その勇者には名前がない。
魔王討伐の路で散った父の跡を継ぐ時に、名を捨てられたのだという。彼は俺の大先祖と同じ、Ⅲ番の世界軸の勇者である。ロトや勇者、もしくは家名だけ名乗ることが多いらしい。
だから俺はその人の名を呼んだことがない。
「ねえ」
俺がこういう呼びかけ方をするのは珍しいのだろう。いつも他人には「なあ」「おい」などと声をかけているから。
「大丈夫ですか? 吐きません?」
「平気ぃへいきぃ。俺、強くないしぃ」
横の彼は手を振って笑った。頬が赤い。酒がまわっているのだろう。目のふちまですっかり潤んでいる。
そこは「弱いから」じゃないのか。きっと、吐けるほど酒を飲めないということなのだろう。確かに彼は麦酒を一杯、ワインを一杯でこうなった。
俺たちは居酒屋にいる。カウンター席に横並びになって、酒を飲みながら焼き鳥や煮物を突いている。俺はハイボールをちびちびやりながら、横で湯豆腐にかかりきりになっている男を眺める。
突っ立った黒髪、サークレット。空色のチュニックと紫のマント。
外見の輪郭はほぼ自分の大先祖と同じだ。顔立ちとまとう雰囲気は、だいぶ違う。
「くそっ。豆腐がつかめない……!」
箸で豆腐をつかもうと格闘している。おそらく、取ろうとしているサイズが大きすぎるせいだ。この店の豆腐はふわふわととろける食感が売りのおぼろ豆腐である。それを自分の拳大も取ろうとしているのだ。無理である。
普段はこんなことなど絶対しない。剣も魔法の腕はもちろん、戦いの采配までぬかりない文句なしの戦士だ。しっかりした人なのである。だいぶ酔いがまわっているのだろう。
「こんな俺だから、子孫にも尊敬してもらえないのか……」
しまいにはうなだれてしまった。
「俺だって勇者をやったんだ。多分これから、伝説になるはずなんだ。でも本当に本人なのかって聞かれるんだ。ラダトームの王様に、ロトの称号をやるって言われたのに。本当に言われたのに。多分。あれ、ちゃんと言われたよな? まさか、俺の夢だったり」
酒で潤んだ目がもっと潤み始めている。ぐす、などと鼻をすする音まで聞こえてきた。
男は泣き上戸の気があった。
「大丈夫、アンタはちゃんと勇者ですよ。この間のクエストだって、アンタの指示があったから一度傾きかけた戦線を持ちこたえさせられたんです。僧侶役もいないのに全員で生還できたのはアンタの回復呪文のおかげで、魔法使いもいないのにダンジョンから脱出できたのはアンタがリレミトを使えたからです。オールマイティーに戦場に対応できる。アンタが勇者じゃないわけがないですよ」
「そうかな……」
勇者はまだ鼻をすすっている。俺はおべっかなんて使いませんよと返した。
「アンタのところの子孫の気持ちはわかりませんけど、俺はアンタを尊敬しますよ。いろんな術が使えるのも、周りを見て合わせられるところもすごいと思います」
「合わせるのなんて、誰にでもできるって」
ついに涙が零れてきたので、俺は大将から新しいおしぼりをもらって差し出した。冷やしてくれてあるから、多少は目元に心地いいだろう。
「いや、周りにうまく合わせるのって難しいことですよ。誰が何をしてるかを見て、どんなことを考えてるかを考えていい感じに接するのって、頭も使う大変なことじゃないですか。さらに複数人をまとめる立場なら、もっと大変ですよ。パーティーメンバーのことをよく考えてくれる、いいリーダーです」
気疲れするだろう。頭を使うだろう。ある程度割り切るという手段も身に着けているだろうけれど。
俺は自分の世界でパーティーを組んでいた時こそパーティーの先頭に立つリーダーのような立ち位置になっていたが、それは彼のようだったからではない。体力があって打たれ強く、生存確率が高かったからそうならざるをえなかったのだ。本来のリーダーならば気にするだろうパーティーの和は、ほかの仲間が保ってくれていた。そう考えると、俺はパーティーリーダーというより、ただの前衛だったのである。
もちろん、パーティーリーダーにもいろいろな種類がある。カリスマ性のある者、知略に長けている者、尊敬を集めている者。これこそがパーティーリーダーの王道であるというものはきっとない。
しかし、俺には眼前にいる彼のようなリーダーが羨ましくてならなかった。なぜなら。
「俺の最近組んでるパーティーは理屈が通じない奴が多いから、アンタみたいなリーダーがいるパーティーに入っていたかったですよ」
つい本音が零れた。
まずい、言いすぎた。ハイボールを飲み干して、大将に新しい一杯を要求した。
隣の勇者は、俺をまじまじと見ていたようだった。
「それってその、止まり木の?」
「まあ、そっすね」
この際だから言ってしまえ。俺は腹をくくる。
サマルトリアとムーンブルクの仲間たちとなら、息をしていたという自覚もなかったほどの連携ができる。
だが、止まり木の世界に集うパーティーは違う。
「俺がまだ慣れてないからというのが一番の原因なんですけど。でもそれにしたってあいつら、わからないんですよ」
特にⅠ番とⅢ番とⅣ番とⅨ番の奴ら。それ以外はコミュニケーションが取れる。
「サンドラさんは尊敬してます。たまに予知能力みたいなものを使うからびっくりしますけど、あの人はマジの勇者なんでそういうものなんです。ソロの野郎には腹が立つ。でも頭がいいし要領がいいから肝心なところは押さえてくれるんです。問題はそれ以外だ」
ヘイお待ち!
