔が良くとも、この絶妙な強引さと分かりづらい優しさについていける者はそうそういないだろう。
「こら、ダメ」
好き勝手しようとした手をぴしゃりと叩く。物足りなそうな顔をされたが、潔く手を引っ込めるあたり弁えているのだ。だからあたしは彼も自分も望む言葉を言ってやる。
「ねえサタル、その……す、好きだって言って?」
正直、相当恥ずかしい。でも彼は大好物をもらった子犬のように、純粋に嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「大好きだよ、カノン。愛してる」
それから思い切り抱擁される。湯上りたてよりもっと身体が熱くなっていると言うのにまた愛撫の真似事をしようとするので、遠慮なく殴らせてもらった。
基本的にあたしの恋人は、面倒くさくておかしな男だ。でもこうやって心底嬉しそうにじゃれつく姿を見ているとまあいいかという気になってしまうから、あたしも十分おかしいのだと思う。
こんな変な奴に一生つきまとわれてもいいと思う奴は、きっと世界であたしくらいだろう。頼りになるけど時々危うい、この男の面倒を見てやろうかなと思う人も他にはいそうにない。また無類のお楽しみ好きのコイツがあたしの好きな格闘以外に、どれだけの面白いことを引き起こしてくれるだろうかというのも気になる。
だから貴方が部屋の机の鍵がかかった引き出しにしまっていて、何度も出しては引っ込めているあの小箱を早く渡して欲しい。
人の一生の間くらいなら、まず一緒にいてみるのも悪くないと思っているから。
現パロ初勇武です。
サタルは「何で君達に俺の可愛い人のこと一秒でも話さなくちゃいけないの?」って思っていて、だからからかい専門です。
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