大将がハイボールを差し出してきた。俺はその持ち手を握りしめる。
「天使の二人は言葉が通じるけど思考回路が天使だから、こっちがぎょっとするようなことをするんで心臓に悪いんです。色んな術が使えるから頼りにはなりますよ。なるけど、自分の命まで戦闘手段みたいに考えてる時があって、ちょっと不安になります。
「ソフィアは単純にやばい。モシャスって呪文だけでも意味わかんねーのに、敵への殺意が強すぎてやばい。あいつの妻子持ちの仲間は牢屋に入ったことがあるのにあいつが入ったことがないっておかしいだろ。俺の国にいたら、要警戒観察対象として軍人と囚人のぎりぎりのポジションにおいて様子見る。絶対そうする。
「で、一番わけわかんねーのが、俺の先祖、なんですよ!」
新しく来たハイボールを飲み干して、グラスを置く。勢いが強すぎたようで、槌を叩きつけたみたいな音になった。
「あの人たちは戦闘スタイルもものの考え方も俺と違いすぎるんです。アレフさんは大体のことは剣で解決しようとするし、俺と話してたと思ってたら急に自分自身と会話しはじめるんですよ」
「え、マジで?」
「マジです。それからサタルさんは体が弱いからあんまり戦いに出ないんですけど、出たら全く動かないか、一人で解決しちゃうかどっちかなんです。おまけにあの人、こんにちはって言ったら、『このハイボールはいくらかな?』っていうような人だから」
「お客さん、今日は飲み放題のサービスですよ」
「あ、すいません。大将に言ったわけじゃなかったんです。ごめんなさい」
途中で忙しさのあまり自分に話しかけられたものと勘違いした大将が入ってきてしまった。素直に謝る俺の肩を、すっかり泣き止んだ勇者が叩き、うなずいた。
「わかるよ」
「わかります?」
「俺を置いて、勝手に世界が進んでいくんだよな」
「そうなんです」
俺たちはうなずきあった。
「俺は魔法も使えない上に、あの人たちみたいにあんまり物事について考えこまないから、ついていける自信がなくて。どうしたらいいんでしょう。俺が慣れればいいんでしょうけど、あの人たちの予想外が止まらなくて」
「そのうちタイミングが合ったら、合わせればいいんじゃないか? おおよそ進みたい道から外れてなければ、進みたい方に流していってもらえばいいさ」
「なるほど」
すごくしっくりきた。
その前の表現もそうだったが、どうしてこんなにしっくり来る表現が言えるのだろう。
「そもそも、オレの場合、思いが同じだと信じていたのにさ…仲間の自由奔放さに振り回されて…」
一度影が消えかけていた勇者の顔がうつむきがちになり、また影が戻ってきてしまった。今度は俺が肩を叩く番だった。
止まり木の世界に戻ってくると、談話室には先祖の二人しかいなかった。珍しいものだ、いつもならば賑やかし系のメンバーがあと少しいそうなものなのに。
「まだ十時でしょう。他のみんなはどうかしたんですか?」
「イレブンにカジノを教えるってソロが言いだして、それについて行った」
サタルさんが答える。俺はこめかみを揉んだ。新人に何をしてるんだ。
モンスター図鑑を読んでいたアレフさんが顔を上げた。
「ネオルディー家のロト様に会ってきたのか」
「ああ。受難の彼?」
先祖のアレフさんは名のないあの勇者のことを屋号で呼ぶ。一方大先祖のサタルさんは様々な名で呼ぶ。サタルさん自身もロトだから、そう呼ぶのがためらわれるのだろうか。そう思って以前尋ねてみたら、名前がないなら自由に呼べばいいという発想かららしい。
「まだ深夜にもなってないじゃないか。ジョン・ドゥ君もアレンもお行儀がいいね」
「別に、そういうわけじゃないですよ」
俺とあの人は定期的に飲みに行く。あの人は普段飲みたいと思っても、仲間にあまり飲ませてもらえないらしい。酒が入るとマイナス思考に拍車がかかるからだろうと自分で言っていた。
毎回、あの名前のない勇者は俺と会うたびに「この間はごめん」と言う。そしてそのあと酒を飲めば、周囲にあるありとあらゆるものをきっかけにして落ち込みはじめるのだ。
──俺なんて、器用貧乏で威厳も個性もないから。こんな愚痴につき合わせちゃってごめんな。
そんな言葉を何度聞いただろう。お互い様だというのに。
俺は笑った。
「俺達には、ちょうどいいんです」
俺だけでなく、あの人もきっとそうならいいと思った。